柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊
柊と薊
〜あざみ AI歌 3〜
柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊

◇◇◇ちょっとだけ時間をさかのぼり……しかも舞台がかわります〜◇◇◇

 なんとなく苛々して仕事が手に付かない。
 穂波幸人はとんとんと指で机を叩きながら、差し出された決裁書類に目を通していた。
 その目に入ってくるはずの数値を、頭が数値と認識しない。
 単なる数字という文字でしかないそれを理解するのに一苦労を要する。そのせいで、決済一つをとってもひたすら処理に時間がかかっていた。
 一体どうしたんだ?
 自分自身今の状態が信じられないとともに、何がこんなにもひっかかるのかが気になってしようがない。
「う〜ん」
 ぱさりと書類を机の上に放りだし腕組みをて唸ると、部下達が一様にびくりと反応する。
 それがいつもなら面白いとおもうのだが、今日はそれすらもうっとおしくてしようがない。
 やっぱり、敬吾が出張にいっているせいか?
 逢えないというのはいつものことだったが、逢える距離にいないというのがこんなにも心を乱すことなのだろうか?
 明日には帰って来るというのに……。
 明後日には休みだから、この想いをたっぷりと伝えるのも手だな。
 あの生意気で可愛い恋人は、この前ちょっと無茶をしたら、ムッとしてろくに挨拶もせずに帰っていってしまった。
 まあ、随分と辛そうに帰ったから、こちらとしてもやりすぎたなと後悔はしたのだが、だからと言って、ここ数日メールにも返事をしないとはどういうことだ?
 負けん気が強いせいか、なかなか折れようとしないのも厄介なんだが……まあ、それも可愛くて苛めたくなるんだよな。
 俺がこんな想いをして待っているのだから、今度逢ったときは苛めてもいいよなあ。
 緑山が聞いたら理不尽だと怒り出しそうだったが、穂波はそれが自分の当然の権利だと思っている。
 それが、緑山を怒らすのだが、穂波にはその自覚はまったくない。
「穂波さん……」
 いっこうに仕事をしてくれない穂波に、とうとう部下達を代表して滝本が進言しに来た。
 これもいつものことなので、穂波はわざとらしくため息をつくと書類を手に取る。
「何があったんですか?」
 最近では、穂波に進言できる唯一の人間と噂とされる滝本。その彼が、それでもお伺いをたてるように聞いてくる。
「別に何もないぞ」
 こいつが下手に出るときはなんか含むところがあるからな。
 にっこりと笑いつつも、警戒は怠らない。
 それに……穂波が何を気にしているか知っている可能性はある。
 滝本は、この会社では唯一穂波の性癖と相手を知っている。そして、穂波も滝本の恋人が男であることは知っている。そして何より問題は、その滝本の恋人が敬吾の上司であることだ。
 滝本があちらに様子を窺えば、向こうは敬吾が出張だとすぐにでも知らせるだろう。
 そんなことで仕事が手に付かないなどと思われることは絶対に避けなければならない。
 少なくとも、この滝本には。
「それにしては、一向に書類が返ってこないんですけど」
 いい加減困っているのだろうとは思うが、なかなか手がつけられないのは事実なので、軽く肩を竦めると素直に謝る。
「すまないな。この数値がちょっと気になって、考えていたらどつぼにはまってしまった」
 ……数値が頭に入らないから、考えていたら嫌になってきた……
 などとはとうてい言えない。
「どこがですか?」
「ここだ。この割引率はちょっと無理じゃないのか?」
 実を言うと、どうしてこういう割引金額になったのかくらいは知っているのだが、この際誤魔化しに使わせて貰おう。
 穂波が指さすところを滝本が覗き込む。
「ああ、それはですね……」
 指さし、数値を順に追いながら滝本が説明するのを聞き流しながら、穂波は書類の他の部分を再度確認していった。
「……なんですけど」
「あ、そうだったのか。判った」
 さも説明を受けて判ったような振りをしながら、決済印を押す。
 滝本がほっとしたようにその書類を受け取り、席へ帰っていった。
 さてと。
 また滝本に突っ込まれる前に、さっさと書類を処理してしまおう。
 こんなのらない気分で残業なんかしたくない。
 今日はどこかに飲みにでも行こうか……。
 そんなことをつれづれに考えながら、適当に決済をしていく。
 厄介な書類は滝本のだけだったからそう考えなくても問題はない。
 穂波の手が軽快に動き始めたのを見て取った部下達がほっとするのはしゃくに障るが、まあ今日の所は放っておこう。

未決済書類トレーが空になり決済済トレーが書類で満載になった頃。
 ほっと一息ついた穂波の視界のスミで滝本が携帯に着信したらしいメールを確認しているのが見えた。
 また、ラブレターか?
 滝本の顔に苦笑が浮かんだのを見て取ったから、それに気付く。
 仕事熱心な滝本だから、恋人からのメールは嬉しいのだが仕事中は勘弁願いたいというのが本音なのだろうが……。
 あいかわらず暇な奴だ。
 何度かあったことのある滝本の恋人の顔を思い起こす。
 敬吾の話だと仕事はできるらしいのだが、どこかずぼらで厄介な人だと評されていた。
 そうなんだろうな、とは思う。
 ったく、仕事中にメール交換なんかするな。
 とは言いたいのだが、穂波とてしているのであまりきついことは言えない。言えばてきめん同じ言葉が返ってくるだろう。
 敬吾にしてみれば、そういう相手が上司なのだ。
 しかし……。
 ほんとに敬吾はあれからメール一つよこしやしない。
 頑固なのも程がある。
 原因をさておいてムッとしてきた穂波は、やっぱり滝本に文句の一つでも言ってやろうかと画策していた。
 と。
 その滝本が携帯を持ったままやってくる。
「穂波さん、ちょっとお話が……」
「あ、ああ」
 ちらりと滝本の視線が部屋の外へと向けられたのを見て取った穂波は、席を立った。
 二人して事務所を出る。
「何だ?」
「篠山さんからのメールなんですけど」
 そう言って差し出す。
 ん?ラブレターじゃないのか?
 いつも見せろと言っては拒否されるメールを見せてくれることに訝しく思いながら携帯を受け取り画面に見入った。
 すでに内容表示されてるそこに文字が並んでいる。
 それは確かに滝本宛のメールなのだが、最初に「穂波さんに伝えてくれ」という文字が入っていた。
 何だ?
 篠山が穂波に何かを伝えようとすることは今まで皆無だった。知らない仲とは言え、今までに仕掛けた数々の悪戯のせいでひどく警戒されているのだ。
 その彼がご指名とは?
 だが読み進むうちにそんな疑念など、あっという間に吹っ飛んだ。
「敬吾が出張先で病気?」
 あの病気なんかと縁がなさそうな……?
 まあ、食べる割には細いから体力は一見なさそうだが、ある程度は鍛えて少しは丈夫になったはずだし? 
 しかし、このメールだけではなんのことやら判らない。
 気になる。
「おい。携帯借りるぞ」
 返事を待たずに操作する。
 案の定、アドレス帳に登録してあったそれに電話をかける。
 言っても無駄だと思っているのか、見当がついていたのか、滝本はため息をついて何も言わない。
「もしもし」
 相手が出た途端呼びかけると電話口に沈黙が漂った。
 判っているのだろう。
「おい、どういうことだ?詳しく教えろ」
『人にものを聞く態度じゃないですね』
 やんわりと言い換えされるがそんなこと知ったこっちゃない。
「俺は忙しい」
 言ってから仮にも客先に使うにしては一人称が違うことに気がついたが、まあいいかと割り切る。
『インフルエンザって話です。こっちも営業から聞いたんではっきりとは判りませんが、今日はもともと予約していたホテルに泊まって様子を見るようです。営業の人の友人に医者がいてその人に診て貰ったから大丈夫じゃないかってことですよ』
 インフルエンザ?
 そう言えばはやっていると言っていたな。
 軟弱な奴らだな、と笑った覚えがある。
 だが、よりによって敬吾が……しかも出張先でかかるとなると話は別だ。
「ホテルはどこだ?」
『東京の新宿にある……で、部屋は352号室だそうです』
 その名前をしっかりと脳裏に刻み込む。
『いくんですか?』
「行かないでどうする」
 言われるまでもなく、もう頭の中はどういう経路で行くか算段を始めている。
 ため息がむこうから聞こえて、そしてぽつりと言った。
『その営業の人間……笹木っていうんですけど、面倒見てくれていますから問題起こさないでくださいよ』
 何を言っている?
 俺がそんなにトラブルメーカーか?
 突っ込みたかったが聞きたいことは聞いた。
「ありがとな。お礼は滝本に貰ってくれ」
 それだけいうと切った携帯を滝本に返す。
「じゃ、私は早退するから後のことは頼む」
 すでに想像ついていたのか、滝本はため息をつくと言った。
「ついでに明日の休みの申請も出しておいてくださいね」
 よくわかっている。
 さすがに俺の秘蔵っ子だ。
 ぽんとその頭を叩くと、穂波はかばんをとりに部屋へと戻っていった。

 それこそ飛行機で飛んでいきたい気分だったので、すぐさまチケットの予約をインターネットですると、幸いにして空席があった。
 空港までの道は、警察がいなくて良かったと言うくらいに飛ばして搭乗手続き締め切り時間にかろうじて間に合う。
 乗ってしまえば1時間ほどで東京には着けるのだが、空港から新宿となるとどうしても1時間はかかる。リムジンバスを使うと便利なのだが、ちょうど渋滞にかかる時間でも合った。
 どうやって行こう……。
 新宿までの最短ルートを探りつつも、ふっと緑山の事が穂波の頭に浮かんだ。
 いつだって元気な緑山。
 ショックを受けてぼろぼろになったあの時以来、いつも逢う緑山はいつだって元気だった。
 あの敬吾が病気か……。
 ふうっと息を漏らすと窓の外を眺める。
 かなり薄暗くなった外のせいで、窓に穂波の顔が写る。
 その顔がどこか暗さを漂わせているのに気付き、穂波は苦笑を浮かべた。
 自分が誰か他人のためにここまでするとは思ったこともなかった。
 これは、敬吾だから……なんだろうな……。
 そう考えると自嘲めいた笑みすら浮かぶ。
 そこまで敬吾に入れ込んでいる自分が可笑しいと思う。
 今までこんなことはなかった。付き合っている相手に何があってもこんなに動じたことはなかったのだ。
 そうだ……自分は動じている。
 敬吾が苦しんでいると思うと、いてもたってもいられなかった。
 人が付き合っている相手のことで悩んでいるのを見ても、何をやってるんだかと鼻で笑っていたような自分なのに……。
 昔の穂波を知っている人間が見たら驚くことだろう。
 だが、そんな自分が今は幸せだと思える。
 敬吾のことを思うことが嬉しい。こんな風に自然に心配できると言うことが、嬉しいし、ほっとする。
 自分が敬吾を愛しているのだと……実感できる。
 俺にも、こんな感情を持つことができるのだな。
 そう思えることがひどく嬉しい。


 空港に着いてから携帯をチェックすると、メールが入っていた。
 それを開く。
 見慣れぬメールアドレスに首をひねるが、すぐに誰からか判った。
 篠山からだった。
 念のためにと、ホテル名と部屋のナンバーに付き添っているという笹木の携帯番号。そして、笹木に穂波が行く旨の連絡を入れたことが記されていた。
 それを見た穂波は速攻で、その笹木宛に携帯をかける。
「もしもし、穂波と申しますが」
『あ、はい、聞いています』
 いきなりの電話に慌てた風もなく、静かな声が携帯から聞こえる。
 落ち着いた対応は好感がもてるな、と穂波は内心ごちると緑山の様態を尋ねた。
『私も仕事中で直接はあってはいないのですが、今付き添ってくれている友人の話によると、39度近くの熱と躰の怠さが主な症状で、今は寝ているそうです。薬が効いてきたのか少し熱が下がり始めたそうですが』
「友人……と言われますと、医者だという?」
『いえ、その友人の所で私のもう一人の友人に会いまして、今は彼が付き添っていてくれます。医者の方も仕事が終われば様子を見にいってくれるという連絡が入っています。私も、仕事が終わり次第、向かう予定なんですが……ちょっと、今すぐには……どたばたしていまして』
 どこか押し殺した声音に、随分と忙しいのだとピンときた。
「今羽田にいますから後1時間もかからないとは思いますが、できるだけ早く向かいますので」
『わかりました。私も緑山さんの荷物を持って伺う予定ですので、そのときに……』
 荷物?
 ああ、預けていたのか。
 敬吾の奴、いろんな人に迷惑をかけているんじゃないのか?
 自分の考え方が保護者のそれになっているのに気付いて穂波は苦笑を浮かべる。
 穂波は笹木に礼を言うと、携帯を切った。
 
 篠山が言っていたホテルは昔穂波も利用したことがあったから、場所はすぐにわかった。
 表通りから少し中に入った場所にあるホテル。駅から歩いてそこまで辿り着いた穂波は、そのホテルの玄関を見つけてほっと一息ついた。
 ふっとそのホテルを見上げる。
 大丈夫なんだろうか?
 ふっと過ぎった考えに苦笑が浮かぶ。
 やっぱり、俺にとって敬吾は特別だ。
 改めてそう思う。

 そのホテルは受付のカウンタのすぐ横にエレベーターがあった。
 部屋は判っているので、すぐさまそれに乗ろうとして、先客がいるのに気付く。
 どことなく冷たさを漂わせるその横顔をちらりと眺めながら、その斜め横に立った。
 並んでみると、穂波より少し低いくらい。
 その躰はコートに隠れているが、覗く首筋が力強い。決して弱々しい感じのないその体躯に穂波は興味をそそられた。見た目も好みだ。
 この整った顔が苦痛に歪む様など見てみたいよなあ……。
 こういうタイプは、無理矢理組み伏せてみるってのもおつなものかもしれん。お堅い相手ってのを快楽に溺れさせるのも結構好きなんだが。
 あらぬ妄想に襲われ、穂波は微かに苦笑いを浮かべた。
 さっき敬吾が特別だと思ったばかりなのに、自分の妄想の節操のなさには呆れる。
 でもまあ、思うくらいはいいよなあ。
 別に実行に移すわけでもないし……。
 そうは思いつつも昔取った杵柄。男をその気にさせる手腕のあれこれが脳裏に浮かんでくる。
 と、ふっと何かに気付いたようにその男がこちらに視線を向けた。
 おや……見られることに敏感なタイプか?
 穂波は視線のあった彼に穏やかに笑みを返した。自覚するまでもなく、そういう趣味を持った相手には判るであろう秋波がたぶんに含まれいてる視線とともに。
 相手はそれに僅かに反応したが、特に慌てるふうなく自然に視線を外していた。
 そういう視線を浴びるのに馴れているのか?
 まあ、これくらい整った顔にバランスの取れていそうな体躯だ。こんな都会でそういう目で見られたことがないということはないだろう。それに十二分に自分の姿形を自覚しているようだった。
 ちょうどその時エレベーターが開いたこともあって、穂波達は何事もなかったようにそれに乗り込んだ。

 古めかしいエレベーターの動きはとろい。
 ドアのボタン際に立ったその男から少し離れて穂波はエレベーターの奥に立つ。
 その彼がふっと穂波の方を振り向いた。
「何階ですか?」
「ああ、三階です」
 乗る前に見た館内図を頭に浮かべつつ教える。
「はい」
 短めな言葉にふと気がつくと、どうやら彼も同じ階らしい。
 どういう人なんだろう?
 穂波はじろじろと遠慮なくその男を上から下まで眺めていた。
 荷物は手荷物とも言える小さなバックだけだ。
 ネクタイはしているが、サラリーマンという雰囲気から少し外れているような気がする。
 だが、その不躾な視線は当然彼の知るところになったようで、やや鋭い視線がその冷たい風貌から発せられる。
「何か?」
 若干咎めの色合いは持っていたが、それでもその口調はその外観と同じく冷静そのものだ。
 穂波はそれにすら興味をそそられた。
 ぜひとも落としたいタイプ……。
 もうそれにつきる。
「失礼とは思いましたが……とても素敵な方だなあっとついつい見惚れていました」
 見惚れついでにいろいろ攻略法も考えているんだけどね。
「……」
 だが、ストレートに帰ってくるとは思わなかったのか、彼が鼻白んだようだった。
 眉間にシワが刻まれ、ふいっと視線を外す。
 う〜ん、いいなあ。
「こちらへは出張で?」
「いえ」
 言葉少なだが、きちんと返答してくれるのもツボにはまる。
 嫌がる彼の手首を掴んで、壁に押しつけて無理矢理唇を奪う。
 そんなシチュエーションを頭に思い浮かべ、自然に顔がほころびそうになるのを慌てて止めた。
 しかし……どうも隙がないような気がするのも気のせいではないよな。
 こちらに背中を見せているのに、どう近づいても逃れられそうだ。
 うう、キスくらい頂きたい……。
 って、ちょって待て。
 実行に移すのはやばいよな。
 とりあえず敬吾の見舞いに来たんだし……。
 だけど、惜しいよなあ……こんな上物、都会じゃないとお目にかかれないし……。
 小さな吐息を吐き出すと同時に、エレベーターが三階についた。
 その扉がのろのろと開く。
 ある意味穂波は、それに救われた……と思った。


 3階には10室ほどがあった。
 エレベーターを下りて左に行く、その3室ほど先が351号室だった。
 と、どうやら例の彼も、穂波の前を歩いていく。
 ん?
 なんだか嫌な予感がするぞ……。
 唐突に、空港で聞いた笹木の電話の内容が思い起こされた。
 彼はなんと言っていた?
 『医者の友人も仕事が終われば向かいます……』
 とかなんとか……。
 そこまで思い出した途端に、背筋に冷や汗が流れる。
 そして。
 彼が351号室の扉の前で止まった。
 ビンゴっ!
 あははははははは〜
 思わず頭の中で馬鹿笑いをしてみる。
 穂波幸人……一生の不覚っ!!
 彼の背後で穂波も止まったことで、彼が訝しげな視線を投げつける。
 仕方なく、穂波は口を開いた。
「もしかして、敬吾を見ていただいたお医者様ですか?」
 その問いに、彼は目を見開き、そして問い返す。
「あなたは?」
 その否定しない問いかけに、穂波は苦笑いを浮かべると言葉を継いだ。
「私は、穂波幸人ともうします。緑山敬吾の友人です」
 その言葉に、彼は今度こそはっきりと驚きの表情を浮かべた。
「あなたが……」
 何か問いただしげな視線が向けられる。
 まさか俺達の関係を知っているのだろうか?
 それとも聞いているのか?
 まさか敬吾がばらすわけないし、だいたい男と付き合っているなんてあいつが言うはずもない。
 となると、自分の行動がよほど不信感を抱かせたということか?
 まあ、まさか知り合いとは思わなかったし……なんせ、結構好みだったし……。
 露骨にそういう態度をとってしまったのだから、弁解のしようもない。
 この人は、敬吾にそれをバラすだろうか?
 ……。
 別に実行に移したわけではないから罪悪感というものは穂波にはない。
 だが、しかし面倒だなとはくらいは思う。
 だいたい、あいつはしつこい。
 ちょっとヤリ過ぎたくらいで、携帯のメールすら返信してくれないなんて言語道断な頑固さだ。
 せっかくこっちが折れてやろうと思っていたのに、なしのつぶてでは謝ってやる気も起きない。
 と、そういえば……。
 目前にいる男が、ずっと穂波の様子を窺っていることに気が付いた。
 とりあえず醜態を曝したのはおいといて、ここは真剣に対応しないとな。
 意識を現在に戻すと、穂波はその顔に営業用スマイルを浮かべ、いつまでもこうしていてはラチがあかないとばかりにその視線と相対した。
「ああ、失礼しました。私は増山浩司といいます。緑山さんの会社と取り引きしている病院に勤務していまして、今日はその関係でお逢いしていました」
 その動じない性格も好み……
 なんて、俺もいい加減懲りないな。
 内心浮かぶ苦笑など微塵も感じさせないよう、あくまでも表面は愛想のいい男を演じる。
「そうでしたか。私も、敬吾の会社と取り引きしている業者のもので、それで彼と出会いまして……まあ、意気投合したというか」
 あの強気な瞳に一目惚れしたというか。
 付き合ってしまうと、相性のいい躰にベタ惚れだとか……は、まあいいとして。
「ああ、そうですか」
 それだけの関係ではないだろうと、その冷めた目の奥で言われているような気がするのは気のせいではあるまい。
 う〜ん、やっぱり何か知られているような気がする。
「今日は、では岡山からわざわざ?」
「はあ……彼の上司から連絡を頂きまして、私が特に親しくしているのを知っているものですから」
 そんなことを言いつつ、こんな理由で誤魔化しきれるものではないな、とは思う。
 だいたい、普通の友人が出張先で倒れたからと見舞いに来るものでもないし……。
 まあ、いいか。
 ばれてもともととも言うし。
「上司と言われますと……篠山さん、ですか?」
「あ、はい。ご存じですか?」
 彼まで知っているのか?それとも敬吾が話したのか?
「ええ」
 微かに頷いた彼の視線がふっとドアへと向けられ、そして再び穂波の方に向けられた。
「こんな所で立ち話もなんですから、入りましょうか?」
「そうですね」
 二人は、表面上はひどく和やかに笑顔をかわしながら、ドアへと視線を向けた。
「浩二っ!」
 ドアが開いた途端、場違いなほど嬉しそうな声が響く。
 穂波は増山と名乗った医者に嬉しそうに笑いかけるその男をまじまじと見つめていた。
 男……だよな。
 いや、考えなくても男だと判る。
 穂波より背の高い女なんてそうはいやしない。女のモノではないその躰のライン然り。
 だが灯りを落とした室内でオレンジの淡い光の中にいるその男は、穂波が知っているどの女性よりも美しく見えた。
「雅人さん、お客さんですから」
 苦笑を浮かべた増山の言葉に、驚くように視線を廻らした彼が照れたような笑いを見せた。それもなかなか目を惹くモノがある。
「すみません、浩二だけかと思ったもので……穂波さんですよね」
「あ、はい」
 茶色の癖のなさそうな髪が少し長めで肩の上で遊んでいるようだ。前髪は半分以上を手櫛で梳いたように上げられ整髪料で固めているようだった。程良く形の良い額が出ていて、ひどく優しげに見えるその瞳が笑っている。
 落ちかけてきた前髪を整え直す指は長く細い。
 と、彼がすうっと目を細めた。
 伏せ気味の瞳が上目遣いに穂波を見る。
 これは……。
 ごくりと唾を飲みこむ。
 なんて艶やかな……。思わず手を出したくなる艶というものがこの男にはある。
 彼は、人の気を惹く術を知っている。
 そう感じた。
「明石雅人と言います。笹木秀也の友人で、穂波さんのことは先ほど電話を受けて聞いています」
 耳に心地よい声が何故か耳をくすぐるように響く。
 まるでベッドの上で耳元で直接囁かれる睦言のように聞こえるのは何故だ?
 だが、穂波も負けて入られない。気を取り直して笑顔を浮かべる。
「こちらこそ。このたびはお世話になりました」
「いいえ。元気な緑山さんと少しだけ話ができたのですが、とても楽しかったんです。私も一目で気に入って……ですから、その看護くらいなんでもありません」
 何故だろう、その表情はひどく優しく相手に好印象を与えるとても良い笑顔を浮かべているというのに……。
 穂波はその瞳の奥に悪戯っぽい色を感じた。
 この男……見かけどおりじゃないのか?
 ほんの少しの疑いに、穂波は再度相手を窺った。
 そう言う目で見ると、何となく違和感を感じる。
 完璧なまでに見られることに慣れた動き。だが、だからこそ違和感がある。
 接待業に身をおいているのだろうか?
「雅人さん、何故灯りを?」
 まるで穂波と明石の間に割ってはいるようにそれまで黙っていた増山が動いた。
 途端に明石が、首を竦めた。
 悪戯がばれたように小さく舌を一瞬だけ出している。
「緑山さんが寝ているからね。暗い方がいいかなと思って」
 あ、しまった……。
 その明石の言葉に気を取られてここにきた肝心の理由を忘れていた。あまりに印象的で興味をそそる相手に気を取られてしまったせいだ。
 穂波は慌ててベッドサイドに近づいた。
 横を向いて寝ているのか、枕に半ば埋まるように敬吾の横顔が伺える。
 淡いオレンジの光に照らされているせいで、はっきりとは判らなかったが、あまり焼けていない肌がさらに白いような気がした。
 微かに聞こえる寝息が荒い。
「敬吾……」
 そっと額に触れると、かなり熱い。
 途端に胸が締め付けられるような感じがした。
 敬吾の苦しさが自分にまで移ってきたような、そんな苦しさに顔が歪む。
 助けたい……。
 本当にそう思った。
 緑山は、そんな周りの状態にも気付かず、深く眠り込んでいた。
 その様子をずっと窺う。
 喧嘩別れした後の出会いとしては、今ひとつだな。
 本当に、連絡一つ寄越さないまま出張に入ってしまった事への文句は、山ほどこの頭の中に詰まっている。
 だが、これでは、恋人の不義理を責めるわけにもできやしない。
 本当に……。
 いろいろ考えていたんだからな。
 だから早く元気になれよ。
 手を伸ばし、頭に触れると汗でしっとりと湿った髪の毛が指に絡まる。じんわりと手のひらに伝わる高い体温。
 熱が下がるのか?
 よく見ると、額にもじっとりと汗が浮かんでいた。
 と、こんな姿の緑山を覗き込んでいたような記憶がふっと浮かんできた。あの時もこうやって汗にまみれて……。
 そうだ……やった後の時だ。
 この前も、緑山は穂波の性欲のおもむくままに何度も突き上げられて、最後には動くことも叶わないほどに疲れ切ってベッドに四肢を投げ出していた。
 あの時もこんな風に髪を汗で濡らしていた。
 で、さすがにやりすぎたかと思ってその頭に手で触れたら、ぎろっときつい視線で睨まれたんだっけ。
 穂波はくすりとその口元に笑みをたたえると、布団を少しだけはいでやった。
「着替えさせたいな……」
 今緑山の躰を纏っている浴衣も、触れてみるとどことなく湿っぽい。
 だが、着替えなどここにはなかった。
 持ってくれば良かったのだが、そんなことまで頭が回らなかったと言うのも事実。
 買ってくるか……。
 ふとそんな事を思った穂波の耳に、増山達の会話が飛び込んできた。
「どうして、そんな髪型をしているんです?」
「えっ?いや……ちょっと……」
 かなり声を落としているが、他に物音一つしない室内のこと、どうしても聞こえてしまう。しかも、今まで気にならなかったのに、そういう会話にはどうしても意識がいってしまうのだ。
 喧嘩か?
 ついつい耳をそばだたせる。
「昼に逢ったときは前髪、上げていませんでしたよね。ここにきてからわざわざセットされたんですか?」
「……緑山さんが食べられそうなもの買いに行って、その時ついでにムース買ってきて、ね」
 増山の熱を感じない冷淡とも言える声色は、穂波ですら薄ら寒いものを感じる。
 それに完全に圧倒されている明石が口ごもっている。
 それにしても、どうもこの喧嘩、なんとなく……。
 ふと浮かんだ考えに、穂波は余計熱心に背後の様子を窺っていた。
「わざわざ?どうしてです?」
「あ、あの……ごめん……その、ちょっとからかおうかなあって……ほんと、それだけなんだ。浩司が気にするようなことはちっとも思っていなかったからさ」
 ……どう見ても甘えてるぞ、その言い方。って、何をからかったって?
「あなたがそういう髪型をしてこういう薄暗い部屋にいると、相手がどう思うか……」
「あ、だから……他意はないって……。浩司がこんなに早く来れるなんて思わなかったから、その」
「では私がいないときはいつもしているんですか?さっきみたいに?」
「や、やだなあ、浩司。一体どうしたんだよ。たまーにしてみたりするのは、浩司だって知ってるのに、何で今日に限って……」
……まるで浮気がばれた現場のようだな、これは……。
「今日はね、ちょっと不愉快なことがありまして」
「不愉快?」
「男に言い寄られまして……」
「え……」
 う……。
 背中に痛いくらいきつい視線が突き刺さっているような気がする。
 俺のせいか……。
 苦笑を浮かべて、ふっと視線を緑山に移した。
「え……」
 驚きに目を見開く。
 そこには、きつく睨み付けている緑山の目があった。
 驚きは、それでも一瞬のうちに心の隅に押し込む。
 僅かに目を見開いたその様は、緑山が起きていることに驚いた、程度だったろう。
 それを自覚しているから、穂波は緑山に向かってそっと微笑みかけた。
「ごめん、煩かったか?」
 敬吾が何を持って睨んでくるのか?
 穂波自身、それを把握できない。だが、いつから起きていたにせよ、それほどまずい場面ではなかったような気がする。
「……どうしてここに?」
 探るような瞳が穂波を捕らえて離さない。しかし、久しぶりに聞いたその声は、掠れて弱々しかった。
「篠山さんから聞いたからね、すぐに来たんだ」
「篠山さん?」
 その瞳が何かを思案するかのように動く。
 熱のある頭だと、すぐさま状況が把握できないのだろう。
「まだ熱があるんだから、寝ていなさい」
 穂波がややたしなめるように言うと、緑山は小さく首を振った。
 そして、意外に強い力を持って穂波を見据える。
「穂波さん……もしかしてちょっかい出したの穂波さん?」
 どくん
 単刀直入のその言葉にさすがの穂波の心臓も冷静ではいられない。
 だがまだ、大丈夫。敬吾の言葉はまだ疑っているという段階なのだ。
 その確信が穂波を落ち着かせる。
「ちょっかいって?」
「さっき聞こえた。増山さんが男に言い寄られたっての。増山さん、穂波さんを見ていた」
 こいつは……。
 一体いつから起きていたのだろう?
 布団を少し剥いだときにはまだ寝ていたはずだ。
「気のせいだろう?別にそんなことは……」
 だが、緑山のきつい視線は変わらない。
「穂波さん……苦笑いしてたよね。ちょうど増山さんが男に言い寄られたって言ったとき」
 う〜ん、疑り深い奴……というかそういうふうに躾たのは俺か……。
 参ったな。
 まさか起きているとは思わなかったのと、背後の会話に気を取られていたので油断していたのかも知れない。
 しかし、こいつは熱があって、俺がここにいるのを把握するのには時間がかかったくせに、そういう事を疑う元気はあるわけだ。
 そういえば、最初に見た時より少しは落ち着いてるのか?
「それで……敬吾は何が言いたいんだ?」
 幾分諦めにも似たため息を吐き出して、穂波はうっすらと口元に笑みを浮かべた。
 それは緑山の持った疑惑を確信させるものであった。
「やっぱりな。増山さんって穂波さんのもろ好み。そうだと思った」
 冷たく言い放ち、ごろりと体を転がして穂波とは反対側を向く。
「おい、敬吾」
 完全に拒絶の体勢の緑山は穂波の呼びかけに返事すらしない。
 ……。
 今のは嫉妬か?
 確かに俺の好みは増山さんのようなタイプで、敬吾は少し違う。
 もしかして、それを気にしていたのか?
 拗ねたように枕に半ば顔を埋めている緑山の横顔を窺うと、顔を背けられた。
 その耳元でそっと囁いてみる。
「確かに俺の好みは彼のようなタイプだが、抱いてみたいと思うのは今は敬吾だけなんだ。敬吾さえいれば、どんなに好みのタイプが他の奴らなんかめじゃないさ」
 そう言った途端、ぎろりと先程よりきつい目で睨まれた。
「ばか……」
 弱々しいながらも吐き捨てるように罵しられ、穂波はひくりと頬を引きつらせた。だが、すぐに敬吾が怒った原因に気付いた。
 なんとなれば、穂波のすぐ後に増山達がいるではないか。
「聞こえました?」
 首を捻って問いかけると、二人揃っての苦笑が返ってくる。
 再度緑山に視線を戻すと、青白かった頬にうっすらと朱がさしている。 
 こいつ、結構羞恥心強いし……ベッドの上ではそれで結構楽しめるんだが……こういう場合は、やっぱマズイよな。
 あ〜あ。怒らすと長いんだよな、こいつは……。
 熱で寝込んでいるのでなければ、無理矢理にでも抱いてなし崩し的に流してしまうこともできるが……しかし、この二人でそんなことするわけにもいかないし。
 さて……どうしたものか。
 
 穂波が今後の対処法を一心不乱に考えていた時だった。
 コンコン
「あ……秀也かも」
 ドアがノックされる音に明石が反応した。
 ぱたぱたと走る音がして、しばらくするとその音が戻ってくる。
「穂波さん、こいつが笹木秀也。緑山さんの会社の人」
「はじめまして」
 差し出された手を握り返すために立ち上がった穂波に、彼はにこりと微笑んだ。
「営業の笹木秀也です」
 穂波の手が僅かに止まった。
 ……これまた、めっちゃ美人じゃねーか……


 当たり障りのない挨拶をし、笹木が緑山に視線を向けた。
 穂波はそれに気づき、ベッドサイドを開けた。
「緑山くん、どう?」
 その気遣わしげな言葉に、緑山は手をついて上半身を起こした。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いや、もうみんなだからね。別に緑山くんだけが特別って訳じゃないし……」
 くすりと浮かべる笑みに嫌みはなく、聞いている人を安心させるかのように優しい声音だった。
「それと、荷物ね。……あと、お見舞い」
 はい、と差し出されたそれを緑山が受け取る。
 大きめの紙袋に入れられたそれを訝しげに開いた緑山が目を見張った。
「これ?」
「体調悪いときにホテルの浴衣って着にくいだろ。だから、ね」
「あ、でも……こんなの」
 おろおろと緑山が笹木と袋の中を交互に見遣る。
 どうしようかと悩んでいるようだった。
「何です、それ?」
 敬吾に聞いても無視されそうだと、穂波が笹木に問いかけた。
「Tシャツとスウェットの上下、後適当に」
 あっ……。
 それは穂波が買いに行こうかと思っていたものと同じ物だった。
 顔良し、性格良し、電話の対応からして仕事もできる……か?
「でも、こんな……あのお金払います」
「いいよ、勝手にしたんだから。う〜ん、でも気を遣ってしまうっていうんなら、後で篠山さんにでも何かを貰うからいいよ」
 何かを思いついたのか悪戯っぽくくすくすと笑う。
「篠山さんに?」
「そ、彼にね」
 どうやら含む所があるようで、緑山もそれに呆気に取られたのか、しばし呆然としていた。
「それに君の役目は、そんなことで気に病むより、はやく元気になることだよ」
「あ、はい」
 こくりと頷く緑山が、その口元に微かな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
 ようやく言った言葉に、笹木も満足げな笑みを浮かべて頷いた。
 それを見た穂波もまた、ふっと顔がほころぶ。
 ようやく見れた緑山の笑顔もさることながら、笹木の笑顔も鑑賞に値する代物だ。
 と。
「穂波さん、いやらしいこと考えてない?」
 突然の緑山の言葉に、穂波はうっと息を飲んだ。
 だが、それも一瞬で取り繕う。
「何を言うんだ、お前は」
 心外だと顔をしかめる穂波に、緑山の視線はきつい。先程の笑顔など、どこかにいってしまっている。
 だてに穂波と付き合っている訳じゃないと、その視線が言っていた。
「いやらしい事じゃなかったら、邪なこと……かな?」
「おい……」
 なんだそれは。言うに事欠いて、邪とはなんだ、邪とは……。
 ちょっと目の保養、なんて思っただけなのに、敬吾の言い分はあんまりだった。
「も、穂波さんって顔が良かったら、男でも女でも見境無しだもんね。みなさんも気をつけた方がいいですよ」
 棘を含んだ緑山の言葉に、室内の空気が一気に重くなる。
「敬吾、いい加減にしろっ!」
 荒くなる声は、穂波自身を揶揄されたからではない。
 ここにいる他の人達を不快にさせたであろう敬吾の言葉への怒りのせいだ。
 だが、緑山は明らかに冷静さを欠いていた。
 最低な体調と気分、それに穂波の態度が余計に緑山の精神を苛立たせ、不安定にさせている。それが判らないわけではないが、ついつい荒く責める口調になってしまう。
「穂波さんなんか……こなくて良かったんだ……」
 ふっと緑山の顔がくしゃりと歪んだ。
 泣きそうだ、と思った瞬間、がばっと布団の中に潜り込んでしまう。
「敬吾っ!」
 これは……まるで俺が泣かせたみたいじゃないかっ!
 というか、こんなことで泣くなっ!
 どう考えても普段の敬吾とは違う対応に、穂波もさすがに慌てていた。
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