リオ・チームで一番クールな男ビルは、ある日人誰にも言えない事に気が付いた。そのことに苦悩するビルの新しい任務の辞令は、第二艦隊パラス・アテナへの一時出向。そこで出会った不遜な男対ビル。ビルは自分の悩みを吹き飛ばすことができるのだろうか。

Mission.A
 しっとりと吸い付くような肌だった。
 柔らかすぎもせず、されど硬すぎもしない。
 なめらかな樹木の肌のような、適度な湿り気と暖かみがひどく心地よい。
「あ、……はぁ……」
 耳元で吐息とともに零れた声に、体の芯が震える。
 どくんと心臓が跳ね、総毛立つ感触に腕に力が籠もった。
「んっ」
 包み込まれる。
 何よりも敏感に快楽を味わう場所が、熱く柔らかな肉壁に包まれていた。
 誘い込まれるように奥深くに入っていく。
 決して短小などとは人に言わせない適度なサイズの陰茎を完全に飲み込み、慎ましやかなはずの場所がしとどに濡れてひくついていた。
 奥深くに収まったそれでざわめく肉壁を楽しみながら、ほっと息を衝く。
「あ、あぁぁ」
 彼もまた、わずかに強ばっていた体から力を抜いて、ゆっくりと息を吐き出していた。
 汗が伝う肌。
 たくましい体だ。
 適度な筋肉で覆われている彼が、どんなに優秀な戦士であるか、知っている。
 自分よりもはるかに強く、そして機敏な彼。だが、今は組み伏せられ、わずかな突き上げにもあえかな声を上げて身悶えていた。
 可愛く愛おしい相手の痴態に、私の心は躍っていた。
 もう何度も味わった体の快楽のツボを間違えることなどしない。
「や、あっ……、そこ、じゃ、なくて……」
 涙に濡れた瞳が、堪えきれない情欲を浮かべてくる。
 ワザとずらした突き上げに、彼が手を差し出して乞うてきて。
「どうして欲しいんだい? 言ってくれないと判らないなあ」
 それなのに、焦らして、焦らして。
 自分の好みに開発した体を責め苛む。
「あんぅ、もっと……もっと奥ぅ……」
 耳に馴染む甘いお強請り。
 縋り付く強い力は、肌に痛みすら与えるのに、そんなことも気にならない。
「突いて欲しい?」
 問えば、こくこくと勢いよく頷かれた。
「ほし……、もっと、欲しいよおっ」
「っ!」
 涙声に体の奥が弾けかけた。
 くうっと奥歯を噛みしめて、かろうじて堪えて。
「達きたいなら、自分で動いてごらん」
 過酷な我慢を自分に強いながら、相手をなぶる。
「あ、ぁ……やぁ……」
 だって、誰よりも可愛いから。
 嫌がりながらも、ゆっくりと動く腰。
 真っ赤に肌を染めて、けれどどこか陶然とした焦点の合っていない瞳。
 そんな姿をもっともっと見たくて。
 けど。
「ねえ、動いて……ねえ、動いて」
 再度のお強請りに、理性は吹っ飛んだ。
「ああ、動いてやる。いくらでも、狂わせてやるよっ、キイ」
「あ、あぁぁ、ボブぅっ!」

 ──。
 な……に……?

「ん、あんっ、ボブ、ボブ……好き、あぁボブ」
「ああ、俺もだ。俺も……愛しているキイ」
 ボブ……?
 
 目の前で、みだらに顔を歪めている彼。
 キイと呼ぶ、彼を、私は知っている。
 キイチ。仲間。大切な愛おしい。けれど、仲間。
「ボブ、ああ、もっと——もっとぉ」

 それは私の名ではない。
 なのに。
「キイ……達こうっ、一緒に」

 甘ったるい睦言をキイチの耳に吹き込むのは自分。
 
「ん、ボブ……一緒に」
 
 嬉しそうに微笑むキイチの瞳に映っているのも自分。
 けれど。
「う、うぅぅっ」
 快楽が全身を駆けめぐる。
 びくびくと震える腰を懇親の力を込めてキイチの腰に押しつけて。
 一滴も漏らすまいと、彼の奥深くに放出する。
 その妙なる快感。
 硬直した体が、ふわふわとした浮遊感とともに弛緩する。
「キイ……」
 ほおっと大きく息を衝いて名を呼んで。
 幸せに目を閉じた、その時。
 ビルは、薄闇の中で目を見開いた。

 

 重苦しいため息を、長々とベッドの上に落とした。
 汗だくになった体から脱ぎ捨てられたパジャマと下着が、床の上で丸まっていた。その横に、ティッシュがいくつも転がっていた。
 上掛けだけを肌にまとった体は、気化熱によってひんやりと冷えてきている。
 けれど、立てた膝に肘を突いて頭を支えたビルは、それ以上何をする気もなく、ただ俯いて、自己嫌悪の嵐の中にいた。
「くそっ」
 小さく零される悪態が宙に消える。
 電気を点けるわずかな余裕すらも今のビルには無い。
 ただ、ただ、忘れることもできない鮮明な夢とは言えないそれを、頭から追い払うことだけに必死だった。
 しかし、それがどんなに労力を費やしても無駄なことも知っていた。
 今まで何度もあったことだ。
 あのとき、キイチに呼ばれていたボブとは、ビルの弟のことだ。その男の、今まさに経験している快楽が夢となって流れ込んだだけのこと。
 一卵性双生児であり、結合双生児として生まれた自分たちの特異な力だ。
 無意識化——特に睡眠時に流れ込む相手の昂揚した意識は、夢となって、あたかも自分が経験したかのような臨場感を持って、体験させてくれるのだ。今まさに相手が何をしているかを。
 まるで神経はまだ繋がってるのだと思わせるほどに、はっきりとした快感がビルの体を襲う。
「あいつは……」
 ねっとりとまとわりつくよどんだ空気。
 暑苦しさに頭を振り、流れる汗を振り払う。
 どうして伝わるのが、セックスなのだろう?
 しかも、ボブの下半身は節操なしで、回数的にもかなりのものだった。しかも、相手も数知れず。
 ボブがとっかえひっかえするせいで、ビルは付き合ってもいない女性達の裸や抱かれる癖までも全て知っていた。
 それも落ち着いた——と思っていたのに。
「はあああ……よりによって、キイチの時にまで……」
 晴れて結ばれた恋人同士。
 ボブと、同じチームで警備兵として所属しているキイチ。
 実家にいた頃、一時期隣に住んでいたというが、その記憶はビルには無い。
 だが、それでも年下の元気な少年は、たとえ体格が立派でもビルにとっては可愛い後輩。決して、抱きたい相手ではない。
 なのに。
「まさか、キイチの時にまで」
 ビルの喉が震える。
 ボブがキイチと結ばれたときには、これであの節操なしも落ち着くかと思った。事実それは、間違っていはなかった。
 ついでに、意識の流入も止まっていたのだ。
 だから、安心していたのに。
 だが、油断していたビルを襲ったそれは、今までよりはるかに濃厚で、淫猥で。
 狂おしいほどの快感を伴っていた。
 
 
 どくん。
「くっ」
 上掛けの布地がわずかに先端を擦った。
 それだけで、身の内が震える。
 下肢の付け根のさらに奥。
 下腹部の奥深くが酷く疼く。
 思わず掻き抱いた肌が、ざわりとざわめいた。
 一度達ったはずだった。
 流入したときは、ほとんどの場合射精によって覚醒するのだ。
 覚醒してしまうと、事務的な自慰をやった後と一緒で、やるせない感情しか残らない。
 なのに。
「あ、はあっ……」
 今日は、まだ終わらなかった。
 意識がある以上、ボブからの流入があるはずはないのに。
 体が熱かった。
 狂おしいほどに、誰かを欲した。
 包んで、擦って。
 抱き締めて。
「あ、……はあっ……くぅ」
 じゅくじゅくと濡れた音が淫猥に響く。
 荒い息を繰り返し、熱をはき出す口元がうつろに開けられ、舌を覗かせていた。
「んあっ……こんな……の……」
 おかしいのに。
 普段は、一度達けば十分なのに。
 枯れ果ててんじゃないのか、とボブに揶揄されるほど淡泊な自分が、こんなにも熱い。
 けれど、ほんとに欲しい。
 ぶるりと大きく震えて吐精して。
 悪寒に体を掻き抱く。
 寒かった。
 荒く息を吐き、溢れ出る熱で汗まみれになっているというのに。
 けれど、寒い。
 一人でいることが溜まらなく寂しくて、寒かった。誰かに。誰でも良い。誰かそばに来て欲しい。
 さっき見たキイチの嬉しそうな表情が、意識を支配する。
 普段見せない淫猥な表情。
 あられもない格好を見せて、ボブに縋り付いて。
 それほどまでに信頼して愛して。
 あんなにもボブに愛されて——キイチのように、ボブに愛されたかった。
 好きだと言われたかった。
「——バカな」
 思わず呟いた言葉に力が無かった。横に振る首の動きも弱い。
 ポフに愛されたい?
 あの、傍若無人で無節操なあいつに? 弟に?
 信じられなかった。
 そんなバカな、と論理的思考を得意とする脳の回路があざ笑う。
 けれど。
 今まで感じたことのない寂寥感は、確かにここにある。胸の奥深く、きりきりとした痛みすらそこにあった。
 寂しくて、寒くて。
 今までずっと傍らにあった何かからいきなり切り離されたように不安定で——。
「あ……まさか……」
 ひくりと喉が震えた。
「そうか……ボブがいなくなったってことか……」
 生まれたとき、二人は一つだった。
 すぐに離されたけれど、見えないところでずっと繋がっていたのだ。
 兄と弟としてではなく、自分にないものを持っている相手として、陽気な弟はいつも眩しい存在だった。長じて、節操なしな要素には悩まされたけれど。
 振りまく笑顔は、いつだって心からの物だ。
 そんなボブが実のところ気に入っていて、呆れて文句を言いつつも決して離れようとは思わなかった。
 それはただ単に兄弟愛の一つなのだと思っていたのだけど。
「く、くくっ、バカだ……こんなこと……、バカなこと……」
 けれど、自覚したそれは、どんなに否定しようとしてもしきれるものではなかった。
 もとより、何一つ間違いではないのだから。
 だがボブは自分で寄り添う相手を見つけた。
 愛して、愛される相手。そこにビルが入る余地は無い。
 だから寂しい。
 だから、辛い。
 その感情がもたらす事実を、ビルは否定できなかった。
 ただ、力だけは残っているようだけど。それも自覚したビルに残酷な事実を突きつけるだけ。
「こんな……こと……」
 寂しい。
 寒い。
 震えて、温もりを求め焦がれて。
 頬を伝う滴を指先で拭い、呆然とそれを見つめた。
 ここ最近、たとえ知り合いが戦死したとしても泣いたことなど無かった。人がいなくなって——それだけだった。
 なのに、ボブはいつだって傍らにいるはずなのに、こみあげる寂しさはその比ではなかった。
 止められない。
 そんな自分が情けない、けれど。今だけは、そんな自分を許したかった。
 信じられないほどに弱い心を、今だけはさらけ出す。
 こんなにも誰かにそばにいて慰めて欲しいと思ったことはなかった。けれど、今のビルにはそんな相手は誰もいなくて。
 その自覚が、さらに涙を溢れさせ、悲壮な決意を生み出す。
 自ら誰かを求めることなどできない性分だと知っているから、この先寄り添える相手など見つかるはずもない。
 まして、他人に涙を見せることなど、できようはずもなかった。
 だったら、この先一人で生きていくしかないのだ。
 ボブを失ったその空間を、自ら埋めて。
 強さを保ち、生き続ける。
 けれど、今だけは。
 もう二度とこんな情けない姿を晒すことなどないように、今だけは、と、涙を流し続けた。


Mission.B

「パラス・アテナ、にですか?」
 工作艦カベイロス所属、リオ・チームの一員であるビル——ウィルバート・グレイス少尉が、訝しげな声を目の前の上官に向けたのは、その日の勤務が始まる前のことだった。
 あまりに早い時間で、未だチーム指令官であるリオ・カケイ大佐は来ていない。
 いつも早いはずの参謀副官のダテ中尉もまだなのだから、二人揃って当分は来ないだろうと、ほくそ笑んだ直後のこと。
 実質的な責任者とも言える、事務副官グリームベル中佐の言葉に、ビルは緩んだ口元を引き締めた。
「そう。年にテミスのメンテに参加してみたくはないかね?」
 その言葉に、ビルの目が見開かれる。
「テミス……、テミスのメンテナンスに? 私がですか?」
 寝耳に水の話に、ビルの眉間に深くシワが刻まれた。
 グリームベルがそんな冗談を言うはずもない。けれど、その話は信じられるものではなかった。
 何しろ、テミスと言えば、アテナの要だ。
 その名はオリンポスの人間なら誰でも知っている。幼子がオリンポスの仕組みを最初に学ぶときに、各艦隊の事は必然として出てくるが、その時同時に教えられる存在でもあるのだ。その第二艦隊プロノイア・アテナの基幹コンピューターである『テミス』の名は。
『テミスを支配できる者は、オリンポスをも支配可能』
 その比喩は、あながち嘘ではない。
 そのテミスの一年に一度のメンテナンス。
 と言っても、オリンポスの最先端技術で常に進化し続けるテミスは、通常は自動修復システムにより、人為的なメンテナンスなど必要ない。ただ年に一回だけ、技術者の形式的なメンテナンスが行われる。その、通常は選抜された技術者によるその作業に、こんな離れた工作艦の乗員が選ばれることなどまず無い。
 ビルとて、もともとの専門は電子頭脳、それも生体の神経細胞と電子頭脳のシステムとの融合を研究していた人間だ。テミスには並々ならぬ興味を持っていたけれど。
「本当に?」
 信じられないと言葉を続けたビルに、「本当だ」とグリームベルが頷く。
「なんでも君が昔書いた論文を今回のメンテナンスを指揮する人間が見つけて、カケイ少将に進言したらしい」
「……カケイ少将?」
 その名を理解した途端、何とも言いようのない感情が脳内を駆け巡った。
 真実であるという確信が高まったにもかかわらず、何か裏があるかもという疑惑。
 だが、こんな大事な事柄にまで、企てをするか? という疑問に、彼ならば、という納得できる答え。
 駆け巡るそれらに、ビルは思わず眉間に指を当てた。
 頭痛が……。
 脳細胞が労働過多だと悲鳴を上げる。
「まあ、一応正式な令状ではあるけどね」
 グリームベルが曖昧な笑みとともに、アテナ司令部の象徴が記された用紙が手渡してきた。
「そのようですね」
 招集時間と場所。
 単なる企てとしては凝りすぎている。というより、さすがに個人的な企てではここまでしないだろう。
 リオの異父弟であるケイン・カケイ少将は、リオをからかうことを娯楽としていて、ビル達もうっかりとすると巻き込まれていることは多々あるのだが……。
 それでも、彼が基本的には職務に忠実な人間だということは知っている。
 彼とてアテナの次期副官候補。優秀な隊員であることは変わりない。
「一週間後ですか? こちらの仕事は……」
「問題ないよ。大きな修理も片が付いているし、新しい装置・設備の稼働も順調だ」
「そうですか」
 軽く頷いて、再度手元の招集令状に視線を落とした。
 鮮やかな緋色の象徴と、流れる直筆のサイン。
 リオとよく似たそのサインの上に、呼び出した担当者の名があった。
「この方は?」
「ん?」
「この、K.ゼルメス……准将、という方です。私の記憶にはないようですが」
「ゼルメス准将……、ああ、先だっての辞令で、統合作戦本部付きになった人じゃないかな? まだ若いが、優秀な人らしいよ。戦略指揮室でもトップクラスだったらしい」
「戦略指揮室出身で統合作戦本部付き……というと、アテナの中枢部の一人と言うことですか?」
 統合作戦本部はオリンポス全体の参謀本部を兼ねるパラス・アテナの中でも特に優れた戦略家達を集めた機関だ。
 パラス・アテナの人間にとって望むべく最高峰の機関。
 ある意味、オリンポスの頭脳だと言っても過言ではないだろう。
 そこの人間が……。
「この方が、私の論文を見つけてくださったのですか?」
「そう聞いているよ」
「そうですか」
 どんな人間なのだろう?
 不意に沸いた好奇心に、口元が緩む。
 はるか昔に書いた論文に目を止めた人。
 そのお陰で、テミスのメンテナンスに関われるかもしれないとなると、感謝してもしきれないほどだ。
 ケインの名だけでは、信用できなかった令状が、ここにいたって信憑性が増してきた。
「一週間あれば、こちらの残っていた仕事も片が付くだろう? ついでに、そうだな一ヶ月分前倒しで処理しといてくれると助かるんだが?」
 令状の細かな内容を黙読していたビルに、不意にグリームベルが話しかけた。
「は、はい」
 もちろんそのつもりだったけれど。
「え、しかし一ヶ月分とは?」
 メンテナンスは一週間もあれば事足りるはずだ。
 なのに?
 と、視線を向けると、見上げたグリームベルのそれとかち合う。
 知らずごくりと息を飲むほどに真剣な瞳だった。
「残りは休暇だよ」
「……休暇、ですか?」
「最近、顔色が悪いよ。君の感情表現が豊かでないことはいつものことだが、ここ数日はほとんど笑いもしないだろう? それに覇気も感じられない。ここで、テミスの神秘を目の当たりにして、その後はゆっくりと骨休みして、鋭気を蓄えて欲しいんだよ」
「そんなことは……」
「二週間ほど前からだよ。ため息が増えている。それに、睡眠不足なのか、目が赤いこともあるしね。良いから、ゆっくりと休んできなさい」
 再び向けられた笑みはいつものもの。
 けれど、その声音には逆らえない強いものがあった。
 それに『二週間』という言葉がビルに二の句を告げさせなかったのだ。
 思い出すと、顔が歪む。
 ずっとあると信じていたものがなくなったあの日。
 隠し切れていたと思っていた動揺は、こんなにも簡単に見破られていて。
 ボブとの決別は、自身が保てないほどに、激しいものだったのだと今更気が付いた。
「精神の疲労は、上手に発散させないとすぐに溜まる。ダテちゃんみたいに、胃をやられる前に、治してきてほしいんだよ。幸い旗艦ともなれば、娯楽施設はカベイロスの比ではないしね。きっと君にも楽しめると思うよ」
「……はい」
 その言葉だけで、気づかないうちに凝り固まっていた心が、ふわりと解れたような気がした。
「ああ。この件はまだリオには話はしていないが。まあ言っても、『暴れてこい』だのなんだのと言われるのがおちだろうけどね」
「それがリオの激励ですからね」
 くすくすと口元は笑おうとするのに。
 なぜか鼻の奥がやたらに熱くなる。
 グリームベルが気が付いているのだ。あの何事にも無頓着に見えて、その実、何事にも見落とさないリオが気づいていないはずがなかった。
 胸の奥で熱い塊がこみ上げてくる。それを奥歯を噛みしめることで耐える。
 視線を動かして、まだ来ない上司の席を見やる。
 もう少しずつ人が集まってきている執務室に、隣の席とともに未だ空席のそこ。
 もしかすると今日は、このまま来ないかもしれない。
 それでも、誰も呼びにはいかないのが、暗黙の了解だった。
「え、何? ビル、テミスのメンテに参加すんのかよっ!」
 このチームに配属されて良かった、と感慨深げに執務室のメンバーを見やっていたら、元気な声とともに、手元の令状を奪われた。
「ボブ……シワにするなよ」
 あのアテナの司令部からの令状なんだぞ。
 続けようとした言葉は、馬の耳に念仏だとごくりと飲み込む。代わりに、深いため息を落とした。
「パラス・アテナに行けるんだよな。いいなあ」
「……」
「確かあそこにはすっげえ美人のお姉ちゃんがいるパブがあるって。一度行ってみたいんだよなあ」
「……おまえは……」
 後ろで睨むキイチに気づいているだろうに。
 嬉々としてどこぞのお姉ちゃんがどんなに美人で愛想が良いかを力説する双子の弟に、ビルは怒りを通り越して脱力としていた。
 何より、なぜ自分がこんな男に翻弄されなくてはならないのか、今もって理解できないのだ。
「まあ、その店以外でもお姉ちゃん達のレベルはかなりだって言うし、ビルでも相手を見つけられるんじゃねえの?」
 カラカラと笑い飛ばして、バンバンと背中を叩かれて。
 本気の殺意が生まれる。
 だが。
「いい加減にしてくださいってっ!」
 キイチがボブを制止する姿に、その怒りが急速に冷めていく。
「だって、そのうちまた良いとこでじゃまされたらどうするんだよ。ビルにも相手ができたら、俺たちの邪魔にはこねえだろ?」
「邪魔なんかしたことは無いはずだが?」
「そうですよっ——って、何、言ってんですかっ」
 真っ赤になって狼狽えるキイチに、曖昧な笑みしか返せない。
 零れそうになるため息を無理に飲み込んだときには、すでに殺意など跡形も無くなっていて、残っているのは胸の奥の鋭い痛みだけ。
 こんな男——と思うのに、どうしてこんなにも胸が痛くなるのだろう。
「おまえとは、確かに全く同じ遺伝子構造だろうけど……」
 恋人とじゃれ合って、もうビルには見向きもしないボブをちらりと見やって、結局我慢しきれずにため息を落とす。
 確かに姿形は同じだろうけれど、根本的な何かが自分たちは違う。
「脳の構造が違うのか、精神の働きが違うのか……」
 一卵性双生児といえど、結局は違う人間でしかないのだと思って。
 今までそれが幸いだと思っていたことが、なぜだか妙に辛かった。

Mission.C

 バラス・アテナで連絡船を降りた途端に、「土産、土産なっ」と、子供のような見送りの言葉を思い出して、ビルはため息を零した。
 仕事で行くのだという意識などあの男にはないのだろう。
 同じ顔で鼻の下を伸ばされて。
「これ、頼むわ」
 渡された写真に写っているのは、クリスタルガラスでできた鳳凰のペンダントだった。
 どこかで見たことがあるな、と視線で問えば、満面の笑みで返された。
「キイが持っているのとよく似ているだろう?」
 言われて思い出す。
 昔、一度だけ見たことがあった。それと似ている。
 爪の先ほどの小さなギア。ねじ。板バネ。
 摩耗しているそれらをボブはヤスリで削りだして代替品を作っていた。
『めんどくせえ……』
 などとぼやいてはいたが、その横顔に浮かんでいたのは笑み。楽しそうで、うれしそうで。その横顔に、声をかけられなかったことを思い出す。
 あの時、作業している片隅に、大事そうにタオルで包まれて置かれていたのが、クリスタル細工の鳳凰だった。
 広げられた翼と天に伸びた頭。計算され尽くした反射角の妙技が、機能優先の室内灯の灯りですら虹を作り出していた。
 その鳳凰によく似た、クリスタル細工。
 後で、隣の小さな子の物だと知った。
「それな、パラス・アテナの販売のカタログなんだけど、先日発表された新作なんだよ」
 過去に戻っていた頭が、ボブの嬉々とした言葉に現実に引き戻れる。
 落とした視線が、妙にぼやけていた。ぐっと固く眼を瞑り、開くと同時にボブに眇めた視線を送った。
「取り寄せればいいだろう?」
 嫌だった。
 面倒——だと思った。
 だいたいカタログに載っていたなら、時間はかかっても、必ず手元に届く。だからこそのカタログだと、突っ返そうとしたけれど。
「お前が帰ってくる次の週に、キイの誕生日が来るんだ。ちょうど良いだろう?」
「キイチへのプレゼントか?」
「ああ、それと俺のも。だから二つな」
「……」
 動揺が返事を遅らせた。その間に、ボブが去ってしまう。
 今のビルはボブに触れられない。腕を掴んで引き留めることができないのだ。そんなことをすれば、今のビルの思いがすべてボブに伝わってしまう。幼い頃から不便とも思わなかった力。けれど、今はそれがやっかいで仕方がない。
 笑いながら手を振るボブにしてみればビルが買ってくるだろうことは当然のこと。にこやかな笑顔が憎らしくて、感情の赴くままに、写真をポケットに突っ込んだ。
 取り出してみれば、その名残のシワが全面を覆う。
 それでも、濃紺のベルベットに置かれた鳳凰はその形をビルの眼にはっきりと映した。
 本来ならば女性の胸元を飾るもので、キイチに似合うとは思えなかったけれど。
 二つ——と言った。
 ならばこれは、あのオルゴールと同じく二人を繋ぐ絆となるもの。指輪よりはよっぽどらしい代物だ。
 あのバカみたいな陽気な態度も、未だに女性に触手が動くような言動も、結局は照れ隠しのフリなのだと、長年あの男を見ていたから判る。
 渡すときにも、笑いをとりながら渡すのだろうか? それとも——。
「ちっ」
 いらぬ想像をしていることに気が付いて、頭を振る。
 今更何を考えても、二人の間に入り込む隙間など無いのだから。
 自覚する前なら、面倒くさいとは思いつつも、買って帰っただろう。いや、今回だって結局は買って帰るのだ。捨てられない写真を忌々しげに見つめて、手の中で再度握りつぶす。
 あのボブのために。
 そういう性格が恨めしいとすら思うほどに陰鬱な気分が増してくる。
 零れるため息。
 気のせいか、頭痛がしてきて、再度小さく息を吐いて。
 さっさと挨拶をして宛がわれた部屋で休もうと、顔を上げた——その時だった。
「シェルリー・デザインのレジェンド・クリスタル・シリーズか。彼女へのプレゼント? 写真、もういらないのかい?」
 肩越しに柔らかな声。
 頬に触れるくすぐったい感触は吐息だ。
 視界の縁に、緋色の髪が揺れる。
 立ち竦むビルから、笑い声を残して密接していた気配が離れた。
「すまない。驚かせたようだね」
 声を追って、ビルの視線が動く。
 すぐ後ろ、顔が動いて、次いで体が動く。その視界に入ったのは、男。
 自分とさして変わらぬ世代だが、見たことは無い。
 いぶかしげに眼を細めるビルに、男がくすりと肩を震わせた。
 短くまとめている筈の髪が、動くたびに額で踊っている。少し黄色みがかった肌は、モンゴロイドの特徴を残していた。けれど、その他大勢の人々と同じくそのルーツが入り交じっているのも判る。緋色かと思った髪は実のところは薄い茶色。けれど照明のせいかでどこか赤みがかっていて、彼の姿をよりいっそう不思議なものにしていた。
 その中でアクアマリンの瞳がビルを映す。
 容姿端麗の極みである上官を常日頃目にしているせいで、よほど良い顔立ちでないと目を惹かれることはないのに。
「ようこそ、パラス・アテナへ」
 一分の隙もない敬礼をされて、遅れをとったことに気が付く始末。
 彼の階級と所属を示すエンブレムを見なくても、彼がこのアテナでも高位であることに気が付いていたというのにだ。
 それでも、動揺を押し隠して型どおりの敬礼を返せば、目の前の男がくつくつと笑みを零した。
 さっきから、ずっと笑われている。
 笑われる謂われなど無いと不愉快を口にしようとして、けれどエンブレム見やって、口を閉ざした。
 象徴が縫い込まれたそれは、見るものが見れば階級章を見なくても所属する部隊あるいは機関が、艦隊中枢にどれだけ近いかはすぐ判るのだ。
 彼のそれは、中枢に近い。
「カベイロスのケレイス中尉だね? コールネームはビル」
 笑みを崩さない彼がビルの名を確認する。
「はい。テミス、メンテナンスチームへの招集により……」
「ああ、良いよ、堅苦しい挨拶は。私が、そのメンテナンスチームのリーダーを務めるキャルス・ゼルメス准将だ。キャルスか、キャルでも良いからね」
「は……、あ、いえ……」
 追従しかけて、慌てた。
 コールネームで呼び合うのは慣れているが、いきなりそんなことはできないと首を振る。
「それでは失礼です」
「私が良いと言っているから、良いんだよ」
「しかし」
「……あのリオのチームのメンバーと聞いていたが、意外に固いんだね」
 笑みを深くしながら言われて、同列に見られていることに少なからず衝撃を受ける。
「……リオと……後一人は確かにどうしようもないですが……、他のメンバーはそうでもないんです」
「そうなんだ?」
「はい」
 がっくりと肩を落として、零しかけたため息を飲み込んで。
「ふうん、ま、確かにああいう人間ばっかりだと、今頃カベイロスは崩壊しているだろうしね」
 ものすごい言われようには、引きつった笑みしか返せない。
 それにしても、何でこの人がここに?
 居心地の悪さがビルをいたたまれなくしていた。笑われるのにも慣れていない。
 だが、失礼の無いように辞するにはどうしたら良いか判らない。
 気まずい思いで、思考を巡らしている、その時。
「さて、行こうか」
 頬に吐息が触れた。重くなった肩。反対側から、長い指を持つ手がビルの左肩を掴む。
 驚いて振り向けば、至近距離でにっこりと笑われて。
「……案内するよ、君の部屋」
 屈託無く言われて、言葉どころか頭の中まで真っ白になった。


 仲睦まじげに歩く二人を、通りすがりのパラス・アテナの乗員が何事かと立ち止まっては目を見開いている。
 中には、声を潜めるのも忘れて、「また准将が遊んでいるよ」と、苦笑を浮かべている人間もいた。
 その言葉に、ビルの眉間のしわが深くなる。
 まさか——と疑惑の種が芽を吹く。
 テミスのメンテナンスに選ばれた嬉しさが先に立っていたが、これにはケインが絡んでいる。
 やはり、何かの策略か——と勘ぐり始めた矢先、くすりとキャルスの肩が震えた。
「別に騙している訳ではないよ。私のスキンシップ過多は有名でね。みんな呆れているだけだから、気にしないように。君は、確かにテミスのメンテナンスチームの一員だから、安心して良いから」
「え、……あ、いえ」
 あっけなく見透かされて、ぎくりと体が震える。
 密着している状態でそれは誤魔化しようもなくて、キャルスのくすくすと零れる笑みが止まらない。
 かあっと体が熱くなる。
 恥ずかしさと動揺とこの体勢に落ち着かない。
 もとより、こんなふうにからかわれるのには慣れていないのだ。
 これがボブ相手なら、張り飛ばして終わりなのに。これがリオならば、肩を落としてあきらめるのが常。
 他の誰かなら、一笑に付した後、無視すれば良かった。
 だが、この男はどうしたら良い?
 一時的とは言え直属の上官で。
 はるかに高位で。
 しかも、悪意が感じられない。
「君の論文、私が見つけたのだよ。当時としては、着眼点がなかなか面白くてね。一度会ってみたかった」
 肩に回された腕に力が込められて。
 近い距離で、彼が笑う。
 屈託無く、明るい笑み。
 ——ボブに似ている?
 重なる昔のボブの笑み。
「テミスのメンテなど、固い人間ばっか集めても退屈だろう? だからいろいろなところから実力のある人間集めてみた。君もその一人。あのリオ・カーニバルのメンバーだってのも興味がそそられたし」
 そう言って、ビルを見やって。
「楽しくやろう、な」
 考え方まで、ボブに似ていた。
 

 先に行くキャルスが一瞬だけ足を止めた。
 ビルを覗き込んで、ぶれるほどの至近距離で口を開く。
 慣れない距離に戸惑うビルに、キャルスがさらに驚くべき事実を伝えた。
「そういえば、迎えに来たのは実は、テミスのメンテ開始が一週間後に伸ばされたってのを伝えるためもあったのだよ」
「え?」
 初耳だった。驚いたせいで足が止まりかけたほどだ。けれど、変わらぬ腕の力で促され、歩を進めるしかない。
「休暇も兼ねているのだろう? だったら、先に一週間分は先に取ると良いよ。後が二週間になってしまうがね」
「それは構いませんが、それをなぜゼルメス准将がわざわざ伝えに?」
「キャルスで良い」
 意地悪げに言うその顔。
 知らず眉間にシワが寄る。
 あの顔をリオも良くするのだ。何か企んでいる時の楽しそうな笑み。
 ビルの顔に浮かんだ警戒心を見て取って、キャルスが肩を竦めた。
「そんなに警戒しなくても良い。私が伝えに来たのは、君と同じく暇になったから。テミスのメンテのズレは、いろいろなところでスケジュールのズレを生んでね。君以外のメンバーは、連絡をつけたのだが……。君には連絡が遅れてしまって。まあ、それに私も休暇の前倒しになってしまったのでつきあってもらおうかと」
 意味ありげに言われて最後の言葉は気になったけれど、とりあえず仕事の話が先だ。
「なぜ、ズレが?」
「テミスが嫌がったから」
「え……」
 思ってもみなかった言葉に、ビルの足が止まった。
 それに合わせてキャルスの足も止まる。腕を回されたままなので、どうしようもないのだが、いい加減離してほしくてその腕を見つめた。
 けれど、その力は弱まらない。
「ユウカとシンクロして遊んでいる。それが楽しいから、しばらく待てってさ」
「それは……何を遊んでいるんですか?」
 アテナの次期司令ユウカの名。彼女のテミスとのシンクロ率は歴代随一だと聞いていた。その性格も知力も、彼女は次期司令になるべくしてなった人。
 そのユウカならば、テミスと遊ぶことも可能だろうけれど。
「テミスと一緒になって対戦しているのだよ。シミュレーションゲーム。古今東西のいろんな戦場をバーチャルエリアに再現して、指揮している。戦場だけでなく、武器やその時可能な技術力しか使えないという本当にその時の状況による戦いでね」
「技術力や武器。では、たとえば投石しかできないなら、それだけで?」
「そうだよ。こっちでは良くやるゲームだけどね。テミスとユウカの戦いは、傍目から見てても迫力有るから、一度見学すると良いよ。二人がやっている時は、マジで仕事にならないんだげとね、こっちは」
 みんなが見学にはせ参じているのだと言って。
「ちなみに、私がこの前やったのは、西暦1575年 地球の日本 織田対武田の長篠城の戦い、だ」
「ナガシノ?」
「火縄銃と呼ばれる鉄砲と騎馬隊の対決。歴史上では戦に本格的に鉄砲を取り込んだ織田軍の戦略により圧倒的勝利となったとあるが、テミスと対戦するときは、それも当然頭にある訳だからね。私が率いる武田の騎馬隊も奮戦したよ」
 にこりと笑って教えてくれるその瞳が、先と違って輝いていた。
 楽しいと言ったさっきよりも。さらに昂揚しているのだ、この人は。
「一度は鉄砲隊を突き崩したんだ。だが、さすがテミスとユウカ。伏兵を潜ませていた。本隊かと思った奴らこそが囮でね……」
 蕩々と語るキャルスの言葉は、今ひとつ理解が難しい。
 けれど止めるつもりもなくて、歩きながらキャルスは先だってのその戦略の利点・欠点、反省点までを語っていた。
 その姿に、彼もまたパラス・アテナの一員なのだと実感する。
 如何に勝つか。如何に動くか。
 知識と知恵と情報と判断力。
 それこそが重要だと彼の全身が言っていた。


「あ、ああ、すまない。私ばかりがしゃべって」
「いえ」
 言葉少なに返したが、楽しかったのも事実。自分の知らない知識は、理解は難しいが知ることは楽しい。
「まあ、そういう訳で、テミスのメンテを少しずらすことになって。このためにいろいろと予定をずらしていたのだが、ぽっかりと開いてしまって。それで一緒にどうか、と思って」
 その分、これが終わったらしばらくは地獄のような忙しさだけどね。
 浮かんだ苦笑も楽しさの一部だとその瞳が言う。
 だが。
「私と一緒に……とは」
「ん? 一緒に休暇をどうか、とね。これでも私はこのパラス・アテナのことは隅から隅まで知っているから、ガイドとしては役に立つと思うのだが。それに、一人より二人の方が楽しいだろう?」
「とんでもないです」
 慌てて首を振る。
「なぜ?」
「あなたにそんなことをさせるなんて……」
「なぜ?」
 上官であり准将でもあるキャルスにガイドなど、そんな気詰まりなこと遠慮したい。
 なのに、キャルスが、不思議そうに問いかけてくる。
「便利だぞ、私は」
「ですが……」
「ずいぶんと遠慮深いのだな。彼の部下だというから、もっと無遠慮なやつかと思ったが?」
「……ですから、全員がそうではありません。基本的には皆まじめで……」
「つられて暴走しているだけか?」
「え……まあ……」
 意味ありげな笑みに、息を飲んで。
 どきりと跳ねた心臓を落ち着かせる。
「だが、上司の暴走を止めもせずに、付いていくのはまじめとも言い難いが? 特に、彼の行動は、なかなかに突拍子も無く、しかも乱暴だ」
「それは……否定しません」
 キャルスの指摘は正しい。
 駄目だと思ってはいるけれど、リオが言うから、動くから——と。そして、それが楽しい。
 ついでに止めても無駄だと思っているから、そんなことは端からしない。
 それでは駄目だ、と思うことはあっても。
「それでも、リオが行うことは、結局は自分たちのためになると思っていますから」
「盲目的な信望——だな」
「盲目的とは思いません」
「……だろうな」
 正面を向いたキャルスの声音がわずかに低い。
 声音に苛立たしさが混じっていると思うのは気のせいだろうか?
「君たちの結束力は、確かに固いな。それがカケイ大佐への信望であるとしたら、ずいぶんと羨ましいことだ」
「……」
「カケイ大佐の元にいるヘイパイトスの次期司令候補も、同じなのだろう?」
「はい」
 それが誰かなどとは問わない。
 だが、曖昧な言い方をしたその物言いが気になった。
 何も企んではいないと言った言葉への疑惑が浮かぶ。このパラス・アテナでダテの名を出されると、どうしても警戒心を抱かずにはいられない。
 だが。
「ああ、心配はいらない」
「え……?」
「先にも言ったとおり、私達は何も企んでいないよ。少なくとも私は、この名にかけても君を裏切りはしない」
「……」
 なぜ?
 開きかけた口を噤む。それまで前方を向いていたキャルスがくるりと振り返ったからだ。肩越しの視線が、呆然と立ちすくむビルを見つめる。
 そうだ、このときまでビルを見ていなかった。
 話をしながら、ずっと前を見て歩いていたのだ。ビルのやや前を歩いている彼が横目で窺った気配もなかった。
 だが、彼は端的にビルの口にしていない疑問に答えたのだ。
 体が向き直る。
 悠然と振る舞うその仕草は、今までのふざけた態度からは想像もできないほどに、毅然としていて。
 その姿に圧倒されるかのようにビルは小さく息を吐き出した。
「あなたは……戦略指揮室から統合作戦本部付になられたのでしたね」
 先日聞いた彼の経歴を思い出した。
 何事も見過ごさない瞳が、ビルを見つめている。ビルのわずかな動き・反応から、心の奥深くまで見透かしてしまいそうな——いや、見透かしている瞳。
 キャルスは読んだのだ。
 ビルの言動から。たったそれだけの情報で振り向きもせずに、ビルの心理を見抜いた。
「なるほど、ずいぶんと読みが深くて正確です」
「まあね。——やはり君は聡いね、情報通りだ」
 掛け値なしの賞賛だったが、キャルスの声音に自嘲が浮かんでいるのに気づいて、口を噤んだ。
 それに彼がくすりと吐息で笑う。
「だが、そのお陰で人の裏を自然に読んでしまう。裏の裏を読もうとして、何もかも疑ってしまってね。悪いクセだとは思うのだが、職業病とでも言うのか……。だから、君たちのように上官を信望することなどできなかった。ある意味、羨ましいと思う」
 淡々と紡いだ言葉が、静かに響いた。
 このパラス・アテナでは地位のある、アテナの隊員なら羨望してしかるべき男。なのに、その言い方では、まるでその能力が嫌だとでも言っているようで。
「そうだね。私はこの地位に固執はしていない。思う存分、テミス相手にシミュレートできる楽しみは歓迎すべき物だが、それだけしがらみも増えるしね。それが——楽しくない」
「……」
 楽しいか楽しくないか。
 どこかで聞いた基準。
 先ほどの一瞬の神妙さはいったいどこに行ったのやら。
 ニヤリと笑う男の姿に、ちりちりと頭の奥で警告音が鳴る。
「今は?」
「ん?」
「今も楽しくないのですか?」
 答えは分かっているような気がしたけれど。
 眉間を指で押さえて聞く。
「楽しくなってきている」
 きっぱりと言い切るそれは、リオの瞳と同じ。
「……私は何のために呼ばれたのですか?」
「それはもちろん、テミスのメンテに参加してもらうためだよ」
「他には?」
 それは名目だろうと暗に問うビルに、キャルスは満足げに頷きながら返した。
「やはり君は聡いね。あのリオの下は、並大抵の技能では務まらないとは聞かされていたが」
 視線が一方へ向けられる。
 壁でしかない先は、きっとそれを教えた人——このキャルスにそんな尊敬の眼差しをさせる人間は、わずかしかいないはずだ。
「何を……企んでいるです?」
「面白いこと」
「だから……」
「いずれ判る」
 言い切られて、くるりと背を向ける。その後は、どんなに尋ねてもキャルスは何も教えてくれなかった。

Mission.D

 何も教えてくれないままに、けれど、関係ないことをずっと喋り続けていたキャルスがふと足を止めた。
 ずいぶんと移動したようだが、それでも居住エリアだろう。
 リラックスした顔つきの隊員達がそこかしこに見受けられた。ドアにつけられた看板から、店なのだと知る。
「ここが、売店だ」
 手招きされて入ったそれは、カベイロスにある売店とは全く雰囲気が違っていた。
「よお」
「おや、いらっしゃい」
 キャルスの気さくな声音に、だみ声が返ってくる。
 けれど姿が見えない。
「何でこんなに荷物が……」
 広さからして倉庫を利用しているよう見えた。だが、明るい。ひたすら明るい。
 眩しげに眇めた視線で見やれば、あっちこっちに必要以上の照明があった。しかも——。
「これは……自然光?」
 いわゆる太陽光を可能な限り再現した照明。プランテーションエリアでも無い限り使われない物だ。それが、店とはいえ倉庫状態のこの場所に据え付けられている。
「無駄なことを」
 太陽光照明は他の照明装置に比べると、格段にエネルギーを喰らう。
 だからこそのビルの言葉だった。が。
「明るくないと、正しい色が判らんないでしょ?」
 声音はだみ声。あまり良い音ではなかった。だが言葉遣いは柔らかい女性のそれ。
「え……」
 振り向いた途端にピキッと完全に硬直した。
「失礼しちゃうわよね」
「いや……当然のことだとは思うが?」
 キャルスが見上げるほどの背。立派な体格は、細身のビルからすれば、倍はあろうか。声音に合わせた立派な風貌は、凶悪犯とタメをはるほど鋭い。
 だが。
「いやあね。見た目だけで判断して欲しくないわよ」
 しなりとしたその態度。
 重そうな箱を片手に抱えて、品をつくられても——あまりにも似合わない。
「てことで、こいつがここの責任者。テリィだ」
「よろしく。そのエンブレムはカベイロスの人ね。まあ、初めてってことで、失礼な態度は許してあげるけど。それに、結構良い男。キャルスの好みばっちりじゃない?」
「だろ? 盗るなよ?」
「やだわぁ、私はもっとたくましい男が好みよ。ほら、ヘスティアのシェルマン分隊長なんか最高っ」
「そういえば、この前補給で来たんだろ? 会えたのか?」
「もっちろんっ」
 乙女のごとく両手を会わせて夢見がちな視線を空中に向ける。
 その姿に寒気がして、堪らずに視線を落とした。
 こういう性癖の者は、カベイロスにもいる。ビルにとって、他人がどんな性癖であろうと、何ら気にするつもりはなかった。
 それでも退いてしまう相手は、いる。
 このテリィのように。テリィは迫力がありすぎるのだ。
 体にぴったりフィットしたキラキラ光る素材の服と結い上げた豊かな金髪。似合わないはずなのに、なんだか似合いすぎて、怖い。
 というより、制服はどうしたんだ……?
 素朴な疑問で何とか立ち直り、それでも直視できないままにキャルスへと視線を向けた。
「ここは売店と聞きましたが、ずいぶんと荷物があるんですね?」
 微妙に視線を合わせることなく、話題も逸らした。
「ええ。この隣が店用の倉庫なんだけど、溢れちゃっているのよ。ほら、さっきも言ったとおり先日補給部隊が来て、荷物仕入れたばっかりだったの。早く片づけなきゃって思っているんだけど」
「シェルマンを追っかけているうちに時間がなくなったんだろう?」
「そうなのよお。でも、そのお陰でたくさんの新作が入っているわよ。ああ、ほら、キャルスあての荷物も」
「ああ、それだけどな。こっちを……」
 先に、と言わんばかりに押し出された。
「そうね、何をお探し?」
「え、あ……」
 ぐいっと顔を近づけられて、そのあまりに濃いメイクに圧倒される。青紫のまぶたにはキラキラと小さな星すら瞬いていた。
「その新作、例のクリスタルだよ。レジェンド・シリーズ」
「あ、あれね」
 こくんと大きく頷いたテリィが、いそいそと荷物の中に消えていった。
 その姿を呆然と見送って、はたと我に返る。
「……それ、この写真の」
「そ、それ。気に入らない買い物は、さっさと済ませた方が良いだろう?」
「気に入らないって……そんなこと」
 一言も言っていないし、思っても見なかった。
 訝しげに視線で問うビルに、キャルスが「そうか?」と返した。
「だが、降りてきた後にその写真を辛そうに見ていただろう? それに、そんなしわくちゃにしていたら、乗り気でないなんてすぐに判るが?」
「それは……」
 言われてみれば、そうかもしれない。
 キイチのためだと思えば、土産にしても良いが……これは、ボブとのお揃いなのだ。
 二人が同じ物を手にしている姿を想像した途端、ずきっと胸の奥が痛む。
 知らず眉間のシワを深くしていたビルだったが、キャルスの次の言葉で顔を跳ね上げた。
「好きな相手から恋敵へのプレゼントを頼まれたか?」
「な、にを……?」
「図星か?」
「ちが……」
「なら、恋敵から好きな相手に、って方か?」
「違う——違いますっ」
「なら、何だ? 嫌だったら断ればよいのに、断れないのだろう? だが、その表情はどう見ても誰かを想っているものだ。恋煩いって言った方が良いか? 好きな相手か何かが絡んでいるのは一目瞭然だ」
「違いますっ!」
 ずきずきと痛み続ける胸を押さえて、勢いよく首を振る。
 そんならしからぬ事をすれば、よけいに肯定しているようなものなのに。
 判ってはいるけれど止まらない。
「わ、私は……」
「好きなんだろう? そいつが?」
 抑えきれない感情のままに、きつく歪めた顔。その頬にふわりと暖かい手のひらが触れた。
「冷静な君が、そんなにも動揺するほど。近況の写真で顔は確認していたが、それより顔色が悪い。休暇の申請も、君の上司より「よろしく」と伝言付きで受けた。そのときに体調が悪いことは聞いている。だが、体の異常は無いんだろう? ただ、精神面の弱さがででいるだけなんだろう?」
 責められている訳ではない。
 それどころか、声音は優しく、触れた手のひらは暖かい。
「いい加減認めたらどうだ? 君の体調不良はそれだ。 いや、君のことだから気づいてはいるのだろう?」
「……やめ、て、ください」
「ああ、やめた方がいいのだろうな。 感情が暴走しそうなんだろう? だが、駄目だ」
 それだけは、ときっぱりと言い切って、ビルの瞳を覗き込んできた。
 その何もかも見透かす視線から逃れたくて、慌てて顔を逸らせようとしたけれど。頬に添えられた手が、それを阻む。
「一見強く見える者こそ、意外な弱さがある。幼い頃に持っている心の弱さを、外に出さないことで過ごしてきたせいで、鍛えることのないままに成長してしまった者だ。あるいは挫折せずにきたもの。どちらにせよ、そういう者は打たれ弱い。しかもそれに加えて、遠慮がちという優しさを持っていると、自分が傷ついても相手に譲ってしまう可能性も高くなる」
 ——この人は、鋭すぎる。
 冷静な分析のすべてが、当たっていると心の奥が訴えていた。
 だが、それを否定するしかできないのも自分だ。
 こんな弱さをさらすことはできない。
 だから——。
「違います……」
 唾液を飲み込んで、無理に落ち着かせて声を出す。
「本当に、違います。頼まれただけです。二つ分、面倒だと思いましたが、弟からなので……」
「弟?」
「はい。弟とその相手の分」
「そう、か。弟か」
 それは真だ。だから、はっきりと頷いた。
 だが、見つめる視線はビルから外れない。
 その真実を見通す瞳が怖くて、ビルはどうしても視線を合わせることができなかった。
 意味ありげな沈黙は息が詰まる。
 まして、キャルスはビルの態度を的確に読んでいそうで、余計にいたたまれない。
「はい、お待たせ」
 零しそうになったため息をかろうじて飲み込んだとき、テリィが荷物を抱えて戻ってきて、今度はほっと安堵の吐息が零れそうになった。
 それも慌てて飲み込んで。
 飲み込んだ吐息で、胸焼けがしそうだ。。
「いろいろあるのよね。シリーズで発売されてて」
「それの鳳凰の奴だ。あるか?」
 まだ慣れない男の物言いに答える前に、キャルスが口を挟む。
「これ?」
 出された画像の何番目か。
 指し示されたそれは、ボブに渡された写真と同じもの。
「はい、そうです。それを二つ」
「ふふっ。これ伝説の生物のクリスタル細工ってことでシリーズなんだけど、ペンダントトップやイヤリング、ピアス、ブレス、アンクレットってアクセサリーとしてもワンセット揃って。それもシリーズなのよ」
 説明しながら、次々と箱が取り出される。
「私は、ペンダントと聞いていますので……」
「では、これね。でも、他の物も捨てがたいわよ。シチュごとに使い分けるのも良いし」
 キラキラと輝くたくさんの鳳凰。
 大きさも形も微妙に違う。
 ペンダントトップに加工された物が一番大きい。が、それでも3cmにもならない。
 しかもそのサイズでも繊細な細工は見事な物で、それだけでも価値があるように見えた。
 確かに女性を飾り立てるのであれば、十分なものだろうけれど。
 ふっと飾り立てたボブの姿を想像してしまい、慌てて首を振って追い出した。
「いりません。ペンダントだけ、二つください」
「あら、残念。でも、二つ? 彼女にあげるのじゃないの……あっ、もしかして二股?」
 ぐいっと詰め寄ったテリィの瞳がきらきらと光っていた。
「違います」
「そうよねえ。あなたってそんな事はしそうにないわね。まじめそう。彼氏にするには良いけど、ちょっと退屈かも」
 そう言いつつも、ちらりと視線を向けられる。
 どう見ても秋波の込められた、その似合わない流し目。
 ぞくりと走った悪寒に、つい視線を逸らすと、今度はキャルスと視線が合った。
 楽しそうな笑み。ちらちらと手元の幾つかとビルとを見比べている。
「何か?」
「ああ、君ならこっちの方が似合うかな、と思ってね」
 いつの間にか手に持っていたクリスタルをビルの左頬に押し当てる。
 ひんやりとした刺激に、僅かに眉根が寄った。
 しかも死角に入って、見ることができない。
「あら、ほんと」
 テリィも頷く。
 思わず上げた手にそれが触れて、キャルスもビルへと手渡した。
「これは……」
 顔が歪む。
「ドラゴンよ」
 体と同じ大きさの金の剣と盾。その盾にクリスタルの前足をかけ、背には大きなやはりクリスタルの翼。
 体は盾に隠れている。
 だが、そのことに不愉快になった訳ではない。
 その形状がビルの琴線に触れたのだ。
「双頭……」
 ——二つの……頭。
 互いが互いの顔を見つめるように向き合っている、それはビルにとって意味がある形だ。
 ちらりと目の前のキャルスを窺えば、相変わらず喰えない笑顔で返された。
 この男は知っている。
 自分たちが結合双生児であることは、オリンポスでは隠すほどの物ではない。ましてそれを恥じるつもりも無い。
 だから過去の情報を辿れば難なく追いつく。だが、それを知って、これを選んだのだとしたら、
「悪趣味だ……」
 呟いた言葉は、確実にここにいる人には聞こえたはずなのに。
「似合う」
 見せられた鏡の中で、金の髪の傍らで、クリスタルが金を映していた。
 いまだかつてアクセサリーなど身につけたことのないビルにとって、その姿はふざけた時のボブでしかない。
 一見違う姿。
 誰も見間違いようにないビルとボブだが、こうしてみるとやはり同じDNAなのだと思わせる一瞬だ。相似形の顔が、そこにある。
 胸の奥でざわりと感情が動く。
 それは、名前のつけようのないもので、ビルの心に波を立てる。
 押し込めて忘れようとしているのに。
 彼は他人なのだ、だから違う人生を歩んで当然なのだ。と、気持ちを落ち着かせようとしていたことを、鏡の中のボブが嗤う。
 口の端を歪めた、ビルそっくりの笑みで。
 俺を諦められるのか、と。
 そしてビルは、その言葉を、否定できない。
 歪む顔。
 そのことが、自分を取り戻させる。
 ボブはこんな顔をしない。何事にもポジティブだから、辛いことも難しいことがあっても、あっという間に乗り越えるのだから。
 こんなふうに思い悩むのは、いつもビルだけだった。
 そのこともビルを追いつめる。
 鏡から視線を外し、視線を靴先に落とした。胸の奥底から吐息とともに熱く澱んだ塊を吐き出す。
 押しつけられたアクセサリーは、腕で軽く払った。
「私はアクセサリーはつけません」
 きっぱりと言い切る。だが、キャルスはどこ吹く風と言った体だった。
「そうか?」
「え?」
 ずいぶんと近い声音に顔を上げれば、先より近くなった距離があった。堪らずに仰け反った背が、カウンターに当たった。
「それは、二つに分かれるのよ」
 言葉とともに、生暖かい空気が耳朶に触れた。ぞくりと全身が震える。
 慌てて振り向いて離れようとした体は、けれど、キャルスよりさらに接近していたテリィの腕が体を押さえつけていて。
「ほら、見て」
 つられて動いた視線の先で、無骨な指が器用に動いて。
 かちり。
 ごくごく小さな音。
 その音ともに、盾から剣が抜かれる。同時に、双頭が左右に分かれていく。
「え……」
 思わず凝らした視界の中で、向き合った竜がそれぞれに盾と剣を持って、ビルの目の前で揺れていた。
 盾の影にもう一つの体が巧みに隠されていたのだ。
「こうやって一つずつ、恋人と分け合って持つのよ。レジェンドシリーズの中でも、こんな細工になっているのはドラゴンだけなの、素敵でしょう?」
「うまくできているだろう?」
 二頭のドラゴンが、再びキャルスの手に戻る。
 鎖も、撚りを戻せば、二本の鎖に分かれるようになっていた。
 そのドラゴン達がキャルスの手の中で再び一つになる。その片方から出ているチェーンを、キャルスは自分の首につけた。
 ぶら下がるもう一方のチェーン。
 それが自分の首にかけられるようとしているのに気づき、慌てて後ずさる。
「何をっ」
「ああ、動くと外れる」
 何を、と問う事なく意味に気づいた。
 かちりと盾から剣が抜け掛ける。
「離れてしまうだろう?」
 その言葉に、体が動かなくなった。
 ドラゴンの分かれた様が、自分たちのように見えたから。
 離れる姿が嫌だと思ってしまったから。
 だから反応が遅れた。
 気づいたときには、胸の上に盾を持つドラゴンが輝いていた。
 キャルスの胸に剣を持つドラゴン。
 結局は離れてしまったドラゴンに、何をしているのだと舌打ちして、キャルスを睨み付けた。
 けれど、キャルスは平然とビルを見返す。
「それが君のすべてを守ってくれる御守りってとこかな」
「……御守り?」
 何を言っているのだ、この人は。
 眉間のシワが深くなる。
「いらないと言った筈ですが」
「私からの贈り物だよ」
「貰う理由がありません」
 少なくとも、ポフの事を連想させるような物はいらない。
 外そうとして、けれど。
「あれ?」
 仕組みは知っている。だが、首の後ろになったロック機構がうまく指に当たらない。
「あらあら、意外と不器用なのね」
「構造が少し違うんだよ。何せ、オリンポス製だし」
「この中にオリンポス製以外がある方が珍しいでしょう……」
 何とかロック機構が手に触れたが、今度はその仕組みがうまく判らなくて、イライラと言葉を返す。
 外して欲しいと言っても、外してくれるとは思えない。そのくらいの想像は簡単にできて、ビルは自分で外そうと躍起になっていた。
「諦めろ」
 くすくすと嗤いながら言われても。
「……後で本当に教えてくれるんでしょうね」
「ああ、夜にはな」
「……」
 結局外せなかったペンダントは、ビルの制服の下に隠されている。とてもじゃないが、目立つこれをぶら下げては歩きたくない。
 なのに。
「どうして、外に出しているんですか?」
 あろうことか、剣を持ったドラゴンの片割れは、キャルスの胸で踊っている。しかも、わざとらしく、制服の上で。
「君とペアをしていると思うとうれしいから、見せびらかしているんだよ」
「何で……」
 ああ、この人の言動は理解できない。
 今更ながらに痛感する。
「せっかくだから、楽しい夜を過ごそうな」
 まして、さらに理解不能な言葉を投げかけられる。
「それ……。どういう意味ですか?」
「どうって、そういう意味だけど」
 ニヤリと笑われて、ぞくりと走ったのは確かに悪寒だった。

Mission.E

 一通り艦内を案内して貰って、夕食を一緒に食べて部屋に戻った。
「では、外してください」
 声音が低いのは、疲れを隠しきれないせい。しかも、慣れない物をぶら下げていたせいで、肩まで重い。
 憂鬱なため息を零しながら、目の前の男を見つめる。
「似合うと思うのだが」
「……疲れるんです」
 それでなくとも疲れる相手。
 ボブと似た陽気さだけなら何とかなったろうが、キャルスはそれだけではない。
 ビルの一挙手一投足を、彼はふざけた態度の中でも見落としてはいない。
 些細な反応を正確に読み取って、ビルが気づかない全てを見通している。
 そのことが、今日一日付き合ってはっきりと判った。
 だから気が抜けない。
 無駄な足掻きだと判っていても警戒心を無くすことはできなくて、気が付けばずいぶんと疲労が溜まっていた。
「とにかく外してください」
 ビルは、制服に隠していたドラゴンを取り出した。室内灯の明かりを反射してきらきらと輝く。
 手のひらに乗せると、少しだけ首が軽くなったような感じがして、軽く息を衝いた。
 それほど大きくはないのに、わずかな重みが慣れないせいか堪えたのだ。
「外すのは簡単だけどな」
 その簡単だという仕組みをあの時いくら頼んでも教えてくれなかったキャルスは、今もまた嫌そうに首を振っていた。
「約束したはずです」
「だけどなあ……」
 いったい何が気に入らないのか。
 いや、遊ばれているだけなのか。
 視線を逸らし思案顔をしているふりをして。その横顔が笑っている。
 気が付いてしまうと不快さばかりが増してきて、ビルは小さく舌打ちをした。およそ、上官に対する態度では無いと思うが、この男はそんなことを気にしそうな輩ではないという打算もあった。
 だからこそ、不快さが募るのを止められない。
 それでなくてもキャルスのふざけた態度は、あまりにもボブを連想させて、ビルの感情を逆撫でする。
 いつものように。
 睨み付けてしまうほどに。
「いい加減にしてください。外してもらえないなら結構。後で、工具を使って切り取ります」
 決して安くは無いものだが、こんなものをぶら下げたまま仕事などできない。
 今日数時間付けたままだったが、それだけでも違和感があって気になってしようがないのだ。
「そんなもったいない」
「外し方を教えて頂ければ、そんな乱暴なことはしませんけどね」
 吐きだした息に乗せた抑揚の無い言葉を気にした風もなく、キャルスはビルを見つめていた。
「そんなにも疲れたか?」
 意外に真摯な言葉で問われて。
「ええ」
 つられるように軽く頷く。
 確かに疲れたのだ。
 一日連れ回された体も。
 翻弄され続けた精神も。
 何もかもだ。
 こんな軽いペンダントトップの重みが堪えてしまうほどに。
「そうか……。だったら外しても良いが」
「お願いします」
 気乗りしていそうにないキャルスではあったが、その言葉に嘘はないようで、伸びてきた手にホッとする。
 けれど。
「あの?」
「何だ?」
 首の後ろにあるロック機構をキャルスに向けようと体を回しかけて、肩を掴んで止められた。なぜ? と視線で伺うビルに、ニヤリとキャルスが笑みを返す。
「外すんですよね?」
 疑心に捕らわれつつも、瞳で窺う。 
「ああ、外してやろうかな、と」
「だったら、なぜ」
「こうやって外す物なんだよ」
「え?」
 近づくキャルスの顔。
 細い薄茶の髪がビルの頬をくすぐり、回された指が首の後ろに軽く触れた。
「っ!」
 喉が鳴る。
 びくりと強ばった肩に置かれた腕。
「キャルス、何をっ」
「このドラゴンは、誰かと共にいないと駄目なんだよ。対として作られた相棒か、それとも持ち主か、どちらかと常に共にいるようになっている」
 吐息が肌をくすぐる。
 逃れようと後ずさった体は、一歩も行かないうちに膝裏に当たったベッドで止められた。
 所詮、狭い部屋だ。
 しかも、止まってしまったビルに、キャルスが満足げな笑みを見せる。
 抗う腕は難なく捕らえられ、とんと体を押された。
「うわっ」
 数度のバウンドが収まりきらないうちに、キャルスの体がビルを押さえ込む。
 さらに近くなった顔。重み、熱。
 香る匂いに、ビルはきつく顔を顰めた。
 不快では無いそれ。
 バカな、と毒づき、ぎっとキャルスを睨む。
「どけろっ」
「嫌だね。それに、外したいのだろう?」
「当たり前だっ」
「外してあげようって言っているのにね。そんなに暴れると危ないよ」
 逃れようともがくが、要所要所を強く押さえつけられて、どうにも逃れられない。
 怒声でしかない言葉を発するが、それすらも笑顔で交わされてむなしく消えてしまう。
 それどころか、頬に口づけすら落とされて。
「っ、くっ」
 ぞくぞくと背筋に悪寒が走った。
 震えそうな唇をくっと噛みしめて堪える。
「——っ、あなたは、一体何がしたいんだっ」
「何って、この体勢でそれを問うのか?」
「体勢って……」
 言葉に誘われて、この先が容易に頭の中に浮かんだ。
 ビル自身実際に体験したことはないが、感じたことだは山のようにある。
 まるで自分自身が実際に行ったのと大差ないほどの体験だ。
 途端に、かあっと全身が熱くなり、頬が熱くなる。
 上気した肌が、ぶるりと震えた。
「何を想像したのかなあ?」
 そんなビルを、キャルスが嘲笑を含んだ声音でからかう。
 そのせいでさらに熱くなって。
 背けた顔も耳も何もかもが赤くなった様を、ビルはキャルスの目に晒していた。
「ふふ、可愛いね。一見クールなように見えて、その実は……ってのが一番そそる。いろんな顔をさせたくなるよ」
 首筋に震える吐息が触れる。
 肩を押さえつけていた指が、喉の線を上がっていく。
「君が暴れたのだよ。私は外そうとしただけなのに」
「どこがっ」
 そんなつもりなんか無かったくせに。
 きつく睨み付けても、この男には効かない。
「そんなふうに逆らわれると、ついつい無理強いをしたくなるんだ、私は」
 まして、そんな言葉を返されて。
「何しろ、君は私の好みのツボにぴったりと当てはまるからね。楽しくてしようがない」
 止めるつもりなど無い。
 声音が、態度が、ビルにはっきりと告げる。
「君も楽しもうよ」
「楽しくなんかないっ」
「では何をしてたら楽しいのかね。そんな仏頂面は似合わないよ。まして、綺麗に赤く染まっているその肌にはね」
「嫌だっ」
 力一杯キャルスの体を持ち上げようとしているのに。
 男の体は想像以上に重かった。
 見た目はそれほど太くないのに、意外なほどにたくましい筋肉を感じる。およそ、頭脳労働者とは思えない。
「何ごとも経験だよ。楽しいことをやった後には、やみつきになること間違いなし」
「ならないっ」
「なるさ。私はテクには自信があるのだが?」
「……」
 テク? と問いかけかけて、頭に浮かんだ光景に、悲鳴にも似た叫びをあげかけてかろうじて飲み込んだ。
 けれど。
 膝が、ぐいぐいと押すその場所。
 もどかしい刺激に前にも増して奥歯を噛みしめる。
 が。
「それに、いつまでも報われない恋に恋い焦がれるより、私の方が絶対お買い得だと思うが?」
 その言葉に、思わずキャルスを凝視する。固く閉じられていた唇が、震えながら開く。
「何……を」
「誤魔化しても無駄無駄。君の弟君への想いはバレバレだよ、私には。失恋は、新しい恋を見つけることでこそ癒される物だ。だから、私にしておきなさい」
 陽気な声音とふざけた口説き文句。
 けれど、ビルの頭には、その半分も入っていなかった。
 ただ、『失恋』という言葉が頭の中を駆けめぐる。
「そんなに呆然として。本当に君は、自分の恋心に鈍感なようだね。そして、弟君は、君の心中には気づかない鈍感さ。言葉にしないと伝わらない典型なのだが、君にはそんなことは無理だろう? 何しろ弟君には、お揃いの鳳凰を贈るほどの恋人がいるわけで、そして君は、そんな弟君の幸せを邪魔することはできない」
 至近距離で現実を伝えるキャルスを、ビルはじっと見つめていた。
 その視界がだんだんとぼやけていく。
「どうし……て、あなたは……」
 この人が怖い。
 何もかも見透かして。
 隠しておきたい全てが白日の下に晒されてしまう。
 怖い。
 怖い怖い……。
 けれど。
「辛かったろうな」
 優しい声音。
 触れる手も、言葉も、どうしてこの人は優しいのだろう。
「判っていたんだろう?」
 ああ、判っていた。
 もう、駄目なことは判っていた。
 けれど、どんなにそんな想いなど忘れようとしても、忘れられなかっただけ。
 何しろ、あの鈍感なボブは、ビルのこんな想いなど気づかないで、鼻の下を伸ばした馬鹿面を見せてくれるのだから。
 見たくもないキイチとの睦み合いを、鮮明に見て感じてしまうのだから。
 ——それに、鏡を見れば、いつだってボブはそこにいて。
 自分一人ではもうどうしようもなくなっていた。
 忘れることを、諦めるしかないんだ——と、考え始めていたところだった。
 抗っていた手足の力がゆっくりと抜けて、ぱたりとシーツの上に落ちた。
「かわいそうだが、自覚しなさい。というより判ってはいたのだろう? 君は聡い。こんなことに気づかない訳がないからね。だから私にしておきなさい。私なら、君を慰めてあげることも、楽しい気分にさせてあげることもできるから」
 頬に触れていた指が顎に添えられて。
 ふわりと落ちてきた唇が、ビルのそれを塞ぐ。
 啄むように軽く。
 少しずつ深く。
「……私のものに……」
 口づけの合間に吐息で囁かれて。
 溢れた涙が、シーツに染みを作る頃。
 ビルは薄く唇を開けて、キャルスの舌を迎え入れていた。

 

 はだけた上着の間からキャルスの手が入ってくる。
 触れるか触れないかの微妙な感触に、ざわりと肌がざわめく。
「あっ……」
 戸惑い、ついもらしてしまった声音に、目の前の顔が喜色満面になった。
 途端に、全身が一気に熱くなる。
 そんなビルが逸らした視線をわざわざ覗き込んで、キャルスが笑う。
 揶揄だと判る吐息での笑い声。
「何です?」
 返した声音が低いのは、笑われたことが悔しいからだ。けれど、肌の上で手が動くたびに、肌が粟立つのが止められない。電気のように体内を走り回る疼きは、傍若無人な男と同じで、ビルには逆らう術が無かった。いや、逆らおうとする気すら無くなっていて。
 だが、そんな自分も悔しいと、横目で睨んでも、キャルスはずいぶんと嬉しそうだ。
「好みだなあって」
「好みって……」
「その瞳も顔立ちも、このたくましい体も。素直でない性格も全部好きだな」
「……止めてください……」
 聞くに堪えない言葉に、制止しようする言葉は弱くなるばかり。
「どうして? 好きなものに好きと言わなければいつ言うんだ?」
 どうしてこの人は……。
 先よりさらに紅潮した肌を隠す術は無い。
 付き合いきれない、と、ただビルは熱くなった吐息を吐き出すだけだ。
「本当に嬉しい。ここまで好みに合う相手というのは初めてでね」
「だから……って、んっ」
 いきなり、胸の尖りを爪弾かれた。
 鋭い痛み。それ以上の快感。
 疼く体を持て余して、身悶えた。
「ああ、ずいぶんと敏感なのも好みだ」
「……やめ……」
 制止の言葉など何の役にも立たないと判ってはいるのに。
 何度も何度も爪弾かれて上げずにはいられない。でないと、快感と紙一重のその刺激に、飲み込まれそうなのだ。
 びくびくと顕著な反応を示すビルに、キャルスの笑みが深まるのも口惜しい。
「初めて、だよな、確か」
 なんで、そんなことまで知っているのか? と浮かんだ疑問は、けれど言葉にならない。
 体の両脇で、シーツをぐっと握りしめて、暴れようとする体を押さえつけるだけで精一杯。
「ダメダメ。そんなところを掴むのでは無いよ。こういうときはね」
 無理に指先をシーツから剥がされ、ビルの腕がキャルスの背に導かれる。
「んっ、くっ」
 その間も、間断なく巧みな愛撫が続けられ、ビルは自然に、キャルスの体にしがみついた。
「そう、良い子だ」
 口づけられ、離れるそれを追う間もなく、体が跳ねる。
 テクがある、というキャルスの言葉はダテではなく、彼の愛撫は的確にビルの良いところを暴いていった。
 しかも、天才と呼ぶべき人たちが集まるチームの一人で有能な戦術家であるキャルスが、その場所を逃すわけはなくて。
「ずいぶんと反応が良いな。ほら」
「んあっ」
 いきなり股間を強く揉まれて、体が跳ねた。
 服の上からでもはっきりと判るほどに、盛り上がったその場所を、楽しそうに揉みしだく。
「あっ、やぁっ」
 苦痛と紙一重の快感に耐えて体を丸め、キャルスの肩口に顔を埋めて、喘いだ。
 ぞくぞくと悪寒にも似た痺れが、束となって脳天を貫く。じわりと口の中に溢れる唾液が、緩んだ口の端から溢れ出した。
 赤い舌先が、零れた唾液をねっとりと舐め取っていく。
「ひっ、いぃ……あっ……」
 覗いた舌を甘噛みされ、もっと欲しいと絡めていく。
 深く絡まり、吸い付かれて。
 気が付けば、ビルは必死になってキャルスの舌を吸っていた。
 深く、激しく。
 与えられた物を返したくて、返せばもっともらえそうな気がして。
 どん欲に求めて、動く。
 なにしろ知っているのだ、ビルの体は。
 他人との性的接触など、経験無いと言い切れるほどのビルではあるが、実体験ではない経験だけは山のようにあるのだ。だからこそ、かちかちになるほどに限界まで膨張した自身が他人の手で達かされる瞬間の激しさを、ビルは知っている。自慰の比では無いそれを。
 熱い肉壁の中で解放を迎える衝撃は、自慰で得られる物ではない。
 女性相手の行為も、男性相手——キイチ相手の口や後攻での行為も、ビルは全て知っていた。
 だから、無意識の内に体が動いていた。
 知らず腰が浮き、キャルスに股間を押しつける。手がキャルスの制服を剥がそうと動く。
 肌の直接的な触れあいは、それだけで心地よいのだから。
 だが。
「もしかして、経験ある? それも、ずいぶんと?」
 ふっと、キャルスと動きが止まった。
 訝しげに、ビルを見下ろし、低く唸る。
 だが、無意識に動いていたビルには、その問いかけの意味は判らない。
 同じように眉間にシワを刻み、情欲に染まった瞳を向ける。
「な……に……ぃ」
 鼻にかかった声、幼子のような甘え声。
 言ってしまってから、気が付いて慌てて口を閉ざした。
 俯いた顔が、さらに上気して熱い。
「ふん」
 その仕草に、キャルスが眉根を寄せる。
「気持ちよい……ってのは判るけど」
「な……に?」
 不機嫌を隠さない声音に違和感を感じた。
 快感に飲まれかけていた理性が、急速に回復する。
「君は、初めて……だろ?」
「え……?」
「男とこういうことをするのは初めてだろう?」
「あ……」
 初めても何も……。
「……女、とも……」
 頷きながら、かろうじて付け足して。
 赤くなった頬を晒す。
「だよ……な」
 ごくりと息を飲む気配に、さらに頬が熱くなる。
 彼が欲情しているのは、太股にあたる硬さが増したことで判っていた。
「何というか……反応は初々しいのだが……」
 頬に口づけを落として、向けた瞳が困惑に揺らぐ。
「誘われているんだよなあ……態度は」
「え?」
「慣れている」
「あっ」
 すうっと太股の内側をきわどい場所まで撫で上げられ、咄嗟にキャルスにしがみついた。
 触れられた場所からざわざわと快感が迸り、ビルを包み込む。
「ほら」
 けれど、キャルスはそこで手を止め、視線で誘う。そこにあるのは、互いに絡まった足。太股にキャルスの手が添えられているだけ。
「何?」
 判らなくて、視線で窺う。
「……気が付いていないのか?」
「あの?」
「ずいぶんとキスも巧みだし。それに、服の脱がし方なんて堂に入っているし。それに、私が動きやすいように君も動いているようだね。腰が浮いて、誘うように押しつけて。自分で次に何が来るのか知って動いている。経験者としか思えない」
「……?」
 判らなかった。
 キャルスが何を言っているのか。
 ビルにはそんな事をしている自覚は無い。ただ、思った以上に気持ち良くて、流されてしまっていたから。
 今だって、信じられないほどに体が甘酸っぱく疼いている。
 なのに、キャルスは怒りすら湛えた瞳をビルに向けていて。
 それは、冷水を浴びせられるより、もっと激しくビルの熱を冷ました。
「キャルス……?」
 震える唇が言葉を紡ぐ。
 そんなビルをキャルスはさらに眇めた瞳で見つめる。
 チッと小さな音が、その口元でした。
 悔しそうに歪んだ表情に、ビルの眉間も深くシワを刻んだけれど。
「悔しい」
 低く唸るような声音に、目を見開いた。
「悔しい……悔しいっ」
 言葉を吐き捨てるほどの怒りがその瞳から伝わる。
 ぐいっとベッドに押しつけられ、近かった体が離れる。その間にひやりとした空気が入り込み、ビルは大きく身震いした。それは、多分に別の感情も交じっている。
 何しろ、今日一日付き合って、こんなふうに激情をぶつけられたのは初めてだった。
 けれど、その原因が判らない。
 普段の仕事中ならたいていの問題もあっという間に結論を出す頭脳が、空転するばかりでいっこうに埒が明かない。
 どうして?
 どうして、彼は怒っているのだ?
「キャルス……?」
 知らず声が震える。
 何故だか胸の奥が不安でいっぱいで、ひどく落ち着かない気分になる。
 こんなのは嫌だ。
 不安に満ちた心が叫ぶ。
 その激しさは、未だかつて無いほどで、ビルはそんな慣れない感情の変化に、よけいに戸惑う。その戸惑いも、あっという間に不安が覆い尽くした。
 とにかく、不安なのだ、堪らなく。
 どうして良いか、判らない。
 けれど、この人が離れると、なんだか、寂しくて。
 離したくない。
 だが今のビルには、こんなキャルスになんと言葉をかけて良いのかすら判らない。
 ただ、汗ばんだ手で滑る布地を、ぎゅうっと力強く掴むだけだった。

Mission.F-01

 不安に揺らぐビルの瞳を、キャルスも覗き込んでいるようだった。
 瞳を介して、その心の奥底までをも覗き込むような強い視線がビルを貫く。
 怖い瞳。
 けれど、今はそれが逸れてしまうことを何よりも恐れた。
「……キャ……ロス……」
 ただ、意味もなく呟いて。その瞳と、視界の端で揺れたドラゴンの飾りを交互に見つめる。
 近い距離で揺らぐドラゴン。
 そのドラゴンが持つ銀色の剣が、視界の中できらめく。
 いっそ、その剣で貫いて欲しい。
 この不安から逃れたいから、と切に願う。
 じりじりと闇が広がる感覚に、目眩すら感じた時、同じ視界にあった緋色の髪がふわりと揺れた。
「ったく……この私が読み違えるとは……」
 口惜しそうに呟く唇が、ビルの頬に落とされた。柔らかく、何度も啄まれる。
「君のようなタイプは、絶対に初めてだと思ったがな」
「……えっ……」
 触れる手も、唇も優しい。
 口惜しそうに呟く言葉も、どこか笑みを含んでいる。
 さっきまでの怒りはどこへ、と思うほど、キャルスは陽気な笑みを浮かべ、ビルの肌に触れてきた。
「ん、あっ……」
 びりびりと駆け抜ける快感に身悶える体が、逃さぬとばかりに抱き締められる。繰り返される的確な愛撫に、冷めかけていた体の熱が、再び勢いを増してきた。
「意外性があるというのもまた愉しみの一つ。初な態度で、牙を隠しているというのもこれまた面白い。何より、そんな相手を翻弄させ、落としてしまうのもまた一興」
 自己完結して、笑んでいるキャルスの言葉に、脳の一角が急速に冷えた。その部分で、ビルは何度もキャルスの言葉を反芻する。
 牙——って?
 つまりそれは……私が経験者と……わざと誘っている、と?
「ほんとうに……おいしそうな体をしている」
 ぺろりと舌なめずりをして、爛々と欲望に輝く瞳を向けられて。
「ほら、見せてごらん。どこが君の一番おいしいところかな?」
「ちが……あっ、やあっ……」
 違う——と声を大にして言いたかった。だが、触れられた途端に肌がざわめき、意味のある言葉を続けることが難しい。
「や、あっ……キャルスっ……。そこはっ」
 啄まれる胸の飾り。
 肌を彷徨う手が、下腹部の茂みに触れる。
 絡まる指先が、敏感な先端を嬲り、はしたない滴を零させた。
「あっ……うっ……」
 人にされる快感。
 普段は隠している赤裸々な記憶が、甦る。
 
 私は……、知っている……。
 それもまた否定できない事実なのだ。

「どこが良いかい?」
 耳朶に吹き込まれる呪文に、体が動く。
 キャルスの動きを助ける、というより、より快感を得られる体勢へと自ら動いて、受け入れる。
「良い子だ」
 満足げに笑うキャルスに、気づかぬうちに口角を上げて応えていた。
 もっとも、そんな表情をしたと気づいた途端に、頭の中が真っ白になる。拍子にかあっと全身が紅潮した姿を、また恥じて。きつく顔を背ければ、露わになった首筋にきつく吸い付かれた。
 白い肌に朱色の刻印が残る。
 だが見えないその痕より、キャルスの言葉がビルの心を熱く、そして斬りつける。
「可愛い——。誰にでもそんな姿を見せるんじゃないよ。過去どんな相手に見せたのかは知らないが……今後は、私限定にして欲しいね」
 淫乱だと——言われているような気がした。
 目の奥が熱くなって、零れる激情を閉じこめるようにぎゅっと目を瞑った。
 こんな体が悔しかった。記憶に残るボブの経験を全て消し去りたかった。
 ボブのような、節操なしではないのに。
 一卵性双生児ではあってもビルとボブの性格は違う。その最たるものが、この道徳心だった。
 だが、心とは裏腹に快感を知っている体は熱く、キャルスの手を求めて蠢く。
 熱い吐息を零して、堪えきれないように彼の腕に縋り付いた。
 それを制されて、戸惑って開いた瞳に口づけられる。
「今度は、ここ」
 楽しそうに触れられた途端に、びくりと仰け反った。
 今まで触れられていなかったそこに、滑る指先が触れる。
 内股に別の濡れた手が這い、足が大きく開かされた。
 異物感に息を詰め、足の間のたくましい体を抱き締める。
「キャ……ルス……」
 それは、ボブもしていた行為だ。相手の奉仕の先を促す誘いの動き。
 それを無意識にして、そして気づく。
 あの記憶は、こんなにもはっきりとビルを支配している。
 ボブとは立場が違うが、それでも”した”記憶があるから、”され方”も判る。
 だからか……。
 体内に入り込む異物感に何度も息を詰めながら、ビルは僅かに口角を歪めて笑った。
 だから体が動くのだ。
 先を求めて、相手を誘うように。
 こんな姿を晒して、今更初な初心者を気取るのも確かに変だろう。
 鋭いつっこみをする理性に、それでも感情は首を振る。
 別に知りたくはなったことだろう? と。
 誰かと性行為をしたいとも思わなかった自分。
 目覚めたときには、そんな行為を味わってしまった自分が本当に、嫌だった。
 だから、ずっとボブのせいにしていたけれど。
 けれど。
 ——本当は、自分の方がしたかったからじゃないのか?
 ふっと頭の中に浮かんだ考えに、一瞬愕然とする。
 ——したいけれど、できなかったから、ボブの記憶を貰っていたんじゃないのか?
 心の中で、冷静な自分が指摘する。
 誰かとこんな事を。
 ボブなら簡単に経験していた行為だが、ビルは性格上誰かと遊ぶことなどできない——だから。

 ボブの記憶を……貰って……満足していた——ってことか?。 
「ビル?」
 不審そうに問いかけられ、はっと我に返る。
「何を考えていたのかな? もしかして、弟君のこと?」
 僅かに揺らぐ瞳に、彼の嫉妬心を感じた。
 途端に、ビルの鼓動が高くなる。
 嬉しい——と、なぜ思ってしまったのだろう?
 思いついた事と、自分の反応に困惑したまま、ビルは答えた。
「いいえ」
 咄嗟に吐いた嘘は、けれどキャルスはとうてい信じていない。
 変わらない視線を見返して、ビルはずっと気になっていたことを問うた。
「キャルスは……」
「何だ?」
「なぜ、私などを……」
 抱こうなどと思ったのか?
 途中で生まれた躊躇いせいで言葉が消える。
 けれどキャルスは正確に理解していたようだ。
 なんだそんなことか、と笑みを深くする。
「君が気に入ったからだよ。はじめは写真だった。今度のメンテの要員を探している最中に見つけたんだよ。私好みの美形。体格も良い。私はマッチョは好みではない。が、痩せすぎなのもダメだからね。君の体型は私の理想に近い。しかも、君の持つスキルも並ではない。知識も十分。経験も豊富。私は無能な男は相手にしない。その辺りも、好みに合っていた。そして、性格。論理的な判断力を持ち、沈着冷静。だから、欲しい——と思った」
 そんな風に言われて、ビルの頬が紅潮した。
 スキルにも知識にも誇りはある。
 だが、それ以上の才を持つキャルスに褒められると、面映ゆい。
 何より、彼の眼鏡にかなったこともひどく嬉しかった。
「だが、会ってみれば、どこが沈着冷静だと思うほどに感情が豊かだった」
 途端に、ひんやりとした風が胸の中を駆けめぐった。
 ぞくりとした悪寒に唇が震える。
 つい見上げた瞳に不安が宿ったのを、キャルスが気が付いた。
 くすりと笑い、優しいキスを落としてくる。
 くすぐったさに身を竦めると、耳朶を啄まれた。
「データ通りの人間などいないのがふつう。それをどう読み取るかが楽しいのだよ。その点、君はそうそう私に自分を見せないだろう? だから、私はますます君が気に入った。私は、君に隠された全てをあばきたい」
「私の——全て?」
「ああ、君の全てを。私がそんなふうに思う相手はそういない。これでも結構遊んでいたが、これは、と思う相手はいなかった。だから、遊び人だの何だの言われていたが……本当は、一人を愛したいのだよ。だからこそ、君と肌を合わせたい。君を貫きたい。見せて欲しいよ、私に。君がどんな姿で喘ぐのか? どんな表情で縋り付くのか? どんなふうにして射精するのか? どんなふうに、私の手で淫乱に成長していくのか?」
「い、淫乱って——っ」
 覗き込む瞳に浮かぶ鬼気。
 ぞくりと走ったのは確かに悪寒だ。
 けれど。
「淫乱な子が好きだよ。私の虜になって、いつだって、私の事だけを考えてくれる。私に貫かれて、私の精を受けたいとだけ考えてくれる子になってくれるなら、私はいつまでも離さずに全身全霊を込めて君を愛すだろう。私はね、好きなものに対する執着心は結構強いのだよ」
 火傷しそうなほどの熱が、言葉と共にビルを支配する。
 愕然と見上げるキャルスが狡猾な笑みを見せていた。
 そこには、あのふざけた態度はみじんもなかった。
 本音が見せた自信たっぷりの笑みだけが浮かんでいる。
「どうする? ビル。こんな私にこのまま抱かれても良いと思うかね?」
 顔は笑っているのに、その瞳は剣呑とも言える真剣さを湛えていた。
 その瞳はすでに逃さないと言っている。
 なのに、問うのは、ビル自身に決心させるためだ。
 逃げられないように、離れないように。
 キャルスを受け入れれば、もうボブの事は諦めるしかない。いや、別にキャルスのことが無くてもボブはもう無理だ。
 ボブの一番はビルではないのだ。
 諦めずにいつまでもボブを欲しても、それは多かれ少なかれボブかキイチの不幸を願うことだ。今はもう兄のような感情すらキイチに抱いているビルにとって、それだけは考えたくもなかった。ましてボブにしてみてもそうだ。
 だからもう、諦めるしかない。
 それに——。
 ずっとビルの答えを待っているキャルスを見上げる。
 この人は、淫乱であれ、と言う。
 もっともっと、淫乱に。
 人の記憶を奪ってまで体験しようとしたビルの淫乱さを、キャルスはまだ知らない。
 だがたとえ知ったとしても、この人ならきっと受け入れてくれるだろう。
 そのためなら、いくらでも愛してくれると言っているのだから。
 そして、離さない——とも。

 だから。

 ビルは一度目を閉じた。
 大きく息を吸って、呼吸を整えて。
 再度、目を開けてキャルスを見つめた。
 そして。
「良い、です」
 ほおっと息を吐き、キャルスの背に回した手に力を込める。
「続けて、ください」
 掠れた声音で先を乞う。
 その瞬間のキャルスの満面の笑みを、ビルは決して忘れないだろう。
 ここまで相手に欲しがられたという記憶。
 この先何があっても、たとえキャルスに飽きられることがあったとしても、忘れたくないと思った。
「嬉しいな」
 と、囁かれて。
 再開された愛撫は、ひどく丁寧で優しくて、そして濃厚で。
 我を忘れるほどに身悶え、理性など呆気なく吹き飛んだ。
「言ってごらん? どうして欲しい?」
「もうっ、もう、欲しっ、挿れて、くれっ」
 ビルを固く縛っていた道徳心という枷もすでに外れ、感情の赴くままに欲する。
 そんなビルの痴態は、キャルスを満足させ、さらに先へと進ませる。今や、キャルスの雄もいきり立ち、我慢を強いられた証の透明な滴で濡れそぼっていた。
 その塊が、柔らかく解された場所へと突きつけられる。
 途端に、ビルが微笑んだ。
 意識などしていない。
 無意識化の微笑みに、びくりと触れた雄が震えた。
「くそっ」
「あっ——あぁぁっ」
 太い楔がビルの体を一気に貫いた。
 今にも張り裂けそうな痛みに顔を顰め、目の前の体に縋り付く。
 宥めるようなキスに応えて、大きく開いた足がキャルスの体を押さえつける。
 動くなっ、と叫びたい言葉すら、悲鳴に消える。
「……きっつ……緩めろ——できるだろ?」
 苦しそうな声音に、必死になって体の力を抜こうとするけれど。
 どうやって良いか判らない。
「ビル……ビル……」
 宥めるように囁かれ、こくこくと頷いて。けれど抜けない力。
「んっふぁぁっ」
 痛みと何かが走り抜ける衝撃に、ただ悲鳴にも似た声を上げる。優しいキスと力強い腕。ぐいぐいと入っていくそれを拒絶しようとは思わない。
 痛かった。
 だが、逃したくはない、とも思った。
 痛みを凌駕する満たされる感覚に、ビルは縋り付いていた。

「ビル……入った」
 静かな声音が耳の近くでして、その言葉を理解するより前に、狭い道を一杯にするその存在に気が付いた。
 途端に、辛さに青ざめていた体がぶわっと紅潮する。
「あ……」
 貫いた存在。
 貫かれた自身の体。
 その体勢。
 全てが恥ずかしくて、覗き込むキャルスの視線から逃れるように顔を背けた。
 そんなビルの耳に、静かな声が届く。
「本当に初めてだったようだね」
 しみじみと感慨深げな声音だった。
 ちらりと横目で窺えば、その口元がなぜかふんわりと笑んでいて、ビルは慌てて視線を逸らした。
 なぜそんなにも幸せそうな顔をしているのだろう?
 触れる唇の優しさと、宥めるように動く手すら恥ずかしくなって、ビルはますます体を硬直させた。
「信じていなかった——すまない」
「……」
「だが、このきつさ、君の反応。どこをどう見ても、初々しさが全身からにじみ出ている今の現状からして、君が初めてなのは間違いない。私の読みは間違っていなかったのだと、今はとても満足している」
 喜んで良いのか、怒った方が良いのか……。
 返すに返せない言葉を口の中でいくつも転がした。
「……いえ、私は……知っていましたから」
 体は初めてでも、記憶はたくさんあるのだから。
「知っていた? ビデオでも見て、研究したのかい?」
 信じていないと判る言葉を、ため息を吐きながら否定する。
「いいえ。ただ、私には……弟と精神感応できる力がありまして……」
 ずっと隠していた事柄であった。
「ああ、接触性の精神感応だろう? あと、至近距離なら気配と状況ぐらいは判るというのは知っている」
 それは一般的に知られていること。
 リオ・チームのメンバーならもう少し先まで知っているが、他部署には報告していない。それは、リオ達の配慮からだ。特殊な能力を持つものは、希望と違う配属になることが多い。
 ビルもボブも、リオのチームでいたかった。
 だから、隠した。
 だが、何故だかこの人には、もっと知って欲しかった。
 それに放っておいても、キャルスのことだからどうせ知られるだろう。ならば、自分から言いたくもあった。
「それに加えて、記憶の流入もあるんです。私は、ボブの性行為全ての記憶を持っています」
「え!」
 驚愕に目を見開く様に、ビルは微笑んだ。
 動いた拍子に、締め付けてしまって、キャルスが顔を顰める。
 その一連の動きはキャルスにはあまりにもらしくなくて、ビルはさらに笑みを深めた。
「全部——というのは言い過ぎかもしれませんが……けれど、私に牙が見えたのは、その記憶のせいです」
「君の弟君の評判は聞いている。ずいぶんと節操なしで……だが、今は意中の人がいるらしく、その遊び癖も潰えたらしい、と」
「そうです」
「その遊んでいた頃の記憶全て?」
「つい最近もありました。その意中の相手とやっている行為……」
 ずきりと走った胸の痛みに歪みそうになった顔を、筋肉を総動員して堪える。
「まるで自分が体験したように。けれど目覚めたら自分だけの痕跡しか残っていない。全てが夢でしかない……なのに、記憶は自ら体験したのと同じように鮮明に残ります」
「……あの鳳凰を贈る相手との……行為か?」
「……はい」
 その言葉が指す意味を、ビルもそして問いかけたキャルスも正確に理解していた。
 手が、あやすようにビルの金色の髪に触れ、梳き上げる。地肌に施される心地よい刺激に、ビルはうっとりとまぶたを閉じた。
 そして、自分でも不思議なほど自然に、落ち着いた声音で告白する。
「自覚……したのはその時です。私は、弟であるボブの事が好きなのだ……と。目覚めたとき、いつものようなボブに対する怒りではなく、ひどく羨ましかったんです。彼に抱かれる相手が。彼に愛されている相手が。今までのような遊びでのつきあいではないと判っていたから……ひどく……羨ましくて……辛かったんです」
 当時の感情を思い出して、胸が一杯になった。途切れがちになった言葉を、必死で紡ごうとして。
「もう良い」
 続けようとした言葉は、唇を塞がれて封じられた。
「その話はまた後でしよう。今は……この体勢のままでは私も辛いからな」
「辛い……ですか?」
 ふっと戯れに体に力を込めた。
「うっ」
 眉間のシワが深くなり、眇めた視線がビルを見つめる。怒りすら孕んだ表情に、けれど、ビルはそれに臆することはなかった。それ以上に、体内深くでで細部にわたる形状まではっきりと認識して期待に心が弾む。
「覚悟しろよ」
 小さな舌打ちの後に、キャルスが壮絶な笑みを見せた。
「休暇中、たっぷりと可愛がってやるからな」
 その言葉に、ひくりと引きつる頬を、それでも意識的に緩ませてビルも微笑み返した。
「ボブを……忘れさせてくれるのなら……いくらでも」
「ああ、絶対に忘れさせてみせよう。私を舐めるなよ」
 その言葉に、こくりと頷き返した。
 もっとも、ビルは誤算していた。
 自ら執着心が強く、何かも暴きたいと言ったキャルスの言葉は、嘘でも誇張でも無かったことを。
 それとごろか、それは、ビルの想像以上に強いものだったのだ。
 しかもそのせいか、彼の性欲もそれを賄う体力も、驚くほど強いのだということを。
 ビルは程なく知ることとなった。
 そんな強さを知ってしまった時、幾ばくかの後悔が胸の内に湧いたのは間違いない。
 もっとも、その強さもまたビルの胸を熱くする。
 それこそ、この仕事が終わった後にあるはずの別れを辛く思うほど。
 どうやったら、彼から離れなくて済むだろう。
 リオチームの一員で有り続けたいと思うと同時に、ずっとキャルスと共にいたいと願う。
 同じ艦隊にいるとは言え、艦が違う以上、そうそう会えるものではない。

 だが、キャルスは、そんなナーバスな気分に浸る暇すら与えてくれなかった。
「や、あぁぁ……、もう……っ……」
「何を言っている。ここはまだまだ元気だぞ?」
 弄られ続けて敏感になった陰茎を指先で弄ばれて、ビルはしなやかな背をびくりと仰け反らせた。
 さっきからずっと四つんばいのまま、何度も抽挿を繰り返されている。
 初めてキャルスに抱かれてからすでに6日が経ち、その間に抱かれた回数は両手に余るほど。
 君が可愛すぎるのが悪い、と理不尽な言葉を聞いたのはいつだったか。
 どこにいても求めてくるキャルスに、ビルの体は自分でも驚くほどに簡単に熱を持つようになってしまった。
 それこそ、キャルスの事を思い出すだけで、体が疼いてしまうほどだ。
 だが、明日から仕事が始まる。
 ずらしたスケジュールは、今度こそ予定通りに行われ事が決まっていた。
 だからだろうか、部屋にやってきたキャルスが、いつになく激しくビルを押し倒したのは。それもまた、仕方がないのだと受け入れてしまうビルではあったが。
 快感にとろけてまともな思考ができないビルでも、今日の激しさが異常だと、思う。 
「もう……達きた……っ、ほしっ……」
「最近、我慢が足りないね。ここの躾が必要かな?」
「ひっ、ぃっ」
 先端に指先が食い込む。
 細くはないそれに弄られて、痛みよりも快感が走る。
 激しい射精感に襲われているのに、あまりに強い刺激がさせてくれない。
「それに、どこぞの女性に言い寄られていた罰もあるのだから、そう簡単には達かせないよ」
「だって……あれはっ……」
 二人で艦内を散歩していたときの事。
 たまたま寄ったテラスで、ビルは昔なじみの女性と出会ったのだ。まだ子供の頃に同じ学校だった女性だ。ビルにしてみれば、話しかけなければ判らなかった程の遠い過去の知り合い。
 話してみれば思い出した記憶は懐かしく、それでも忙しい彼女と一言二言簡単な会話をしただけだ。
 あの時、キャルスも傍らにして、どんな内容だったか知っているはずなのに。
 ビルにしてみても、ことさらに喜んだそぶりを見せた記憶も無い。
 いつものように、表情すら変わらなかったはずなのに。
「他人に色っぽい顔を見せるのは許さない」
「そんなことっ」
「君が色気を振りまくから、相手の顔が赤くなっていたぞ?」
 それこそ理不尽きわまりない言いがかりだ、と髪を振り乱して否定したけれど。
「あ、あぁぁっ」
 ずんと激しく抉られた時には、しっかりと陰茎の根本を戒められていて、達こうに達けなかった。
「あっ……やだ……もうっ……」
 体内を駆けめぐる快感が、外に出たいと叫んでいる。
 けれど、その唯一の出口を塞がれて、ビルは両頬を泣き濡らして身悶えた。
「たっぷり味わいなさい、今日はいくらでもそそいであげるよ」
「キャ、ルスっ——キャルスっ、もう……」
 堰き止められた快感が、僅かな理性すら犯し、形振り構わずキャルスを求める。
「ああっ、達かせてっ!」
「まだまだ」
 いつもより激しい行為は、今日はまだまだ終わりそうになかった。

Mission.F-02

 疲れ果てた体にむち打って、仕事場に向かう。
 何度、もう止めてと懇願しただろう。
 だが疲れて泣き濡れた瞳はよけいにキャルスの性欲を煽るようで、なかなか止めてもらえなかった。そのツケが今出てきているのだ。
 今日が、メンバーとの初顔合わせだというのに。
 ちらりと横目でキャルスを窺うと、鼻歌交じりの上機嫌さですれ違う人達に挨拶をしていた。
 そんな彼を恨めしげに見つめて、ため息を零す。
「何だ?」
「いえ、元気ですね」
「君の精をたっぷり飲んでいるからな」
 臆面もなくそんなことを言われて、言葉を失う。
 ここは、往来だ。
 今の言葉を誰かに聞かれたのではないかと、赤と青の色を交互に浮かべたビルに、キャルスはニヤリと笑いかけた。
「君も、私の精をたっぷり飲んでいるだろう? もう一滴も出ないほどに搾り取られたのだからな」
 続けられた言葉に、くらりと目眩がする。
 それは自分のせいではない。
 だが、ここでそれを言うわけにも行かず、結局言いたい全てを飲み込んで奥歯を噛みしめることしかできなかった。
「ああ、ここだ」
 案内されて入った場所に、5人の今回の主要メンバーがすでに揃っていた。ビルとキャルスを入れて7人だ。
 ほとんどが第二艦隊の人間だと、その象徴を見れば判る。
 この中で部外者はビルだけだったが、彼らは特に違和感なく受け入れてくれた。
 若いながらも階級が高いものが多い。
 皆優れているのだろうと、その所属と階級で知ることができた。
 だが、雑談交じりに言葉少なに自己紹介し、一週間ほど前から来ていた事と、キャルスに案内して貰ったことを伝えたとき、中の一人が感嘆の声を上げた。
「へえ、あの准将と休暇を、それも一週間も過ごしたんですか?」
 驚愕とも言える言葉。どこか、哀れみが混じった皆の視線に言葉を失った途端、勢いよくその男の頭が沈んだ。
「テイル、一言多い」
 隣の男が、拳を喰らわしたのだ。
「いてぇ……。何だよ、あの准将と一週間も過ごすなんて物好きな……っ痛ぇ!」
「だから、一言多い」
 ビルとそう年の変わらない二人が、音量を下げないままに言い合っている。
 その様を呆然と見つめていると、キャルスがフンと鼻を鳴らした。
「そんなに文句を言うなら、君達を付き合わせても良かったのだがね」
「——っ、いえっ、とんでもありませんっ」
「謹んで辞退します、できれば……」
 ハモる二人の顔に浮かぶ引きつった笑い。
 周りのメンバーも、どこか遠い目をして、当事者達から視線を逸らしているようだ。
 ——何なんだ……?
 かすかに引きつった頬だけが、ビルの動揺を伝えている。
 もっとも、それも親しくない人間には気づかないのだろう。
「でもまあ、准将の相手してくれて良かったですよ。俺たち、そんな暇なかったし、ね」
 笑うとやけに幼く見えるテイルが、隣の男に笑いかける。
「……ああ」
「何をされていたんですか?」
 知らない話をされるのは不快で、ビルは控えめに問うてみた。
 それに、先ほどの皆の態度も気になる。
「え──、そりゃせっかくの休みだからデートに決まっているだろ——てっ!」
 再び翻った拳が、テイルの体を沈ませる。
「その二人はできているからな。特にテイルの話を聞いていると殴りたくなるから止めておけ」
 キャルスの言葉に、相方の顔が染まっていく。だが、沈んでいたテイルの顔が再び向けられた途端に、彼の拳はすでに臨戦態勢。それに気づかないのはテイルだけだ。
「だってさ、聞いてほしいからね。キッシュの可愛いとことかさあ」
「黙れっ」
 確かに殴りたくなる相手だと見つめていれば、ため息を吐きながら苦笑された。
「いや、こいつのことは無視してくれて良いから。でも、まあ言っていることは間違いはないんですけどね……」
「さっきの准将の相手って……」
「ああ」
「准将は性欲強いから、大変だろう……ってことですけど」
「え……」
 途端にこくこくとと頷くメンバーに、収まったはずの目眩がぶり返す。
 みんなすでに知っている、ということか?
 否定したいのに、否定できない状況に、
「な、んで……?」
「ああ、ここにいるのはみな私と経験済みだ。もっとも、その時だけのつきあいだから心配するな」
 にっこりと言われたその内容に、目眩すら飛んでいった。
「しつこいんだよ、この男」
「……遊びでも後悔しましたね」
「体力がもたないっていうか」
 口々に声を上げるメンバーのその表情は皆苦渋と呼べるもの。
 呆然とするビルに、テイルがぽんと肩を叩く。
「でも、すっごい気に入られている感じがするな、君は。そうなんだろう?」
 じりっと顔を寄せられて、否定も肯定もできないまま硬直する。と。
「テイル、ビルに手を出したらこのまま艦から放りだしてあげようか?」
 途端に凍り付くテイル以下全員。キャルスの背後から、室内を埋め尽くすほどの黒いオーラが立ち上がり、室温を一気に下げていく。
「マジ?」
「もちろん」
 面白いほどに青ざめたテイルを、慌てたキッシュが庇う。
「手を出しません、テイルは俺のものですから、絶対に手出しなんかさせませんっ!」
「キッシュ──、大好きっ」
「わっ、バカっ」
 泣いて喜ぶテイルがキッシュを抱き締めた途端、また拳が炸裂して。
「……」
「誰も准将のものなんか手出ししませんよ。命が惜しいです」
 ため息と共に零された言葉に、皆がうんうんと頷くのを、ビルは呆然と眺めるしかなかった。
「怒っているのか?」
「いえ」
 呆れているのだ、と言いたいのだが、それも今更という気がして、ビルは言葉少なに返して口を噤んだ。
 テミスのメンテは、この第二艦隊プロノイア・アテナにとってたいへん重要なはずの仕事だと聞いていた。確かに、やっていることはビルにとって非常に有意義だと思えるものであった。
 だが。

「だからあ、こう——ねちっこいだろ、あの人って。で、迫られると逃げ場が無いって言うか」
「俺は、半年前だったよ。無理矢理押し倒されてさあ……。下手したら犯罪すれすれ」
 作業中にキャルスがいなくなると、途端に彼がいかに自分たちを襲ったかの告白大会になるのだ。
 確かに、手は動いている。
 頭もフル回転している。
 作業計画に支障を来すことは無い。
 なまじできるメンバーが揃っているから、二つのことが同時進行できるのだ。
 つまり仕事と猥談と。
「まあ、俺なんて一週間ももたなかった。准将ってば、すっげえ絶倫で、俺へろへろになったんだもん」
「そうそう、いくら気持ちよくったって、二度とするもんか、って思うよな、あれは」
「しかも、つきあっている間の独占欲は、ものすごいしな」
「しかもイヤラシいし」
「……あの、だからみんな未練は無いんですよ。あんな准将でも、後のフォローはきちんとしてくれるし。いきなり放り出すってことはありませんから」
「ん、優しいね。一度懐に入れた人の面倒はちゃんと見てくれる」
「俺も俺もぉ、だからキッシュに会えたんだよねぇ」
「そうですね。だから、感謝しても感謝しきれないところはあるんです、けど」
「そうだな、俺も……。だけどなあ」
「大変だね、君も」
「でも、ビルってカベイロスの人間だろ? だからちょうどいいんじゃないか?」
 ふっと口にしたテイルに、やはり皆がうんうんと頷いて。
 ただ一人訳が判らぬビルが「なぜ?」と問うと、キッシュが躊躇いがちに答えてくれた。
 
「たまの逢瀬で、ちょうど良いと思いますよ、あの人相手だと……」

 その言葉の意味を、、ビルは正確に理解してしまう。
 脳裏に浮かぶのは、初めての体にこれでもかと施された愛撫と技巧の数々。
 忘れさせない、愛している、と何度も囁かれた言葉。
 これが何週間も続くのだとしたら……。
「まあ、何を吹き込まれたかしらんが……」
「だが、全て真実なんでしょう?」
「そうだ」
 あっけらかんと肯定されては、何が言えようか。
 ビルは重いため息を吐いて、ちらりとキャルスを見やった。だがすぐにその瞳に浮かぶ情欲を見て取って、またため息を落とす。
「今日は疲れているんですけど……」
 テミスのメンテはやりがいがある仕事だ。
 だから、作業自体は楽しくこなしたのだけれど、前日の性行為のツケと暇さえあれば喋る集団。その内容がまたキャルスのあれやこれやなのだから、疲弊しきるのも当然だ。
 けれど、その渦中にあってさえ終始楽しそうにしていたキャルスは、疲労のひの字も感じさせない。
「私は元気だ」
 などと言われて押し倒されて。
「一回だけ……でお願いしたいのですが……」
「それは約束できないね」
 にっこりと笑うその表情に、生きてカベイロスに帰れるのだろうか? と心配になったのも本心だった。
 ビルの元に、グリームベルから連絡が入ったのはテミスのメンテが終わった開放感を味わう間もなく、さんざん喘がされて意識を失った次の日のことだった。
『すまないね。人手が必要な任務が入ってね。休暇を短縮して貰いたいのだよ』
「了解」
 ——助かった。
 ビルのやけにホッとした表情に、グリームベルが訝しげに首を傾げていた。
「せっかく後一週間はたっぷり可愛がれると思ったのに」
「……止めてください……」
 人でごった返す格納庫の送迎エリア。
 苦しいほどの人いきれの中で戯れ言を平気で口にするキャルスに、ビルは聞いてもらえないと判っている言葉を一言だけ返した。
 疲れた。
 来た時より痩せたのではないか、と思うほどに体力は限界が来ている。
 予定より早く帰るのだと判った途端に、キャルスはケダモノになった、と言っても過言ではなかった。
 それこそ、部屋から出ることなく済んだ日も一日二日ではない。
 後一週間も休暇が長引いたら、屍と変わりない姿になっていただろう。
「リオの呼び出しですからね。こちらの仕事はもう終わっているのですから、帰らざるを得ません」
「なんだか嬉しそうだな」
「いえっ、そんなことはありませんよ」
 内心の冷や汗をひた隠し、首を振る。
 キャルスに対する嫌悪感のようなものはない。この非常識きわまりない上官は、仕事の上では尊敬すべき対象であったし、部下のことをおもんぱかる人ではあった。それに、ビルのことを気にはかけてくれているのだ。
 あれだけ気に病んでいたボブとのことも完全に忘れ去っていたのは、キャルスのお陰だ。
 それに、行為の最中に、「愛している」と囁かれれば、凍てついた心があっという間に沸騰するほどだった。
 プライベートとなるとニヤリと人の悪い笑みを浮かべて、イヤラシい言葉でビルを翻弄するキャルスを、邪険にできないのも事実。
けれど。
 美味しいものも食べ続ければ飽きてくる。
 そんな喩えはふさわしくないとは思うのだが、それでも脳裏に浮かんでしまうのだからしようがない。
 それほど、キャルスとの性行為は回数が多すぎる上に激しすぎて、食傷気味であった。
 新しくできた仲間達が言っていた言葉が、今ならとてもよく理解できる。
 体のためにも、また長く続けるためにも、この男とは少し離れて暮らすのがちょうど良い。
「あなたとの休暇が合う時には、必ず来ます」
 けれど、どんなに体は辛くても、完全に離れようとは思わない。
 否、絶対に離れたく無いのだ、心の方は。
「君の体は私でないと慰められないものな」
「ええ、そうですよ」
 自覚して、そんな自分を受け入れてしまったから、ビルはキャルスに笑って返した。
「おかげさまで、しばらくはボブの夢を見ることもないでしょうよ」
「君は淫乱だから、どうせすぐにその体を持てあますだろうが?」
「その宥め方も教えて頂きましたし」
 淫乱でも良いじゃないか。
 その事でキャルスが喜んでくれるのなら。
 そう思っただけで、不思議なほどに心が晴れた。
「少なくとも、私の悩みを吹き飛ばしてくれたのはあなたです」
 今更言わなくても良いだろうと思ったけれど。
 ビルを苦しめていた記憶は、その全てがキャルスのそれとすり替わってしまっていた。
 はっきり言って、キャルスのそれと比べたら、ボブの行為など稚拙の一言に過ぎる。たった一人しか相手にしていないとは言え、今やビルの性技に対する知識はボブをも凌駕するだろう。
「まあ、良い。次の休みには私の方から会いに行こう。何、こういうときこそ准将の権限をフル活用せねばな」
「……何を?」
「ん、まあいろいろとね」
 曖昧な言葉に僅かに引きつりながらも微笑んで、それでもビルは頷いた。
 この人はきっと来るだろう。
 何を考えているのか判らないところはあるが、口にしたことを違えることが無いことはここ数週間のつきあいで判っていた。
 だから。
「待っています」
 それはビルにしてみても本心からの言葉だった。
 離れたいとは思ったが、離れる時刻が近づいてくると無性に悲しくなってきた。
「あなたに会えて良かった……」
 あれからずっとかけているペンダントを服の上から握る。
 盾を持つドラゴンの重みは、キャルスを受け入れた日には気にならなくなった。
 情事の最中も外すことがないから、気が付けばいつもビルのドラゴンとキャルスのドラゴンは絡み合い、睦み合っているよう見えた。
「そういえば、これの外し方……」
 聞いていなかったことを今更ながらに思い出す。
「聞きたいか?」
 言われた言葉には首を横に振る。
「今は良いです」
「そうか」
 キャルスがそう言って笑う。
「どっちにしろ、互いが一緒にいないと外すことはできない。離れていてはどうしようもないからな」
 ビルのドラゴンは鞘を持つ盾。キャルスのドラゴンは剣。
 まるで自分たちのようだ——と考えてしまったビルの頬が、薄く染まった。
 楽しそうな笑みを浮かべるキャルスの唇を目で追ってしまう。
 あの唇が、己の猛々しいものを銜えて、狂わせた。その様を思い出した。
 こんな場所で……。
 思わず視線を落としたビルの視界に、不意に四角な箱が入ってきた。
「これは私からの土産だ」
 そんなビルの葛藤など気が付きもしないそぶりでキャルスが包みを手渡してきた。
 四角い長細い箱。
 丁寧な包装にはリボンすらかけられている。
「これは?」
「君には必要なものだよ」
 わざとはぐらかしたと判る答えに、ビルの眉間のシワが深くなる。
 この男の贈り物は、ろくでも無いものが多いのだ。
 准将特権を振りかざし、ビルの部屋はそのままになっている。その部屋に引き出しには人目に触れられることなどできない道具がたくさんしまわれているのだ。嫌だと言っても聞き入れてもらえなかったそれらに、ビルはさんざん嬲られた。
 それら全てが、贈り物と称して、ビルに手渡されたものだ。
「今度会うときまでに、一度は使って欲しいね」
 にっこりと笑う邪気を感じさせない笑み。
 けれど。
 言葉の内容から、それがあの手のものだと気が付いてしまう。
 ぞくぞくと走った悪寒。それと同時に、下半身が甘く疼く。
「使ってくれるよな?」
 上気して赤く染まった頬を隠すように伏せた瞳を覗き込まれ、至近距離のキャルスの指先に唇を触れられて。
「……たぶん……」
 どうして、拒絶できるだろう。
「ふふっ、楽しみだ」
 心底楽しそうなこの男に捕らわれてしまった自分が恨めしいと思う心もあるけれど。
「ああ、時間だな」
 無粋なアナウンスが流れて、別れの時を告げる。
 途端に、鼻の奥が熱くなって、ビルは視線を落とした。
 そんなビルに、キャルスがそっと口づける。
 途端に、溢れ出しそうになった涙をかろうじて堪えて、ビルは震える唇で離れようとするそれを追った。
 その瞬間、人目など気にならなかった。
「君は私を忘れない。ならば、私も君を忘れない。私は君のもので、君は私のものだから」
「……はい」
 触れるだけのキスがもどかしい。
 じっと見つめていると、キャルスが苦笑いを浮かべた。
「参ったな……。今すぐにでもどっかに連れ込みたくなった」
 誤魔化したような、けれどそれは紛う事なきキャルスの本音だ。
 その言葉に、ビルは頷きかけた。けれど大きくかぶりを振る。
 自分はカベイロスのリオチームのメンバー。
 仕事はあの艦であるのだ。
 だから。
「では行ってきます」
 自然に出た言葉に、ビルは自分でも驚いた。
「ああ、行っておいで」
 微笑みと共に返された言葉も自然なもの。
 その二人の手が離れる。
 視線が絡み、そして外れて。
 手の中に包み込んだ確かな証を胸に押しつけて、ビルは踵を返した。
 またここに来ることを引き離されたドラゴン達に誓いながら。
 
「行っちゃったね」
「そうだね」
「まあ、すぐに戻ってくるんじゃないのかね? 准将がそんなに長時間離さないだろう?」
「うんうん、仕事中はきりっとして格好良いんだけど、どうしてああもエロいんだろうねえ、しかも絶倫だし」
「奉仕することを厭わないのは良いんだけど、やられすぎもねえ……」
「でもでも、あのテク覚えとくと、最高。キッシュなんてすっごい喜んでくれるしぃ」
「テイル────っ」
「あ、ごめんっ、ごめん。殴らないでぇ」
「……相変わらずだなあ……。でも、テイルの言うとおりだな。俺もあいつにすっごい喜んでもらえるし」
「たまに、ネコになるのも良いかもってあのときばかりは思ったよ、僕も」
「でも、またしようとは思わないな」
「あ、それは言える。二度とはやりたくないっ」
「同感……なんというか……嵌ったら抜け出せなくなる。気に入られなくて良かったって思ったよ」
「同感だな……」
「それにビルがいてくれると准将の機嫌も良かったし、今回は楽だったねぇ」
「それも同感」
「今度このメンバーで任務入ったら、絶対ビルも呼ぼうぜ」
「そりゃあ、絶対だな」
 賑やかな一角。
 人も大勢いるテラスの一角で会話をしているメンバー達は、周りの人間がみんな引きまくっていることに気が付いていない。
 キャルス・カーニバル。
 そう遠くない未来にそう呼ばれてしまう中に自分の名が入る事が決定している事をビルは知る筈もない。
 そして、このメンバーで一つ執務室ができていることは、まだ皆知らなかった。

【了】