薊の刺と鬼の涙 (20)


 槻山憲弘。
 家城が彼と出会ったのは、会社でのストレスを癒しに一人飲んでいた時だったと記憶している。
 たった一度会っただけの男。
 なのに、名前を聞かれてまざまざと思い出した。
 そのころの家城はその性格からかいつも一人でいて、だが一人でいるのは嫌いだった。
 気になる相手はいたが、彼はノーマルだったし、そんな彼を自分の世界に引きずり込むことはできないというジレンマに襲われる日々。そんな時、家城はたまにふらりと一人街に出た。
 だが、そんな時でも家城はいつも一人で飲んで、そして時間が来ると家に帰るという事を繰り返していた。その結果、余計に孤独感に苛まれる。
 素直に出せない感情が整った顔立ちを冷たいものにさせ、人が近寄りがたくなっているのだという自覚はあったが、だからといって、それは自身の力で直せるものではなかった。
 独りでも平気なようにしか見えない自分が嫌いだった。
 なのに。
「……一人?」
 明らかに自分と同じ匂いを感じる相手が横に座った時、家城が覚えたのは戸惑いだった。今までそれでもこんな家城に興味を持って遊んだ人とは明らかに違うそれ。
 しかも、かけられる言葉も態度も、微かにからかわれていると感じる。
「寂しそうだね」
 自分に似合わぬと判っている言葉を言われて、家城は躊躇いながらも男を見上げた。
 同年齢……と思ったが、ブランドもののスーツや時計を、嫌味なく着こなしている。表情も仕草も、人を惹きつける何かを持っていて、そんな己に自信があって。遊び慣れた様子は、その仕草一つ取ってみてもはっきりしていた。
 その彼の言葉は間違いはなかったが、それを大人しく受け入れられないのが家城で、僅かに目を眇めて言葉を返す。
「寂しい?」
「ああ、そう見えたね」
 悪ぶれる様子もなく、家城の隣で当たり前のように酒を注文する仕草に、家城に言い寄ってきた男達とはどこか違うところを感じる。
 だが、それが何かまでは判らなく、だからこそ家城は戸惑いをかくせなかった。
 だから、拒絶の言葉を吐き損ねる。
 その様子に、相手はくすりと笑みを零した。
 からかわれている。
 それに慣れていない家城は知らずに見返す視線がきつくなっていた。なのに、男は動揺すらしない。それどころかわざと体をすり寄せてきたのだ。
 堪らずに離れると、また嗤われて。
 すうっと眉間にシワがよって、家城は憤りを隠せないままに言い放った。
「あいにくだが、私はあなたに合うとも思えないが?」
 意にそぐわぬ相手とベッドをともにすることはできない。遊びと割り切っていても、それでもやるなら楽しみたい。その点でいうと、この男は論外だった。
「判ってる」
 何が判っているのか?
 もっともらしく頷きながらも、相手の手が家城の腰に回され、添えられる。そこに感じる微妙な指先の圧力が、確実に性感帯を刺激していた。
 ぞくりと肌が粟立つ感触に、家城は身を捩る。なのにその手は離れることなく、悪戯を仕掛けてきた。
「な、何を……」
 やはりそうだ、と身震いする。
 この男は、家城より優位な立場になろうとしている。
「狼狽える君も可愛いね〜」
 恐い、と初めて家城は男相手に思った。
 今まで誰も家城をそういう対象として見ていなかった。
 全く興味がないとは言えないが、それでも受け入れるのは抵抗があったし、挿れる方が性にあっていると思っていた。
 だが、この男の目は、肉食獣のそれだ。
 弱みを見せることなく、相手を押し倒して喰らってしまう。そこに一片の憐れみすらなく、いいように貪られる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
 ──駄目だっ。
 湧き起こる、かつてない恐怖に家城はびくりと大きく体を震わせて、堪らずに立ちあがっていた。
 ガタリと大きな音を立てた椅子が、膝裏に激しく当たり、鈍い痛みをもたらす。
「ふふ、怯えているのか?何故?」
 問われても判らない。
 ただ、恐い、としか感じられない。
 さっさとここから逃げ出したいと思うのに、いつの間にか掴まれた手首にかかる力は、簡単にふりほどけそうにないほど強い。
「俺は槻山憲弘。君は?」
「あ……」
 反射的に名前をいいかけて、慌てて口を噤んだ。名前を言うと逃れられなくなる。ただ、その思いが、いいなりになりそうな己を叱咤する。
「どうしたんだ?俺は君が寂しそうだから、一晩一緒にいてあげようと思っただけだよ」
 神妙な物言いなのに、だがその口許は嗤っていた。
 そのバカにしたような笑み。
「!」
 それがいきなりの展開に圧倒され、消えかけていた家城のプライドをくすぐった。
 確かに恐怖心は消えない。だが、まるで女子どものように怯えたまま逃げるのも癪に障ると思った。
 だから。
「結構だ」
 震えそうになる声に力を込め、強張った顔に冷徹だといわれる笑みを浮かべる。
 もとより顔をつくることは慣れていた。
 本当の心を隠すために、いつの間にか身に付いてしまった表情は、家城にとって鎧だ。
 と。
 不意に槻山が喉の奥で笑い出した。
 俯いて腹を抱えて本当におかしそうに。
 途端に外れたその視線に、つきまとうような拘束感も消えた。掴まれた腕も離れて、解放される。
「……可愛いね。好みだよ」
 甘い声をその背に受けて、家城は振り切るように店を飛び出した。
 それ以来、しばらくは一人で飲みに行けなかった。
 こんなにも自分は弱いのかと、痛切に感じたが、それでも槻山に合うかもしれないという意識から逃れることはできなかった。


 それがあの日の真相で、それは啓輔にも誰にも話したことはない。
 何より、あの日初めて相手が恐いと思い、そして自分が一瞬でも惹かれそうになったことは否定できない。
 今なら判る。
 あの男は、家城の気付いていない内面を看破していたのだ、と。
 啓輔に抱かれるまで気付かなかったあの温もりと悦びを、家城が既に欲していたということを。 

「やれやれ。せっかく愛おしい君から連絡を貰ったというのに、ごつい男をふたりも連れて。一人は君の恋人の──穂波幸人だね」
「なんでそれを」
「私を恋人と間違えて、あんなにも艶やかに誘ってくれたじゃないか。ゆきと、と呼びながらね。そして私は、彼を知っているし」
「あ、あれは」
 目の前にあらわれて艶のある流し目を敬吾に送る槻山を、家城は苦渋を噛みしめるようにして見つめていた。
 変わらない。
 あの時と顔も態度も、そして何を考えているのか窺わせない笑顔も。
「それにこちらは……見たことがあるね。どこかで会ったかな?」
 睨み殺しそうな穂波の視線を笑いながら無視して、槻山が家城の前に立つ。
 背の高さは啓輔と変わらないだろう。
 だが、横幅が広いせいか目の前にたたれると圧迫感は大きい。
「啓輔はどこだ?」
 それでもここに来た目的はそれで、家城は何もかも押さえつけて声を発した。そしてそれは、押さえつけた感情のせいか、ひどく低くなる。
「ケースケ君……ふ〜ん、君が彼の恋人ね。けど、彼は私の元にはきていないよ」
 ライターの小さな音とともに、紫煙が上がる。
 吸わない家城にとって煙いだけのそれが、槻山の姿を飾るアイテムになっていた。
「血相を変えていると思ったら、つまりケースケ君がいなくなった訳だ。過保護だね、彼だって遊びたい時があるだろうに」
 くつくつと嗤われ、目の前が怒りで赤く染まる。
「啓輔は勝手に遊び歩いたりしないっ!勝手にいなくなったのは、お前に捕まっていたあの日だけだっ」
 掴んだ襟をどんなに引っ張っても槻山はびくりともしない。それでも家城は、渾身の力を込めてシャツを引っ張った。
「貴様のせいであんなにも疲れ果てていた啓輔が。それでも月曜から真面目に仕事をしていたんだっ!なのに、水曜にはもう出てこなかった。何も言わずになっ!そんなこと、啓輔が自分の意志でするわけがないんだっ!」
 家族を失って──いや、それより前から啓輔は自分で働いて、自分の力で生きていくことを切望していた。それが家族を失うことで、より現実的に受け入れなければならない事態になって、だからこそ啓輔は本当に真面目に仕事をしていたのだ。
 体調だって、よっぽど悪くないと休むことはない。
 そんな彼をついやりすぎてしまう自分が恥ずかしくなってしまうほどで。
 それなのに、無断欠勤などと考えられないことを啓輔がしたことを、家城は絶対に彼の意志でないと気付いていた。
「お前は、何か知ってるんだろっ!!」
 知らないわけがない。
 あの日、激しい焦燥感に襲われて、一睡もできずに啓輔からの連絡を待っていた日──あの日啓輔はこの槻山に捕らわれて、帰ってこられなかったのだ。
 そう思うだけで、押さえつけようとしていたはずの感情が制御できない。
 人との掛け合いで、より感情的になったほうが負けだということを家城は判りすぎるほど判っていたのに、それなのに押さえられない。
 しかし、ぎりぎりと締め上げる家城の手に、息苦しいだろう槻山は顔色一つ変えなかった。それどころか、その口の端が笑みを形作っている。そして、くすくすと笑い声とともに、言った。
「男の嫉妬は見苦しいね〜。それに私はケースケ君を抱いていないよ」
「え?」
 前半の台詞にカッと沸騰しかけた血は、だが後半の台詞で一気に冷えた。
「抱いていないと言ったんだよ。私が抱いたのは緑山君だけで……」
「やめろっ!!」
 槻山の言葉だけでは信じられない台詞は、だが、敬吾の必死の制止の声のせいで、かえって真実みを増していた。
「やだなあ、緑山君。私だけを悪者にするのかい?あの時、確かに三人とも裸だったけど、私が抱いたのは君だけだったよね」
「敬吾……落ち着け」
 槻山の言葉に蒼白になる敬吾を穂波が抱きしめる。そして、槻山の言葉の意味をはかることのできない家城に、槻山が笑いかけた。
「私がケースケ君を抱こうとすると、緑山君が邪魔をしてね。だから、私は彼しか抱いていない」
「あ……」
 思わず敬吾を見つめ、そして穂波を見つめる。
「敬吾?」
 穂波が腕の中の敬吾を促すように問いかけると、彼は諦めたように息を吐き出した。
「……うん……彼は抱かれていない」
 敬吾の掠れた小さな声を家城は聞き逃さなかった。同時に敬吾に対する感謝と、そして安堵を感じて──なのに、言いしれぬ不安も押し寄せる。
 あの日の啓輔は、何かひどく辛そうだった。
 ひどい罪悪感に今にも泣きそうで、今にも壊れそうだと感じた。
 だが、槻山に抱かれていないのならあそこまで辛そうになる原因がわからない。
「だからまあ、確かに今度ケースケ君を呼び寄せてゆっくりと味わってみたいと思ったけどねえ」
 その言葉にはつい握りしめる拳に力が入ったが。
「彼はリバらしいしねえ。緑山君を犯す姿は堂に入っていたし。ということは君もネコだったりするんだ?」
 途端に腕から力が抜けた。
「犯す……」
「敬吾を……」
 呟きが二つ重なり、力の無かった視線が一つ閉ざされる。
「……薬のせいだよ……薬の……」
「ケースケ君は私には抱かれなかった。彼は、そこにいる緑山君を抱いたんだよ」
 敬吾の呟きは確かにそれを肯定していて、槻山の嬉々とした言葉が胸に突き刺さる。
 

 不意に目の前が真っ白に弾けた。
 ──啓輔が……彼を……抱いた?
 その言葉だけが頭の中を駆けめぐり、頭が現実を否定する。
 だが。
 そんな家城を現実に引っ張り戻したのは、槻山の言葉だった。


「それで、そのケースケ君を捜しているってわけかい?」
「何か……知らないか?」
 音が耳に入って、言葉へと変化する。
 そのタイムラグを味わって、家城は遅れて反応を示した。
 いまだ穂波から離れようとしない敬吾が、気丈にも槻山を見つめて問いかけている。その姿を目にした途端、激しい焦燥感を感じた。
 こんなことでショックを受けている場合ではない。
 啓輔が誰を抱こうと、それでもここで彼を捜すのを止めるわけではない。
 取り戻して、この手の中に抱きしめて、槻山の言葉を確かめるのはそれからでも十分だ。
「啓輔はどこです?」
 家城は己を取り戻すように息を吸って、新鮮な空気を全身に行き渡らせる。肺からゆっくり吐き出す時に言葉をのせた。
「何でも良いんです。判ることを教えてください」
 感情的になった方が負けなのだ。
 相手との駆け引き。
 あくまで冷静に、相手の行動の先を読む。
「……う〜ん。確かケースケ君はタイシって子と知り合いだったっけ?」
 槻山が僅かに逡巡して、そして視線を宙に彷徨わせながら、呟いた。
「そう、ですが?」
「……彼の居場所なら知っているよ。携帯の連絡先も」
「教えてくださいっ!」
 手詰まりだった探し先。
 少なくとも、家城が知っている場所にはいなかったから、新しい探し先であるそれは貴重な情報源だ。
「どうしようかなあ〜」
 それでも槻山はそれを素直に話しそうでなくて、家城はぎりっと奥歯を噛みしめた。


「君が相手をしてくれたら、教えて上げよう」
 睨み付ける先で、臆することなく槻山がい言った言葉に、その場にいた三人がその体を硬直させた。
「相手?」
 問いかけてみたものの、家城はその意味を十分わかっていた。
「ん……君のこと、思い出したんだけどね。あの時は振られたから、今日こそはって思うんだけど」
「あの時、あなたを断った理由も忘れましたか?」
 家城もあの時のことを思い出して、その口の端を歪める。
「忘れた」
 嘘だ。
 確信的な笑みがあの時と変わらないと、知らずに一歩後ずさる。
 あの時恐いと思った、その想いも甦るが、家城はそれを払うように大きく首を振った。
 恐いけれど、しなければならないことは判っている。
 今は啓輔と会いたい。
「今は……時間がないです。啓輔がどんなことになっているのか、今の私には不安で堪らない。嫌な予感がしてしようがないのです。だから啓輔がみつかるのであれば、私はあなたの望むようにしたい。あなたがそれを望むのなら、私はあなたの相手をしても構わない。しかし……」
 こうしている間も焦りがじりじりと身を焦がす。
「こうしている間にも啓輔の身に何か起きているのではないかと思うと、私はあなたと事をなしている余裕はないです」
 たぶん、抱かれても反応することはない。
 もとよりこの体を抱こうとしたのは啓輔だけで、他人がどんなふうに抱こうとするのか判らない。だいたい、どんなに遊んでいても、家城を抱こうとするなんて啓輔以外にいなかったのだから。
「ふむ……。確かにそれも判らないではないが……」
 タバコを灰皿に置き、腕を組んで家城を見つめる目は、あの時と同じ肉食獣のそれだ。
 睨み付けられ、ぶるりと背筋に悪寒が走っても、家城は決してその視線を離さなかった。目を逸らした方が負けだと本能的に感じて、その槻山が近づいてくる姿に、逃れなければと思っても動けない。
「貸しにしておこう」
 素早く動いた手に顎を掴まれ、唇を塞がれる。
 触れた感触も、軽く吸い付かれて音がするのも聞こえたが、家城は動かなかった。
 すぐに離れたそれを睨むように見つめて呟く。
「いいですよ」
 吐息が互いをくすぐって、槻山が了承したとばかりに笑みを浮かべているのを、家城は内心の動揺をひた隠して見つめていた。

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