【檻の家 -丹波の暴走-】(3)

【檻の家 -丹波の暴走-】(3)

 暑くて、身動いだ。
 全身にざわざわとざわめくようなむず痒さが広がって、いたたまれないままに動こうとしたけれど、動けない。
 圧迫感にも似た重苦しさに大きく息を吐いて。
 不意にすうっと意識が浮上した。
「……ぁ……」
 眩しいな、と認識すると同時に確かに誰かがそこにいる気配を感じる。夢うつつなままに目を開ければ。
「敬一くん、判りますか?」
 ぼやけた視界の向こうから、覗き込んでくる誰かに気がついた。
「……う、す、ず……ぅ……」
 判らないはずも無い相手に返そうとしたけれど、喉は引きつれて痛み、身体は重くて動かない。
 口を動かすことすら億劫で、返事はまるで呻き声のようだった。
「ああ、大丈夫。喋らなくても良いですよ」
 続いた言葉を脳が理解する頃には、夢うつつの状態も少し改善されて、広がった視界に違和感を感じる。
 この感触と位置的にベッドに寝ているのだろうとは思うのだけれど、自分の部屋では無かった。
 やたらに殺風景な白っぽい部屋に、窓の外は見知らぬ風景だった。
 ベッドの脇にいる鈴木以外何も判らないことに不安がこみ上げる。
「こ…こ……どこ?」
 痛む喉を癒やすように数度唾を飲み込んでみても、やはり声は出にくくて、奇妙に掠れた声しか出ない。ただ、自由のきく視界を動かして、不意にあるものに気がついた。
「び、ょーいん?」
 幼子のように抑揚無く言葉を紡げば、鈴木が頷き返してくる。
「三枝さんの勤める病院ですよ」
 ぶらさがる点滴の容器から管を辿れば、それは機械を介して敬一自身の元に届いているようだ。
「……な、んで?」
 記憶がはっきりしないままに尋ねれば、鈴木が眉間に深いシワを刻ませた。
「敬一くんは、ひどい熱中症と脱水症状を起こしていて運ばれたんです。もう少し遅かったら、危なかったと言われました」
「ねっちゅーしょー?」
 何で?
 と続けようとした言葉が、不意に途切れた。記憶が一コマずつ、バラバラに甦ってくる。
 暑くて、身体に響く振動音。
「ええ。水分補給しないままにずっとあんなところに繋がれて。しかもあの日は何人も死者が出たほどに暑い日で……」
「……暑い……」
 のしかかる重さ。カラカラに乾いた喉。体内深く感じたあれは……。
「あ、ぁぁっ……あぁっ」
 霞がかかっていた思考が一気に晴れて、記憶が怒濤のごとく甦る。とたんに、こみ上げた恐怖と悪寒に悲鳴が迸った。
「ひっ、あっ……あっ、もっ、もう、ムリっ!」
「ああ、大丈夫、大丈夫ですよっ、もうあそこでは無いからっ。もうあんなところに閉じ込めたりしませんからっ」
 恐怖に駆られて、ただ逃げたくて。
 暴れる身体を布団の上から抱え込まれて、頭を胸に押しつけられる。
「や、もっ……ムリっ、……もう、ムリ……だめっ、だ……やだ……」
 あのとき伝わらなかった言葉が、今更ながらに口を吐いて出てくる。
 記憶が、ぐるぐると頭の中を掛け巡り、丹波の顔が至近距離で瞬いたかと思うと、薄汚い小屋のコンクリが迫ってくる。身体に響くのは、あのポンプの音で。
 耳を塞ぎたいのに、鈴木が押さえつけて動けない。代わりに、彼の唇が敬一の耳朶に触れてきて。
「丹波は今は敬一くんと会うことはできない。ここにはいない。大丈夫だから、あんな目にはもう遭わさない。ええ、この私が決して遭わせません……」
 繰り返される言葉が、少しずつポンプの音を消していく。
「す、ずき……さん……」
 言葉が、恐怖に強張る精神を解していってくれる。
「かわいそうに。敬一くんをこんなに怖がらせて。あなたを可愛がるのならば、もっと適した方法がいくらでもあるというのに……。ほんとうに、もう大丈夫ですよ」
 髪の毛に触れる手が優しい。丹波ならいつも引っ掴むだけだった。
 包み込む温もりが穏やかだ。丹波なら、重みと欲に絡む熱ばかりが伝わってきた。
 匂いも違う。触れる手も違う。
 何もかも……。
「す、ずき……さん……」
 瞬間的に荒れた感情は、一つ一つの違いを認識するたびに落ち着いていって。
「ええ、こここにいるのは私だけ。鈴木だけですよ」
 どこかわざとらしく、底知れぬ笑みを見せた鈴木は、確かに記憶にある鈴木に間違いなくて。
 助かったのだという認識がようやく生まれ、ホッと安堵すると同時に、けれど、決してそうでないのだと呆れる自分が頭の中にいた。
「たんば……さんは……?」
「あれは、加藤さんに預けました。あれだけ契約したことは守るように言っておいたのに、仕事でどうなるか判らないから日程をかえてくれって嘘をついて大学で行為に及び、なおかつあなたをこんな目に遭わせたのですからね。しばらく徹底的に罰を受けて貰って、たっぷりと反省してもらうまでは、決してあなたとは会わせないようにしますからね」
 そう言った鈴木の笑みが、いつもより輪をかけて怖くて、敬一は慌てて視線を逸らした。けれど、気になった言葉を捉えて繰り返す。
「嘘? あれは、三日間というのは嘘だったんだ?」
「ええ、敬一くんも忙しい、丹波も忙しくて帰れないかもしれない。日程がどう巧くやりくりしても会わないのなら、三日間連続で飼い主にして欲しいと。家でかちあった日があれば、その日だけに遊ぶから──と、やたらへりくだっていたと思いましたが、確かに敬一くんも忙しいし、三日のうちのいずれか一日、ということにしたんですよ」
「一日……だけ?」
「ええ、一日だけです」
 そうはっきりと頷き返された時、ドアをノックする音に鈴木が反応した。
「どうぞ。敬一くん、さっき目覚めたんですよ」
「そりゃ、良かった」
 安堵したような声音も聞き覚えがあって、視線を向ければ白衣姿の三枝だった。その背後に、もう一人、若い医師が付いてきている。
「良かったなぁ、無事目が覚めて。最初、ほんとダメかもって聞いたから焦った。鈴木さんの手当が早かったのと、こいつのおかげだな」
 こいつと言いながら親指で示された男が、頭を下げた。
「皆堂 聡(みなどう さとし)と申します。この病院で内科を担当しています」
 僅かに笑みを見せるだけで、あまり表情の無い医師という印象だったけれど。
「そうですね、聡くんのおかげですよ。ほんとうにありがとう」
 裏の無い笑みを鈴木が見せるの、敬一は珍しいと感じていた。それに、誰かを名前で呼ぶ鈴木も珍しい。
「入院中は、こいつが治療にあたる」
「え……」
 治療と言えば……と、自分の身体のピアスを思い出して、さあっと血の気が失せた敬一だったが。
「ああ、心配すんな。こいつは知ってるから。まあ……お仲間、かな」
「え……」
 三枝の言う意味が判らなくて、けれど、お仲間という言葉の意味にすぐに気がついた。
 まさか、丹波の代わりに……と思いついてしまう。だから鈴木も知っているのかと、疑惑が深まった。
 そのせいで血の気が戻らぬままに皆堂という医師を凝視する敬一に、その医師は口角を微かに上げて、三枝に視線をやる。その明らかな抗議の色が、そのまま言葉に紡がれた。
「安静しなければならない病人を脅さないでください」
「別に脅してないって。事実を言ったまでだ」
「嘘も方便、という言葉を知りませんか?」
「まったくうるせぇな……前はもっと可愛かったくせに」
「私は以前と変わっていませんよ。三枝さんも変わっていないんでしょう?」
 ちらりと横目で三枝を見やり小さく笑んだ皆堂が、意味ありげに言葉を紡ぐ。
「お前……」
「そろそろ患者を診させてくださいね」
 何かを問い返そうとした三枝の身体を、押しのけるように皆堂がベッド脇に寄ってきた。
「……後で話がある」
 ため息を吐いて、三枝が邪魔にならない位置に移動しながらぼそっと呟いた言葉に、皆堂は無言で頷いていた。
 けれど皆堂は視線を敬一に向けたまま、柔らかく微笑んだ。
「あの人の言うことは気にしないでください。私があなたにどうこうすることは決してありませんから」
 それでも強張ったままに言葉を失っている敬一を安心させたのは、鈴木の言葉だった。
「大丈夫ですよ。彼はあなたの飼い主にはなり得ませんから」
 とたんに、敬一の身体から強ばりが消えた。
 鈴木がそう言うのであれば、そうなのだと、信じてしまったからだ。
 安堵した途端に目眩のように目の前が眩む。僅かな緊張でも今の敬一には負担なのか、先より疲労感が増していて、目を瞑り、力を抜いた身体をベッドに沈ませた。
「まだ目覚めたばかりですから、もう少し休んでください。この点滴が終わったら、症状の説明をしますから」
 皆堂の耳に響く抑揚の少ない言葉は、けれど、こうして聞くと不思議に信用できるような気がして。
 敬一に安心感を与えてくれていた。



「丹波はね、加藤さんの奴隷になりましたよ」
 そんなとんでもない言葉を聞いたのは、退院の前日のことだった。
 敬一の世話をしにきた鈴木は、毎日至れり尽くせりの介護を行って、敬一をいつもいたたまれ無くさせていた。
 そこまでされると後でどんな見返りを要求されるのか。
 退院した後が怖いと思うのに、けれどそれを察した鈴木は、「飼い主なのだから当然です」と笑っている。
 それは信じられる物では無かったけれど、逆らうのも怖くて、結局受け入れてしまっていた。
 大学での作業を無断放置してしまったことも、見舞いに来てくれた友人達の言葉によると、うまく説明をつけてくれたようで、何の問題にもなっていな。それも鈴木がしたのだと三枝経由で聞き出した。
 一体鈴木が自分をどうしたいのか、判らない。
 判らないけれど、これも契約ですよ、と言われると、納得するしかない。
 判らないといえば、さっき聞いた丹波の処遇のこともよく判らない。
「どうして、奴隷に……」
 鈴木を怒らせたから、というのが理由なのだろうことは判っていたけれど。
 くすりと意味ありげに笑った鈴木の答えはとんでもないことだった。
「私たちにとって、敬一くんはね、三人目の奴隷なんですよ」
「え……三人目?」
「ええ、一人目は聡くんで、二人目が丹波、そして三人目が敬一くんです」
 一人、二人と名前を聞くにつれ、増した驚愕に目を大きく見開いた。
 よく知った二人の名前に、二人の顔が脳裏を駆け回る。
「聡くんは、研修医としてこの三枝さんの実家、つまりこの病院に勤めることになって、安い住居を探していました。その時、三枝さんが目をつけて私に相談したのが、ことの始まりになりますね」
 全ての始まりだと、鈴木は懐かしげに邂逅していたけれど、敬一にしてみれば、あの皆堂が……と、茫然自失で鈴木を見つめるしか無かった。
「2年ほどいたんですよ。三枝さんがとても気に入っていたのですが、専門研修を別の病院で受けることになって転居したんです」
「三枝さん……手放したんですか……?」
「もちろん、そういう契約でしたから」
 その言葉を言われる度に、敬一の心の中に不安と期待が入り交じる。
 敬一の契約は、敬一が大学を卒業して就職するまで。後半年あまりの期限を本当に守ってくれるのか、という不安はいつもまとわりついていた。
 けれど、少なくともそれを守ってもらえた人が目の前に現れたことに、敬一の期待が前より大きくなる。
「次の丹波はね、加藤さんの遠い親戚筋にあたるようで。加藤さんが連れてきました。加藤さんは、ああいう体格の気の強い男が好みなんですよ」
「でも、丹波さんは……」
 けれど、敬一の時には飼い主側に回っていた丹波は、奴隷扱いされていたようにはとても思えなかった。
「ええ、まあ……ただ、丹波はあれでも結構マゾっ気があるんですよ。ですので、加藤さんには絶対服従していました。ええ、私よりもね」
 言われて考えても、そんな姿が思いつかない。
「それにねぇ、私も三枝さんも、どうも彼には触手が動かないというか。愉しくないんですよね。なので、早々に次の奴隷を探すことにしたんです。その過程で、丹波も飼い主になることが……まあ、大家権限ですね」
 では、丹波がダメだったから敬一が選ばれてしまったと言うことで。
 丹波がもっと奴隷に相応しかったら、選ばれることなどなかったのだろうか。
 複雑な思いが渦巻いて黙りこくった敬一に、鈴木は覗き込んでその額に口づけた。
「私は敬一くんに出会えて良かったと思っていますよ」
 最悪の出会いをいつもそう言う鈴木は、ほんとうに愉しそうに笑っている。
「私は、今まであまりお気に入りなモノは無かったので、こんなに気に入る相手ができるなんて、本当に嬉しい」
 その笑みの奥にある執着心に、敬一は身震いして、けれど気がつかない振りをする。
 気がつくことが怖い。
 鈴木は敬一を大事にしてくれようとしている。それが、あくまで鈴木基準であることは間違いないのだから。
 だからこそ、敬一は怖かった。
 それこそが今の状況から逃げたいと切に願う最大の理由で、契約の履行が守られることを期待するとともに、鈴木がほんとうに守ってくれるのかへの不安材料でもあったのだ。
「だからね、もう丹波の勝手にはさせませんよ。そう加藤さんに言ったら、加藤さんが責任を持って丹波の調教をし直すと言ってくださって。そちらに専念するから、敬一くんのことは私に任せてくれるとのことです」
「……え……、それって?」
 恐怖を奥深くに押し込めようと足掻いている最中にもたらされた情報は、最初、何を言われたか判らなかった。
「加藤さん自身も今回のことは責任を感じているとのことで、敬一くんの飼い主から外れると」
「……ほんとに?」
 それは願ってもいないことで、けれど、信じられなくて無意識のうちに首を横に振っていた。
「本当ですよ。あの家にはいますけど、二人とも敬一くんには手を出しません。ですからスケジュールからも外れます」
 数度瞬いた瞳が、じわりと弛む。
 嬉しくて、口元が綻びかけて、慌てて引き締める。
 なんだかそれが罠のような気がして、どうしても警戒してしまうのだ。
「それに三枝さんも」
「三枝さん?」
「彼も敬一くんを相手にする余裕はなくなるでしょうね」
「どうしてです? 仕事が忙しいから?」
「おきに入りの奴隷だった聡くんが戻ってきたんですよ。自らね」
 くすくすと愉しそうに笑う姿に、先日の様子を思い出す。
「戻ってって……まさか」
 何故、どうして……戻るなんて、と疑問に思いながらも、鈴木の言葉が真実なのだと思ってしまう敬一がいた。
「そうで無ければ三枝さんのいるこの病院に戻ってくる理由が他にありますか? 顔を合わせる機会も、居場所をいられるリスクも大きいこの地に戻って、なおかつ同じ仕事場、なんてね」
「……」
 言われてしまえば、納得できてしまう。
 しかもあの時の皆堂の様子に、三枝達に対する嫌悪感は感じられなかった。
「なんで……奴隷から、解放されたのに」
 虚ろに呟く言葉は無意識のものだ。契約から解放されてなお戻ってくるなんて信じられないのだ。
「もともと三枝さんが一目惚れした相手ですからねぇ、聡くんは。奴隷というより、男に慣れさせるための過激な調教を施したい、というのが、三枝さんの意図で、それに私たちも加わったというところですから。三枝さんもうまく彼を甘やかしていましたしね。それに、聡くんにはマゾの気質も支配されることを好む質もあったようですし」
「……」
「だからね、きっと敬一くんの相手をするのは私だけになります。けれど、私も毎日あなたの飼い主ができる訳では無いので……」
「じゃ……どうなるんですか?」
「できない日はお休みですね。それに、敬一くんも卒論とか、就職の準備とか、いろいろ忙しいでしょう。それに会わせて、スケジュールを組み直しますからね」
「それは……そうなんだ……」
 期待して良いのだろうか?
 信じて良いのだろうか?
「退院したら、全部判りますよ」
 そんな敬一の心情など気がついているのだろう、けれど諫めることなく苦笑して鈴木は肩を竦めた。
「だから、きちんと身体を治して、退院してきてくださいね」
 まだ、飼い主はここにいるけれど。
 それでも苦手だった丹波と、それに加えて加藤、三枝までもが外れるのであれば、少しは楽になるかも知れない。
 疲れ切った敬一の精神には、それはまるで極上のご褒美のようであって。
 どこか不審感は残っていたけれど、それでも、じわりじわりと滲み広がるように歓喜が広がり始めていた。


【了】