11
乱れた白いシーツの上に、鮮明に広がる赤色。
たった一つ身につけたTシャツから、淡い肌の色が伸びる。だからこそ、余計にその色が隆典の目にはっきり映るだろう。
なだらかな膨らみをさらけ出して、俊介はきつく目を閉じていた。
バスタオルを取り除いた時からずっと、強い視線を感じていた。
熱く、刃物で突かれているような鋭い痛みを感じる。
隆典があの熱い視線を向けているのだ。それは様子が判らないからこそ、より強く感じてしまう。
──くっ……。
強く奥歯を噛みしめた隙間から喘ぎ声が出そうになって、慌てて顔をシーツに押しつけた。
空気に晒された表皮をざわざわと虫が這う。
体の芯でくすぶっていた熱が、血流に乗って全身に広がっていた。
叫びたいほどの衝動が身の内で爆発しそうになるのを必死で押さえ込み、俊介は『その時』をじっと待っていた。
見たい、と言ったから──だから見せたのだ、と自分に言い訳をし、激しい羞恥に堪える。
シーツに押しつけられた陰茎が、鈍い痛みを訴えていた。
どくどくと血が集まっていくそこが快感を求めて、動きだそうとするのを必死で堪えた。
見られている、と思うだけで、どくんと心臓が高鳴る。はっきりと感じている性的衝動が、俊介の自制心を叩き壊そうとした。
何もかも我慢を強いられる中、俊介は全身を硬直させることに必死だった。部屋の時計は音がないタイプの筈なのに、頭の中に規則正しいカウントが聞こえる。
一つ一つ、確かに刻まれる刻。
だが刻を刻む音が50を越えても、100を越えても。ひいては200を越えても──隆典は動こうとしなかった。
ただ、黙っていて。
さらに100が刻まれても、動かない。
嫌な予感が身のうちに湧き起こる。
いてもたってもいられなくなって、俊介が閉じていた目蓋を微かに開いた時だった。
不意に空気が動き、柔らかい物が剥き出しの腰に触れる。
「え……?」
慌てて上体を起こした俊介の視界に、腰に掛けられたバスタオルが広がっていた。
何故それがそこにあるのか?
硬直状態だったのは頭も同じで、すぐに現状が理解できない。
呆然とバスタオルを見つめる俊介の耳に、隆典が動く衣擦れの音が聞こえた。はっと見上げると隆典が困ったように薄ら笑いを浮かべ、微妙に俊介から視線を外した。
「もう良いから」
「もう、良い?」
「ん、もう良い」
それは、どういう意味なのだろうか?
あれだけ見たいと言っていたから、恥を忍んで見せたのに。
きっと来るであろう『その時』を待っていたのに。
もう良いって……。
「あんなに、見たがっていたのに、か?」
「ああ。だから堪能した。綺麗だった」
まるで棒読みのようなセリフ。
未だかつて聞いたことのない低い声。
それはまるで怒っているのを必死で堪えているようで。
「あ、あのさ」
「ああ、俺もシャワー浴びようっと。俺の分も服買ってきたんだ。上木さんもその間に着たら良いよ」
床に落とされた紙袋から、もう一つの包みを持って、隆典が去っていく。
その姿を引き留めることもできなくて、俊介は呆然と見送った。
「な……んで……」
見たいって。
あれだけ見たいって。
つまりはそれだけだったんだろうか?
隆典が欲しいのは、綺麗な物。
綺麗なのは、肌。
俊介の物であっても、俊介の全てではない。
見れたから、満足。
それで──終わり──?
だから……。
『その時』は来なかった。
って……。
「俺は……何を?」
期待していた?
意識しないままに晒した肌。
激しい緊張を強いられた時間。
その間、自分は何を期待して待っていたというのか?
──俺は……襲われたかった?
視線がおずおずと下へと向き、僅かに立ち上がった股間を見つめる。
あの時確かに、襲って欲しい……と、願っていた。
脳裏にあったのは最初に強引に誘われた時の記憶だ。
恐怖すら感じたあの強引さを、俊介は知らず欲していた。
けれど、今ならはっきり判る。
あの怖さにも惹かれていた。
好きだと思った時には、そこまでとは思わなかった。だが、今の自分の行動は、あの恐怖すらも欲した者の行為だ。
浴室から微かにシャワーを使う音が聞こえる。
ふっと視線を向けた俊介の脳裏に、勢いよく現れる隆典の姿が浮かぶ。
衝動に駆られたように、彼が強引に押し倒してきたら──。
だがいつまでも扉は開かない。
そして、また欲してしまった事に気付く。
開かない扉の代わりに響く水音。その音を聞きながら、俊介は凍り付いたように動きを止めていた。
俊介が服を着たのは、浴室のドアの音がした時だった。茫然自失だった頭に響いたその音が、正気を戻させた。
何を……。
男に裸を見せて、何を期待しているのだろう。
欲しい、と思っても、相手もそう思ってくれない限りその期待は絶対に応えては貰えない。
というか、そんな事を考えること自体が異常だ。
異常な事態だ──。
手足だけは大慌てで服を着るが、頭の中は警報が鳴り響き収拾がつかない。
ようやく服を身につけて、ぱたんとベッドに突っ伏し、もう何回ついたか判らないため息を吐く。
「ばっかみてぇ……」
自嘲の笑みが浮かんだ口元が、ひくひくとひくつく。
全身と心がバラバラになって、制御できない感じだった。
──疲れた。
もう、何も考えられない。
考えたくもない。
「上木さん、朝食食べに行く? 今ならまだぎりぎりで食べられると思うけど」
脳天気な声に腹が立つ。
最初からずっと振り回されてきた。今も、意識せずに振り回してくれるとっても厄介な相手。
「上木さん、どうする?」
睨んでも変化が無いことに落ち込みそうになる自身を心の中で叱咤して、俊介は勢いよく体を起こした。
もう振り回されるのは嫌だ、と必死になって心を切り替えた。
「食べる」
「で、食べた後、またプールにでも行く?」
「……」
何でもないことのように言う隆典を、俊介はたっぷり30秒は見つめた。
せっかく切り替えた心が、呆気なく元に戻ろうとする。
それを必死で宥めるのに、それだけの時間がかかったのだ。
「……行かねえよ」
唸りながらそっぽを向く。
怒りながらも脳裏に浮かんでいるのは昨夜の逞しい隆典の体だ。うごめく筋肉の様子を思い出しただけで、かあっと体が熱くなる。
「今日はたっぷり時間があるだろう?」
「行かねえったら、行かねえっ!」
こんな些細な記憶でも昂ぶりそうになる体を持てあましているというのに。
そんな気配など微塵も感じられない涼しそうな気配の男を、俊介は恨めしそうに睨んだ。
最初の頃に感じたような恐怖心はもう無い。
神経過敏に反応しすぎたせいだったのだ──きっとあの時感じたことは全て気のせいだったのだろう、と思ってしまう。
そして、それは決して間違いないだろう。
大人なのに子供のような好奇心をまともにぶつける人間が異様で怖かっただけ。
慣れてしまえば、何のことはない。
けれど、子供に大人の──性欲は見せられないし、見せても無駄なだけだ。いっそ無邪気とも呼べるほどに好奇心丸出しで、優しくて、いつの間にか惹かれている存在は──だからこそ残酷だ。
付き合えば体も心も振り回されて、酷く疲れる。
あの期待も、結局はそんな隆典に振り回された疲れた心が望んだだけなのだ。
だから……勘違いなのだ……。
何もかも気のせいなんだから。
「食べたら帰る」
思い切るのに、しばらく一人になりたい。今は一緒にいるのが辛い。
早々に疲れを感じている体と心を、早く休ませたかった。それには隆典はいない方が良い。
「そう……。残念だなあ」
そんなに残念そうでもない笑顔で、隆典が返すのが判って、俊介は自分でも気付かないうちに顔を顰めていた。
「まあ、上木さんも疲れているしな。倒れて貰っても困るし、この綺麗な肌がくたびれても困るものな」
頬に指が掠める。
たったそれだけで、肌がざわめく。
それを気付かれないように必死で押し殺して、俊介は「触るなって言ってるだろっ」と振り払った。
「はいはい、じゃ食事に行こうか」
戯れ言のような返事の後に、仰々しい礼をされた。ふざける隆典に、思わず拳を握りしめる。
だが、それを振り上げることはできない。
顔を顰めて、「ざけんな……」と小さく呟いて──けれど足は隆典に勧められるままに踏み出していた。
12
バイキング形式の洋食を、ジュースで流し込むようにして食べた。
食べることは好きなのに、食欲が湧かない。視覚では美味しそうだなと思うのだが、胃が受け付けないのだ。
そう言えば、いつもならある空腹感すら無かったのだと、食べ終わる頃になって気がついた。
「もう要らないのか?」
心配をしてくれている隆典の手を振り払う。
何を言っても、しょうがない相手。
まさかこんなことになるとは思わなかった。
「帰りたい」
さっさと帰って、この男から離れたい。
一人になってゆっくりとしたかった。
「疲れてるみたいだね」
「ああ」
刻が経つにつれて、声を出すのも億劫になってきた。
「今度は、体調の良い時に来たいね」
「誰のせいだよ」
荒い口調で答えたら、返ってきたのは苦笑だけ。
俊介を責めることはしない。
帰りの車の中、「休憩する?」「何が飲みたい?」「何か買う?」と、黙ったままの俊介に隆典が問うだけ。
「しない」
「水」
「いらねぇ。でも奢ってくれるんなら、ビール一ダース」
あまりに煩いから半ば嫌がらせのように返せば、隆典は嫌がることなく叶えてくれた。
その調子で一時間はあっという間に過ぎて、俊介の部屋に辿り着く。
「上がらせてくれないのか?」
「嫌だ」
もう何を言われても、素っ気なく返すことしかできない俊介に、隆典は困惑を滲ませた苦笑を浮かべる。けれど何も言わなくて、そのことが余計に俊介を苛立たせた。
「……じゃあ……今度は携帯にかけてから来るよ」
「あ、そ」
何か言いたげな隆典を振り切って、ドアを閉じた。
かちゃりと後ろ手で鍵を閉める。そのまま脱力して冷たいドアへと背を預けた。天を仰いで深いため息を吐く。
外にいる隆典の気配が消えていない事には気付いていた。
いつかの夜のように、金属一枚を隔てた距離。
何も言えなくて、何も言わなくて。心臓が締め付けられるように痛い。
あの時にはこんなことになるとは思っても見なかった。
──早く、帰れっ。
固く目を閉じて、奥歯を噛みしめる。
耳だけに神経を集中して、外の隆典の様子を窺った。
ジャリっという、コンクリを擦る靴の音が聞こえた時には、ドアを開けたいという激しい衝動に駆られた。
カツンという階段の音が聞こえた時には、衝動はもっと激しくなった。
車の起動音。
タイヤが土を噛む音。
衝動は限界に近かった。だが、たった一つの理性が、俊介を止めさせる。
隆典の車の音が音が小さくなるにつれ、俊介の喉から零れる音が大きくなっていった。
ポタポタと滴がコンクリの三和土に染みを作る。
「違う……から……しょうが、ねえ……」
嗚咽と共に噛みしめた唇の端から声が漏れる。
隆典が欲しいものは、綺麗なもの。
俊介の欲しいものは、隆典。しかも性的行為をも含めた、決して綺麗とは呼べないものが欲しいのだ。
子供のするような純愛であれば綺麗だったかも知れない。けれど、そんなプラトニックな関係など、俊介は欲していない。俊介が今囚われているのは、性欲も独占欲もない交ぜになった人には知られたくないようなどろどろした感情が集約したものだ。
思えば、和宏を好きだと思っていた頃の方がよっぽど純愛で、綺麗なものだったのに。
だが隆典相手だと衝動は激しく制御するのに理性をフル動員しなければならないのだ。
あの時は賭だった。
ベッドの上で裸体を晒した時、隆典は結局何もしなかった。
相変わらず「綺麗だ」、とは言ってくれるけれど、今の俊介はそれだけでは満足できなくなっていた。
「ざけんなよ……。俺なんてどこが綺麗なんだよ」
何もかも、綺麗だと言ってくれたなら、どんなに嬉しいことか。
外見も心の中も全て。
だが、自分を守るためにしてきた行為は、決して綺麗だとは思えないし、隆典に抱いた劣情はもっと汚い。
綺麗だと言うなら、和宏こそが綺麗な存在だろう。
過去、俊介自身の失態を和宏に押しつけて責め立てて、ずっとろくに仕事を教え込まなかった。やればできる奴だと知っていたからこそ、その才能に嫉妬して行く手を阻んだ。
でなければ、自分の地位が危ない、とその時確かに思っていたのだ。
なのに、和宏はそんな俊介の全てを知ってもなお許した。
そんな和宏こそ、隆典が望む綺麗な存在だ。
隆典の弟である英典と恋仲である和宏は、隆典ともよく会っている。つきまとわれていると言うことも和宏から聞いていた。
もし、和宏が隆典になびいてしまったら──。
途端に、チリッと胸が痛んだ。
突き刺さるような痛みに手を当てれば、痛みはもっと奥深くから湧いて出てきた。
そうなっても構わない、なんて口が裂けても言えなかった。
和宏が隆典の傍らにいる。
その光景を思い浮かべれば、痛みはさらに激しく、込み上げる負の感情がさらに俊介の顔を顰めさせる。
それこそ、和宏がいなければ、とさえ思ったのだ。
そんなおどろおどろしい感情はとても綺麗だとは言えない。
けれど、いつまで経っても俊介は心を落ち着かせることなどできなくて、拳を握りしめ、きつく唇を噛みしめる。
できないと判っているのにいろんな手段を脳裏に浮かべ、やはりできないと絶望して、より深く落ち込んで。
「頭ん中の記憶、全部消したい……」
狂おしい程の衝動から逃れるように、俊介は両手で髪を掻きむしっていた。
週初めの仕事はいつだって辛い。
土日をぐうたらと過ごすとその辛さは倍増する。
だが、今日の辛さはいつものそれとは違っていた。
何をする気力も湧かなくて、同僚達の朝の挨拶も半ば無視。かろうじて、上司に対する挨拶だけはしたが、却って相手に変な顔をされてしまった。
「大丈夫かい?」
と問われても、「はい……」と言葉少なく答えるだけ。
「体調管理はちゃんとしないと」
嫌味な言葉は、綺麗に耳から抜けていって、俊介はさっさと自席についた。
怠い。
眠い。
結局、昨夜もいつ頃眠れたのかよく判らない。
消したかった記憶は、消えるどころかより鮮明になって俊介を苦しめた。何度追い出そうとしても、消えてくれない。
隣席に和宏が座ったのに気付いたが、いつもはかけてくる挨拶も今日はずいぶんと小さい。
ちらりと見つめると、困ったように口をへの字にして閉ざしていた。
こういう事には少し鈍い和宏が気付くのだから、自分が相当酷い顔をしているのだろうとは思ったが、だからと言って何とかできるものではなかった。
何より、俊介を苦しめる記憶の中には、隆典と和宏が寄り添うようにして立っている姿までもがある。
それは想像でしかなかったのに、今はもう現実に見たことでもあるようにはっきりとしていた。
だから。
確かめたかった。和宏が隆典をどこまで知っているのか、どうすれば良いのか。
「八木……」
「は、はい?」
ずいぶんと驚いたように返した和宏が、少し惑うように視線を泳がす。それはいつもと変わらない。昔は特に気に障った行為ではあったけれど、今はそれどころではなかった。
「あいつは、一体何なんだ?」
「何って?」
「井波隆典」
その名を呟くと、胸に痛みが走って勝手に眉根が寄る。
「いや、その……それは判るんですけど……」
「あいつ、何で俺に執着するわけ? 俺のどこが綺麗なわけ? 一体何がどうなってんだ?」
何か知っているんだろう? とばかりに問いつめたが、和宏は口籠もるばかりだ。
和宏に対してはこういう対応はダメだと俊介は知っていた。だが、今はそれどころではなかった。
「あ、その……」
「なんで、あいつは俺を……」
勢いづいてそこまで言ったのだが、俊介は我に返って口を閉ざした。
危うく余計なことまで和宏に教えるところだった。
「上木さん?」
いきなり口籠もった俊介に、和宏が不審そうに問いかける。
それに首を横に振った。
何を自分は言おうとしているのか?
聞いてどうする?
和宏が隆典のことを疎ましげに思っているのは知っている。想像は想像に過ぎないのだと知っているのだ。
冷静になれ、と理性が言う。だが、頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していて、なかなか収拾がつかなかった。
「上木さん……」
こんな時に呼びかけるなど昔の和宏だったら絶対にしなかったろう。だが、そんな場合ではないと、決心したような声音だった。
「何があったんですか?」
思わず和宏を見つめたが、絡んでしまった視線に気付いて慌てて逸らした。
「その……上木さん?」
訝しげな和宏に、未だ混乱していた頭が勝手に応えていた。
「あいつ、俺のことが好きだって……裸にしようとばっかりするんだよ。プール連れて行かれて、泳ぐだけならいいんだけど、その間ずっと見つめられて……。その後、ホテルに連れ込まれて……裸にされて」
頭に湧いてきた単語がそのまま口になる。
文章になっていないとは思った。
順番もバラバラのような気がした。
主語も文体も変だ。
なのに、止まらなかった。だが、和宏の素っ頓狂な声音にはっと我に返った。
「へっ……ホテル?」
「……あ、いや、その……」
しまった!
さっきまで口走った言葉を慌てて思い返して、絶対に誤解を与えたと気がついた。
かあっと顔が耳朶まで熱くなり、顔が上げられなくなる。
前言撤回しようとしても、ちょうど良い単語がなかなか浮かんでこなかった。
それでも、硬直している和宏に何とか言い訳をしようとしたが。
「その、何もされていない。ほんとに……」
「え?」
舌っ足らずだと判っていても、そんなふうにしか言えなかった。
驚いたような和宏の様子に、俊介のいたたまれなさは最高潮に達した。
「すまん……ちょっと外に出てくるわ。なんかまだ頭が混乱してんだよ」
かろうじて笑みは浮かべることはできた。けれど、何か言いたげな和宏を振り返ることはできなかった。
逃げるように事務所を出て、屋上へと階段を駆け上がる。
三階の踊り場から屋上へと脱して、俊介はずるずるとその場にへたり込んだ。
「ダメだ、ヤバイよ、俺……」
自分が自分でいられない。
忘れなければ……何もかも。
隆典がしてくれたこともしたことも。
俊介自身がしたことも思ったことも全て。
もっとも忘れる事なんて不可能だってことも判っている。だから、記憶をすげ替える。少なくも、この想いだけは消さなくてはいけない。
でないと、自分自身を守れない。
俊介は、呪文のように何度も独り言を繰り返した。
「何でもない。何でもないんだ。あれはただの変態。お偉い芸術家の先生。美味しい物を食べさせてくれる金蔓……」
隆典への想いは気の迷い。
疲れている時に美味しい物を食べさせてくれたから、嬉しくて勘違いしただけ。
……。
だが、呟けば呟くほどに胸が苦しくなる。
眉根がきつく寄せられ、シワが限りなく深くなっていく。
それでも、俊介は呟くのを止めなかった。
「お偉い先生のただの……気まぐれ……」
雲の少ない澄んだ青い空の下、俊介の暗い掠れた声が、いつまでも響いていた。
13
自己防衛のための記憶のすり替えは、思うようにはできなかった。
昼間、会社で仕事中の時はまだ良かった。
和宏をからかい、皆と談笑し、仕事に集中している間は、隆典のことなど考えないからだ。
それでなくても細かい仕事だ。
客先から貰った3D-CADの製品図面から今度は金型の図面を起こし、コンピューター上で樹脂の流れをシミュレートする。流れが悪ければ、再度設計図を見直して、またシミュレート。細かな部品が有ればあるほど、突起物が多ければ多いほどに、樹脂を注入するゲート口の位置が重要になってくる。
もとから集中しないとやってられない仕事だ。
金型ができあがってからでは、その修正は難しい。
だからこそ、図面を睨む俊介は真剣だった。
だから、その間だけは隆典のことは頭から消えていた。
だが。
仕事が終わって、ほっと一息吐く瞬間。
今まで露とも思い浮かべなかった男の顔が、表層に現れる。
自宅での時間は凝り固まった頭の疲れを癒す時であるのに、隆典の事を思い浮かべた途端に別の緊張を強いられた。「あの変態め……」
幾ら毒突いても消えない姿。
実物は追い返せば良かった。
だが、記憶はどう足掻いても消えなくて、実物より激しく俊介を追いつめる。
そんな記憶を植え付けた隆典に怒りすら湧いてきて、にやけてだらしない男の姿に置き換えること数度。だが、記憶はより鮮明になっていて、なおかつ美的フィルターでもかかってしまったかのように、凛々しい姿にしかならない。
男から見ても羨ましいと思う筋肉の付き方。身長差はそんなにないのに、ずっと隆典の方が立派に見えた。
それに先生と呼ばれることに慣れた、威風堂々とした態度もあった。
気が付けば格好良い隆典の姿が脳裏を占めてめて俊介を煽り、いとも簡単に「欲しい」と思わせる。
堪えきれずに溢れそうになるのは、体内に蓄積していく熱だ。
高鳴った心臓と下腹にわだかまる熱は、荒い吐息ぐらいではおとなしくならない。
「ん……くっ」
壁に背を預け、固く目を瞑る。
数時間前まではペンを握っていた指が、脈打つ陰茎を握りしめ、緩く往復していた。
熱い、と思う。
いつもよりはるかに高い熱を持ったそれは、浮いた血管が脈打っているようだった。
「ん……あっ……はぁ……」
男相手に欲情する自身が、どんなに忌まわしいものであるか、理性が必死になって止めようとするけれど、手は別の生きもののように止まらなかった。
一度触れてしまえば、体がもっと先を欲してしまう。
高みを目指して、手が激しくしごき上げる。
先走りの滑りが滑りを良くし、くちゅくちゅと手の中で音がした。表皮のすぐ下で虫が這い回るような疼きが、快感を助長する。いつもより過敏になった神経が、もっと過敏に反応して、脳までをも侵していく。
「やっ……もぅ……」
自分の声とは思えない甘い声。
「あっ……うくぅっ」
全身を硬直させるほどの解放感に、俊介はほおっと熱い息を吐いた。
ぐたりと体が弛緩する。
ずるりと背が滑って、俊介の体は畳の上に転がった。
手のひらに吐き出された白い精がゆっくりと流れ落ちていく。
「多い……みたいだな……」
その様子を眺めて、喉の奥で笑う。
毎日のようにしてしまう自慰。だが、その時に出される精の量は、隆典と知り合う前よりずっと多いような気がした。それは快感もだ。こんなふうに激しく脱力する快感など今まで感じたことがなかった。
なのに。
──欲しい。
餓えたように体が欲する。
吐き出したはずの熱が、まだたくさん体の奥にわだかまっているのだ。
それは日を重ねるごとに激しく大きくなっていく。
「無理なのに」
欲は、隆典に触れられるまで治まらない。
毎夜の欲求に、さすがに俊介は気付いてしまった。だが、それはあまりにも惨めな欲求だ。
この先手に入ることのない相手なのに。
叶えられない欲求をなだめすかし、俊介はいつも一回きりで自慰を終わらせる。その結果熱が隠った体を持てあまし、眠れない夜を過ごすことになるのだ。
もっとも何回やっても本当に欲しいものは手に入らないのだから、一緒のことだ。
いっそのこと、「もう飽きた」などと言ってくれたら諦めもつくのに。
二度と会わないと、忘れてしまって、新しい相手を見つめることも、解決策の一つだ。
ここまで狂おしく欲する相手というのは初めての俊介だったが、それでもいつかは忘れることはできるだろう。
そう思わなければやっていられない。
今の俊介の心の中は、自分をいかに守るかでいっぱいだった。
そうしないと自分が壊れてしまいそうだと思うほどに俊介は煮詰まっていた。
先週まではずっと連絡を取ろうとしていた隆典。
その隆典が、あのホテルの日から一向に姿を現さなかった。それどころか、電話もメールも何も来ない。
握りしめた携帯は、あれから一度も電源を切っていないというのに。
それもこれも、隆典があんなことを言ったからだ。
『今度来る時は電話してから来る』と。
なのに携帯は鳴らない。
待つ時間は長い。
郵便受けが鳴る音、駐車スペースの土を車が鳴らす音──何かの来訪を告げる徴、全てに反応するが、全て隆典とは無縁のモノだった。
沈黙を保ち続ける携帯と同じく、俊介の部屋のチャイムが鳴らされることはなかった。
待ち続けることはひどく疲れる。
「変態……」
苛立たしげに何度呟いたことだろう。
口癖になってしまうほどの呟いた言葉は、そのまま俊介自身にも当てはまっていた。
男に押し倒されたいと願う自身は普通じゃない……。
そう思っているから、柄ではなくても動けない。
動けないから、隆典が先週のように訪れて強引にこの部屋から連れ出してくれることを、望んでしまう。
そんなことを考えることがまた、普通じゃない……。
不意に俊介の口元が弧を描く。
「バッカみてぇ……」
一体、何を期待しているというのか……。
「はぁ……」
深いため息が喉を鳴らし、握りしめていたはずの拳は緩んで目元に強く当てられた。
疲れた……。
いっその事壊れるのも手かなあ……。
理性を捨て、思うがままに隆典を欲することができたら……。
「んで、変態、とか言われてしまって……」
変態という言葉を笑ってかわせるほどに俊介は強くない。
結局、壊れることもできない。
そうしてみると、あの隆典という男は強いということだろう。自分の欲求を抑えつけることなく、生きているのだから。
長い夜が過ぎ、朝が来て、仕事以外は何もできないままに夜が来る。
さらに一週間が過ぎて、また一週間が過ぎて。
まだ肌寒かった夜を一緒に過ごした記憶が、少しずつ薄れる程の時間だ。
それでも、完全には忘れられない。
前のような激しさは薄れたが、体の中に巣くう欲求は確実に存在していて、気が付けば手は止まらない。ただ、行うたびにあった惨めさはもう無くなっていた。機械的に自慰を繰り返し、そうすることで少しでも自分を解放した。
「上木さん、最近痩せました?」
心配そうに問う和宏に、「ダイエット」と笑って答える。
実際似たようなモノだった。もっとも、したくてしているわけではないけれど。
ただ、いつも食べていた筈のコンビニ弁当が不味くてしようがないだけだ。かと言って、他の店に買いに行く気力もない。
隆典と行ったうどん屋は、美味しかった。そんな事を思い出して食べに行ったけれど、実際はそんなことはなかった。それに少し遠かったせいもあって、もうそれっきりだ。
結局、俊介が美味しいと思えたものは一つだけ、栄養補助食品だ。──いつか隆典が持ってきたスティック状のクッキータイプ。一袋で一日の半分の栄養素が補える食品ではあるが、朝と夜がそれでは体重も落ちるのも当然だった。
「無理すると体に悪いですよ」
和宏が心配そうに顔を歪めるほどに俊介の体重は落ちていた。
ますます隆典の体格からはかけ離れていく自分がいる。
見下ろした体にあるのは痩せこけた体に、不快な羽音を立てる虫がつけた痒みのある赤い痕。
こんな肌でも綺麗だと思うのだろうか?
綺麗だと褒め称えてくれた隆典の嬉しそうな顔が脳裏に浮かぶ。
忘れることは諦めた。
忘れることなどできやしない。
こんな激しい思いは、一生の内で一度か二度しかしないだろう。そんな感情を、容易く忘れる事なんてできない。
けれど、諦めることはできる。
たった二週間の逢瀬は楽しかった。
ドアを介しての無言での遣り取りも今となっては楽しい思い出だ。
けれど、そんな非日常的な事はもう起きない。
今はもうゆっくりと普通の生活を取り戻して、それでもいつかは記憶はもっと薄れていくだろう。
食事も、少しずつコンビニ弁当も取り入れて、ちゃんと取るように心がけて。
これじゃ、あんまり、だよな。
恋にとち狂った男──そのまま。あんまりにも情けないと苦笑して、隆典はゆっくりと首を振った。
とりあえず、元に戻ろう。
脆く崩れた護りの壁をもう一度元の厚さまで作り上げようと、俊介は一つずつ意識を変えていった。
生活も食事も、隆典に会う以前の状態に戻すのも、その手段の一つだ。
そして、ゆっくりと隆典を忘れていく。
前に戻ること。
そのことだけを心がけている内に、なんとか体重の低下が止まった。
グラフにすれば下降し続けていた線が上昇に転じた瞬間だ。その日は、隆典の連絡が途絶えた日から実に一ヶ月半が経過していた。
14
最近の俊介は、会社の倉庫で秤に乗るのが日課になっていた。今日も朝一のゴミ捨てついでに、こっちに寄ってみたところだ。
フォークリフト用のパレットが載る秤は、サイズは大きいが小数点以下一桁までしっかりと測れる。
「……増えてるなあ……」
一ヶ月半で落ちた体重は、もう元に戻っていた。というより、この戻り方はリバウンドに近いだろう。
僅か二週間で元の数値に切迫している。
「これ……ヤバイかも」
運動していない体に蓄積されているのは、絶対に脂肪だ。
痩せぎすの体も男としては嫌だが、たるんと弛んだ体になりたい訳ではない。
食べていると言っても、何故か湧かない食欲のせいで量は減っているというのに。思い当たる節があるとすれば、増えたアルコール量だろう。
暑くなったせいもあって、ビールの消費が早いのは自覚していた。
もっとも、飲むのはそれだけが理由ではない。
「飲まないでいられるかなあ……」
自嘲に歪んだ口元からため息ともつかぬ息が零れる。
食べなければならないという強迫観念にも似た意識で食べている食事は、相変わらず美味しくない。そんな食事はちっとも楽しくなくて、いつもビールで流し込むように食べていた。
秤の上でじっと表示を睨み付ける。
あと1キロほど。
前の体重までそれだけ。だが、元の体型に戻っていない証拠にウエストが先にきつくなってきていた。
増えた脂肪は確実に腹回りにだけ蓄積されていた。
「あれ、こんなところに」
背後からいきなり声をかけられて、俊介は慌てて飛び降りた。
「どうしたんです? 太ったんですか?」
くすくすと堪えきれない笑みを零し窺うのは、よりによって一番会いたくない相手だった。
「上木さん、この前まですっごく痩せているって、和宏が心配していたんだけど、最近は丸みが戻ってきたというか……」
遠回しの言い方でも、揶揄しているのがはっきりと判って、俊介はじろりとその男──井波英典を睨み付けた。
製造部門に所属している英典は、俊介にとっては天敵に近い。
設計技術側の要望と製造側の要望が食い違った時に、互いに角突き合わせる存在となるのが常だからだ。そして、俊介も英典もどちらも引かない。
俊介にしてみれば、英典側の要望を通すことは、自分の負けを認めること。それはとりもなおさず、自分の地位を危うくするのだ。
一度転落すれば、さらにいい様に押し切られてもっと立場は悪くなる。
設計技術の人間にとって、それは絶対に避けなければならないことだった。
会社のため、と言うよりは、プライドを守るための意地にも近い。学歴の差、技術力の差──負けないと思っているからこそのプライドだ。
それに、トンビに油揚げをさらわれたように、和宏を取られた、という思いもあった。
あの時はどんなにか悔しかっただろう。
「うるせえよ、お前に心配される筋合いはないね」
しかも、この男はあの隆典の弟なのだ。
自分を護る壁に塗り込めたはずの思いは、未だ完全に消えてはない。まだ壁の表面から抜け出そうと喘いで、俊介に悪夢を見させる。
それもこれも、英典経由で隆典に出会ったせいで。
英典は、睨み付ける俊介をさらりと交わし、持ってきた荷物をパレット上に載せていた。
小柄な英典は、体格と言うだけでは隆典とは似ても似つかない。
きつい顔つきに少しだけ面影が有ると言えば有るのだろう。
それでも、似ていない兄弟だ。
重たい荷物を下ろして、ほっと一息吐いた英典が、ニヤリと笑みながら俊介を見上げた。
「別に心配なんかしてねえよ、でもなあ、和宏が心配するんだよ。それにあんたが倒れたら、和宏の仕事が忙しくなるじゃんか」
「倒れるか、これしきで。もっとも八木が心配してくれるなら病気になるのも悪くないね。八木なら、誠心誠意看病してくれそうだしな」
頼めば嫌とは言わないだろう。
それも良いかも、とにまにまと頬を緩ませた。だが、英典のきつい視線に気付く。
「何だよ……」
のろい殺しそうな程に憎悪に満ちた視線だった。ぞくりと悪寒が走って、思わず後ずさっていた。
「和宏を巻き込んだら、許さねえ」
「別に手を出す訳じゃねえんだし、良いだろうが」
「手なんか出されて堪るかっ!」
もとより英典が短気なことは重々承知している。揶揄交じりの言葉に乗った英典の怒りも露わな様子に、内心ほっと安堵していた。少なくともこの手の表情は見慣れている。怖いとは思わないからだ。
だが、息巻いていた英典の方がすうっと下がった。
大仰なほどにため息を吐いて、用は済んだとばかりに持ってきた台車に手を掛けている。
「何だ、もう終わりか?」
いつもの英典なら、もっと応酬が有るはずなのに。だが、英典は一瞬睨み返しただけ。
その態度に俊介は気が抜けた。
「……なんだ?」
「和宏があんたと喧嘩しないでくれって言うからな。とりあえず、この辺で止めといてやる」
言葉の割には横柄な態度だった。
刹那、怒りが湧き起こったが、さっさと背を向けた英典にかける言葉は出なかった。というより応酬する気力が湧かない。
どこかで安堵している自分に面喰らいはしたが、それだけだ。
「おもしろくねえ……」
やけに空虚に響いた自分の言葉が何に対してのものなのか、俊介自身惑うていた。
「あんたさ……」
それは掛けられた英典にしても、そうなのだろう。
訝しげな瞳が俊介を捉えていた。
「やっぱ、変」
しみじみと言われて、絶句して。
「でも、兄さんはもっと変なんだよな……」
ぽつりと言われたそのひと言に、瞠目した。だが、何も返せない間に、英典は通路の向こうに消えていく。
「……あいつが変なのは、いつものことだろう」
ようようにして呟いた時には、その言葉は誰にも届かなかった。
「あのやろうっ」
刻が経つにつれて、怒りが増してきた。
なんであんな野郎にあんな事を言われなくてはならないのか。
沸騰寸前の怒りを蓄え、俊介は足音も荒々しく事務所へと戻った。
怒りのはけ口を欲して辺りを見渡すが、俊介の怒りをぶつけられる類の物はなく、唯一ドアだけが犠牲になって、悲鳴を上げた。
だがそれだけでは怒りは消えない。
苛々と机に近づき座ろうとして。
「何だよ、これっ」
机の上にどんと置かれた紙袋に気が付いた。
中を覗けば、四角い物が入っていた。茶色の平な紐で括られた、和紙に包まれた箱だ。
そこに刻まれた単語に気が付いて、俊介の眉間に深いシワが刻まれた。
『備前焼 陶苑山』
「これは……」
体の芯が震えた。呆然と立ちつくし、袋を凝視する。
まさか、と口の中で呟いたのと、隣席の和宏が恐る恐ると言った風で話しかけてきたのが同時だった。
「あの、それ、その……さっき英典が預かってきたからって置いていって。隆典さんから……」
「何で?」
何故そこに隆典の名が出てくるというのか?
もう一ヶ月以上も音沙汰の無かった元凶が、だ。
「あの……」
思わず睨み付けてしまった和宏が口籠もっている。視線を泳がせ、何を言おうか惑うているところは、昔の和宏と変わりなくて、無性に苛々した。
「何だよ、早く言えよ」
つい机を叩けば、ひっと身を竦ませる。
強くなったとは思ったが、やはり根底は変わらない。そんな和宏の様子に、俊介は少しだけ溜飲が下がった。
「ああ──、えーと、何だってんだ?」
声音を和らげ、返答を促す。混乱した思考を落ち着かせる時間を待ってやる。
「その……、それ、隆典さんが作ったもので、それで、上木さんに渡して欲しいって言われて……その今日誕生日だから……って」
あの男が?
言われて慌ててカレンダーを見やった。日を確認して、月を確認して。
ああ、そういえば、と思い出す。そして、再度中の箱を窺った。
あの男が手ずから作ったもの。
胸の奥にわだかまる何かが、むくりと起きあがろうとする。冷たくて、澱んだ中から現れそうになる暖かな塊。
だが、と俊介は口元を歪めた。
「何で?」
「は?」
「だから、何で俺があいつからこんなもん届けて貰わなきゃならないんだ?」
沸々と怒りが込み上げてくる。
一ヶ月も姿を現さなかった男のくせに。
「あの、だから誕生日プレゼントだそうです」
プレゼント? これが?
視線が紙袋の中に向けられ、ついで和宏に向けられ、そしてまた戻る。
隆典が作った物──というのであれば、備前焼の何かだろう。
まあ、店に行けば隆典が作った物など並んでいるから、その中の一品なんだろうけど。
胸の奥の暖かな塊が迫り上がってくる。ウキウキと弾むように護りの壁を叩く。『外に出せよ』と騒いでいる。
その衝撃で壁がぼろぼろと突き崩れかけていた。
だが──思い出してしまった。
期待してしまった日々の情けなさを。
また期待して、報われる保証はない。現に、ここに隆典はいない。
「井波が持って来たって?」
さらに低くなった声音に、和宏が椅子ごと後退していく。
「あの……た、頼まれて……昨日から、隆典さん東京なんです、それで……誕生日に持って来れなくて」
「東京?」
「展覧会があって。隆典さん行かなきゃ行けなくなって。えっと、そこに出品してて賞を貰って……で」
慌てると要領を得なくなる和宏の言葉を組み立て直して、だいたいの事情は飲み込めた。
「ようは誕生日に渡してくれ、と頼まれた訳だ」
紙袋の紐を握って、揺さぶってみる。
別にリボンがかかった物が欲しいなんて少女趣味をしているわけじゃない。
だが、何故か誕生日プレゼントだと思えなかった。
店にあった何かを適当に包んできただけのような、正方形に近い箱。
包装もきっと店の物だろう。
「こんなもん……いらねえよ」
袋を和宏に突き付けて、ぶっきらぼうに言い放つ。
「え、でも……」
「貰う理由なんかねえって、あいつに言っとけ。だいたい俺は焼き物なんか興味ねえしな」
ぼろぼろと崩れかけた壁が、崩壊寸前で形を保っていた。
沸々と湧いてくる怒りが、接着剤の如く壁に染みこんで強固にしていく。
「さんざん人を振り回しといて……侘びのつもりなら、自分で持ってこいっていうんだっ!」
悦びを凌駕する怒りが、今の俊介の行動の全てだった。
「それもできねえ奴なんか知るもんかっ!」
罵声が関係ないはずの和宏に向かうのを止められなかった。
「で、でも……」
差し出した紙袋を取ろうとしない和宏に焦れて、どんと机の上に放り出す。
「わっ、あっ」
割れたと思ったのか慌てて中の様子を窺っている和宏を無視して、俊介は事務所を足早に出て行った。
荒れ狂う怒りのせいで、とても仕事をする気分にはなれない。
それに、和宏に対しての申し訳なさも少しはあって、今更戻る気にもなれなかった。
ふらふらと工場の中を彷徨い、誰もいない会議室に落ち着く。
部屋に設置された端末で、部屋の予約を確認して一日空いている事が判ると、すぐにキープした。
「……ふざけんな……」
部屋を取ったからと言っても、何をするでもない。
ただぐたりと椅子に体を投げ出して、俊介は天井を仰いでいた。
「一ヶ月以上も放っといたクセに。こっちは忘れようとしてんのに」
それすらも嘲笑うように今頃のこのこと現れて。
訳の判らない奴は行動パターンまで読めやしない。
俯いた俊介から深いため息が零れる。
その横顔は、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいた。
15
あれから和宏はあの預かり物を持ってこなかった。
何も言わないし、こちらからも何も聞かない。俊介も気にならないと言えば嘘になるが、持ってこられてもあんな啖呵を切った以上、受け取るわけにはいかない。
胸の奥深く押し込めた葛藤がまた一回り大きくなって、常に重苦しさがつきまとう。その苦しさから意識を逸らすように、俊介は淡々と仕事をこなし、日々を過ごしていた。
今日もそんな一日を過ごして、真っ暗な我が家に帰り着いた。
時計を見やって、10時も過ぎようかという時刻にため息を零した。
何故かすっかり身に付いてしまった残業も、そろそろ時間的に限界がきている。早く帰れという部長達からのお小言もいい加減聞き飽きた。
けれど帰らなければ、と思うと、他の仕事を思い出す。
別に急ぎではないのに、手を出してしまうのだ。
帰り着いたら、もう疲れ切っていて、ぼんやりと時間を過ごして。
いつの間にか食べて、お風呂に入って、寝る。ということを機械的に繰り返していた。
今も部屋の中でテレビだけが喋っている。
賑やかな音楽、派手な色遣い。
見るとも無しに見ている俊介の手にあるのはビールの缶だ。
安売りで買ってきた箱は、一週間で半分を切っていた。
量が多すぎると自覚はしていても、誕生日を境にまた増えてしまった。
ごくりと喉が動く。苦みが舌に広がって、暑さに晒された体が中から冷えていく。だが、前は美味しかったビールなのに、今は何も感じられない。幾ら飲んでも、アルコールがもたらす酩酊感はやってこなかった。
量を飲んだせいか尿意を感じて、面倒くさげに立ち上がる。
足を踏ん張った途端に、視界が急速に狭まった。
「っ……」
息を飲み、必死でバランスを取る。
膝に手をついて、荒い息を吐いて、ぎゅっと目を瞑った。
栄養が足りていないのだ。
ここのところ頻繁に起こる立ちくらみはどんどん酷くなっていた。
だが、俊介の中には、自分が不調なのだという認識すらない。
またか、と思って、それだけで終わる。
ふらふらと、足下だけが十分な酔いを教えているのに、それすらも自覚はなかった。
『ぎゃはっはっはっ!』
テレビの中で下品な笑い声が響いた。
ふっと振り返った時、画面の中に場違いな着物姿の男が見えた。
壮年の域に達したその男は、若い子達の中で困ったような苦笑を浮かべている。
その男に、俊介の視線が固定された。
脳の奥底で、その顔が別の誰かにすげかえられる。
「た……」
口が単語を言いかけた。
だが。
きゅっとその口元が引き結ばれ、眉間に深いシワが刻まれる。
たった今、頭の中に浮かんだ映像と記憶を、俊介は海馬の奥深くに押し込んで、踵を返した。
トイレに行きたかったんだ、と当初の目的を思い出して、俊介はぼんやりと部屋の中を動いた。
ふっと、どこかで軽やかなメロディが鳴っているのに気が付いた。
どこかで聞いた音楽だが、思い出せない。僅かに首を傾げた俊介だが、すぐには思いつかなくて。それもきっとテレビの中からしているのだろう、と思って、振り返ることはしなかった。
水を流す音が近いはずなのに、遠く響く。
動いたせいで体の怠さが増していた。
ふらふらとドアを抜け、部屋に戻ろうとして、壁にぐたりと寄りかかった。
怠い……。
心地よい酩酊感は訪れないのに、怠さと睡魔がどんどんと押し寄せてくる。
もう布団に向かう気力すら無かった。
ずるずるとフローリングの床に崩れ落ちる。
「あーあ」
熱いため息を零して、目を瞑れば、あっという間に暗闇の世界に引きずり込まれる。
──こんなとこで寝たら、体が痛くなる──と、一瞬だけは思ったけど。
どこからともなくし始めた鐘の音が、寝るなと警告していた。うるさい音はどんどん酷くなる。けれど、そんなものに睡魔は負けなかった。
「ん……」
こてんと床に上半身まで崩れる。
と、同時に、玄関のドアが開いたが、俊介は気付いていなかった。
「何、してる?」
訝しげな声音が、ほぼ全身を沈ませた闇の中に響く。ひんやりとした空気が流れて、火照った体に心地よかった。
「おーい?」
声は灯りを伴っていた。闇に慣れた瞳に、その灯りは辛い。しかも灯りはすぐに視界いっぱいになって、俊介を苛んだ。
声以上に鬱陶しくて、うなり声と共に訴えた。
「ねむ……んだ」
「そんなところで寝たら、風邪ひく」
「あつぃもん……」
体が熱い。
こんなに熱いのに、風邪なんか引くはずねえよ。
そう訴えて、そろそろと逃げようとしている睡魔の端っこに縋り付く。眠ることは気持ちよい。眠ってしまえば、何も考えなくて済むのだから。
なのに。
「ダメだよ。寝るなら、布団にはいろ? 敷くから」
優しい声音が響いて、体の下に腕が入ってくる。すぐに強い力で引き上げられる感触に、思わず手近な物に縋り付いて。
「ああ、暴れないで」
耳朶に直接吹き込まれるような声。途端に、激しい既視感を感じて、ひくりと全身が引きつった。
まさか──と、縋った服地を強く掴む。
「そう、そう、しっかり掴まってて」
俊介の動揺など意に介さずに発せられたのは聞いたことのある声音。そして目の前の体から漂う微かな匂い。何より、この体勢。
成人男子としては人並みの俊介を、こんなふうに軽々と抱き上げる相手など、一人しか知らない。
見開いた視界いっぱいの白から視線を動かして、至近距離の存在を確認した。
「……たか……の…り?」
震える声音で問えば、ん? と首を傾げた顔が俊介に向けられた。
間違いない。
忘れようとして、決して忘れることなどできなかった顔を、見間違えるはずもない。
「一時期痩せてたって聞いたけど、戻っているみたいだね」
嬉しそうな声音も前と変わらない。
「けど……凄いね、このビールの量……。こんなに飲んだら、体に悪いよ」
何が起こったか判らぬままに見つめていた先で笑みが消えて、部屋の中を見渡された。
隆典が動いた拍子に、空き缶が転がる音がする。机から落ちたのかコンと弾む音がして、ついでカツンとぶつかる音がした。
その一連の音を、俊介は隆典を見つめたまま聞いていた。
「何で……」
呆けた頭では、今の状況がはっきりしない。
さっきまでここには俊介自身しかいなかったのに。
隆典の存在など、記憶の片隅にしか存在しなかったのに。
「何で、ここに?」
震える声で、目の前の男に理由を問う。
なのに、隆典はあっけらかんと言い切った。
「上木さんに会いたかったから」
前と同じ理由。
あの時は、この部屋の玄関のドアの前だった。
「何で?」
でも、あの時はその答えはなかったけど。
「上木さんにプレゼントを渡すために。受け取ってくれなかったから」
「……プレゼント?」
何のことだろう、と視線を泳がせて考える。
その間に、隆典は俊介の体を和室の片隅に下ろした。
布団は敷いてあったが、万年床に近い。離れた隆典が、その布団を敷き直すのを、ぼんやりと見つめた。
その間に、少しずつ状況が把握でき始めた。
そういえば、鍵を掛けた記憶がない。
というより、ここ数日寝る前の鍵掛けなどとんと忘れていた。
となるとこいつは不法侵入者で……。
まさか、ずっと放っておいたのは、こっちが油断するのを待っていたせい、か?
そんな結論に至った途端に、かあっと頭に血が上った。
そんな理由で放置されたのだとしたら、許せない。
あんなにも悩んだのがバカみたいじゃないかっ!
制御できない感情が俊介を支配した。
「帰れっ!」
壁づたいに立ち上がり、隆典を睨み付ける。
思うように動かない体が口惜しいが、今はそれに構っている暇はなかった。
布団と格闘していた隆典が、俊介の剣幕に驚いて目を見開いた。
「勝手に入ってくるなんて失礼にも程があるだろうっ! さっさと帰れっ!」
二度と──二度と会わないと決めた。
それをこんなにも簡単に覆してくれた男が、憎くて堪らなかった。
しかも、自分は関係ないというようにひょうひょうとしている。
「一ヶ月以上も音沙汰無かったクセに、今頃のこのこと現れるんじゃねーよっ」
その間、減って戻った体重と増えた飲酒の量。
それらも全て隆典のせいなのに。
玄関へと指さした拍子に、上がりかまちにおかれた紙袋に気が付いた。
見覚えのあるそれに、隆典の『プレゼント』の意味を知った。
「プ、プレゼントなんて、貰ったってっ」
「貰ったって……?」
不意に、押し黙って俊介の激高を受けていた隆典がぽつりと問い返してきた。
その問いは唐突で、断ち切られた言葉の先がすぐに出てこなくなる。
「だ、だから……プレゼントだけ貰ったって……。そんな……の……」
「そんなの?」
静かな声音が、俊介の感情を沈静化させていく。
問いかけられ、考え答えようとすることで、意識が怒りから外れていくのだ。
「貰ったって……しょうがないし……」
「俺が作ったものだけど……それでも?」
淡々と言われた。
視線は俊介から外れない。その痛いほどに真剣な瞳の意味は何なのだろうか?
肉食獣に睨まれた草食獣の恐怖が、今俊介を襲っていた。
逃げなければ、と思うのだが、体が動かない。
「これは、上木さんのために作ったんだ。上木さんがいらないのなら、意味が無いものになる」
自分だけの、自分だけのために作られた物。
隆典が行った言葉はそういう意味だ。
それを理解した途端、上木は思わず例の紙袋を凝視していた。
「俺だけ……?」
あの時、店に並んでいる一品だと思った。
贈り物なのに、本人は来なくて、人づてで渡された。
だから……いらないって思った。
「自分で持ってこいって言ったんだって? だから、自分で持ってきたよ」
いつの間にか、視界を隆典が遮った。
紙袋を手に戻ってくる。
紙袋を俊介のすぐ前でおろし、中から両手で大切そうに箱を取り出した。
「前に携帯に連絡を入れてから来るって言ったから、来る前に一度電話したんだけど出なかったんだ。だけど、どうしても渡したかったから、来てみたら……中は煌々と灯りがついているのに、チャイムを鳴らしても出てこないし──ってそれは、いつものことだな。で、試しにドアを開けようとしたら、簡単に開いて驚いた」
その手が箱の紐を解き、包装紙を取り外していく。
「でも、もっと驚いたのは、あんなところで上木さんが倒れていたから。一度調子が悪い時があったって聞いていたから、またぶり返したのかと思って……。でもすぐに寝ているだけだと気が付いたけど……」
それで……。
ようやく隆典が不意に現れた理由が判った。
携帯が鳴った記憶も、チャイムが鳴った記憶もなかったが、あんなところで寝ようとしたくらいだから、相当酔っていたのだろう。となると記憶にないのも道理だと、俊介は情けなく口をへの字に曲げていた。
油断したのは自分なのだ。
「これ、ね、上木さんに渡すために、必死になって作ったんだ。今までの俺の技量全て込めて。一分のミスもないように細心の注意を払って。作り上げるのに──釜出しまで一ヶ月以上かかってね……」
「え……?」
一ヶ月?
「ああ、形を作った後に乾燥するんだけど、その間も作り続けたな。まだもっと──と思ってさ。今回はさ、とにかく忘れないうちに、と思って、すぐに作業に入ったしなあ。そうしたら、困ったことに、なかなか気に入る物ができなかったんだよ。工房に閉じこもって、何度でもやり直して。食事すら疎かにしていたら、思いっきり両親に怒られたぐらいだ。今度は、特に酷かったって、しみじみ言われたし」
今度は……特に酷かった……って?
「もう悪いクセだね。それで、友人とか恋人とか離れた奴も多いよ。いきなり付き合いが悪くなるんだもんな」
「……一ヶ月ずっと?」
それはもしかして……。
「あれ? そのこと、上木さんには言ってなかった?」
驚いたように、隆典が俊介を凝視する。
「聞いてねえよ」
そんな事ひと言も。
だったら、あの悶々としていた一ヶ月の間、隆典はひたすらこれを作っていたというのだろうか?
俊介に渡す──俊介のためだけの物を。
じわじわと込み上げる熱い塊を堪えるように俊介は俯いた。その様に、隆典が眉根を寄せて窺うように覗き込む。
「……すまないことをしたな……」
殊勝な態度を取られては、強く返すこともできない。それどころか、何故こんなにも恥ずかしいと思うのだろう?
「別にどうってことねぇよ」
聞いてしまえば、こいつならあり得ると思ってしまう理由で。そんな相手に悶々としていた時のことなど、言えるわけがない。
一体、何だったのだろう……この一ヶ月半の思いは。
あまりにもバカらしくて、泣きたいほどに悔しい。
だがそれが隆典なんだということも理解できてしまうと、なんだか感情的になるのもバカらしくなって、俊介は深いため息を吐いた。
「申し訳なかったよ。でもその時に井波隆陶の最高傑作ができたんだ。絶対に上木さんにあげようと思って。見てよ」
隆典の手が和紙でできた包装紙を解き、中から桐の箱が出てきた。
それも今度は布地の紐が掛かっている。桐の箱は、15cm四方程の大きさだ。蓋の部分には墨で書かれた文字があったが、達筆すぎてすぐに理解できない。
だが。
よく見れば、箱の蓋の右上。括弧書きの中に「俊」の文字が見えた。
その箱を縛る布地の紐も解かれて、なおいっそうはっきりと文字が判った。
隆典の手が蓋にかかる。
「作品銘は『俊』。俺は今まで銘なんて付けたことがなかったけど、これだけはって思ってね。なんせこれは、上木さんを思って、上木さんのために作ったから。これ以上の銘は無いって思ったし」
カタッと軽い音を立てて、蓋が外れて。
両手を差し込んだ隆典が文字通り壊れ物を扱うように出してきたそれは、優美な曲線を描く茶碗だった。
16
隆典の手にすっぽりと収まる茶碗は、白っぽい地肌から緋色の流れるような紋様までが斜めにグラデーションになっていた。
釉薬を使わない焼き締めの備前焼は、窯変が鮮やかに現れる。
その程度しか知識のない俊介にとって、それがどの程度の物かは判らなかった。だが、隆典自身が最高傑作だと言うなら、そうなのだろう。
新進気鋭の若手作家。
父である井波陶苑を凌ぐほどの男なのだから。
「それを……?」
「上木さん以外の誰にも渡さない」
きっぱりと言い切られ、差し出されるがままに、両手で受け取った。
土の質感が手のひらに馴染む。
穏やかで、ゆったりとしたフォルム。
茶席用の茶碗だろうか。記憶にある形状と照らし合わせて、そうだろうな、と思う。
だが、とてもこの隆典が作ったとは思えない。
無骨さすらある力強さの中に、もの凄く繊細さを感じた。
「思うような模様がつくか、色合いがちゃんとなるか、焼き上がるまでずっと心配だったけどね。灰を落として綺麗にしたのを見た時、どんなにほっとしたことか」
表情にはまるで我が子でも前にしたような、そんな優しさが満ちていた。
「上木さんに渡すものだと思うと、誰にも任せられなかったよ。釜焚きの時も、ほんと目が離せなくて」
「え……だが、釜焚きは何日も続くって……」
薪をくべて、何日も焼き続けるその間、まさか──。
「うん、ほとんど自分でやった。どうしても休憩がいる時は、父さんか、英典と和宏くんかに任せて。それ以外の人間には任せられなかった」
「か、ずひろ……くん?」
何故そこで彼の名前が出るのか?
堪らずに問えば、返ってきたのは自嘲すら感じられる笑みだった。
「……あの二人なら言ったことを完璧にこなしてくれるからな。見本が有ればそれと同じ物を、教えれば瞬く間に自分の物にして、なおかつそれ以上の物も作れる。並の腕じゃないんだよ。英典はずっと備前焼の中で暮らしていたから判るけど、和宏くんなんか、最近入ってきたばかりだというのに。俺にしてみれば、あいつらの方がよっぽど天才なんだって思うんだよな」
その言葉を否定しようとして。
けれど、適当な言葉を出すことはできなかった。
閃きが必要な天才ではないけれど、それ以外は持っている人達。確かに和宏も、そしてあの英典も、言われてみれば、そういう類の人達だ。
持っている知識も仕事をこなす力も彼らには負けてはいない。
だが、認めたくはなかったが、追い越されるという恐怖はいつもあった。
「悔しいか?」
思わず問うていた。
自分の先を行こうとする和宏を認めたくなかった頃、支配していたのは、そんな感情。
「ん……そうだな。悔しい」
同じ思い何だと知った途端、胸中に込み上げるのは悦びだった。
この男と、同じ思いができるのが嬉しくて堪らない。
手の中の茶碗をぎゅっと包み込む。
──翻弄され続けてきた。
──ストーカーだと思った。変態だと思った。
──会いたくない時ばかり来て、けれど会いたい時には来てくれなかった。
──そのせいで痩せて、酒浸りになってしまうほどに落ち込んだ。
──自分勝手で、バカばっかり言って。
けど。
「ありがとう」
俊介のためだけに。
俊介の事だけを思って作ったもの。
その言葉に、完璧に参った。
今までされたことが、無に帰すほどに嬉しかった。
「受け取ってくれるか?」
嬉しそうな声に、改めて羞恥が襲う。頬が熱くなり、顔が上げられない。
俊介は茶碗を凝視したまま、頷いた。
「……持ってきてくれたからな」
受け取らなかった理由を使って、気持ちを誤魔化して。
嬉しいなんて、素直には言えなかったのが口惜しい。だが、言えるものではなかった。
「井波隆陶の最高傑作を貰えるなんて、俺だけだよな」
誤魔化すように言った言葉は、そんなバカな物で。だが、隆典はしごく真面目に返した。
「もちろん。この後出てくる最高傑作も全て、まずは上木さんに渡すよ。それをどうするかは上木さん次第。売り飛ばしても、質に入れても、何しても、俺は嬉しい。上木さんがやることなら、ね」
とんでもない言葉だった。
「お、俺に渡すのかよ、マジで?」
「ん。俺はほんとは作れれば良い。家のことがあるから、売ってはいるけど……実を言うと、あんな高い値段付けなくてもって思うことがあるから。だから、上木さんがやりたいようにしてくれれば良いから。それだって」
俊介の手の中の茶碗を見下ろして、笑う。
「気に入らなくなったら、捨ててくれても、売り飛ばしても、良いよ。上木さんがしたいならね」
「そんなこと……」
できない、と言いかけて慌てて口を噤んだ。
「……少なくとも捨てやしねえよ。井波隆陶の最高傑作をな」
捨てはしないだろう──そして売りもしないだろう。
飾るような場所なんてない部屋だが、きっといつまでもこの部屋のどこかに有り続けるだろう。
この思いが消えない限り。
「良かった」
心底安堵したような声音に顔を上げれば、隆典が嬉しそうに笑っていた。
「な、何?」
可愛い、と思ってしまった。途端に高鳴る胸を抱え込んだ茶碗で押さえる。
けれど、表に出た動揺は隠せない。そんな俊介に気付いている様子もない隆典が、しみじみと言葉を続けた。
「受け取って貰えなかったら、どうしようかって思った。せっかくできあがったのを速攻で持ってこようとしたのに、綺麗に焼き上がったのを見届けた途端に、ぶっ倒れてさ。ベッドに括り付けられて点滴だもんな。お陰で、動けないし。ようやっと治ったと思ったら、今度は東京の展示会に行かなきゃなんなくてさ、もう待ったなし。行ったら行ったで、出展した花器が賞貰ったとかで、あちこち連れ回されて帰れなくなるし。その間に上木さんが受け取ってくれないって連絡を受けて……」
「点滴って?」
目を剥いて、言葉を遮った。
「倒れたって?」
そんな事、知らなかった。
作り続けていたというのは今さっき知ったけれど。
「ああ。夢中になるとさ、さっきも行ったけど食事が億劫になるんだよね。上木さんもさあ、そういうこと無い?」
「な、無いっ!……ことも無いけど」
夢中になったわけではないが、隆典のことを悩んで食べなかった時のことを思い出し、言葉尻が小さくなった。けれど、あれとそれとは別だ。
「俺は、点滴するほどになったことはないし」
「でも、痩せてたって?」
情報源が誰かなんてすぐに判って、臍を噛む。
懲らしめてやる、などと心の中で毒突いた時、ふわりと手の中の茶碗の重みが消えた。
「食べていないようだって聞いて、何とかしたいって思った。けれどそう思っても、すぐに手の中の粘土の方に気を取られるんだ。あと少し、というところで、一気に仕上げたくて。今度会う時には、どうしても持って行きたくて。そうこうするうちに、落ち着いたみたいだって聞いて、ほっとした。そうしたら、もう他のことが目に入らなくなって──こんなんだから、すぐに振られるんだよな」
自嘲めいた言葉がらしくなくて、くすりと笑みが零れた。
「別に気にかけて貰うようなことはなかったし」
「でも、顔色が良くない。それにこんなに飲んでんだろう? 体にも悪い」
茶碗を抱えていない方の手が伸びて、一瞬頬に触れた。が、その手がすぐに引っ込む。
「ああ、すまん。触っちまった」
名残惜しげにその手を見つめる隆典に、俊介はホテルでの記憶が呼び覚まされた。
「……触って良いって言わない限り、触らないのか?」
見たいと言うからさらけ出したあの時。
けれど、彼の手は触れては来なかった。
「触ると嫌われる、と思うと、触れない」
「俺に嫌われるのがそんなに嫌だって事か?」
一度は諦めた。
自分は綺麗なんかじゃないから、離れていったのだと思った。
「ああ、嫌だ。それに、触ると抑制が利かなくなるような気がして」
「抑制?」
「……一カ所触り始めると、あちこち全部触りたくなる。なんつうか……上木さんって、ヤバイくらいに綺麗で、俺の性欲をくすぐるんだよ。──いや、俺ってマジで変態なんだなって、あのホテルん時、はっきりと自覚した」
くすくすと笑いながらその手を見つめる隆典は、なんだか寂しそうだ。
「あのまま見続けて、なおかつ触っていたら、上木さん、もう俺には会ってくれなかったかも。酷いことする自覚あったからね」
では、あの時、隆典も確かに欲情してくれていたのだ。
俊介が欲情したように隆典も。
ああ、それに気付いていたら、あんなにも落ちこまなかったのに。悔しくて、つい憎まれ口が飛び出した。
「男の尻に欲情するなんて、十分変態だよ」
「……はっきり言うね」
わざとらしい傷ついた表情に、笑いかける。
「触りたいっていうけどな、俺なんか綺麗じゃないし」
「綺麗だって、それは間違いない」
「どこが?」
「全部。肌も、色も、髪も、顔も、表情も、体も……全部」
そこに心がないと思うのは気のせいだろうか?
そんなことに単純にもほっとした。
「嘘吐け」
「嘘じゃないさ」
きっぱりと言い切られて、その真剣な瞳に息を飲む。
少なくとも体は隆典の方が綺麗だ。さらに貧弱さが増した俊介とは比べものにならない。
顔も、女受けするのは隆典の方だろう。
「もし……」
いつかは飽きてしまうだろうけど。
そんなことになったら、自分はどうなるのだろう? 離れていったと思っただけで、あんなにも腑抜けになったというのに。立ち直ることができるのだろうか?
けど……。
それはまた先のことで……。
「もし、俺が触って良いって言ったら?」
「え?」
どんなに考えても不安はきっと消えやしない。ただ隆典が目移りするようなモノが現れないことを祈るだけ。
今は綺麗だとは思えない自身でも、隆典が綺麗だというならば、その綺麗な全てを差し出しても引き留めたい。
ぼろぼろと、心に作り上げた壁が崩れていく。あれだけ強固に作ろうした壁が、まるで砂のように。
「頬……とかだけでなくて、全部。──全部触って良いって言ったら?」
絡んだ視線から、隆典の驚愕が伝わってくる。
ああ、綺麗な瞳をしている。
純粋な子供の瞳にも似た──けれど、奥にあるどう猛な炎。
自分を見つめるその瞳に、いつしか魅入られていたのかも知れない。
「上木さん、本気?」
「本気じゃなかったら──こんなこと言いやしない、変態相手にさ」
その変態を欲しがる自分の方がよっぽど変態だ。
視線を逸らして苦笑した。
けれど、会えなかった時の苦しさを知っているから、もう後悔はしたくない。
「触って……良いって言ってる」
手を体の横に垂らして、顔を合わせたままに目を瞑る。
この先、何があったとしても、今日のこの決断を後悔なんかしたくなかった。
息を飲んで、その姿勢で隆典を待つ。
心の壁は跡形も無くなっていた。
17
動きがなかった。
目蓋を通して僅かに感ずる灯りだけの世界で、俊介は激しい緊張にずっと堪えていた。
なのに、隆典は少しも動こうとしないのだ。
視線は感じるのに。
目を閉じる前から感じていた視線は、絶え間なく続いている。
これは、あの時と同じ……。
待っても待っても触って貰えなかったあの時と……。
また同じ事が起きるのかと、不安が大きくなっていく。と同時に押し寄せる後悔が、俊介を苛んだ。
──また、同じ事を……。
自分だけが期待して、裏切られる。
そんな嫌な思いをまた経験しなければならないのか。
鼻の奥を込み上げる熱い塊を慌てて堪える。これ以上情けない姿は晒したくなくて、手で顔を覆おうとした。
「見えない」
けれど、手首が強い力で掴まれる。
顔を覆おうとした手は、また体の横に下ろされそのまま壁に縫いつけられた。思わず見開いた視界に、前より近づいた隆典の顔があった。
「あ……」
「綺麗……。仄かな朱色。薄い肌の色が染まって……。日に焼けていない所は桜色だ……」
うっとりと褒め称えられて、堪えきれない羞恥に顔が火を噴くほどに熱くなる。
「ほんとに……触って良い?」
間近で唇が動くのを、俊介は呆然と見つめていた。否、心臓はさっきから息苦しいほどに駆けている。
綺麗だと言葉を吐く、その顔に魅入られる。
「……い、い……」
息を吐く中に、かろうじて声が交じった。
緊張が声帯すら思うようにさせない。
「どこもかしこも見たい。触りたい──それでも?」
その言葉の意味を、俊介は正しく理解していると思った。
曲解などしない。
隆典は、本当に見て、触りたいのだ。
それでも、構わない。
「良いよ……。触れば、い…い……」
喉を焼く熱い息。
全てを吐き出したくて、俊介は大きく呼吸をしようとした。
だが、隆典の手が頬に触れた途端、息が止まる。
ごくりと息を飲む音がやけに大きく耳に届いた。
「前に何度か触れた。服の上からも。その度に、もっと、と思うんだ。裸に剥いて直に触りたい。肌理の細かい肌、淡い彩り、適度な筋肉。その造形を全て手で感じたかった」
蕩々と語る隆典の視線は外れない。
指が、手のひらが、俊介の頬から首筋へと移る。
撫でるように何度も往復し、少しずつ場所を移動するのだ。柔らかな羽毛で撫でるように触れていく。
僅かな触れ方は、ひどくもどかしい。
なのに、肌の下でざわざわと小さな虫が這う。
触られたところが熱を持ち、血流に乗って全身へと広がった。吐息に籠もる熱に、意識までもがもうろうとする。
「あっ……」
鎖骨の間を指で押された途端、堪えきれなかった。
硬く食い縛っていた歯が外れる。
かわりにぎゅっと瞑った目の縁に、今度は滑らかな湿ったものが触れた。
「触りたいのを、ずっと我慢していた」
声が、ひどく間近で聞こえた。隆典が喋るたびに、吐息が頬をくすぐる。
「判っていたからね。触れば、もっと、って思うだろうって……ほんとに、そうだったよ。まだ顔にしか触れていないのに──こんなにも、味わいたい」
湿った塊が舌だと、自在に動く様子に知った。
尖らせて突かれる。ねっとりと舐められる。
ぱくりと挟まれた唇を這っていく。
「こんなにも狂おしいほどに欲しいと思ったのは、上木さんが初めてだ……」
自身と同じ質感のものが強く押し当てられる。
息をするのも苦しいせいで、緩んでいた唇から、舌が入り込んできた。
言葉が途絶える。
かわりにどちらともつかぬ喉の音が響いた。
湿った音も重なり、淫猥に俊介の耳を侵していく。背筋から脳髄まで何度も痺れが走って、体から力が抜けていく。
「ん……んぁ……」
紛れもない快感に、俊介は口付けの僅かな合間に幾度も喘いだ。
まだキスだけなのに。
どうして……こんなに……。
「可愛い……」
「あ……」
まなじりに溢れた涙を吸い取られる。
屈辱でしかないのに。男なのに、可愛いなんて。
けれど、無の奥にある歓喜の渦が、さらに大きくなって俊介を包み込む。
胸板の上をまさぐる手が、何度も胸の突起を押しつぶした。
その度に、上半身が仰け反る。そのせいで、より強く隆典の手に体を押しつけて、また震える。
押さえつけていた手が外れても、俊介の手は上がらなかった。床の上できつく拳を作り、倒れそうになる上半身を支えている。
ゆっくりとゆっくりと進む手。
何かを確かめるように、筋肉の一筋一筋を確かめるようになぞる手。
触ればよいと言ったけれど。
別の意味での後悔が湧き起こる。
こんなの……。
「んん……んぁ……こ、んなの……」
苦しい……。
何度も喘いだ。込み上げる快感を、頭を強く振って逃れようとする。
けれど、隆典は意図しているのかいないのか、俊介を快感の渦に叩き込んで、そこから拾い上げようとしなかった。
「ああ、また桜色が濃くなっていく。こんな色が出せるといいんだけど……」
「んあぁっ」
ちゅっと吸い付かれた。
いつの間にかはだけられた胸の、唾液に濡れた以上に色付いた突起を。
「や、嫌だ……そこは……」
信じられない。
なんで、こんなにも感じるのか?
潤んだ瞳から、溢れた滴が流れ落ちる。
苦しい。
助けて。
びくびくと腰が震える。
ズボンの中で俊介のモノは、はち切れんばかりに膨らんでいた。
「も……ダメ……」
掠れた弱々しい声で哀願していた。
下ろしていた手を伸ばして、隆典の腕を掴まえる。筋肉質のがっしりとした腕。
「く……るし……」
指を使う仕事のせいだろう。
無骨な指。
けれど、あんなにも優美な物を作り上げる。今だって、俊介を快楽の海に叩き込み、浅ましく欲するほどに、狂わせている。
それが──欲しい。
「こ、ここも……」
ずっと夢見てた。
忘れようとしたけれど、忘れられなかった。
触って欲しかった。
だから。
隆典の手を導く。
震える手で、ホックを外す。
手の甲に手のひらを合わせて、指に指を重ねて。
隙間から、腰骨に添わせて手を導く。
「良いの?」
隆典の声も掠れていた。
荒い呼吸音が、鼓膜に響く。
「俺のがね、これ以上行くと我慢できないって言ってんだけどね」
押しつけられた腰の確かな塊。
感じた途端に、ぶるっと全身が震えた。
はあっと、熱い吐息を零す。
「俺だって……我慢……できねえんだよ」
ここまで来て、放置なんかされたくない。
「良いって……い…いって……」
「ほんとに……知らないよ」
「俺も……」
苦笑交じりのため息に、かろうじて笑い返した。
もう、どうなっても、知らない。
身につけていた物全てが勢いよく剥ぎ取られた。
力強い手が、難なく俊介の体を布団の上に横たえる。
「あっ、電気っ」
醜くなった腹を思い出して、慌てて蛍光灯へと手を伸ばそうとしたけれど、隆典によって押さえつけられてしまった。
「ダメ、俺に見せてくれるんだろ?」
確かにそうだったけれど。
「その……ちょっと太って……」
腹は、ちらりと見ても前より出ている。
「ん……ああ、痩せてすぐに戻したんだろ? 筋肉でも付いていない限り、増えるのは脂肪だからな。でも、ま、この程度なら大丈夫。気にならない。それより──」
「ひっ、あっ」
体がぐるりと反転し、うつぶせにさせられた。
「あの時も、俺の忍耐がよく持ったと自分で感心したが……。今はもっと感心してしまうな。マジ、こんなに綺麗なのに、触らなかったなんて」
あの時と同じ姿勢。
膨らんだ臀部が隆典の目に晒されている。けれど、あの時と違うのは、俊介は一糸まとわぬ姿だと言うことだ。
「んくぅ……ひゃっ……」
背筋のくぼみを隆典の手が這う。
ゆっくりと尾てい骨に向かっていく。
期待と畏れに快感が入り交じり、俊介は無様に動くまいときつくシーツを掴んでいた。
あんなにも切羽詰まっていたのに、隆典は相変わらずいろんな所をゆっくりと触る。
腰から横にずれ、腰骨を辿り臀部の膨らみへ。
触って欲しいのはもっと前なのに、隆典の手は意地悪げに迂回する。
「あの時ね、ここ見せて貰った時」
「んあっ」
膨らみを強く揉まれ、くすぐったさに身を捩る。
「触りたくて堪らなくて。……あっ、堪らないなあ、その声……」
耳元でそんな事を言われて、羞恥に口を硬く閉ざす。けれど。
「んくっ」
ぞわぞわともどかしい疼きが、すぐに口元を緩ませた。
「あ、たか、のり……そんな……」
膨らみを手が覆う。大きな手だ。
五本の指先がぐいぐいと柔らかな肉を押す度に官能の熾火が大きくなり、下腹部をたぎらせる。
「くるし……」
髪を振り乱し、額を布団に擦りつけた。
押さえつけられた陰茎が、どくどくと脈打っているのが自分でも判る。
触りたくて、触りたくて。
「手にしっくり来る。馴染むように柔らかく、けどしっかりとした芯もあって……。何より、この手触り……。想像以上だ」
けれど、隆典は感嘆の声を上げながら、何度でも繰り返して触れてくる。
それこそ焦れったくて、身悶えるほどに。
本当に触って欲しいのはそこじゃない。
「も……さわり…た……」
「くす、どこに?」
からかっている。
意地悪だと気付いているのに。
「……もう……」
「ここは、俺が触っているよ?」
尻を撫でる余裕綽々の声音に腹が立つ。けれど、物足りない快感は我慢できない。
「だ、から……」
それだけは、と思った。
けれど。
上半身を持ち上げて、傍らに座っている隆典を睨み付ける。
自分だって、興奮しまくっているクセに。
苦しそうに膨らんだ股間が解放されたがってる。
きっと、解放してしまえば、隆典の枷は外れる。
口では何度も抑制しているようなことを言っているけれど、隆典だって限界の筈だ。
目を合わせれば、判る。
いつだって俊介を見つめていた瞳の奥にある炎が、激しく燃えさかっている。
魅入られる程に強い力を持ち、俊介を食らいつくそうとする炎。
「だったら、俺も触ってやる」
意地悪な隆典がまだ身につけているズボンへと、俊介は震える手を伸ばした。
18
「あ、……はっ……」
くちゅっと互いの手の中で滑りが音を立てた。
抱き合うようにして倒れ込んだ布団の上で、互いに互いの雄を手で嬲る。
視線が合えば口付けを交わし、舌を深く絡めた。
「んくっ……ひっ……あぁ」
それでも、隆典の方が巧いのか、俊介は何度も絶頂近く追い上げられ、全身を震わせていた。それでも、相手より先に、という情けなさは嫌だと、こんな時の矜持が俊介を堰き止める。
追い上げられるたびに疎かになる手を、意識して動かして、隆典を追い上げようとしたけれど。
「うっ……ふぅ……」
快感に意識が持って行かれる。
知らず止まってしまう手に、もどかしげに押しつけられる熱い塊に我に返る。
その繰り返される間隔が短くなっていくのにも気付かない。
「上木さん……なあ……入って良い?」
耳元で優しく囁かれ、訳も判らずに頷いた。
何度も何度も頷いて、息も絶え絶えに懇願する。
「な…に、しても良いから……」
達きたい……。
「困ったな……俺も我慢できない……」
性急に動く手が、俊介の体をひっくり返した。
ぐいと力強く腰を引っ張られ、食い込む爪の痛みに顔を顰める。
「な、に?」
「入りたい……もの凄く」
「え、……んぁっ」
剥き出しの双丘に口付けられ、強く噛まれた。
びりりとした鋭い痛みが、脳髄に届く頃には甘い快感に変わっていく。
肘で支えていた体が、呆気なく崩れかけるのを、隆典の手が支えてくれた。
「……我慢して……」
「ん」
頷いたが、その意味は判っていない。
けれど。
「ん、くぅんっ!」
そろそろと後孔を広げられて、その異物感に息を飲んだ。
見開いた視界には、隆典はいない。背後からの宥めるような口付けが背に繰り返された。
ゆっくりと抜き差しし、別の指が入ろうとする。
「きつい……緩めて?」
言われても。
さらに異物感は酷くなって、堪らずに押し出そうとする。力を抜くなんて、そう簡単にはできない。
ぴくぴくと震える大臀筋が、俊介の緊張を物語っていた。
「ね……大丈夫だから……きついと辛い……のに……」
我慢できないと言っている割には、丁寧に解していく隆典だったが、思うようにいかない苛立ちが言葉の端に漏れだした。
「で、でもっ……」
入れたい、という言葉の意味がようやく判ってきた。
それを拒絶しようと言う気はなかった。
だが、──怖い。
今だってきついのに、あの隆典の力強いモノが入るとも思えない。
「む、無理……あっ……」
ぴりっと走った痛みに、顔から血の気が失せる。
痔になったことは無いが、その痛みと苦しさは知り合いから聞いて知っていた。
裂けてしまえば、トイレに行くのも苦痛だろう。
隆典ならされてみたいと夢では思っていたことではある。だが実際問題それが現実に起こった場合、受け入れられるかどうかは別だ。
いろんな悪い想像が俊介を襲う。
「そ、んな……無理」
逃れようと四つんばいのままに這いだそうとするが、隆典の手がしっかりと腰を掴んでいた。
「言ったよ、止まらないって……。傷つけるつもりはないから、じっとしてて。体の力を抜いていれば良いから」
「け、ど……」
「ほら、こっちも触るから」
「あ、んあ……」
いきなり前にも触られて、退いていた快感が甦る。
ぐりぐりと雁首から亀頭を扱かれれば、隆典が与える快感を知った体は呆気なく陥落した。
力の抜けた体に増す異物感。けれど、与えられる快感の前には些細なことだった。
喘ぎ、身悶えて、腰を擦り寄せて。
「ぁあっ!……何、そこっ?」
弾けるような快感が全身を襲って目を剥いた。
達くかと思った。
だけど、解放感は無い。
びくびくと全身の筋肉が歓喜に震えているのに、達けない焦燥感はまだ残っている。
「や、やだっ、そこは──」
なのに、体の奥深くを押されるたびに、悲鳴にも似た嬌声が零れた。
小さな爆発が何度も体の中に起こっているようだ。
「気持ちよさそうだね」
嬉しそうな声が、耳を通りすぎていく。
「全身が朱に染まっている。肌が汗で湿って……気持ちいい……」
尻に頬ずりされ、なおかつ舐められた。けれど、そんな些細な感触など、体の中の爆発に比べればなんて事はない。
「あ、やあっ……もうっ、助けてっ……」
情けなく隆典に助けを乞う。
気が狂いそうなほどに解放されたいのに、けれど高まった快感は解放に結びつかない。
もっと、もっと……。
力の入らない手が、隆典の手の上に重なる。
もっと、擦って。
「お……ねが……達かせ……て」
もっと力強く扱けと、手を動かす。
「上木さんって、驚くくらい快感に弱いね……なんか心配だ」
困惑を浮かべた隆典だったが、俊介の手には逆らわなかった。
「良いよ、一回達って?」
言葉が先だったか、激しく扱かれたのが先立ったか……。
「あっ、はぁっ──!」
迸る勢いがそのまま快感になる。
堰き止められていた塊が勢いよく抜け出せば、その快感は今まで感じていたよりさらに激しい。
全身の筋肉が硬直し、びくびくと無意識の痙攣を繰り返した。
呆けた顔から、唾液が溢れ、落ちる。
それを指先が掬っていった。
「挿れるよ」
弛緩した体にねとりとした液体が挿れられる。
粘度の高いそれが今まで異物感を与えていた場所を柔らかく解していった。
「……やっぱ、こういうのって必要だね……」
呆けた意識の中、隆典が苦笑しているのが伝わった。
「何……必要って?」
「ん……何にも用意していなかったからさ、ちょっと拝借してきた」
「え?」
「う、ん……もう良いかな?」
答えは貰えないままに、いきなり異物感が消えた。
かわりに、再度腰を強く掴まれ引き上げられる。
「ちょっと苦しいかもね。けど、我慢して」
「え?──あっ!」
みしっ!
後孔で音がしたような気がした。
鋭い痛みが、目を見開かせる。
力の入らなかった腕が突っ張った。
「い、痛っ!」
ミシミシと体を押し広げながら、入ってくる。
「大丈夫、裂けていないから」
そんな事を言われても、痛みは消えない。裂けるような痛みは、声すら出させない。
硬直して、動くこともままならない俊介にできることは、ただ浅い呼吸を繰り返すだけだ。
あやすように撫でられても、前に回された手が俊介のモノを嬲っても、痛みは消えない。
「あっ……もう……ダメっ……」
それ以上は入らない、と思うのに、隆典はまだ押し広げていく。
実際には数十秒に過ぎなかった時間が、俊介には何時間にも感じられた。
苦しくて、痛くて、泣きたくて。
ぎゅっと握っているのが布団であることが哀しかった。
「た、かのり……、隆典……たかのりぃ……」
「ごめんね、でも、もう入ったよ」
大きく息を吐いた隆典が、背後から俊介を抱きしめた。
熱い体と隆典の匂いに包まれてほっとする。首の前に回された腕に顔を埋めて、俊介はくすんと鼻を鳴らした。
「痛い……よ……」
甘えたかった。
痛くないよ、と、もう大丈夫、と言って貰いたかった。
子供のように、包まれたかった。
なのに。
「ごめん。でも……俺、限界なんだ。もうちょっとだけ我慢して」
思っても見なかった非情な言葉に、返す間はなかった。
「あぁぁっ!」
ずりっと引き抜きかけて、どすんと押し込められる。
体の奥をひっくり返されて、また元に戻される勢いに、声もなく肺の中の息を全て吐き出した。
「や……あっ……」
繰り返される律動は、俊介の体を翻弄する。
崩れ落ちた上半身は布団の上で揺すぶられ、下半身は隆典によって高く掲げられていた。
前後に動かされると息苦しいのに、自分ではどうしようもない。
「いっ……たっ……苦し……あぁぁ──」
「ごめん……、ごめん」
謝る隆典の声が遠くに聞こえる。
それでも、塗り込められた粘性の液体のせいか、俊介の体が慣れてきたのか、徐々に痛みは治まってきた。
びりびりと裂けそうな痛みはまだある。
けれど。
「ん、……あぁん……ん…んっ……」
先ほど指で突かれた時に感じた小爆発。
それが奥深く突かれる度に、体内に湧き起こっていた。
悲鳴が、徐々に嬌声に変わっていくのに、隆典も、そして俊介自身も気がついていた。
「や……、や……だ……なんか……変……」
「上木さんの中、まるでとろけるよう……すご……」
「こ、んなの……変……」
譫言のように堪えきれない衝動を伝える。
体が揺さぶられるたびに、目の前が白くなり、全身が自分の物でなくなっていった。
「俺も……こんなの……しらな……」
何かに取り憑かれたかのように隆典が喘ぐ。
その声が遠くに聞こえた。
「あっ……あぁっ……」
我慢できなくて、滾りきった自らのモノを掴んで扱いた。
突かれる動きに合わせて、手も動かす。
「あ、イぃ……また……達きそ……」
「俺も……出る……」
切羽詰まった隆典の声が聞こえた途端、律動がさらに激しくなった。
「あ、うわっ……んくぅ!」
喉を晒して激しく仰け反った体の中に、熱い迸りが走ったような気がした。
背中に触れた隆典の体が小刻みに震えている。
荒い呼吸音を整えようと時折息を飲む音が響いた。
それに俊介のものも交じっている。
ぐらりと傾いだ体は、隆典の手によってゆっくりと落とされた。
「上木さん……凄いよ……」
「何…が?」
背中にのしかかられて重いのに、けれど除けさせようとは思わなかった。
湿った肌が張り付き、暑苦しく熱を伝えている。
けれど、何故かその暑さも重さもひどく心地よい。
「俺、こんなに気持ちよかったの、初めてだ」
掠れた声音もひどくセクシーで、もっと聞いていたいと思う。
「俺も……」
紛れもなく痛かったのに、今はもう終わったことが惜しい。
「だったら、もっとする?」
けれどそんな事を囁かれて、さすがに拒絶しようとしたけれど。
「……遠慮する……今日は」
弱々しい声しか出なくて、なおかつおずおずと付け足せば、朗らかな笑い声と共に、ぎゅっと抱きしめられた。
「ダメだよ、飾ってちゃ。使ってくれないと意味がない」
貰った茶碗を棚の上に置いていたら、やってきた隆典が不機嫌丸出しで指摘した。
最近、また暇になったのか、毎日のようにやってきてはこうるさく指摘する。
お陰で、ビールなんて一日一本飲めれば良い方。
不摂生な生活の名残でも見つけようものなら、延々お小言が続くのだ。
──肌に悪いだろ。
って言われても。
適当に聞き流していたら、今日は弁当持参でやってきた。どこかの小料理屋の仕出し弁当らしい。
「でも、俺お茶なんかしねえし」
「別に茶道具って訳じゃないよ。何にでも使えばいいんだよ。小鉢にとかさ」
「料理しねえし……」
こんな立派な器に盛るようなモノなんてない。
「……だったら、これでも入れよう」
あくまで日用使いにこだわる隆典が、立ち上がってばさばさと何かを入れていた。
旬の食材をふんだんに使った弁当が美味しくて、つい食べるのに夢中になっていたから、それが何かは判らなかったけれど。
「はい、これなんてどう?」
何か入れるような食材ってあっただろうか?
訝しげに首を傾げながら、差し出されたそれを覗き込んで。
「……」
目にした物の正体に気がついた途端に、全身がぴきっと音を立てて固まった。
「なかなか、ちょうど良いね」
たっぷりと数十秒はその中身を見つめ、そして自己満足に浸っている隆典を恐る恐る見つめる。
5cm四方の薄いパッケージ。
カラフルな包装は隆典の趣味だ。
淡い緋だすきの備前焼の器にバラバラと入っているそれは、一見何かのお菓子のようだったが。
「あんた……」
「こういうカラフルな物を入れるとどっちも映えるだろう?」
にこやかな笑みに、隆典が本気だと知ってがくりと肩を落とす。
「変人……」
今更だと思う言葉が、堪らずに口をついて出た。
可笑しいとは思わないのか、こいつは。
いい加減理解したと思ったけれど、やっぱりこいつは普通と違う。
違うけど。
「最高傑作だろう、それ?」
「うん、だから、良く合うねえ。やっぱり上木さんのために作ったものだから、上木さんの役に立つようにしたいし」
って、何か?
それを入れたのは俺のためか?
俊介の目の前がくらりと歪む。
一体何個入れたのか、溢れんばかりのそれ。
「無くなったらすぐに買いに行くから。こういうのは常備しとかないと」
「隆典……」
「ということで、さっそく使う?」
二つ三つ手に取って、にっこりと笑う隆典に、俊介はこめかみに血管を浮かせて叫んでいた。
「どこのどいつが茶碗をコンドームの入れ物なんかにするかっ!」
「え、こうしとけば、便利だろう?」
「丸見えじゃねえかっ、恥ずかしいっ!」
「そうか……。じゃあ、今度蓋ができる奴作ってくるよ」
さらりと返してきたその言葉に、俊介はまた固まった。
恐る恐るコンドームをひらひらとさせている目の前の男を見つめる。
「マジ?」
「え、何が?」
「だから、コンドーム入れって話……」
「……マジだけど?」
それの何が悪いのか?
表情ははっきりとそう言っているのが判って。
隆典が嬉々として工房で作ってる姿が脳裏に浮かんで、俊介は慌てて打ち消した。
しかし、しないとは限らないのが隆典の怖いところ。変人はやっぱりどこまで行っても変人だ、と──俊介はがくりと肩を落とした。
「……作らなくて良い……。もうそのまんま入れとけ」
こんなふうに諦めてしまうのが悪いのかも知れないけれど、隆典を制御するのは、とても難しい。
それを早々に放棄してしまった後悔が少しだけ湧き起こる。
けれど。
「で、どうする?」
俊介の苦悩など意に介していない隆典の言葉に目を向ければ、目の前でコンドームが踊っている。
しかも三つ。
その意味に気付いて息を飲んで逡巡したが。
「……判ったから……とりあえずそこに入れとけ」
コンドーム入れとなった茶碗を指さす俊介の頬は、隆典が大好きな色に染まっていた。
【了】