【高鬼(たかおに)】 3



 ろくに啓輔と連絡が取れなかった土曜日の夜を、まんじりともせずに明かした家城の頭の中は、寝不足もあってどんよりと曇っていた。
 そんな自分が情けなく、また明日の仕事に差し障りになるのを恐れて、家城は気分転換でもしようと街中まで出てきた。
何をする気力も湧かないが家にいても不毛なだけだと、欲しかった本でも買いに行こうと思ったのだ。
 目当ての本屋の周辺は日曜日とあって、家族連れやカップルがやたらに多い。
 商店街のアーケード下を人混みを縫うようにして、本屋へと向かおうとして。──その足が、本屋の入り口でぴたりと止まった。
 中から出てきた人に邪魔そうにされて、慌てて端に寄ったけれど、視線は何かに固定されたかのようにその場所から動かない。
 近くの喫茶店から出てきた男同士の二人組──仲のよい友人同士のように戯れている彼ら。
 手の中で交わされるのは、飲食した代金のやり取りだろうか?
 そんなごく普通の二人だったけれど、その二人の容姿に家城の視線は釘付けになっていた。
「けい……すけ?」
 二人のうち、背の高い方は見間違いようもない。困惑気味の笑みを浮かべながらお金を受け取っている彼の衣服は、家城がプレゼントしたものだ。似合うからと渡したときは、ぶっきらぼうに礼を言われたけれど、それが啓輔のお気に入りになっているのは知っている。
 そして、もう一人は……。
 家城の口から思わず信じられないままに名が零れた。
「確か……タイシ?」
 啓輔の素行が悪かった頃の友人で、数ヶ月前に起きた啓輔の行方不明時の主犯の男。
 啓輔と会社での友人である緑山敬吾の二人を街中で拉致し、槻山という男に売りつけた。一昼夜たって決して無事とは言えない状態で戻ってきた彼らを、家城達は静観することにしたのだけれど、その直後、今度は啓輔だけが拉致されて。
 心身共に傷を負った状態の啓輔を助け出したときに、彼がいた。
 あの時痛めつけたあの男は、槻山が引き取った。その後のことは何も知らないし、知りたいとも思わなかったけれど。
 それほどまでに、家城にも啓輔にも忌むべき相手だ。
 二度と会いたくないと、あの事件の後啓輔に言わしめたほどの男のはず。
 だが、家城に気づかないまま通り過ぎる二人には、そんな様子は微塵も感じられなかった。
 タイシの手の中の包みを突っついて何事か語りかける啓輔の様子は、どこをどう見ても仲のよい友人同士だ。
 何故?
 と頭の中に浮かぶいくつもの疑問符を、家城はどうやっても冷静に処理できなかった。
 冷静に判断できないから、結論が出ない。
 握りしめた手のひらに嫌な汗がじっとりと滲み、食いしばった歯がきしむような音を立てる。
 不快な音が頭骨を介して脳に響き、思考を邪魔した。
 それでも必死になって考えるのだが、気がつけば堂々巡りの思考になっていた。
 何かが起きて仲直りしたとしても、だったら家城にも一言あってもいいはずなのに。
 反対されると思ったのだろうか?とも、ふと思ったけれど、それでも嘘をつかれるよりはマシのはずだ。いや、嘘ではないのだろう。彼が友人になったというのなら。
 だったら、なおさら隠す必要はないはずで。
 どこに行くのか、遠ざかっていく二人に声をかけたい衝動を、家城は必死でこらえていた。
 今ここで声をかけたら、修羅場になりそうだった。
 家城にとってタイシは忌むべき相手だから、紳士的な態度など望むべくもない。
 そんな家城に気づいたからこそ、啓輔も言えなかったのだとは思うけれど、それはまた別問題だった。
 そうやってどこか冷静に判断している己にも、さらに怒りが増幅された。
 一体自分が何に怒っているのかすら判らなくなって、ただ混乱する頭を落ち着かせるのに必死だった。
 どうしたらいい?
 よりによって何故彼なんだ?友達なら、他にもいるだろうに。何故、あの男なのだ?
 何をすればいい?
 啓輔に、どう対応すればいい?
 啓輔に友人ができるのはいいことだ。だが、何で……?
 何もかも判らない。
 啓輔と敬吾が行方不明になったとき、穂波を戒めることができたのは、先に彼が怒っていたからに過ぎない。目の前で怒りを露わにする彼に、かえって冷静になってしまった。
 だが今は家城一人だ。
 諫めるものも誰もいない。
 けれど。
 家城はふっと肩の力を抜いて、大きく息を吐き出した。
 そのまんま怒りを啓輔にぶつけて、それが元で啓輔の反感を買ってしまったらどうする?
 そう思ったとたん、怒りが急速に衰えた。
 家城のせいで、啓輔が離れる。
 不意にそう思って、とたんに背筋がぞくりと震えた。
 足がふらりと動き始める。
 ようやく辿り着いたばかりの本屋が、店内に入ることなく遠ざかっていった。だが、今はそんなことに構っていられなく、ただこの場を離れたかったのだ。
 落ち着いて、ゆっくりと考えたかった。
 それに、今自分がどんなに情けない顔をしているか判っている。
 そんな姿をさらしたくなかった。
 いや、二度とそんな顔を人前で晒すことなどしないと誓ったはずだったから……。
 その大きな手のひらで半ば顔を隠すように覆って、家城は足早にその場を立ち去った。



 週明けの朝の挨拶を交わす啓輔の様子は変わらない。
 相変わらず元気で。それは出会ったばかりの時よりも、今の方が明るさを伴っていた。そんな啓輔にしたのは家城自身だという自負はある。そして、啓輔が何より我がままを言う唯一の相手であるという事もだ。
 けれど。
「どうでした、お休みは?」
 さりげない声を出すのはお手の物だ。そして、啓輔の表情がかすかに曇るのを見て取るのもだ。
「どうかしましたか?」
 返事が来る前に問いかける。それに明らかに狼狽える啓輔。
「いや、なんでもない。楽しかったよ。家で……そのいろいろとしててさ、気分転換にビデオも見たし。次の日は本屋に行く用事があって外に出たときに食事して……。おもちゃ屋までつきあわされて……疲れた」
 最後の言葉とともに苦笑いを浮かべた啓輔は、始業開始の時刻だからと、それじゃ、と手を振って仕事場に向かう。
 ビデオ、食事、本屋……。
 きっと啓輔は嘘をついていない。
 けれど。
「相手……教えてくれないんですね」
 家城の固く握りしめられた手のひらに爪が食い込んだ。
 ああ、もう切らないと。
 ふとそう思う。
 いつも啓輔のためにしていた爪の手入れ。だが、来ないと思うとそんな気力もなくて。
 いつもより伸びた爪先を見入った。
 そうだな……、今度啓輔が私と会う日が来るまで伸ばし続けてみようか?
 ふとそう思って、だがすぐに、馬鹿なことをと自嘲する。
 たかだか啓輔が隠し事をしていたと言うだけで、ひどく弱気になっている自分に気がついて、家城はそれを振り払うように頭を振った。
 気になるなら問いただせばいい。
 判らないまま放置するのは性に合わない。真実ははっきりさせないと駄目だ。そうしないと、何も対処できない。
 ただ。
 啓輔の様子があまり変わらないことが気になった。
 啓輔にとって、家城に隠し事をするのは気にすることでもないのだろうか?もしかすると今までもこんなことがあったのだろうか?
 啓輔の手の内はわかりやすいと思っていたけれど、それも嘘だったのだろうか?
 浮かんだ疑問は、たくさんの別の疑問を浮かび上がらせる。
 考えてみれば、悪ぶっていた高校生活を、教師に気づかれずに過ごしたほどの男だ。だますことには長けていると思った方が良い。
 では、何もかも疑ってかかって……。
 慌ててその考えを否定する。
 そんなことできる訳がない。
 それでは恋人などとは言えない。
 何もかも信用して甘い睦言を交わすだけが恋人との関係だという幻想を抱いているわけではないけれど、それでもすべてを疑ってかかるという関係では恋人とは言えないと思う。
「……」
 深いため息を零す家城は、そこが事務所だと言うことも忘れていた。
 いつも冷酷無比を絵に描いたような対応ぶりを見せつけ、鉄仮面と評されるほどに表情を変えない家城が、物思いにふけってため息を吐く姿など、皆見たことがない。
 怖いもの見たさで、皆が家城の様子を窺うけれど。そんな周りの奇異の視線にも気づかないほど、家城が自分の世界に浸っていた。
 そんな品実保証部の面々の仕事が捗るはずもなく。
 週明けの月曜日、仕事はそこそこにあるというのに、品質保証部は開店休業の状態だった。


「あれ、家城さんも残業?」
「隅埜君こそ」
 結局定時を過ぎても終わらなかった仕事に、家城は残業に入る前にと休憩に出向いた。
 その食堂で、少し疲れた風情で啓輔も休憩をしていたのだ。いつもはお茶しか飲まない啓輔が、今日はジュースを飲んでいる。それだけ疲れが体にあるということだろう。啓輔は、疲れが溜まっているときは甘いものを飲みたがる。
 一瞥しただけでそれだけを見て取るほどに、家城は啓輔の事を判っていた。
 その傍らにいるのは鈴木だ。開発部の滝本チームの一人。
 鈴木の癖なのか、小さな声で囁くような話し方でうまく聞き取れない。だが啓輔には十分聞き取れたようで、くすっと笑みを零した。
 その様子に、苛立ちが込み上げる。
「何の話なんです」
 気が付いたら話に割り込んでいた。
「え、あ、鈴木さんの車、この前検査に出したら、代車がエアコン無しで辛かったんだって」
 それは確かに他愛もない話で、家城はほっと安堵した。だがすぐに、こんなことで安堵する自分に戸惑ってしまう。
「まだ暑くはないでしょう?」
 そう尋ねたのは内心の動揺を押し隠すためだ。
「それが雨が多くて、窓が曇っちゃって」
「ああ、なるほど」
 納得して頷けば、はにかんだ笑みを見せて頷かれた。
「でさ、今度乗っけて貰う約束したって訳。土曜にドライブ行こうって」
「え?」
 声がひっくりかえらなかった自分を褒めたかった。
 家城は一気に荒れ狂った心情を、必死で宥めていた。啓輔が伺うように見つめる意味に、ひくりと頬が引きつったけれど、幸いにも鈴木は気付いていないようで、穏やかな声音でゆっくりと喋る。
「ちょうど土曜に実家に行く用事があって。僕の実家、山陰の海の近くなんですよ。たいした用事無いんで日帰りだし、一人で行くのも退屈だから、どうかなって。僕の車の他にも家族の車があるし。見せてもらえるよって」
「隅埜君、行くんですか?」
 まさか、この場で行くなとは言えない。けれど、行って欲しくはない。だが。
「うん……まあ、行きたいかなって」
「隅埜君、日本海にはあまり縁がなかったそうなので」
 歯切れの悪い言葉遣いと啓輔の目が行きたいんだ、と訴えている。
 その期待に、駄目だと言える訳もなく。
「楽しそうですね。きっと隅埜君も楽しめると思いますよ」
「そうだね。ね、鈴木さん、ほんと良い?」
 家城の了承を貰って、確実に声音が変わった啓輔に、家城はこれでよかったのだと自分を納得させた。
 目の前で鈴木と楽しそうに時間を決める啓輔を見ることは楽しい。
 もしかすると啓輔はこんなふうにもっといろんな人達と遊ぶべきなのだろう。家城にはできないいろんなことを、他人から教わって吸収すれば、啓輔はもっと成長できる。
 最近とみに男らしくなったのも、家城だけとのつきあいではなしえなかったろう。
 こんな面白みのない自分とばかりいるよりは。
「家城さん」
 呼びかけられて初めて、家城は自分が俯いていたことに気が付いた。
 情けない姿だと自嘲して、けれどおくびにも出さないで、啓輔と向き合う。
 いつの間にか鈴木が席を立っていたことに、今更ながらに気が付いて、さすがに唖然とした。そんな家城に啓輔が眉根を寄せながら問うてくる。
「やっぱ、止めようか?」
「え?」
 びくりと家城の体が震えた。
 押し殺した声音は、まだ幾人かいる人達を気にしたものだが、その視線は真っすぐ家城に向けられていた。
「ほんとは嫌なんだろ?」
「それは……」
 どんなに繕っても啓輔は、すぐにその綻びに気付く。そしてその原因を察してしまうのだ。不思議なことに啓輔には家城の仮面が効かない。
「俺、櫂以外でこんなふうに誘われたのってなかったから、ちょっとはしゃぎ過ぎたよな。鈴木さんには悪いけど、断るよ」
「けい……」
 名を呼びかけて、だがすぐにその口を閉じた。
 嬉しい。
 啓輔が察してくれたことは恥ずかしいけれど、とても嬉しい。
 だが──。
 本当にこれで良いのか?
 家城を気遣って言ったであろう啓輔の表情が浮かないことに気付いてしまって、素直には喜べなかった。だから。
「構いませんよ、行っても」
「え?」
「行きたいのなら気兼ねなく行って来てください。これが一泊でもするというなら、私も考えますが、日帰りなんです。それに……彼は、そういう相手じゃないでしょう?」
 言葉を選び、何げない風を装えば、啓輔が意外そうな視線を向けて来た。それを敢えて無視して、言葉を継ぐ。
「変わりに木曜の夜でも一緒に食事をしませんか?」
 それは、泊まらないかという問いかけと同じ意味のもので、啓輔もすぐにそれを察した。
「……いいよ」
 この際、平日はしないという約束事など二の次だった。それでも啓輔が受諾してくれたことは喜びだ。
「金曜だと次の日に堪えますからね」
「うっ……」
 ついでに揶揄したのは、ちょっとした意趣返しだった。


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