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薊の刺と鬼の涙 (5) |
剣呑な形相の団体に、人が避けて通る。その無関心さに腹が立つのはあの時もそうだったからだ。だが、同時に誰も助けは来ないとその絶望感にも襲われる。 地下街の駐車場に入って車に押し込められるまでそれは続いていた。 頬の傷がもっと深ければ騒ぎになるのだろうが、そこは既に血が止まっているらしく、ぱっと見には人の目に入らないようだった。 しかも車は敬吾と啓輔が別々だ。もともと二台に別れて来ていたらしく、さっさと二手に分かれてしまう。敬吾はタイシと一緒の車だった。 「離せっ」 扉が閉まる寸前、啓輔の悲鳴にも似た声が聞こえた。 慌てて窓から外を見ようとしても暗い色の遮光シートが張ってあって暗い外がよく見えない。 「隅埜君っ!」 叫んた言葉はエンジンの駆動音にかき消されて窓の外にまでは届かないようだった。 「煩いな……別に殺しやしないって。それよりさあ……これ」 タイシの手の中でした金属音に、嫌な予感がしてそちらを見やった。同時に掴まれたままの手首に、冷たく硬い物が押し当てられる。 カシャッ 「やめろっ!!」 制止する間もなく、はめられた手錠に慌てて両腕を外へと引っ張った。だが、痛みが手首に走っただけで、鎖はちぎれそうにない。 「逃げられたら嫌だしね」 タイシが嗤う。 そして。 「あんた逃げたら、相棒がどんな目に遭うか判らねーぜ」 「どんな目って……」 「俺達ねえ……いいやつ探してたんだ。良かった、あんたに逢えて。男でもいいって言ってたしな」 「これなら結構いい小遣い貰えるよな」 タイシの仲間達が口々に言う言葉を、敬吾は信じられない思いで聞いていた。 どうやら彼らが誰かに言われて人を捕まえているのだと気付いたからだ。 ならば最悪な事態が頭の中を駆けめぐり、敬吾はギリッと奥歯を噛みしめていた。 車で走った距離は長くなかった。 繁華街から外れて、南へと下る。それは判ったのだが、路地裏をくねるようにあちらこちらに曲がって、方向感覚がおかしくなる。見慣れていた町並みの筈が、気が付けばどことなく荒んだ雰囲気の店が並ぶ地帯に入っていた。その一角にあった駐車場へと車を入れ、タイシが敬吾を外へと連れ出した。ご丁寧に手錠の上にかけられた服によって、まるで連行される犯人のようだ。 その不快さは言い表せないほどで、敬吾はぎりっと奥歯を噛みしめると、タイシを睨み付けた。 だが、後から入ってきた車から啓輔が連れ出されて気がそちらに向いてしまう。 「隅埜君っ!」 「あ……緑山さん……」 少し青い顔に心配になって、駆け寄ろうとするが、すぐに腕を掴んで引き戻された。 「心配しなくても、こっちの用が済むまではなんもしやしねーよ。あんたらが大人しくしている間はね」 にやけたタイシの言葉は信用できるものではないが、今は従うしかなかった。 人通りが少ない道をそう進むことなくさらに路地裏に入って、狭い入り口のドアをくぐらされた。明るかった世界からいきなり灯りも満足にない室内に入って目が暗さに慣れない。すえた臭気のする狭い階段は、まるで死刑台のようでぞくっと背筋に激しい悪寒が走った。 敬吾が微かに体を震わせたのに気が付いたのかタイシが面白そうに敬吾の目を見つめる。 そこに揶揄する光が浮かんでいるのに気が付いて、敬吾はすぐに視線を逸らした。 「くくっ、恐いかい?」 だが耳まではふさげない。 タイシの言葉はわざと敬吾達の恐怖を煽るように、低く笑みを含めて伝えられた。 「俺達ね……このビルの持ち主の下っ端なんだ。その人は、いろんな飲み屋なんかのオーナーでね、羽振りが良くってさ。で、その人の命令なんだよ、誰か男相手でもOKな奴連れて来いって。ただし顔が良くて負けん気の強そうな……簡単に落ちそうにない奴……って難しい注文付き」 「タイシっ!まさかっ!」 後ろを上がってくる啓輔の驚愕の声に、タイシが嗤って返していた。 「それ聞いた時、この人のことしか頭に浮かばなかったよ。だいたい男OKなんて、そうそう知り合いにいねーし」 まさか……。 啓輔がその先に続けたかった言葉の意味は、驚くほど簡単に理解できた。 信じられないという思いと、今更ながらに湧き起こる恐怖。それは、あのカラオケボックスでの出来事の記憶と相まって足を止めさせるほどの恐怖だった。 「ああ、止まんないでよね。ほら、そこの部屋だから」 無理に引っ張られて足がもつれる。 がくりと跪いた敬吾は、休む間もなく引き上げられた。 「は、離せ……」 震える声で抗っても、それは相手を助長させるだけだった。それでも大人しく従えるものでもない。 「無茶言う人だけどさ、言うこと聞いてる間は優しいよ。面白い人だし。ここまで来たんだから大人しく従ったら」 「てめっ、いい加減にしろっ!緑山さんを離せっ!!」 「うるせーよ、ケースケ」 啓輔の罵声に苛立ったようにタイシの片眉が上がった。途端に乾いた音が狭い廊下に響く。 「隅埜君っ!」 敬吾の視界に、頬から血を流す啓輔の痛みを堪える顔が入った。 あの指輪で傷ついた頬は、どうみても啓輔の方が酷そうで、顔を顰めて見つめる。 「お前を連れてきたのはついでなんだから大人しくしてな。ここでこいつを引き渡したら、後でいろいろと聞きたいことがあるんだ?……すっかり真面目にやってるようなんでね〜」 「俺にはないっ」 声高に返す啓輔の瞳に荒ぶる色が宿る。 最近の邪気のない表情が、みるみるうちに変化していた。それはあの時を彷彿させる物で、駄目だと、敬吾は止めさせようとした。 せっかく取り戻した本来の啓輔が消えるのが我慢ならなかった。 「やめっ!」 「うるさい。さっさと入ってこいっ」 敬吾が制止しようと口を開いた途端、閉まっていたドアが開いて、凛と通る声が階段に響いた。 「あっ……すみません」 途端にタイシも他の男達も大人しくなる。思わず見上げた先に、逆行で影になった体格の良さそうな男の姿があった。 「ほら、早く動け」 焦ったようなタイシに引っ張られ、敬吾と啓輔は室内へと連れて行かれる。 「んっ」 暗かった階段から入った灯りのついた部屋はまぶしいほどで、手を翳そうとして繋がれた手錠の鎖がそれをさせなかった。 数度瞬きして必死で目を慣らす。 「どっちだ、タイシ?それとも両方か?」 まだ若い声がして、男が近づいてきた。 その威圧感に思わず後ずさるほど、慣れた視界に入った男は敬吾より一回りは縦も横も大きかった。だからといって太っているわけではない。スーツがフィットした均整の取れた体格は、そのかっちりした服装にもかかわらず、スポーツ選手のようにも見えた。 「こっちのです」 ぐいっと背を押され、目と鼻の先に男の喉が来る。 「ほお……」 指が顎を掴んだ、その意図に逆らおうと必死で首を竦める。だが、男の力は強く、顎で持ち上げられそうになって結局なすがままになった。それでも理不尽な行為に湧いた怒りをその目に蓄えて睨み付ける。前のように何もかもなすがままになるのは嫌だった。 気を抜けば、がくりと腰が砕けそうな恐怖は身のうちにくすぶっている。それでもまだ事も始まっていない今から崩れていては、穂波に鍛えられた意味が全くない。 少なくとも、あの時とは違うのだから。 「なかなかいい目をしているな」 口づけられそうなほど間近に顔を寄せられ、吐息をかけてしまうのも嫌で息すらできない。 「マジで無理矢理連れてきたって感じだな……。まあ、それでもいいか……。で、お前、男を知ってんのか?」 声の通り、まだ若くいってて20代後半か、30代前半のように見えた。 短くまとめられた髪は、一見普通のサラリーマンのように見える。だが、見つめてくる眼光は鋭く、まるで獣に射竦められたような気がした。 質問に答えずにただ睨み返す敬吾に男がようやく視線を逸らした。だが、それは問いの答えをタイシに求めたからだ。 「そいつ、男の恋人持ってんですよ」 だから、大丈夫だと、下卑た嗤いが辺りに響く。 「なるほど。で、こっちは?こいつもなかなかいい顔してるが?」 言葉ともに手が離れて、敬吾はようやく息が吸えた。だが、危険が去った訳ではない。値踏みするかのように二人を見比べて、啓輔の頬に流れた血を男が指先で拭っていた。 「こいつは、昔のダチでケースケってんだけど。こいつと一緒にいたもんでつれてきたんですけど。なんか正義感ぶってて胸くそわりーんで、後でしめてやろーかと」 「ふ〜ん。もったないない。こいつは男は駄目なのか?」 「うっ」 頬に触れていた手を襟の中に差し込まれた啓輔が引きつったように小さく喉を鳴らした。 「前は駄目なようなこと言ってたけどさ……」 「そうか?」 タイシの言葉に面白そうに男がニヤリと口許を歪めていた。その視線が、開いたシャツの内側にじっと注がれている。それに気付いた啓輔が不自由な手で相手の腕を振り払っていた。 「ケースケっ!てめっ」 「ああ、いい。それより褒美だ」 ピンッと張りつめた空気を一瞬にして和らげさせた男が、タイシに財布を放り投げた。どしんと重たい音を立てる財布にタイシが飛びつく。 「こんなにっ」 音を立てて唾を飲み込むほどの金額だったのだろう。 驚愕に目を見張ったタイシがいた。 「二人分だ」 「え?」 「二人とも気に入ったからな。何か文句あるのか?」 「あ、いえっ」 「だったら……そうだな。そこにある紐でそこのソファに一人ずつ縛れ。どう見ても納得ずくではなさそうだし。だったら、逃げられたら楽しみが減るしな」 「はいっ」 「や、止めろっ!!」 大金を手にしたタイシ達の動きは不必要なほどにきびきびとしていて、敬吾達が抗うのもなんのそので瞬く間に二人を応接用のソファに縛り付けた。後ろ手にした手は背もたれの後ろで括られ、足も椅子の脚にそれぞれ括り付けられる。 「できたら、さっさと出て行け」 「はいっ」 男の命令は絶対なのか、タイシ達はあっという間に入ってきたドアから消え去っていった。 応接セットと机という事務所に似た部屋に、情けなく縛られて敬吾と啓輔が放置される。そしてふたりから遠く離れた場所に、ふたりの荷物が転がっていた。 売られた……。 その意味するところが敬吾を打ちのめす。それでも、前のように自失してしまわないのは、穂波による意識の強化と、一人だけでないという思いからだった。ここには啓輔もいて、同じように縛られている。それはある意味、状況としては良くないだろう。それでも一人よりか心強かった。 だが。 「さて……どちらから私の相手をして貰おうか?」 何でもないことのように男から現実をつきつけられて、二人は顔を見合わせて硬直した。 |