薊の刺と鬼の涙 (16)


『体は……大丈夫?』
 どこで電話をしているのか?
 毎朝恒例のラジオ体操の音楽をBGMに、啓輔の低い押し殺した声が携帯を通して耳に響く。
「ああ、大丈夫。ただ……ちょっと疲れが取れてなくて……ね。それでもう休むことにしただけだからさ。だから心配しなくていいよ。──それより、そっちは?」
『俺のことなんか……』
 電話の向こうで啓輔が顔を顰めて泣きそうにしている様子が否応なく浮かんでしまう。
「このくらい、平気だって。それより……家城さん……今日の様子は?」
 昨夜、家に戻ったと連絡を受けた時は、本当に啓輔の声が泣いていた。
 何も聞かれなかったと、彼が優しかったと泣いていた。
 その言葉に、敬吾自身も胸が詰まって、言葉にならなかったのだ。慰める言葉はもう出なくて、ただ、「お休み」と言って携帯を切るしかできなかった。
 優しい恋人達が何を思っているのか?
 敬吾達の拙い言い訳を信じていないのは明白で、だが彼らは決してふたりを責めなかった。
 それが辛い。
『今日も……朝逢ったけどいつもと変わらなかった。いつものように……。だけどやっぱさ……変だよな、これって』
「そう……だね」
 ふたりとも自分たちの恋人の事はよく知っている。
 優しさは確かにあるけれど、相応に苛烈さも持っている。
 そんな彼らがどんな思いで、ふたりの言葉を信じようとしているのか?
 信じようとして、平静を取り繕って。
『だけどさあ……もう普通にするしかないもんな……』
「……ああ……」
 それがどんなに辛いことか。
 嘘は嘘を呼んで、いつ破裂するか判らない。それこそふくらみ続ける風船のように大きくなっていく。
 それでも、もう賽は投げられたのだから。
『あ……服部さんが帰ってきたから……じゃあ』
「ん」
 短い挨拶を返す間もなく、携帯が切れる音が小さく響いた。
 途端に敬吾の周りを静寂が包む。賑やかなはずの朝は、澱んだ空気のせいか音を伝えない。
「はあ……」
 敬吾は大きく息を吐くと、ぱたりと寝具の上で再び横たわった。
 胸が苦しかった。
 気怠い体のせいだと、思いたかったけれど、頭はそれをはっきりと否定している。
「ごめん……」
 思わず口から漏れた言葉に思わず手の平で口を覆った。その唇が震えて、両頬を涙が流れ落ちる。
「……ごめ……なさっ…………」
 ただ、胸の中にわだかまる全てを吐き出したくて、言葉にした。それが謝罪の言葉だった。
 誰に対してのものなのかも、はっきりしないまま、敬吾は何度も呟く。
「ごめん……もっ……」
 いくらでも流れる涙に、シーツがしっとりと湿っていく。それでも涙は止まらずに、敬吾は思わず両腕で顔を強く押さえ込んでいた。
 それでも涙は止まらない。
 胸の苦しさも治らないどころかどんどん大きくなって、嵐のように荒れ狂う感情が、敬吾の全てを支配した時。
「ごめんっ……ごめんなさいっ──幸人っ!」
 ずっと胸にひっかかって出て行かなかった言葉を、敬吾はやっとの思いで吐き出していた。


「敬吾、大丈夫か?」
「……えっ……」
 寝ぼけた頭が状況を理解できなくて、敬吾はぼんやりと目の前の穂波を見上げた。
 ゆるゆると頭を動かして自分が寝ていたことを思い出す。明るい窓とそこから伝わる暑さを感じて、再度穂波を見上げた。
「おい……寝ぼけてんのか?」
 くすっと喉の奥で笑う穂波に、敬吾はようやく我に返った。
「あ……何で?」
 時計を見上げれば、12時を過ぎたところ。
 穂波がここにいていい時間ではない。驚きと若干の責めが入った視線を向けると、穂波が口の端を上げて苦笑を返した。
「出先から帰る途中だから心配すんな。様子を見に来たんだよ。ついでにここで昼でも食べようかと思ってな。お前の分も買ってきたが……食べられるか?」
 どさりと重そうな袋が、敬吾の腹の上に乗ってきて、うっと息を詰めた。
「食べられるかどうか判らなかったが……とりあえずいつもの量を買ってきたが……」
 空きっ腹に堪える重さの荷物を手で持ち上げながら、首を傾げて穂波を見つめる。
 それは、いつもと変わらぬ態度のように思えた。
「……いつものように……って……は、無理かもしんないけどさ……」
 だからいつもと変わらないように答えようと思って、口許に笑みをのせる。
「でも、お腹は空いている。ありがと」
 コンビニの袋から取り出したおにぎりを手に持った瞬間、現金なお腹が音を立てるくらいには、敬吾はずっと食べていなかった。
 手に持った触感と、視覚が、敬吾の食欲を増進させたようで、早く食べたいと思ってしまう。
 だが、そんな敬吾から穂波はおにぎりを取り上げた。
「お前、ずっと食べてないんだろ。まずは……これだ」
 がさっと音を立てて袋の中を探った穂波が取り出したのはレトルトのお粥だった。
「え〜……そんなの腹が膨らまない……」
 病人じゃあるまいし。
 食べられないと判ると、ますますお腹が空腹を訴えてくる。だが、手を伸ばして取り上げようとした袋は、あっさりと穂波の手の中だ。
「まずはこれを食べろ。それからだ」
 くしゃりと髪を掴まれて、ぐりぐりとかき回された。
 確かに穂波の言い分はもっともだと判る、が。
「……意地悪ー……」
 ぼそっと呟いた言葉に、穂波が剣呑な視線を返したことに気が付いて、慌てて布団を被った。
 やばっ……。
 ぺろっと舌を出して苦笑する。
 その耳に、穂波が台所で鍋を出している音が聞こえてきた。
 いつもと変わらぬ風景。変わらぬ応酬──中身はともかくとして……。
 だけど、それがいつもと変わらないからこそ、嬉しくて。
 なのに、胸の奥の方で相変わらずちりちりと疼くようにしている塊はあったけれど、敬吾はそれを無視することにした。
 穂波がいつもと同じようにしてくれようとしているのなら、それに甘えるのもいいだろう。いや、甘えたいと切に願う。
 今はもう、ただそれに縋りたかった。
 


 落ちていなかった食欲のお陰が、一日で回復した体力は、火曜には会社に行くには十分なほどだった。
 ──こういうところは丈夫にできてんだな〜。
 と、自分のタフさにいい加減呆れつつも、会社へと向かう。だが、そのタフさも外面だけだという自覚はあった。
 過去の啓輔達とのことも、啓輔が相手だったと知った途端に、パニックを起こしたことは、今思い出しても赤面モノだ。しかも、先日とてあっという間に体が竦んでしまったのだ。
 それを思うにつれ、自分のタフさが外見だけと知る。
 もう少し精神的に強くならなければ、と思うのだが、さすがに体のようにジムで鍛えてどう、というものではないから、気を確かに持つしかないと言うことだろう。
 もっとも、会社に着いた駐車場の端にある駐輪場で啓輔を見かけた途端、悪戯心がむくむくと湧いてきたのには、自ら呆れてしまった。が、それはかろうじて押さえる。
 さすがに、先だってのこともあるから、彼を煽るわけにはいかなかった。
 今の彼にそういう感情を持たせれば、否応なくそのことを思い出してしまう事は目に見えているからだ。
「おはよう」
 だからさりげなく声をかけてみたが、啓輔は驚いたように目を見開いていた。が、すぐさまその顔が泣き出す寸前のように歪んだ。
「あ、あの……」
 途端にマズいっと思って言い訳を考えようとしたが、その前に啓輔が口を開いていた。
「緑山さん……、もう……」
「大丈夫だって……それより……」
 今にも泣き出しそうな啓輔に、敬吾は苦笑を浮かべてその肩をあやすように叩いた。
 こんなに泣き虫だったろうか?
 ひどく幼く見える啓輔に、敬吾は驚きを隠せない。
「ご、ごめん……なんか、ほっとして……」
「うんうん、俺は大丈夫、とにかく丈夫なんだからさあ。だから……もう……忘れよーよ」
 慌てたように目元を擦る啓輔に微笑みかけて、敬吾は言葉を継いだ。
 忘れることか一番なのだ。
 何もかもを。
「ん……そうだね」
 だが、そんな啓輔の表情は晴れない。返事をしたのも、どこか上の空のようで何かを考えているように視線を地に這わしていた。
「何?」
 問いかけてると、なんでもないと首を振る。
 その様子が気にはなったのだが。
「おはよう〜」
「あ、おはようございます」
 同僚達と出くわして、それを追求している暇はなくなってしまった。
 挨拶を交わして、従業員入り口から工場内に入る。靴を脱いでいる間にも、狭いそこは次から次へと出勤の人間で一杯になって。
 それでも。
「緑山さん……ほんとに、忘れてよ……もうあんなことはないから」
 空耳かと紛うほどに小さな声に、敬吾は慌てて振り返ったけれど、その時には啓輔の姿は階段の方に消えるところだった。
「何?」
 思わず呟いたが、それでも忘れろと言ったのは敬吾の方だったから、それに返してきたのだろうと思ってそれ以上は気にもとめなかった。
 実際、会社に行けば追われるほどの仕事量で、息をつく暇もない。それは余計な考えを敬吾にもたらさないから、啓輔のことも忘れていたと言った方が正しいだろう。
 

 だが。
 次の日──水曜の夜。
『啓輔が無断欠勤した上に行方不明なんです』
 と、家城が酷く慌てた様子で電話をかけてきた時、咄嗟に脳裏に浮かんだのは、火曜の朝の、思い悩んだ啓輔の様子だった。

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