薊の刺と鬼の涙 (24)


 見上げる先で細い管の中に透明な液が一定の間隔で落ちていく。
 それをぼんやりと啓輔は見上げていた。
 ぽた、ぽた……と繰り返される動き。
 この病院に来てから、ようやく視野が元に戻ったような気がする。それまではずっと目がちかちかとしていて、焦点を合わすこともままならなかった。
 闇の中に無数の小さな光が瞬いて、焦点が合わない。それだけがあの時の啓輔の世界だった。
 だが縛められていた紐を解かれて、体内を圧迫していたそれを抜かれて、それでも啓輔には自分が助かったという感覚はまだなった。
 それを認識したのはいつだったろう。
 確かに助かったのだと、強張った体から力が抜けたのは、どの瞬間だったのだろう?
 痛みと恐怖に苛まれ、震える体を抱きしめられた時のことは覚えている。
 では、助かったと思ったのはその時だったのか?
 啓輔はずっとそればかりを考えていた。
 ここにきて、医者らしき人が冗談めかして穂波に話しかけているのも、敬吾に親しく話しかけているのは、もっとずっと後だった。
 あの時には、何が起きたか、誰かに話していて……。
 聞かれるがままに喋ったから、自分が何を話したのかなんて覚えていない。
 ただ、何かを話していないと、また闇に引きずり込まれそうで。
 だけど、ここは明るい。
「目に傷はないよ。だけど明るいのは負担だろうから」
 と、白衣を羽織った人が部屋の灯りを消していた。
「いやだ……」
 それでも闇が恐いから、思わず制すると、彼は笑って「全部は消さないよ」と言ってくれた。
 その優しさも、強張った心を解してくれる。
 その淡い灯りを見つめていると、もう、あそこに戻らなくていいんだ、と安堵の吐息が零れる。
「啓輔……」
 音ともに空気が揺らぐ。
 それは、あの時何度も呼んでくれた声と同じ物。
 ──ああ、そうか。
 ──この声を聞いたから、助かったって思ったんだ。
 そんなことを唐突に思い出して、啓輔は縋るように声をかけてくれた人に視線を向けた。
「思ったほど酷くないそうで、明日は帰っても良いそうですよ」
 優しく労るような声。
 あの時も、何度も名前を呼んで、抱きしめてくれた。
 覚えている。
 何もかも。
 辛いことよりも、もっとたくさん、嬉しかったこと。
 その記憶は、もっとずっと過去にまで遡っていて、自分がどんなに彼に助けられたかを改めて痛感していた。
 それはきっと、忘られないこと。
「穂波さん達は先に帰って頂きました。退院したら、挨拶に行きましょうね。今来ているパジャマもお見舞い代わりと置いていってくださいましたし」
「うん……」
 指の先まで隠れるパジャマに目をやって、啓輔は小さく微笑んだ。
 それを見た、家城もほっとしたように口許をほころばせる。
 この病室に運ばれてから、ずっとそこに家城がいたことは気が付いていた。
 再会したら何も言えなくて逃げ出すかもしれないと思っていたけれど、動けない体をさっ引いても、それでも今は逃げたいなんて思わなかった。
 まして、こんなふうに家城と平静に会話できるなどと、あの時は思いもしなかった。
 だけど。
 助けられて、こうして二人でいても、離れようなんて思いもしない。
 家城に抱き寄せられて、抱え上げられて──あの温もりを覚えているから。労るように何度も呼ばれたことを覚えているから。
 そして、悲痛な顔で治療中の啓輔を見つめていた家城の姿を覚えているから。
 だから。
 自然に家城を見ることができて、あろうことか笑うこともできる。
 本当は再会できたら、言わなければならない言葉があった筈なのに、今はそれが思い出せない。
 だけど。
「でも今日はゆっくりと休んでください。私はずっとここでついていますから」
「うん……」
 言われた言葉に心の奥深くがちくっと反応する。
 泣きたくなるような、熱い塊がせり上がってきて、啓輔はもぞもぞと布団の中に潜っていった。
 ──今は泣けない。
 ──泣いちゃいけない。
 黒と白と、そして申し訳程度に朱がかった色しかない心の世界にほんの少し色が入ったような、そんな変化がしたように思えて、啓輔は小さく息を吐いた。
 途端に、薄い朱ががった色が、あっという間に極彩色の世界になる。
 何もかもが怒濤のように溢れだして、啓輔の双眸から涙が溢れていった。それは堪えていたものが堰を切って溢れたような勢いで。
 言いたかった言葉。
 何が起きたか、狂う程に一気に思い出す。
 だが。
「あ、ああ……っ」
 小さく漏れた悲鳴に、家城が動く気配がして、点滴が繋がって寝具の外に出ていた手をぎゅっと握りしめられた。
 その温もりを感じた途端、荒れ狂う意識が、急速に収束する。
 極彩色のとげとげしい色が、穏やかなパステルカラーに変化して、襲ってきた恐怖感が一気に柔らいだ。
 ──また……助けられた……。
 こうやっていつでも家城はそこにいてくれて。
 そして。
「純哉……」
「はい?」
「ごめん……」
 手の温もりに助けを借りて、啓輔はやっと言いたかった言葉を思い出した。


 落ち着いてみると助けられた記憶は意外に鮮明に残っていた。
 あの時。
 ドアを叩く音がした途端、タイシが啓輔にした行為は思い出したくもない。
 引き裂かれる痛みは、その前までの陵辱の時より酷く、意識を失うほどだった。
 次に気付いたのは、自分を呼んだ声。
 開こうとしても開かない瞼。口の中に詰められている何かのせいでひどく息苦しい。だから、身動いで。
 そうしたら気付いて貰えた。
「なあ……あの時さ、純哉の声だけ聞こえてた。他に人がいるのは後から気が付いたよ。純哉なら……助けてくれると思ったから……」
 包まれた温もりに、縋るしかなかったあの時。
 見えない向こうに確かに家城の気配を感じていた。間違いないと思ったのは、声を聞いた時。そして、触れられた時。
「来てくれてありがとう……。俺さ……嘘ばっかり付いていたのに。タイシのことだって、俺がバカなことをしていた時のツケが出ただけなのに。純哉には関係ないことだったのに……」
「最初にあなたが私の名前を呼んだ時、私は嬉しかったんですよ。誰よりも私に縋ってくれるあなたが、愛おしくて──関係ないなんて事ないですよ。あなたに何かあれば、私は辛くて堪りません。私はあなたの恋人だと思っていますから、こんなこと苦にもなりません。それよりも、もし助けられなかったら、そちらの方が苦になります。だから、傷ついたあなたを見た時、もう二度とあなたから離れまいと思いました」
 震える声がその口から零れ、同じく震える手が頬に触れる。
 それに動く方の手を伸ばして、啓輔はもっと触れたいと頬に押しつけた。
「ごめんな……黙ってて……」
 黙っていたことが事の発端だったと思う。
 過去のことも今のことも。
 何もかも、彼にはまだ話していないことが多すぎる。
「後でいいですよ。ゆっくりと教えてください。私はいつでもあなたのそばにいますから」
「うん……」
 込み上げる涙を家城の指が掬い取る。それも気持ちいい。
 声も、触れられることも、何もかも。
 心がほっと解放されて、ひどく心地よくて。
「なあ……純哉……」
「はい?」
「俺さ……緑山さんのこと……好きだけど」
「……」
「でも純哉の方が……もっと好きなんだ……。俺……抱いちゃったけど……でも嬉しくなかったよ。純哉を抱けた時の方が、もっと嬉しかった……」
 もう何を喋っているのか自分でも判っていなかった。
 気持ちの良い温もりが啓輔を覆って、疲れている体も心も激しく睡魔を欲する。
「また……純哉のこと……抱きたいや」
「あなたは……」
 ため息が頬をくすぐって、なんだか嬉しくて啓輔の口許が緩む。
「だってさ……最近してない……から……」
 意識が夢の中に引きずり込まれる。それを必死で堪えて。
「では、元気になったら、ですね」
「約束……だよ」
「はい」
 ひどく幸せな気分に包まれて、啓輔は眠りの中に入っていった。



「約束」
「判っています」
 眠った啓輔のそばをそっと離れて、待合いに戻ると槻山が待っていた。傍らで転がっているのはタイシで、顔に巻かれた包帯のせいですぐに誰か判らない。
 家城達が啓輔に構っている間、穂波は一人でタイシを追いつめいた。
 それこそ念入りに、だ。
 その結果、彼の両腕は脱臼もしくは骨折しており、顔は内出血で腫れ上がっている。服に隠れた部分も同様だ。
 佐伯が、「警察に連絡したくなる」と思わず呟いたのを、家城は必死で止めたものだった。もっとも佐伯も本気ではなかったようだが。
 このタイシをどうするか?
 浮かんだ問題は槻山の「連れて帰る」という一言で解消した。
 何を好きこのんでそんなことを?とは思ったが、槻山にも考えがあるのだろう。家城にしても、タイシに対しては怒りしかないが、ここまでやられていては、どうしようという意志もない。
「うう……」
 意識は虚ろらしいが、それでも痛みに襲われるのだろう、タイシが時折唸っている。
 それを家城はちらりと眺め、そして槻山に視線を戻した。
 期待に満ちた視線で家城を見やる槻山が諦めている気配はなく、家城は小さく息を吐いた。
 槻山の言う約束はなんとかして放棄したい物だったが、そうはいかないようだ。
 だが、今は啓輔の元にいたい。
 今はまだ痛み止めの薬のせいか、どこかぼんやりと夢心地だった啓輔だが、そのうちに意識がはっきりする。そうなれば、彼の心の弱さが出てくるであろう事を家城は知っていた。
 両親が亡くなった時、啓輔が受けた傷を家城は忘れていない。
「その約束……また今度というわけにはいきませんか?」
 食えない男にそれでも縋るのは、何もかも啓輔のため。
 そして、このことは絶対に啓輔に知られてはならないから。
「う〜ん……どうしようかなあ?」
 子どものように笑みを浮かべるその仕草を家城は冷たく見つめ続けていた。こんな男に感情を見せるつもりはなかった。家城の感情は、啓輔のためだけの物なのだから。
 そんな視線に気が付いたのか、槻山がくすりと肩を震わせた。
「いいよ」
 そして言う。
「今日は、こいつを連れて帰らなければならないし……それにこいつにはお仕置きをしないとね。私はまだ許すつもりはないんだよ。だから……こいつに飽きたら君を呼ぶから。連絡先だけくれるかい?」
 お仕置きといった瞬間の、酷薄そうな笑みに、他人事ながら悪寒が走った。
「それは……いつ頃ですか?」
 躊躇いはあったが、だからと言って家城に拒絶権はなく、メモに携帯の番号を書き込んで渡す。
 それを受け取りながら、槻山は足先でタイシをこづいていた。
「それはこの男しだいだよ。……あんなことをしたら、どんなに辛いか。してはならないことはしっかり教えておかないとね。何しろ、私のお気に入りだと判って、私のライバルに彼を渡したのだよ。そんなことをされて黙っていられるほど私は寛容ではないしね。それをしっかり覚え込ませるつもりだ。私のお仕置きは……厳しいよ」
 勉強を教えるのかと思うほどに、平然と言うその内容は空恐ろしい。
 だが。
「だからもう報復なんて考えなくていいだろう。どうやら、この男には前にも煮え湯を飲まされているらしいが……その分、警戒しているのだろうが……。だが、この男はもう二度と彼らには手を出さないし、私も出させるつもりはない。だから君たちが、何かをしようなんて思わなくてもいいから。全て私に任せてくれればいい」
 ふっと声音が低くなった。
「詫びといっちゃなんだけどね。これでも一応責任は感じているから」
 真摯な言葉に、家城は知らずに頷いていた。
「……御願いします」
 いまだ彼の正体が何なのかよく判らなかったが、他に方法はない。
 それに。
 そんなふうに言う槻山に、家城は僅かではあったが好意を覚えた。それは本当に僅かなものであったけれど。
「……お仕置きに飽きないことを祈っています」
「ふふん。それは彼次第だね」
 槻山のタイシを見る目に、好色さを感じて家城は苦笑を浮かべた。
 このまま、彼がタイシに溺れてくれれば……とは思うのだが、そう簡単にはいかないかもしれない。
 だが、彼が家城を呼ぶことはないのだろう、と、そんな事をふと考えて、笑みが強くなる。それが自分の願望にしか過ぎないと判っていても、真剣に願っている自分に呆れたのだ。
 何より、啓輔以外の誰にも抱かれたくないのだから。



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