薊の刺と鬼の涙 (15)


 それでも、そんな嘘が通用するなんて思わなかった。だが、もう他に手立てがなく、祈るような思いでその嘘に縋り付く。
 それに気持ちが悪いのは嘘ではない。
 頭の奥の方がずきずきと痛んで、それが吐き気を誘発していた。
 そして。
 敬吾の体が限界なのはそこにいる誰の目にも明らかで、その調子の悪さにまず穂波が折れた。
 大きなため息がその口から漏れ、結局何も言わずに敬吾を抱き上げるとベッドまで運ぶ。
「幸人……」
 信じてくれた?
 だが、人の心の動きを巧みに見切って仕事をする穂波ともあろうモノが、敬吾達の拙い嘘を見抜けないはずがない。なのに、穂波は敬吾の呼びかけに、微かに笑みを浮かべた。
「疲れたんだろ……もう寝ろ」
 その声に優しさすら宿る。
「でも……」
 信用したというのだろうか?
 だがそんな筈はないと信じられなくて、窺うように穂波を見つめる。
「いいから……寝るんだ」
 今度は少しきつい言葉が降ってきて、敬吾は仕方なく目を閉じた。
「おやすみ。ゆっくり寝て疲れを取れよ」
 それは信じられないほどに優しい言葉で、思わず胸の奥からどうしようもないほど熱い感情が溢れそうになる。それを必死で堪える。
 そうすると今度は辛くなって、敬吾は堪らずに頭まで布団を被った。
 それはどう見ても変だと思うだろうと、覚悟を決めたのに、それでも穂波は何も言わなかった。
 しかし。
「それじゃあ、私たちも帰りましょう」
「で、でも……」
 家城が啓輔を引っ張って出て行く音がする。
「ああ。今はとにかく休ませろ。そっちも酷い顔をしている」
「そうですね。啓輔……心配しなくていいですから、あなたも帰って休みましょう」
 穂波の労りの声に家城が答える。
 どうして?
 きっと啓輔も思っている疑問を、当の本人達に聞くわけにもいかない。
 ただ、嘘を付くしかない自分たちがイヤでイヤで堪らなかった。
 責めてくれれば良かったのに。
 そうすれば何もかもバレる。
 バレるのはイヤだったけれど、こうやって嘘を吐いて、なおかつ、労られるのが堪えられない。
 堪らずにぎゅっと目を瞑れば、その目尻から溢れだした涙が止まらなくなった。
 その耳に、微かにドアが閉まる音が響いて、そして畳を歩く足音がした。


「敬吾……」
 手が布団の上から優しく背を撫でる。
 そんなことをされたら……。
 口走ってしまいそうになる。
 自分たちが何をしてきたか、何をされたか、その何もかもを。
 だけどそれはできないと、嗚咽を堪えながら、敬吾は必死で口を噤んだ。
「寝なさい……。私は……一緒にいたいが……今日のところは帰るよ……。とにかく、休みなさい」
「帰る……?」
 思わず問い返していた。
 それでも涙で濡れた情けない顔を見せたくなくて、振り向くことはできない。
「一緒にいると、一晩放置された俺としては、お前を無理に抱いてしまいそうでな」
 苦笑が漏れ聞こえて、だが、その言葉に、敬吾はさあっと青ざめた。
 今抱かれたら……。
 何も言わなくてもバレるだろう。
 何より、体がもたない。
「だから、帰るよ」
 少し寂しそうだと感じたけれど。
 今は引き留めるわけにもいかなかった。
 本当は傍らにいて欲しかった。
 ずっと傍らについていて欲しかった。
 だけど……。
「俺は……大丈夫……だから。幸人は……寝てないんだろ?ごめん……俺のせいで……。だから……帰って……休んで……」
 嗚咽が混じらないように、必死でそれだけを伝えて。
「ああ、そうだな……。お互い元気になったら、今日の分のお仕置きをするからな」
 冗談めかした言葉に答えられない。
 ぎゅっと握りしめた布団は、きつくシワが寄っていた。
「じゃあな、おやすみ」
「……ん……」
 いつもの言葉。
 いつもの声。
 だが、どこか変だと思っているのも事実。
 それでも、流されるしかなかった。吐いた嘘は、限りなく大きくなって、胸にシコリを作り続ける。
 もしいつかバレたら……今度は嘘を吐いたことも責められるのに。
 だけど、今はもうどうしようもなくて。
 ドアが閉まる音がした途端、敬吾は今まで堪えていた分を吐き出すように、布団の中で咽び泣いた。
 


 敬吾の様子に啓輔は後ろ髪を引かれる想いではあったが、しっかりと腕を掴んだ家城には逆らえなかった。いや、もうその場で何を言われても逆らえないだろう。
 優しい言葉をかけられると、胸にある重たい秘密が幾つも刺をつきだして、心臓に突き刺さる。
 痛くて苦しくて、だけど解放されない。
「……純哉……」
 黙って車を運転する家城に、堪らずに呼びかけていた。
「はい?」
 ちらりと視線が啓輔に向けられて、また前方へと移った。
 視線が外れたのが寂しいと思って、だけどほっと安堵する。
 しかし、返事をされて気が付いた。一体自分は何を言おうとしたのか?
 苦しさから解放されようと、自分は何を言ってしまいかけたのか?
 駄目だ……。
 脳裏に甦るのは、敬吾の苦痛に満ちた表情だ。啓輔を守るために身を投げ出して、槻山に蹂躙された敬吾が守りたいであろう秘密を、啓輔が言うわけにはいかなかった。
 だが。
 沈黙が続く車内で、相変わらず刺は啓輔を苦しめていて、疲れた体を責め苛む。
 あれだけ恋しい相手である家城のそばにいることが酷く苦痛だった。
 もっと離れたくて堪らない。一人になりたくて堪らない。込み上げる悔いと叫び出したいほどの悲しみは、家城がそばにいる限り外に出すわけにはいかなくて、内へ内へとこもり続けて啓輔を苦しめる。 
 ふと俯いていた視線を前方に移せば、車は家城のマンションへと向かう道を走っていた。
 あと5分もかからない。
 そう気が付いた途端に、啓輔は縋るように家城を見つめて請うていた。
「純哉……俺……家に帰りたい……」
「え?」
 ぐらりと、確かに車が揺れた。
 確かにその瞳に走った動揺を啓輔は確かに見て取った。
 程なくして家城が車を道ばたに止めて、啓輔へと視線を向けた。それは、本当に優しいものであったけれど、どこかひどく寂しそうだとも感じて、啓輔の胸を傷つける。
「家……ですか?」
 問い返す声も心なしか震えていて、家城が何かを気付いていると思わせたけれど。
 それが何かは恐くて聞けなかった。
 だけど。
「ごめん……今日は帰りたい……。その心配ばっかかけてんのに……だけどさ……」
 いつだって啓輔の事を思ってくれる家城が、無断外泊した啓輔をどんなに心配したか想像に難くないというのに、それでも、今は。
「疲れて……家で寝たい……」
 言い切って、啓輔は俯いた。視線の先にある指が、所在なげに組み合わされる。
 どんなに我が儘なことを言っているか、判っているが。
「私の……ところでも……。今日はしないから……」
 躊躇いがちな家城の言葉に思わず首を振る。
「……ごめん……そうじゃなくて……」
 抱かれることを恐れている訳じゃない。
 ただ、一人になりたい。このまま家城のそばにいると、その優しさが酷く苦しくなってくる。堪らずに何もかも話してしまいそうなる。
 だけど……それは絶対にできないことだから。
「な…んか……疲れて……」
 結局そういう理由しか言えない啓輔に、家城はしばらくその横顔を見つめていたようだった。
 そして。
「判りました」
 短い言葉に何の感情も乗っていなくて、それが酷く冷たいと感じた啓輔はびくりと体を震わせた。
「あ……」
「家まで送りますから……寝ていていいですよ。顔色……悪いですし」
 啓輔の動揺に気が付いたのか家城が小さく笑って啓輔の頬に触れる。だが、啓輔には家城の押し殺した感情が判ってしまった。
 触れられた手が、震えているような気がしたけれど、それを受けとめられない。
 ただ、情けなくて、申し訳なくて。
「……ごめん……」
 呟いて。
「謝ることはないですよ。どちらにせよ明日は会社ですし、バイク……家ですしね」
「うん……」
 言い訳が成り立って、ふたりの間に奇妙な沈黙が漂う。
 気付いているのかいないのか?
 判らない空気が車内を重くよどんだものにしていた。
 啓輔は何度も心の中で「ごめん」と呟く。昔の自分がとっていた行動が、今になって啓輔を追いつめた。それは自業自得であって、啓輔も仕方がないものと思っている。ただ、それだけなら、家城に何もかも話してしまったかも知れない。だが、今回それに巻き込まれた敬吾に罪はない。彼をこれ以上苦しめるわけにはいかない。
 だから。
 この秘密は絶対に話すことはできない。
 啓輔は何もかもその中に閉じこめるように、ぎゅっと拳を握りしめた。
 今日のことは、絶対に自分でケリをつけなければならない。
 もう……他の誰も巻き込ませない。
 その固い決意とともに。


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