【高鬼(たかおに)】 1 高鬼:鬼ごっこの一種。鬼より高いところに逃げるとOK。 ただし手が届くと駄目というルールがある場合も。 |
家城の恋人──隅埜啓輔は今19歳だ。 高卒で入社してそろそろ一年。 入社当初から、少し斜に構えたようなところもあったし、誰も知らない家族の確執から精神的には同年代よりは大人びてはいたけれど、それでも年相応の態度が見られることもあった。 けれど今は、それがどうだろう。 黒かった髪をほんの少し栗色に染めて、前髪を少し上げ気味にし、サイドの髪をバックへと軽く流す。 髪型を変えただけなのに周りの見る目が変わる。 外見だけでなく、知識も大人にふさわしいものとなり、内実ともにバランスのとれてきた啓輔は、より大人らしく、仕事もこなせる頼もしい男へと変化していた。 頼れると、誰もが認めていけば、さらにつきあいは広がり、受ける知識も広がっていく。高校までとは違う世界の友人たちから入る情報が、どんどんと彼を変化させていっていた。 それは、家城にとってはやはり好ましい変化だ。 恋人の変化は──何より、その変化が陽性のものであるのだから、嬉しいものでしかない。 だが、その変化は、家城以上に周りの女性たちにも好ましいものであったようで。 休憩に行きすがらにすれ違った女の子達に呼び止められ、仲良く雑談に興じている恋人。 さすがに内心では平静ではいられないが、培ってきた鉄仮面はそんなことで外れない。 微かな笑みは愛想笑いの何物でもないが、ちらりと横目で窺ってくる啓輔以外は気付きやしない。 もっとも、女性の視線の意味などすでに理解している。 彼女たちにとって、家城は眺めて楽しむ花なのだ。 傍らにいて、愛でることはできても、積極的に手折ろうとすることはできない。その高価な花が自分たちでは扱いきれないことを、知っているからだ。 だが、啓輔は。 笑いさざめく輪はさらに人を増やして、通路を塞ぎかけていた。その中で如才なげに応える啓輔はぐっと大人びていて、一年ほど前のおどおどした雰囲気などどこにもない。 そんな啓輔は、彼女たちにとって手の届く花なのだ。手に入れて愛でたいと、彼女たちの瞳が訴えている。 けれど。 「……それじゃ」 啓輔は、そんな彼女たちに興味はない。 「ごめん、待たせた?」 彼の性癖は同性に向けられているのだ。 だから、いくら啓輔の回りに女性が群がっても、不快ではあっても平気な顔を見せることには、何の労力もいらなかった。 その啓輔が歩み寄ってきた刹那、ふわりとシトラスの香りが漂った。くどすぎない、ほどよい香りだ。その香りに家城が顔を顰める。それは最近の啓輔が好んで使うローションの香りだと知っていた。 だが顰めたのは、嫌いだからでない。 その香りは、甘い記憶をくすぐる。触れあわんばかりに近づいた時に、特に強く香るそれは、類い希なる快感とともに記憶に植え付けられていた。 「家城さん?」 少し笑みを見せた啓輔のどこかからかうような表情は、その効果を十二分に知っているからだ。──香りと行為の記憶を複合化して、家城の記憶に植え付け、事後のシャワーの後も使ったから、寝るためにベッドに入った後もふわりと漂った。 その官能の記憶を持つ香りに、家城は微かに目を細めた。 「まったく、あなたの悪知恵には感心しますね」 「だって、少しは勝ちたいからね」 「誰の入れ知恵ですか?」 あの時まで、ずっと無香料のものしか使っていなかったのに。 ごく普通の香りを媚薬にするという、そんな娼婦の手管をいったいどこから仕入れたのか? 不思議に思っていた家城だったが、啓輔は小さく笑っただけで、視線をそらした。 「内緒」 短い単語だけを残して、啓輔の歩みが速くなる。 それはどう見ても答えたくない質問から逃げているのだろう。 だが、食堂に近づくにつれ多くなった人々に、際どい会話はこれ以上は無理だ。もっとも、この程度では他の人たちには何のことか判らないだろうけれど。 家城とてその程度の配慮はしているが、この慎重そうで実は無鉄砲な恋人は、時に無茶をしてくれる。こんな場所ではこれ以上の尋問は無理だった。 だが、こういう戯れも心地よくて家城は好きだ。 「まだ多いね」 人の多さに閉口したように振り返った啓輔の顔に、食堂の明かりが深い影をつくる。 「今日は、櫂もこの時間だって。高山さんも来るんだろうな」 「彼らも、ですか?」 啓輔の言葉に家城はわずかに目を見開いた。 啓輔の友達の櫂は、ようやく思いを遂げたのだと啓輔経由で聞いている。もっとも、そういう目で見てしまう家城からすれば、聞かなくても彼らの動向はバレバレだ。 何しろ彼らは、隠すことなくいつも一緒にいる。 天真爛漫な櫂とまじめで寡黙な高山が一緒にいれば目立つ。それは自分たち以上だとは思うけれど。 「不思議ですよね」 テーブルに着きながら、食堂の入り口に顔を見せた二人に気づいて視線を向けた。 仲がいいというより、元気な子供と落ち着きのある保護者と評されていることも知っている。その二人は、今は櫂が一方的にしゃべっているようだった。 だが、家城にしてみれば、この二人が連れ立っていると、自信のない高山を世話好きな櫂が引っ張り回している、としか見えない。 櫂といる高山は、エリート然とした雰囲気がかなり消えてしまうのだ。そして高山もそれでもいいと思っている節がある。 「まあ、櫂が気に入ったんだから、それでいいんじゃない?」 啓輔が苦笑して返す。 まあ、確かにそうだろう。 たとえ見た目がどんなにミスマッチであっても、相性というものはまた違うものなのだから。 きっと、高山も家城達のことをいろいろと観察しているだろう。 たまに窺うように見られていることがある。あまり表情は変えないけれど、それでも家城よりははっきりと判る表情の変化。 彼は、ただ感情を表に出すのが苦手なだけなのだ。 そういう相手とつきあうのは、感情豊かな人間とつきあうよりは難しい。が、それでも高山が傍にいてもあまり気にならない。 やはり互いに知っているということが、緊張をほぐすのだろう。 そんなことをつらつらと考えて、二人がこちらに向かうのを眺めていた時だった。 「あの、さ……」 啓輔の言いづらそうな声音に反応するかのように、家城の眉間に薄いしわが寄った。 それでも振り向くころには、そのしわも消える。 「何です?」 さりげなく返すのは慣れている。 こんな風に問いかけられるときは、たいてい厄介ごとか、頼み事か。それは、別に啓輔だけとは限らない。 「ん〜と、今度の土日も友達と会うことになっちゃって」 「え……」 さすがにそれには驚いて、驚きの声が勝手に漏れた。ワンテンポ遅れて、あわててその口を閉じる。 だが、啓輔は何を言った? また、土日に? 「どうしても、って言われてさ。なんかいろいろと相談されて……。ややこしいんだよな〜、その相談内容が。でも、俺しか相談できないって言われちゃ、なんか断り切れなくなっちゃってねえ」 「先週もそんなことを言っていましたが?」 啓輔が友人と会うというので、先週末は会えなかった。 それが今週も、だというのだろうか? 週末、金曜日の夜から土曜日は、啓輔が家城の家に泊まりに行くのが通例になっていた。そのまま日曜までいることもある。だが、それがダメになったのは、その啓輔の友人のせいで。 平静を装ったつもりでも、啓輔は気がついたのか苦笑を浮かべた。 「ごめん、でも、どうしてもって言われて……。土曜か日曜だけって交渉したんだけど、もう一回だけって言われてさ。泊まり込みで相談受けるから……な?」 その友人のことでも思い浮かべたのだろうか? 困ったと口にしながらも、まんざらでもないような表情が浮かんでいる。 頼られるのがうれしいのだろうとは思う。 しかし、そんな表情は啓輔の性癖を知っている家城としては、黙って見過ごすことなどできない。もわもわっとしたどす黒い澱みが胸の内に生まれ、狭い気道を無理矢理這い上がろうとする。 それを矜持というもので押さえ込んだ。 こんなことで取り乱すのはあまりにも愚かしい。その矜持は、家城の鎧を強固にする。 「啓輔だけ、というのはその方も相当相手がいないのですねえ。気の毒なことで」 うっすらとした笑みは皮肉が込められていて、席に着こうとした高山がびくりと反応する。そんな彼には軽く頭を下げた。 ちらりと啓輔と家城を交互に見やった高山は、結局何も言わずに席に着く。その隣に座った櫂は、異変には気づいていないらしい。席に着くか着かないかの内に、高山に向かってしゃべり始めた。 その内容から、どうやら今度の週末にドライブに行く算段をしているらしいと判る。 だが。 「確かに相談する相手ってのはいそうにないんだよ。だからさ、もう一回だけな」 啓輔は櫂達の話より、そのことが重要だとばかりに家城に畳みかける。 「今週も……」 隣の仲睦まじい様子が、妙にしゃくに障る。 ここで啓輔の頼みを許可すれば、また会えないのだ。 週末の逢瀬は、体の繋がりを意味している。 毎日だって抱き合いたいと思う相手だが、体への負担を考えて週末だけにしていた。それなのにまた今度も会えないとなると、二週続けて駄目だというわけなのだ。 「だから、また今度ってことで」 だが、啓輔がここまで頼むのであれば、嫌とは言えなかった。 彼を束縛はしたくない。 どんなに好きな相手であっても、プライベートというものはある。特に啓輔は、会社に入って完全に過去の一時期と決別している。家庭生活の破綻から、荒れていた時期だ。そのせいで、啓輔が今も親しくしている友人はとても限られているのだから。 だからこそ、今も残っている交友関係は大事にしてほしいという願いはある。 だから。 「そうですか、しようがないですね」 と、呟いたけれど。 嫌だという本音が、胸の内からため息になって迫り上がってきて、それを家城は慌てて飲み込んだ。 |