「葉崎くん、電話っ!」
同僚の佐野が事務所から叫んでいるのに気付いた葉崎勇一は、動かしていたフォークリフトを止めた。
「はぁっ?」
「電話よっ!」
そろそろ出荷のためにトラックが入ってくる時間。
いつにもまして出荷量が多い今日は、さながら戦場のようにフォークリフトが動き、その移動を知らせる警告音が鳴り響いている。それでもその喧噪に慣れた佐野のよく通る声が葉崎に用件を伝えた。
「はいっ!」
負けじと大声で返すと、それを聞き取った佐野はすぐさま事務所に引っ込んだ。
聞こえた証拠だ。
葉崎はフォークリフトを邪魔にならない場所に移動させるとキーを切って、運転席から飛び降りその足で事務所に駆け寄る。
「そこの電話」
入った気配だけで察知した佐野が背を向けたまま電話を指さした。
「サンキュ」
伝票のチェックに余念がない佐野に軽く礼を言って、電話を取ろうとして、事務所の窓の向こうに木下が張り付いているのに気付いた。
ちょいちょいと指を曲げる彼に、休憩の誘いだろう、と笑って、了承の印に手を挙げながら電話に出る。
「はい、お待たせ致しました、葉崎です」
「ああ、葉崎さん。加古川です。お久しぶり」
「っ!」
葉崎はその瞬間──木下に向けていた笑顔そのままに、たっぷり10秒間は硬直した。
葉崎が電話に出た直後からその手を止めて肩を震わしていた佐野と窓の外で電話の相手に思い当たった木下が腹を抱えて蹲っている。
その二人にまた醜態を晒したのかと、赤くなりながら声を潜めて応対する。 佐野も葉崎の予測できる反応を面白がってわざと相手の名を告げなかったのだ。
「あ……はい。でも……」
しどろもどろの応対をする葉崎。
それでも最初の頃に比べたらまだマシになった。
初めて加古川からの電話を受けたときには、不審に思った佐野に声をかけられるまでの1分間────その後どう足掻いてもその記憶を取り戻すことはできなかったのだから。
会社にかけてきた電話だというのに、そこでデートの誘いをする加古川に閉口しつつも、無下にできない理由が葉崎にはあった。
加古川は、葉崎の会社の主要得意先の社長 兼 恋人の上司 兼 仲を取り持って貰った恩人(?)なのだ。ここで?を付けざるを得ないところがまた厄介。
そう。
加古川は部下である宮城健一と葉崎との仲を取り持とうとしながら、何故か葉崎のことが気に入ったと公言してはばからない。
何を考えているのか、前に打ち合わせのために出会った葉崎の上司達にまでそれを言ってくれたものだから、その事はすでに同じチームのメンバー全員に知れ渡ってしまっていた。
もっとも、彼らの認識している「お気に入り」の意味は、微妙に本質から外れているところにあった。
真実を知っているのは当の本人達+宮城ともう一人。
その下心がちらちらとかいま見えるお誘いには絶対に乗るなと恋人には釘を刺されている。
だが……。
用件を言い終わった加古川が代わってくれというので、繋いだ上司から。
『名指しで誘われるなんて、お前ってばよっぽど社長さんに気に入られたんだな。ああ、今日は残業はいいよ。会社のためにもしっかりつき合ってこい』
どうやら得意先の社長としての権限を最大限に活用してくれた加古川の策略に、一介の社員である葉崎に抵抗する術もない。
あろうことか会社公認のデート(その他大勢にとっては『接待』という認識らしい)の約束となってしまったのだ。
残業で逃げるつもりだったのにっ!!
それを言わせないための画策だったのかと後から気付いて、葉崎はがっくりと肩を落とした。
『ま、ちょっと変な人みたいだけど、面白そうな人じゃんか?映画なんて最近見たこと無いぞ。それがタダで見られるなんてさ』
普通考えたって、接待に映画なんておかしな話だ。
上司を含めた仲間達がいかにおもしろがっているか判ろうというもの。
『なら、お前が代わりに行けよ』
言った途端に思いっきり首を横に振られた。
『社長さんのお気に入りは葉崎だもん。オレなんかが行ったら怒られっちまう』
こわごわと首を竦める割りには木下の顔は笑っていた。
『ま、がんばんな』
その人ごとの台詞に、葉崎はただ唸るしかできなかった。
食事と映画。
どっちがいい?
そう聞かれて、「映画」と答えたのは、そのタイトルを聞いた瞬間だった。
一度は見てみたいと思っていた映画だ。
できれば宮城が誘ってくれれば良かったのに。
漏れる溜息は、微かな震えとともに中空に消えていく。
時折照らされる光の迸りが無ければ、互いの顔すらぼんやりとしか見えない暗がり。
切なくもの悲しいBGMが、場の雰囲気を盛り上げる。
あまり質の良くないイスはそれでも肘掛けがついていて、そこに何気なく置いていた左手は、今は温かい物に包まれていた。
ちらりとその手を見遣る。
力仕事をするせいで、決して華奢ではない手の甲に覆い被さるように加古川の手があった。
はああ
漏れてしまう溜息は、決して今上映されている映画のせいではない。
映画自体は、アクションと恋愛とコメディが適度にちりばめられていて面白い。だが、どう足掻いてもこの状態の異常さが、葉崎をその映画にのめり込ませないのだ。
「……どうした?面白くないかい?」
「いえ」
問いかけに小さく首を振って答えると、その瞬間ぎゅっと手に力が入れられた。
思わず眉根を寄せてその手の持ち主を見つめる。
視線の先で彼は熱心にスクリーンに見入っているように見える。
壮年末期……初老と形容すると怒られるくらい、若々しさが内面からにじみ出している。
その凛とした横顔は、やはり人を率いていくだけのカリスマを持っているように見えた。彼の会社は彼自ら発揮する手腕で、後発ながらその業界ではかなりの業績を上げている。
そんな業界きっての凄腕社長に何故?
男の恋人を持ってしまった以上、そういう感情に嫌悪感はない。ただ、自分には相思相愛になった恋人がいる上に、それを知っている相手からのアプローチ。
決して無理強いはしない彼と恋人を何かの拍子に比べると、どうしても男ぶりは加古川の方がいい。
少しだけ年下の恋人は、この加古川も認める敏腕秘書のくせに、葉崎に対しては鈍いのだ。
ったく……どこに行ってんだよ。
行方の知れない恋人に再び溜息をつきかけた途端。
ドドドッーーーンッ!!
いきなりスクリーン内で起きた爆発音に、意識が映画へと向かう。
さっきまでの切ないBGMはどこにいったのかと思えるくらいの急展開。
観客達の目は、みなスクリーンに釘付けになっていた。
これからが、この映画の見せ場なのだ。何度も何度もその一瞬だけがコマーシャルで流れていた。
葉崎の意識もさすがにこの時は映画へと向かう。
だが、それも一瞬だ。
ぎゅっと再び強く握られた感触が空想の世界に入り込みそうになった心を現実へと引き戻した。
すっかり汗ばんでしまうほどにずっと握られた手。
その手を引き抜こうとするが、思った以上に強い力のせいで外れそうにない。声をかけようとして見上げた先で、強いスクリーンからの反射光に照らされた加古川の端正な顔が、そのせいでできた影でより掘りが深く見えた。
何が問題って……。
不自然なその手を振り払うこともできない葉崎から幾度目かの溜息が漏れる。
何でオレなんか……。
何もかも知っている彼が、何故か葉崎にちょっかいを出して来るものだから、宮城とする携帯での会話はその傾向と対策にまつわる話ばかりだ。
それがなんだか面白くない。
まあ、あいつにしてみれば必死なんだろうけど、さ。
どうしても排除することは立場上できない宮城。
だからこそ、必死で対策を労しているのだろうがその効果はない。
だったら割り切って楽しいことを考えてくれればいいのに、そういうことには頭がいかないのか、未だデートと呼べる物はしたことがなかった。
「ん、何?」
葉崎の視線に気付いた加古川が、小首を傾げながら葉崎を見遣る。
「い、いえ……」
結局言いたいことも言えずに葉崎は俯いて微かな吐息を漏らした。
いい人なんだけど……。
加古川が言うには、宮城は出張中。それを狙っての今回のデートは、深く考えなくてもその出張自体に陰謀を感じてしまう。
だけど、携帯にも出ないなんて……。
『絶対に陰謀だっ!』
休みがつぶれるたびに宮城が電話口で漏らす愚痴を何度聞いたことだろう。
「葉崎くん……この後どうする?」
考え込んでいた所にいきなり耳元で囁かれ、びくりと体を震わした。
それを見た加古川が、くすくすと肩を震わせる。
必要以上に意識しているのをばらしている様なものだと気付いて、その羞恥に頬を紅くした。
「もうすぐ映画終わるよ」
大音響のBGMのせいで、加古川が耳元で囁いた。それが熱い。
耳朶に触れる熱い吐息。空気の震える声が耳の中に直接響く。
それに性的な意味合いを感じてしまうのは、考えすぎではないはずだ。
ぞくりと小刻みに震える体は、怯えにも似た感情が付随していた。
「ね、この後食事でもして……ホテルにでも行くかい?」
「えっ!」
いつも繰り返されるパターン。だが、毎回のように葉崎はひどく緊張する。
無理矢理はないとは思う。
だが、ひどく真剣な声音が葉崎を翻弄する。
慌てて仰け反ろうとした体は、いつの間にか回された手がしっかりと捕らえていた。
「か、加古川さんっ!」
「ほらほら、うるさくすると怒られるよ」
笑っている。
なのに、その回された手が腰骨から太股にむかってさわさわと撫でながら降りていくのだ。
「だ、誰のせいですっ!」
やばい……。
敏感な部分に向かってくる手を必死で押さえる。ここで事は起こさないとは思えるのだが、いかんせん加古川が時折見せる視線は明らかに熱を含んでいる。
困ったことにそれが葉崎には判ってしまうのだ。
『葉崎さん、好きです……』
熱い吐息と震える声。そしてその熱い瞳。
今ここにいない宮城の、興奮したら止められない凶暴さを漂わすあの瞳を思い起こさせる目を、加古川が向けてくる。
その瞳にスクリーンの紅い炎が写り込んでいた。
ちらちらと燃える炎は、さらなる興奮を伝えてくる。
「……オレ、帰りますから」
その視線から逃れるように顔を背けた。
今ここでしか拒絶できない。
食事までしてしまうと、逃れられないような気がした。
だいたい、映画だけ、という約束だったはずだ。
これで帰っても、誰も文句は言わないだろ?
「帰るのか?」
「はい、帰ります」
短い問いかけに短く答えて、加古川に視線を向けた。
「映画だけを見に行く約束でしたからね」
冷たい物言いになっても許されるよな。
優しくするなんて今の葉崎には出来なかった。
宮城がいない今、自分の貞操は自分で護らなければならない。
睨み付ける目線に気付いた加古川が苦笑を浮かべた。
「冗談だ」
軽く嗤うが、今までの行為はとても冗談には感じられなかった。
「急な出張でね、朝一で飛んで今日の最終便で帰ってくるんじゃなかったっけ?」
思わず見つめ返した先で、加古川は嗤う。
「今日は、楽しかったよ。でも今度はもうちょっとリラックスしてくれていると嬉しいけどね」
軽くウィンクする加古川に葉崎は視線を奪われる。
「加古川さん……」
映画が終わった後、送るよと言われて仕方なく乗り込んだ車が着いた場所は、あまり馴染みのない場所で、なぜここに、という戸惑いの方が大きかった。
ここに来たのはこれで3度目。 いつも意志とは無関係に来てしまう場所。
煉瓦調の外壁を持つ15階建てマンション。
ここの3階に宮城の部屋がある。
「あれほど冷静沈着な秘書としては最高の部類に入るあいつが、こと君のことになると途端に冷静さを失うんだからな……こんな面白いことはないが……」
「何故ここに?」
「葉崎さんとのデートを見せびらかすため」
きっぱりと言い切った加古川の目が笑っている。
「本気……ですか?」
思わず問い返してしまった葉崎は加古川と宮城の部屋とに視線を彷徨わす。
「このまま葉崎さんがあの部屋に入る勇気がないというのであれば、車の中で一緒に待って……そして、みせびらかそうと思っているんだけどね」
「え?」
部屋に入る勇気?
唖然として見つめる先で、加古川が笑っていた。
「あの部屋で逢うのが怖いんだろ……いや……その先の行為が怖い、のかな?」
「べ、別に、怖い訳じゃ……」
「似たような物だろう?」
怖くなくても何かの感情に縛られていると、加古川は判っているよと呟く。
この人にはばれていたのか……。
途端に顔が火を噴いた。
宮城とずっと逢えなかった、その理由。
別に宮城のせいだけではないその理由。
「どうする?」
選択権は葉崎にあると、加古川が問う。
部屋で待つか車で待つか……。
「……加古川さんは……オレをどうしたいんです?」
どちらを選んでも……葉崎にとっては何かが起きる予感があった。
「それを決めて欲しいんだよ」
対する加古川の声音もひどく静かなものだ。諭すように言葉を続ける。
「秘書としては沈着冷静で何にも代え難いほど有能だが、こと葉崎さんのこととなると、同一人物かと思えるほど慌てふためく。それはそれで面白いのだが、最近かなり煮詰まってきているようなんだ。だから、何とかして欲しいと思ってね」
「何とか……って……」
何に煮詰まっているかなんて……何となく判っていた。
電話をしていても、時折ふっと会話が止まる。
言いたいことがあっても言い出せない雰囲気に、いつも葉崎は判っててはぐらかしていた。
「もう限界だと思うよ」
「……限界」
ついっと視線を宮城の部屋へと向ける。
主のいない部屋は暗く、冷たさが伝わってきた。
「どうする?」
再度問い直され、葉崎はぽつりと呟いていた。
「部屋で……待ちます」
「そう。じゃ、頼むよ」
返事を聞いてしまえばひどくあっさりしたもので、加古川はさっさと踵を返してしまった。
ただ、葉崎をその場に残して。
出て行く車を見送りながらポケットに手を突っ込む。
チャリ……
手の中で、まだ新しい銀色の鍵が転がる感触を味わう。
あの時……別れ際に貰った宮城の部屋の合い鍵。
まだ、一度も使ったことはなかった。
もう……限界か……。
ふっと見上げた先で、三日月が暗い空を白くしていた。
「……葉崎さん……?」
漏れた灯りに気付いたのだろう。
不審さをありありと滲ませて開けたドアから入ってこようとした宮城が、葉崎に気がついた途端そのスーツに包まれた体を硬直させていた。
「はは……来ちゃった……」
その姿が視界に入った途端、照れくささがこみ上げてしまった。
すぐさま傍に駆けつければ良いのだろうが、結局狭い通路を隔てて繋がったリビングのカーペットに座りんだまま、首だけ巡らせて宮城を見つめる。
久しぶりの姿は、やっぱり格好良くて……だが少しだけ怖い雰囲気があった。
かけている色の濃いサングラスのせいかしれない。
夜にまでかけてることないのにな。
だけど、それがまた似合う、なんて思うのは惚れてしまった弱みだろうか?
これで年下なんて、悔しいよな。
ちょっとだけ思う。
宮城の手がのろのろと動いて、眼鏡を外す。
「びっくりしましたよ……オレ、泥棒でも入ったのかと……」
「ひどいな。オレがいるって事は想像もしなかったわけ?合い鍵までくれたのにさ」
笑いかけると宮城の顔が困ったように歪む。
「でも、初めてだから……葉崎さんから来てくれたのは」
「まあ……ね」
誘われたことは何度も合ったけれど……。
残業だ、用事があるからと……自ら出向くのは避けていた。
ここに来れば、抱かれることを自ら受け入れること。
その考えに捕らわれてしまっていたからだ。
そっと横目で宮城が寝室に使っている唯一独立した部屋のドアを窺う。
ここに来ると……どうしても最初の事を思い出してしまうのだ。
その部屋で……初めて、抱かれた。
記憶なんかないって思っていた。
だけど、何かの拍子に断片的ではあるけれどふっと思い出してしまう。
それを継ぎ合わせてみれば、確かに自分から誘ったのだと判ってしまう。
だからここは葉崎にとって恥ずかしさを含有した場所なのだ。
そんな恥ずかしいこと……二度としたくはないけれど……。
それでもたまに不可抗力で欲情してしまうと……思い描くのはこの部屋での出来事。
その時に感じた痛みや不快感はもう夢の中の出来事のように曖昧だというのに。
快感と温もりは何故か忘れることはなかった。
だから……。
余計に来ることができなかった。
「あの……今日は……何?」
するっと肩から上着を滑らせてそれをハンガーに掛けながら、宮城が聞いてきた。
シャツの上からでも窺える筋肉質な背中。
腕や体が動くたびにシャツのシワが動く。
それをじっと見つめていた。
その視線を感じるのか、時折宮城が振り向く。だが、決して視線を合わせようとしない。。
ちらちらと窺うようには見るくせに。
なんとなくムッとして何も言わずに睨むようにしていると、宮城の口から溜息が漏れた。
「メール……入っていたけれど……」
「ああ、連絡欲しかったんだ」
携帯に何度電話しても繋がらないから連絡欲しいとだけメールを入れたのを思い出した。
「空港についてからかけたんだけど……、繋がらなかったよ」
「え?」
言われて慌てて携帯を取り出すと、マナーモードのままになっていた。
「あ、ごめん。映画館に入る時にマナーモードにしたんだ。そのまま入れ忘れてた」
しかもブルったはずのそれに気付かなかった。
着信有りのその表示に、「ごめん」と呟く。
だが、その言葉より先に宮城が訝しげに眉根を寄せた。
「映画ってまさか?」
その口が恐る恐るといった感じで、葉崎が見たばかりのタイトルを呟く。
「そうだけど、よく知っているな」
「って……じゃあ加古川さんと?」
どうやら心当たりがあるらしい宮城に、苦笑を浮かべて頷き返す。
「うん。だから連絡とったんだけど、出張行ってたんだったら無理だよな」
本音を言えば宮城となら行きたかった映画。
だから、宮城に言えば阻止してくれると思っていた。
「な、何にもされなかったっ?」
だが、宮城の狼狽ぶりは葉崎が思っている以上だった。
それまでぎこちなく離れて立っていた宮城が、葉崎に詰め寄るように傍らに跪く。
ぐいっとその端正な顔を突きつけられて戸惑ったのは葉崎の方だ。
「な、何にも……って、映画見ただけだよ。……あっ……」
「何?何かあった?」
思わず上げた小さな叫びに、宮城が気色ばる。
「ホテルに誘われた」
「あ、ああっ!あのくそオヤジっ!!エロオヤジっ!息子に渡す映画の券だって言っていたじゃないかっ!!」
言うに事欠いて自分の社長をくそオヤジ呼ばわりした宮城は、頭を抱えて天井を仰いだ。
「おい……言っとくけど……オレ映画だけで……ホテルは行かなかったからな」
「当たり前ですっ!あんな奴にのこのこ付いていったらオレが許しませんっ!」
って……おい……。
ぎらぎらと睨み付けられて葉崎はその口元を引きつらせた。
「お、オレがホテルなんかついていく訳ないだろっ!」
「じゃあ、何で映画なんか行くんだよっ!あんな奴とデートなんてっ!オレともまだしていないのにっ!」
ほとんど触れあわんばかりに顔をつきあわせて、怒りをそのままにぶつけてくる宮城に葉崎もムカッとして対抗してしまう。
「デートって何だよ。加古川さんはな、わざわざうちの上司にまで電話してオレを来させるようにし向けたんだ。これはな、接待なんだよっ!デートなんかじゃないっ!」
「接待いっ?あんなくそオヤジ、接待なんか必要ないのにっ!」
「……お前、うちの会社の方が買って貰っている立場なんだからな!接待するしないはこっちの都合っ!」
だいたい、誰が好きこのんで接待なんか引き受けるかよ。
単なる会社だけの取引相手ならオレだって何とかして逃げている。
だけど、あの人は……。
言いかけた言葉は飲み込んで、その結果違う言葉が口をついて出た。
「お前にとっちゃ、くそオヤジでもオレたちの会社では大事なお客さんなんだよ。その人が、オレを名指しで寄越せっていったら会社もオレを出すだろうがっ」
「そ、そんなの人身御供じゃないか。何されるか判んないのにっ!」
「んなもん、会社が知るわけないだろ、あの人がそういう意味でオレを気にいってるなんてさっ」
そうだよ。
何が問題って、加古川の嗜好がごくごくノーマルだという世間一般の常識が葉崎にとっての不幸だった。
ただ単に気が合うから呼び出されるのだと解釈されている加古川と葉崎の関係は、会社にとっては忌むべき物ではない。そしてそれは世間一般からいっても異常ではなかった。二人の関係は会社にとってはあくまでお友達……なのだ。
「だから……電話したのに……」
呟く声が震えていた。
葉崎はそれから逃げられない。だからたった一人助けてくれる相手に電話をかけたのだ。宮城なら……何とかしてくれるかも。
いつもそう思って電話して……そしていつも宮城の機転で今までなんとかなっていた。
「……ごめん」
葉崎の言葉の意味に気付いたのか、宮城がはっと我に返った。
その手が、葉崎の俯いた頬に触れる。
僅かに震えている唇にそっと指が触れてきた。
「ごめん……いきなりだったから……連絡できなかったし、社長に釘を刺す暇もなかった……」
だが触れた途端に怯えたようにその指が去っていった。それを目で追う。
「いや……出張中だったんだからしようがないよ」
強ばった顔を解し、口の端を上げて目を細める。
「それに、ほんと映画見ただけだから。まあ楽しかったよ。それに……」
「それに?」
立ち上がり、キッチンに向かった宮城が背中越しに問いかけてくる。
その顔が見れないのが残念だと……ちょっと落ち込んでしまいながらも、それでも口にした。いや、顔を見ていないから口に出来たと言うべきか?
「ここにくるきっかけができた」
途端に振り返った宮城の呆けた顔に、葉崎の顔に今度は本気の笑顔が浮かんだ。自然に笑いかける。
「最終便で帰ってくるって、加古川さんに聞いたから……だから、待つことにした。逢いたかったから……さ」
すうっと顔が熱くなるのを自覚して、再び視線を下に向ける。
無造作に投げ置かれた雑誌の表紙に書かれている文字をただ目で追っていた。
宮城は何も言わなかった。
だが、空気が揺らぐ。
俯いているせいで狭い視界に入ってきた足は宮城のものだ。
その足先の横に膝がつかれる。
「葉崎さん?」
手が伸びて顎を掴まれる。
その手が誘うままに顔を上げると、至近距離に宮城の顔があった。
目を細め、切なげな瞳が葉崎を捕らえる。
「ほんとに……逢いに来てくれたんだ?」
問いかける顔には戸惑うように眉間に深くシワが刻まれている。
「……そう言っているつもりなんだけど……」
ドキドキと高く鳴り響く心臓がうるさい。
「ほんとにオレに逢いたかった?ほんとに?」
そのしつこさについつい眉根を寄せて睨み付けてしまった。
「何だよ、何でそんなこと言うんだよ?」
「だ、だってさ……。葉崎さんって……」
だが言いかけて口ごもってしまう宮城の言いたいことが何となく判ってしまった葉崎は、それ以上強く言えなかった。
自分を誤魔化したせいで、とんでもない目にお互いが遭った。
だがら、宮城は葉崎の言葉をまず疑うようになってしまったのだ。
自業自得とはいえ、だがそれはそれでむかつく。
嫌いだという言葉を信じないならともかく、逢いに来ているというのにっ!
心の叫びを口に出せないままに、ぎろっと睨み付ける。
だが、宮城の顔がみるみるうちに相好を崩したのを見て取って、葉崎はその変化に驚いて目を見開いた。
「ご、ごめん……。だけどあんまりにも嬉しくって、だけどこう……心が現実を拒否しているっていうか……ああっ、もう、何がなんだか……。でも、葉崎さん、ここにいるし……」
「いるよ。オレだって……逢いたいって思うさ。その……できれば外で逢いたかったんだけど……時間無かったし」
「ああ、ごめん。時間がとれるって思ったら社長の野暮用が入ってきて……。ほんと、葉崎さんがらみになるとあの人はオレにとっては、くそオヤジだから……」
「……加古川さんが宮城さんの社長じゃなかったら……オレ、絶対に逢わなかった。接待だって言われても、どんな理由付けてでも逢わなかった。あの人、宮城さんの上司だろ?だから、オレは逢うんだ……」
大事な宮城の上司じゃなかったら逢わなかった。
「……なんかオレ、信じられないくらい嬉しい言葉ばっかり聞いているような気がする」
「こんなので信じられない?じゃあさ、もっと信じられない言葉が出てきたらどうするんだよ?」
あまりにも宮城が呆けたようになっているから、葉崎は思わず呟いていた。
深く考えてはいなかった。
なのに。
「信じられない言葉?どんな?」
もうこれ以上の言葉はないよ、と笑っている。
満足そうな笑み。
いいのか?
途端に浮かんだ想いに葉崎の心臓はどきどきとさらに早鐘を打つように鳴り響く。
これだけでいいのか、お前は?
逢うだけで……。
体が……熱くなる……。
「なあ」
呼びかける言葉は無意識だった。
「え?」
返されて自分が口走った事に気が付いた。だけどもう止まらなかった。
「キス……してくれないんだ?わざわざ逢いに来たのにさ……」
冗談めかして言おうとして、だが出た声は上擦っていた。
ぴきっと空気が張りつめる。
どちらも動くことは出来なかった。
言ってしまってから後悔する。
激しい羞恥に身を焦がし、膝を立ててそれを腕で囲む。
身を丸めて、無意識のうちに隠れるようにしていた。
心臓の音しか聞こえなかった耳に、擦れるような足音が響くとぎゅっと目を瞑った。温かく力強い腕が首に回される。
膝の間に埋めるようにした顔を、首に回された手が後ろから顎を掴んであげさせられる。
「みや……」
呼びかけようとした口が柔らかく塞がれ、びくりと体が震えた。
途端に宮城が狼狽えたように離れる。
痛ましげなその視線は、あの時を思い出しているのだ。
あれは枷。
きっと宮城の心を縛っている。
葉崎を傷つけるような抱き方をしてしまったと、あの時の行為は葉崎以上に宮城を苦しめていた。だから、宮城は決して葉崎に無理強いをしない。
葉崎が行けないと言えば、それで会話は終わる。
加古川が絡まなければいつもそんな感じで……だけどこんなところで戸惑っていては先に進めない。
少なくとも葉崎の方は、宮城との関係を後悔などしていないのだから。
ただ、恥ずかしい。
自分から言い出すのは求めているようだ。
だが、言い出せないままでいたら自分たちの関係はいつまでも平行線のままだと……気付いてしまった。
だから……決心した。
「止めるな」
吐息に乗せた言葉は声にはなっていなかった。
膝を抱えていた手を伸ばして離れそうな宮城の首に回して引き留める。
その僅かに開いた唇に、自分の唇を押しつけた。
柔らかくて……熱い。
しっとりと湿った唇が僅かに震えるように動き、その間から熱い塊が遠慮がちに忍び込んでくるのを受け入れる。
「ん……」
最初の時もこんなふうにキスされたっけ……。
性急で欲望に忠実な宮城だったけれど、それでも優しかったシーンばかりが葉崎の脳裏に浮かび上がる。
肉厚な舌が葉崎の舌を絡め吸い上げる度に体から力が抜けるようだった。
崩れ落ちそうになる体を支えるように回した指が宮城のシャツにシワを幾つも作る。
「……んっ……ふぁ……」
口を塞がれ息がしにくい。
僅かな隙間から喘ぐように空気を取り入れているというのに、だからと言って止めたいとは思わない。
その息苦しさすら体が欲してしまう。
宮城の片手が首から背へと降りてきた。
背筋のくぼみを探るように辿っていく。
「んっくっ!」
途端に微弱な電流が背筋を走った。
葉崎は閉じていたぼんやりと目蓋を開けた。焦点の合わない視野に、宮城の瞳がはっきりと見える。
体から力が抜ける……。
一度感じ出すとクセになってしまったかのように、宮城の手が動くたびに体がびくりと何度も反応した。
淫らに反応する体に心までもが翻弄させられる。
縋り付きたくて、伸ばそうとした手は新たな刺激に晒されて宮城の頭まで届かない。力無く肩口のシャツを掴むしかなかった。
「あっ……ああ…………んっ」
耳から聞こえる甘い声が自分のものだとは信じたくなかった。だが、喉の奥が震えるたびに聞こえる音を否定することは出来ない。
止めようとして、芯から疼くたびに勝手に漏れる。
気が付けば床に寝かされていた。
宮城の舌がさらに激しさを増して、葉崎の口内を犯す。
ピチャピチャと濡れた音がそこから漏れて耳を犯していた。
どのくらい長い間そうしていただろう?
息苦しさに頭が朦朧としていて、状況が把握できない。
「ん……」
するっと口内から宮城の舌が抜けていった。
葉崎の開いたままの口から名残惜しげに舌がちらちらと覗く。
「葉崎さん、震えてる」
その手が頬に優しく触れ、そして剥き出しの首筋に移動する。
途端に全身に震えが走る。
寒い訳じゃないのに全身に鳥肌が立っているのに気付いた。
これって……。
「……震えてるんだよ」
「え?」
すっと離れた唇が言葉を紡ぐのを見つめ、そして見上げた。
「やっぱり嫌なんじゃないのか?」
「違うよ……」
一体何を言い出すのかと思えば……。
葉崎ははあっと大きく息を吐いた。
この男は……どこまでオレが主導を握らなければならないのだろう。
こんな……恥ずかしいこと……。
今からしようとすることが脳裏に浮かんだ葉崎は、途端に全身が真っ赤に染まった。
「……でも、あんなことしたから……オレ……」
お互いの苦悩の中身が全く違う。しかもそのギャップに気付いているのが葉崎だけだという事実に、葉崎は眉根を寄せて睨むことしかできなかった。
あの時の出来事でやられた自分よりはるかに傷ついている宮城。
もしかしたら……。
ちらりと気付かれないように視線を移動させた葉崎は、溜息をつく。
葉崎のそれが実はいきり立っているというのに、宮城のそこは普通以上の膨らみは見られなかった。
これって……。
オレが女だったら怒る場面……だな……。
しかし。
悲しいかな、自分は男で相手も男。
原因を突き詰めれば、宮城をあんな行為に走らせたのも実は葉崎自身なのだ。
となれば怒りを露わにすることできない。
かと言って、自分から動くのはひどく恥ずかしい。
でも。
「何か飲み物でも用意するから」
逃げるようにその場を立とうとした宮城の腕をすんでのところで捕らえた。
「飲み物なんていらない……」
あのな……物事にはタイミングってもんがあって……。
頭の中は嘆息のオンパレードだ。
こんなところで放置するのか、お前はっ!
その想いが葉崎の最後の枷を取り外した。
「それより欲しいものがある」
「欲しいもの?何?」
今がそのタイミングなんだ。
「オレ……宮城さんが欲しい……」
言ってしまった途端に、ぼんと音がしそうなほど顔が……いや、全身が熱くなった。
視野の中で宮城が硬直していた。
耳から、ごくりと息を飲む音が生々しく聞こえる。
羞恥のあまり外してしまいそうになる視線を必死の思いで宮城の顔に固定したまま、空いた手で自らのシャツのボタンを外す。
驚きに目を見開く様を見つめながら、一つ一つ外していく。
その動きに宮城の視線が釘付けになっていた。
下には肌着を着ていなかったから、それだけで肌が露わになっていく。
ボタンを外し終わったら掴んでいない側だけ袖を抜いた。
なあ……オレがここまで誘ってんのに……。
まだ動かない宮城に、葉崎は駄目なのかと不安を覚える。
だけど、ここまで来てもう引けなかった。
「……欲しいんだ……宮城さんが……。頼むから……オレを助けろよ……」
掴む手が震える。
それが羞恥からなのか、怯えているのか……もう判らない。
もう後には引けない……。
動かない宮城の手を強く引っ張る。
バランスを崩して倒れてきたその体を全身で受け止め、そのまま自分から背を倒した。
宮城の体の温もりと重み、そして匂いに包まれ、それが最後の勇気を葉崎に与えた。
「愛しているんだ……もうどうしようもなく。これは嘘じゃない。だから……」
宮城が微かに震えた。動揺が手に取るように判る。だけど、こんなところで止められない。
「もうオレは大丈夫だから……。だから、抱いてくれ……」
心臓が苦しい。
緊張のあまり呼吸すらうまく出来なくて、肺がもっともっとと空気を求める。
宮城がどう答えるのか……。
全身が期待して待っているのだ。
なのに宮城は葉崎に覆い被さったまま動かなかった。
駄目なのかよ……ここまでして……。
それともまだ性急過ぎたのだろうか?
「宮城さん……」
不安を覚えて呼びかける。途端に宮城が動いた。
「あっ……」
首筋に熱いものが押しつけられる。
「オレも……欲しかった……」
肌に触れたままの唇が動いて、その震えがもろに伝わる。
腰に当たっている宮城の股間が形を変えていた。
「ん……」
葉崎の体が悦びに震えた。
「あっ……ん……」
肌をまさぐられ、胸の突起を口に含まれるとそこから甘い疼きの波が幾重にも重なるように全身に広がった。
一度その気になった宮城の動きは躊躇いがない。
あっという間に下着ごと引きずり降ろされジーンズが足首に絡まっている。
晒し出された葉崎のそこはその茎の部分を宮城の大きな手で包まれていた。余った指で柔らかな先端をぐりっと押さえられる。
「んくっ……」
口と両手と──三方から来る刺激には耐え難いものがあった。
幾度も体が震える。そのたびに優しく抱きしめる宮城の体温とその不快でない体臭がさらにその快感を煽るのだ。
「ここ、いい?」
そう聞いてくる声に揶揄が含まれている。
答えられるものではなかった。
そう言われた途端、背筋が仰け反るような快感が走ったから。
ひくりと喉が震え、口元がわななく。
「やっ……ん……」
かろうじて引き出した言葉は誘うように甘く、宮城の動きを助長させる。
口を塞がれ零れる吐息すら吸い込まれて、それだけで葉崎の理性は白濁した波に吸い込まれていった。
生まれたままの姿で絡み合う四肢が汗でしっとりと濡れ、触れあっていない部分は少し冷えてきた室温に晒されてひんやりと冷たくなっている。
だが寒いとは思わない。
それ以上に触れあっている部分が熱い。
熱くて……とろけそう……。
ずん
下腹部の最奥で響いた疼きが、葉崎自身を震えさせた。
白濁した液が、腹を汚す。
「あっ……はあっ……あ……」
小刻みな痙攣の波が引いてしまうと、もう体に力が入らなかった。
ぐったりと投げ出した指先に、宮城の指が絡みつく。
「大丈夫?」
その声に閉じていた目を開くと、泣きそうな表情の宮城がそこにいた。
「何、泣きそうな……顔……してんの?」
「泣きそう……って?」
そんなつもりはなかったのか、不思議そうに首を傾げる宮城に笑いかける。
「情けない顔……」
「そんなつもりないんだけど……」
「じゃ、何?」
「その……」
歯切れの悪い宮城がそっと視線を外す。
「何?」
何だろう?
うろうろと彷徨うように動く瞳をじっと見つめる。
「……そのさ……」
何かを言いかけ、だが、結局口を噤んでしまう。
言葉を待ってずっと見つめていた葉崎は肩すかしを食らったような気分になって、ぽかんと問いかけた。
「どうしたんだよ」
「……いや」
宮城が重ねていた体を起こした。触れあっていた部分が室内の空気にさらされてひんやりとして、寒さを感じる。
え……。
離れていく体。
絡んでいた四肢も指も離れてしまって、今や葉崎一人が横たわっている状態だった。
慌てて肘をついて体を起こす。
「み……やぎさん……?」
まさか……。
しないつもりか?
「何?」
振り返るその顔は上気していて、苦しそうに歪んでいる。
当たり前だ。
達ったのは葉崎だけだった。
まだ宮城は達っていない。それに……まだ挿れられてもいない……。
男としては悔しいけれど自分より大きなその存在が、未だ主張し続けていることは見たら判る。
なのに……ここで止めるってことか?
見つめ続ける先で、宮城が困ったように視線を逸らした。
「ね、何か飲む?」
その態度は明らかに逃げようとしていた。
視線を外し、向けられた背。
もしかしなくても、彼の心にはまだ枷が残っている?
抱くこともできないのか?
ここまできて……止めてしまうほどに?
そんなの……。
葉崎の顔がくしゃりと歪んだ。
目の奥がひどく熱く、息苦しいほどに胸が痛みを訴える。
辛い……よ……。
オレのせいで、そこまで宮城さんを追い込んでしまった。
それを自覚させられる。
あの時、オレが嘘をついたせいで……その報い。だけど……こんなのって……。
好き合っているって思っているのに……だけど……できないのかよ……。
こんなのって……辛い……。
ぽろっと大粒の熱い塊が目尻が溢れ出した。
マズ……い……。
一瞬、そう思った。
だけど、溢れ出した涙は止まらない。
恥ずかしいことだと……こんなことで泣くなんてみっともないって思うのに、止まらない。
のろのろと上げた手のひらが口元を覆う。
せめて声だけは漏らさないように。
熱くて苦しい胸が声にならないように、と、口元を固く塞ぐ。
それでも喉がひくりと鳴った。
葉崎のその音に気付いた宮城がぎょっとしてその顔を強ばらせた。
まじまじと葉崎を見つめる。
流れる涙を見られたくなかったのに、どう足掻いても止まらない。
ぼたぼたと口を塞いだ手に降りかかる涙がひどく熱かった。
「何で、泣いて……?」
おろおろと狼狽える宮城が葉崎の傍らに跪いた。
肩に手をおき顔を覗き込んでくる。
「何で……って……ひくっ……わか…な……のかよ……っ……」
口から塞いでいた手を離してしまったら、返そうとした言葉が嗚咽に紛れてしまう。
泣き声まで聞かせてしまったせいか、もう感情の嵐は留まることをしらなかった。
かあっと諸々の感情が一気に吹き上げる。
「泣かないで……あの……」
「バカ……バカ……大バカ野郎っ!」
この鈍感、まぬけっ!わかんねーのかよっ!!
言いたい言葉はいっぱいある。
「バカって……」
なんでそんなことを言われるのか判っていない宮城の表情にますますムカつく。
判っていないっ!
こいつってば絶対判っていないっ!
途中で止めるって……どんなにオレにとって辛いのか……判ってないっ!
「わ、判んないのかよっ!!」
葉崎は宮城の肩を掴むと、全体重をかけてぐいっと押し倒した。
「ってっ!」
ごつんと盛大な音がした。
だが、今の葉崎にはそんなことは些細なことでしかなかった。
「こっの、大バカっ!オレが良いって言ってんのに、何でお前が勝手に止めるんだよっ!」
「で、でもっ!」
「あのなあ、何でオレが今日わざわざここに来たと思ってんだよ。この部屋っ!オレが最初に抱かれたお前の部屋にだなっ、オレが来た理由ってのを少しは考えろよっ!!」
思わず口走っていた。
言うつもりがなかったこと。
普通に宮城が抱いてくれれば、言わなくて済んだこと。
だけどもう言わずにはいられない。
「ああ、もうっ!気付けよ、バカっ!」
後頭部の痛みすら忘れたように呆けた顔をしている宮城に怒りがムラムラと湧いてくる。
「オレはな、ここでやり直したいんだよっ!最初に抱かれたお前の部屋で、もう一回抱かれて……好き合った状態で抱かれたら、それが最初の一歩に置き換えられると思ってさっ!ここでちゃんとして抱かれたら……お前も吹っ切れると思ってっ!だからそういうつもりで来たってバレたらすっげー恥ずかしい事なんだけど……だけどそれでもお前に抱かれに来たっていうのに……なんだよ、お前のその態度はっ!!」
葉崎の吐き出される叫びに宮城が大きく目を見開く。
「オレと……?」
「ああ、お前とっ!!お前、言ったじゃないかっ!もうオレの言葉や態度で誤魔化されないって。オレのこと離したくないんだろっ!セックスしたいほど好きなんだろっ!だからそれに応えようって決心したのにっ!……言っとくけどオレもだからな。ずっと……逢えなかった間が辛かった。逢いたかった……悔しいことに、男相手に抱かれたいって……思っちゃったんだよ。だから……逢いに来たんだ。もうオレはお前とずっと一緒にいたいってこんなにも思えるほどなのに……お前は……忘れたのか……よ……ちくしょ……」
ひくりと、喉が震え、そして全身が震える。
宮城を押さえつけていた手をゆるゆると動かした。
「欲しい……って……何でオレから言わなきゃいけないんだよ……。強引なのがあんたじゃなかったのかよ……こんなこと……」
先ほどとは違う意味で口元を塞ぐ。
「オレに言わせんな……」
耳までどころか、露わになった肌が全てピンクに染まってしまった葉崎の痴態に、宮城がひっと微かに喉を鳴らした。
その瞳が確かに欲情の色に染まるのが見て取れる。
「ほんとに……?」
茫然と事の成り行きを窺っていた宮城がようようのことで口を開く。
「どうでもいいことには、すっごく敏感なくせに……どうしてこういうことには鈍感なんだよ……」
「だけど、その……信じたいのは山々なんだけど……ね」
信用されなくてもしようがないとは思いつつ……だが、それはそれで面白くない。
「それくらい……、判断しろよ。どれが嘘でどれが真実か……なんて……」
「そんな無茶なことを……」
揶揄い口調で零した宮城の手が葉崎の顔を覆うようにしていた手を掴んで引き下ろす。
「オレ……まだ駄目かなって思っていた。だってさ、抱き締めたときに葉崎さん……震えていたんだ。だから、口ではそう言っていてもやっぱ駄目なんだろうって……」
「駄目なんて言ってない……」
逸らしたままの視線。だが痛いほどに宮城の視線を顔に感じる。
だから、熱くなった頬がいつまでたっても冷めてくれない。
「そんなふうに葉崎さんが思ってくれているなんて……電話でもメールでも言ってくれなかったから……」
「言えるか……そんなこと」
オレから動かないと駄目だって……判ったから。
だけど……こんな事まで言うつもりはなかった。
ここまで自分の心を暴露するつもりは……なかった。
「葉崎さん……ベッド……行こっか?」
「う……」
その言葉の意味する内容が頭に浮かんでしまい、冷めることの無かった体が再びかあっと紅潮する。
「綺麗……」
宮城の手が首筋に触れた。
夏の暑い時期に陽に焼けることの無かった白い肌がくまなくピンクに染まっている。それが宮城を狂わせる。
その存在を確かめような手の動きが、たったそれだけなのに葉崎の体の芯を震わせた。
「……ふっ……」
漏れた吐息が甘く響いて、誘われるままに宮城の体を覆うように倒れ伏した。
再び深く交わした口づけの後、宮城に抱きかかえられてベッドへと移動した。
見上げる天井があの時と同じ風景だと葉崎に教える。
「あっあぁぁ……」
躊躇うまもなくぎゅっと握りしめられたそこは、少し萎えかけていたのに見る間に硬度を増していく。達った後のせいか感じすぎる体に痺れるような刺激が走り、葉崎は背を逸らして嬌声を上げていた。
「オレ……一応反省はしてて……無理はしないつもりなんだけど」
大きく息を吐き、疼く体から理性を取り戻す。
神妙な声に目線を向ければ言葉と同じくらい神妙な顔をした宮城の顔。
「な……んのこと?」
「いや、その……これからすること……」
「……あ……っ」
その神妙さとは別物だと言わんばかりに宮城の手が性急に動く。
その大きな手がやわやわと双丘をもみ上げ、くぼみへと指を埋めていった。その先は、もうとっくに傷がいえてしまっているところ。
「うっ……ぁ……あっ……バ…カ……これのどこが……ふあっ……無理……いない」
抗議しようにもあえなく滑り込んだ指に内部を抉られ、息が上がる。
その痛みの少ない感触は、どう考えても潤滑剤か何かを使っている。
一体いつの間にそんなモノを用意したんだと聞きたかったが、それすらも言わせないくらいに宮城の手が体内を蠢く感触に翻弄される。
「だってさ……我慢できない……すっげー……色っぽいよ、葉崎さん……」
「…んあっ……だからっ……あぁ……」
こみ上げる異物感と快感のない交ぜになった刺激に、葉崎は必死になって宮城の肩をかき抱いた。
たまらず引き寄せ、その肩口に顔を埋める。
「ごめん……痛かったら言ってよ……」
途端に広げられた後孔に、引きつるような痛みが走る。
「う……わぁ……ああぁぁ…………いっ……痛……お前、焦るな…よ……」
「ごめん、でもやっぱ……」
訴えても止まらない指の動き。
言っていることとやっていることが違うっ!!
そう叫ばずにはいられないほど、宮城の指が深く蠢いていた。きっと増えているであろう指が、経験の浅いそこを押し広げる様は、奇妙な痛みを葉崎に与えていた。
確実に解れていくそこは、少しずつだが痛みが薄れていく。それとも麻痺したのだろうか?
吸い付かれた首筋の方にぴりっと鋭い痛みが走る。
「あっ……、おいっ……覗くとこ、付けんなよ」
「大丈夫。覗かないから」
葉崎がきっと睨み付けると、潤んだ視界の先で宮城が苦笑を浮かべていた。
だが、すうっとその目から笑みが消えた。
「ね……我慢できない……」
上擦った声に、息を飲む。
ごくりと喉の鳴る音が、耳の奥で響いた。
「いい?」
その言葉に返事をする暇もなかった。
ぐいっと持ち上げられた両足。
突き進んでくる宮城の体。
そして……。
指よりもはるかに大きくて存在感のあるモノが押しつけられた途端。
「ひぃっ!」
喉の奥から絞り出されるような悲鳴は、そのせっぱ詰まった声音ほどに響かない。ほとんどが掠れた声でしかないそれは、だが激しい抗いが付随していた。
怖いっ!!
今、葉崎の体は、あの時に受けた痛みを思い出してしまった。忘れていたはずの恐怖に、全身が諸悪の根元である宮城の体を排除しようと震える。
それは、隠すには激しすぎる震えで、宮城の狼狽え上擦った呼びかけすら聞こえない。恐怖に支配された体が、知らずのうちに宮城の肩に幾筋もの爪痕を付ける。
「あっ……ああっ……」
ぼろぼろと頬を伝い落ちる熱い涙がシーツに幾つものシミを作る。
怖い……。
恐怖に支配され、葉崎はただ目蓋を固く閉じるしかなかった。
宮城の体温だけがそこから救ってくれるのだというように、あらん限りの力で縋り付く。恐怖を与えるのも宮城なら、そこから助けてくれるのも宮城なのだと、葉崎は無意識のうちに悟っていたから、だからきつく縋り付く。
だが、それでどうなるものでもなかった。
ぶるぶると震えて縋り付く葉崎に、宮城が震える声で何度も謝る。
「ごめん……ごめん……もうしないから……もう大丈夫だから……な……」
おこりのように震える体を宮城がぎゅっと抱きしめる。
その温もりだけが恋しくて、葉崎はたった一つの拠り所のように宮城の背に腕を回して抱きついた。
「もうしないから。葉崎さんごめん……ごめん……やっぱ、まだ……」
何度も何度も、宮城が詫びの言葉を繰り返す。
幾ら受け入れようとしても……割り切ったのだと口では言ってみても、心の奥底と体が未だにあの傷を忘れられないのだ。
その傷をつけた宮城からすれば、どうしてこんな状態の葉崎を抱くことなどできよう。
ここの奥底からじわじわとわき起こってくる恐怖を堪えるために、きつく噛みしめている葉崎の唇。
その色を失った唇を解きほぐすように宮城の唇が触れていく。
「力を抜いて……。傷ついてしまう……」
「あ……」
宮城の悲痛な声が耳に入った途端、葉崎ははっと我に返った。
オレ……。
自分が宮城を拒絶してしまったのだと、今更ながらに気付く。
こんなはず……なかったのに……。
だが、自分では忘れていたと思っていた恐怖はしっかりと心の奥底に健在していた。いざいう瞬間、我を忘れてしまうほどに翻弄されてしまった事実。
「オレ、葉崎さんが欲しい。だけど、もう少しゆっくりしなきゃいけないみたいだし……だから今日は」
どことなく辛そうな宮城の表情。
その体が離れる。
こんなこと……。
葉崎は涙が溢れる目を幾度もしばたたかせた。
そういしないと宮城の姿を見失ってしまいそうで。
オレは……できないのか……?
したいと思ったのは……上辺だけのものだったのだろうか?
「宮城さん、ここに……いてくれよ」
起きていってしまいそうだと思ったから、呼び止める。
ベッドから降りかけた体がびくりと止まった。
ゆっくりと振り返る宮城を、葉崎はじっと見つめていた。
「葉崎さん……今日はもう休んでください。疲れたでしょう?」
固い表情に気付いたのか、宮城が微苦笑を浮かべて手を伸ばしてきた。その指が濡れた頬に触れていき、目尻に残った涙を掬い取る。
それを黙って葉崎は受け入れた。
どうして?
どうして、こんなことをされるときは平気なのに、いざって時だけあんなにも怖いんだろう?
宮城を見つめたまま、葉崎は左手を挙げてその手首を掴んだ。
引き寄せ、濡れた指先を口元に持っていく。
「葉崎さん?」
訝しげに問いかける宮城を無視して、葉崎は舌を出してそっとその指に触れさせる。
その瞬間、舌先かびりりと疼くような刺激が走った。
思わず顔をしかめ、そこから来た衝動に堪える。
過ぎ去ってしまえば、ひどく甘い余韻が残った。
たったそれだけで、思考がとろけそうになるというのに。
今度はもっと大胆に指先に口づけると、涙に濡れた指を丹念に舐め始めた。
塩辛いその味が無くなるまで何度も何度も繰り返す。
「ん……」
微かな身震いをベッドを介して伝わってきた。
たったそれだけのことで、萎えかけていた宮城のモノが勃ちなおったのが視界の片隅に見て取れる。
「……やれよ」
自分の口から出た掠れた声が、どこか遠くで響く。
「えっ?」
今度ははっきりと宮城の体が震えた。
「やれって言っているんだ」
ばくりと口に含み、そして吸い付きながらその指を引っ張り出す。
ちゅぽんと音がして、引き抜いた指が濡れている。
その間ずっと視線は固定されたままだ。
「最後まで。オレが嫌がってもどうしても……最後までやってくれ。でないといつまでたっても痛みの恐怖は消えない。だから、上書きして欲しいんだ。記憶を……そう、痛みではなくて違うものに置き換えて欲しい」
「違う……もの……」
宮城の逡巡にこくりと頷き返す。
「だから……挿れてくれ……」
至近距離で見開かれた宮城の目を見つめた。決して逸らさない。
オレは……もう自分の心に嘘はつかないことに決めたんだ。
欲しい……って思った。
その思考に嘘偽りなんかない。
だったら、今拒絶している自分が間違いなのだ。
「オレのこと好きなんだろ……。だったら、出来るだろ?」
「なんだか……」
ぽつりと宮城の口から溜息とともに言葉が漏れた。
その口の端が微かに上がる。
「……今やらないと、一生恨まれそうな気がしてきた……」
言うに事欠いてそんな事を言ってのけた宮城に、泣きそうなほど胸が締めつけられながらも笑いかける。
「ああ、一生恨んでやるさ」
その声が震えて、掠れていた。
みしみしと体の中から引き裂かれるような痛みと意識が引き裂かれそうな恐怖が、同時に襲ってくる。
「うっ……ああっ……あはっ……ぐっ……」
必死で自分を捕まえていないと、暗闇に引きずり込まれそうなそんな恐怖があって、全身が総毛立っていた。
それでも必死で口を押さえ、拒絶する言葉を発しそうになるのを塞いでいた。
押しのけたい衝動を意志の力だけで押さえつける。
こみ上げてくる恐怖は吐き気すらもよおして、何度もえづきそうになった。
そんな葉崎に幾度も宮城の動きが止まりそうになる。
だが、その度に涙の浮かんだ瞳で、葉崎は宮城を睨み付けた。
堪えているんだから……。
これから先の、二人のための最初の一歩なのだから……。
葉崎が堪えているのに、宮城が何もしないというのは卑怯だ。
葉崎の泣き濡れた瞳の中に見える強い意志だけが宮城を突き動かす。あまりにひきつった体に、なかなか緩まない後孔。それでも、約束だからと宮城は腰を少しずつ進めていった。
グッ
「ひっ!」
最後に腰を押しつけるように深く埋め込まれた瞬間、葉崎が喉を晒して大きく仰け反った。
体の中が弾けるかと思ったその瞬間。
その激しい余韻から、葉崎の萎えていたモノがびくりと反応する。
意識に反してその目尻から大粒の涙が幾つもシーツの上に散っていった。
「ひぁっ…………あっ……あああっ……」
忘れていない。
その快感を、前にも味わったことを。
体内を抉られるその刺激に狂いそうになったその衝撃を。
忘れるはずも無かった。
「ここ……だよね」
宮城も、忘れるわけがないと、腰を動かしてそこを幾度もつついた。
「うっ……あぁっ……」
抉るようにだが慎重にゆっくりと動かされるたびに、びくりびくりと体が勝手に跳ねてしまう。その暴れる体を宮城の腕がしっかりと抱えていた。
「もう……痛くないだろ?」
その言葉にうっすらと濡れた瞳を動かした。
こくりと頷く。
全く痛みがないわけじゃない。
ただ、それを上回る衝動が葉崎を支配する。
体内から直接くる疼きは、理性すらとろけさせ崩壊させる。
そんな葉崎にもう恐怖はなかった。
ただ、欲しいと思う。
「……ああっ……やっ……あっ……はっ……」
弾けそうな快感が幾重にも葉崎を襲う。
いつくるか予測できないその快感が怖い。
なのに、もっと欲しいと思ってしまう。
記憶が甦っていた。
快楽に満ちた幸せな部分だけの記憶。
きっかけはどうあれ、愛されていた記憶。
「んっ……ふぁっ……あっ……」
「好きだよ、愛してる。もう……あんな無茶はしないから……だから……」
「あっ……オレ……」
答えようとして、だが、突き上げられるせいで言葉にならない。
「はっ……ああっ、あっ……」
だんだん激しくなる抽挿に、葉崎の理性は完全に瓦解していた。
ただ、与えられる快感を享受する。
いつの間にかそそり立っていた葉崎のモノを宮城の大きな手が上下に扱いていた。
後からと前からの二カ所からの刺激は、体内で入り交じってより激しい快感となって葉崎を翻弄する。
「ふぁっ……あっ……もうっ……イキたい……っ!」
暴発寸前のモノの先端から溢れた滴が幾つもこぼれ落ちる。
「達って……。何度でも……っ……達きたいだけ達ってよ……はっ……!」
宮城自身も限界が近いのだろう。
切なげに寄せられた眉根が、そして細められた目が、その微かに開いた口元が……震えていた。
「あっああっ……っ!!」
先端部を数本の指で弄ばれた途端、葉崎は限界を迎えていた。
宮城の腕の中でぐぐっと仰け反り、喉を晒す。
吐き出された液が、互いの密着した腹を汚す頃、宮城自身もぶるぶるっと震えていた。
その瞬間、熱い迸りが体内に溢れる。
「んっ……」
ぐいっとこれでもかと押しつけられた宮城の腰が、堪えられないと何度も何度も痙攣していた。
「痛く……ない?」
気が付けば、上から覆い被さるようにして宮城が葉崎を覗き込んでいた。
ぱたりと投げ出された体に申し訳程度にタオルケットがかかっている。
「だ……いじょーぶ……だと思う」
なんとかそれだけを喋るとごくりと唾を飲み込んだ。
ひどく喉が渇いていた。そのせいか、声が掠れてしまっている。
「オレ……ムチャしないようにはしたんだけど……」
傍らで正座をしてその膝に手をついている宮城は、なんだかひどく情けない。まるで捨てられた子犬のようだと、葉崎の口元に笑みが浮かんだ。
「大丈夫だって……このくらい。ちょっと疲れただけ」
あの時に比べれば比べものにならないほど体が楽だ。
身を捩っても微かな違和感と怠さがあるだけだというのに、宮城は葉崎の言葉を信用していない。
放っとくとずっとそうやって覗き込まれていそうで、葉崎はどうしようかと逡巡していた。
挿れられた瞬間の恐怖は覚えている。
痛かったことも覚えている。
だけど、それも過ぎ去ってしまえば、全て過去の出来事だ。
今残っているのは、宮城の体温と触れあった感触。そして、体内を走り抜けた幾度もの快感だけだ。
大丈夫。
心の中で呟く。
事が終わってもまだまだ彼のことが好きな自分がいる。
抱かれることを厭わない自分がいる。
だから……
「大丈夫」
息を吐いて、宮城の緊張すら解きほぐすようにゆったりとした笑みを浮かべながら、手を伸ばす。
触れあった指先が、おずおずと絡まっていく。
「宮城さん……ありがと。完全に忘れるまではまだまだ時間がかかるかもしれないけれど……でも、今日のことは嬉しかった」
「ほんとに?ほんとに……大丈夫だった?」
「大丈夫だって……その……」
継ごうとした言葉の意味するところに気付いて、葉崎ははたと硬直した。
「何?」
いきなり途中で止まってしまった言葉に不審がって宮城が覗き込んでくる。
「あ……いや……」
かあっと耳の後ろまで熱くなって、葉崎はあの最中でも逸らすことの無かった視線を外してしまった。
「……葉崎さん……?」
だが、宮城の表情がみるみるうちに曇っていく。
よからぬ事を考え始めたのだと気付いて、葉崎は大きく息を吐いた。
「違うよ……その……」
言いにくい。
だけど、こんな風に途中止めにしてしまうと、絶対気にかけちゃうんだよな。
「あのさ……」
継ぐ言葉を言う決心をする。だけど、それでも恥ずかしいことには代わりはない。
だから、目の前にある宮城の胸に飛び込んだ。
「えっ、ちょっとっ!」
胸を介して聞こえる宮城の心音がひどく早い。
たったこれだけで興奮している宮城に、葉崎は意を決して言えなかった言葉を舌に乗せた。
「また……したいって……思ったんだよ……」
途端に、ぎゅうっときつく抱きしめれた。
温かく包まれた微睡みの中、葉崎は何度も何度もその手を握りしめる。
やっと手に入れた……。
二人で生きるための始めのラインに立てたんだ、という自覚。
ピピッ
遠くで携帯のメール着信音が鳴った。
この時間、誰からかなんて今までの経験から想像がつく。
明日になったら、返信しよう。
今日のきっかけを作ってくれた人に。
どんなに面倒な事をされても邪険にできない理由。
結局、彼は何よりもオレ達のことを気にかけていてくれると……知っているから……。
だから、今日の顛末をのろけたっぷりに教えてあげよう。
そうしたら……。
また宮城さんは忙しくなるのかな?
でも……。
今度はオレから会いに来るから。
もう……迷わない……よ……。
【了】