薊の刺と鬼の涙 (2)

「隅埜君……ごめん」
 待ち合わせの駅前の噴水前でぱたぱたと手で襟元を仰いでいた啓輔を見つけて、慌てて敬吾は足を速めた。
「暑かったろ?構内に入れば良かったのに」
 額に汗を滲ませた相手に申し訳なく思い、顔を顰める。梅雨の雨上がりの昼は、思わず音を上げそうになるほどの蒸し風呂状態で、ちょっと小走りになった敬吾ですらじわっと汗が噴き出してくる。
「駅の中に入ってましたから。さっき、そろそろかなあ、と思ってここに出てきたんですよ」
 何でもないと子供の無邪気さと大人の狡猾さが入り交じった表情で敬吾を見つめる彼は、敬吾にしてみれば見上げるほどに背が高い。
「嘘」
 にこりと笑うそれに、ほんの少しの茶目っ気混じりに秋波を加えれば、彼がどんなに動揺するかを知っているというのに。
「緑山さん……」
 引きつった頬に上擦った声の啓輔は知らずに一歩後ずさっていた。
 その様子に、堪らずに吹き出してしまう。
「緑山さんっ」
 強い声音に彼の憤りを感じて、堪えようとしても笑いが止まらない。
「ごめん……」
 眉間に深くシワを寄せて、目を細めて敬吾を見つめる啓輔の顔が赤くて、もっとからかいたくはなったが、そんなことをすれば彼が怒って帰ってしまわないとも限らない。それも困ると、敬吾はごくりと息を飲んで、無理矢理に感情を落ち着かせた。
「ごめんな」
 謝る声音にまだ幾分の笑みが籠もっていたけれど、それでも啓輔は小さくため息を漏らすと頷いていた。
「俺、……節操無しでさあ……」
 だから。
 と、自嘲めいた笑みを口の端にのせて、啓輔は振り切るように空を仰いだ。
「あんまさあ……煽んないでよ」
 最後の言葉ともに降りてきたその目が切なく敬吾を見下ろして、苦笑へと変化する。
「そりゃ……面白いかもしんねーけどさ」
「……そうだね」
 からかいすぎたと思ったが、それ以上は返さない。
 敬吾がどんなに煽っても、彼は決して敬吾には手を出さない。それを知っているからこそ、つい試してしまうのだ。それを啓輔も知っている。
 だから、もう何も言わなかった。
 ただ。
「家城さんは、今日はOKが出てるのかい?」
 それだけがふと気になって、思わず袖口を押さえながら問いかけた。啓輔の恋人も相当嫉妬深いと何かにつけ見かけてしまうから、どうなのだろうと首を傾げる。
「あいつはさあ……機嫌悪かった……」
 啓輔はぼそっと呟いて、苦笑を浮かべていた。
「でも、一応OKは貰ったからさ、大丈夫。黙っててバレた方が怖ーし」
「ほんとに?」
 どんな風にして了承を貰ったのか?
 それは単純な好奇心だった。
「まあ……帰ったら、根掘り葉掘り聞かれるんだろうけどさ。今日は家城さんも大学の友人と会うとか言っていたし。これが暇だったら、付いてきたかも知れねーけど。そういえば緑山さんの方は大丈夫なの?あの……穂波さんって人」
 穂波の名を出す時に、啓輔が言い辛そうにするのはいつものことで、敬吾はこくりと頷いた。
「俺の方も大丈夫だ。穂波さんは今日、仕事なんだ」
 でなければ、敬吾は部屋から出して貰えなかったろう。
 それは嫉妬深さだけではなく、ただ離したくないということらしい。それほどに、貪られてしまうのだ。
 お陰でそれを受ける体力だけは十分についていて、した後でもこうやって出掛けることはできるようになった。
「じゃ、いこーか」
 お互いの恋人の動向に安堵して、視線で頷き合う。
 今日はバーゲン真っ最中の土曜日であった。


 今日という日に、啓輔を一緒にと選んだのは、たまたまだった。
 昨日の会社での休憩時間に一緒になって、もうバーゲンが始まっているという話になったのだ。
「……俺、行こうかなあ……。夏物仕入れねーと」
 ぽつりと呟いた啓輔の手には紙コップに入った緑茶。それをマズそうに一口飲み込んでいた。
「隅埜君は、どんな服を買うんだ?」
 啓輔の先輩である服部が問うのに、彼が答えた。
「……ん〜、なんかシャツが欲しいなあ。HUNGっていう店が好きなんで、たいていそこで買ってっから、また見に行こうかな」
「HUNG?地下街の?」
 その店名に反応してしまった。
「あ、そうです」
「へえ、俺も結構好き。いいよね、あそこのは」
「あ、今朝来てたシャツもHUNGのですよね?あのボタン、見覚えがあるなって思ったんだ」
「よく見てたね〜」
「っ!」
 ほんの少し揶揄をのせて、上目遣いに窺えば、てきめんに反応した。
 これが楽しいから、つい……ね。
 肩を竦めて気付いていないふりをして、窓の外を見やった。
「あの……」
 声で乞われて視線を戻した。
「そうだ……、隅埜君、明日一緒に行かないか?バーゲン」
「え?」
 動揺を隠しきれない表情が面白くて、だから誘ってしまったのかも知れない。
 それに敬吾の頭の中には明日は穂波が仕事だと言っていたことは既に入っていた。その暇つぶしの意味もあったが、それでも啓輔を困らしたいという思いの方が実は強かった。
 だんだん意地悪くなるな。
 その原因が穂波にあると言い逃れるのはあまりに責任転嫁かも知れないが、本音は間違っていないと思う。
 彼も相当に意地悪いから、それに対抗するには生半可なことでは駄目なのだ。
 心も体も鍛えようとして、気が付いたら啓輔を格好の的にしてしまっていた。もっとも、穂波と付き合うきっかけは啓輔のせいでもあったのだから、彼にも責任を転嫁しようと思っていることも、ないとは言えない。
「どう?」
「え……と……」
「……ああ、家城さんと用事があるんならいいけど」
「あ、いえ……ないです」
 傍らで、服部がハラハラして見ているのは、それぞれの恋人が実は嫉妬深いと知っているほどには、敬吾達とは仲がいいからだ。
 だが、それは服部の方がよっぽど大変そうで、だから彼はあえて誘わなかった。
「もしよかったらでいいんだけどね。俺も最近は買い物行っていないからどっか他にいい店があったら知りたいなあと思って。隅埜君のお薦めは、HUNGだけ?」
「あ、いえ……」
「じゃあ、明日12時でどっかでお昼食べよう……OK?」
「あ、はい」
 それはほとんど条件反射の返事であっただろうとは気付いていたが、一度取った言質を手放さないと微笑む。途端に啓輔が、自らの失敗に気付いたのだろう。その顔が完全にひきつっていた。


 それならそれですっぽかされても良いとは思っていたのだが、やはり啓輔はちゃんと来ていた。
 最近、出掛ける時はたいてい穂波と一緒だったから、こんなふうに違う人と出かけるというのはほんの少し楽しみにしていたこともあって、妙に心が浮き足立っている。
「とりあえずお昼、食べようよ」
「そうですね〜。俺、朝あんま食べないからお腹すいて」
「どこがいいかな?」
 こんなふうに遊ぶのもたまにはいいな、と、邪気のない笑顔の啓輔を見やる。
 あの時は、とてもこんな子だとは思わなかったけど。
 初めての出会いの時は最悪で、事が終わった後は憎い対象でしかなかった。荒んだ冷たい表情の男が、会社で新入社員として現れた時、最初は全く気付かなかったほどだ。知った時には、うまく演技していると思ったけれど、実はそれが本当の彼なのだとすぐに思い当たった。
 それに家城と付き合うようになってから、啓輔はどんどん年相応の表情を見せるようになって。仕事熱心で、事故で両親を亡くして頑張っているそんな彼を、敬吾はいつまでも憎む事などできなかった。
「緑山さん、何食べます?」
「そうだね」
 考える仕草に笑みを返して、じっとその様子を眺める。
 敬吾は最近啓輔のことを弟のようだとすら思うことがあった。兄弟はいたが弟という存在はいなかった敬吾だから、本当の弟というものがどういうものかは判らない。
 それでも、ふとそう思ったのだ。
 もし啓輔が、それとも敬吾が、どちらかが会社をやめて離れることになったら、寂しいだろうと思う。それは同僚や、後輩達とそうするよりも、もっとだろう。
「俺……食べる量だけは多いけど、好き嫌いはそうないから、だから何でもイイよ」
「そういえば緑山さんは、すごくよく食べるんですよね〜。そんなに細いのに」
「そうなんだ」
 いつも言われるその言葉に、いつものようにくすりと笑って返す。
「穂波さん……も、驚いたんじゃないですか?」
「ん、今でもまじまじと見られることがあるよ」
「でも太らないんですねえ」
「……だから、燃費が悪いって言われるんだ」
 やせの大食いを地でいくと言われて、食べ方が悪いという指導までされてしまった。
 敬吾は、時折横を向いて隣を歩く啓輔を見上げていた。
 少し長くなった前髪が鬱陶しいのか、手で掻き上げている。指に絡まる艶やかな黒い髪は見た目よりも柔らかそうに見えた。
「……もう伸ばさないのか?それに色も……」
 もし、長くしたらあの時のような顔立ちになるのだろうか?
 ふと、そんな事を思ったのは、あの時と同じ顔を見て動揺しなければ、少なくとも啓輔に限って言えば心の中で全てがケリが付いたと思えるからだ。
「……伸ばしません……」
 揺らいだ瞳が細められて、自嘲気味に低い声が零れた。
 それは周りの喧噪に消されそうな程、小さな声であったが、その口許を見つめていた敬吾には何を言ったのかはっきりと判った。
 啓輔は、もう伸ばさないと言う。
 それは、過去との決別なのだと、敬吾なら判る。
 長い髪は、啓輔にとって既に忌まわしい過去と同じものなのだから。
「そうだね。君は短い方が似合うよ」
 見たいと思ってはみたが、それでも啓輔の言葉に安堵していた。
 

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