躰中から来る痛みとぼそぼそと伝わってくる話し声に葉崎は意識を取り戻した。
不規則な振動が躰に伝わる度に、あちこちが痛む。狭苦しいソファのような所に寝かされている感触に、葉崎は瞼を開いた。
薄暗い狭い室内……。
そう思った途端、それが間違いだと気付く。
車……。
見渡すと、どう見ても車の後部座席に寝かされていた。
誰のだろう、と前に視線を向けると、宮城の顔が目に入る。
宮城さん……。
固い表情で真正面を睨み付けている彼が助手席にいる。
途端に目の奥が熱くなる。
慌ててぎゅっと目を固く瞑ると、ふっと疑問が湧いてきた。
あれ……誰が運転?
それがタクシーではないことは、一目で判った。
ゆるゆると首を巡らし運転席側を見るが、寝かされている葉崎の顔の位置からは座席が邪魔になって窺うことはできなかった。
起きるべきなのだろうか?
ふとそう思ったが、僅かな振動でも痛みを訴える躰に逆らうことは出来ない。
それに、ひどく躰が怠かった。
行為をした後と言うだけではないその怠さに、葉崎は覚えがあった。
微熱が出てるのかな。
全身を襲うぞわぞわとした寒気と気怠さは熱の出始めに似ている。
葉崎は、温もりが欲しくて躰にかけられていた物を固く握りしめた。
それがスーツの上着だと気付いたのは、その手触りと視界に入った内ポケットのせいだ。そのすぐ上にある縫い取りが車内を時折照らす灯りで読むことができた。
『宮城』と縫いつけられたそれを読みとるまでもなく、微かに伝わる匂いは間違うことなく宮城の物。
へ〜、いいスーツ着ているんだ。そっかあ、秘書だもんな……。
そんな事をふと考えてしまう。
宮城さん……。
気が付いたら、そのスーツですら離したくないと思っていた。
握る手に力が籠もる。
オレ……何で?
忘れたいから、軽蔑したいから、あんな抱かれ方されたのに。
こんなに躰が痛くて、どうしようもないのに……。
何で……こんなに胸が痛いんだ?目の奥が熱くなる。
「そこは……お知り合いなんでしょう……良いんですか?」
躊躇いがちな宮城の声に気づき、葉崎はふっと視線を宮城に向けた。
前を凝視している宮城は葉崎が気付いたのも判っていないようだ。
「構わん。私のせいでもあるのだからな」
その声にようやく運転手が誰か気付いた。
加古川さん……?どうして?
頭の中に?マークが飛び交う。
何故彼がここにいる?
「それに、やはりきちんと診せないと……」
「すみません……」
みせる、とは?
「謝る相手が違うだろう。私ではない葉崎さんにだろうが」
「それは……そうなんですが……」
その会話の流れから加古川が宮城のしたことを知っているのだと判った。
でも、何で……。宮城さんが喋ったのか?
そんな……自分の首を絞めるようなこと……。
「私に嫉妬して、冗談を冗談と取れないほど頭をピンクにしていた宮城に気付かなかった責任は私にもあるが」
「すみません……」
それまで真正面を見据えていた宮城がその大きな躰を縮こませて頭を下げる。
そのまま宮城が助手席で踞るように頭を抱え込んだ。外の灯りに照らされ、その固く瞑った目や眉間の皺までが見て取れる。
「オレ……謝りたい……でも、もうどんな顔をして逢えばいいんです?こんな酷いことするつもり無かったのに……オレ……」
ふるふると震える声が葉崎の胸を締め付ける。
違う……。
あれはオレがわざと煽ったんだ。
こういう結果になったのは予想外だったが、だが、それでも良いと思ったんだから……。
宮城の言葉に胸を締め付けられている葉崎に気付かず、宮城が言葉を続けた。
それは、誰にと言う訳でも無く、ただ、自分の心情を口に出しているだけという感じだった。
「オレ……本当に葉崎さんが好きだったんです。初めて逢った時が一目惚れだったのかも知れない。あんな一瞬の出来事なのに、決して忘れることが出来なかった。あの財布を拾ったとき、ひどく胸が高鳴ったんです。だから、もう一度ゆっくり逢いたくて……それで金曜日の夜にして……で、逢ったら、すっごく嬉しかった。短い時間だったけれど、楽しくて……酔っぱらって寝込んだ彼を連れて帰るのも楽しかった。もっと家までの距離が長ければって思ったくらい……」
「相手は男なのにか?」
加古川の言葉に宮城が頷く。
「男とか、そういうの関係なかった。背負った彼の体温でオレ、欲情しちゃったんですよ。しかも、ベッドに寝かせようとして、寝ぼけ眼の彼がオレから離れなかったとき……理性が飛んだくらいですから……」
「え?」
「あの時、オレ、彼を抱いているんです。だから、嫌われたんですよ。逢わないって言われて……それでも諦めきれなくて……いつだって彼の事を想っていた。仕事に手が付かないくらい……」
胸の奥に固まっていた塊を吐き出すように続く宮城の言葉に、加古川は無言になった。
「ねえ、社長……オレ、迷惑かけてますよね。仕事はいい加減だし、今日だって社長の名で借りた部屋であんなことして……しかも、知り合いの医者まで紹介して貰って……オレ、明日辞表出します。こんなおおぼけなヤローをくびにしてやってくださいよ」
後半、妙にさばさばして言われた言葉。
そんな……。
葉崎が目を丸くして宮城を見つめるのと、ふらついた車をかろうじて立て直した加古川の怒声が車内に響いたのが同時だった。
「辞めさせるか!こんな事で君が辞めたとしたら、この先私はずっと後悔しなくてはならなくなる。これは、私にも責任があるんだ。私が世話するのは当然のことだ!」
「しかし!」
「いい加減にしろ。こればっかりは私は受け取らないぞ。辞表なんて破り捨ててやる。無断欠勤しても、出勤扱いにしてやる。決してお前を辞めさせないっ!」
そうだよ……辞めないでよ……。
葉崎は気が付いたらゆっくりとその手を伸ばしていた。
その手がかろうじて宮城の腕に触れる。
「え!」
それに気付いた宮城が驚いて後ろを振り返った。
「あ……」
葉崎と視線が合った途端、宮城の視線がふいっと背けられた。
それが寂しいと思う。
いや、それより何より、言わなければならないことがある。
オレは、会社を辞めさせるためにこんな事をしたのではないのだから。
「辞めるなよ……オレのせいで辞めたなんて……そんな事、されたら…オレはどうすればいいんだよ」
掠れた声しかでない自分が情けない。
もっともっときつく言いたかった。
オレは、あんたをこんなにも苦しめようとは思っていなかった。
ただ……。
「オレのせいで宮城さんが変になるのが嫌だったから……オレが、宮城さんのことを忘れられないのが嫌だったから……だから、宮城さんを煽ったんだから…………だから、辞めるなよ……」
「は、葉崎さん……」
「変だよな……オレ、宮城さんに逢いたかったんだよ。忘れるって言った癖に忘れられなくってさ。だから、けりをつけるために加古川さんの策に乗ったんだ。だから、宮城さんは悪くないんだ……」
「それって……」
苦しそうに顔を歪めたままの宮城に葉崎は微かに頷き返した。
「あれはわざと抱かれたんだ。宮城さんを軽蔑するために……。だってさ、考えて見ろよ。オレ素面だぞ。いくら宮城さんの力が強いったって、そんなに簡単に抱かれるなんてこと無いだろうが」
「!」
宮城が息を飲む。
ぎりっと奥歯を噛み締める音が、車の音以上の大きさで聞こえた。
「そんな事……どうして!」
「だってさ、ひどいことされたら……軽蔑できるじゃないか……忘れようって思えるじゃないか……」
「葉崎さん……」
「だけどさ、何でだろう……ダメなんだ。あんたを見たとたん、やっぱり忘れられないって思っている自分がいるんだ。オレ、宮城さんを無視する事なんてできない。こんな目にあったのに……」
ぎゅっと掴んだ宮城の腕が震えている。
「だから、おれのせいなのに宮城さんが仕事辞める事なんて無いんだからな……」
ばっかみたいだ、オレ……。
こんな事までしたのに、結局何にも変わらない。
いや……。
軽蔑されるよなあ。
宮城さんにはひどいことをしたんだから。
彼を貶めるような事をしたんだから……今度こそ、彼だってオレを軽蔑する。そして嫌うよな。
オレは……馬鹿だ。
葉崎は宮城から手を離した。
躰の上に戻した手で、宮城の上着を掴みそれで顔を隠す。
固く瞑った目尻から涙が溢れ出る。
も、オレって馬鹿だよ、ほんと……。
あははは。
ほんとに……。