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薊の刺と鬼の涙 (19) |
腕の中で震える敬吾が、哀れで堪らない。 が、同時に穂波の胸に込み上げるのは怒りだ。 こんなことになるとは思わずに、あの時はただ本当に帰ってきてくれた安堵の方が強かった。 だからこそ、穂波は敬吾に問わなかったのだ。 気付いていたのだから。 敬吾がどんな目に遭ったかなんて、敬吾の全てを目にしてきた穂波だから判っていたのだ。その華奢な首筋に見えた朱の印に湧いた激しい怒りをかろうじて飲み込んで、平静でいるのにどんなに苦労をしたことか。 何もかも、傍らで敬吾を気遣う啓輔にすら拳を振り上げそうになったことも記憶に新しい。 それが啓輔がもたらしたものであれば、彼が二度と自分の足で立てなくなるほどの報復を与えていたかも知れない。 だが。 あの時、そんな穂波をかろうじて留めたのは、啓輔を気遣う家城の存在だった。 いつ会ってもほとんど感情を変化させない家城が、啓輔の不在に狼狽え、穂波を頼ってきたのだから。 そして、啓輔の目に浮かんでいたのは、昔敬吾が見せた怯えの色に近かった。 怯えと──そして後悔。 何があったかは判らないが、それでも必死で守ろうしているのが判る。 啓輔が最初についた嘘も、まるで敬吾を庇うようだったと、だからこそ騙されたくなったのかも知れない。 何より、啓輔を見るまでもなく、庇いたくなるほどにその身を震わせ、何かに怯えるのを必死で堪えている敬吾を、誰が責められようか。何より、責めれば意外に脆弱なところがある敬吾の精神が、あの時のように崩壊しても困ると思ったのだ。 敬吾は後からダメージを喰らうタイプだ。 強いのに。 普段はこれでもかと苛めても強いところを見せる敬吾の精神が、固い故に脆いことを、穂波はよく知っている。 だから、帰ってこなかった時、何があったとしても責めることはできないと思っていた。が、それも今の事態を考えれると間違っていたのかも知れない。 中途半端なケリは、後からまた敬吾に災厄をもたらしてしまう。 それは、嗚咽に震える敬吾が吐き出した言葉からも明らかで、穂波は苦い思いで幾度も噛みしめていた。 『俺がまた……あいつに……捕まったから……』 聞き間違えようもない。 敬吾は、”また”と言った。 ”また……あいつに……” そのあいつが誰を指すのか、穂波の頭に浮かぶのはただふたり。 その内の一人はもう知りすぎるほどに誰か知っていて、そして、そんな筈はないと思わせる、この場にいない一人だ。だが、彼に捕まったなどと敬吾は言わないだろう。 ここにいない「隅埜啓輔」になら、敬吾は”騙された”というであろうし、こんな事態を起こす前に穂波は気が付いていただろう。 となると、残りはもう一人。 あの時、啓輔といたもう一人。 「家城さん……あなたは、隅埜君の交友関係を知っていますか?」 震える敬吾を強く抱きしめて、目の前で顔色を無くしている家城に問いかける。 「……いえ……。彼は、会社と近所の方以外ではあまりつきあいはありませんでした。学生時代のことは……言いたくないようで……。それに……あのころは荒れていたと聞いていますし。今はつきあいはないのだと……。しかし……」 家城は知っている。 敬吾が啓輔に襲われたことを。 あの時、仲裁に入ったのは、誰あろう家城なのだ。 だから隠すことはない穂波は判断して、言葉を継ぐ。 「あの時、敬吾を襲った輩はもう一人いた。そうだな……敬吾」 途端にびくりと敬吾の体が震え、僅かな躊躇いをのせて、それでも頭が頷くように動く。 「……タイシ……って呼ばれてた。……俺達は……彼に会ってしまった……」 少し落ち着いたのか敬吾が少しはっきりと状況を教える。 タイシ。 名前など覚えてはいない。だが、はっきりと浮かぶその顔は、二度と思い出す気もなかった面。 「それは……土曜日のことか?」 「そう……もう買い物も済んで……そんな時に。遭った途端に捕まえられて──俺、幸人に鍛えらていたと思った。だけど……あいつを見たら、体が竦んだ。竦んで……逃げられなくて……ちくしょ……っ!……あいつ……俺を捜していたみたいで……。それに隅埜君と一緒にいたものだから……あいつ……隅埜君まで捕まえた……」 「じゃあ……あの日帰ってこられなかったのは?」 最悪のシーンを想像して、歯噛みする思いで穂波は敬吾に問いかけた。だが、敬吾は顔を上げないままに首を横に振っていた。 違うのか、と呆気にとられ、思わず顔を上げれば家城が一言も聞き逃すまいと敬吾を見つめている。 「そいつじゃない。そいつは……雇われて俺達を捕まえて連れて行って……。俺達はそこで……」 ぎゅっとその手が穂波のシャツを握りしめていた。ずっと俯いたまま、顔を胸に押し当てて、吐き出す声の振動が直接胸に響く。それがベッドの上の甘い睦言であれば良かったろうに、今こんな状態で穂波を支配するのは目も眩むばかりの怒りだ。 敬吾が結局言えなかった単語が、頭の中で飛び交う。 傍らで家城が、歯を食いしばる音が聞こえた。──いや、聞こえたような気がした。 「誰です……それは?」 地を這うのは家城の言葉だ。家城が口にしなくても、穂波が言っていただろう。 「……槻山……って言っていた。そいつは男が好きで……そういうのを受け入れそうな奴をつれてこいって……タイシに頼んだって。俺達はそのまま奴に売られた……。それで」 だが、敬吾が紡ぐ言葉の後半を、穂波は聞いていなかった。 明らかに震える手がきつく敬吾の背を抱きしめる。それは無意識のうちで、痛みに身動ぐ敬吾の存在に気付いていない。 その目が何かを捜すように中空を見据え、そして、自身の驚きの原因に気付いた。 「槻山……!」 まさかっ、とばかりに穂波は改めて驚きに見舞われる。 苦い思い出とともに知っている名前。 槻山という名に、憤りしか覚えない、そんな相手の存在が、まざまざと脳裏に浮かぶ。 そして。 「槻山……?」 家城がふと考え込むように首を傾げたのも視界に入ったのも、どこか別世界のように見つめて、そしてその名を発した敬吾に問いかける。 「あの槻山か?」 「えっ?」 穂波のきつい声音に敬吾が跳ねるように顔を上げた。その泣き濡れた頬を掴み、食い入るようにその目を見つめる。 「槻山……確か憲弘とか言っていたな。間違いないか?」 にやけた槻山の嗤いが浮かんで、激しいむかつきを覚えた。 同族嫌悪だ、とあの時はそう説明づけるほどにまだ若いあの男が嫌いだった。穂波を揶揄するように穂波が目をつけた相手を横からかっさらっていく。 しかも飽きたら簡単に捨てるそのやり口が穂波は特に気に入らなくて、とにかくそいつがいけすかなかった。 だがそんな苦い思い出も、それを知らない恋人の目からすれば疑心の虜となる。 「幸人どうして……?」 疑う瞳に苦笑を返して、穂波はその感情を吐露した。 「あいつは……俺と同じような好みでな。ふんっ、若造のくせに人の相手にすぐちょっかいを出して……」 毒づいていると、敬吾の瞳がさらに疑惑を深めて冷たくなっていく。きっと穂波の過去の相手にあらぬ嫉妬を浮かべたのだろう。それに気付いて慌てて、それ以上は口を閉ざした。だが、こんな時だというのに、敬吾の瞳は誤魔化されないとばかりに穂波を睨んでいる。 だが。 「槻山憲弘……口説かれたことがあります」 家城の爆弾発言に、敬吾どころか穂波ですら、今の事態を忘れた。 「あいつがお前を?」 このどう見てもタチにしか見えないこの男まで? 言われてみれば年の頃は槻山と同じくらいの家城は、冷たさを持つが故かその手の男からすればおとしがいがあるのだろう。しかし、と穂波はあらためて家城を見つめた。 遊ぶ、という言葉が似合わない家城と、槻山がいつ出会ったというのだろうか? 「まだ啓輔と付き合う前ですけど、一人で飲んでいたら、近寄ってきて。確かに槻山と言っていました。一晩付き合わないか、と言われたんですけどね。……随分と軽薄な感じがした男です」 少し遠い目をして思い出そうとする家城の言葉には嘘はないだろう。 しかし。 「それで?」 つい聞いてしまったのは好奇心で、だが途端に家城が首を横に振った。 「断りました。軽薄な男は好みではないので」 ……タチ同士だから、じゃないんだな? 思わず断りの文句につっこみそうになって、だが、と穂波は思い直す。僅かに家城の顔色が変わったことに、穂波は気付いてしまったのだ。 だが、それも一瞬のことで、元に戻る。それに、今はそれどころではないのだから。 「つまり、敬吾達はその槻山の元に一晩いたわけか?」 「あ……うん……」 その指す意味は深くは考えないようにした。 敬吾が羞恥に頬を染めたのは腹立たしく思ったが。 「そこへ連れて行け」 そっとしておこうと思った。敬吾がそれでいいなら、関わらないようにしようと思った。 だが、知ってしまった以上、槻山を許すわけにはいかなかった。 「隅埜君、槻山のところにいるんだろうか……そんな筈はないのに」 いやいやするように、その考えを否定する敬吾の頭を押さえ。 「どうして……」 戸惑いと疑惑に捕らわれて、力無く俯く家城にきつい視線を送る。 「彼が自分の意志で行くはずはないだろう」 彼を信じろ、と、穂波とて憶測にしかすぎない言葉をかけるしかない。 今はそれどころではないのだ。 何より、過去のみならず現在にいたってさえ、自分の邪魔をしようとする槻山を責めることの方が今穂波の第一の問題だった。 |