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薊の刺と鬼の涙 (18) |
「だけど……」 電話の後、どうやって家城の部屋にまでやってきたかが記憶にない。気が付いたら、目の前に蒼白な顔をしている、見たこともない家城の姿があった。 「だけど……昨日はいつものように……」 そこまで言って何か大きなものが喉につまったように言葉が出なくなる。 結局朝しか逢えなかったから、その後の様子は知らないけれど、それでも、朝見た啓輔の顔が浮かんできた。何か……どこか変だったとは今なら判る。 けれど。 「何で……」 どうしてそんな顔をしていたのかなんて判らない。 いつものようだったと言えば、そうだと思えるけれど、目の前の家城がこんな悲痛な顔をしているということは、本当にどこにも啓輔はいないのだ。 「朝……連絡がないと服部君から聞いて、携帯に連絡したけれど電源が切れていると……。それが気になって彼の家の隣の方に連絡をとって家にも入って貰ったんですけど、いないようだと……」 隣の家……。 あまりのことにぼんやりとした頭に浮かぶのは、一度だけ訪れた啓輔の家の周り。 田舎らしく十分な間隔のある家並みに、青々とした緑に包まれた庭。そんなのどかな景色と世話好きな近所の人達。 「……あまり詳しいことは言えなくて、心配するおばさんを遅刻してきたからと誤魔化したんですけど……」 昼を過ぎても啓輔は来なかった──と家城は言葉を噛みしめるようにして敬吾に伝えた。 同じ言葉を電話でも聞いた。 その瞬間思い出したのは、つい先日、自分たちの身に起こったことだ。 そして……、好色そうに『気にいった』と言った槻山の顔。 ──違う。 ぶるりと震える体を掻き抱きそうになって、敬吾は慌てて手を握りしめることでそれを堪えた。 ──違うはず……。 根拠のない否定を何度も頭の中で繰り返す敬吾は、自分を呼び出した家城を見下ろしていた。 家城は、敬吾を迎え入れてからずっとソファに腰を下ろして、なかば頭を抱えるようにしている。いつもは無表情で冷たさすら窺える家城は、心労のせいか感情が露わになっていた。 きっと会社が終わって自由になった途端、心当たりを探し回ったのだろう。 そして。 見つからなくて、敬吾に電話をしてきた。 その理由は……。 「俺には……判らない……けど……」 家城が何を期待して自分に連絡してきたのか、敬吾は痛いほど判っていた。 つい数日前、同じように連絡が取れなくなった時、その時啓輔は敬吾とともにいた。だから、今回もそうであって欲しいと思ったのだろう。たとえ、会社で敬吾には逢っていたとはいえ。 ──だけど……違う。 何故自分がそう思うのか、敬吾には判らなかった。 ただ、槻山のところに啓輔がいる筈はないと、そう信じたかった。 もし啓輔が槻山の元にいて帰ってこないというのなら、あの時、自分がした行為は何だったのかと……。ふとそんな考えに晒されて、そんなバカなと歯ぎしりをする。 ──そんな筈はない……だから違う。 それは願いであった。 と。 敬吾は、ふと胸ポケット当たりに振動を感じて、そこに手を当てた。止まらない振動にそれを手の中に出して開いてみると、見覚えのある名前が浮かぶ。 だが、今はそれは期待する名前ではなかった。 じっと見つめる先で、いつまでも振動する携帯。 こんなふうにあの時も何度も鳴った筈の履歴が携帯に残っていた。 あの時と同じ。 だけど、今はあの時と違う。 もしこの事態を穂波が知ったならば、彼はどんなふうにするだろう? 携帯をみつめている目を、ふと家城に向けると、彼が請うようにして敬吾を見つめていた。 それが何もかも見透かしているような、そんな目の色にたじろいで、いたたまれなくて敬吾は再び携帯に視線を落として。 そして、永遠になり続けそうなそれのボタンを押した。 「もしもし」 『敬吾っ!』 焦ったような声に、そんな時ではないと思いつつも、くすりと笑みがこぼれる。それでも、次の瞬間には顔が歪みそうになった。心配かけていると思う。家城の蒼白な顔を見るほどに、あの時のこのふたりの様子がまざまざと目に浮かんできた。 きっとあの時もこんな風にふたりに心配をかけたのだろう。 ひどく申し訳なくて、だけど、それが嬉しい。そんなにも思われている事実が嬉しい。だけど。 それでも……今はそれどころではなかった。 「ごめん……今ちょっと」 ほんの僅かの間に家城の表情が大きく変化したのを見て取っていた敬吾は、未だつかない覚悟をそれでもほんの少しだけつけて、穂波と相対する。 きっともう……誤魔化すことはできない。 そして、穂波に今の事態を誤魔化すこともできない。 『家にはいないし、どこに行ってるんだ?』 「家って……来たんだ」 『それよりどこにいるっ?』 「どうだって……」。 あの時、こんなふうに糾弾していてくれたら。 そんな考えが頭に浮かんで、お門違いもいいところだと、敬吾は自嘲めいた笑みを口の端に浮かべた。これは、何もかも自分たちの責任で、そして、今の事態があれに付随することなら、それは自分たちが隠そうとしたことが原因なのだから。 認めたくはないと──ずっと違う、と否定し続けていても、敬吾は啓輔がいない理由に、先日の事が結びついてならなかった。 そして、それは家城もそうだろう。 そして──この事態を知った穂波がそう思うことも明白で。 だから言いたくはなかった。 だけど。 「今こっちは……大変なんだから」 『何がっ?』 「隅埜君が……いなくなった……」 『!』 携帯の向こうで穂波が大きく息を飲む気配が伝わってきた。 「すみません……またご迷惑を……」 ぱっと見た目は、家城はいつもと変わらない。だが、抑揚のないその言葉に穂波が再度息を飲むのが敬吾にも伝わった。 「だいたいは敬吾から聞いたが……。まるでこの前と同じだな?」 その言葉に、敬吾はびくりと体を震わせた。彷徨う視線が落ち着かなく何度も足下を往復する。 心の中でもう何かが張りつめきっていて、悲鳴を上げそうで、だがそれを敬吾は必死で堪えていた。 「……そうなんです。しかし今回は緑山君はこうやってここにいます」 その言葉に、家城がふたり一緒だったらと期待していたのだと敬吾に再確認させた。だけど、違ったのだ。 それは穂波も同様で、そのどこか眇めた視線が敬吾を見つめる。 「……敬吾……」 「……何?」 穂波の低い声に震える体を必死で押さえつけて言葉を返す。 穂波が何故敬吾に声をかけたのか、頭は理解していた。だけど、それは違うと、もう一方で否定する。 険しい顔つきの穂波が、何かを決意したかのように敬吾を見据えているのを、敬吾はその目を見なくても判ってしまっていた。 「彼は……どこにいる?」 単刀直入な台詞。 だけど。 「知らない……」 知っている筈はなかった。 なのに、ふたりの目が自分が知っていると言っている。 いやいやするように敬吾は首をふり、その手をぎゅっと握りしめていた。 「ほんとに……俺は知らない……」 もしかすると、とはずっと思っていたけれど。 「敬吾、では質問を変えよう」 穂波の声がさらに低くなって、手が敬吾の腕を痛いほどに掴む。 恐い、と、本気で敬吾は思ったが、それを振り払うことはできなかった。 「あの日、どこにいた?」 掴まれる手が痛い。 ぎりぎりと食い込む指の力は、あの日のように許してくれそうになかった。 「敬吾……」 低くて地を這うような言葉が、だが、その顔は辛そうに歪んでいた。 「ゆきと……俺は……」 開きかけた口が強張って、それ以上動かない。 あの日、あの時、何があったか? それは今のこの事態と関係ないと思いたくて、だけど、確かに啓輔はいない。家城達にとって、あの日と同じように啓輔はいなくなったのだ。 だから、言わないといけない……。 戸惑い震える敬吾は、それでもあの日の事を言うことに躊躇いがあった。 あの日、自分たちに起こったことを言うのは、敬吾はイヤだった。 だが。 「……穂波さんは、あなた達が無事帰ってきて、それでも何も言わないのなら、追求しないでおこう、と言われたんです。あなた達が隠したいのなら、それに従おうと」 家城が、静かに呟くように言った言葉に、大きく目を開く。 一気に膨れあがった罪悪感のようなものが、破裂しかけた気がした。その拍子に溢れかけていた涙が頬を伝って流れ落ちていく。 「何も言わない……って……」 だから、あの時何も追求されなかった。 ただ、優しく、癒そうとしてくれた穂波と家城の姿が脳裏に浮かぶ。 バレるはずだったのに、バレなかったのは、ふたりが聞こうとしなかったから。 「……お前達が言いたくないのなら……聞かないでおこうと思っただけだ。何があったとしても、それはお前達の意志ではない。お前達は、それぞれに俺達を捨てるつもりなんかなかったろう?」 それは疑問であったけれど、確信だ。 「捨てる……って?」 聞きたくない言葉だと、敬吾が目の前の穂波を見上げた。 その言葉が唇の震えとともに震えて響く。 「お前はあの日、帰ってくるといったから……。隅埜君も言っていたらしいな。お前もあの子も、ふたりとも帰ってくると言ったから。だから、少なくとも帰れないのはお前達の意志ではないと……判っていた。心当たりは捜して、それでも見つからなくて、でもいつかは見つけてやろうと……。お前達が帰ってきたあの日、言いたいことは一杯あったが……それでも、帰ってきてくれたことだけが俺達には、一番だった。たとえ何があろうとも──俺達はお前達が帰ってきてくれれば良かった。そうだろう?お前達は……あの時、俺達を失うつもりなんかなかったろう?」 それは懇願で、そして穂波の本音だ。 呆然と見つめる先で、穂波の瞳が敬吾を捕らえていた。 「敬吾……?」 「そんなこと……」 敬吾の口から震える言葉が零れていく。 あの日、心配をかけて、だけど誤魔化すことだけしかできなかった自分たち。 だけど、ふたりはこんなにも自分たちのことを思っていてくれて、そして、守ろうとしてくれた。 心の内に膨れあがるのは確かにこんなふたりを騙してしまったという罪悪感で、それがどうしようもなく制御できなくなっていく。 何より。 「失うなんて……」 考えなかった。 ただ、戻りたいと願って。 どんなに疲れて動けなくなっていても、帰りたくて堪らなかった。 帰りたくて、日常に。 だってそこには穂波たちがいたから。 そう思った途端、滴で流れていた涙が、激しく溢れだした。ぽたぽたと落ちた先で染みを作る。 辛かった。 黙っていることが。 誤魔化すことが。 そして、こんなにも信じようとしてくれたふたりを騙したことが。 ピシッ どこかで弾ける音がした。 「ご、ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」 溢れる感情が口を動かして、最初に言いたかった言葉が、出てくる。 俯いて掴まれた腕に縋るように手を添えて、敬吾は謝罪の言葉を繰り返していた。 もう何を話しているのか、自分でも判らないほどに、ただ、口をついて出る言葉を後から理解してしまうほどに。 「い、イヤだった……黙ってること……だけど……だけどっ……」 「敬吾……」 「どうしても言えなかっ……。言ったら、隅埜君が壊れそうで……。隅埜君もきっと俺のことを思って……。だからっ……だけど、それでもイヤだった……」 温もりが体を覆っていた。 締め付ける苦しさも、それが敬吾の胸にあった言えなかった言葉を吐き出させる。 「失うなんてイヤだった……。、だけど騙すこともイヤだった……。俺は、俺は……だって……だって、幸人が……幸人のことだけ……。だけど、隅埜……君が、酷い目にあうの……イヤで……。だけど、どんなに体が流されたって、幸人しかイヤだった。幸人だけしか知りたくなかったっ!!隅埜君だってっ──薬なんか使われなかったら、俺をっ!!」 ひっく、と喉が詰まって言葉を塞ぐ。 言いたいことはたくさんあった。 だけど、嗚咽が先に出て、詰まる喉がうまく言葉を吐き出さない。 「だけど……そんなことになったのも……俺……のせい……で……っ。俺があいつらに捕まって……」 だから、隅埜君が……。 「もういいっ、もういいっ、今はもうそんなことは良いんだ」 穂波が腕の力を強める中で、敬吾は何度も何度も音にならない言葉を繰り返す。が。 「俺がまた……あいつに……捕まったから……」 それでもなんとか吐き出した言葉に、穂波がぎりっと歯ぎしりしていたのも耳に入っていなかった。 |