薊の刺と鬼の涙 (22)


 槻山が敬吾達を連れてきたのは古ぼけたマンションの一室の前だった。
「ここか?」
 敬吾ですら、いや、敬吾だからこそ滅多にみたことのないほどに穂波の瞳が剣呑な光を宿す。
 その友好的でない視線に、槻山は肩を竦め、おもむろに携帯を取り出した。
「このままドアを叩いてもいなかったらしようがないからね」
 敬吾に向かって鮮やかにウィンクをすると、槻山が慣れた手つきで携帯を操作する。それを敬吾も穂波も、そしてその傍らで家城がじっと見つめていた。
 そんな家城を敬吾はちらりと見つめ、そしていたたまれなさに視線を落とす。
 槻山の部屋を出てから、家城は一言も口をきいていなかった。
 あの時、槻山が啓輔を抱いていないと行ったときの安堵した顔は忘れられない。と、同時に啓輔が敬吾を抱いたと知った時の驚愕する顔も。
 滅多に感情を表さない顔が、あんなに短時間に、しかもはっきりと変わるのを見る者はそういない。
 だからこそ、家城の受けた衝撃の大きさを思って、敬吾は奥歯を噛みしめていた。
 それはとりもなおさず、知られたことに対する啓輔の衝撃にもなるだろう。
 そんな気がしていたのだ。
 だからこそ、啓輔が誤魔化そうとしていることに乗ったのだから。だからこそ──啓輔を守りたいと体を張ったのだから。
「いるよ」
 一言二言会話してから、槻山がくすっと楽しそうに笑う。
 それはタイシがいると言ったつもりなのだろうが、敬吾には啓輔がいると言っているように聞こえた。
 途端に穂波が、そして家城がドアへと向かおうとして。
「開けなさい」
 携帯に向かって言葉を発した槻山が誰よりも早く、ドアを蹴っ飛ばした。
 激しい音に、向かおうとした穂波たちの動きすら止まる。
「あんた……」
 思わず見つめて、ごくりと息を飲むほどに、槻山は先ほどまでの笑みを消して険しい顔つきをしていたのだ。
「私は、自分のお気に入りを奪われて、黙っているほどお人好しではないからね」
 それは先ほどまでの笑みがなんだったのかと思えるほどに冷たく、感情が窺えないものだ。
「誰がお気に入りです?」
 これまた無表情な家城が冷たく突っ込む。
「そうはいうけどね〜、彼は可愛かったよ。時間さえあればもっともっと楽しみたかったくらいだ」
 ほんの少し家城をからかうために緩んだ表情は、だがすぐにきりっと引き締まった。
「私はね、楽しければいいと思っている。男を抱くのも楽しいからだ。面倒な事なんてそうそうないし──ただ相手を見つけるのが厄介なだけだがね。だが、私はサドではないし、マゾでもない。嫌がる子を苛めるのはすきだが、それは相手が可愛かったら当然の欲求だろう?あの子は可愛かったよ。まだまだ遊び足りないくらいね」
 途端に穂波が微妙に顔を歪めて、家城が視線を逸らした。
 ──心当たりがあるんだ……。
 一人眉間にシワがよる敬吾に、槻山が肩を竦めて、そしてそれを振り切るように再度扉を蹴っ飛ばした。
「だが、そんな彼を奪われて──。この中の男がケースケ君を連れて行ったという保証はない。だが、私は今の電話の対応で、そうだと思った。これでも勘はいいんだ。そして、私は楽観主義ではない。いつも最悪を考える。最悪を考えるからこそ今までこうしてやってこれたんだ。そんな私が最悪の事態を想像して──怒らずにいられると思うかい?」
 響く音とその声音のおどろおどろしさに、びくりと怯えたように体が震えたのは、そこに一瞬で張りつめた空気のせいだ。
 そんな敬吾を庇うように穂波が前に立つ。
「お前に捕まった時もこのふたりにとっては最悪だったろうよ」
「それでも……私は帰してあげたよ」
 途端に槻山に浮かんだどこか寂しそうな表情に魅入られた。
「お前?」
 穂波が何か言いかけて、だがその言葉は中空に消えた。
「何か用ですか?いきなりでびっくりしましたよ」
 二度と聞きたくもなかった声とともに、ドアが開いたからだ。



「啓輔っ!!」
 その僅かに開いたドアを家城が引き剥がすように広げた。
「ちょっと、あんたっ!」
 タイシが止めようとして手を伸ばすのを、穂波の腕が捕まえる。
「よう、また会ったな」
 どうして人は他人に対して怒る時には嗤ってみせるのだろう。
 寒気がするほどの笑みに、タイシの体が明らかに硬直して、敬吾はその隙に部屋の中に入り込んだ。後ろを槻山が続く気配を感じながら奥へと進む。
 締め切られた部屋はどこか蒸し暑く、局所的にエアコンの冷気が当たって、鳥肌が立つ。喚起が不十分なのか、すえた臭いが充満していた。それは男なら誰でも記憶にあるあの臭いで、敬吾は顔をしかめて室内を見渡した。
 だが。
 それほど広くない部屋に、タイシ以外は誰もいないようで、人の気配はない。
「おかしいな。ここにいると思ったのだが?」
 のんきな言葉に、焦りが助長される。
 ここにいないとしたら、一体どこに?
 ぷっつりと切れてしまう手がかりに、敬吾は収納のドアを開け放っていく家城の姿を追った。
 ここにいて欲しくないけれど、だが、いて欲しいと願っていた。
 だが、どこにも啓輔はいない。
「おや?」
 焦りがピークに達した時、槻山が訝しげな声を上げた。
「何?」
 一番近い位置にいた敬吾だけに聞こえた声に問い返し、そして槻山が奥まった一室の開け放たれた押入の箱を指さした。
「動いた」
「え……あっ、家城さんっ、そこっ!」
 テレビの箱だった。
 現に片隅に同じメーカーの箱がおいてある。押入にすっぽり嵌るが故にもの入れになっているのであろう箱。
 だが。
 それが小さく揺れている。
「ここですね」
 家城が手をかけると、それを一気に引き裂こうとしたが、梱包用の段ボール箱は簡単には破れない。それでも大の男が三人も同時に引っ張れば、裂ける音ともに一面が破れていった。
「啓輔っ!」
 隙間から見えた布の下。僅かに見えたのは白い人の肌だ。
 蒼白にすら見える肌に、敬吾達は本当に最悪の事態を考えてしまう。
「大丈夫だ、生きている」
 先ほど動いた、と言った槻山が安心させるようにこくりと頷いた。
 それに勇気づけられて、再度箱を引き破る。
 包まれた布。
 乱雑に回された紐。その下で確かに動く気配がする。しかも、呻く声すら聞こえてきたのだ。
「啓輔っ!」
「隅埜君っ!」
 慌てていて紐がうまく解けない。無理に引っ張れば痛みを与えてしまうのか苦痛を訴える声が漏れてきた。だから、急いで解きたくてもなかなか解けない。
 それでも、解けて。
「啓輔……」
 そのまま家城が息を飲んで手を止めて、敬吾は堪らずに視線を逸らした。

 
 布の上から巻かれていた紐よりもさらにきつく縛めるように結ばれた荷紐は、啓輔の肌にきつく食い込んでいた。目のすぐ上にすら巻かれて瞼を開けることもできないようだ。その口には布状の物が押し込められ、やはり紐が口の端に食い込むほどに巻かれている。
 他の部分もその紐のせいだけでない痣がいくつもついていて、肌の色を斑模様にしていた。
 しかも。
「外してやれよ」
 押し殺すように言った槻山に家城が手を伸ばす。
 啓輔が味わっている苦痛が伝わったように、眉をしかめながら、家城は啓輔の後孔に突き刺さっていた異形の物をゆっくりと引き出した。
「ひっ……」
 敬吾達の手によって戒めが緩められて、ようやく啓輔が声を発した。だが、家城の手が動くたびに走る痛みを堪えているようで、喉が詰まったような悲鳴に近い。
「もう……大丈夫だから……」
「う……あっ……」
 抜かれたそれは、幼児の腕ほどもあって、その拍子に落ちたのは鮮血だ。
「啓輔……もう、助かったんですよ」
 家城の手が啓輔に触れて、そしてそっと赤ん坊を包み込むように抱きしめる。それに敬吾も、そして槻山も手は出さなかった。
「じゅ……や……?」
 掠れた声がようようにして喉から出てくる。微かな、他の音があれば紛れて届かないような音でしかないそれは、顔を歪めた家城には届いたのだろう。
「……そうですよ」
 何かを堪えるように喉を詰まらせて、それでも微かに頷いて答える。
「じゅん……や……」
「啓輔……申し訳ありません、遅れて」
「じゅんや……じゅん……や」
 啓輔は何度も家城の名を呼んでいた。
 震える腕を伸ばして、力の入らない指先が家城の頬を辿る。
 きつく縛られたせいか、啓輔の瞼は震えているにもかかわらず、まだ開けられていなかった。
「医者に連れて行かないと」
 押入から柔らかそうなタオル地のシーツを引っ張り出した槻山が呟いたのを聞いて、敬吾も硬直したままであったけれどそれでも頷いた。
 酷い……。
 打撲痕のせいでまだらになった肌も、苦痛に歪められたままの表情も、そして、その弱々しげな声音も。それは、いつもの啓輔からすれば、まるで別人のようだった。
 だからこそ痛々しげで、はやく手当をしてあげたくて。なのに、敬吾自身はその応急手当をする知識も技量もなかった。
「車に運ぼう。救急車を呼んだ方がいいんだが……」
 それには誰もが首を振って否定する。
 何より、啓輔が。
「いや……だ……。俺……だいじょーぶ……だから……」
 家城に縋りながら嫌がった。それこそ動かない体を身動がせている。
「だったら……どっか心当たりがないか?医者……」
「医者……あ……」
 途端に最近すっかり仲良くなってしまった一人の医師の姿が浮かんだ。
 そして、その医師と特に仲が良いというと怒りそうな彼の姿を探し出す。
 そういえば、穂波がタイシを捕まえていたのだ……と。
「医者か……それなら、心当たりがある」
 いつから話を聞いていたのか、ずっと姿の見えなかった穂波が部屋の入口付近に立っていた。その眉根が寄せられて、痛ましげに啓輔を見下ろしていた。
「連絡を取るから、その子を車に運べ」
 その傍らに、口から鼻から血を流し顔を腫らした男が床に転がっていた。
「大丈夫?」
 別にタイシを気遣ったわけでなく、やりすぎて穂波が公的に責められるのが嫌だったからだ。
「加減はしてある」
 口許に浮かぶ笑みがひどく冷たく、敬吾はぶるっと悪寒に身を震わせた。
「それより、敬吾。先生になんと言い訳すればいいか考えといてくれ」
 今度は困ったように嗤われて、敬吾もようやく口許をほころばせた。
「ああ、判った」
 穂波ですら頭の上がらない老医師に、どんな誤魔化しも聞きそうになかったけれど。
 それでも敬吾は大きく頷いた。

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