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薊の刺と鬼の涙 (23) |
「……お前……何やった?」 啓輔の姿を一目見た途端、白衣姿の佐伯は穂波をじろっと睨んだ。 「……私じゃない……」 苦虫を噛み潰したように顔をしかめる穂波に、佐伯はふんと鼻で笑って啓輔へと向き直る。 「穂波さんのせいじゃ……ないから……」 「ああ、判っている」 庇うように呟いた啓輔には、安心させるように柔らかく微笑んで、横たわるようにその体を軽く押した。 「ああ、敬吾君だったね。そいつを連れて、この子の着替えと……レトルトで良いからお粥を買っておいで。あいにく、食事の時間は終わっていてね。少しだけでも、食べた方がいいし」 「はい、判りました」 そういえば、と、佐伯の指示に敬吾は頷いた。啓輔の服は、ゴミ箱の中に突っ込まれていて、それは単なる布切れと化していたのだ。 「それから……君はついているかい?」 視線が家城に向けられる。 「はい」 「さて、私は外で待っていよう。先生、そっちが終わったら、ちょっとだけでいいからこいつも見てやってくれ。このまま放って後遺症でも残されると、ややこしいことになるからね」 「ああ、外のソファにでも転がして起きなさい」 槻山がひきずるように連れてきたタイシを一瞥して、佐伯は顔を顰めた。だが、啓輔よりは格段に冷たい視線に、佐伯は何も聞いていなくても事情を理解したのだと知った。 前に穂波にインフルエンザをうつしてしまった時に往診に来てくれて以来、親しくしている佐伯は、あの穂波ですら敵わない一人なのだから。 「敬吾、行くぞ」 穂波に連れられて診察室から出て行くとき、ちらりと向けた先で啓輔は力無く横たわったままだった。 無事助けられたけれど、まだ啓輔自身がどんな目にあったのか詳しい状況はよく判っていない。 ただ、タイシに呼び出されたのだと。そして、タイシが槻山を敵視している輩と手を組んで、お気に入りだと言われた啓輔を嬲ったのだと。それだけが、かろうじて聞けた。 それだったら、と敬吾はほぞを噛む思いで唇を噛みしめたものだ。 槻山のお気に入りだというのなら、敬吾もその標的にされてもおかしくはないのだ。なのに、啓輔が呼び出されたのは、タイシが啓輔をよく知っていたからだろう。そして、敬吾を庇い続けていた啓輔を知っているから。だから敬吾をタテにしたのだと考えてもおかしくはない。 目を瞑って甦るのは、紐で縛められた痛々しい啓輔の姿だ。 それに、まだ啓輔は知らない。 ここに槻山がいる理由も、家城があの日の事を知っている事も。 まだ何も知ってはいない。 「敬吾?」 「あ、ごめん……」 呼ばれて追いかける先にある穂波の背中を見つめて、敬吾は自分自身の問題も片づいていないことを思い出した。 槻山に抱かれて、啓輔にも抱かれて。 それを知った穂波がまだ何も言っていない。 いつもと同じようにそばにいてくれる穂波に、自分は一体どうしたらいいのだろう? 啓輔にかまけて後延ばしにしていた問題を意識した途端に敬吾は息苦しさを覚えて顔をしかめた。 「穂波さん……」 車に乗ってすぐに、敬吾はいたたまれなくなって声をかけた。 運転していてまっすぐ前を見ていた穂波が横目で敬吾を窺う。 「ごめんなさい……」 言った途端に、目の奥が熱くなって慌てて俯いた。 家城の部屋で、混乱したままに謝った覚えはある。だけど、今もう一度ちゃんと謝りたかった。 心配かけて、なのに誤魔化して……だけど責められなかった。 ずっと信じていてくれた。 それでも敬吾が取った行動はもしかすると間違いだったのだと、あんな啓輔の姿を見ていると思ってしまう。 「お前は……謝ることはない。あの時、聞かなかったのは……お前のためだと思っていた。が、実は自分のためでもあったのも確かだからな」 自嘲めいた嗤いが車内に響き、驚いてその横顔を見つめる。 きりりと引き締まった横顔が確かに歪んでいて、見ている敬吾の胸を締め付ける。 「帰ってきた様子を見て、聞けなくなった……というのが正解だな。家城さんがあの場にいなければ、もしかすると逃げ出していたかも知れない。お前が……明らかに情事の後だと臭わせていたから、そんなお前を見たくもなかった。あの時、家城さんに、責めないでおこう、と偉そうに言っていなければ、お前を壊していたかもしれない。それほどまでに、頭が白くなっていた」 「でも……さ……あの時、ほんとうは言わなければならなかったんだよな。隅埜君と何があったか……あのタイシって子に捕まったんだって……はっきり言っていれば、隅埜君がこんな目に会わなかったのかもしけない。幸人に相談していれば、隅埜君が一人で会いに行くこともなかったろうし、あんな……悲惨な目にも遭わなかったと思うし……」 隠そうとしてついた嘘のせいで、別の隠しようもない事態になって。 そして、その原因である隠したかった事柄が晒されてしまった。 「俺……何していたんだろう……」 啓輔を守りたい。 そう思ったのに。 俯く顔が悔しさのあまりに歪んで、その頬に涙が流れる。 槻山に抱かれるよりも酷い行為に晒された啓輔を、守ることなどできなかった。 「敬吾は、何に悔いている?」 ぽつりと落とされた呟きに落としていた視線を上げた。対向ライトに照らされ、穂波の横顔に影を作る。だから、どんな表情をしているのかはっきり判らなかった。 「俺は……守れなかった……」 結局はそれにつきるのだ。 嘘をついたことも悔いることかも知れない。 だけど、一番の問題は、それだ。 「お前は……少なくとも槻山からは守ったのだろう?それで十分だ。それ以上のことは、四六時中ついていない限り、できるものではない。それを言ったら俺だってお前を槻山の手から守ることができなかった。誰にだってできることに限界はある。それがどんなに悔しかろうが、な」 「幸人……」 「お前はよくやったよ」 その言葉に少しは救われた気がした。 確かに四六時中ついてはいられない。だから啓輔を守りきることは無理。 「お前はできることをした……。事の発端はお前達があのタイシって奴に会ったことは間違いないが……。それは偶然でしかない。敬吾がどう足掻こうとどうしようもなかったことだ」 気が付いたら車が止まっていた。 少し広い車線の、待避所のようなところ。 「だが、お前が自分が許せないと思うのは判る。お前は──あの子が可愛くて堪らないんだろう?俺が止めろと言ってもあの子に関わるのを止めるどころか、ひっついていて……俺がどんなに嫉妬していたか判っているのか?」 ため息に混じる穂波の本音に、敬吾は堪らずに微笑んだ。 「そだね……。隅埜君はなんかさ、守りたいって思うんだ。あんな目に遭ったのに──それに、好かれるってのは気持ちいいよね。たとえ、その好きって思いが純粋でなくても、それでも彼から受ける好意は嬉しいんだ。他の誰でもそんな気にはならないけど……」 「庇って槻山に抱かれてしまうほどにか?」 「……」 穂波の言葉に混じった嫌味に、敬吾は息を飲んだ。だが、気を取り直す。 今までのいつもと同じような会話が、敬吾に自信と勇気と、そして安心感を取り戻させていたから。 だから。 「薬のせいだからね……。それに、幸人が俺の体を玩具で開発なんかするから、体の方が屈服しちゃったんだよ」 冷たく言い返す。 それは事実だ。 「……お前……」 穂波が息を飲んで、眇めた視線を送ってくる。それに嗤って。 「誤魔化したらとんでもないことになったから、ちゃんと言うけど」 言うことなんかできないと思っていた。 穂波がどんな目で自分を見るのかと思っていた。 だけど、やはり穂波だから言わない方がマズいと思った。 「俺は、何回も槻山に抱かれたよ。そして何回も達ったしね。自分でも強請った覚えがあるし。隅埜君にも一回抱かれたけど、それで感じたのは否定しない」 内容の深刻さなど気にしないように茶化すように事実だけを伝える。 「お前が感じやすいのは……俺のせいだしな……」 穂波が小さな息を吐き、自らの責任だと自嘲気味に口許を歪める。そこに、敬吾を責める様子は無かった。 「でもさ……」 責められないと、罪悪感が増すのはどうしてだろう? 茶化すことも実は素直に告白できない自分を誤魔化すためだったのだが、それを受け入れられると妙にいたたまれなくて。 だが、暗く沈みかけた敬吾を穂波が顎に手を当てて顔を上げさせた。 「俺は……お前がこうやって戻ってきてくれたことが一番嬉しい。憎むべきはあのタイシであり、槻山であって、敬吾でない。敬吾が自分の意志で槻山の元に行ったのなら、お前を責めていたかも知れないが……。そうではないだろう?」 穂波の言葉に目を見開いた。 口が勝手に言葉を吐き出す。 「意志なんかなかった……」 「だったら……いい」 唇が塞がれる。 あっという間に肉厚の舌が口内を暴れ出して、瞬く間にそれに翻弄された。 「ん……あ……」 「キスも久しぶりだぞ」 くつくつと喉の奥で嗤われて、ああ、そうか、と手を伸ばす。 いつもなら会ったら挨拶のように交わすキスも、バタバタとしていてまだしていなかった。 いつもと同じ。 穂波がいつものように敬吾に接してくれようとしている。 それが堪らなく嬉しい、けど。 「ゆきと……他人に抱かれた俺でも……いい?」 「ばか」 揶揄を多分に含んだ言葉は、敬吾の口の中に消えていく。 このまま、最後まで愛して欲しいと願うけれど、隣をすり抜ける車のヘッドライトの光が車内を照した。 もしかすると見えるかも知れない、と思うのだが、離れられなくて穂波の背に回した腕に力を込める。だが、結局、穂波の方から体を離した。 「とりあえず、買い物が先だな」 穂波が苦笑を浮かべて離れるのを名残惜しげに見つめる。 「そんな顔をするな」 「え……?」 半ば夢見心地の状態で、ぼんやりと聞き返すと、穂波が肩を竦めて笑う。 「物欲しそうな……誘う顔」 「え……って、そんなつもりはっ!」 惚けた頭が一瞬にして現実に立ち戻り、穂波のあからさまな言葉に顔が熱くなった。 「お前の瞳が濡れて、周りの灯りが反射している。まるで、夢見ているように揺らいで、俺を誘う……。本当なら、このままどこぞのホテルにでも直行したいところだが……」 ひそめた眉が穂波の苦悩を物語っているようで、敬吾も大きくため息を吐いた。 「そうだね。頼まれた買い物を先に済ませようよ。あんまり遅くなると先生に何を言われるか」 そこまで言って佐伯と穂波のやりとりを想像してしまった敬吾がくすりと笑うと、穂波の顔が苦渋に満ちていく。 「そん時はお前も同罪だから」 ものの数分も走らせないうちに目的地に着いた。 かちゃりと音がして、ドアが開く。 もう急ぐことはない。今、穂波はここにいるのだから。 自分は穂波のところにいるのだから。 車から降りる敬吾を穂波はじっと待っていて、そんな彼にふと浮かんだ疑問をぶつけてみる。 「隅埜君……Lサイズかな……?」 「ああ、そういえば聞いていなかったな。細いけど身長があるし……。パジャマだけはLLでも買っとくか?大は小を兼ねるっていうし」 「そうだね」 こんなやりとりができることが幸せで。 敬吾は心から笑うことができた。 |