【どしゃぶり注意報】  11

【どしゃぶり注意報】  11


 鳥の声と車の音。
 それと規則的なカチカチという音。
 どこかで聞いたことのある音だと、葉崎はぼんやりと思った。
 朝……なのかな?
 寝ぼけ眼の目をこする。
 今日は何曜日?
 どこかはっきりとしない頭から記憶を取り戻そうと足掻く。
 昨日は金曜日だった……よな。
 ということは今日は土曜日で……。でも、この音はなんだろう?
 聞き慣れた音ではあったけれど、朝の景色には似合わない音だと葉崎は気が付いた。
 まだ眠いと訴える瞼を無理矢理こじ開ける。
 あれ……。
 自分の部屋じゃない……。
 どこか、で見た事のある天井。ぐるりと見渡せば、確かに見たことのある部屋。
 なのに……。
 葉崎は不安げに辺りを見渡した。
 ここは……。
「気が付きました?」
 いきなり聞こえた他人の声に、葉崎は飛び跳ねそうになるほど驚いた。まだぼんやりとしていた頭までもが一気に覚醒する。
「あ……」
 声のした方に頭を巡らすと、ベッドサイドにイスを置いてそこに宮城が座っていた。
 途端に思い出す。
 ここは前に一度だけ来たことのある宮城の部屋だ。
「何でここに?」
「昨日診察後に薬のせいで眠ってしまわれたので、それで家が判らなくてオレの家に」
 診察……?
 どこか曖昧な記憶。
 昨日って……。
 起きようとして下肢の付け根から伝わる痛みに、顔をしかめる。
 そして……それが引き金となって全てを思い出した。
 昨日は……。
 黙ってしまった葉崎に宮城は薬の袋を手渡した。
「痛みがあるようでしたら、痛み止めが入っています。それと毎食後に化膿止めの薬が。何か食べられますか?」
 抑揚のない声がひどく他人行儀で、それを聞いているのが辛い。
 もっと気さくに話してくれる人だった。
 やっぱり、あんな事させたから……もう。
 込み上げる思いが溢れそうになって、葉崎は俯いたまま首を振った。
「帰ります。帰って……」
 もう逢わない。
 そう言おうとした途端、一気に込み上げてきた想いが嗚咽となって溢れた。
「ご、めん……迷惑……かけちゃって……んっ」
「葉崎さん!」
 駄目だ。
 ここにいたら、想いだけが募る。
 帰って、今度こそ忘れないと……。
「オレ、帰るから……」
 躰を起こすと引きつれたような痛みが走る。それを無視して立ち上がった。が。
 一気に視界が暗くなり、くらりとバランスを失った躰は、すんでの所で宮城に支えられた。
 途端に鼻孔をくすぐる宮城の匂い。
 ああ、駄目だ……もう……。
 こんな事をしていたら、離れられなくなる。
 視野が戻った葉崎は、手を突っ張って宮城から離れようとした。だが、離れられない。
 宮城の腕が、しっかりと葉崎の躰に回されていた。
「宮城さん……離してくれ」
 その温もりが恋しいと思ってしまう前に……。
 だが、宮城ははっきりと首を横に振った。
「嫌だ」
 と。
「み、やぎ…さん?」
「葉崎さん……オレの事好きなんでしょう?オレの事が好きだから心配してくれたんだ、加古川さんに言われて、身を引くんだって思ったんだ。そうでしょう?」
 静かな声で宮城が問いかける。
 宮城さん……何を?
 言っていることは事実だった。
 だが、それは……。
「だったら悪いのはオレの方です。葉崎さんが気にする事なんて一つもない。いつだって葉崎さんは悪くないでしょう?仕掛けるのはいつだってこちら側なんだから。葉崎さんは悪くない」
「でも」
 オレはわざと宮城さんを怒らせた。
 落ち着いて考えれば、もの凄く酷い事をさせたのだ。
 それなのに……。
「ねえ、何で忘れようとしなければいけないのかな?オレね、昨日車の中で葉崎さんが言ったことずっと考えていた。オレは葉崎さんが忘れたいと言ったから、忘れようと思った。だけどそれができなかった。だけどそう言っていた葉崎さんも忘れることができなかったんだ。だったらさ、忘れなくてもいいんじゃないかって……思ったんだけどね」
 忘れなくてもいい。
 でも、そうしたら……じゃあ、どうすればいいんだ?
 このどうしようもない位に胸を締め付ける記憶を忘れなくて良いのだとしたら、では、この消えない想いはどうすればいいんだ?
 宮城さんに惹かれている自分がいる。
 男なのに男に惹かれてしまった。
 この想いは……これって普通じゃない。
「あれさえ忘れたら……そうしたら友達としてつき合えるんじゃないのか、それが普通だろう?」
「葉崎さんはオレと友達としていたい?オレは葉崎さんと恋人同士でいたいのに?」
 さらりと言われた言葉に葉崎は絶句する。
 恋人って……?
「変だよ、それって……オレ達男同士なのに」
「どうして?好きになってしまったんだよ。それに理屈ってつけられない。オレは葉崎さんとセックスしたいほど葉崎さんのこと好きになってしまっているのに。こうやって抱き締めたい程、好きなんだ。ね、葉崎さんもだろ……車の中で言ったことって、あれってそういう意味だろ?何でさ、それを否定するわけ?」
「だって……変じゃないか……」
 強引に迫ってくる宮城に、葉崎は戸惑いながらも答える。
 男同士だろ……。
 これってオレ達ホモって事でさ……。
 オレはホモじゃない……筈。
「変じゃないよ。それとも、葉崎さん、本当に忘れることができる?オレの事も何もかも無かったことにできるっていうのか?できないよね。オレ、昨日さ葉崎さんが診察室に入っている間ずっと考えていた。葉崎さんが言った事も、今までの自分の行動も……ずっと考えていた。オレは、葉崎さんの事が好きだ。いつだって一緒に居たいって思えるほど好きだ。葉崎さんが加古川さんと逢う話になったのも元を正せばオレの事を考えてくれたのだって判ったから……そこまで知ってしまってオレが葉崎さんの事を忘れられると思う?そんなの無理だ……オレ、もう離したくない。忘れたくなんかない。ずっと葉崎さんといたい」
 宮城の言葉が葉崎の胸の奥に染みこんでいく。
 忘れたくない……。
 どうしてこうも正直なんだろう、宮城さんは。
 考えてみればいつだって宮城さんは自分に正直なんだ。
 オレに逢いたいから、財布を直接渡しに来て、抱きたいから抱いて、告白したいから告白して……オレが加古川さんとデートだからって嫉妬して怒って……そして今忘れられないと想いをぶつけてくる。
 どうしてそんなに正直になれる?
 こんな男同士の関係で……オレが女だったら、確かに宮城は理想の相手だろう。
 オレが女だったら……でも……。
「変だよ、やっぱり……男同士で好きだって言うの……宮城さんの気の迷いだよ」
「気の迷いでも何でもいいじゃない?葉崎さんもさ、そう思わない?気の迷いだったらその内覚めるから、それから後の事考えれば良いんだって」
「そんなこと……」
 そんな簡単に割り切れる物なのか?
 葉崎は茫然と宮城を見つめた。
 がっしりとした体格に抱き込まれると、何故か安心感が漂ってくる。
 ここにいたいと思ってしまう。
「男同士でも、惹かれあうことはあるからね。オレは、もう諦めません。葉崎さんがオレの事を嫌いだとはっきり言ってくれない限り離れません。ね、実際のところどう、なのかな?今更、あの車の中の言葉、嘘とは言わないよね。誤魔化さないでよ」
 じっと葉崎の顔を覗き込んでくる。
 それから逸らそうとした顔を、宮城が素早く両手で包み込んだ。
 しっかりと真正面向けられて宮城を見つめさせられる。
 ひどく真剣な目に捕らわれ、外すことができなくなった。
 オレは……。
 口を開けて何かを言おうとする。
 オレは……何を言うつもりだ?
 言葉が喉にひっかかる。胸が苦しくて、息苦しい。
 オレは……。
「ね、葉崎さん……葉崎さんの本心を聞きたい。オレの事、好き?それとも嫌い?どっち?」
「……ずるい」
 思わず口をついて出た言葉に宮城は苦笑を浮かべて返した。
「ずるいかもね。オレ、もうこれからは葉崎さんの本心を聞き出すためには何だってするから。嘘つきな葉崎さんのお陰でここまでトラブったんだから……そうでしょう?」
「……」
 嘘つきって……言われても……。
「ね、葉崎さん、オレの事嫌い?それとも好き?」
 それってずるい訊き方だ。
 葉崎は深く眉間に皺を寄せた。
 嫌いじゃない。嫌いじゃないから、答えは……。
「好きだ」
 そう言うしかないじゃないか。
 途端に宮城が破顔する。
 年上にしか見えなかった顔が一気に幼くなったように感じた。
 時折見せるそんな顔……いつだって思い出すことができる。忘れることなどできなかった。
「オレも、忘れられなかった。痛かった記憶とか、無理矢理だったとか……そういうのはすぐにどうでも良くなったのに……ただ、逢いたいと思うことはどうしても止めることができなかった」
 一度たがが外れてしまうと、もう口が止まらなくなった。
 心の中にわだかまっていた想いが全て溢れてくる。
 そんな葉崎を宮城がぎゅっと抱き締める。
「オレも好き。もう何回でもいうよ。好きです。信じてください、一目惚れだったんです。こんな風に人を好きになるなんて思わなかった。本当に好きです」
 宮城が耳元に口付けたとたんに、躰に走る疼きに膝の力が抜ける。
 優しいな、宮城さんは……。強引だけど……でも優しい。頭の中をぐるぐると巡っていたものを消してくれる。
 なのに、オレって。 
「ごめん……オレ、酷いことした。宮城さんに辛い思いさせた」
「何言っているんです。社長のいつものおふざけに勝手に嫉妬して酷い目に遭わせてしまったのはオレのせいだからね」
 ほんとに……。
 何を悩んでいたんだろうオレって。
 たぶん問題は幾らでもある。
 でも、今はここでこうしているのが幸せだって思えるから……こうなったら受け入れるしかないのだろう。
 忘れることができないのなら、それを受け入れるしかない。
 忘れたくないんだから、その問題に直面しよう。
 割り切るしかないのだ。
 でないと、お互いが酷い目に遭う。
 少なくとも自分のせいで宮城さんを酷い目に遭わせたくない、と思うから……。
 そういえば。
「もう、会社辞めるって言わないよな」
 心配そうに伺う葉崎に宮城は泣き笑いの如く情けない表情を見せた。
「社長……しっかり仕事を押しつけてくれましたよ。こんなトラブル起こした責任だって……。辞めるなんて許さないって……オレ、ずっとそれやってたんで……」
 宮城が指し示したところにノートパソコンがあった。
 そうか、あの聞き慣れた音はキーボードを叩く音か……。
「酷いんだから、今日の朝までに作れって言われて……結構な量なんだ。しかも、9時に取りに来るから……だからオレ徹夜」
 9時……ってもうすぐだ。
 ちらりと見た時計は、8時を回っている。
「できた?」
「まだ」
 ふうとため息を漏らした宮城は名残惜しそうな表情を浮かべて、葉崎を抱き締めていた腕を緩めた。
「仕事します。すみませんけど……それが終わったら送ります。だから待っていて」
「オレ……もう少し、休んでいるから……いいよ」
 帰らなければ、という想いは消えていた。
 今はここにいたいと言う想いの方が強い。
 宮城の手がそっと葉崎をベッドに押し戻した。
「朝食……シリアルくらいしかないけど、用意するね」
 その手が躰から離れるのが寂しいと思ってしまう。それが顔に出たらしく、宮城がくすりと口元に笑みを浮かべた。
「何?」
「いえ……仕事が終わってから」
 くすくすと笑う宮城に抗議の視線を送ると、宮城が慌てて笑みを引っ込めた。
「なあ……何なんだよ」
「いえ、こんな風に一緒に過ごせる朝が来るなんて思わなかったから……嬉しいです」
「ばっ」
 顔から火が吹き出るかと思った。
「仕事しろよ」
 言い捨てて、がばっと上掛けを頭から被る。
 心臓がドキドキと口から飛び出そうなくらい跳ねている。
 あんな……あんな一言で自分がこんなになるなんて思わなかった。
 火照った躰を必死で宥めていると、枕元でかちゃりと金属音が鳴った。
「朝食ですよお。落ち着いたら食べてくださいね」
 笑いを含んだ声音に、ますます羞恥が湧いてくる。
「早く仕事しないと加古川さんが来るんだろ」
 取り繕うように言った言葉は笑いで返された。

 

 加古川が来た途端、宮城を無視してベッドに横になっていた葉崎へと近寄ってきた。
「大丈夫か?」
 微睡んでいた葉崎はその気配に慌てて跳ね起きる。
「寝てていい。薬は飲んだ?」
「あ、はい……」
 加古川の手が葉崎の頭をあやすようになでる。
 これは……。
 何か子供扱いされているような気がする。
「あの……ご迷惑をおかけしました」
「いやいや、私のせいでもあるからね。でもなんとか二人の仲が戻ったようでほっとしたよ」
「あ、あの……」
 戸惑う葉崎に加古川は悪戯っぽく笑って見せた。
「宮城は無茶を言っていないか?無理矢理迫ったりはしないか?」
「社長っ!」
 宮城が赤くなって割り込んできた。
「何だ、宮城?資料はできたのか?」
「……いえ」
「ならあっちに行ってさっさと作れ」
「そんなに緊急の資料ですか、これ」
「緊急だ、今はな」
 手をひらひらとさせて宮城を追い返す加古川を、葉崎は茫然と見つめた。
 この人は……何をしたいんだろう。
 ベッドの縁に腰掛けて、宮城を葉崎に寄せ付けないようにしているとしか思えない。
「な、宮城が何かしてきたらすぐ私に言いたまえ。私が何とかするからな」
「何とかって……」
「社長っ!」
「煩い!お前は仕事してろ」
 一喝で宮城を黙らせる加古川。
「あの〜」
「何?」
 一転してにこやかな加古川。
 何なんだこれは?
 こんな人なんだろうか、この人は?
 あの電話の時はほんとうに宮城さんのことを心配していたように聞こえたが、今は、どうでもいいようなあしらいをしている。
「いいね、何かあったらすぐ相談してくれればいいから。そうだ、今度一緒に食事に行かないか?いい店があるんだが」
「え、その」
「社長、できましたっ!」
 速攻で仕上げたのだろう、宮城がプリントアウトされた資料をひっつかんで差し出してきた。
「後でいい、今は葉崎さんと話をしているんだ」
「急げって言われたの社長ですよ!」
「その社長がわざわざ来てやっているんだ。コーヒー位出せよ」
「うっ」
 宮城は茫然と立ち竦み、そして唇を噛み締めて加古川を睨み付けた。
「ブラックな。葉崎さんの分もな」
「……」
 黙って踵を返す宮城。
 え〜と、この状態は一体どうすればいいんだろうか……。
 嫌がらせのように宮城を近づかせない。
「で、食事なんだけど、いつがいいかな?」
「そんな……」
 取引先の社長に何で食事に誘われるのだろう?
 どうしたらいいんだ、こういう場合。
「どうして、オレと?」
「そりゃあ、葉崎さんが気に入ったからだけど」
 にこやかな笑みと共に言った加古川の言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
 思わず聞き返す。
「どういう意味ですか?」
「だから、宮城から私に乗り換えないか?」
「は、あああああ!」
「社長ぉっ!!」
 葉崎の叫びと宮城の絶叫、そしてその手から落ちたコーヒーカップが割れる音が響いた。
「社長!何言ってんですかっ!」
「言葉通りだ。私も葉崎さんが気に入ったからな、だからアタックすることにした」
「ア、アタックって……」
 硬直した葉崎の前で宮城と加古川が睨み合っている。
 加古川の手がいつの間にか、葉崎の手を掴んでいた。
 こ、これは……何が一体……?
「あ、あのお……」
「ああ、葉崎さんは休んでいてくださいね。宮城、今はお前に負けているようだかな。だからといって私は諦めないぞ」
「諦めないぞ、って」
「ということで、葉崎さん今度食事に行こう」
 にこやかに話しかけてくる加古川は、ぎゅっと葉崎の手を握りしめている。
 そ、そんな……この人……本気?
「だ、駄目ですよ!葉崎さん、こんなオヤジなんかよりオレと食事行きましょう!オレだっておいしい店、一杯知ってますから」
 加古川を押しのけるように宮城が葉崎に顔を近づけてくる。
「こら、宮城っ!誰がオヤジだ。しかも社長の頭を押さえる秘書がいるかっ!」
「社長であろうと葉崎さんは渡しませんっ!」
 目前で顔を付き合わせている二人に、葉崎は為す術もなくただ茫然としていた。

【了】