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目覚めた時、自分がどこにいるのか判らなかった。
つい先ほど、確かに裂けたはずの体は、違和感など何一つ無くて。
ただ、前より色の落ちた肌と肉の落ちた体が、あの岩屋の中にいた頃の名残といえば名残だった。
これは体の良い夢か、と震える手で顔を覆う。
けれど、拘束されていない手の動き、岩肌と鏡だけでない辺りの風景が、現実だと知らせてくる。
助かった、ということなのだろうか?
生き延びた、ということなのか?
呆然と思考を巡らせて、少しでも情報を得ようと辺りを見渡す。
外が明るいと気が付いて、ふらりと立ち上がって歩き出す。
ずっと歩いていなかった足は、体を支えるのが難しい。ふらふらとおぼつかない足取りで、ゆっくりとしか歩けない。
それに今は、服を纏っている──その感触がどこか煩わしい。肌の上を擦れる柔らかな生地が、固いとすら感じてしまう。
さらに情けないことに、指がうまく動かなかった。
揺るんだ靴の紐がうまく結べない。
まるで幼児のような手つきで、なんとか結んで、貴樹はふらふらと表に出た。
外に出た貴樹を迎えたのは、確かに半年前まで住んでいた街の風景だった。
振り返ったドアも、アパートのたたずまいも、何もかも変わらない。
そして。
「おお、貴樹じゃねぇか」
確かに聞き覚えがある声にぎくりと振り返れば、そこにいたのは隣室に住んでいる先輩だった。
「よ、どうした?」
ニコニコと人好きのする笑みは記憶にあるそのままだ。
ここに引っ越してきた当初はずいぶんと助けて貰い、今でも親しくしている人だ。
間違いないと、その笑みを見ている内に、ふと違和感に気が付いた。
貴樹にとっては半年ぶりの再会だというのに、先輩の態度は久しぶりに会ったというものではないように思えた。
「せ、んぱい?」
「風邪は、もう大丈夫か?」
「え……」
「昨日やった薬、効いただろう?」
「……昨日のく、すり……」
昨日、なんて……。
記憶が飛んでいなければ、貴樹はまだあの岩屋の中にいたのだ。
大きな腹を抱えて、鬼の子の胎動に悩まされていた。
「でも無理すんなよ、入院した時からまだ体調が戻ってねぇんだろ?」
入院……って。
したり顔で頷く先輩の態度が判らない。
なんだか、貴樹の知らない時間がある。
「あの、体調って……」
「災難だったなあ、足の靱帯切った上に、入院中に感染症にかかってすっかり体力が落ちるなんてさ。もう一ヶ月も経つのにさぁ、今のおまえは風邪だからってバカにできねぇから気をつけろ」
記憶が違う。
そんな筈はない。
貴樹は一ヶ月前なんて、ここにはいなかった。
「まだ、顔色悪いなぁ。寝てろ寝てろ、いるもんあったら持って行ってやるから」
先輩は昔と変わらない。明るい笑顔も、自然に人を気遣う様子も変わらない。
だが、その記憶は何だ?
どうして、貴樹がいなかったことになっていない?
心配そうな先輩に促されて、部屋に戻される。
ふらふらと三和土から上がって、部屋に戻る貴樹の目はうつろだ。
ドアが背後でぱたんと閉じた。とたんに部屋は薄暗くなり、まるであの岩屋を彷彿とさせる。
それほどまでに、あの岩屋の中の記憶は、貴樹の中にしっかりと残っている。
「記憶……操作……されて……」
どっちが?
僅かに逡巡して、貴樹はくっと喉を鳴らした。
貴樹の記憶が嘘な訳がない。
貴樹をいたぶることに手間暇を惜しまなかった稲葉がしたのだとしたら、貴樹の記憶を消すなんてことはしないだろう。
嬲るために、消していた記憶を返してきた稲葉だ。
同じく嬲るために記憶を保持したのだと、容易に推測できた。鬼に犯され続けて鬼の子を産んだ貴樹が、平々凡々な生活を送るには、あの記憶は生々しすぎた。絶望の中にいた自分が、出てこられたからと言って、前と同じになるなんて考えられなかった。
それを稲葉は見抜いて、帰したのだ──と、そう考えることしかできなかった。
「生きて……生かされて……」
まさか、と、ふらりと台所に立ち寄る。
包丁の場所も変わらない。もともとほとんど使っていなかった切っ先は、変わらずに光っている。
「っ……」
ざっくりと鋭い刃が手首に食い込んむ痛みに、小さく唸る。
溢れた血の球が、すぐに大きくなって流しにぼたぼたと流れ落ちだした。
相当な出血は、一昔前ならば大慌てするほどだったけれど。
「はは……」
貴樹の喉が渇いた笑い声を上げた。
痛みはなかなか消えないけれど、視界の中で傷がみるみるうちに塞がってきていた。
血の流れが弱くなり、薄い傷跡に僅かに滲んでいる程度。
その尋常でない回復力は、あの岩屋の中で何度も経験してきたものだ。
苗床に備わった力のそれは、どうやら子を産んでも簡単にはなくならないらしい。
この人でなくなった証拠のような力が、まだこの身に宿っていることに、驚愕できていたのは僅かな間だった。
「あ……んぅっ」
残り火のような痛みが不意に痺れるような疼きに変わった。
手首から腕へ、そして肩へと走り、血流にのって全身へと広がっていく。
末端の神経にまで、疼きが伝わる。
ドクドクと鼓動に合わせて強くなる。
その脈動がひときわ強くなった場所へ、疼きは集まってきた。
熱い。
がくりと膝を突いた貴樹の震える手が、熱の集まるペニスを包み込む。
僅かに触れただけで、ぴくんと震えるほどの快感が走った。
この体は……。
貴樹の両目からさらにたくさんの涙が溢れ出した。
全身を情欲に紅潮させながら、それでも悲痛な表情で嗚咽を漏らす。
稲葉に嬲られ続けた体は、痛みにすら欲情する。
それを思い出して、そして、あの場所を出たからと言って、何一つ解放されていないことに気が付いて。
「あ、は、あぁぁぁっ」
胸の奥が苦しい。
岩屋の中で封印していた感情までが一気に溢れ出した。
誰にも接触できずに諦めていたあのときとは違う。ここには貴樹の生活がある。普通の人たちと出会う。
自分だけが違う。
絶望にも似た感情は辛い。苦しい。
なのに、その苦しみに煽られるように、体が昂ぶってきたのだ。
苦しみ、痛みは快楽と共にあると記憶した体は、こんな絶望すら最高のスパイスとなって、体を昂ぶらせてくれる。稲葉によって変えられた体を、貴樹は冷たい板間に座り込みながら両腕で抱きしめた。
はあはあ、と荒い吐息に熱を乗せて吐き出す。
こんなことで欲情したくないと、必死で宥めようとするけれど。
耳の奥で、じゃりっと金属質な音がした。
毎日毎日聞き続けた音が、まだ耳の奥に残っている。
湿った匂いが、鼻をつく。嗅ぎ慣れてしまった稲葉の匂い、精液の匂い。
そんなことすら思い出す。
「あ、熱い……、はぁ……」
熱い体に触れる衣服が煩わしくて、貴樹はまとわりつくシャツを剥ぎ取った。
流れた血の分だけ、吐き出した熱の分だけ、体の中に熱がこもっていくようだ。
手がズボンの中に入り込み、すでに猛りきった陰茎を強く握った。
「あぁ……」
ぞくりと全身に快感が走る。
あえかな吐息が溢れる。
自分で触れる事すら許されなかったペニスが、歓喜に震えて敏感に反応する。
けれど、もの足りなかった。
熱が集まっているのはここだけではない。
未だ血濡れた手が、腰から背後に回り、ズボンの中へと入っていく。ぬるぬるとした指先が探り当てるのは、あの時、確かに裂けたはずの尻穴だ。けれど、今はもう固く締まっていて、入り込んだ指先をきつく銜え込む。
「あ、はぁぁぁ」
ぞくぞくとした甘い疼きに、ぶるりと身震いして吐息を吐いた。
もっと奥、もっと太いモノ。
この穴を引き裂く太く荒々しいモノが欲しい。
「あ、もっと……」
たくさん欲しくて、指を増やして中に入れていく。指をバラバラに動かすと、引きつったぴりぴりとした痛みが気持ち良かった。
けれど、これでは届かない。
体が硬くなっていて、指をきちんと奥まで入れるには苦しい体勢だった。
それでも貴樹は体を丸めて、どんどんと指を追加していった。
先端をすぼめた形状で五本の指が入っていく。
太い関節部を通る時には痛かったけれど、それでも先の快感を求めて、一気に置くまでと差し込んだ。
括約筋が手首を締め付ける。指先が奥を抉り、太い関節部が前立腺を押さえ込んだ。
びりびりとした激しい快感に、目の前が白く弾ける。
「あ、あぁぁぁ、あっ、はぁぁぁ」
手に残っていた血液だけで奥まで入り込んだ手が、粘液に濡れそぼり、グチャグチャと音を立てた。
イヤらしい臭いが、部屋の中に充満する。
その音や臭いに、女のようにしてやった、と稲葉に嗤われながら言われた事を思い出した。
いつでも突っ込みやすいように濡らしていろ、と言われた時には、何でわざわざそんな事を、と思ったけれど。
何しろ、乾く暇もないほどに犯され続けていた毎日だったからだ。
けれど、それは普通の生活には不要な機能だ。
そんな機能が、貴樹の体には残ったままだった。その事実に、残っている理性が悲鳴を上げる。
どこまでも、貴樹の体は、嬲られるための体なのだ、と。
「い、稲葉、どうして……、こんなの……。それに……なんで、足りないっ」
自分がどんなに恥ずかしい行為をしているか、自慰と呼ぶにはあまりにも激しい行為をしているか、判っていた。
だが、止められない。
助けて。
理性が悲鳴を上げている。けれど、鬼に変えられた体が貪欲に快感を欲する。
「あぁ、達けな──ぁっ、あっ、もっと──あっ」
ひどい……。
ぼろぼろと涙が流れ落ちる。
どんなに激しく快感の源を突き上げても、ダメなのだ。
快感は感じる。激しい射精衝動も起きる。なのに、最後の一押しが足りない。
快感だけでなく、痛みを覚えるほどに爪を立てて激しく突いても、ダメで。
「い、稲葉ぁ、ひどい……こんな……」
あんな痛みで、苦しみで、こんなにも簡単に欲情するのに、最後に達けない。
あの岩屋での激しい陵辱で変えられた体は、この程度の行為では満足しない。
その事実に泣いて喚きながら、けれど、手は激しく体を慰める。
「あ、あぁぁぁぁ──っ」
いつまでもいつまでも、腕が疲れ果てて動かなくなるまで、貴樹は自らの腕でアナルを犯し続けた。
最近の貴樹の変化に、貴樹を知る人たちはすぐに気が付いた。
先日までの貴樹は、サッカーが好きな、明るい好青年。負けず嫌いで、けれどそれも他人が我慢できる程度のつきあうには楽しい相手。
そんな貴樹が足の靱帯を切って入院した時も、友人達はすぐに見舞いに行った。入院中も明るく看護士達の人気者だったという。入院中に感染症にかかり、退院が長引いたうえに体力まで落としてしまった不運にも、皆同情していた。
だが退院してしばらくしたある日、貴樹はいきなりサッカーは辞めてしまった。同時に、付き合いも悪くなり、話しかけてもほとんど会話にならないようになっていた。
およそ気力というものが感じられず、ただ惰性で生きているようにしか見えない。
顔色も悪く、睡眠も十分取れていないのがはっきりと伝わってくる。
何人もの友人、知人が心配して、声をかけ家を訪問したけれど、貴樹の方が受け入れないのだ。
理由を何度も問いただしていたけれど、結局何も判らないまま。
だが、ただ一度だけ、貴樹がぽつりと漏らした言葉があった。
「ひとに、なりたい……」
それがどんな意味を持つのか、それっきり口を噤んだ貴樹以外誰にも判らなかった。