【高鬼(たかおに)】 5 |
いつもより早い時間に会社に行って、すぐに啓輔の元に向かう。 家で床についたはずなのに、家城の目は赤く充血していた。そのあからさまな状態に出掛ける寸前に気が付いて、すぐに目薬を差したけれど、それでも赤みは治っていない。それでも、たまにすれ違った人達は気が付いてはいないようだった。だが、それに安堵している暇は無い。 どうしても、啓輔と話がしたかった。 ロッカールームで着替える時間も惜しんで、とりあえずコンピュータールームに向かう。 そこには啓輔が休んでいるはずなのだ。 まだ始業にはかなり早い時間であって通路をすれ違う人の姿はないけれど、コンピュータールームには、啓輔の先輩である服部がすでに作業をしていた。 慣れた手つきでキーボードを扱う彼は、家城の気配にふと顔を上げたけれど、その手が止まることはない。 かちかちと軽快な音は一糸の乱れもなくて、いつも聞いていて心地よいほどだ。だが、今日はそれどころではなかった。 「啓輔は?」 その余裕のなさに、服部が気づく。 けれど、それを訝しむ間もなく服部は視線でその場所を指し示してくれた。その視線を辿るように家城自身も動けば、確かにそこに啓輔が眠っていた。 コンピューター機器のために少し低めの設定をしている部屋は、眠るには肌寒いのだろう。冷房の冷えから身を守るために常備している上着を、啓輔は二人分ともに体にかけていた。さらに上からコンピューター機器用のカバーを幾重にも掛けている。 ぴくりともしないその塊を覗き込めば、案外穏やかな顔つきの啓輔が見て取れた。 「とりあえず、今日は休みにすることでリーダーに承認もらいました。目が覚めたら帰ることができます。開発部からも連絡が入っていますから」 急ぎの仕事でも抱えているのか、かちかちとキーボードを打ちながら服部が言う。 「僕が出張じゃなかったら、もうちょっと早く終われたと思うんですけど……。連絡してくれたら、帰りに寄ったんですけどね。もっとも、彼じゃないとここまでできなかったでしょう」 その言葉に家城は小さく頷いて、啓輔の席を見やった。 机の上には、こぼれ落ちそうになるほどに用紙が積み重ねられている。 たくさんのリストとグラフ。その何枚かには、覚え書きのように殴り書きの文字が躍っていた。 一番大きな字で書き連ねられているのが啓輔の字だ。ほかにもある複数の字体は、家城も見たことがあるもので。 「高山さんと、鈴木……くんが、一緒に手伝ったと?」 「あ、そうです。もともと滝本さんのチームの仕事ですから。先ほど寝る暇もなく、朝の一便に乗るべく空港に向かわれました」 「そうですか」 「出かける前に、鈴木君が寄ったんですけど、隅埜君、あの状態のままで」 鈴木……。 その名を聞くと、苦い感情がこみ上げてくる。 ただの同僚、だと、自身に何度も言い聞かせているけれど、そう思うことこそがすでに疑っていることだと判っている。 「鈴木君は、何か?」 「お礼を言いたかったのと、後、伝言が……」 「伝言?」 「はい。え〜と、朝9時に迎えに行くからって。何か約束でもしているんですか?」 それは啓輔への約束だったのに、服部の視線が家城に向けられる。 簡単な伝言は、その経緯を知っている家城にもすぐに判った。明日の約束は、きっと作業しながらきっちりと煮詰めていたのだろう。仕事に関しては一生懸命やるが、それでも遊ぶことも忘れない。 元気だな、と思う反面、いっそのこと二人ともつぶれてくれればよかったのに。と、暗い思考に支配されそうになって、あわててそれを振り払った。 それでは啓輔がせっかくがんばったかいがない。 「……鈴木君の車に乗せてもらうそうです……」 せっかくなんだから、他の人と遊ぶのも良いだろう。 それが啓輔にさらに知識を与えて、男らしくさせるのだから。 だが、願ったりのことなのに、素直には喜べない。 それどころか、これ以上男らしく、大人らしくならないで欲しい、とすら思う。 「そうですか、楽しそうですね」 服部の言葉に頷くが、乗り気でない話は疲れるだけで、家城は離れるタイミングを知らずに図っていた。 服部もそれほど話が弾む方ではない。家城が黙れば服部も黙って──それがタイミングだった。 「それじゃ、私はこれで」 「はい、起きたら連絡するように言いますから」 にこりと微笑む服部の言葉は、家城には断る理由もない。 いつ啓輔が起きるか判らないけれど、家城も仕事が始まれば朝は結構忙しい。そうなれば、啓輔とは電話で話をするだけになるだろう。いや、朝礼のさなかであれば、話をすることすらままならない。 それでも声を聞きたい。 声でも聞けば、楽しいだろう。 一言でも話をすれば、この嫌な気分も吹き飛ぶかもしれない。 それほどまでに、啓輔の何かを感じたかった。 見るだけでは嫌だ。 このままでは、啓輔は帰ってしまう。そして明日は出かけて行って。 また会えない週末がくるのだ。 救いは日曜はこちらにいるのだから、そうしたら家城に会いに来るかもしれない。 いや、会いに行ってもいいだろう。 会いたい。 啓輔にふれたい。 それは渇望という言葉が相応しいほどに激しく家城を責め立てる。 自身がこんなにも餓えるとは思っていなかったけれど、間違いなく家城は餓えていた。 啓輔とともにいたくて。 抱きしめたくて。 今更この思いを否定できない。 だから、絶対に、と拳をきつく握りしめながら決意を固める。 絶対に、日曜こそ啓輔と会うのだ、と。 「啓輔のこと、言えませんよねえ……」 いつも、啓輔のことを「性欲の塊」と揶揄していたけれど、家城も結局は同じ穴の狢だったのだ。 会えなかったこの三週間。 それすら我慢ができなかった自分自身にあきれ果てるしかなかった。 想像通りに、啓輔が起きて連絡してきたのは朝礼の真っ最中だった。 一言二言言葉を交わしただけで、啓輔はすぐに帰って行ってしまう。いくらせっぱ詰まっていても24時間の連続勤務を会社は容認できない。啓輔がいつまでも会社にいることはできないのだ。 だが、今日はそれが口惜しい。 啓輔のためだと思って、彼の望むようにするよう努力はしていたけれど、さすがにここまでくると限界だった。 度重なる出来事が家城を追いつめる。 呼吸するよりたやすく張り付いている筈の仮面が引き剥がされ、心の中の弱い部分が鎌首をもたげて出てこようとする。 それを必死で押さえつけながらも、家城は決心していた。 鈴木とのドライブは一度許可してしまったからしょうがないとしても、日曜こそは啓輔と話をしよう。 聞きたいことが山のようにある。 言ってくれるのを待つには、もう疲れてしまったのだ。 いつだって楽しそうにする啓輔には、決して他意はないのだろう。友人達と楽しく遊ぶ、ただそれだけなのだ。 だが、家城自身、そうだと思いこもうとして、けれど信じ切れない。 啓輔が家城に向ける好意を、信じ切れなくなっている。 それが口惜しい。 帰り際の電話で啓輔は、どこかぼんやりとした応対で、日曜の約束など取り決めようがなかったけれど。用事があれば必ず家城には言ってくるから、家にはいるだろう。 できれば家城の運転で家まで連れ帰りたかったが、こちらは通常通りの勤務だ。 しかも、ここのところ家城の効率の悪さは、ここにきて限界にきていた。それでなくても手一杯の仕事は、机にいくつもの山を作り上げている。それをなんとしてでも今日終わらせないと、日曜どころの話ではなくなる。 とにかくこれを終わらさなければ。 そう決意したとたんに、仕事の効率が一気に上がった家城の様子に、事務所の中がぴんと張りつめる。 ここ一週間ほどの家城の変化は、他の仲間達にとっては心臓に悪いこと、この上なかった。 「……なんか今日の家城さんって、いつにもまして鬼気迫ってないか?」 ふらりと訪れた開発部の橋本が、敏感にその空気を感じ取って、傍らの友人に目配せをする。 「最近、変なんですよ〜。でも、何も言わないし。焦っている様子はないんだけど、なんかこう、ピンと張りつめた空気があるっていうか……。ムチャクチャ怖くって……」 深いため息がそこかしこから漏れている。そんな様子にも家城が気づいた気配はなかった。それすらも珍しい。 「こんな時にクレームでもでたら、おっそろしいことになりそうだな」 橋本の冗談めいた口調の言葉は、だがとても冗談には聞こえないと、皆一様に顔を青ざめさせる。 「じ、冗談じゃないって……」 「冗談だ」 「冗談にならないって……その言葉は」 いつもと違う悲壮感が漂うこの部屋に、その日に限り他部署の人間が長時間居着くことはただの一人もなかった。 家城自身、帰るのがひどく遅くなるほどの仕事量だった金曜日は、それ以上啓輔のことを考えている余裕はなかった。 そして、啓輔から一回も連絡がなかった土曜日は、溜まりに溜まっていた家の仕事をこなすことで一日が過ぎていった。それでも、目に見える範囲に携帯があることに、つい視線がそこに固定される。 もっとも、明日になれば会うのだという思いが、何もかも諦めさせていた。 今はもうどうしようもないのだと。 だが、明日こそは啓輔に会って、少なくともタイシのことだけははっきりさせよう。 啓輔のことを思えばこそ、黙っていてもよいかと思ったけれど、それで家城自身が参ってしまうのではどうしようもない。 そして、啓輔もそんなことを問うたくらいで厭うようなことはないだろう、と思うから。 こんなにも好きになってしまった相手は今までいなかった。 捨てて捨てられて。 それでも割り切れる程度だった。 本気になるという意味が判っていなかったのかもしれない。 ここまで一人の人間に感情が左右されるほどに──啓輔を中心に考えてしまうことしかできない今の状況は、家城に多大な心的負担を強いる。 それでも良いのだと思えるのは、何の不安も無いときだ。 度重なる不安要因の蓄積に、これでは駄目なのだとようやく気づく。 意識を冷静にし、感情を排除して、そして最善の方法を考える。 啓輔は好きだ。 その啓輔が家城に黙ってタイシとつきあっている。 まずこれをはっきりさせよう。 鈴木の件は、単なる邪推でしかないと思う。 少なくとも鈴木にそういう性癖は無いはずだから──だが、こちらははっきりとは判らない。 ならば、次の段階ではっきりさせればいい。 取り込んだ洗濯物の山を片づけながら、筋道だって考えていく。 考えなくて良い単純作業は、頭の中を整理するのにちょうど良い。 白いタオルが四つに畳まれて積み重ねられる。 何もかもこんなふうにきっちりと片づけば、何の問題もないだろう。けれど、物にはいろんな形があって、そして感情もいろんな大きさがある。 適当な穴にすっぽりと収まって出てこない感情なら良いけれど、それは時としてどんな穴にも入りきれないほどに大きかったりする。 今の家城がそういう状態だ。 溢れてどこに落ち着いて良いのか判らないのだ。 それでも、単調な作業が頭の中を冷静にし、そして。 「あんまり甘くするのも問題かな……」 刹那、口をついて出た言葉に、家城は剣呑な笑みを浮かべた。 飴とムチと。 そろそろムチの頃合いなのかもしれない。 啓輔には大変だろうけれど、家城自身、欲するがままに啓輔を抱きたい。 我慢は体にも心にも悪い。ストレスは、その欲望を解放することで、もっとも効果的に癒すことができる。 欲望に素直な啓輔が好きだから。 たぶんきっと。 明日会えたら、きっと啓輔に無茶しそうだった。だが、それでも会う決意は変わらない。 でないと、家城の心の方がキレて、感情的になってしまいそうだった。 それだけは避けたいと思うから、明日こそは啓輔に会う。 そう思って過ごせば、土曜日もあっという間に過ごすことができた。 |