【高鬼(たかおに)】 4 |
「今日は遅いんですか?」 約束の木曜日。 まだ事務所にいる啓輔に声をかける。 「今ね、開発部の滝本さんの依頼で特許マップの準備してんだ。これが面倒な作業でさあ」 肩を押さえて、こくこくと首を左右に傾ける。 確かに音がしそうなぎこちなさがそこにあった。 「大変そうですね」 「う〜ん、数が多いのが一番大変……。家城さんは何?クレームでも出た?」 確かに、残業の大半はその対策ではあったけれど。 家城は苦笑を浮かべて首を振った。 「そういう訳ではないんですけどね」 今度重要な得意先の品質監査がある。年一回の定期監査で、最初の年ほど準備することはないが、それでも気構えは普段とは違った。一つのミスもなくこなさないと、という思いが、品質保証部の中に漂っている。だからこその残業だ。 もっとも、いつもならこんなにも遅くはならないだろう。 やる気が萎えているせいの作業効率の悪さを家城は自覚していた。 そしてその原因も。 「そっか、俺のはもうちょいかかるなあ……」 少し残念そうな表情は、今日の約束を啓輔も期待していてくれたのだと思いたい。 油断すると頬が緩みそうなくらいのうれしさが込み上げて、家城は慌てて顔を引き締めた。 人前で感情を晒すことは付け入れられる隙を作ることになる。 ずっとそう思って実行してきたのに、この啓輔のこととなるとそれができなくなる。 しかも最近ひどくなっているような気がした。 「家城さん?」 「あ……」 「何、考えこんでんだよ?なんか変?」 覗き込んで心配そうにしている啓輔に、反対だ、とつい睨み返して。 怯む啓輔に、我に返った。 「何でもないですよ、本当に」 顔も心も偽りの仮面を被せて、啓輔に応対する。 「そう?」 「ただ、遅くなるので食事をどうしようかと……」 これでは、家で食事は無理かもしれない。それでも、どこかで一緒に食事をとって帰れば良いと、家城が考えた時だった。 「隅埜君、いる?」 勢いよく開いたドアから鈴木が顔を出して来た。 「いますよ〜」 「あ、よかった。今頼んでる特許マップ、明日の会議に必要になっちゃって。できるかなあ?」 珍しくはっきりとした声音は、それだけせっぱ詰まっていることを伝えてくる。 だがしかし、申し訳無さそうなその問いかけに、啓輔の口の端がひくりと強張った。 その表情に家城の胸中に嫌な予感がわき起こる。そして、そういう予感は得てして外れないものなのだ。 「……無理……」 ふるふると拒絶する啓輔に、鈴木の顔色も悪い。 「どうしてもって言われて。お客がさ、どうしても明日の会議で特許関係の話までしたいって。ほら、今回の件は共同出願の案件あるから」 「んなこと言われたって、まだ検索前の段階だし……。検索して、件数に寄るけど出力して表を作るだけでも、後何時間かかることか……それに、今日は服部さんいないし」 「とりあえず各社別の出願状況を時系列にしたものだけでもいいから」 鈴木も必死なのか、普段はそう押しが強いと思えない彼がいつまでも食い下がる。 「僕と高山さんも後30分もすれば入れるから、頼むっ!」 拝み倒さんばかりの勢いに、啓輔が困惑の色合いの濃い表情で家城を見やって来た。 この様子では、もしこの依頼を啓輔が受けたなら、今夜の逢瀬は無理だろう。開発部の人間なら、検索も特許マップの作成もできないことはない。だが、それを専門にしてきた啓輔と比べれば作業効率が落ちるのは目に見えていた。だからこそ、鈴木は必死な訳で。 仕方がないだろうと、家城が小さく頷くと、啓輔がほっとしたように表情を和らげた。 「判ったって。とりあえずできるとこまでやるから、鈴木さん自分の仕事早く終わらせて来てよ」 「判った、できるだけ早く戻ってくるよ」 その言葉が終わるより先に、姿が見えなくなる。 「……ということで」 申し訳無さそうな啓輔に何が言えよう。 仕方がないのだと判っていればショックは少ない。 「それじゃあ、私も仕事に戻りますね」 「ん」 おざなりの返事に気がつけば、もう啓輔は熱心によく似ているが異なる意味のたくさんのキーワードをつぶやいてた。参考文献をめくり、キーワードの漏れがないかをチェックしている。 データ解析は根気と集中力がものを言う。 家城は邪魔にならないように、と、そっと部屋を出て行くしかなかった。 仕事はやはり家城の方が先に終わった。 最後の一人となっていた品質保証部の事務所の電気と空調を切って、啓輔がいるコンピュータールームに向かう。目処がついていたら一緒に帰ることも可能だろう。 夜間も生産をしている工場側とは違い、事務棟はもうかなりの部屋の電気が消えている。薄暗い廊下に響く足音も、家城のものだけだ。 向かうコンピュータールームは事務棟のはずれにあって、図書室の隣にある。そこが啓輔たちの作業スペースでもあった。窓の無い、閉鎖された空間は息がつまりそうな気分になる。 だが啓輔は、もう慣れた、と笑っていた。 それに結構自由なんだよ。 仲の良い先輩と二人、面倒な検索式の作成も楽しくやっていると言う。 そんな部屋の扉が、今日は開けっ放しになっていた。 人の出入りが多いときは、たまにこの状態になる、けれど。 笑いさざめくような声が通路まで漏れていて、家城はふと足を止めた。 啓輔だけでない複数の声だ。 誰だ?と足音を忍ばせたのは、無意識のうちで、近づけば覗き見ようとしなくても中の様子はよく見えた。 刹那、胸の奥から勢いよくどす黒い塊がせり上がってきた。喉が詰まるような息苦しさに、家城は胸に強く拳を押し付ける。 視界に入ったのは、寄り添うようにしている、啓輔と鈴木。 とっさに、 ──啓輔は私のものだ! と、叫びたい衝動に駆られ、口が開く。けれど、寸前でなんとかそれを飲み込んだ。 脳裏に浮かんで感情を支配しようとするのは、最近の二人の特に親しい様子だ。 ドライブに誘う鈴木の真意が、あのときの言葉通りとは思えなくなる。 そういえば、休憩の時だけでなくても鈴木と啓輔はよく話をしていた。てっきり仕事の話だと思っていたのだが。 「え〜、そうなんだ?」 啓輔の楽しそうな笑い声に、記憶をたどっていた家城が強ばっていた顔を上げる。 何を話しているのだろう? 探りたい欲求に、家城は唇を強く噛んで堪えた。 今は平静な態度を取れそうにない。 啓輔にそんな顔を見せる訳には行かない。彼は家城の些細な変化にすぐ気付く。まして、鈴木などに勘ぐられる訳にはいかなかった。 意識して動かした足で、その場を離れる。 啓輔が誰かと親しく話をしただけでこんなにも動揺してしまう自分が信じられない。 啓輔が家城のことを好きだといってくれているのは間違いないのに。 なのに、どんなにそう思い込もうとしても心の奥底では信じていないことも、自覚していた。それもこれも、先日の啓輔とタイシの仲睦まじげな様子を見たせいだ。 不信感。 幸せの淡い色の世界にぽつりと落ちた染みは、じわじわと周りの色を黒く変えていく。 そのスピードは遅いけれど、ほんの僅かな滲みでもはっきりと目立っていた。 最初は、会えない不満。 女性やほかの同僚達と仲良くしている不満。 そして、タイシとの関係を秘密にする啓輔への不満。 触れ合えない不満、今週末もまた会えない不満、──鈴木との仲睦まじげな様子に対する不満。 家城はそこまで考えて、ぞくりと全身を掻き抱いた。 愚かなことを口走ってしまいそうだ。 荒ぶった神経は時として、自分自身でも予測不可能なことを口走ってしまう。それは、いつだって、羞恥と深い後悔を伴うものであった。そのせいで、昔別れを経験して──だからこそ、どんな時にも冷静になろうとしたのに。 落ち着け。 下手な憶測や邪推は、身を滅ぼす元になる。 だいたい家城自身、どんなに不満があっても、啓輔から離れるつもりなど毛頭無かった。 ようやく見つけた大事な相手。彼を手にしてようやく家城は恋人を持つことの幸せを手に入れたのだから。 だからこそ何も聞かないし、いつものように何も表に出さないように。 そうすれば、何も変わりやしない。 呪文のように「何も変わらない」と心の中で唱え続けた、家城の口から何もかもはき出すような長い吐息がこぼれた。 そっと踵を返して、更衣室に向かう。 啓輔は今日はきっと遅いだろう。 もしかすると完徹になるかもしれない。だったら、今日は諦めるしかない。 意識して理由付けをしている家城だったが、その自分の顔が能面のように固まっていることには気がついていなかった。 まんじりともしない夜が明けたころ、家城の携帯に一通だけメールが届いた。 『完徹。でも終了。帰る気力なしにつき、とりあえずもう寝る』 端的な文章が、啓輔の疲れ具合を示していた。きっと文面通り徹夜で特許マップを作成していたのだろう。最後の「もう寝る」は、部屋の片隅で転がって仮眠でもとるつもりなのだろう。 それにほっと安堵の息を吐き出して、すぐに馬鹿なと首を振った。 安堵する部分が違う。 啓輔と鈴木の関係はただの同僚なのだから、心配する理由もないことだ。 そう思うのだが。 重苦しく霞がかかったようにすっきりしない。 これは、何も言わずにいるには、もう限界なのだと言うことだ。何より自分の精神状態だ。判らない筈がない。 ただ、そんなにも弱いつもりではなかった、と思いこもうとしていただけだ。 だが結局、こんな体たらくだ。 家城は深く長いため息を吐くと、代わりのように新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。 それとともに、意識的に外れかけた仮面をその面に貼り直す。 それは、常に主導権を取りたがる啓輔に負けないためにも必要なものだった。 |