【落花流水】(1)

【落花流水】(1)

落花流水:散る花は流水にのって流れ去りたいと思い、流れる水は落花を乗せて流れたいと思う相思相愛の様


 正月は寝正月。
 新しい年を迎えても、それだけはいつもとは違わない。
 人肌の心地よさに、部屋の中が明るくなっても滝本優司は布団に縋り付いていた。
「まだ起きないのか?」
 くすくすと笑う声がどんなに揶揄を含んでいても、この心地よさから抜け出ようとは思わなかった。
「まあ、いいけど」
 それに揶揄は続かない。嬉しそうな吐息を感じて、温もりがさらに優しく覆ってくる。
「……ん……」
 『ありがとう』という言葉の代わりに鼻を擦り寄せた。途端に震える肌が面白くて、さらに擦り寄ればぎゅっと抱きしめられる。
 恋人である笹木秀也の肌に触れていると、穏やかで、気持ち良い。
 こんなふうに擦り寄っている時は結構好きだった。
 だから、時間が許されるならばいつだってこうしたい。
 年末年始の休みは特にその機会に恵まれる。何しろ、ここ数年、年末年始はずっと秀也と一緒だった。
 会社が休みになるのを待つように、秀也はいつも優司の元を訪ねてくる。もしくは、優司を呼び寄せる。
 休みの間数日は、優司も実家に顔を出すこともあるけれど、そんな時でも秀也はやってきた。
 『いない』と言っても、寝て過ごすんだからどこにいても一緒だ、と言われれば、優司も強くは言えない。まして、帰れなどとはとても言えなかった。優司だって、秀也が来てくれる方が良いくらいで、できれば実家などには帰りたくない。
 今回の新年は、今日午後から出かけて、一泊だけしてさっさと帰ってくるつもりだ。
 その間一人でいる秀也を考えれば、本当は泊まることなく帰りたかったのだけど。
「しゅーや……」
「ん?」
「できるだけ早く帰るから……」
「ん」
 最初の頃は『気にするな』と言っていた秀也も、最近は優しく頷くだけ。
 互いの思いなんて判りきっている。
 二人でいることが一番幸いなのだから。
「お土産、きっと野菜たっぷりだよ」
「楽しみだな」
「何か作ってくれるか?」
「優司も手伝えよ?」
「うん」
 もう目は覚めていたけれど、優司はいつまでも秀也の腕の中で微睡むように擦り寄っていた。
 正月の朝など、誰も訪ねては来ないはずだ。
 なのに。
「優司っ」
 びくりと秀也の肌が震えた。
 何事かと強張る優司にも、すぐにその原因となった音が聞こえてくる。
「ん……電話?」
 何で音楽が? と思ったのも束の間、すぐに携帯の着信音だと気が付いた。
 ヤだな。
 ちらりと、放置してやろうと思うが、体が先に動いてしまう。
「寒……」
 心地よい温もりから脱すれば、身震いするほどの冷気が襲ってくる。
 身を縮め、部屋のどこかで鳴っている携帯を捜して。
「優司、そっちの棚の上じゃないか?」
 秀也の言葉に向けた視線の先で、携帯のランプが点滅していた。
 開いたディスプレイに弟の名が映る。
 何事か?
 と訝しげに首を傾けた。
「もしもし?」
「あ、兄さん、今日何時頃行く?」
 挨拶もそこそこの明るい声は、寝起きだけでなく掠れている優司の声とは対照的だ。
「何時って……向こう5時頃には着くように出ようとは思うけど」
 さすがに夕食には間に合わないと怒られそうだと考えながら言う。
「ふ?ん、俺は1時頃こっち出るんだけどね。途中でどっかに寄ろうかな、って思って」
「……元気だな」
「兄さんこそ、まだ寝てんだろ」
 押し殺した笑い声は、恵だけでない。
 電話の向こうにあるもう一人の存在に、優司は声をさすがに荒立てた。
「良いだろ、そんなこと。それより、何だよ?」
「ああ、今日さ、義隆の車でみんな一緒に行こう」
「一緒に……?」
 篠山の車で一緒に?
 それだけで嫌な気分になったのだが。
「秀也さんも一緒に連れて来いってさ。だからね」
「秀也って……っ! 何でっ!!」
 素っ頓狂な声に、秀也までもが上半身を起こした。
「あのさあ、兄さんから電話があってね」
「……どっちの?」
 四人兄弟の優司の上には二人の兄がいる。
「智史兄さんの」
「げっ」
 それだけで、そんな事を言い出した首謀者ははっきりする。そして、それを断るのは並大抵のことではないということもだ。
「何で秀也もっ」
「知らな?い」
 笑いながら答える恵はきっと判っているのだろう。それでも、優司には恵から答えを聞き出す自信はなかった。
 むうっと唇を尖らして、唸る。
 沈黙が漂う室内で、秀也が心配そうに優司を見つめていた。
 気が付いて、困ったように笑む。
 どうしたら良いかと頭の中がぐるぐると回転しているが、結論が出ない。
「だからね。迎えに行くよ……えっと1時頃にね」
「えっ、早い」
「どっか、寄ろうって行ったじゃないか」
「どっかって?」
「判った? じゃあね」
「あ、待って……って……切れた……」
 呆然と手のひらの中の携帯を見つめる。
「恵くん、なんて?」
「なんか……1時に迎えに来るって」
 見つめたままぼんやりと答えた。
 秀也も連れて行くのか?
 まくし立てられて流されてしまったが、一緒に行くというメンバーに秀也も入っていたのだ。
 何より、その理由を聞きたかった。けれど、それはもう決定事項だろう。
 恵に聞いてもはぐらかされるだろうし、言い出しっぺが智史であるなら、もっと聞き出せない。
 最近、何を話していてもいいようにあしらわれる智史には、こちらから電話したくない。
「優司?」
「うん……」
「俺も、行くのか?」
「……うん」
 秀也は聡い。
 漏れ聞こえた断片的な会話でも、内容を把握したのだろう。
 優司はふうっと大きく息を吐き出すと、ようやく秀也を振り返った。
 どうしようもない状況をあざ笑うように口元が歪む。
「どうする?」
「どうするって……」
 問いかけられて言葉を切った秀也も息を吐き出して。
「行くしかないんだろう?」
「……ごめん」
 責められているような気がして視線を泳がせた。
 優司の実家には秀也は一度きりしか行ったことがない。もとより行く理由もなかった。
「いや、別に謝られても」
 困惑の色の濃い秀也に、優司はますます口籠もる。
「で、1時? 今10時だからまだ時間はあるけど、用意しようか?」
「う……ん……」
 秀也はゆっくりするためにうちに来ているのに。
 実家になど行ったら、あの兄たちにいろいろと遊ばれそうだ。それに、何と母に言えばいいのだろうか?
 兄たちも、どういうつもりで母に会わせようとするのか?
 実家に行けば否応なくあり得る母との対面を考えて、優司は頭を抱えた。
 前に行った時は葬式の後だったから、幾らでも理由はついたけれど。
 まさか恋人なんて言えるはずもない。
「優司……ほら、とりあえず朝食食べよう」
 とんと頭を小突かれて、引っ張られる。
 悩む優司と相反して、秀也は割り切ったようにきびきびと行動していた。
「秀也は……行っても良いのか?」
「え? ああ、優司の家?」
 きょとんと首を傾げて、くすりと笑う。
「何とかなるだろ。 俺、おばさん受けは良いから、何とかするよ」
「それは知ってるけど……」
「それに、篠山さんも行くんだろ?」
「篠山さんは、何度も行ってるから、慣れてるし」
「だったら、彼に聞くよ。どうしたら良いのか。車の中でたっぷり時間はあるし」
「うん……」
 そうか、車で一緒に行くんだった。 
 なんかヤだな。
 秀也と義隆が仲よさげに寄り添って相談しているところを考えて、顔を顰める。
 思い出すのは、この二人のキスシーンだ。
 恵が言うにはとても巧いらしい義隆のキスに、秀也は弱い。
 そこに恋愛感情など無いと判っていても、優司には面白くなかった。
 深くなった眉間のシワを笑いながら秀也が指先で小突く。
「変なこと考えるなよ。だいたい冗談でもそんなことになったら、今度は優司が助けてくれるだろ?」
 笑みを深くしながらの口付けは、すぐに離れていった。
 ぼんやりとしていた優司には一瞬何が起きたか判らない。けれど、「な、優司」と秀也の笑顔が覗き込んできて、我に返った。
「え、あ?」
「優司以外にキスなんてしないよ」
 言い含めるように伝えられた言葉は、口の中に消えていった。



「あけましておめでとうございます」
 狭い玄関先でにっこりと微笑む恵に、秀也が同じく返す。
「おめでとう、今年もよろしく。篠山さんは?」
「車に荷物運びに。秀也さん、荷物ありますか?」
「いや、俺は特に」
「兄さんは?」
 仏頂面の優司に気が付いて、恵が苦笑を浮かべる。
「良いよ、行く時に持って行けるから」
 声までいつもより低い。
 なのに、恵はすぐに秀也へと向き直った。
 無視された優司がますます不機嫌になるのも意に介していない。
「ごめんね、秀也さん。智史兄さん、言い出したら聞かないから」
「いや、それは判ってるけどね。でも智史さんは何で俺まで?」
「さあ……」
 言葉を濁した恵に、秀也がすうっと目を細めた。
「何?」
 知ってるのだと優司ですら気付く。なのに、恵は「行ったら判るよ」と笑ってかわした。
 こうなれば、恵はどんなに問いつめても教えてくれない。
「まあ、行けば判るって」
 その言葉こそが、知っているとバラしているのに。
「恵……楽しそうだな」
「ふふ、判る?」
「……判るさ、それくらい」
 がくりと肩を落とす優司の傍らで、秀也が苦笑を浮かべて二人の様子を眺めていた。


 駐車場で待っていた義隆が二人を見た途端にその顔を綻ばせた。
 堪えきれない感じの笑みは笑われる側としては不愉快でしかなく、優司の機嫌はますます悪くなる。
 昼近いとはいえ元旦の今日は、人の動きも疎らだ。
 どんよりとした空と日陰に残った雪が体感温度をさらに低く感じさせる。そんな中、義隆の車だけがエンジン音を響かせていた。
「寒いですね」
「県北の方は凍っているかも知れないな」
「ああ、年末の雪が残っているかも……」
「道は大丈夫だと行っていたけど」
 何でもない会話が秀也と義隆の間で交わされていた。
 全く知らない仲ではない。
 だが、秀也も優司も義隆に対しては、恵ほど親しくは話すことはできなかった。
 相手を知りすぎて、余計に緊張する相手。それが義隆で、秀也も優司も敬語が外れないのは、そのせいだ。
 その義隆の車に同乗するのは気が乗らない。それでも、今更いいとは言えないのが優司だった。
 優司も秀也も荷物は少なくて、積み込みはすぐに終わる。後部座席に乗り込めば、義隆がすぐに車を発進させた。
「昼は? 食べた?」
「はい、軽く」
「そっか。それで恵が温泉行きたいって言ってるから、ちょっと寄るよ」
「そっ、入ろうね、秀也さん」
 義隆の言葉に恵が頷く。
「温泉……だから早く出たわけ?」
「だって、入りたかったんだよ」
「温泉……は……」
 温泉は好きだけど。
 優司は唇を噛みしめて首を振った。
「私は……いい」
「何で?」
 小さく呟いた言葉を耳聡く聞き取って、恵が驚いて振り向いた。
「ダメだ……入れない」
 首を振る優司の顔が熱くなる。
 理由を口にできなくて、それでも脳裏に浮かんだその情景に羞恥心が湧き起こった。
 人前で裸になるつもりなど無かったから、その肌には秀也に愛された証がまだ残っているのだ。
 むやみやたらにあるわけではないけれど、それでも無いわけではない。
 裸になれば、日にあまり焼けていない優司の肌の印など、目立つだろう。
「え、ダメなの?」
 優司の様子に理由を思いついたのか、恵が秀也に視線を移した。
「まあ、ね。そんなこと考えなかったら」
 つけられた場所など記憶には無いが、見える場所にあると秀也の言葉に確信を持つ。
「だから、入らない」
「そっか……どうしよう、義隆?」
「入れないのなら……止めるか?」
「ヤダ、俺楽しみにしていたのに」
「でもな」
 わがままな物言いを、宥める義隆はまるで父親のよう。
 大変そうだな、と昔を思い出してしまった優司は、思わず。
「いいよ。どっかで待っているから、入ってきたら? 恵はそんな長風呂じゃないし」
「ほんとっ? やった、ありがと兄さんっ」
 間髪を入れずに恵が礼を言う。
 もしかして、計られた? とも思うけど、無邪気に悦ぶ恵を見ていると、今更撤回などできない。むしろ、待つことくらい、と思ってしまう。
「いいのか、滝本」
「いいよ、あ、秀也も入ってきていいからね」
「いや、俺も」
「浸かるだけでも気持ちいいって思うし、ね」
「あ、ああ」
 いつになく強気な優司に、秀也も結局頷いた。


 温泉は小高い山の上にあって、見晴らしは最高だった。ついでに外気温は今までよりかなり低く、優司は池の畔で大きく身震いした。
 実家は県北で寒いのが判っていたから、ダウンのジャケットは羽織っている。
 それでも水面を渡ってきた風は、冷気をシンシンと伝えてきた。
 昼とはいえ、気温は一桁しかないだろう。吐く息は白く、池の縁は氷が張っていた。
 優司は池の上に張られた橋の上を歩いていた。橋と行っても渡るためと言うより、池を眺めるための物だ。渡った先にあるのは、池の真ん中付近にある東屋風の休憩所。
 寒い季節の今、誰もそこにはいなくて、白鳥だけが悠々と水面を泳いでいた。
 暇つぶしに、と思ってやってきた優司だったが、特にすることもなく身を縮めて白鳥を眺めるしかない。
 入ることを最後まで渋っていた秀也ではあったが、恵に引っ張られて入っていった。
 15分……くらいかな?
 長風呂とは言えない秀也だから、そんなに待たせることは無いだろうとは言っていたけれど。
 家の風呂とこういう場所の温泉とはやっぱり気持ちよさは違うし。
 少し残念に思いながら、たまにはこういうのも良いかと、東屋の椅子に腰掛けた。
 もともとぼんやりと眺めるのは好きだ。だが、さすがに今日は寒い。
 僅かに覗いた太陽がくれた暖かさにほっとする間もなく、風が雲を呼んでくる。
 恨めしげに見上げる先で、分厚い雲が太陽を遮った。
 近くの山はまだ雪を残している。
 中途半端に積もった白い雪は、吹き下ろす風をさらに冷たくしていた。
 一番近くの見える建物が温泉がある所で、三階の大きな窓が完全に曇っている。あそこで今秀也達は温もっているのだろう。
 くしゅん。
 冷気が鼻腔を刺激してくしゃみが出て。
「寒……戻ろ……」 
 冷えた腕を擦りながら優司は元来た橋を帰ろうと踵を返した。
 と、見慣れた服が見えて、俯いていた顔を上げれば、心配そうに細めた目があった。
「秀也……」
 慌てて時計を見れば、10分と経っていない。
「優司、風邪ひくよ」
 コートの袖から覗く手が伸びて優司の腕を掴む。
「冷たいな。ずっとここにいたのか?」
 そういう秀也の手のひらは暖かい。
 温泉に入っていないということはないだろうけど。
「秀也こそ、こんなとこに出てきたら湯冷めする」
 よく見れば、髪もしっとりと湿っていた。触れれば濡れてはいないようだが、それでも湿気を含んでいる。
「早く戻ろう」
「うん、早く」
 互いが気遣い、引っ張られ、引っ張って橋を戻った。
 少し前を歩く秀也の肌は、温泉に入ったせいかいつもより淡く色づいている。温泉の中で見たらもっときれいだろうと思って見つめていたけれど、その頬が僅かに強張っていることに気が付いた。
「秀也、寒いだろ?」
「いや?」
「でも……」
 眉間にもシワが寄っている。
「秀也、なんかあった?」
 難しい表情は、秀也が何か気に掛けている時のクセだ。
 もしかして?
 脳裏を過ぎる『あの』キスシーンに、優司の顔が強張る。
 だが、すぐに秀也が首を振った。
「いや、特にはね。ただ、優司の実家に行くのが、ね……その……考えると……」
 言いかけた言葉を飲み込むように、曖昧に言葉を濁す。
「あ、やっぱ、嫌?」
「ああ、そうじゃなくて……。そのさ……」
 恵から何か聞いたのだろうか?
 訝しげな優司の視線に秀也が苦笑を浮かべて返した。
「ただ、その……」
「何?」
「覚悟は……いるみたいだ」
「え、何で?」
「……行ったら判るから……」
「何、それ?」
「……」
 結局、秀也らしからぬ歯切れの悪い言葉がいつまでも続いて、優司はその理由を知ることなどできなかった。
 


 建物の中に入ってすぐに恵達も出てきて、四人はその足で車へと移動した。
 優司の冷え切った体は暖房で温められた。
 だが前の席で仲睦まじくしている二人とは対照的に、後部座席の優司と秀也は黙したままだ。
 結局はっきりとしたことは教えて貰えなかったことが腹立たしい。そんな優司をちらちらと窺い笑う恵に、優司の機嫌はますます下降の一途を辿る。
 何なんだよ。
 温泉の中で秀也が同行する理由を聞いたのだろうけれど。
 何故それを教えてくれないのか?
 意地悪だ。
 むすっとふて腐れている優司を秀也が困惑の色を濃くしているのも判っているけれど。
 それでも教えてくれない秀也に、優司は視線を合わせない。
「結構雪が残っているね」
「まあ、道は凍っていないし。早めに出て正解かも。天気が悪くなっているし」
「う?ん、たくさんは降らないって天気予報は言っていたよね」
「ああ」
 後の沈黙をことさら無視している会話が漏れ聞こえる。
 だからといって優司も前部に声を掛けることはしていなかった。
 教えて欲しい、と恵に言っても義隆に言っても教えてはくれないだろう。だったら、秀也が教えてくれれば良いのに。なのに……。
 教えてくれないなら口を利かない。
 子供のような我が儘だとは判っている。
 だが判っていても優司は頑なに沈黙を保った。
 賑やかなのに、静かだという車。
 行き交う車はやはり元旦のせいか少ない。
 年末に降った雪が、道の端に山を築いていた。日に照らされて雪が解け、道路に水が流れていた。その飛沫を跳ねて車が走り抜ける。
 普段優司達が住む県南部より実家は少し雪が多い。
 山と川と雪と。
 優司にとっては見慣れた風景が通り過ぎていく。
 後10分ほど。
 通い慣れた実家への行程を頭の中で辿る。
 運転手である義隆は迷うことなく最短距離を辿っていた。何度も行っていると聞いていたから、彼にとっても慣れた道なのだろう。
 家と家の間の狭い道で、巧みに対向車を交わす。
 そんな義隆も恵も、実家で何が待っているか知っているらしい。頻繁に行っているから、母の覚えもめでたい。
 家族のように受け入れられている義隆と秀也の違いは大きいから、だから何が起こるか知りたいというのに。
 なのに、その秀也が教えてくれない。
 気が付けば、もう30分近く秀也を無視し続けていた。
 教えてくれないから……。
 怒りは困惑へ。そして、いたたまれなさにもなっていく。秀也が時折嘆息を吐くたびに、口を利きたくなる。けれど、ここで優司の方から口を利いてしまったら、きっとなし崩し的にこっちが謝ってしまいそうだった。
 だから──何も言わない。
 目を伏せ、秀也から意識して視線を外す。
 優司が不機嫌なことなど秀也は百も承知のはずだった。なのに、無視するというのであれば、こっちも無視してやる。
 意地を張っていると自分でも判るのだが、その意地が頑ななまでに優司を縛っていた。


 懐かしい家を見た時も、感慨は少なかった。
 気になるのは反対側から降りた秀也だけだ。
 歩を進めて優司と並ぶ。
 その秀麗な横顔が緊張に強張っているのを見て、ほんの少し溜飲は下がった。だが、優司の不機嫌さはその程度では治らない。
「おお、お帰り」
 まして一番に顔を出したのが張本人の智史となれば、その不機嫌さはなおも悪くなる。
「ただいま? 智史兄さん。みんなは?」
「中で待ってる。早かったな」
「うん、温泉入ってきたんだけどね」
「そりゃ良いな。俺も行きたい」
「今度は一緒に行こうよ」
 恵がそつなく智史と会話をこなす。
 離れて住んでいる違和感はこの二人にはない。
「そうだな。あ、篠山さん、荷物は縁側から入れてください」
「はい、あ、お土産あるんですよ、後で飲みましょう」
「そりゃ、いいね」
 義隆とて、丁寧な物言い以外は会話の中にも親しさが滲み出ていた。
 だが。
「お帰り、優司」
 屈託のない笑みで迎える智史とは違い、優司の顔は仏頂面のままだ。
「ただいま」
 途端に続かなくなる会話に、智史がちらりと秀也に視線を送っていた。
「お久しぶりです、笹木さん」
「ご無沙汰しています」
 どこかぎこちない笑顔は、警戒と緊張がない交ぜになっているから。
「聞いています?」
「はい……」
「そっか、じゃこっちへ」
 誘う智史に、秀也が躊躇うように優司を見やる。
 心細そうだな、とは思ったけれど。
「荷物運んどく」
 視線を逸らして踵を返す。
 義隆の車から荷物を取り出している間も、背に視線を感じたけれど。
「笹木さん、早く」
「あ、はい、すみません」
 聞き慣れた秀也の声が離れていく。
 その声音に含まれるのは、秀也からは滅多に感じない不安だ。
 強いようで脆いところもある秀也を知っている。
 だけど、そう言う時はいつも優司を頼ってくれた。
 そんなときは自尊心を擽られる。
 エリートという言葉は秀也のような人にあると思っているから、そんな彼が頼ってくれることが優司は嬉しい。
 玄関が開く音がして、思わず振り返った時。
 視線が合った。
 心細げな表情に、胸がズキッと疼く。
 無視した事への激しい罪悪感が生まれてきて、優司は思わず秀也に向かって足を踏み出した。
 が。
「兄さんっ、これ運んでっ!」
 遮る恵が段ボール箱を優司に手渡した。
 うっかり出した両腕に掛かる加重に、前へつんのめりそうになる。
「な、何、これ?」
「ビール」
 にっこりと微笑んでいる恵がさらに取り出した箱は日本酒の特級の銘が打ってあった。そのサイズは一升瓶のそれ。
「それ、酒? ……こんなに?」
「だってさ、今日は宴会なんだよ」
「飲めるだけ飲もうと思ってな」
 義隆ももう一箱日本酒を取り出す。
「飲めるだけ……って?」
「まあねえ、きっと飲まずにはいられないって思うし」
「飲んだ方が気が楽ってのもあるな」
 二人仲良く視線を絡めて頷き合う。
「気が楽って……」
 一体何があるのだろうか?
 二人の様子に呆気に取られていた優司だったが、はたっと秀也のことを思い出した。
 智史に連れられていった秀也の不安げな様子。
 何があるか知っていてそうなのだとしたら。
「一体、何があるんだよっ!」
 荒くなった声音に、恵が肩を竦める。
「ケジメだよ」
「……ケジメ?」
「そう、ケジメだな」
 義隆すら同調した不可解な言葉が、薄暗くなってきた風景にさらにどんよりと影を落とす。
 優司が思わずぶるりと肌をざわめかせたのは、決して低くなった外気温のせいだけではない。
 だが、恵の笑顔が優司をからかっている物でしかないことも気付いている。
 胡乱な視線を送れば、恵が視線を外してあらぬ方向を見やって言った。
「この先、俺たちが自由に過ごすための……」
 それはようやく得たヒントなのだろうけど。
 恵の言葉は謎かけでしかなく、優司には答えは判らない。
「滝本ももうちょっと頻繁に帰ってきていたら、こんな事にはならなかったんだけどな」
「頻繁にって……」
「前はいつ帰ってきたって?」
 義隆の指摘に、考え込まなければ思い当たらない。
「……俺は23日に呼び出されたよ」
「え?」
「恵は年末に顔を出している。俺もその時には一緒に来た」
「そんなに?」
 良く顔を出しているという噂は聞いていたが。
「まあ今回は必要に迫られて」
「良いこと」
 それっきり口を噤んだ恵が荷物運びを再開した。義隆も同じく、だ。
 浮かんでいる苦笑の意味が判らない。
「恵、篠山さん……一体何が?」
 だが、優司はそれどころではない。
 恵の言葉にさらに混乱していた。
 一体何があるというのか?
 今更ながらに、秀也のことが酷く心配になってきていた。



 秀也が生まれた時からずっと持っていた感情が判る力は、大きくなって完全な制御下にある。けれど使っていないはずの時でも人よりは敏感だろう。
 その中でも優司からの感情は、誰よりも判りやすい。
 名の通り、いつだって優司は優しくて、怒ってもすぐに後悔する。車の中ではずっと怒っていたのに、さすがにここに着くと急に心配になったらしい。窺っているのが判る。
「母さんは、離れにいるんだけど、こっちから行けるから」
 智史に促されるがままに玄関をくぐった。その寸前、振り返った先で、優司と視線が絡む。
 優司の心配がより大きく伝わってきて、思わず縋りそうになった。
 けれど、優司の意識はすぐに逸れて、秀也も踵を返す事などできなかった。
 引き留めるのは恵で、先を促すのは智史で。
 ここまで来た以上、もう引き返せない所まで来ている。
 玄関で靴を脱いでいると、手のひらに汗をかいているのに気が付いた。外気温は凍てつくほどなのに、背筋にも嫌な汗が流れる。
 神経が、弾けば音がしそうな程に張りつめていた。
 良くない兆候だ。
 ラフなシャツだというのに、秀也は息苦しさを感じて襟元を引っ張った。
 話をするのは得意だったはずだ。
 営業の職に就く前は、接客を生業としていた。
 力をうまく使えば、人と接するのは容易い。
 そんな使い方を、秀也はあの時に教わった。
 だから、こんな場面でも難なく切り抜けられるはずなのに。
 なのに頭が空転する。 
 どうしたら良いのだろう?
 車の中でもずっと考えていた答えはまだ出ていない。
 前にいる智史が、そんな秀也を敏感に察して面白がっているのは判るのに。
 相対しようとしている優司の母との会話がうまくいくとはとても思えない。
 一体どうしたら良いのだろうか?
 なぜこんなにも怖いのだろうか?
 母屋と離れの長屋を結ぶ簡易的な通路。
 母屋を智史達に明け渡した優司の母の部屋はそちらにある。
 その部屋に行くのが、堪らなく怖い。
 歩みが遅くなって、智史が訝しげな視線を向けた。
「すみません」
 謝罪の声は震えていた。


 これから何があるのか。
 途中で寄った温泉で、秀也は恵から教えて貰っていた。
 あの時優司だけが入れなかったのは、恵達がそうなるように狙っていたからだ。
 三人だけで話をするために選んだ大浴場は、正月のせいか人が少なくて貸し切りに近い。
 大きな浴槽の片隅に寄ってしまえば、落ちる水音に掻き消され、声は他には届かなかった。もとより、そんなつっこんだ話をするつもりはないのだろう。
 恵が湯の中でのんびりと手足を伸ばしていた。
 その恵を挟むように秀也と義隆が浸かっている。
「まあ、そんなたいした話じゃないんだけど兄さんには教えるなって言われているし」
 優司一人を残したことを気にしてさっさと出ようとした秀也を止めたのは、恵のそんな言葉だった。
 訝しげに眉根を寄せる秀也に、恵は薬指を目の前に掲げて見せた。
「母さんに貰った」
 続いて義隆の手も持ち上げる。
 二人お揃いの指輪が何を示すのか、判らないわけではない。
 けれど。
「おかあ……さん?」
 恵の言葉が信じられない。
「義隆が23日に呼び出されて、渡されたんだよ」
「篠山さんが?」
 その言葉はもっと信じられないものだった。
「内緒だよ、兄さんには」
「智史さんに滝本には絶対に言わないように釘を指されているんだよ」
「バレたら、絶対に来ないだろうから」
 それこそ、ここからタクシーを使ってでも帰ってしまうだろう。
 そう言った恵達の危惧は考えすぎだとは思ったけれど。
 それでも。
「まあ、兄さんの言うことは聞いた方が良いよ」
 口の端に笑みを浮かべて言った恵の言葉は脅しに近い。
 秀也とて優司の家族と事を荒立てたいとは思わない。だが、それとこれとは話が違う。
「一体何が待っているんですか?」
 ひくひくと引きつりそうになる頬を必死で堪えて問うた答えは。
「いろいろ聞きたいんだそうだ」
「うん……。秀也さんのこと、母さんはよく知らないから」
「俺が行った時もいろいろ聞かれたけどな。だが、会社の中でのことぐらいしか俺も知らないし。ほら、家族のこととかさ。お義母さんとしては、いろいろと心配なんだよ」
 親しみのこもった口調で義母と呼ぶ義隆に驚きながら、そこまでの行き来があるのだと改めて気が付いた。
 秀也にはできなかったことだ。
 母という存在は、秀也にはとって近くてもっとも遠いものだったから。
「俺からすればさ、秀也さんって兄さんにはもったいないくらいだとは思うけど、母さんは俺たちの話だけでは納得していないみたいで」
「聞きたいって……」
 温泉の中にいるのに、薄ら寒さを感じて肌が震えた。
 恵の言葉は慰めにはならない。
 恵も会社の誰もが秀也の過去は知らない。
 雅人との絡みから昔ホストをしていたことは知っていたとしても、それ以上のことは知らない。
 それに優司とて、秀也の過去は良く知らないはずだ。
 話す機会が無かったわけではないけれど。
 優司がそういうことに頓着しない質なのに甘えていた。
 力のことを知っても変わりなくつきあってくれた優司。疲れ切って混乱した時も、優司の声で癒された。
 時に力のことを忘れて、必死に隠し事をしようとする優司が可愛くて、愛おしくて。
 ずっと昔から欲しくて堪らなかった存在──何もかも委ねて、心を解放できる相手。
 だが──。
 優司の母親は、優司が知らないことまで知りたがっている。
 それはただの勘だけど、きっと外れてはいない。
 込み上げた不安は、この時から秀也を縛りつけた。


「母さん、笹木さんが来られたから」
 智史が声をかけた途端に、びくりと体が震える。
「いらっしゃい」
 明るい中に緊張を孕んだ声音が届いた。
 いつかはこんな日が来ると容易く想像できたはずなのに、考えないようにしていたツケが回ってきたのか。
 優司より小柄で細身の女性。
 中学生の孫がいる彼女は、そこそこの年になっているはずだ。だが、それ以上のことは知らない。知ろうともしなかった。
 頭を下げた秀也を迎え入れる優司の母から、知りたいという欲求が強く感じられる。
 大事な息子を奪おうとしている相手のことを。
 感じるのは、ただの好奇心ではない。
 多分に孕んでいるのは悪意と憎悪。
 奪われようとするものを守るために、彼女はいろんな策を張り巡らせて秀也を待っていた。
 それが判ってしまう。
 彼女が望んでいるのは、優司と自分を切り離すこと。
 恵と義隆のことは諦めて受け入れたのだろう。何も知らない頃から足繁く通い、大事にしてくれる義隆の態度が彼女に恵を諦めさせた。
 たとえ意識しなくても彼はそれだけの事をしていたのだ。
 だが……。
 秀也にはそれができなかった。
 秀也にとって、両親は思慕すべき相手ではあったけれど、同時にどうつきあって良いか判らない相手なのだ。
 父親には扱いきれないとばかりに放置されていたから、ある意味秀也も諦めがついていた。だが、母親は違った。
 物心ついた時、母の優しさの影に常に怖れがあるのに気がついた。
 幼くて制御できない力に引きずられて混乱する秀也を、抱きしめてはくれたけれど、同時に怖れていたのも判っていた。
 それでも、彼女は必死に感情を抑えて秀也に接しようとしてくれた。優しい母だったけど。
 成長して落ち着いてきた秀也ではあったが、母の心の中に恐怖はこびりついている。
 慕いたい相手に疎まれることが怖くて、傍らに居続けることを諦めたのは中学生の頃。
 家を出て、ひとりで暮らし初めてからは、帰らなくなった。
 今の住所はもう知らせていない。ただ逃げることしかできなかったのだ。
 全くの他人であれば接することはできるのに、母親に対してだけは、どうしてもできなかった。
 それは今目の前にいる女性に対しても同じ状態だと言えよう。彼女が優司の母だと思うと、冷静に対応できない。
 彼女は優司の母であって、血の繋がりからすれば他人だというのに。
「どうぞお座りください。今お茶入れますね」
 表面上は穏やかな笑みの下で、彼女が探っている。
 秀也の一挙一動を見逃さないように。
「ありがとうございます」
 なんでこんなに声がうまく出ないのか。
 ひきつった頬は、笑顔を作らない。
 しんと静まった部屋で、彼女がゆっくりとお茶を注ぐ。
 促されるがままに湯飲みに触れて。
 あ──ああ、そうか。
 不意に原因に思い当たった。
 よく考えれば、優司に対しても最初はそう思った。
 実の母親と優司と優司の母親──誰よりも親しくなりたくて、絶対に嫌われたくない相手。
 だから、怖かったんだ。

 だが、原因は判っても、怖れは消えない。
 秀也の手の中で、湯飲みが小刻みに揺れ続けていた。 



 秀也のことを知りたいと言う母を止める権利は、優司にはない。
 離れの小部屋で二人だけだと聞いて、慌てて入っていこうとした優司を、そう言って智史が止めた。
「でもっ」
「笹木さんの人となりは俺も知っている。その点だけから言えば、笹木さんは合格点に近い。」
「だったら、兄さんが説明すれば良いじゃないかっ」
「でもな、近いじゃダメなんだよ。母さんにしてみれば100点満点でもお前を渡したくはないんだろうから。だから納得するまで話をしたいんだよ」
 そして、それができるのは優司でも智史でもない。
「それに、どうしても気になることは俺にもある」
 笑みがない智史の真剣な声音にぎくりと強張る。
「な、に?」
「彼は気配りも利いて、物腰も柔らかい。接客をしていただけあって、人との接し方にも慣れている。なのに、なぜ正月や盆、長期の休みになるとお前を独占し続けた? お前にもこうやって顔を出すべき場所があるのにだ」
「それは……でも、私だってちゃんと顔出しはしている」
「だが、それは長くて一日だろう? お盆の時などとんぼ返りだったじゃないか」
「そりゃそうだけど」
 優司にしてみれば、秀也といる方が居心地が良いと言うだけなのだが、それを口に出すのは躊躇われた。
 もっとも、智史もそれは判っているようで、一瞬苦笑を浮かべた。だが。
「母さんにしてみれば寂しいだろうよ。何せ、昔っから優司を一番可愛いがっていたしな。それに、母さんが言うんだ。笹木さんの実家はどうなっているんだろう? ってな」
「え……?」
 秀也の家族。
 どうしてそんな話題になるのだろうか?
「何か知らないのか?」
「知らないかって言われても……」
 一度だけそんな話になりかけた時、秀也の表情が曇ったことを覚えている。
 切なそうな、寂しそうな──揺らいだ視線に、二の句が継げなかったあの時。
「……秀也は、家族のことを話すのが好きじゃないみたいだから」
 いないわけではないらしいが、付き合いだしてから会ったと聞いたことはなかった。
「家族といさかいがあるのなら、そういう所を知りたいわけだよ、母さんは」
「そんなの、プライバシーの問題だろ。母さんには関係ないっ」
 怒りがふつふつと湧き起こった。
 たとえ家族の誰でも、秀也を苛めるのは許さない。
「止めさせる。秀也を連れて帰るっ!」
 怒りのままに声を荒立て、一歩踏み出した。刹那、腕を掴んで引き留められる。
「帰ったら、二度と会うなと言われるぞ」
 会うな?
 何で?
 強い口調に、呆然と智史を見やる。
「嫌な所を……知りたいんだよ。母さんにしてみれば、いろんな嫌な面が知りたいんだ」
「え……」
 嫌な面を……?
「嫌な面ばかりで、こんな男は優司に相応しくない、と思いたいんだ……」
「な、んで……」
「そうだったら、別れろって言えるから。話もせずに帰るのなら、相手の親をないがしろにするような輩にはやることはできないと、母さんに正当な理由を与えることになる」
「な、にが、正当だってっ! そんな理不尽だ」
「それが親なんだよっ!」
 智史の押し殺した怒声がいきり立った優司を縛る。
 人をからかってどこかつかみ所のない長兄の怒りを浴びることは滅多になかった。
 その滅多にない怒りが、今、優司に向けられていた。
「母さんにとって、お前は大事な息子なんだ。30が来ようが、40が来ようが、息子は息子なんだ。その息子が、どこのウマの骨とも判らない男に取られた、なんて思いたくないんだよ……。少しは親の気持ちを考えろ。だいたい優司がもっと顔出ししていれば、こんなことにはならなかったんだよ。恵のように篠山さんと一緒に顔出ししていれば、もっと簡単に話は進んだ……」
「恵の、ように?」
「だが、優司の所は……違う……。それに……言いたくはないけど、恵に対する思いと優司に対する思いは……母さんは否定するけど、違う。それに篠山さんは母さんを大事にしてくれた。実の息子より大事にだ。だから母さんは、あの二人はすぐに祝福した。」
 恵より自分。そんなことを意識したことはなかった。
 そんなことより、煩雑に実家に顔出しする恵達が羨ましいとは何度も思ったけれど。
「普通……できないだろ……」
 たとえ秀也が近場で暮らしていたとしても、同性の恋人を実家に連れて行くには、結構な勇気がいる。
 とてもじゃないが、優司にはそんな勇気はなかった。
「だったら……笹木さんが母さんを納得させるしかないんだよ」
「何でそんなこと……判ってたなら、教えてくれてたら」
 対処のしようもあったろうに。
「……教えていたら、お前、来なかったろ。それこそ、いろんな理由を付けて来ない。優司は……正面から立ち向かうよりは逃げるか大人しくして過ぎ去るのを待つか、どっちかだから、絶対に教えるなって……そんなこと、母さんにはバレバレなんだよ」
「そんな……。それに、秀也は知ってるのか?」
 きっと恵に聞いたからあんなふうに惑っていたのだろうけど。
 だが、智史は無情にも首を横に振った。
「恵はそんな詳しいことは知らないからな。教えられたとしても、知りたがっているということくらいだ。自分たちが楽だったから、優司達も多少厄介だとしても、そんなに大変だとは思っていないだろうしな」
「じゃあ、秀也は……」
 何も知らないままと同じじゃないか……。
「しょうがないんだ。母さんを納得させるためには、笹木さんに頑張って貰うしかない」
「だって、秀也は……」
「まあ、彼の手管にかかったら田舎のばあさんなんか騙すのは造作もないんじゃないのか?」
 くすくすと冗談めかした智史の言葉は慰めにもならない。
 もし自信があったら、あんな表情をするはずがないだろう。
 音がしそうな程に強く奥歯を噛みしめる優司の脳裏には、別れ際の秀也の表情が浮かんでいた。 
 秀也は強くて凛と格好良くて、手際が良くて、話し上手だ。
 だけど、何か衝撃を受けると脆い。固い殻が呆気なく砕けるように、その脆さをさらけ出す。
 母親との会話でそうなったらどうなるというのか。
 背筋に走る悪寒が最悪の予感を優司に与えた。


「笹木さんは、優司とは同期だとか?」
「はい。入社前研修の時に初めて会いました」
「そう、優司ってどっかぼんやりとしてんでしょう? 会社でうまくやっていけるか心配だったんだけどねえ」
「頑張ってますよ。同期の中では一番にリーダーになりましたし」
 世間話のように始まった会話。けれど尋問と同じだ。
「優司がずいぶんとお世話になってるようだけど、ご迷惑になってない?」
 だんだんと核心に近づいていく会話に秀也の神経は極限まで張り詰めていた。
「いえ、こちらこそいろいろと……」
 不意に言葉が出なくなる。
 どうしよう……。
 冷や汗がこめかみを流れ、息が苦しい。
 人との会話は視線を合わせることが重要だ、なんて判りきったことが頭にあるのに、顔が上げられない。
 すでに空になった湯飲みを凝視し続けて、秀也はぎゅっと拳を握りしめた。手のひらに爪が食い込む。
 痛みが意識をかろうじて現実に留めた。
「笹木さんはご実家はどこ?」
「え、あ……東京の北の方……」
「あら、今のご住所も東京でしたよね。近いんですね」
 意味ありげな言葉が突き刺さる。
 近くても帰られない場所。
 自ら縁を切った場所……。そうすることで逃げた。
 だけど。
「じゃあ、なんで戻んないの? お正月なのに」
 胸の奥が大きく跳ねる。
 答えを待つ彼女の視線を感じていた。
 暗に責めている。
 答え次第では彼女は追及の手をさらに深めるだろう。
「確かお盆の時もこっちにおられたんですね。あなたが来らていたから、優司は一日で帰ってしまったもの。落ち着きが無いと叱ったんだけど、むすっとして……。困ったことがあると黙っちゃうんだもの、言い合いにもならないのよ、あの子相手だと」
 責められているのに。
 なのに秀也は、その時の優司の様子を想像してしまって、思わずくすりと笑んだ。
 途端に、緊張が少しだけ解れた。
 きっとその時の優司は、何か言いたくても言葉にならない状況だったに違いない。
 それは今の秀也と同じ状況だ。
「私といる時も……そういうことがあります」
「……そう?」
 彼女が戸惑ったように口籠もった。
 笑んだまま顔を上げた秀也と視線が絡むと、彼女の方が視線を逸らした。
 そんな自分に戸惑っているようで、眉間にシワを寄せている。
 それは、ほんとに優司と似ていて。
 そっくり……。
 実の親子だな。
 深くなる笑みと共に、緊張が少なくなっていった。
 言葉にならないから黙り込む。そんな時の優司は怒っているけれど、でも困惑していることもよく知っている。
 いつまでも逃げられない。
 空転していた思考がたった一つの結論に至ったのは、この時だった。 
 ならば……。
 決心は唐突で、けれど、実はずっと前から決めていたことかも知れなかった。
「でも、優司はいつだって優しくて穏やかで。こっちに非があってもケンカしたことを後悔して謝ってくれて……。素直で裏表が少なくて」
 突然すらすらと喋り始めた秀也に優司の母親は戸惑った視線を向けてきた。
 それにまっすぐ視線を返す。
 もう逃げられないのなら、ぶち当たるしかないのだ。
 優司の時のように。
 あの時もどうしても手に入れたかったから、優司が混乱してケンカになっても諦めたくはなかった。だから突き進んだ。
「私は人よりずっと相手の感情に敏感で、子供の頃はそれでよくトラブルを起こしていました。とても引きずられやすかったんです。だから、いつだって緊張していました」
「トラブル?」
「混乱して、病院に連れて行かれたことも……。カウンセリングを受けたことも……」
「……」
「大きくなってなんとか落ち着いて、アルバイトもできるようになって。そんな中、優司と会ってとっても驚きました。こんなにも傍にいて穏やかになれる相手がいるんだって……。そう思ったら、ずっと傍にいたくなりました。けど、仕事は東京と岡山と離れてしまったんで、滅多に会えなくなったんですけど」
 目をぱちくりとさせた彼女がじっと秀也を窺っている。
 息子が穏やかだと言われたことを、悦んで良いのか悲しんで良いのか。
 彼女も混乱しているようだった。
「だけど、離れていたからこそ、あの穏やかさにずっと触れていたいと思ってました。だから……」
「だから?」
「優司が私を意識してくれるように、何度も何度も押しかけました。出張や工場での会議の時は必ず彼の部屋に泊まるようにして、私の事を気に掛けてくれるように」
 途端に彼女の目がきりりと上がった。
「では、優司があなたのことを気にしだしたのは、笹木さん、あなたのせいだと?」
「はい……」
 嘘じゃない。
 怒りを買うことは判っていた。けれど、誤魔化すことはできないことだ。
 秀也から優司を欲したことを。
 それだけは紛う事なき事実なのだから。



「義姉さんっ、これ運んじゃえば良いっ?」
「ええ、お願いっ」
 背後で恵がバタバタ走り回っている。
 義隆も何度か台所と居間を往復した。家族が多いせいか、使う食器も料理も半端ではない。
 そんな中、優司だけが唇を噛みしめたまま、片隅に座り込んでいた。
 その目はテレビを見ているようで、何も映していない。
 賑やかで落ち着きのない部屋の中で、ただ優司だけが黙して待ち続けていた。
 行けない部屋で秀也が母親と対峙している。
 さっきから何度も向かおうとしたけれど、そのたびに智史に止められた。
 待つしかない身が口惜しい。
 ギリッ……。
 秀也……。
 考えたことなど無かった。
 秀也と会えなくなることなど。
 けれど、もしここで秀也が失敗したら、私たちは引き離される……かも。
「ヤダ……」
 覚えず呟いて。
 ぞくりと体の芯から震えが走った。
 目の前にいる兄弟や家族の姿がぼやけていく。
 幸せそうだな……。
 つまみ食いをして怒られている幼い甥っ子達。
 義姉達は仲良くて、ここぞとばかりに義隆をこき使っている。なのに、義隆は嬉しそうで、あんな姿は会社では見たことはなかった。
 和やかな家族団らんの図。
 けれど、優司の幸せはここにはいない。
 もし秀也が母親に嫌われたら、ここから即行で連れ出そう。
 車はないけれど、義隆の車を借りれば良い。
 無理にでも……。
 鍵はきっとズボンのポケットだ。義隆達は車が無くてもどうにかなるはずだし。
 でも、気付かれないように取ることは無理そうだった。
 上着のポケットならゆったりとしてるから大丈夫なんだけど。
 どうやって取ろうか見つめているうちに、ふっと義隆が視線を巡らせた。
 優司と目が合って、訝しげに目を細められた。
 慌てて目を逸らしたが、義隆の視線は外れなかった。
 気付かれたかも知れない。
 隠し事が下手だとよく言われているが、今はそんな自分が恨めしかった。
 八方手詰まりだ。
 ため息を吐いて、立ち上がる。
 こうしてみると、義隆の車だけで来させた智史の策略に今更のように気付かされた。
 何もかも手のひらで踊らされている不快さが、胸中で大きくなっていく。今はもう賑やかさすら不快で堪らない。逃げだすように部屋を出て、一気に外まで出た。静かな場所は外しかなかった。
 

 庭から長屋に視線を向ければ、一カ所だけ灯りが点った部屋があった。
 あそこで秀也が母親と対峙している。けれど、優司が近づけば智史か誠二が遮るのは判っていた。
 深くため息を吐けば、白く空気が濁る。
 自分は一体何をしているんだろう……。
 こんなところで、為す術もなくぼんやりと待っているだけなんて。
 でも、いつだって、こんなふうに待つことしかしてこなかった。
 自分で解決できることはたかが知れていて、流されるように生きてきた。
 秀也の時だって、混乱して苛々して。秀也がいてくれたから、今の自分達がある。
 情けないけど、それが真実。
 今もこうやって……。
「おい、滝本」
 いきなり声をかけられて、飛び上がらんばかりに驚いた。
 叫びそうになったが、声は出なかった。
「し、篠山さん……」
「ほら」
 差し出された手。
 手の上で金属が触れあう音がした。
「これ?」
 幾つかのキーと車のリモコン。
「持っとけ」
 言葉短く伝えると、そのまま踵を返す。
「え、でも」
「どうせ俺は泊まりだし、なんとかなるし」
「あの……」
「笹木には前に世話になったことあるしな」
 振り返って笑う義隆に、優司は凍り付いたように動けない。ただ、手の中のキーをきつく握りしめる。
「俺たちは楽だったけど、なんかお前らはそうでもなさそうだな」
 ため息と共に、完全に向き直った義隆の大きな体躯が横に並んだ。
 二人並んで見つめる先は、秀也と母親がいる部屋だ。
 灯りしか判らない部屋で、秀也は一体何をしているのだろう。
「笹木は……強そうで弱いよなあ。なんつうか、打たれ弱いって言うか」
「え?」
 唐突にそんなことを言い出した義隆に、優司は戸惑いを隠せない。頭一つ軽く違う先にある顔を見上げる。
「いっつも穏やかで、にこにこしててさ、何言われたって平気ですって感じのくせに、それに滝本がかかわってくるとすっげえ弱いのな。俺とのキスが滝本にバレた時とか。ある意味滝本より弱いんじゃないのか?」
 問いかけなのに問いかけではない。
 自分より弱いという言葉には否定できる。けれど、強くもない。
「秀也は、弱いよ……」
「まさかあんなに考え込むとは思わなかったよ。こんなんだったら、連れてくるんじゃなかったかな」
 今更悔いられてもどうしようもない。
「でも、笹木なら難なく乗り越えられると思ったんだけど」
「うん……」
 縋り付くような表情。
 あの表情を見ていなかったら、優司も心配はしなかった。



「……笹木さん、優司と別れるつもりはない?」
 切り出された言葉に、背筋が震える。握りしめる指先の感覚がなくなったような気がした。
「ないです」
 それだけは、ときっぱり言い切る。
「私が許せない、と言っても」
「……はい」
 痛い。
「でも、許せるもんではないですよ」
 突き刺さる視線も、言葉も。
「もっとも……私がダメと言っても聞きそうにないよね……」
 聞くつもりなど毛頭無い。
 知らなかった温もりを、知ってしまった。
「優司は今の会社から離れないだろうし、あなたは東京とは言え同じ会社だし」
「……許せないのは、私が男だから?」
「不自然でしょう?」
「でも……」
 言い淀んだのは、恵達のことだ。
 彼らだって男同士なのに。
 けれど、たぶん彼女にとっては同列ではない。
 もともと彼らのことだって許しているわけではないのだろうから。
 だが、彼女はそんな秀也の心情に気付いたのか、ため息を吐いていた。それが答えだ。
「篠山さんはね、家族を優先してくださっているのよ。あなたとは違うわ」
 ぎりっと唇に鋭い痛みが走った。
 秀也達にはできなかったこと。いや、秀也には判らなかったこと。
 優司しかいなかったから。家族とは優司だけだったから。
「笹木さん、あなたの家族は、あなたが帰らないことには何も言わないの? 正月くらいゆっくり帰省してくれば良いって言わないの?」
「……」
 沈黙が答えだった。
 秀也の家族は、秀也が帰ることなど望んでいない。いや、連絡の取りようがないのだから。
「一つだけ、確かめさせて」
「え?」
「あなたと家族の関係。あなたにとって、家族とは何? ないがしろにして良いもの?」
 まっすぐに向けられた視線からは逃れられない。
 彼女が問うている家族は、実家のことだ。
 けれど、秀也と家族との関係はないがしろにする以前の問題だった。
「嫌われているから……俺は……」
 視線が泳ぎ、口籠もった。
 家族のことを持ち出されて、繕っていた言葉も崩壊する。
「これ以上会っても嫌われるだけだから、会えない……」
「何で? 篠山さん達の話によれば、会社ではエリートなんでしょう? 性格も良くて、人気もあると聞いているわよ? それなのに?」
「それでも……」
 母が秀也を見る時の目に宿る恐怖。
 あんな目は、見たくなかった。
「……もしかして、あなたの相手が男だってバレているから? そういう趣味だから、嫌われているの?」
「違う、けど……。俺が男と付き合ったのは大学の時からで。その時には家を出ていたし、そんなこと言ってもいない……」
「大学? 優司と会ったのは会社に入ってからって……」
「あ、それは……」
 うっかりいらないことまで喋ってしまった悔いが、唇に歯を食い込ませる。
 動揺が激しくて、整理がついていない。
「まあ、それはともかく……。性癖の事じゃないとして、何故家族に嫌われているのか、聞きたいわ」
 これが単なる好奇心なら、秀也も適当に流しただろう。
 だが、これは好奇心じゃない。
 優司を取り戻そうとする、母親が仕掛けた罠だ。
 それが判るのに、秀也はただ黙してしまうことしかできなかった。



「言えないの?」
「はい……」
 そんなことを他人に軽々しく言えるものではない。
 だが、相手は優司の母親で、そして、この先どうなるかがかかっていた。
 それでも、秀也は言えなかった。
 言いたくなかった。
「母とのことは……考えたくないんです」
 好きだった。
 今でも好きだと思っている。
 優しい母だったけれど、いつだって秀也と向かう時は怖がっていた。
 そんな母から逃れるように独り立ちをしたのだ。
 どちらにしても、彼女に秀也を認めさせることは難しい。
「家族が嫌いなの?」
「いいえ」
 それだけははっきりと言えた。
 父親には嫌悪されていたことは判っている。それでも、好きだったのには変わりない。
 彼女の言葉に、10年近く会っていない両親の顔が脳裏に浮かんだ。
 いつだって不機嫌そうな父親の顔が、綻ぶのは、秀也がいない時だけだ。
 妹とだけ接している時の母は、とても穏やかだった。
 けれど、そこに秀也が入るとぴんと空気が張り詰めた。
 嘘が吐けない秀也の力に、皆が判らないまでも怯えていた。
 それでも、好きだった。
「……好きだけど、会えないって? 会ったら嫌われるって? どうして?」
 不審そうに繰り返す彼女にはきっと判らないだろう。
 仲の良い四兄弟。
 優司を見ていれば判る。
 どんなに仲睦まじい家族だったのか。
「……だから……優司が好きなんです……」
 穏やかで、優しくて、思いやりがあって。
 こんな自分の力を厭わなかった相手。
 告白しても受け入れてくれた相手。
 そんな優司を育てたのは、この家族なのだ。目の前のこの母親なのだ。
「俺が、ずっと欲しかったもの。欲しくて堪らなくて、けれど手に入らなかったもの……。それを与えてくれたのが優司で……。優司がいたら……家族なんて思い出しもしなかった。思い出したく……なかった……」
「笹木さん……あなた……」
 驚愕しているのが判る。
 秀也だって自分が信じられなかった。
 涙が勝手に溢れてくる。
 優司を思うと、熱い思いが込み上げて、止まらない。
 欲しかった。
 ずっとずっと欲しかった。
 それを与えてくれたのは優司だった。
「お願い……です……。俺から、優司を奪わないで……ください……」
 今更離れたくなかった。
 知ってしまった温もりから離れたくなかった。
「笹木さん……あなたは……そんなにも?」
 震えている言葉に、秀也は頷く。
 衣擦れの音が微かに響いて、肩に手が置かれた。
「泣いたことある? 寂しいって……」
「寂しい……?」
「すっごく寂しそう……。今のあなたには、優司以外いないような……」
 優しく頭を撫でられて、その優しさにさらに涙が溢れてくる。
「なんか……こんな良い男に泣かれちゃうと……まいっちゃうわね……」
 ため息と苦笑が混じり合って、空気を震わせた。
「篠山さんもね、そうやって泣いたのよ……」
「……え?」
「この家に来ると楽しいって。心が安らぐって……。恵も優司も……うちの子達ってそういう寂しい人達を引き寄せちゃうタイプなのかねえ……」
 あの篠山が?
 呆然と呟く。
 信じられない。
「私も信じられなかったけれど、篠山さんってご両親が亡くなっているのよね。まあ、その時にいろいろあって、家族っていうものに、執着があるみたいなのよ。その話を聞いた時、彼から恵を引き離すのがひどく酷なような気がしてね。まあ、それだけじゃなかったんだけど、あの二人は許してしまったのよ」
「それで……」
「でも、まさか優司の相手も、だなんてね……」
 伝わるのは同情と憐憫。
 そんなものが欲しい訳じゃなかったけれど。
「優司といるとほっとするんです……」
 今は、使えるものはどんなものでも使いたかった。
 涙交じりの訴えは、彼女の心を揺さぶった。
 だが。
「それじゃ……一つだけ教えて」
「はい?」
「ご実家の電話番号」
「え?」
 頭の中が真っ白になった。
 なんで?
 涙すら止まった秀也の呆けた顔を見て、彼女が笑う。
「そんなびっくりするようなこと?」
「でも何で……」
「教えてくれたら、優司とのこと、許すとは言わないけど黙認はするわ。ただ、確かめたいのよ。だから教えなさい」
 実家へはもう何年も電話などしていない。けれど、そらんじて覚えている。
「……それは……それに、変わっているかも」
「電話番号なんてそう変わるものじゃないわよ」
「でも……かけるつもりですか?」
「かけなきゃ意味ないでしょ?」
 確かに……けど。
「いきなりかけても」
 きっと驚く。
 まして、その内容が秀也のこととなったら。
「あなたが言うように嫌われているのかどうか確かめたいだけ」
「そんな……酷い……」
「何が? 男に息子を取られそうだって言うのに、このくらいの意趣返しくらい我慢して欲しいわ」
 きつい物言いに怒りが表れている。
 けれど。
「……××……××××……」
 どうして優しさを感じるのだろう。
 そう思う間もなく、呟いていた。
 忘れることのできなかった10桁の数字を。


「もしもし」
 変わっていて欲しいと思ったのに、電話は無情にも繋がったらしい。
 ひと言二言、交わすその笑みが怖い。なにより、電話の向こうで誰が出たのか、どんな対応をしているのか、そのことがひどく気になった。
 秀也の力を持ってしても、電話向こうの感情などさすがに判らない。
 ただ、優司の母の感情は落ち着いていた。
「はい、うちの息子の優司がお宅の秀也さんととても仲が良くて。今日は来られているんですよ。何でもとても良くしてくださっているとかで──それでご挨拶を、と」
 立て板に水のごとく、すらすら出てくる言葉に、秀也は内心呆れた。
 いきなりの知らない相手からの電話。その内容が長年音信不通の息子についてなのだ。
 判らなくても、戸惑っているのは判ってしまう。
「ええ、うちに。何でも会社ではとても優秀なんですって。それに優しくてとってもおもてになるとか。羨ましいほどで……」
 な、何を……。
 かあっと顔面が熱くなる。
 さっきまで責められていたのに、なんでこの人はそんなことを……。
「あら、嘘じゃありませんって。ほんとに素晴らしいお子様ですよ……ええ……ええ」
 一体何の話をしているのか、終始笑みを浮かべている彼女からは窺い知れない。しっかりと耳に付けた受話器からは、声は漏れ聞こえなかった。
 じりじりと身じろぎもせずに電話が終わるのを待つしかない秀也は、きつく唇を噛みしめながら、彼女と電話を見つめていた。
 胸が痛い。
 緊張のせいか、耳の奥で鼓動が聞こえた。
 だが、そんな緊張などまだ序の口だった。
「ああ、いいですよ。ちょっと待ってくださいね」
 そう言ってにこやかに受話器が差し出された。
「はい、お母様から、替わって欲しいんですって」
「!」
 ずいっと目の前に突きつけられた受話器。
 出たくない。
 だが、差し出された受話器が引っ込められることはない。
 おずおずと手にとって、耳に当てた。
「もし……もし……」
『秀也……』
「……かあ…さん……」
 忘れたことなどない声だった。
 それだけ返して、言葉が詰まる。
 もう二度と聞くことなど無いと思っていた、母の言葉。
『元気そうね……』
「……」
『びっくりしたわ。滝本さんってところにお邪魔しているんですって?』
「う、ん……」
『今年も帰ってこないだろうなってお父さんと話をしていたところだったから、びっくりして』
「父さん……と?」
『勝手に引っ越しちゃって、引っ越し通知には住所がないし……。心配で……。父さんも探してくれたんだけど』
 そんなはずはない。
 いつだって、厭われていたのに……。
『秀也、聞いてる?』
 変わらない優しい声音に、喉が震える。
 言葉が出てこない。
『こんな正月そうそうにお訪ねして滝本さん家、迷惑じゃないの?』
「あ、……うん……」
『ああ、それより、連絡先、教えて? ね』
「うん……」
 か細くなってしまった声で、携帯の電話番号を教える。
『これって、携帯? 家のは?』
「携帯しか……ないんだ……」
『そう。今度は、勝手に換えないでよ』
『おい、そろそろ替われっ』
 向こうで交わされた言い争いの、男の声にびくりと体が震えた。
 少し掠れた、けれど、力のある声。
『秀也っ、お前、何で今までっ!』
「父さん……」
『まったく、なんて親不孝なっ』
 怒っているのに、責められているのに。
『ああ、電話じゃ面倒だ。次の休みには帰ってこいっ。言いたいことがいっぱいあるんだっ!』
 涙交じりの声音で言われては、迫力なんてなかった。
「うん……」
 嘘だろ……こんなこと信じられない。
 けど。
「うん、父さん……来週……帰るよ……」
『そっか、そうか……』
 どうして……泣いているんだろう?
 いつだって、俺と接する事を避けていたのに。
 だから、離れたのに。
『秀也、来週、ほんと?』
「三連休だから……」
『じゃあ、泊まるのねっ』
「え? あ……」
『待ってるから、ねっ!』
 何度も念押しされて、電話口で思わず頷いていた。
 


「何時頃? ちゃんと帰ってくる?」
 父から母に電話が戻っても、何度も確認を繰り返された。
 帰るよ、絶対に。
 問われるたびに繰り返した言葉をようやく納得してくれたらしい。
 乞われて電話を優司の母に返し、ほっと息を吐く。
 がくりと肩が落ち、疲れが体にまとわりついていた。
「嫌われていないじゃない」
 秀也の母よりは年がいった優司の母。
 仲の良い兄弟四人の母親は、電話を切った途端に笑みを浮かべた。
「そんなもんよ。嫌われていると思うほど、嫌われていないって」
 話を聞いているとそんな気がしたのだ、と、冷め切ったお茶を口に含み、呟く。
「どう聞いても両親のことが好きらしいし。言うとおりに嫌われていたとしたら、そんな感情を持つのは難しいと思うしねえ」
「……だから?」
 疲労は言葉すら奪う。
 かろうじて返した問いに、優司の母が微笑んだ。
「電話はね、ダメだったら実家に連絡とってでも、って思っただけなんだけどね」
 そんなことを企んでいたのか?
 けれど、彼女は何も言わなかった……。
「でも」
「あんなふうに礼を言われたら、言えなかったねえ」
 自嘲めいた笑みとは裏腹に、ただよう雰囲気はかぎりなく優しい。
 室温が変わっているわけではないのに、ほんわかと暖かくなる
 記憶と変わらなかった両親の声。
 いや、ひどく弱々しげに聞こえた。
 あれが、あの父か?
 泣く父など初めて知った。
「敵に塩を送っちゃったねえ。でもまあ、家族を取り戻したんだから、優司はいなくてもいんじゃない?」
「え……? それはっ」
 ごく自然な問いかけに、秀也は慌てた。
 見開いた瞳からわずかに残っていた涙が溢れて、慌てて腕で拭う。
「優司は別ですっ」
 情けないことに声音は震えていた。
「たとえ家族の元に帰ったしても、優司とは……」
「離れたくない?」
 頷いて、彼女を見据える。
「優司は親とは違います。本気で好きになって、本気で離したくないと思った相手です。優司が女性だったら、はっきりとプロポーズもしました。いえ、男であっても、許されるなら何度でも。──許してもらえるまで何度でも言います。お願いですっ」
 手のひらが畳に触れた。
 視線だけは彼女に向けていたが、体が前方へ傾いだ。
「優司と付き合うこと、許してください。お願いしますっ」
 なりふりなど構う余裕は無かった。
 ただ、許して貰いたくて頭を下げた。
 怖いと思ったことも、緊張したことも、全て忘れた。
「優司が傍にいてくれることが一番の幸いなんです。長期の休みはここに帰って貰ってもいい。お母さんが会いたい時に、優司を呼び出してくれればいい。ただ……そうでない時、私と共にいることを許してください……」
 思いの丈が口をついて出る。
 溢れる思いが、目からも涙を溢れさせる。
 そうだ、いつだって一緒にいる訳じゃないのだから、同じ事だ。
 土曜日と日曜日。
 そんな短い休みでも、会えればいい。
「今までと同じように、優司の優しさに包まれていたいから……お願い…します……」
 離れることなど考えたくないから、それ以外は望まなくてもいいから。
「……ほんとに、あなたが女性なら、こんな良い話なんてないのに……」
「同性でも……ひかれる相手っていると思います」
「恵と篠山さんのように……ね」
 ため息とともに湯飲みが小さな音を立てて置かれた。
 気が付けば、双方共に空になっていた。
 だけど、彼女の手から湯飲みは外れないし、傍らにある急須にも手は伸びない。
 まるで縋っているようだなと思う。
 秀也も縋れるなら、何かに縋りたかった。力を貸して欲しいとすら思う。
 けれど、手をついて頭を下げる秀也が縋れる物は、ここにはない。ただ、優司と離れたくない思いだけが、秀也を突き動かしていた。
「ほんとに……あなたが、女性だったら……」
 繰り返した言葉と共に伏せられた目が、床を這い、壁を伝っていた。
 辿れば、整理ダンスの上に据えられた小さな写真立てが目に入った。
 葬式の時の遺影の人物。
「どうしたらいいんだろうねえ」
 問いかけに秀也は答えなかった。それが秀也相手にされたものでないと判っていたからだ。ただ。
「お父さんが生きておられたら……」
「猛反発してたろうね。恵のことも」
 すぐに返ってきた答えに、黙って頷く。
 こんな程度じゃすまなかったろう。バレていたら、こんなふうに敷居をまたぐことすら許されなかったかもしれない。
「けどねえ……子供の幸せって考えたら……。諸手を挙げて賛成できるものじゃないけど……」
 小さな笑みは諦めの色が濃かった。
「でも、反対しきれないのよ……ね、どうしたらいいと思う?」
「それって……」
「どうして、こう同情しちゃうのかねえ……」
 肩が落ちて、ため息を繰り返す優司の母の姿が小さく見えた。
 年老いた彼女の心労は、きっと計り知れない。けれど、彼女は優司と同じで優しい。自分の思いを人のために犠牲にしてしまうことができる人だ。
 ふと、そのことに気が付いた。
 そんな母親に育てられたから、あの優司がいる。
 ならば秀也にできることは感謝しかなかった。
 そんな自分にできること。
「……優司を不幸にはしません。お母さんのためにも絶対に。何かあったら、俺が優司もご家族も全力で守ります。あ、でも、できる範囲だけど……」
 現実を思って尻つぼみになった秀也の言葉に、顔を上げた彼女が口の端をゆがめて笑った。
「ふふ、そうね……。できる事って限られているものね」
「けど」
「けどね、私は大丈夫。智史も誠二もいるし。理恵さんも幸(さち)さんも孫達もいるし」
「……」
「……子供の幸せって、親の幸せとは違うのよね……」
 そう言って、微笑んでいた。
 

 澄んだ空気に星が瞬いていた。雪を降らせる雲が東に移動し、星の数が増えていた。
 二人分の吐く息が白い。
 時間が経てば経つほど温度は下がり、二人の体を冷やしていく。
 戻ろう、と誘う義隆に、優司は首を振り続け、しまいには諦めたのか何も言わなくなった。
 優司の視線は、離れの明るい一室に向けられている。
 視界を閉ざしたカーテンには影すら見えない。
 けれど、離れから秀也達が戻ってきた様子はない。
 長い間外にいて、身は凍えきっていたが、その辛さも秀也の辛さに比べればマシだと思う。
 秀也の傍にいることができないなら、ここでずっと待っていたかった。
 寒さに唇は紫になり、体は小刻みに震えている。強張った表情は、寒さにかじかんでいるからだ。
 そんな優司を見て、義隆はため息を吐いていた。
「篠山さん、部屋に戻ってください」
 彼には従う義理はない。
「ったく……」
 呆れた声音が頭上からした、と思う間もなく、ふわりとした温もりが体を覆った。
「え?」
 慌てて見上げれば、頭の上に義隆の顔があった。可笑しそうに口元に笑みをたたえて、優司を見下ろしている。
 義隆は、優司の背後からその大きめのジャケットで包み込んでいたのだ。自分もろともに。
「ちょっとっ!」
 すぐに伝わってきた人肌の熱に、頬を熱くして身動ぐ。
「これって……」
「風邪ひくぞ」
 くすくすと笑う声に、子供扱いされているようで羞恥が増した。
「いいよ、離してくださいって……」
「だったら、部屋に戻るか?」
 逃れようとすれば、ますますきつく抱きしめられる。
 しかもしっかりと腕を捉えられては、思うように逃げられない。
「笹木なら、なんとかするだろ? それより滝本がそのせいで風邪をひいたって知ったら、その方がショックを受けるんじゃないか?」
 俺だってそう思うぞ?
 耳元で囁かれて、ぞくりと肌が粟立った。
 仕事以外で聞くことのない真摯な声音だった。いや、仕事の時以上かも知れない。
 逆らえない何かがその言葉に込められていた。
「で、でも……」
「戻れ」
 命令口調には腹が立つが、強い視線からは逃れるように俯く。
「ここで待つ……」
「強情だな」
 吐息だけで笑っているのに。
「そういうところは恵に似ている」
 恵への思いを感じて、何故か顔が熱くなった。だから余計に恥ずかしくて、身動いだ。
「離せよ」
「なら、戻るな?」
「ヤです」
「なら離さない」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、なおかつ首筋に顔を埋められる。
「きれいな肌だな……」
 からかっていると判るのに、きつい抱擁と粟立つ肌に混乱してうまく動けない。
 ヤバイと思うのに逃げられない恐怖が、優司を虜にした。
「判ったからっ!」
 叫んだのは、無意識のうち。
「そりゃ良かった」
 緩められた腕の中から逃げ出せば、背後で義隆が笑っていた。
「ったく……」
 また捕まえられては堪らない。
 逃げるように母屋へ向かう優司の体は、いつの間にか熱いと思えるほどに火照っていた。
 


 くすくすと笑う義隆から逃れるように、優司は先を急いだ。
 明るい玄関の中に入って、ほっと一息吐く。
 だが。
「浮気者」
 誰かが立っていると気付くと同時に、冷たい言葉が降ってきた。
 驚いて上がりかまちのその人物を見上げれば、恵だ。視線は後方へと向けられている。
「……そりゃないだろ」
 背後の義隆の苦笑まじりの声音が聞こえて、慌てて恵の後へと逃げる。
 そんな優司を無視して、恵はまっすぐに義隆を睨んでいた。
「百歩譲って、兄さんを心配してくれたんだと思っても、あれはないだろ?」
 低い声がその場の温度をさらに低くする。
 なのに、義隆は苦笑ではあったけれど笑っていた。
「百歩譲ってくれよ。ほんと、あのままだったら風邪ひいてたしな。まあ、最悪、抱きかかえても連れて入ったけど」
「冗談っ!」
「それが俺だとしても、するな」
 高低、二つの怒りの声音が交じった。
 義隆に抱きかかえられる自分。あまりに情けない構図に目眩すらした。
「まあ、恵より重そうかな?」
「うるさいっ」
「それはそうだろ」
 それでなくても苛ついているというのに。
「けどなあ、何で抱きつくんだよ」
「別に抱きついた訳じゃなくて、ジャケットでくるんだだけ」
「だから何で着たまんま」
「寒かったんだよ。ごめんな」
 義隆の手が恵の腰を抱き寄せた。
 耳元で何度もごめんと囁いているのが、至近距離にいる優司にも判る。
「やだね」
 怒っている風の恵の頬がそこはかとなく赤くなっていた。
 痴話ゲンカか、これは……。
 呆れる優司の目の前で、義隆がしきりに恵の機嫌を取っていた。
 その甘い遣り取りに、目のやり場に困る。
「もう、そんなことじゃ誤魔化されないよ。後で、覚えててよ」
「恵の、後では、怖いからな」
「ふふん」
 恵も、いつの間にか笑っていた。
「それにしても、滝本ってやっぱ小さいのな。恵よりは大きいか?」
「同じだろ?」
「何で? 私の方が大きいっ」
 背の低さにコンプレックスがある双方の声が荒くなる。
 と、そんな時だった。
「あらまあ、賑やか。玄関先で何やってんのよ?」
 呆れた口調が割って入って、三人同時に声の方を見やった。
「母さんっ、話終わったんだ?」
「え、ええ、まあ。ね、笹木さん」
「あ、はい……」
 曖昧な答えだと思う。
 母の背後にいた秀也は、少し目が腫れていた。泣いたのだと誰が見ても判る秀也の表情は、入っていった時よりは和らいでいた。
 少なくとも二人に険悪な様子はない。
 ということは、最悪の事態は免れたと言うことだろうか?
「秀也、その……」
 結末を聞きたいのに。
「お腹空いたわ。早く食べましょ」
 遮ったのは、わざとなのか、たまたまなのか。
「笹木さんも篠山さんもお腹空いたでしょう? 優司も恵も早く案内しなさい」
「でも」
 食事より何より、結果を聞きたかった。
 秀也が母に気に入られたのかどうかを聞きたかった。
 なのに秀也に目線で問うても、首を横に振られただけだ。
 拒絶されたにしては穏やかで、けれど、受け入れられたにしては、秀也の緊張は変わらない。
 どっちなんだ?
 助けを乞うように義隆達を見やっても、彼らも判断はつかないのか、互いに肩を竦めあっている。
 結論が出ていないのか……。
 だったら、食事の合間を縫って逃げ出すのもありかも。
 手の中の義隆の鍵を、宝物のように大事に握り直した。



 正月の定番のおせち料理と共に、用意されたのはすき焼きだ。
 母と四兄弟にその連れ合い子供達と揃えば、奥座敷を二間続きにしても広くはない。
 二つの鍋を用意して、それでも取り合いになっていた。肉も野菜も、他の料理が並べられる前に、瞬く間に無くなっていく。
「ほんとは明日用だったのよ。なのに、あんた達が今日だけって言うから」
「ごめん」
 幸が言う、あんた達であるところの優司はただ頭を下げるだけだ。
 この元気な義姉には、兄達以上に頭が上がらない。たぶん、滝本家の次の支配者は彼女だと、恵が笑いながら教えてくれた。智史の妻の理恵も元気ではあるが、幸ほどではなかった。
 後から席に着いた優司達用に新たな材料が鍋に放り込まれる。
 それだけでも半端な量じゃないから、すでに消えた量は一体どの位なんだろう?
 山盛りの野菜を眺めつつ、そんなことを考えていたら、幸が秀也に酒を勧めてきた。
「笹木さん、お酒は?」
「あ、少しだけ」
「遠慮しないでね。恵くんがいっぱい持ってきたからね」
 そういえば、誰があんなにも飲むのか、というほど車から降ろしていたことを思い出す。
「優司くんもね。はい」
 そう言いながら皆の前に置かれたのは備前焼の湯飲みだ。茶褐色の手作りだと判る形態は、それぞれに微妙に形が違う。だが、どこからどう見ても湯飲み。
 高さが8cmほどある。
 その湯飲みになみなみと注がれてたのは色と匂いからして清酒だった。
 その量にたらりと冷や汗が流れる。
「私は、お酒は……」
 逃げようと思っている身では酒は飲めない。
 なのに。
「何言ってんの、ずっと外にいたんだから体冷え切っているでしょ。ほら、ぐいっといきなさいっ」
 前会った時よりずっとハイテンションな幸に、無理矢理湯飲みを持たされた。
「はい、笹木さんも、篠山さんも」
 それにためらいもなく口を付けたのは篠山だけで、優司も秀也も手に持ったまま動けない。
「兄さん、飲んだ方がいいよ?」
 勧められる前から飲んでいた恵が、頬を赤く染めていた。
「楽しくならなくっちゃ。ね、秀也さんも。って、日本酒は苦手?」
「あ、いえ。ただ、量が……」
 湯飲みに日本酒というのは初体験です、と、控えめに笑う。途端に、理恵や幸だけでなく、中学生の姪っ子までが見惚れたのに気が付いた。
 秀也の笑みは、女性を虜にする。しかも本人は全くその気がない。
 だが、判っていても優司は面白くない。
 思わず、笑うな、と小突きそうになったが、その前に秀也が酒を口に運んでいた。
 一口二口飲んで、「美味しい」と呟く。
「だろ? この酒屋さんが、いい人でさあ。俺の会社御用達って言うか。大事な取引先の祝い事に持って行く酒はそこで選んでもらうんだ。遠いから直接買えないことも多いのに、商売抜きで相談にのってくれるんだよ。だから、個人的に贈り物を手配する人も多くってさ。もうその人に頼んだら、酒のことなら間違いなしっ」
「へえ」
 恵の明るい声音が、場を盛り上げる。
 皆がうまいというから、優司も少しだけと思いなめてみた。
 確かに美味しい。
 ちょうど良い温度と立ち上る芳香が、その先を誘う。
 体内から全身に熱が染み渡る。その心地よさが、先を欲した。
 気が付けば空になっていて、幸が即座に注ぐ。断る間もない。
「飲んで飲んで、まだいっぱいあるのよ」
「そうよ、笹木さんも篠山さんも、さあ、どうぞ」
 母から勧められれば二人とも断るのは無理だ。
 すき焼きより酒の方が摂取した量が多くなっている。そのことに気が付いた時には遅かった。
「あら、秀也さん、眠そうね」
「すみま……せん……」
 強いはずの秀也が一番に脱落した。
 壁にもたれ、ぼんやりとした視線を優司に向けている。
 まだ母との会話の内容も聞いていない。それどころか話すらろくにできていなかった。
 だが、眠いのは優司も一緒だった。
 そういえば、昨夜の睡眠時間は片手で数えて余るほど。今日は怠惰に過ごすはずだったから、時間を無視して戯れたのだった。
 眠たいのも道理……。
 緊張がアルコールで解されて、満腹感と程よい酔いが意識を奪う。
 とりあえず、とポケットに入れた鍵が、座布団の下に転がったことなど気が付きもしなかった。


 寝苦しさに優司が目を覚ました時、室内は音もなく静まりかえっていた。
 ついさっきまであんなにも賑やかだったのに。
 ひどく違和感を感じて、肘をついて上半身を起こすと、シャツがどこかに引っかかったのか、動きにくい。
 それでも、不自然な姿勢のままに暗い部屋で目を凝らせば、皆で食べた時の名残は座卓だけになっていた。それも端に寄せられ、一間は布団で埋め尽くされている。
 その光景に既視感を覚える。
 こんなふうに雑魚寝状態になったことがあったような気がする。
 あれはいつだったろうか?
 微かに聞こえる寝息は複数で、優司のすぐ傍からも聞こえていた。 たくさんの布団は昔ながらの綿布団で、その重さに顔をしかめる。
 寝苦しいはずだ。
 まだ残っていると自覚できるアルコールのせいか、それでなくても暑いのに。
 こんなにもかける必要がないのに、と、重ねがけされた布団を一枚剥がせば、思いの他至近距離に秀也が寝ていた。
 その手が優司のシャツを掴んでいる。
 動きにくさに優司はその手を解こうとしたけれど、食い込んだ指は外れようとはしない。
 それどころかますますきつく掴まれ、引き寄せられた。
「秀也?」
 静かな部屋に優司の声が響いた。
 何の応えもないその顔をじっと見つめる。
 夢でも見ているのだろうか?
 瞼がわずかに震えている。
 その様がなんだか堪らなく可愛く見えて、優司はくすりと喉を震わせた。
 笑んだまま、そっと秀也の頭をなでてみる。
 いつもはずっとしっかりしていて、何をしてもそつなくこなして、年下なのにずっと年上に見える秀也。
 悔しいとすら思うこともあるのに。
 今は堪らなく可愛い。
 縋り付いている手を外すことは諦めた。その手をそっと引っ張って、胸元に引き寄せる。
 起こしていた上半身を再び布団に横たえて、その手を両手で包み込んだ。
 まだこの手の中にいる。
 きっと母との会話は悪いことにはならなかったのだろう。
 でなければ、こんなふうに秀也が傍らにいることは無いはずだ。
「……秀也……」
 名を呼ぶことすら愛おしくて、優司は嬉しくてその手に口づけた。
 闇に慣れた目に、端正な横顔が映る。
 入社以来数年が経って、30歳近くになっていても、女性達の人気は衰えない。それどころか、ますます人気は上がっている。
 仕事ができて、性格も申し分ない。
 バレンタインデーのチョコも、いつも社内では一番たくさん貰っている。前回貰った中には、顔も知らない派遣社員からのものもあった。
 眉根を寄せてお返しのことを考える秀也に、胸の奥が不快にざわめくことも多いけれど。
「ゆ……じ……」
 微かな寝言に自分の名前を聞き取って、優司は相好を崩した。
 嬉しい。
 寝言でもこんなふうに甘えた口調で呼んでくれることが。
『優司が一番。他の誰よりも優司が良い』
 そう言いながら甘えてくる秀也を知っているのは自分だけだ。
 乱れて額を隠す前髪をすくい上げ、その寝顔をじっくりと堪能する。
「可愛い……」
 ぽつりと呟いて、くすりと笑う。
 そして、もし聞こえていたら赤面ものだと、ひとりで照れた。



 あまりのうるささに、起きざるを得ない状況だった。
 寝ぼけ眼をこすっている間にも、邪魔だと言わんばかりに布団を剥ぎ取られる。
「寒い?」
 身震いして、慌てて布団をたぐり寄せようとしたけれど。
「邪魔っ」
 手は届かない。
 むすっと唇を尖らせて見上げれば、布団ははるか彼方に移動していた。未練がましく見つめる優司に、布団を端に寄せた恵が口の端をあげて笑った。
「まだいいだろ?」
「もう9時来てるって。それにぜんざいできてるし。早く食べないと餅が固くなっちまう」
 言っている間に、座卓が出され、小豆の炊いた匂いが充満してきた。
 途端に腹が鳴る。
「ほい、どいて」
 逆らう気はもうなくて、促されるがままに移動した。
「優司、これでも着たら?」
「うん……しゅーや?」
 背後からかけられた服を受け取って顧みれば、すでに着替えていた秀也が、何? と首を傾げていた。
「もう、起きてた?」
「とっくの前に起きてるよ、兄さんが最後っ」
 秀也が答える前に恵が言い放つ。
「秀也に聞いているのにっ」
「邪魔っ」
 文句を言えば、切り捨てられる。
 もとより、過去幾度もあった喧嘩で、恵に口で勝てた試しはない。目を白黒させて、抗議の言葉を探していたら、すぐ傍らで秀也の肩が震えていた。
「しゅーや……」
「くっ……顔、洗ってこいよ」
「──るさいっ」
 舌っ足らずになっているという自覚はある。
 けれど、さっきよりはっきりとなった笑い声に、優司は不機嫌を露わにして秀也から離れた。
 あれだけ心配したのに。
 まるで昨日のことなど嘘のように振る舞う秀也が信じられない。
 そういえば、まだなんにも聞いてなかった……。
 後で時間を見付けて絶対に聞いてやろうと、とりあえず洗面所に行って。
「あら、おはよう。やっと起きたん?」
 呆れた声音に、ますます渋い顔になった。
「みんなが早いんだよ」
 二層式の洗濯機の音がうるさい。自然に大きな声になって、まるで怒鳴っているようだったが、母親の呆れた様子は変わらなかった。
「というより、あんだけ賑やかなのにいつまでも寝られるあんたの方がすごいわ」
「でも、昔に比べれば静かだし」
 幼い頃は、四人が一緒に寝ていたのだ。
 みんなが暴れる中、意地でも布団にしがみついていて、思いっきり踏まれたことも一度や二度ではない。
「そりゃ、昔はみんな元気だったもんね。あんま、うるさすぎて、お父さんに何度も怒鳴られて」
「そっちの方がうるさかったよ」
 気がつけば、懐かしい思い出話に口元が勝手に笑っていた。母親もその頃を思い出したのか楽しそうに微笑んでいる。
 そのせいか、自然に口から言葉が出てきた。
「昨日、秀也と何を話したのさ?」
「ん?、たいしたことじゃないわよ」
 けれど、あっさりとかわされる。
「たいしたことないって……」
「たいしたことじゃないわよ。笹木さんのご両親のこととか、この先どうするかとか、優司と別れてとか……」
「は、あ?」
 持っていたタオルが洗面台の中に落ちた。
「まあ、いろいろと」
 何でもないように続けた母の手が脱水槽から洗濯物を取り出していた。
 別れて?
 今確かに母親はそう言った。
 絶対に聞き間違いじゃない。
 途端に脳裏に、玄関で再会した時の赤く腫れた目元が浮かんだ。
 あれは、泣いた痕。
「なんで、秀也にそんなことっ!」
 怒りが一気に爆発した。声を荒して問いつめる。
 だが、彼女の態度は変わらない。
「いろんな話をしたのよ。それでね、泣き出して……。脆いのね、あの子」
「そんなのっ」
「優司がいないとダメなんですって……」
 揶揄を含んだ声音に、優司の怒りはさらに増した。だが、言い募ろうとした言葉が、不意に止まった。
「脆くて、可哀想な子ねえ」
 洗濯機の音に負けないほどのため息が母親の口から零れたのを聞いてしまったからだ。
「母さん?」
「何があったんか、詳しいことは聞けんかったけど……」
「何? 何なんだ?」
「とりあえず……様子見ることにしたよ……」
 その横顔には諦めと自嘲が浮かんでいた。
 優司と視線を合わせようとせずに、ひたすら洗濯機の渦を見つめている。
「なんか、あんたを今引き剥がしたら、あの子、壊れそうなんだよ」
「あの子って……」
「あの子ね、優しさに飢えていたんだろうねえ。だから、優司程度の男に引っかかっちゃって……」
「何、それ……」
 どうして自分がけなされるのか?
 眉間にシワを寄せる優司に、母親は肩を震わせた。
「なんていうか……、嬉しくもあったけどねえ。あんなふうに自分の子供のこと言われたら」
「え?」
「優しい子にって、付けた名前、そのまんまに育ってくれたんだなあって、誇らしくも思ったよ」
 小刻みに震える肩は止まっていない。
 洗濯機の縁を掴む手が白くなっていた。
 泣いてる?
 声も態度もごく普通のように思えたのに、その背は確かに泣いていた。
「優司……あんたね、あの子守ってあげなさいよ。あんなに頼られてしまって。一回懐に入れちまったんだから」
 顔を上げた彼女の目は潤んでいた。涙こそ流れていなかったが、ぐすっと鼻をすすっている。
 その様を、優司は呆然と見つめるしかなかった。
「引き離すのが遅かった……。だから、あの子がいつかちゃんと生きていけるようになるまで……」
「な、に、言ってんだよ。秀也は私よりずっと立派で、エリートで……」
「でも、弱いよ。きっと優司より弱い」
 それだけはとばかりに、きっぱりと言い切った。
「それと、恵に感謝をし」
「恵に?」
「恵と篠山さんとのこと、先にあったから……。少しはそういう関係もあるんだって頭では理解できるようになってたから……。だからねえ、あんなふうに縋られると、私も酷なことは言えんかったよ。男と男って……。今だって変だって思うけどね、こんな関係もあるんだよね……」
「うん……」
 それだけは確かだと、頷く。
 優司と秀也だけでない。義隆も恵も。
 そして母が知らないだけで、智史も誠二も男の恋人がいる。
 その全てをバラす気など毛頭ないけれど。
「あるよ、母さん。好きな相手が男だったってだけなんだから」
 気になる相手。
 離したくない相手。
 親友という心地よい関係がさらに進んだ相手。
 それにそのうち性欲も交じってきて。
「本当に、気が付いたら好きになっていたから……」
「笹木さんの方から、だったらしいけど?」
「らしいね。でも、きっと秀也が何も言わなくても、こっちから好きになっていたって今なら思うよ。秀也は、すごい人気あるのに。優しくて仕事もできて、すごいモテるけど──だけど私にだけ甘えてくれる……」
 自分にはもったいないほどの相手だ。
 けど、好きになったのはお互いだ。
 こんな自身でも秀也は好きだと言ってくれる。
「あらあら、のろけちゃって。まったく、母親に惚気る息子ってのも珍しいわ」
 堪えきれないとばかりに吹き出した彼女が、まなじりを指で拭った。
 涙は満面の笑みのせいだと思わせるけれど。
「ごめん……母さん……」
「何言ってんのよ。あんたがしっかりしないと、あの子壊れちゃうのよ。しっかりしないとダメよ」
「壊れるって……思わないけど」
 あんまり壊れると言われると心配になってくる。
 不安そうに視線を彷徨わせる優司に、母親はとんとその背を洗面所の外へと押した。
「ほら、ぜんざいの用意できているんだから、さっさと食べないさいって」
「え、あっ」
「それとね、お年玉、いつくれるの?」
「あ、……えっ?」
 にっこりと笑んで乞われた言葉のあまりの脈絡の無さに、目を見開く。
「お年玉?」
「笹木さんね、お年玉に歌舞伎座のチケット用意してくれるって。交通費と宿泊代は篠山さんと折半で。すごいでしょう? でね、当日は笹木さんが連れて行ってくれるって」
 嬉々として報告する母親は、そういえば、歌舞伎が大好きだとは知っていたけど。
「いつの間にそんな話に……」
「今日の朝、篠山さんと笹木さんが揃ってわざわざ言いに来てくれたんだけど?」
「朝……?」
「で、あんたはお年玉は?」
「は、あ?」
「お年玉は?」
 畳みかけられて、慌てて後ずさる。
「秀也から貰ったんだろ……」
「あら、恵はちゃんとくれたよ」
 割烹着のポケットから可愛いポチ袋が出てくる。
「そんなん用意してないって……」
「あらまあ、実の息子の方がよっぽど薄情だわ」
 わざとらしいため息に、優司は「ま、また今度っ」と慌ててその場を逃げだした。


続く