薊の刺と鬼の涙 (1)


青みがかったグレーのカーテンが、淡い灯りの中でエアコンの風にそよそよと揺れていた。
 外は夕刻から降り始めた雨が、ずっと降り続いている。梅雨の夜は、昼間の熱を孕んでいて激しく蒸せていた。だが、室内は少し低めの温度と湿度に保たれ快適のはず。
 だが。
「んんっ……んっ……やぁ……っ、あっつい……」
 艶めかしい嬌声が、雨の音を消して響く。
 ベッドサイドのランプシェード越しの灯りの中で、二つの裸体が蠢いていた。その肌が時折きらりと灯りを反射する。それは、肌をしっとりと濡らしている汗のせいだった。
「ふふ、いいぞ……敬吾の中がオレに絡みついてくる」
 荒い息の中、それでも浮かぶ愉悦を隠すことなく、穂波幸人は大きく腰を動かし続けていた。
「はっ──っ、やぁっ……もうっ……」
 少し離れていたむき出しの双丘に腰が激しく打ち付けられ、弾けるような音が響く。そのたびに、緑山敬吾の喉が喘いで声を絞り出していた。
「も、もう……っ」
 四つんばいで後ろから貫かれ、敬吾の腕が力を保っていたのはごく僅かの間で、今はもう頬をシーツに張り付かせ、指が無意識のうちにひっかけたシーツを掴んでいた。
「なんだ、もうバテたのか?」
 からかう言葉は、敬吾にしてみれば無視するに限るのだが、実は気にする余裕もないというのが本音だ。
 もう穂波は三度目だというのに、その声音にはまだまだ余裕が感じられる。
 元気なんだから……。
「ひあっ──ぁぁっ、んぐっ、やあっ」
 ほんの少し意識を逸らした途端に、敏感なところを狙って突き上げられた。
 目の前がちかちかと弾けて、息が止まる。ピンッと反らされた背筋に口づけられて、ようやく体が弛緩した。
 音を立てて崩れ落ちた肢体を投げ伸ばしたまま、それほどまでに効いた一撃に敬吾は弱々しく視線を動かした。
「ひど…………」
 遠慮のない突き上げからくる衝撃は凄まじく、敬吾の意識はなかなかはっきりしない。それでも、そんなことを強いた穂波に恨みがましい視線を送るのは忘れない。
「何だ、イけなかったか?」
 その表情に浮かぶ笑みに、結果を十二分に判ってて行った行為であることは明白で、敬吾の口から堪えきれないため息が零れた。
「……きつすぎる……」
 過ぎた快感は痛みと同じで、かえってイけない。
「ふふん、まだまだ楽しまないとな」
 口の端を上げ、にやりと嗤いながら穂波の手がそれでも萎えることはなかった敬吾の雄に添えられた。
「んっ……」
 それだけで、ぞわりとした疼きが肌を粟立たせる。
「結構出ているな」
 滑るそこは、粘着質な音を立てて指の動きを助ける。それは簡単には乾きそうにないほどの量で、穂波が楽しそうにそれをすくい上げていた。
「追加のゼリーがいらんな……」
「やぁっ……」
 舌っ足らずな拒絶は難なく拒否されて、滑る指がすでに入っている場所をなぞる。
 それだけで、期待した体が小刻みに震え、後孔を締め付けた。しかも締め付けたせいで中に入っている穂波の雄をはっきりと感じてしまう。
 しかも。
「ちょっ、ちょっと!!」
 穂波の指が既にきついそこに入り込んできたのだ。慌てて身を捩って逃れようとするが、もう一方の手がしっかりと腰を押さえている。
「そんなんっ……っく……入ら…な……あっ」
 力を入れて押し出そうとして、余計にいやらしく動く指を感じてしまい、喉が幾度も鳴った。
「お前のここは、柔らかいからこの程度では壊れやしない」
「い…やぁ……あぁ」
「まとわりついて、こんなに物欲しそうにひくついてな。いくらでも俺を欲しがってるぞ」
 指が入ったまま穂波が腰を動かした。
「ん、んくぅ……もっ……やらしー…ことばっか……」
 掠れた声しか出ない喉から、それでも文句を吐き出して、背後の穂波を睨み付けながらお返しとばかりに思いっきり締め付けてみる。
「うっ……」
 途端に眉を寄せて顔を顰めた穂波に、ほんの少しの笑みを見せた。
 ごくり、と明らかに穂波の喉が動く。
 快感に晒されて熱を持った肌がどんな色をしているのかも、痛みにも近い刺激に知らずに潤んだ瞳も、汗に濡れてたち上る芳香を纏った肢体も、それらに加えてどんな効果をもたらすかを知った上の微笑みは、淫猥な娼婦の笑みだった。
「敬吾……お前は」
 穂波が一時の動揺を押さえつけて苦笑する。
「何?」
 怠惰な体が、疲れた視線が、それら全てが穂波を煽ると知っていて、問う。手をついて起こした上体の、その背から腰にかけての曲線が、穂波の視野に惜しげもなく晒された。
「俺を煽ったこと、覚悟できてんだろうな?」
 余裕の無くなった穂波が見せる動きに、敬吾は笑い返す。
 今は小さな動きだが、それが次第に強くなる事を知っている体が、もうその刺激一つ一つを全て捕らえようと敏感に反応していた。
「……知ってる……さ……」
 だから……。
「上等だ」
「うああっ」
 容赦なく突き上げられ、体が跳ねる。それが何度も何度も続いて、敬吾はもう自分の体がコントロールできなかった。ただ、穂波の動きに引きずられて、振り回される。
 肌と肌が打ち合う音と、敬吾の喉から迸る嬌声だけが室内に響き、もう室外の雨の音など全く聞こえなくなって。
 ただ体内の快感の泉を荒らされる、その刺激が意識を全て支配していた。
 そして、限界を超える。
「んんんあぁぁぁぁっ!」
「うぅっ……」
 同時にイッた穂波の腕が力強く敬吾の体を背後から抱きしめてくる。その幸いである温もりを感じながら、敬吾はぐったりとベッドに崩れ落ちた。


「おい、行ってくるぞ」
 頭を数度揺さぶられ、混濁していた意識がすうっと声の持ち主とその意味を理解した。
「ん……もう?」
 はっきりしない視界に焦れて手の甲で数度強く擦る。と、その手を掴まれて持ち上げられた。
「強く擦るな」
 くすりと喉で笑っている気配に気付いて、伏せていた顔を上げた。身動いだ拍子に肩から薄手の肌布団が落ちていく。
「ん……」
 眠いと、開いた瞼がまた閉じられる。その寸前、苦笑を浮かべた穂波の顔が目に入っていた。
「いってらっしゃい……」
 唇だけは動くからと、言葉を紡ぎ出す。今日は穂波だけ休日出勤で、出掛けてしまう。できれば送り出してあげたいのだが、逃れきれない睡魔と倦怠感の酷い体がそれをさせようとしない。
「ああ、今日は適当にしてていいから。そんなに遅くならないし」
「判ってる……俺も、もうちょっとしたら買い物……行くし。気にしなくていい……」
「ああ、じゃあな」
「は〜い……」
 最後の方は寝ぼけていて、反射的に応える。その無邪気な子供のような声音に、穂波がくつくつと笑い出したのに、浅い眠りに入っていた敬吾は、気付いていなかった。


 次に目覚めた時、部屋は時計の音しかしない静かな世界だった。
「ん……くうっ……」
 寝起きの怠さに支配された体を伸ばして、ふうっと息を吐きながら弛緩させる。
 延びきった四肢に新鮮な酸素が行き渡るような、そんな爽快さが敬吾の体に満たされた。
「え〜と……もう行ったんだ?」
 壁にかけられたモノトーンの時計を見上げれば、時刻は10時を過ぎている。ということは、穂波が行ってからもう2時間は経っているということだ。
 本当はもっと寝ていたいほどに昨夜の行為は重労働で、まだなんなくだが体の奥に違和感がある。だが、それは堪えられないほどではなかった。
 ベッドから足を下ろした敬吾は一糸纏わぬ姿で、その細い肢体がエアコンの冷気に晒されるとぞわっと総毛だった。慌てて、落ちていたガウンを拾い上げ袖を通す。
 あまり日に焼けない白い裸体が薄い青のガウンに隠れる寸前、敬吾の頬に一瞬赤みが差した。だが、その口は拗ねたようにへの字を描いていた。
「また……変なところに……」
 半袖の袖口から出るか出ないか、その微妙な場所に朱印が刻まれていたのだ。
 着込んだガウンを少し肩からずらし、指でその後をなぞる。場所から行って、そこは本当にきわどいところで、敬吾は小さく息を吐いて、肩を竦めた。
 ここは穂波のマンションの部屋で、敬吾の衣服は何かの時のためにしか置いていない。その中に、少し長い袖があったか、と頭の中に思い描いた。
 今日は約束があるのだ。
 それを穂波に伝えたばかりに昨夜の激しい行為となってしまったのは、多少は迂闊だったという悔いはある。それでも敬吾にしてみれば、明らかに穂波が嫉妬してくれていると判ってしまうと自然に頬は緩んでいた。
 この袖口のキスマークもそれの証拠だ、と余計に顔が緩む。
 何せ、今日の約束の相手は隅埜啓輔。
 敬吾にとっては同じ会社の後輩で、今はとっても仲のよい友人でもある彼は、過去あまり思い出したくない事件の相手であった。それ故に、穂波の印象はあまりよくない。しかも、啓輔がいまだに敬吾の事を憎からず思っているとなると妬く理由としては当然のことだ。
 それでも。
 彼は付き合ってみれば良い子で……からかうのには結構面白い。
 穂波相手に気を張る攻防戦をしていると、たまに彼をからかうのがとても息抜きになって楽しくて、ついつい構いたくなるのだ。そんな敬吾の心理状態も穂波は知っているのだろうが、それでもこんな子供のような嫌がらせをしてくれる。
 敬吾は、これなら大丈夫だろうと、群青色のデニムのシャツを手に取った。その袖に腕を通しながら、穂波がどんな思いでこれをつけたのだろうかと思うと、堪えきれない笑いが零れる。
「お土産……何がいいのかな?」
 せっかくの休日に出勤になってしまった恋人のことを思って、夜を楽しむアイテムを思い浮かべた。それはどれも穂波が好きそうなもので、ほとんどが食物だったのだけど。視界の端に引っかかったそれに僅かに眉間にシワが寄った。
 それは確かに穂波の好きなものであったが。
「……なんでこんなもん持ってんのかな……あの人は……」
 ちらっとベッド下から覗いていたその箱を、とんと足先で押し込む。中でごろりと転がったその音に、使われた時の事を思いだして頬が熱くなった。
 ごく普通の行為でも十分満足できる──いや、させられる敬吾にとって、それは無用の長物だというのに。穂波はそういう道具をたまに使って、敬吾をより狂わせるのだ。
 その痴態ははっきり言って思い出したくもないほどで、次の日、敬吾を羞恥の塊へと追いやる程。
 しかもそんな敬吾を穂波は笑いながら揶揄する。
 とんと、再度強く蹴っ飛ばして奥深くに押し込んで、敬吾はそれを無理矢理意識から追い出す。
「あ……もうこんな時間だ」
 そうこうしている内に時間は過ぎ去っていて、敬吾はそれに気付くと肩を竦めて慌てて出掛ける支度を始めた。