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薊の刺と鬼の涙 (17) |
そのメールが啓輔の携帯に入ったのは火曜の朝だった。 休んだ敬吾が今日はこれるのかということも心配だったけれど、少なくとも昨夜かけた電話では元気そうで、ほっと安堵したものだった。 忘れた方が良いのだと思いつつも、啓輔の頭の中からは、敬吾の痴態はなかなかおさまるものではない。 それでもそれを思い出すことは敬吾にとっても家城にとっても冒とくのような気がして、啓輔は強く頭を振って追い出そうとしていた。 メールの着信音がしたのは、そんな時だった。 聞き慣れたメロディに、何気なく携帯を手にとって、画面を切り替える。 「!」 声にならない悲鳴が喉から漏れ、強張った手から携帯が滑り落ちて、乾いた音を立てて床に転がった。 「何で……」 震える喉が、言葉をも震わせて、啓輔は床にある携帯を恐ろしいものでも見るように見つめた。 強張った手をぎゅっと握りしめる。 と。 床の上で携帯が踊り始めた。 2回震えて、また大人しくなる。それはメールが着信したことを知らせていた。 ごくりと啓輔の喉が鳴って、手がゆっくりとそれへと伸びる。 最初に見たタイトルに、TAISHIと綴られていたその文字に啓輔は反応したのだ。そして二件目のそれもやはり同じ文字が並んでいた。 その綴りが示す人物を啓輔は一人しか知らない。タイシ──その名しか知らない、かつての仲間で、今は顔も見たくない忌むべき男。 震える指が携帯のボタンを押す。 『この前はゆっくり話ができなかったから、会って話がしたいよ』 そんなメッセージに、ぎりっと奥歯が音を立てる。 一体どんな考えでこんなメールを送ってきたのか? 再会した時の、タイシから受けた冷たい仕打ちを忘れてはいない。憎々しげなあの視線を忘れてはいない。 あの時。 クリスマスイブの前夜に敬吾を襲った後、穂波にぼろくそにされて、啓輔は今までの行為から足を洗うことにした。それは決して穂波が恐いと思ったわけではない。 確かに訴えられて、せっかくつかみかけた一人で生きる将来を失うわけにはいかなかったという打算もあったことは否めない。だが、ようようにして家に帰った啓輔は、その日痛みのせいだけでなく眠ることができなかった。 浮かぶのは敬吾の涙の浮かんだ表情。辛そうに歪められた顔。 その時は高揚感しか与えなかったそれが、啓輔の心を酷く責め苛んだからだ。 憎まれて当然のことをしたという自覚は、それ故に心を切り裂いた。同時に自分がしたことがひどく恐くなったのだ。 一人襲うことの怖さ。それをしてしまった自分の行為と精神状態。 何もかもが恐いと思った。そして、こんなことを続けていれば、いつかきっとハメを外してしまう。いや、既に外しているのだから。 だから。 あれ以来きっぱりとタイシからの誘いは断っていた。 そのうちに何度もかかるメールや電話にうざくなって、番号自体を変えた。 それはタイシにとっては拒絶でしかないだろう。だから再会した時のタイシは怒っていた。 そして、啓輔はタイシの性格を知っていた。 彼は決して諦めない。 二つ目のメールには、場所と時間がかいてあって、絶対に来いというメッセージ付きだ。しかも。 『緑山敬吾って、彼のことだろう?』 そして電話番号が。 ぎりっと手の中で音がしたように感じた。 それだけきつく携帯を握りしめてしまう。ふたりの携帯が奪われたあの時、タイシはその中から携帯の番号とアドレスを調べていたに違いない。 あの時の様子を見れば、啓輔が敬吾の事を大事にしているのは判ることだから、脅しの材料にはぴったりだと思ったのだろう。 そして、それは当たっていて、啓輔はタイシに対する激しい怒りと敬吾に対する後悔という二つの感情に囚われてしまっていた。 もう、敬吾を巻き込むことはできなかった。 あの槻山という男は、やることは理不尽でむちゃくちゃだったが、大人しく従えばそれ以上の強制はしなかった。手に入れたオモチャを壊すことなく最大限に楽しむことを好む。だが、タイシは違う。 タイシは、きっと最後には壊れてしまっても自分の好きなようにすることを望む。それを啓輔はよく知っていた。 約束は夜だった。 本当は会社に行く気分ではなかったが、敬吾の無事な姿だけは見たかったのだ。 それも朝一で叶って、しかも元気そうな、いつも通りの敬吾にひどく安堵する。そして家城にも会って、話をしたかった。 だけどメールの件を啓輔は家城に言うつもりはなかった。 何かあればもっとも悲しむのは家城だと判ってはいたからだ。だから、あんな目に遭ったことは言うわけには行かなくて、そしてだからこそ、その延長線上にあるメールの件も言うことはできなくて。 だけど。 「家城さん、出張?」 「そうなんだ。ちょっとトラブルがあって」 家城が関わる品質保証部は滅多に出張なんてないかわりに、それが入るのはいつもいきなりだ。 たいていがトラブル絡みなので、迅速な対応が必要になる。そのせいなのだが、啓輔はよりによって、とがくりと肩を落とした。 言うつもりはなかったけれど。 それでも何か話をしたかった。 「タイシ……」 待ち合わせの場所に、来なくていいと願った相手は気色悪い笑みを浮かべて立っていた。 途端に啓輔の足が竦んで動けなくなる。 「よう」 向けられた笑みも、言葉も、前と変わらない。 だが、啓輔はびくりと全身を強張らせた。襲ってくるのは明らかに友好的でない感情だ。 「何のようだ?」 「つれないね。昔の仲間だろ」 だから。 だから遭いたくなかった。 「よく言う。俺をあんな奴に売ったくせに」 「ふふ。お前まで売るつもりはなかったんだけどな。あの人にぜひって言われると俺達は断れないのさ」 立ちすくむ啓輔は腕を掴まれてそこからぞくりと悪寒が走った。 「気持ちいいことされたんだろ?どうだった?」 からかい混じりの言葉にかっとなって腕を振り払おうとするが、それを押さえつけてタイシは小さく笑っていた。だが、むき出しの肌に触れる小さな突起物が肌をきつく刺激する。 それが何かは、この前見て知っていた。 「まあ、とりあえず……ついてこいよ。話があるんだ」 その声は静かな怒りを孕んでいて、ぎゅっと握られた腕のせいもあって啓輔に逆らえるものではなかった。 無言の啓輔を連れタイシが連れて行った場所は、古ぼけたマンションの一室だった。 市街から少し離れた場所で、周りに他に大きな建物はない。 「ここは?」 返事を期待せずに呟いた言葉に、タイシがニヤリと嗤って答えた。 「俺んち」 そのまま引っ張られて、エレベーターに乗せられる。 逆らうつもりはなかった。 とにかくタイシに敬吾だけでも諦めさせないと、このトラブルは終わらない。 タイシが何を望んでいるのかは判らないし、その望みがどんなに受け入れられないものでも、それでも啓輔はタイシの関心を敬吾から外したかった。 「ここだよ」 セキュリテイも何もない。 辿り着いた場所のドアをタイシが数度蹴っ飛ばした。 「?」 タイシの家だと思っていた啓輔の訝しげな視線に、タイシが嗤う。 「客がいるんだ」 「客?」 不審気な問いかけに返事の代わりにドアが開いたと思う間もなく、背を突き飛ばされた。 「えっ」 こける、ときつく目を瞑ったが衝撃は無く、代わりに体が柔らかく受け止められる。途端にきついタバコの匂いが鼻についた。 「こいつか、タイシ?」 「そうだよ、あの槻山のお気に入りの一人」 頭の上から降ってきた野太い声もさることながら、啓輔は背後からの侮蔑の色にびくりと体を震わせた。 そこには、槻山に対する侮蔑すら込められているように思えたからだ。 慌てて振り向けば、逆光でタイシの表情がよく見えない。 「何で……お前、あの男の仲間じゃ……」 「男って、槻山のことか?あの人、金払いはいいんだけど、自分の道しか興味がない人でさ。敵も多いわけ。だもんで、あの人を陥れたいって人は多いんだ。そのためなら、いくらでも金を払ってくれそうな」 くすりとおかしそうに笑うタイシに、啓輔はマズいっと慌てて身を捩った。 これは話し合いどころではない。もとより啓輔を捕まえている男が槻山を陥れようとしているなら、お門違いも甚だしい。 「俺は、あいつのお気に入りなんかじゃねーっ!!」 それは売ったタイシが一番知っている筈だった。 が。 「何言ってんだよ。槻山が次の日言ってたぜ。楽しかったってな」 「なっ!」 「いい加減大人しくした方が身のためだよ。あの日、どうやって槻山を悦ばせたのかしんねーけど、この人達も同じように悦ばせたら、かわいがってくれるかもよ。な、ケースケ」 「何をっ、この離せっ!!」 従えるものではない。 あの日、何のために敬吾が身を挺してまでして守ってくれたというのか。 何とかしてこの場から逃れようと渾身の力をこめて掴まれた腕を振り払う。目の前にいたタイシに体当たりして、ドアへと向かって。 「ぐっ!」 きつい一撃が背に叩きつけられた。 掴もうとしたノブから手がすり抜け、上半身がドアへと叩きつけられる。その衝撃に、目から火花が散った。 脳が頭骨の中で揺れている。 「逃げられるわけないだろ?」 卑下した嗤いが背後からするのを、啓輔は朦朧とした頭で聞いていた。 |