柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊
柊と薊
〜あざみ AI歌 4〜
柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊柊薊



「……なんかあったみたいだね?」
 ため息混じりの声が背後に聞こえる。
「ちょっとね」
 同じく明石の声が被さり、そして増山がしょうがないとばかりに笹木に説明している。
「要は、穂波さんがエレベーターで一緒になった私に言い寄ったというのを、緑山さんが聞いていたわけで……」
「はあ……」
 笹木の幾分呆れたという声に、黙って聞いていた穂波も振り返る。
「まあ、ちょっとだけ……ですけどね」
 穂波の言葉に増山も頷く。
「緑山さん……確かに私に言い寄ったのは穂波さんですが、エレベータの中で会話をしただけですよ。言い寄ったというのは、少し大げさですしね……。それ以外は何もありませんでしたから……」
 増山が緑山を窺うように、そっと語りかける。
 それに緑山が少しだけ視線を寄越した。
 熱ばかりではない潤んだ瞳がその場にいる男達を捕らえる。
 明石がごくりと息を飲んだ。 
「どうして……増山さんが庇うんです?」
 その場に漂った雰囲気には気付かない緑山が増山に問いかける。
「神経を高ぶらせると治るものも治らなくなりますからね」
 私は医者ですから……。
 あくまで冷静を保っている増山のその言葉には説得力があった。
「それに穂波さんはわざわざあなたのためにここまで来てくれたんでしょう。それなのに、そういう態度はよくないですよ」
 おお、良い事を言う。
 確かにここまで来た熱意くらいは汲んで欲しい。
「……この人のことだから……どうせ仕事をさぼれるって思って来たんですよ」
「おい……」
 さすがにムッときたぞ、今の台詞は。
 穂波の眉間に深くシワが刻まれる。
「今頃、滝本さん辺りがそのフォローで走り回ってるんだ……明日デートだから今日中に何とかしようと思ってさ」
「……」
 ぽつりと漏らされた言葉に、増山と明石が絶句する。
「滝本って……どっちの?」
 判っているはずなのに思わず呟いてしまった笹木は、天を仰いでいた。
 どうして、そういう所は頭が回るんだ、こいつは!
 穂波は、こめかみの辺りがきりきりと痛むような気がして、指をあてていた。
「まあ、そういう理由もあるみたいだけど……」
 気を取り直したように言った笹木の言葉はフォローするものではなくて、穂波も何も言えない。
 どうやら、彼は滝本という言葉にいたく反応したらしい……とは判るのだが、何かどことなく冷たい口調になっているような気がする。
「それでも心配もしているのも事実だからね。まあ、彼がそういうタイプだって言うのは君の方がよく知っているようだから、何も言わないけど、それでも付き合っているんだろ?だったら、もう諦めて君が手綱を取るしかないんだ。浩二も言っている通り、落ち着いて治す方が先決だよ。でないと、君の彼はすぐ暴走しそうなタイプ
だし」
 ……。
 性格良い、というのは撤回させて貰うぞ。
 ここで怒鳴るのは大人げないとは思いつつ、それでも背に隠した拳はふるふると震えていた。
「緑山くん?」
 ふっと笹木が訝しげに首を傾けると、緑山の顔を覆っていた布団をそっと剥いだ。
「あ、あのっ……」
 狼狽え、慌てて顔を枕に埋めようとする緑山の頬は、薄暗い部屋の中でもはっきりと判るほど、朱に染まっていた。
「敬吾?」
 ひどく恥ずかしがっている緑山に先程までの怒りに包まれた所はない。
「どうしたの?」
 笹木がそっと問いかけると、緑山はおずおずと視線だけをこちらに向けた。
「お、おれ……もしかして、変な事喋った?」
「変なこと?」
 笹木の問いは、みんなからの問いだった。
「あ、あの……俺の付き合っている相手、もしかして自分でばらした?」
 その途端、その場にいた4人がぴきっと硬直した。
 このバカ……。
 思わず毒づいた穂波は忌々しげに緑山を見つめる。
「敬吾、今更何を言っている」
 あれだけあからさまに嫉妬して、何がばらした、だ!
「……緑山さん、なんか混乱しているみたいだから、もう少し寝ていないさいね。一晩ぐっすり寝たらさ、少しは気分が良くなるし、穂波さんとのことも考えられるでしょ?」
 笹木の言葉に明石達も頷く。
「俺達、もう帰るから。ほんと、ゆっくり休みなよ。後のことは熱が下がってから考えるべきことだし」
「あ、あの!」
「大丈夫、穂波さんは怒っていないよ。それに強いのは君の方だから自信を持って」
 そうして笹木が浮かべた笑みは、それは鮮やかなもので、穂波のみならず緑山まで魅了しているのが判った。

……なんでか敬吾視点に……
  
 ドアの音と穂波が挨拶する声が聞こえる。
 ぱたりと閉まる音の後、静寂が部屋の中に広がった。それは多分に緊張の色を滲ませるもので、緑山は緊張のあまりぎゅっと手を握りしめた。
 こんな状態で穂波さんと二人っきり?
 どきどきと早い鼓動は決して熱のせいではない。
 自分でも、熱が下がったことが判るくらいに意識がはっきりしている。
 気まずい……。
 すっきりとしてきた頭が、自分の言動を思い起こさせる。
 もぞもぞと布団の中に潜り込み、ほとんど俯せに近い状態で横向きになる。
 握りしめた手のひらがしっとりと汗ばんでいた。
 軽い足音がベッドサイドに近づいてくる。
 そのリズムに合わせてどきどきと高鳴る心臓。
 息苦しさすら覚えてどうにかなりそうだった。
 どうしよう……。
 穂波の言動は……ほとんど推測ではあったけれど、間違いなく増山にちょっかいを出したと思えるもの。しかもそれだけではない。
 明石に対しても、笹木に対しても……彼は、絶対心の中では傾いていたに違いないのだ。
 クリスマスからつきあい始めて、まだ僅か4ヶ月にもならない。
 だがその中で、穂波幸人という男がいかに節操がないか、自分自身が引っかけられた状態を見ても、十分想像できる。
 あの人は、いい男、好みの男を見つけると落としたくてしょうがなくなる人なのだ。
 だから、目覚めたときに漏れ聞こえた会話で、敬吾は気付いてしまったのだ。
 またか……と。
「お前……ばかか……」
 至近距離でしたその言葉に、ちらりと視線だけを寄越す。ため息が漏れ聞こえ、穂波の手が緑山の額にあてられた。
 冷たい手が気持ちいい。
 しばらくして離れたその手に思わず縋り付きたくなって、それを必死で押さえた。
 ここで甘えたら、さっきまでの事が有耶無耶になる。
 多少は下がったとはいえまだ怠い体が、緊張を強いられて余計に怠さを醸し出す。
「……穂波さんだって」
「こら、幸人だろ」
 こつんと叩かれた頭に手をやる。
「で、何が俺もだって?」
 頭のすぐ近くで聞こえるそれに首を竦める。
 怒ってはいないのだろうが、不快さはあるのだろう。どうもその声音がいつもより低い。
「浮気者……」
 それでも言葉にしてしまう。
 いつもならこんな事を言おうものなら、動けないほどにヤられてしまうのだが、さすがに今日は大丈夫かな、という打算もある。
 だが、聞こえた返答には、がばりと布団を跳ね避けた。
「そんなこと、分かり切っているだろうが」
 いけしゃあしゃあとそんなことを言われて、開いた口が塞がらない。
 発することのできない言葉の変わりに、目を細めてきつく睨むと、そこにいるのは悠然と笑みを浮かべている穂波。
「……そんなこと、自慢げに言わないでください」
 敵わない。
 それでなくても気力の萎えている今は、自信満々にそんなことを言ってのけられるこの人に敵うはずもない。
 今が好機とも言えるその時。
 だが。
 緑山は、力の抜けた視線を自分の手元に落とした。
 横たわったままの緑山の額に穂波の手のひらが再度触れる。
 びくりと怯えが体に走り、固く目を瞑った。
「熱、下がっているようだな。ようやく薬が効いたのか?」
 額から離される手。がさがさと紙の音がして、緑山はそちらに視線を向けた。
 骨太の手が薬の袋を持っている。逆光でその表情は窺えなかった。
「解熱剤も使ったとか言っていたな」
 その薬袋がぱさりと軽い音を立ててサイドテーブル上に戻された。
「さて……」
 近くにあった椅子を引っ張った穂波がそれに座り込むと緑山を覗き込んだ。
 その顔に浮かぶ笑みに、緑山はふいっと視線を背ける。
 こっちの方が怒って良いはずなのに、何故その怒りは萎えてしまう。
 浮気って……何があっても正当化できるものじゃないはずだよな。
 などと思っては見るのだが、何故かこの穂波幸人という男を前にするとそれが主張できなくなる。
「敬吾……熱に浮かされていたとはいえ、ずいぶんな言いぐさだったな」
 揶揄の含んだその声にびくりと体を震わしてしまうのは、この人が穂波幸人だからだ。
 こうして敬吾を責めるとき、お仕置きだと嗤いながら言うその時に、敬吾に課せられる運命はいつだって変わりはない。
 穂波とつきあうことは、決して甘いだけですまされないところがある。
 何せ……精力絶倫……なのだから……。
 怠い体に緊張が走る。
 どきどきと高鳴る心臓が吐き出す血流が、指の先まで脈打つほどに強く感じる。
 いや……そんな、まさか……。
 熱のある緑山にそこまでは要求はしてこない、と思うが……それでも……と疑ってしまう。
 窺うような視線に気付いたのか、穂波がくすりと笑みを口元に浮かべた。
「こら、何とか言ったらどうなんだ?」
 その声音は低いけれど優しい。
 なのに……ぞくりと走る背筋の悪寒。
「怖いのか……」
 その指が頬に触れた途端、びくりと一際大きく体が震えた。
 くつくつとこぼれる笑いを止めようとしない穂波を、緑山は恨めしげに睨んだ。
 何でこんなに恐れるのか?
 幾らなんでも……今は……。
 とは思うのだが……。
 腹の底から大きく息を吐き出し、意識的に気分を落ち着かせる。
 どこか気怠い体がそれを邪魔するのを、無理矢理無視した。
「で、お前は嫉妬に狂って自分から俺が相手だとばらした訳だが……どうだ、その気分は」
 最悪……。
 思い出したくもないことをわざわざ思い出させるこの無神経さ。いや、判ってやるからタチが悪い。
 苛つく心がざわざわと不快な感情をその瞳に込める。
 さすがにそれにはマズイと思ったのか、首を竦めてみせる。
 あの時は。
 周りが見えなかった。
 その原因を作ったのは、この目の前にいる男。
 何の因果か、自分が恋人と呼べる男。
 ああ、腹が立つ。
 せっかく収まっていた怒りを思い起こさせた穂波に、緑山はきつい視線を送った。
 いつだっていい男を見ると見境なく口説き落としにかかる穂波を知っているから、自分が熱を出して苦しんでいるのにまたそんなことをしたのかと思うと……悔しかった。
 来てくれたのは驚いたけど……それ以上に……悔しくて……情けなくて……。
 気がついたら、言っていた。
「帰れば良いんだ」
「おい」
「こんな所まで来て浮気する幸人さんなんか嫌いだ」
 握りしめる手がふるふると震える。
 食いしばった口元が僅かに震え、紡ぎ出す言葉か出てこない。
「幸人さんが……悪いから……あんなことになったんだっ!」
 がばっと手を突っ張って上半身を跳ね上げた。
 が、くらりと視界が暗くなる。
「あ……」
 ふわっと手の力が抜けて体が崩れ落ちた。それをすんでの所で穂波の腕が支えた。
 すうっと戻る視界に虚ろな頭をはっきりさせたくて首を振る。
「ばか。下がったとはいえ熱はまだあるんだ。無理するな」
「誰のせいだよ」
 吐き出した言葉がやけに弱々しいことに気づき、口を噤む。
 ほんとうに……誰のせいだと……。
 目の奥が熱かった。

 そっとベッドに下ろされついでに上向かされる。
 視線の先に穂波がいた。
 目を閉じればその拍子に涙があふれ出そうな気配に、緑山は薄目を開けて中空を見据えていた。
 その視界の中に穂波の顔が入ってくる。
 合わせないように顔を逸らす緑山の頬にその両手が添えられて固定された。
 動かせないから目だけを動かす。
「敬吾……。まあ今回は俺もマズイとは思ったんだがな……何せ、ああもいい男達は、あっちでは拝めないからさ。ついな……」
 ……。
 思わず動かした視線が絡む。
 苦笑を浮かべる穂波の顔に反省の色は伺えない。
「じゃあ、俺は何なのさ?」
 いい男にふらっとなるくらいなら、来て欲しくなんかなかった。
「敬吾は俺の恋人さ」
 さらりと言われても、信じられるものではない。
「浮気者……」
 たぶん何度繰り返してもこの男には効かない言葉。
 それでも言ってしまう。
「それでも敬吾がいつだって一番なんだ」
 頬に触れた手が、つつっと下りる。
 首筋をなぞられ、浴衣の襟にかかった指がそこを広げた。
「敬吾……どんなに好みの男がいたとしても……それでもお前が一番だ」
 吐息が肌をくすぐるまもなく、柔らかな触感が鎖骨の付け根にあった。
「……んっ……」
 とたんにそこを起点に広がる疼きに、四肢がこわばる。
 閉じることのできなかったまぶたがきつく合わせられ、ぽとりと涙が溢れ落ちた。
「お前は……俺のものだ……お前でなければこんな所にまではこなかった……」
 普段よりはるかに低い声音が肌の上から直接響く。
 穂波の両手がいつの間にか緑山の両の手首を掴んで肩のところでベッドに押しつけていた。
 きつく吸い上げられ、白い肌が花びらの形で朱色に染まる。
「信じろよ」
 信じろ……。
 信じたい……。
 誰よりも……穂波自身よりもその言葉を信じたいのは緑山自身。
 判ってはいた。
 きっと、最初っから「もうしない」なんて謝られても、緑山は信じることなどとうていできなかっただろう。
 穂波が浮気しないという言葉を信じることは……ひどく難しい。
 だが……それでも一つだけ信じられることはある。
 それを確かめたい。
 穂波の口から直接、確かめたいと願う。
「本当に……俺が…一番?」
 今だけでも……俺が一番であるのなら、俺はそれを失わない努力をするだろう。
 緑山は、もう穂波を失うことは考えたくないのだ。
 浮気をしても帰ってきてくれるなら……。
 それなら、ずっと一番で居続ける。
 そんな緑山の決意に気づいているのかいないのか、穂波は啄むようにキスを施し、そして時折きつく吸いついた。
 抱き続けて緑山の感じる場所を知り尽くした穂波が与えるキスは、緑山をあっという間に快楽の海に引きずり込む。
 熱があって、その反応はどうしても鈍いものではあったが、それをものともしない穂波の愛撫。
「一番は変わりようがないんだ。俺にとって、何よりも大切な一番は、常に一人だ。そして、それが敬吾なんだ……お前が倒れたと聞いたら、もういても立ってもいられなかった。今までこんな気分になったことなどなかった。敬吾だから……俺は来た」
 酔いしれるような台詞に煽られ、全身が一気に紅潮した。
 朱に染まった肌に舌が這う。
 這う舌が与えるぞくりとした疼きに、緑山は何度も首を振った。
 穂波の頭を避けさせようと手を動かすが、それは数センチも浮かばないうちに、再びシーツに縫い止められる。
「あ……っ!」
 どくんと下肢の付け根が反応する。
「敬吾……信じてくれ……」
 せり上がるようにあがってきた穂波の口が甘く囁く。
 触れるだけの口づけに、うっすらと目を開けて緑山は穂波を窺った。
 真剣な瞳を……信じられるものだと……思うから。
「……判った……」
 同時に吐き出される熱の籠もった息は、穂波の口内に消えていった。

 じっとりと汗ばんだ体が、波打つように震える。
 穂波の手がすっぽりと熱いそこを握りしめると、幾度も緑山の体は若鮎のように跳ねた。
「ここにある……太い血管を冷やすと熱が下がりやすいんだ。頭を冷やすよりも効果的だぞ」
 優しげなその言葉のわりに、触れる手は焦らすようにその付け根あたりをまさぐる。
「こんなこと…してたら……余計に…上がってしまう……」
 もう逆らう気力もなくて、与えられる快楽を享受するしかない。
 だが、やはり熱で本調子でないのか、いつもなら達ってしまっている時になっても、限界にまで辿り着けていなかった。
 それが余計に苦しい。
 はあはあと大きく肩で息をする緑山に、さすがに穂波もマズイと思ったのか、その手を止めた。
「今日はやはり無理だろう……」
 優しいキスが額に触れる。
 だが……ここで止められては熱の籠もったこの体がどうにかなってしまいそうだ……。
 のろのろとのばした手が穂波のシャツを掴んだ。
「駄目……」
 虚ろで潤んでしまった視線を穂波によこす。
 欲情に満ちたその視線に、それでなくても緑山の瞳に弱い穂波が敵うはずもなかった。
「ばか……」
 苦笑混じりにキスを落とされ、そして再び愛撫が始まった。
「……」
 穂波には見えないところで、緑山の口元が笑みを形作る。
「…ふあっ……はあっ……」
 与えられる快感に流されながらも、ぺろりと悪戯っぽく笑っている。
 ……瞳か……。
「ひやっ!」
 さすがに本気になった穂波に追い上げられ、それ以上の思考はストップする。
 仰け反り、四肢を硬直させる緑山が、弱々しくも放出すると穂波が体を起こした。
「苦しかったろ……すまないな」
 いつもと違う元気のなさに、穂波とてよい状態ではないと踏んだのだろう。
 緑山だけをイカせるとそれで満足したのか、緑山の浴衣を整えて、そして見つめる。
 その表情がどこか痛ましげで穂波らしくない。
「幸人…さん……変……」
 くすりとこぼす笑いが混じった台詞に、穂波は苦笑を返した。
「ま、俺も病人相手に最後までいくような鬼畜じゃないからな」
 大きな手がとんとんと緑山の頭を叩く。
「さあ、ほどよく疲れたろ。明日のことは明日決めればいい。だから寝ろ」
 とんとんとリズムが体に刻み込まれる。
 確かに……疲れた。
 体の怠さと、叩かれるリズムの心地よさに、急に眠気がわき起こってきた。
「幸人さん……」
 最後の力を振り絞るように、声をかける。
「何だ?」
「好きです。だから……俺をずっと一番にしてて……」
 一瞬、穂波の手が止まった。
 だが、すぐさま再開される。
「ば〜か。何度言ったら判るんだ。俺、穂波幸人の一番は緑山敬吾、お前だよ」
 それは何よりもうれしくて心地よく緑山をリラックスさせてくれた。
 本当に何よりも優れた睡眠導入剤だった。

 ふと気がつくと、明るい日差しに部屋の中の物がくっきりと浮かび上がっていた。
 カーテン越しでも強い光が差している。
 ここはどこだろう……。
 しばらくぼんやりとそれを見つめ続け、はたと気がついた。
「あ……」
 思わず身動ぎ、周りに視線を巡らす。
 どこか生活感のない部屋に、この場所がホテルだと思い出す。
 ああ、そうだ。
 一気に頭が覚醒して、今の状況を思い出した。
 インフルエンザで熱を出して、皆に手伝ってもらってここまできて……そして……穂波さんが……。
 そうだ……結局一回イカされて……そのまま寝てしまった筈。
 ふと自分の体に視線を移すと、浴衣を着て寝ていたはずなのに見慣れぬ服を着ていた。
 ……確か笹木さんが……。
 昨夜遅くにやってきた笹木が持ってきた着替え。
 だが、いつの間に?
「目が覚めたか?」
 その声にはっと振り返ると、ベッド脇のイスに穂波が座っていた。
 その目が赤い。
 どこか疲れた表情の穂波がそれでも緑山と目が合うと、微笑みを浮かべた。
「あの……」
 寝ていないのか?
 問いかけようとする前に、穂波の手が伸びて緑山の額に触れる。
 ひんやりとした手はひどく優しげで、逆らう気は全く起きなかった。
「下がったようだな。あの増山っていう医者が診断が早くて薬を飲むのも早かったから、治るのも早いはずだと言っていた。良かったな、病院で気がついて」
 こんな優しい穂波の声は聞いたことがない。
 そう思えるほど、静かに胸の中に響いてくる。
 そうだ……この人は本来は優しいのだから……。
「服を……?」
 窺うように問いかけると、穂波が微かに首を傾げた。
「あ、ああ。俺が着替えさせた。汗をひどくかいていたからな」
 では、寝てしまった後に?
 着替えされられたことも知らない程熟睡していた自分を、着替えさせるのはたいへんだったろうに……。
「あ、りがとう……」
 今なら素直に言える。
「なんだ、改まって」
 微笑みが苦笑に変わり、その端正な顔をよけいに際だたせる。
「だって……きてくれた」
 その礼を言っていなかった。
「礼なら昨日貰ったぞ」
 きょとんと首を傾げる緑山に穂波が耳打ちする。
 ……お前のイイ顔を堪能させて貰ったから……。
 途端に昨夜の醜態を思い出す。
 熱があるというのに、快楽に溺れてしまった事への羞恥が今更ながらにわき起こり、かあっと頬を赤く染める。
 あれが礼だというのか?
 くつくつと笑いを零す穂波を睨み付けるが、ふっと緑山はその口元を綻ばせた。
 この人だから……。
 しょうがない……。
「言葉にはしていなかったから……だから、ありがとう」
「これはまた、どういう風の吹き回しだ?」
 腕を組み、首をかしげる穂波のわざとらしさときたら。
 だが、どこかすっきりと落ち着いた気分が緑山をくすくすと笑わせた。
「よその人にちょっかい出さずに来てくれていたら、きっと、もっと早く礼を言っていたんだけどね」
「……まだ言うか」
 立ち上がった穂波がぐっと両肩に体重を乗せて、緑山をベッドに縫いつけた。
 痛みに顔をしかめながら、ため息を漏らす。
 あくまで自分の非を認めない穂波。
 この傍若無人なこの人が、実はほんとに好きになっているんだから……そんな自分が信じられない。
 だけど……。
 この人は自分が一番だと……言ってくれたのだ。
 確かに、昨日は本当にショックだった。
 来てくれたのは嬉しかったけど、なのに、増山達にちょっかいを出したことは……。
 この人をつなぎ止めておくのはどうしたらいいんだろう。
 今更この穂波幸人という、この男の節操無しの性格が変わるとは思えない。
 だいたい、この人が自分に興味を持ったのだって、その節操無しの性格からだからと言うことは気付いている。
 しかも、自分の外見が実は穂波の好みから少し外れているのだから。
 昨日あった人たちは、穂波の好みに合っていたのだ。
 あんな風になれたなら、ずっとこの人は自分だけを見てくれるのか?
 いつだって自分だけを見ていてくれるようになるのだろうか?
「何を考えている?」
 徐々に降りてきた顔が言葉を紡ぐ。
 それに笑って応える。
「幸人さんのことだよ」
 嘘ではない。
 その言葉に幾分目を丸くした穂波がくすりと吐息で笑うと、そっと緑山に口づけた。
 触れただけで離れた口が笑みのままに言葉を紡ぐ。
「やっと、敬吾らしくなったな」
 安堵の色が込められたその言葉に、緑山はそっと手を伸ばして穂波の首に絡めた。
「幸人さんは、相変わらずだっだけれどね」
 ほんとに……相変わらずの惚れっぽさ。
 なんとかしたい。
 自分が一番である内に。
「これが俺だ。諦めろ」
 その言葉に僅かに眉をひそめる。
 諦められると思うのか、この人は。
 もともと嫌がっていた俺を無理矢理その手に絡め取ったくせに。
 ため息が漏れる口を捕らえられる。
 乾いた唇をぺろりと舐められ、まだ緑山はどこか気怠げな瞳で穂波を見据えた。
 見つめる先で穂波の瞳がゆらりと揺らぐ。
 ……幸人さんが自分を欲している。
 それに気付くと、どきんと心臓が高鳴った。
 穂波の手が上がり、そっと緑山の頬に触れる。
 くすぐったいような僅かな触れ方は、次の行動の前触れ。
 だから、それを制するように言葉を放つ。
「喉、乾いた……」
 びくりと動きが止まり、穂波の口元に僅かに苦笑が浮かんだ。
「待ってろ」
 ついっと離れた穂波が冷蔵庫から持ってきたのはミネラルウォーターで、それを見た緑山が体を起こそうとするのを、制止する。
「?」
 訝しげに眉をひそめる緑山を見遣った穂波が、くすりと嗤うとキャップを開けたペットボトルに口をつけた。
 見開かれた緑山の目の先で、一口含むとその口がそっと緑山に合わせられる。
「う……」
 その意図を察知して、目を細める敬吾の口内と外に水が流れ込んだ。
 頬に伝う水を、穂波の手が拭い取る。
 ごくりと……緑山の喉が動いた。
「お前の目……見ているとこういうことをしたくなるんだよ……」
 その声に含まれる熱を感じ取って、緑山の体がふわりと熱を持ってくる。
 冷たい水が入ったはずなのに、はあッと吐き出す息が熱い。
 いつも言われるその言葉。だが、緑山自身にはそういう自覚はない。
 いや、周りの人達の対応からそうかもしれないとは思っているのだが……信じられないのも事実。
 だが昨夜といい、今といい……穂波の行動を見ている内に、それがそうなのだと確信に至る。
 穂波は、間違うことなく緑山の瞳に欲情している。
「なんでだろう……」
 ぽつりと呟くその台詞に穂波が苦笑を浮かべて返した。
「自覚して欲しいぞ、いい加減に」
 自覚か……。
 もし、自覚したとしら……そうしたらいつだって穂波さんを……幸人さんを捕らえることができるのだろうか?
 自覚して……明石さんのように自分の見せ方を知っていたら……。
「どうした?」
 内に籠もってしまった緑山の頬を穂波がぺちぺち叩く。
「……痛いっ」
「何を企んでいるんだ?」
 ニヤリと嗤うその視線から目をそらす。
 本当にこの人は聡い。
 ため息混じりの吐息を吐き出し、再度まっすぐ視線を向ける。
「どうしたら、幸人さんを懲らしめることができるのか?」
「……お前は」
 穂波が眉間にシワを寄せて、大きく息を吐き出した。
「もう少し色っぽい台詞が吐けないのか、この口は」
 指が緑山の唇をつつっと伝う。
 先程より湿った唇に微かに触れるその感触に、ぞくりと体が反応した。
「幸人さん……俺、シャワー浴びたいんだけど……っ」
 伝う指から逃れるように身を捩らせる。
 逸らした視線の先で、その手が独自の生き物のように首筋を這い胸に降りてきた。
「俺が入れてやる」
 その声に含まれる欲望に、気付かない訳がない。
「俺……病み上がりで本調子じゃないんだけど……」
 言ってはみるものの、聞く耳を持たない穂波のこと。
 いきなり抱き上げられ、その不安定さに慌てて穂波の首に縋り付く。
「軽いな……どうしてあれだけ食べて肉にならないのか不思議だ」
 呆れたふうにいわれても、返答のしようがない。

 連れて行かれた浴室は、最低限の機能しかもたない狭いところ。
 湯のはっていないバスタブに緑山を降ろした穂波は、さっさと緑山の服を全て取り去った。
 今更逆らう気力もないし、その必要もない。
 嫌だと言っても穂波はその手を止めないだろう。
 全裸の緑山が所在なげに座っているバスタブに、穂波は湯を入れ始めた。数度温度を確認して、ちょうどいいと思ったのだろう。蛇口を全開にする。
 勢いよく流れ出す湯が跳ね返り、緑山はじりっとその反対側へと身を寄せた。
 浴室の中はほどよい室温で、全裸でいても寒くはない。
「大丈夫か?」
 それにこくりと頷くと、穂波が自分の着ていた服も一気に脱ぎ去った。
 仕事中のままのスーツはどこかくたびれた様子で脱衣所に放り出される。
「幸人さん……元気……」
 その中心でそびえているその元気なモノから視線を逸らし、思わずため息を漏らしてしまう。
「当たり前だ……昨夜からずっと我慢しているんだぞ」
 がばりと背後から羽交い締めにされ、腰にその硬いモノがぐりぐりと押し付けられる。
「あ、洗ってくれるんでしょうがっ!」
 決してするためにここに入ったわけではないだろうと、穂波をたしなめてみるが、何のことだと言わんばかりに、緑山の首筋に噛みつくようなキスを落としてくる。
 はあぁ……。
 力無く穂波に体重を預ける緑山の脳裏が諦めに染まる。
 想像はできたこと……。
 今しなくても、後で必ず求められるのはわかっていた。
 だったら……もう、されるがままになっておこう。
 まだ本調子でない体はどこか怠い。
 大人しくしていれば、穂波も優しくしてくれる。
 それに……。
「……あ…んっ……」
 背筋のくぼみに舌を這わされ、胸の突起をつまみ上げられれば、逆らう気力など湧きようもなかった。

 ぴちゃ……
 身動ぐ緑山の動きに合わせて、水面が揺れてできた波がバスタブの壁で音を立てる。
「ん……はあ……」
 泡立てられたボディシャンプーのぬめりを借りて、穂波の手が肌の上を自在に動く。
 崩れ落ちそうな上半身を支えるために必死でバスタブの縁に縋り付こうとするが、つるりと滑って掴めない。
 ばしゃっ
 湯の中に手をついて、跳ね返るしぶきを頭から浴びる。
 顔に突いた水滴は汗と混じって、滴り落ちていた。
「ん……んんっ……!」
 いつもよりスムーズに入り込んだ指が、体内でバラバラに動く。
 時折ぐいっと内壁を押さえされるたびに上半身が大きく仰け反った。その曝された喉に穂波の手がかかり、ぐっと引き寄せる。
「敬吾……おいで……」
 耳元でする掠れた声に、閉じていた瞼をうっすらと開けた。
 涙で潤んだ瞳がゆらゆらと動き、背後の穂波に向ける。
 どこに……。
 微かに開いた口が言葉を発する前に、腰を掴まれぐいっと引き寄せられた。
「んっああっ!」
 思わず上げた嬌声が浴室内に響いて別の声のように緑山の耳に戻ってくる。
 それに恥ずかしいと思ったのは一瞬で、ぐぐっと押し入る感触に意識がそちらに向いてしまう。
 きつい……。
 ぬめりによって入ってくるそれは、体の中を広げながら押し入ってくる。
 広げられる痛みはどうしても相容れないもの。
 だが、その先にある快感を体が求めているから、必死でその痛みに堪える。
「ふっ……はあっ……はっ……」
 意識的に呼吸をして、痛みを逃す。
「敬吾……」
 切なげな声音が耳朶を打つ。
 それにぞくりと震えが走った。
 ぞわぞわと総毛立つような疼きに敬吾は自らの腕を強く掴む。
「ふわっ」
 ぐいっと残った部分が一気に押し込まれた。
 胸の中の空気が一気に押し出される。
「熱い……いいよ、敬吾……」
 背後から抱きしめられ、ようやくこわばっていた体から力が抜けた。
 張りつめんばかりに押し入られたそこはぎちぎちで身動きすることもままならない。それでも、少しずつ体に馴染んでくる。
 敬吾はただそれを待っていた。
 満たされた体の奥が次の快感を求めるようになるのを……。
「あ…ん……」
 穂波の手が敬吾の体をまさぐるように動く。
 敏感な脇腹をなぞられて思わず声が出た。
 その艶めかしさにはっと気づき、思わず口を噤む。
 すでに熱くなっていた顔がさらにかあっと熱を持つ。
「聞かせろよ、声……」
 耳朶を噛まれ、甘く囁かれれば、理性など飛んでいってしまう。
 穂波の手が敬吾のモノをしっかりと包み込み、指を一本ずつ動かしていく。その扱くような刺激に、柔らかくなっていたそれがむくむくと元気になってきた。
「んっ……ふっ……あぁ……」
 閉じていた口が開かれる。
 同時に、穂波の腰が動き始め、それが徐々に激しくなる。
「うあっ!……やあっ……」
 内壁に絡みつくように抜かれ、ぐっと押し入れられる。
 ずくんと突き上げられたそこから身震いするほどの快感が押し寄せてくる。
「ふあっ……そこっ……イイっ!」
 口元から唾液があふれ出し、顎を伝っていった。
 抱えられていなければ、倒れてしまいそうなほど体が言うことをきかない。
 がくがくと揺れる体は、穂波の抽挿に操られるままだ。
「あ、ああ……やあっ……ふあぁ……」
「敬吾……いい顔だ」
 熱の籠もった声が聞こえる。
 穂波が自分に欲情している。
 それが余計に緑山を煽っていた。煽られた体がよりいっそう快楽に敏感になる。
 もっとして欲しい……。
 もっと……欲しい……。
 もうそれだけしか考えられない。
 ぼおっとしていた頭がぱああっと白く膨張する。
 ぐんっと、大きく突き上げられた。
「はあっ!!」
 一声大きく叫ぶと、緑山は一気に弾けた。 
 

 気がつくと、ベッドの柔らかな寝具の上にいた。
 開いた目の先に穂波の頭がある。
 胸のあたりからぞわぞわとした刺激が痛いくらいに伝わってくる。
「あ、……あ…ゆ、きと……さ…」
 力の入らない手を何とか動かして、胸の上で動く穂波の髪を掴むと、その頭が動いた。
「気づいたのか?」
 揶揄の含んだ嗤いに、緑山は顔をしかめた。
「そんなに良かったのか?一発で意識を失うとは……」
 とたんに走る下肢からの刺激にぴくっと下肢を突っ張らせる。
 やわやわと揉みほぐされては抗議の言葉を発することもできずに、歯を食いしばって堪えるしかない。
 穂波の言うとおりなら、一度吐き出して気を失ってしまったらしい。
 いつの間にか、運ばれたベッドで穂波の第二弾が始まったのは簡単に想像できた。
 解放されたばかりの体がさらなる愛撫で、一気に高ぶっていく。
「も……もたない……」
「ここがか?」
 ぎゅっと握りしめられたそこからの刺激と嗤いの含んだ声に、緑山は首を振った。
「……怠い……んだ……」
 病み上がりと風呂でしたことへの影響が、緑山の体を責めさいなんでいた。
 それなのに、性欲に忠実なそこはいきり立っている。
「ふむ……そうか……」
 ふっと穂波の手が止まる。
 覗き込むように緑山の顔を見ていた穂波が、はたと気づいたように小さく頷いた。
「そういえば、まだ食べてもいないしな。大食漢のお前は空腹になると元気がなくなるし……」
 ……違う……。
 否定したいが、もうどうでもいい、という気分にもなっている。
 まあ、確かに空腹感もある。
「じゃ、さっさと終わらそうか」
 あくまで一回は終わらせないと気が済まないらしい穂波に緑山は苦笑を浮かべる。
「……さっさとお願いします、ね……」
 組み伏せられたままぽつりと呟くと、ぎゅっと握りしめられて痛みに顔をしかめる。
「色気がないぞ。もうちょっと誘うような艶のある言葉を言えよ」
 とんでもない言葉には眉根を寄せるしかない。
「艶……ったって……」
 はあはあと喘ぐように言葉にする。
 ぎゅぎゅっと躍動を持って握られて、ずくずくと脳髄にまで刺激が走ってくる。
「ほら……いってみろよ」
 悪戯っぽいその顔に、緑山は仕方なく口を開いた。
 もたない……。
 その言葉に違いはない。
 だから、逆らえない。
「お、願い……き、て……欲しい……」
 息も絶え絶えにお願いする。
 穂波の背に回した腕に力を込める。
「欲しい……んだ……来て……」
 縋り付くように穂波の顔にすり寄る。
「判った……ここまで誘われては俺も応えなければならないな」
「……もう……」
 はああっと吐き出した息は、ぐんと突き上げられ「ひっ」と小さな叫びをあげて止まってしまう。
 いきなり押し込まれたそれは、スムーズには入ったけれど、相変わらずきついくらいに太い。
「締め付けるなよ、そんなに」
 そうは言われても体が言うことをきかない。
「あっ……そ…んな……」
 ぐっぐっと突き上げられ、言葉はもう意味をなさなかった。
「ああ、やあ……はあ…………ああっ!」
 欲しい……。
 もっとっ!
 本能だけの固まりのようになって、ただ快楽を求めて穂波に縋り付く。
 熱い体が汗を介してまとわりつく。
 二人の匂いが部屋に充満し、それが余計に緑山を酔わせる。
「あ、ああ……もう……」
「イイか?」
「あ、イイ、もっと……そこっ!」
 誘われるがままに言葉にする。
 限界が近づいていた。
 出したい。
 もっと、もっと……。
「もう……イかせてっ!幸人っ、イかせてっ!!」
 とたんに、扱かれるスピードが速くなった。
 揉みくちゃにされるような刺激が、限界を超えさせる。
「うっ」
 穂波の堪えるようなうめき声とともに、体内で穂波が弾けた。
 ほぼ同時に、緑山も欲望の固まりを吐き出していた。


 ひどく怠い……。
 ぴくりと動かした指先ですら、もう二度と動かしたくないと思うほどだ。
「敬吾、大丈夫か?」
 するっと髪に穂波の指が通っていく。
「大丈夫じゃない……」
 口を開くのもおっくうだ。
 この異様な怠さには覚えがある。
 決してセックスの後だからではない。
 もちろんその行為との相乗効果で余計に激しく怠さが増しているのだが……。
「敬吾……?」
 呼びかけられるのと同時にした腹の鳴く音が穂波に理由を訴える。
 恥ずかしさに頬を赤らめる緑山に、くつくつと笑い声が降ってくる。
「まあ、元気になった証拠か?」
 堪えきれない嗤いを隠そうともしない穂波に、緑山はため息をつくしかない。
「判った。何か買ってきてやる。どうせ、動けないんだろ?」
「誰のせいです?」
 少なくとも、一回で終わらせてくれればもう少し動けるような気がする。
「まあ、いいじゃないか?久しぶりに乱れた敬吾も堪能できたし、俺は嬉しいぞ」
 にこやかな穂波と対照的に、顔をしかめる緑山。
 もう……好きにしてくれ……。
 諦めの混じった吐息が漏れる。
「あ、ああそれと、飛行機の四便で帰るように手配した。この部屋もぎりぎりまでいさせてもらえるようにしている。今はゆっくり休んでおけ」
 ぽんと頭を叩かれ、それにつられて顔を上げる。
「四便……というとここを3時前に出ればいいんですよね」
 ちらりと時計を見ると、10時を過ぎたばかり。
 それだけあれば、何とか回復できるかもしれない。少なくとも動けるようになるまでは……。
「そうだ……。じゃあ、行ってくる」
 軽く手をあげて部屋を出て行く穂波を見送る。
 かちゃりとドアが閉まる音がしたとたん、じんわりと胸の中に熱いものがこみ上げてきた。
 目の奥までが熱くなる。
 これは……なんだ?
 胸を押さえる手にどきどきと心臓の音が響く。
 目尻から溢れた涙が、ぽろりと眉間を伝ってシーツにシミを作った。
「幸人、さん……」
 ひどく恋しい。
 ようやく堪えきれないほどの嬉しさがこみ上げてきた。
 来てくれたことへの嬉しさ。
 だから、姿が見えなくなったとたん、こんなにも恋しくなったのだ。
 嬉しくて切なくて……それでもこんなにも幸せ、だと……。
 あんなやっかいな人なのに……。
 伸ばした手が、今ここにいない穂波の姿を探ろうとする。
「幸人さん……」
 はやく帰ってきて欲しい。
 あの傍若無人の性欲魔神……彼をこんなにも恋しいと思ったのは初めてだった。

「どうした?」
 大きな袋いっぱいに詰め込まれたものを持って帰ってきた穂波が、緑山の顔を見たとたん不審そうに問いかけてきた。
「…なんでもない」
 帰ってきたとたんにひどく嬉しいと思えたことを見透かされたのだ気づいて羞恥に煽られる。
「なんでもないっていう面か?」
 どさりと重々しい音が響くと、穂波が大股でベッドによってきた。
 ぐっと腰掛けた重みでベッドマットがしなる。
「違う……」
 そっぽを向いてもその顔を追いかけられて覗き込まれてしまい、ますます恥ずかしさにかられてしまった。
「ふ〜ん」
 何か含むような声音が気になった緑山だったが、穂波の真意を問いかけるとやぶ蛇になりそうで、それすらもできない。
「何を買ってきたんです?」
 気になってはいたものの問いかけそびれていた質問を、これ幸いと口に出す。
 このまま黙ってしまうのは、まずいような気がしたのだ。
「食料だが?」
 何を今頃、といった感じで穂波は一言発すると、どさどさと袋の中身をテーブルの上にひっくり返した。
 音を立てて、山積みになったおにぎりやらサンドイッチ、パン、飲み物……弁当。
 あまりの量の多さに呆然とそれを見つめる。
「……こんなに?」
 思わず呟くと、不思議そうに返された。
「お前、いつもこのくらいは食べているだろう?」
「……それはまあ……でもそれでも多いような……」
 ここまで、とは言わないが、確かに結構食べる。
 だが、この量は半端ではない。
 しかも元気な時でも多いくらいのこの量を、病み上がりの今、それだけ食べろと言うのか?
 じっとその山を見つめていると、穂波もさすがに多かったかと苦笑を浮かべる。
「まあ……朝食だから……昼もそれ食べるか?」
「そうですね」
 まあ買ってきた物は仕方がない。
 緑山は手近にあったおにぎりを手に取った。
「弁当は?」
 差し出すのは、トンカツ弁当。
 さすがにそこまで脂ぎったものを食べる気力はまだなかった。
「それ、幸人さんどうぞ」
 にっこりと押し返すと、苦笑混じりに肩をすくめた穂波がそれをテーブルに戻した。
 穂波とて、朝っぱらから……という感じだろう。
 無言のうちに昼食用に回されたそれは追いやられて、手近なサンドイッチを手に取っていた。

 食べ始めてしまえば、結構食べられるものだ。
 体がそれだけエネルギーを欲していたのかしれない。
「よく食べるな?」
 何度聞いたか判らない賛辞を、今日もまた聞いてしまう。
 気がついたら、優に5つのおにぎりの包みが転がっていた。
「なんか……欲しくって……」
「ほんとにどうして太らないのかな。それだけ食って。俺なんか、お前に誘われるように食ってしまって、つきあいだしてから太ってしまったんだぞ」
 確かに、ベルトの余裕が減ってしまったことを気にしていることを知っている。
「それでも幸人さんの方が見た目も格好いいです。俺なんか、ひょろっとしているだけですからね」
 力も体格も、完全に負けれていると思う。
 年の差なんか感じさせない若さがこの人にはある。
「ま、ここ数ヶ月で筋肉はついてきたから、体格的にはもやしみたいなイメージは減ったよな。抱き心地も結構いいし」
 とたんに、顔が熱くなる。
 目を細めて穂波を見遣ると、揶揄するように口の端が上がっていた。
「さて……敬吾は、まだ食べるのか?」
 完全に手が止まった穂波と違い、敬吾の手にはまだサラダのケースが乗っている。
「あ、これで最後に。食べ過ぎると胃に来そう……」
 何気なく言った言葉は、思いっきり笑われた。
「それだけ食べて大丈夫なら、大丈夫だろ!」
 突っ伏すように肩をふるわしている穂波に、敬吾はため息を漏らす。
 まあ、確かにそうなんだけど……。
 そんなに笑わなくったっていいじゃないか……。
 頬を朱に染めて俯く緑山を前にして、穂波はまだ笑っていた。


「すまん……」
 ようやく笑いを抑えることに成功した穂波に、緑山は冷たい視線を向ける。
 そこまで笑わなくても。
 苦しそうに腹をなでている穂波に、同情する気分にもなれない。
 むっしたままの緑山に、穂波は苦笑を浮かべると緑山の横に移動した。
 すっと手を伸ばして、その肩を抱く。
 びくりと震え、驚いて顔を向けた緑山の唇を奪い取った。
 慌てたのは緑山の方。
 まさか……という思いで呼びかける。
「ゆ…きと…さんっ」
 抗議の声をふさぐように再度口づけられた。
 あらがう手は、体と一緒に抱き込まれてしまう。
 何より、エネルギー補給を完了して満足した体が、ずくずくと明け方の情事の余韻を呼び覚ましてくれた。
「…んんっ……」
 それでも、今日は帰らなければ……という思いで必死で押しのける。
 はあ……
 ようやく離れた唇の間から漏れた吐息が、ひどく熱くなっていた。
「…かえれなく……なる……」
 今だって、だるい体にこれ以上ダメージを与えるわけにはいかない。
 この人が欲するだけ抱かれては、いつも動けなくなってしまうのだ。
 朝の二回程度では、穂波が満足し切れていないことはしってはいるが……。
「そうだな」
 そっと離れた体にほっとする。
 どくどくと早くなった鼓動を呼吸を整えることで沈めようとした。
「相変わらず、感じやすい体だな」
 わざわざ耳元に近づいて囁くのは、もうわざとだろう。
「幸人さん〜」
 身を捩って逃げようとすると、捕まえられた。
 駄目だ……。
 この人はその気なんだ……。
 だけど……。
「あの……帰ったら、したらいいから……だから今は……」
 必死で訴える。
 絶対に嫌だ。
 帰り着くまで、怠くて怠くて仕方がない体を動かさなければいけなくなることは。
 あらぬところが痛くて、座るのも苦痛になることだってやり方によってはあり得るんだから。
 嫌だ。
 それの苦痛を耐えているせいで機内で顔色の悪さを指摘されて、それに言い訳するなんて……絶対に嫌だ。
「お願いですから、今は、ね」
「そうだな……帰れなくなるのも困るしな」
 さすがに必死の願いは効いたのか、穂波がようやく体を離してくれた。
 ああ、もう……。
 それだけで力尽きたかのようにがっくりと肩を落とす。
 幸人さんって……それしか考えられないのか……。
 ふっと、たまには浮気も許した方がいいかもしれない……と思ってしまう。
 その方が、自分の体のためかもしれない。
 だが、実際にそんなことになったら、やっぱり嫌だろう。
 ……。
 結局、体力をつけて、彼を翻弄させるほどの技能を身につけるまでは……こうやって翻弄されるのを黙って受け入れるしかないのだろうか。
「まあ……それに俺も少し眠いし……」
 ごろんと横になるベッドは、いい加減乱れに乱れていたけれど、それでも穂波は気にしていない。
「汚れる……」
 ぽつりと呟くと、ちらりと視線を向けた。
「大丈夫だ。ちゃんと受け止めてやったろ」
 にやりと笑われ、赤面してそっぽを向く。
 ああ、もう黙っていよう。
 何を言ってもからかわれそうだ。


 幸いにして……と言うべきなのか。
 薬も効いているのか、タクシーと飛行機……そして車で穂波の自宅に連れてこられるまでの3時間。
 負担にはなったけれど、辛くて堪らないというとはなかった。
 それでも穂波の部屋のベッドに倒れ込むと、どーんと四肢を投げだした。
 最初に見たとき、やるために用意したのか、と思えるほどただっぴろいベッドはそれでも単なるダブルベッドだと言い張っていたが。
 何で、一人暮らしでダブルベッドなんだ?という疑問は無視された。
 だが、今はその広さが心地よい。
 存分に手足を伸ばすことができる。
 自分で思ったより疲れていたのか、手足が怠くて堪らない。
「敬吾……避けろ」
 頭の上から降ってきた言葉に、何気なくごろりと転がってベッドの端によると、穂波がごろりと転がってきた。
「まずいな……」
 ぽつりと吐き出された声音が妙に弱々しくて、緑山は不審げに眉根を寄せた。
 穂波の顔色が入ったとたん、その眉間にさらに深いシワが寄る。
「穂波さん?」
 おそるおそる手を額に当てると、少し熱いような気がする。
「いつから?」
 問うと閉じられていた目蓋がうっすらと開いた。
「う〜ん……市内に入った頃かな?寒気がしたのは」
 気がつかなかった。
 慌てて起きあがる。
「体温計は?」
「そこのサイドボードの引き出し」
 適当にひっくり返すと、奥深くから出てきた。
 電池があるのを確認して穂波に差し出す。
「うつったんじゃないの?」
 眉間のシワそのままに、穂波に問いかけると、「たぶん」と苦笑いで返された。
 はあっとため息が漏れる。
「だから、言ったのに……」
 ピピッ
 小さい電子音に取り出された体温計には、38度1分。
 インフルエンザなんだろう。
 ホテルにいる頃は、これでもかという位に元気だった。
「もう遅いけど……病院行く?」
 ちらりと見た時計は、7時を回っている。
 救急病院なら開いているだろう。
「ああ……知り合いの医者がいるから、そこなら……診てくれる。携帯とってくれ」
 どうやら連絡を取ってみるのだと気がついたので、脱ぎ捨てられたスーツの上着からそれを取り出して穂波に渡した。
 女子学生顔負けの軽快な操作はいつものことだったが、それを見つめる表情に力がない。
 いつも人を喰ったような笑みが掻き消えていた。
「もしもし」
 繋がった携帯を耳に当てている穂波を見て、緑山は台所へと向かった。
 自分と同じ症状だとすると、いろいろと用意しておいた方がいいだろう。
 冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターがあるのを確認する。
 米は……あるか。
 意外に料理好きなところもある穂波だから、食材もそこそこに揃っている。
 しかもレトルトも完備していて、簡単なものなら苦もなく並べられそうだった。
 それだけを確認して部屋に戻ると、話が終わったのか穂波がぽつりと言っていた。
「判った、待ってる」
 それで携帯を切っている穂波に話しかける。
「待ってるって?」
「ああ、症状とお前の病状とを話したらここまで来てくれるって言っていた」
 あ、往診か……。
「親切ですね。友達ですか?」
 何気なく言った単語は、なぜか穂波に苦笑いを浮かべて言い返された。
「ただの友達だ、ゴルフ仲間だよ。それにあっちはもう白髪交じりのご老体だ……あ、これは内緒な」
 言い訳じみたそれに、緑山は穂波が何を心配したのか勘づいた。
 まあ、一応疑われやすいという自覚はあるんだ。
「別に幸人さんの友人関係を全部疑うわけはないから」
 その職業柄か、はたまた性格からか、穂波の交際範囲は広い。
 前に緑山に乱暴した隅埜達を脅した文句は嘘ではないのだ。
「それより、いつ頃来られるんですか、その医者は?」
「ああ……すぐ来るって言っていたから……30分くらいかな、かかっても」
 ほおっと吐く息は安堵のものか、体を冷やそうとしているのか。
 再度、穂波の額に手を置く。
「何かいるものある?」
 そっと覗き込んで問いかけると、穂波の手が伸びてきて頬に触れた。
「敬吾……」
「!」
 目が点になった。
 くすりと嗤う穂波は、顔色の悪さを見ているにもかかわらず、ずいぶんと元気そうに感じる。
「冗談言えるくらい元気なら、俺、もう帰りますね」
 だいたい、こっちだって病み上がり。
 ベッドで寝たいのはこっちの方だ。
 と、頭の中で毒づく。
 そして、必要以上の疲れは誰のせいだ?
「なんだ、敬吾は冷たいな……」
 わざとらしくため息をつかれては、立ち上がりかけた体を再びベッドサイドに降ろす。
「自業自得……ですって。俺、本当に疲れているんです……」
「ああ、そうか……すまないな。でもできれば今日はここで休んで欲しいんだが……。そこを開けたら布団があるから……それ敷けばいい」
 素直に非を認め肩を落とす穂波も、訴えるように見つめてくる穂波も、緑山には馴染みのないものでひどく狼狽えてしまう。
「幸人さん……」
 ため息混じりの呼びかけに、何だ?と視線をよこしてくる。
 それに仕方なく微笑んだ。
「とりあえず、その医者に見てもらうまではいますから……」
「そっか」
 ぽつりと呟き、目を閉じる穂波の顔色はひどく悪く、そして微かに震えているようだった。
「寒い?」
 呼びかけると、目を開き敬吾を見る。
「少しな……」
「毛布……か、何か……」
 首を巡らして指し示された扉を見る。
 だが立ち上がろうとした緑山の腕を穂波が捕らえた。
「敬吾がいい……」
 またか、と思った。
 だが、真摯なその瞳に捕らわれてしまう。
 しばらく逡巡した後、緑山はふうっと小さく息を吐くと、軽く頷いた。
「医者が来るまでですよ」
 手早く着たままだった上着を脱ぎ、穂波の横に滑り込む。
「敬吾」
 腕を背に回されて抱き込まれながら聞こえた呼びかけはずいぶんと嬉しそうだった。
「変な真似はしないでよ」
「する気力もないさ」
 弱々しい声なのに、嬉々として聞こえるのはなぜだろう。
 だが、もうこうなっては仕方がない。
 緑山は諦めて穂波の背に手を回して、体をすり寄せた。
 首筋に穂波の吐息が触れる。
 一瞬ぞくりと震えてしまった体を慌てて落ち着かせる。
 温めているだけだ。
 なのに。
 穂波の手が緑山の背をさする。
 それは宥めるかのように優しく弱いものではあったが、朝の情事の余韻が完全に消え失せていない緑山には甘い責め苦だ。
「幸人さん……」
 呼びかける声が微かに震える。
「ん?」
 大儀そうに返事をする穂波に、緑山は一瞬言葉に詰まった。
 だが、さわさわと動く手を感じると仕方なく訴える。
「手、動かすの止めてくださいってば」
「ん?」
 どこかぼんやりとした穂波の目が緑山を見る。
「俺、動かしていたか?」
「……ええ」
 どうやら無意識らしい穂波に緑山は微かに息を吐くと、こくりと頷いた。
「温めてあげますから、おとなしくしていてくださいよ。でないと帰ります」
「ああ、すまん……」
 あまりにも素直な穂波に、ぞくりと寒気が走ったが、熱があるのだから当たり前かと気を取り直す。
 緑山とてつい先日体験したばかりだ。
 とにかく熱の上がり際はひどく体が怠く、何を考えるにしても億劫だ。
「寝てて……医者が来たら対応しますから」
 とんとんと軽く背中を叩く。
「ああ……」
 温もりが穂波の眠気を誘ったのか。
 そう間をおくことなく、穂波の呼吸音が一定になる。
 そういえば、あまり寝ていないんだっけ?
 ほとんど徹夜で緑山の様子を見ていたらしい。
 ホテルで僅かに睡眠を取ったが、それでもまだ足りなかったのだろう。
 時折、緑山に回された手が動く。
 さわさわと愛撫するかのように動くその手がもたらす甘い刺激に堪えながら、緑山はそれでも穂波から手を離さなかった。

 呼び出し音に、緑山は慌てて穂波の腕から脱出した。
 乱れた服装を急いで整えて、玄関へと向かう。
「はい?」
 再度鳴らされた呼び鈴に、返事をすると、数秒の間をおいて返事が返ってきた。
 覗き窓から見えるのは白髪混じりの強面の男。老人と呼ぶには失礼だが、貫禄はあった。
「佐伯といいますが、穂波さんより連絡を受けたんだが」
「あ、お医者さまですか?」
「そうだ」
 それだけを確認すると急いで玄関を開けた。
「こんばんは、わざわざすみません」
 ぺこりとお辞儀をすると訝しげな視線が緑山に寄せられる。
「私は穂波さんの……」
 さすがに恋人とは言えなくて、うっと詰まった。
 だが、すっと意識を切り替える。
「穂波さんの友人なんです。穂波さんは今は寝ていますから、どうぞ」
 スリッパを並べながら説明すると、佐伯は合点がいったとばかりに頷くとさっさと寝室へと向かった。
 その慣れた様子から、しょっちゅうここに来ているのだなと気づく。
「熱は?」
 ふと振り返って問いかけられ、緑山は微かに首をかしげた。
「30分ほど前に測ったときは38度1分でした。その後寒気を訴えていたので、今はもうちょっと上がっているかも……」
「ふむ」
 緑山の回答に満足したのか、小さく頷くと寝室へと足を踏み入れる佐伯。
「よく寝てる」
 じっと見下ろしていたが、おもむろに診察鞄を開けた。
「こら起きろっ!」
 と思ったらぱこんと穂波の頭をこづいた。
 それを見ていた緑山は驚きのあまり目を丸くしていた。
「おいっ!」
 二回もはたかれれば、穂波も鬱陶しそうに目を開けた。
「……なんだ、もう来たのか?」
「人を呼びつけて、もう来たのかとは何だ?ちょっと喉を見せてみろ」
 あーんと開けた口を覗き込む。
「風邪……と言いたいところだが、インフルエンザの患者を看病したと言っていたな。予防接種はしているのか?」
「いや……」
「ではインフルエンザだ。諦めろ」
 にべもなく言い放つ。
「……冷たい医者だ」
 ぽつりと漏らした愚痴に、剣呑な光が佐伯の目に宿る。
「予防措置も取らずに看病なんかするからだ。それでなくても年を取ると免疫効果は落ちるって言うのに。年甲斐もなく看病などと珍しいことをするから、そうなる」
「言ってくれるな……」
 熱のせいだけではないだろう。
 あの穂波が負けている。
 緑山は呆然とそのやりとりを見つめていた。
「で……お前にインフルエンザをうつした奴はどうした?」
「あ、あの私です」
 穂波が口を開く前に緑山は返事をしていた。
 どうやら穂波が一方的に責められているような気がした。
 そんなことはない。
 そう思っていたから、ここで説明しなければ……そう思った。
「君か……」
 気づいていたのか、こくりと頷く。
「私が倒れて、穂波さんは親切にも迎えに来てくださったんです。それなのに移してしまって……」
「いや、君が悪いわけではない。そんなことはこいつとて百も承知のはずだ。それより君の方こそ大丈夫なのか?詳しい話は知らないが、この状態を見ると君も病み上がりなのだろう?ひどく疲れた表情をしている」
「大丈夫です」
 本音を言うと、早く寝っ転がりたいほど疲れている。
「医者に嘘を言ってどうする」
 佐伯は性格はともかく医者としては優れているのだろう。
 緑山の顔色から、状態を察したのだ。
「そんなところで突っ立っていないで……」
 ふと思い出したかのように穂波の側から移動する。
 がらりと開けたそこは、押入だった。
 慣れた手つきで布団を引っ張り出してその場に敷いてしまう。
「そこに寝ていなさい」
 広げた敷き布団の上をぽんぽんと叩いて緑山に視線を送る。
 緑山は驚いて佐伯を見、そして布団を見つめた。
「早く。またぶりかえしたらどうするつもりかい?」
 その言葉には逆らえなかった。
 言葉に絶対の自信を持っている。
 だから有無を言う隙はどこにもなかった。
 おとなしく横になった緑山に佐伯は掛け布団をかける。
「名前は?」
 先ほどとは打ってかわって優しくなった言葉に、つい誘われるように口を開いた。
「緑山敬吾……」
「では緑山さん……君はもう寝なさい。穂波のことは私に任せればいい」
「でも……大丈夫ですか?穂波さんは……」
 ちらりとベッドの方を窺う。
 床に寝かされていると、ベッド上の穂波の姿は窺えない。
「こいつがインフルエンザでくたばるようなたまか?たとえ、肺炎を起こしても自力で復活するさ。だいたいこいつがそういう憂き目にあうとしたら、それは性病によって体がぼろぼろになるからだ、と思っているんだがね」
 その言葉に反論できない。思わず頷きかけて、緑山は呆然と佐伯を見つめた。
 この人はそこまで幸人さんを知っているのか?
 不審は顔に出てしまったらしい。
「こいつとは結構つきあい長いからな。それにそういうことを隠すような奴ではないし」
「……おい……変なことを敬吾に吹き込むな」
 苦虫をかみつぶした……という比喩がこれ以上はないというくらいにしっくりくる声音がベッドの上から聞こえてくる。
「変なこととは心外な。すべて事実しか私は伝えておらんが」
「この……やぶ医者が」
 毒々しげに呟かれた声が聞こえたとたん、ぱこんと軽快な音が鳴り響いた。
「う〜」
 地の底から聞こえるような唸り声が漏れている。
「患者はおとなしく医者に従え」
 その高飛車な言い方といい、どちらかというと乱暴な態度。
 それは先日会ったばかりの増山とは全く違うタイプで、だからこそ余計に彼と比較してしまう。
 だが、穂波には彼のような医者でないとなかなか言うことをきかないだろう。
 まして……少なくとも顔は好みではないはずだし……。
「あんたを呼んだのが間違いだった……」
「よく言う。他にここまで来てやるような医者なんかこの辺にはいないぞ」
 何を言っても返される。
 結局穂波は押し黙ってしまった。
「薬は用意してきた。これでも飲んでさっさと寝ていろ。それが一番だ。だがな、緑山さんに甘えるんじゃない。彼だって今が一番大切なときだ。ゆっくり体を休めておかないと、今は免疫力が落ちているはずだからな。治りかけっていうのは肝心なんだ」
 それを言われて穂波は反論すらできない。
 すでに散々病み上がりの緑山を責めさいなんでいるのだ。
 まあ、今更……とは思っているかもしれないが。
 その言葉……できれば東京で聞かせて欲しかった……。
 緑山とて、布団の中でこっそりとため息をつく。
「しかし……そうなると食事やらなにやら困るんだが?」
 思った以上に体が怠い穂波から、珍しく弱きの発言が出る。
 だが、佐伯はそれを一蹴した。
「ああ、替わりをよこしてやる。それで我慢しろ?」
「替わり?看護婦か?」
「冗談。お前一人のために誰が大事な看護婦をよこしてやるものか。だいたいそんなことをしたらお前に喰われてしまう」
「……そんな人を無節操な人間みたいに言うな……」
「お前……看護婦好きだろ」
 じろりと向けられた佐伯の視線は、情けない声で返される。
「それとこれとは……」
 好きなんだ……。
 反論すらできない穂波には呆れてものも言えない。
「まあ、ちゃんと世話してくれるような奴にしてやるから」
「佐伯さん……」
「だから、これ飲んだら寝てろ」
 差し出された薬を穂波がおとなしく飲んだらしい。
 佐伯が満足げに頷くと、今度は緑山の傍にやってきた。
「君はとにかく寝なさい。ひどく疲れているようだから。彼が何を言ってきても無視すればいいからね」
「……ありがとうございます」
 どう対処していいか判らないタイプ。
 緑山は、とりあえず礼を言った。
「それと、鍵は借りていくから。世話をする奴に渡しておく」
「……はあ」
 いいんだろうか……。
 ちらりとベッドの方に窺うと、ベッドの端まで移動してきた穂波がじっと様子を窺っている。
 それがあまりにも情けなくてくすりと笑みがこぼれる。
「それじゃ」
 ぽんと緑山の頭を軽く叩く。
 それはひどく優しげで緑山を安心させるものだった。
「あっ……」
 立ち上がりかけた佐伯が何かを思い出したかのように再び緑山の横にしゃがみこんだ。
 体をかがめ、耳元で囁きかけられる。
「あいつは性欲に関しては無節操だが、たいてい本気ではなかった。だから相手が病気になっても看病なんてするような奴じゃなかった。それなのに君だけは看病したらしいな。しかもうつったからといって後悔はしていないようだし……君はあいつにとって特別なんだな」
「あの……」
 慌てて反論しようとした緑山に佐伯はにっこりと笑いかけた。
「だが、相変わらずのようでもあるし、困ったことがあるならいつでも相談しなさい。私はこれでも彼の弱点をいろいろと知っているんだよ」
 ぎゅっと握りしめられた手の中に、何かが滑り込んでいる。
 その手を、布団の中に押し込んでから佐伯は立ち上がった。
「とりあえず、今日は寝てること。明日になったら世話役寄越すからな」
「いらんっ!」
「お前のためじゃない。お前のせいで無理をしそうな緑山さんのためだよ」
「ぐっ……」
 反論できなくて悶え苦しんでいる穂波を一瞥した佐伯は、緑山には笑いかけて部屋を出て行った。
「くそっ」
 ぱたりと転がっていったのか、穂波の姿が視界から消える。
 それを確認してから手の中の物を見てみた。
 それは、佐伯の名刺だった。
 電話番号どころが携帯番号、さてはEメールアドレスまで入っている。
 肝心の病院名などは裏に入っていた。
 プライベート用なのだろう。
 それを渡してくれた魂胆はどこにあるのだろう……。
 それは……判らないけれど、緑山は穂波に気づかれないように、トイレに行くついでにそれをそっと隠し込んだ。

 
 次の日。
 やってきた世話人は、開口一番に穂波に言った。
「ま、楽しくやろうじゃないか」
「加古川……さん……」
 苦々しそうに漏らした言葉は、穂波の心情を完璧に表していた。
 どうやら来て欲しくない相手らしい。
 その彼が緑山を見てにこりと微笑む。
「佐伯さんから話は聞いているからね」
「はい。あのあなたは?」
「私は加古川竜一。穂波さんは私の会社と取引している人でね。昔から接待ゴルフでは世話になっているんだ。佐伯さんとは共通の知り合い。大事なゴルフ仲間が倒れたとあっては看病しないわけにはいかないだろう?」
「うつりますよ……」
 穂波の言葉が丁寧だ。
 私の会社……ということは社長か何か?
 背筋がぴんと伸びて威風堂々としている彼は、年も40代〜50代位に見える。
 しかも接待をしなくてはならない相手……?
 そんな相手を一夜の相手にはしないだろう。ある意味、穂波の攻撃範囲から外れている男。
 ある意味、緑山はほっとして彼を迎え入れていた。
「私は病気で倒れるほど暇ではないので、インフルエンザの予防くらいしている。君も迂闊だったね」
 完璧……。
 手玉に取られている穂波は、熱のせいで対処のしようもないのだろう。
「さて……これでも簡単な物くらい作れるぞ。まずはおかゆだな」
 腕まくりしながら台所に向かう加古川の後を慌てて追いかける。
「手伝います」
「いや、君は働かすなと言われているんだが」
「でもじっとしていると退屈なんです。だから動いている方が気が紛れますから」
「そうか……なら」
 そうして、食事ができるまで加古川は佐伯と穂波の極秘話をいろいろと聞かせてくれたのだった。

 さらに次の日、すっかり元気になった穂波が丁寧な礼とともに加古川を追い出すと、会社帰りに様子を見に来た緑山に向かって言い放った。
「いいか、あの二人の言うことになんかに耳を貸すな」
 貸すなと言われても……。
 とりあえず頷きながらそれでも心の中では笑っている。
 今まで穂波が相手にとった態度とか。
 すっかり疎遠になったとぼやいている過去の相手達のうわさ話とか。
 穂波が二人につい零してしまったのろけ話とか……。
 それらをすべて否定するには、緑山も心当たりがあったりして……。
「でも、良くなったのは彼らのお陰ですよ」
「ふん、この位すぐ治っていたさ」
 まだ少し顔色が悪い穂波だったが、その態度といい言動といいまずは復活しているらしい。
「……まあ、とにかく今日一晩休んで明日は会社でしょ。それじゃ、俺は帰りますね」
 ……素っ気なくされるとあいつは結構落ち込んだりするんだぞ。乱暴な行為は、それを必死で隠しているのさ。
「おい、このまま帰れるなんて思わないだろ」
 ぐいっと引っ張られ、その腕の中に抱き込まれる。
「滝本さんが……」
 ぽつりとなんでもないように緑山が零した言葉に、穂波の動きがぴたりと止まる。
 この場合の滝本は、穂波の部下の滝本恵の方だ。
「今日メールをくれまして……」
「何だ?」
 訝しげに寄せられた眉と目元を見上げながら、くっと喉を鳴らす。
「明日はとても大事なお客様と約束があるようで、必ず会社に出てくるように、と伝えて欲しい……と」
 それには穂波の顔色が変わった。
 緑山から手を離し、慌ててビジネスバックから手帳を取り出す。
 それをぱらぱらとめくっていた手がぴたっと止まった。
「……明日は、加古川電子?」
 唸るように絞り出された名前は、緑山の名刺入れに新しく入ったばかりの名刺に書かれた会社名。
「あの加古川さんの?」
 渡された名刺を見れば、明らかにあの人は社長だった。
「あのヤローーッ!接待込みの会議じゃねーか。こっちの事情判ってんならキャンセルしろよっ!」
 ……無理だ。
 昨日一日一緒にいて感じたのは、何かにつけ面白いことを探し出そうとするスタンス。
 その彼が、幸人さんの接待をキャンセルするはずがない。
 反論も逆らうこともできない穂波を、じっくりと心おきなくいじめることができる場を。
「ということで、今晩ゆっくり休んで鋭気をやしなっておかないと……対抗できないと思いますが?」
 平静を保っていったはずだった。
「何を笑っている?」
 不機嫌そのものの穂波の声色に緑山の目がすうっと細められた。
 笑ったつもりはなかったんだが……。
 だが気がつけば、口元が綻んでいる。
 慌てて引き締めた口元は今更ながらで、穂波の瞳に宿った剣呑な光に緑山はじりっと後ずさった。
「人の不幸を面白がる奴はそれ相応の報いを受けるとは思わんか?」
 口調に静かな怒りを感じ、慌てて首を振る。
「そうか?だが、俺としてはこのままおとなしくお前を帰す気は毛頭ないぞ」
 じりじりと後ずさる緑山の肩をがしりと捕まえて、にっこりと微笑んでいる。
 ぞくりと走る悪寒に、緑山の体は小さく震えた。
 それが余計に穂波の嗜虐心を煽ったようで、ますます楽しそうにその手に力を込めてくる。
「……痛い……」
 振り払おうにもそれをさせない雰囲気がある。
 下手に逆らえばどうなることか……。
 上目遣いに窺えば、ばっちりと穂波と視線が合った。
「まあ……敬吾の言うことにも一理ある」
 ぽつりと言った言葉の内容は歓迎できるのであったが、その口調から不安は消せない。
「だが、俺も言いかげん欲求不満だ。だから一発はやらせろ」
 言葉とともにぐいっと引き寄せられた。
 噛みつくように激しいキスは、ぶつかったとたんに歯が当たって音を立てる。
 それを痛いと思うまもなく、舌が入ってきた。
 ぐっと引き寄せられた腰が穂波にすり寄せられるようになり、相手の塊をまともに感じてしまう。
 すでに猛っているそれは、穂波の欲情を表していて……。
 もう逃れる術はなかった。
「あ…ゆきとさん」
 僅かに離された瞬間に訴えるように呼びかける。
 だが、それは上ずっていて、穂波の欲情をさらに煽る。
「一回だけだ」
 小さく囁くその声に、緑山は「そんなこと、できるのか?」と、問いかけたかったが……。
「ん……」
 喉から漏れたのは、甘い喘ぎ声だった。


 結局一回で終わろうはずがなく。
 緑山は黄色く見える朝の太陽を恨めしげに見つめながら、昨日よりはるかに病み上がりに見えるその体で会社に行くはめになってしまった。
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