【高鬼(たかおに)】 2


 今週末会えないというのであれば、週中にでも一度会いたいものだと思った家城は、その件を問いかけようとした。けれども、がやがやと騒ぎながら近くのテーブルにやってきた同僚達に邪魔されて言葉にし損ねた。
 空いた席が少なくて、何人かが家城達と同じテーブルに着く。
 そうなると迂闊なことは言えない。
 もやもやとしたわだかまりを胸に抱えている家城に気づいていないのか、啓輔は、自分より年嵩の人達に親しく話しかけられ、嬉しそうに微笑んだ。
 そのせいで、育ち始めた澱みが、ぐんと一回り大きくなる。
 家城だけだと同じ席で誰も一緒に休憩しようとしないが、啓輔がいると開発部関係の人間達が一緒に席に着くようになってきた。啓輔の友人である櫂がいれば、そちら関係の製造の若い子達と一緒になることもある。
 そうなれば、家城も高山も、少し居心地が悪い。
 だが、二人ともそれが嫌だとは言えない。互いに目を合わせて、わずかに肩を竦めるだけだ。
 会社の人達と親しくしないわけにいかないからだけど──だが。
 彼らは、男、なのだ。
 彼らが啓輔の好みではない、とは判っているのだけど、好みでない啓輔に惹かれた前例を家城自身持っているのだから油断はできない。
 そんな一見無表情の二人の内心など気づきようもない同僚達が、声高にうわさ話に花を咲かせていた。
 それは人の悪口のような物もあったけれど、それはそれで家城にしてみれば面白い情報だった。そんな事を噂される人間も、噂する人間も、それぞれの人となりを知ることができたからだ。
 と、そんな情報を聞いているうちに、気が付いたらうわさ話がどういう経緯か、それぞれの愛車の話になっていた。
「坂木さんってば、えらく高い車に換えたって?」
「ああ、あの金食い虫の?」
「そんな、金がかかんの?」
 啓輔が少しうらやましそうなのは、車を持っていないからだ。入社一年目では、なかなかお金が貯まらない。何より、啓輔は自分の給料だけで生活していかなければならない。
 高卒一年目。
 それで何もかも──家の修理も含めて──賄うには、かなり苦しいと家城に零したことがあった。
 だがそんな事情など他人が知るよしもない。
 未だ、原付バイクでそこそこの距離を通勤してくる啓輔は、こういう時には格好のターゲットだ。
「隅埜もさっさと免許とれよ。で、車買えばいいじゃん」
「んな簡単に言ってくれちゃって〜」
 啓輔達に流れる穏やかな時間は、けれど家城にはほんの少し冷ややかに感じる。
 複数いるのに、1人だけのようなそんな疎外感を感じてしまう。だが。
「家城さんは、車買い換えないのか?」
 啓輔の何気ない一言が疎外感を吹き飛ばす。
「私は……そうですね。そろそろかな、とも思うんですけど。今はこれという車がないものですから」
「あ、それ、僕も思うね。なんか似たようなデザイン多くってさ」
 櫂が賛同する。
 彼の車は軽四の中古車だ。彼の体格にはあっているが、一度助手席に高山を見かけたことがあった。
 それほど大きくはない彼だが、やはり窮屈そうで、櫂もそれを気にしているのだろう。ちらりと視線が動く。
「もうすぐモデルチェンジする車もあるし。でも、あれもまだ乗れるだろう?気に入っているって言ってたし」
 櫂の心配に気がついたのか、ぽつりと高山が割って入る。今のままでいい、と暗に言っているのが判る程度には、家城自身、観察眼はある。そして、櫂が心底嬉しそうにしていることもだ。
 そしてその、非常に珍しい発言にも、皆最近は慣れてきたのか平気で応える。
「あ、俺、今度のって楽しみなんだよなあ」
「まあ、好みの問題だからね」
「鈴木さんは、今なんだっけ?」
 啓輔の問いに鈴木が呟いた言葉は、家城にも聞き慣れない言葉だった。
「こいつ、入社早々買った車がルノーなんだよ。で、いまだにローン地獄」
 他の人に会社名を言われて納得した。
「だって早く返したいって思ったんだけどね〜」
 そういえば、濃緑の外車が確かルノーだったな、と家城はふと駐車場に視線を走らせる。いろんな車がそこにはあるが、彼の車は、目立たないまでも確かな存在感があった。
「へえ、幾ら?」
 啓輔が何気なく言った問いに、鈴木がはにかみながらその金額を耳打ちしていた。
 その刹那、啓輔が目を見開きながら、感嘆の声を上げる。
「うわっ、すげっ」
「だって気に入ったから、ね」
「でもすげ〜よ」
 鈴木はそれほど声が大きくない。
 賑やかな食堂で、自然啓輔の体が鈴木に近づいていた。それはきちんと言葉を聞き取ろうとする行為のせいだろう。だが、その親密さが、家城が胸の奥底に封じ込めていた嫉妬という塊を大きくしていく。
 それでも。
 何を考えている?──と、それを押さえ込むのは容易なこと。
 他愛もない会話で起きた流れであって、鈴木はそんな意図はないはずなのだ。
 だが。
「今度乗せてあげようか?いろんな車乗ってみるのも参考になるし」
「うわあ、乗りたいっ!」
 鈴木の誘いに、啓輔の表情が一気に年相応のものになる。
 うれしそうに目が輝く様は、大人っぽい啓輔にしてみれば珍しいもので、そんな彼を、鈴木もほかの人たちも、おもしろそうに見つめていた。
 それが嫌だ、と家城の心がざわめき、苛立ちを募らせる。
 大人げない独占欲だ。
 恥ずかしい感情だ。
 理性が、家城を制する。
 それは啓輔を束縛する感情だ。
 彼だって友人は大事だし、交友関係は広い方がこの先のことを考えるといいはずだ。
 そう思うから。
 けれど。
 嫌だ、という思いは消せない。
 最近ここまでひどく感情が荒ぶったことはなかった。しかも人前で、だ。
 苛立ちは押さえつけようとする理性とは裏腹に、次第に募っていく。
 止められない、マズい。
 焦りが、家城を動かせる。
「……そろそろ」
 腕時計を見せて促せば、「ああ」と啓輔も頷き返してきた。
 先に休憩にきていた家城達は、もう十分休憩時間をとっている。
 だから、この行為は自然なはずで。
 席を立って食堂を出ながら、そんなふうに言い訳を考える己を恥じた。


 結局、啓輔から「来られない」と聞いた休憩の後、出張や仕事のせいでろくに話をする機会もなかった。
 家城自身会社にいるときは忙しさに残業が続いていたし、啓輔もここのところ連続の残業になっている。そんな様子が判るから、平日に来いとも言えない。
 メールにしてみても、その忙しさのせいか愚痴めいたものになってしまう。
 そんな中、啓輔から「会いたいよお〜」と甘えたメールが入ってきたときには、そこが事務所だと言うことを忘れて顔が綻びそうになった。けれど、その直後に入ったお得意様の電話応対に時間をとられて、結局会えない。
 こんなふうに何かに邪魔されているのではないかと思うほどに、啓輔に会えない時間が長く続いて。
 そのまま週末を迎えてしまう。
 土曜日、やはり啓輔は友人のところに行ったのか、家城の元には来やしなかった。
 この期に及んで、友人との約束より家城を優先することを望んでいたのだと、ふと我に返って──苦く自嘲する。
 啓輔の来ない週末は、家城にとって退屈でしかないものになっていた。
 前までなら、本を読んだり、ビデオに撮った映画を見たり。
 普段出来ないことをする格好の日であったはずなのだ。
 だが、彼が来るのが当たり前になった時から、一人でいるのが苦痛になった。
 それは、告白していない、あの無理矢理に来させていたときからずっとだ。
 啓輔が来たからと言って、やることが変わる訳ではない。だが、啓輔のいない週末は確かに酷く侘びしいものにしかならない。
 それに、今回は何故だか不安がつきまとう。
 会社ではごく普通に話をし、特に厭われている様子もない。啓輔の仕事が切羽詰まって休憩に行けない時に、隣でその様子を眺めていても、「暇なら手伝え」と文句は言っても、その表情は嬉しそうだった。
 誰もいなくなったときに乞えばキスもする。
 乞わなくてもしかけてくる。
 それはいつもの啓輔だ。
 だが。
「啓輔……」
 独りごちて、引き剥がすように携帯から視線を逸らす。
 家城以外誰もいない部屋は、冷たく静かだ。
 所在なげに視線を惑わせて、結局数秒も保つことなく、家城は携帯に視線を移した。一つ小さなため息を吐いて、もう一度だけ、と逸る気持ちを納得させ、手の中で弄んでいた携帯を開いた。
 こんなにも不安になる要因は、啓輔の言った友達が誰か判らないせいだろう。
 夜が更けるにつれ、時間が経つにつれ、その不安は大きくなる。
 泊まり込んでまでの相談とは一体なんだろう?
 その内容が見当もつかなくて、家城の不安は余計に増していく。
 なにしろ啓輔の性癖は、同性に向けられている。
 たとえ「友達」というものであっても、安心など出来やしない。
「節操無しだし……」
 つい愚痴めいてしまうのは、彼の若さにもよるところが大きい。
 少なくとも家城よりは旺盛な性欲が、2週間も触れずに保つとは思えない。
 そんなことを啓輔に言えば、「そんなことはないっ!」と怒られて、余計に意地を張って会おうとしなくなるから、口には出せないけれど。
「いったい、誰と会っているのか?」
 せめてそれさえ判ればいいのだろうが、タイミングが悪いのか、それとも啓輔が故意にはぐらかしているのか、その返事を聞いてはいない。
 今日の昼頃、ふと思い出したことがあって何度か電話したけれど、ずっと圏外か電源が切れているというメッセージが流れていた。もっともそれは、どうにか繋がった時に、さっきまで映画を見ていたと、素直に謝られてしまい、責める言葉が継げなくなる。
 そんなこともあって、何度も電話するのも大人げないような気がして、次ができない。
 かけたいけれどかけることのできない手の中の携帯を何度も握りしめ、家城はその感触を苦く思いながらそれを見つめていた。
 友達と会っているだけなのだ。
 そう思いこもうとして。
 だが、何かが頭の片隅でちくりちくりと刺激してくる。それが気になってしようがない。
 だからこそ、手の中から携帯が手放せない。
 啓輔から『迎えにきてくれ』といつもの明るい声でかけてきて欲しいと切に願っている。
 けれど、ずっと待っていても携帯は沈黙を保ったままだった。
 結局、家城の方がもたなかった。
 手が誘われるようにボタンを押していく。
 出るだろうか……。
 時刻は深夜の11時を過ぎようとしていて、今なら出ることが出来るだろうし、宵っ張りの啓輔ならまだ寝ていないだろうと思うから。
 けれど。
 長く続いた呼び出し音に、家城は深いため息をついて携帯を閉じた。ぼんやりと光っていた背面のディスプレイが消えるまでそれを見つめる。
 友達と会っているからといって、携帯に出られないということはないと思う。
 それとも家城のことを気にしないほどに、その友達との話に熱中しているのだろうか?
 零れるため息に、家城は己の女々しさを感じて、自嘲の笑みを口の端に浮かべた。


TOP    BACK    NEXT