闇の街から(1)

闇の街から(1)

第三司令部【ヘーラ】  白亜の祈り ?闇の街から?

1
「うっ……ああっ……はあっ……あぁっ…っ!」
 激しい運動に肺が荒く空気を求める。
 体内で蠢く雄の器官に刺激を与えるために、激しく体を動かしているせいだ。
 荒い吐息に混じって、ぞくぞくとわき上がる快感に堪えきれない艶やかな声が漏れている。
 モンゴロイドの特徴を色濃く受け継いでいる上に日に焼けた浅黒い肌。それがその下の筋肉の動きに合わせてさざめいている。少し長い黒い髪が幾筋も汗で顔に貼り付いていた。
 声を出すことを強要され、溢れた唾液が口の端を流れる。
「イイぞ。もっと動けっ!」
 足の間にいるすでに老人とよんでいい男が、腰を突き上げる。
 言われて、高際海人(たかぎわかいと)はさらに激しく上下に腰を動かした。
「あっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
 さらに呼吸が速くなる。
 早く……達け……
 ざわめくような快感は気持ちいいとは思うが、それよりも足と腰の筋肉が激しい運動に限界を訴えている。
 ちくしょうっ、きつい……。
 日頃から鍛えているとはいえ、1時間、何度も繰り返された行為に体の方が限界を訴えていた。
 ヒンズースクワットを強制されているような足腰の状態に、海人はとにかく早く達ってくれることだけを願って、後孔を締め付けた。
「おおっ、イイ……もっとだ……もっと」
 くそったれっ
 色ボケっじじいっ!
 決して口に出しては言えない罵倒を糧に体を動かす。
 これが最後だっ、とばかりに海人はラストスパートをかけた。
 黒に近い焦げ茶の瞳が眼下の男を映し出す。
 はげ上がった頭。
 でっぷりと脂肪のついた体にハリのない皮膚。
 たくましさも微塵も感じられない年老いた体のくせに、ねちっこく海人を求める。
 自分は動かずに、海人に動くように命ずる。
 それに逆らえない。
 もう仕方がないと受け入れている。
 だが。
 快感にむせぶしまりのないいやらしい顔が目に入った途端、海人はぎゅっと目を瞑った。
 こんな奴のなすがままになっている自分がたまらなく惨めに思える一瞬。
 もうっ……
「おおっ、イク、イクぞっ!」
 野太い声が咆吼を上げる。
 途端に足の間の体が痙攣した。
 体内に感じる熱いほとばしりが少なからず刺激を与えて、ぞくりと震えが走る。
 だが、それは嫌悪も同時に湧き起こさせ、それが快感を遠ざけてしまった。
「んっ…はあっ…はあっ……はあっ……」
 新鮮な空気を求める肺が、喘いでいる。
 余韻などない。
 やっと終わったのだという安堵感だけがそこにあった。
 海人の雄の器官は、確かに固く反り返っている。
 だが……激しい呼吸が収まるにつれ、それは確実に柔らかく萎えていった。
 腰の上から倒れるようにベッドに崩れると、ずるりとなまめかしい音を立てて体内にあった器官が抜け落ちる。
 もう嫌だ……。
 何度思ったことか。
 男のモノが体の中から抜け落ちるその瞬間は、総毛立つような不快さをもたらす。
 その感触を、海人はおぞましい思いで受けとめながら、ずるりとベッド下まで転げ落ちた。
 冷たい床の上に転がっている脱ぎ散らかした服を手を伸ばしてかき集める。
 その動作に気づいたのか、ベッドの上から声が降ってきた。
「なんだ、もう帰るのか?」
 振り返れば、とろんとした皺だらけの顔がベッド上から覗いている。
 こんな奴が……この街を取り締まるはずの長の一人……。
 ぎりりっと奥歯を噛みしめると、視線を服に戻し、手早くそれを身につける。
「仕事がある」
 だが、それは方便だった。
 立ち上がった途端に体内から流れそうになる男のモノを尻に力を込めてせき止める。
 出してくるな……という命令だった。
 命令に逆らえば、休ませてもらえない。
 早く帰らないと……。
 過剰な運動のせいで下肢に力が入らない。それでも無理に動かして、部屋を出ようとしてドアノブに手をかけた途端、背後から男の野卑た声が投げつけられる。
「お前の体は、どんな女よりもやらしくて締め付けてくれる。また頼むぞ」
 とたんにこみ上げる怒りを強く唇を噛みしめることで堪えた。
 無言のままドアをすり抜けると、廊下に出る。扉を閉め、数歩歩いたところで立ち止まった海人は、ぎりりと握りしめた拳を傍の壁に叩きつけた。
「……っ!」
 壁に当てられた拳がふるふると細かく震えていた。
 
 
 海人は、恒星アーリスの第三惑星ターラスにある悪名高い歓楽地テリアのど真ん中にある警察署の警官をしている。
 全てにおいて正義からかけ離れた警察署で、先ほどの相手はそこ署長だ。トップですらこの状態だから、テリア警察署に正義感どころか倫理感すらもない。いや、この街の行政自体がすでに狂っていた。
 海人とて警官になる前は、売春組織の中にいた。
 10歳にその組織に買われ、14歳からずっと体を売って生活していたのだ。
 もともと幼いときからすっと通った鼻筋に切れ長の目という綺麗な顔立ちをしていたから、男達が好んで海人を買った。
 そんな海人に目をつけたのが今の養父だ。
 180cmを越える長身にスレンダーな体躯を持っている海人に、署長の相手をさせているのも養父だった。
 高際征(たかぎわせい)。テリア警察署の副署長で、海人の主人であった。
 その征の前に進み出た海人は全裸だ。
 帰宅してすぐに征の部屋に入った海人は、すぐに全裸になることを強要された。それに反論は許されない。
「見せてみろ」
 きっちりと警察官僚の制服に身を包み、ソファに浅く腰をかけ組んだ足のつま先を海人に向ける。
 その足で促されるように、海人は尻を征に向けて跪いた。
 典型的なモンゴロイドである海人の黄色みを帯びた肌が羞恥に赤く染まっていく。
 嫌なのだ。
 海人は、売春行為を日常的にしていたのに、その行為に決して慣れることはなかった。
 幼い頃に躾られた倫理観や性に対する道徳観が根強く残って消えることが無かったのだ。だが、それが海人を余計に辱め、また客や征のような相手を悦ばせる。
 海人にとっては屈辱的な命令を、甘んじて受ける海人の顔は、しかめられ汗がじつとりと滲んでいた。
「もっと尻を上げろっ」
 伸ばした足先が海人の形のよい尻を蹴る。
 抗おうとする理性を、必死で押さえつけて海人は、征の命令のままに尻を高く掲げた。そうすることで、他人に嬲られた痕跡がはっきりと征に露わになる。
 シャワーを浴びずに帰ってきたそこは、まだ赤く充血し、しっとりと濡れているどころか、乾いて固まった残滓がこびりついている。あまつさえ、行為の際に使ったゼリーが太股に至るまでべっとりとついている状態だ。
「広げろ」
 その言葉にぐっと息を飲み込み、固く目を閉じたまま自らの手で双丘を割った。よりはっきりと露わになったそこに、自分の指を差し入れる。
 行為の名残のお陰で指は意図も簡単に穴の中に吸い込まれていく。
 まとわりつく自分の肉壁。
 その中にあってねっとりとした液体が指に絡みつく。
「……うっ……く……」
 指を掻き出すように動かすと、ざわざわと充血して敏感になった肉壁が刺激をはっきりと伝えてきた。指を伝ってとろりと流れ出す熱い液体が太股を流れる感触に、ぶるりと体が震える。
 苦しい姿勢のままなんとか掻き出して指を降ろした海人は、それでも腰までは降ろすことができなかった。
 何も言わない征をちらっと窺うと、征と視線が合ってしまう。
 くっ……。
 バカにされていると悟った。
 征よりも体格のいい海人が、言いなりになる悦びが征を支配していた。
 だからこそ、征は海人に屈辱的な姿勢を好んで取らせる。
 それが判っていても、海人は征に逆らえない。
「ふん……いい加減色ボケしている奴らしい量と濃さだ。ずいぶんとたくさん入れて貰って嬉しいだろう?」
 つんつんとつま先が尻をつつく。
 嬉しい?
 何が?
 海人は無言で首を振っていた。
 嬉しいわけがあるはずもなかった。
「おや……嬉しくないのかい。こんなに入っているということは、相当あいつに楽しませて貰ったはずなのに……」
 つま先が後孔をぐりっと抉り、その痛みに苦痛の声を漏らす。
「…ち…がう……」
 そりでも……と必死で漏らした呟きは嘲笑で返される。
「何が違うって?あの老体がその体に鞭打ってこれだけ吐き出したんだ。それだけ頑張ったというのに、まだ足りないと言うのか、お前は?」
 靴のつま先が緩くなっている後孔に沈み込む。
「あっ……いやっ……」
 開かれる痛みが海人を襲う。
 いびつな形に押し広げられ、支える足が崩れ落ちそうだった。
 や、やだ……。
 自然に腰が逃れるように動く。
 だが、そこから逃れることはできなかった。だから僅かにしか動けないその動きが、まるでより以上の快感を得ようとしているように征には見えるらしい。
「……ああ、お前はどうしようもないほどの淫乱だからな。この程度では足りないか……。お前のここは常に男を銜え込んでいないと気が済まないんだったな」
 違う……。
 零しそうになった言葉を必死で飲み込んだ。
 それでなくても耐え難い疼痛に責め苛まれ、口からはうめき声しかもれない。
「くっ……うう……」
「ふん、淫乱雄豚が……」
 ずるっと征の靴先が抜け落ちた途端、海人の体が床に沈み込んだ。
 その顔の横に征の足があった。尖った靴先が海人の体液でじっとりと濡れている。
「舐めろ」
 嫌だ……。
 心はいつもそう言っている。
 なのに……。
 海人は、上半身を起こして征の足下に躙り寄ると、征の靴先を舐め始めた。
 もう体が意志に反してでも命令に従うようになってるのだ。
 海人の赤い舌が征の黒い靴の上で動く。
 それを見ている征の目に、残虐な炎がちろちろと揺らめいていた。

 

 海人は決して征には逆らえない。
 征の手にあるのは海人の生活だ。
 征がもし「帰れ」と一言言えば、海人は元の生活に戻ることになるのだ。
 嫌で嫌で堪らなかった売春の仕事に。
 その世界を取り仕切る頭であるリョウの手から海人を譲り受けたのが征であった。
 警察署の副署長という肩書きながら、売春組織と完全に癒着している征に気に入られたからだ。だから、もし征が海人に飽きれば、海人はリョウの元に返される。
 あの、不特定多数の男女を常に相手にし続けなければならない世界に。
 この街で、親を失った子供の運命は過酷だ。
 海人も10歳の頃に両親を失い、保護されることなく売春組織に売り払われた。
 その時に、誰かに支払われた多額の金。
 それが海人の借金となって海人を拘束していた。
 逃げれば死の制裁。
 それは海人が22歳になった今でも、残っている。
 征に飼われている間、リョウと征の契約によって征が幾ばくかの金と利権を与えているらしい。
 だから、海人は征に逆らえない。

 いつの間にか立ち上がっていたのか、征の手が海人の背を押さえた。
 その重みに、上半身が再び床に突っ伏した。
 え……。
 ふと後孔に異物感を感じた。
 その慣れた感覚にはっとなって体を起こそうとするが、背を押さえられ、それも敵わない。
「うっ……く……」
 ようやくすぼまっていた後孔を広げながら侵入したそれは、難なく胎内に入り込む。
「淫乱なお前に、玩具を用意したからね。楽しみなさい」
 ぎくりと体を震わしたのと、かちりと小さな音がしたのとが同時だった。
 とたんに、胎内に激しい刺激がわき起こる。
「う、あっぁぁぁ」
 多数の虫が胎内を蠢くその感触。
 海人がもっとも苦手とするそのおぞましい感触に全身が総毛立つ。だが、それは堪えきれない快感をも海人に与えていた。
「好きだろ、お前はこれが」
 くつくつと嗤いながら征が、びくびくと床の上で震えている海人の脇腹を蹴る。
「うっく……あ、ああっ……」
 苦痛と快感にうめき声とも喘ぎ声ともつかない音を漏らす海人は、征が嗤っているのにも気づかない。
 ワームバイブ。
 球体の表面から伸びた5cm程度の多数の触手が蠢き、その触手の動きがそれを胎内で自由に動かせる。
 それがまるで意志を持っているかのように海人の中を動き回り、前立腺を責めさいなむ。
「ひっ、いあっ……あぁぁ」
 胎内で暴れるそれに煽られるように海人は床をのたうち回っていた。
 ワームバイブの与える刺激は強すぎる。
 それでなくても署長との情事の後で、まだそこは熱く熱を持って疼いていた。
「ひぃぃぃっ!」
 ものの5分も立たないうちに海人が精を吐き出し、それが床に幾つもの白い液だまりをつくる。
「おやおやそんな良かったのかい。相変わらず、我慢の足りない奴だ」
 一度放出して現実に意識を取り戻した海人が、征の言葉にはっと我に返る。
「あっ……す、すみません……あはっ」
 放出したからと言ってワームバイブが動きを止めるわけではない。
 そのコントローラーは征の手の中にある。
「お…願い…うっあ……しますっ…くっ…止めて…くだ…い……」
 体を必死で起こして、征の前に跪く。
 きつい……。
 もう……止めて……。
 体の中から叩き上げるような刺激が全身を襲う。
 息も絶え絶えに願う海人を、征は薄ら笑いを浮かべて見下ろした。
「では、私を達かせなさい」
 そう命令するとソファに戻る。
 足を広げて座った征は、それでもワームバイブの動きを止めるつもりはないようで、海人の胎内を蹂躙する動きは止まらない。
「あ……やっ……」
 署長としたときは、あっという間に萎えてしまった海人の雄は、今度は持ち主の意に反して猛り狂っている。
 滴を滴らせ、次の放出のタイミングを計っているかのようにびくびくと震えていた。
「早くしろ。10秒以内にこないと、どうなるか判ってるのだろうな?」
 イライラとした口調に、海人の体がびくりと震えた。
 4年。
 もう4年間、征の元にいた。
 警察学校に行くために6ヶ月間宿舎に入れられたその時だけが海人にとっての自由だった。
 だが、それ以外はずっと征の元だ。
 だから、その言葉の意味はよくわかっていた。
 海人は快楽の波に溺れて、持ち主の意志に逆らおうとする体を必死で動かした。
 征はそんな海人をあざ笑うように、手の中のコントローラーを動かし、強弱をコントロールする。そのたびに海人の体が床に崩れ落ちた。
 10秒。
 長いようで短い。
 あ……あ……もう少し……。
 苦痛と快感に浮かんだ涙のせいで潤んだ視界の先に、征の股間が見える。
 後……少し……。
 必死で手を伸ばす。
 あと、僅かでその手が征の股間に届く、その瞬間。
「10秒立ったぞ」
 冷たい宣告とともに、征がすくりと立ち上がった。
「あっ……」
 また……。
 絶望的な想いが海人の心を占める。
「淫乱な体は私の命令より、中の物がよっぽどいいようだ」
 見下ろされる視線には嘲笑が込められている。
「す…み……っ…ませっ…あっ」
 いきなりワームバイブの動きが激しくなる。
「ひ、ああっ……ああっ……っ!」
 襲い来る快感に腰が勝手に動く。
「達ったら許さないよ」
 その声すらもうはっきりとは聞こえていない。
 その海人の後孔に、征がいきなり押し込んだ。
 そのせいでワームバイブがぐいっと押し込まれる。
「あ、あああっ」
 達くっ!
 頭がスパークするっ!
「っ!ひぃぃぃっ!!」
 白く染まりかけた意識は、次の瞬間真っ赤に染まった。
 激しい痛みが海人を襲っていた。
「達くのは許さないと言っておいたが」
 征の冷たい声が降ってきた。
 だが、海人は解放寸前に強く戒められたその痛みに完全に意識を奪われていた。
「いやぁぁぁっ!痛ぁっっ!」
 叫ぶ声とともに唾液が口の端からだらだらと漏れる。
 痛みから逃れようと腰を動かすが、それは余計に戒めをきつくした。
「私が達くまで我慢しろ」
「あああっ」
 激しく奥を抉られる。
 腰が叩きつけられるたびに、海人の目が見開かれ、汗と唾液が辺りに飛び散る。
「い、達かせてっ!あ、おね……がいっ!ああっ……ああっ……」
「許さん」
 決して許されない解放を求めている海人を責め立てる征。
 その顔は恍惚に満ちていた。
「あ、ああっ」
「んっ」
 征がぶるりと体を震わせると、途端に熱い迸り海人の胎内に叩きつけられた。
「あああっ」
 それでも解放されないため、海人はひたすら身もだえる。
「お、願い……達かせてえ……達き…たい……」
「いやらしい体だ。我慢しろと言っているのにな」
 握りしめられた手は緩まることがなかった。
 取り出されたワームバイブが床に転がっている。
 それにべっとりとついた残滓は征のものだ。
 海人は、最後まで解放を許されなかった体をぐったりと床に投げ出していた。
 海人の器官がある程度萎えてしまうまで、戒められた手は緩められることはなかったのだ。
「次は何をしたい?」
「何も……」
 その声は完全に掠れていた。
 何もしたくない。
 もう部屋に帰って休みたい。
 それが今の海人の願い。
「ふむ……明日も仕事だしな……」
 だが言葉とは裏腹にふっと征がほくそ笑むのを、俯いていた海人は気づかなかった。
「海人」
 征の呼びかけに、海人が視線を向けた。
「今日はもう部屋に帰って良い」
「えっ?」
 そんな言葉が聞けるとは思っても見なかった海人は思わず小さく叫んでしまう。
「なんだ?そんなにまだやりたいのか?」
 ニヤリと嗤われ、慌てて首を振る。
 もう、ごめんだ。
 だが……。
 経験が、ざわめいた予感を与える。
 この男がそう簡単に海人を許すことはない。
 疑いにを込めた視線は、楽しそうに嗤って返された。
「10秒。また10秒数えるぞ。それ以内に出て行かないと、鞭打ちでもするか?」
 海人はその言葉を聞いたとたん、服を抱えて全裸のままその部屋を飛び出した。
 

 バタンとドアを閉める。
 小さな机と情報用端末。そしてベッド。
 それが海人の世界だった。
 後ろ手に閉めたまま、ドアに背を預けていた海人はずるずると滑り落ちると、膝を抱えてうずくまった。
 胸の奥から熱い塊がこみ上げる。
 どうしようもないことだ……。
 何度も何度もそう自分に言い聞かせた。
 それでも、何かの拍子に堪らなく自分が惨めに思える。
 もう忘れていたと思っていた、両親が生きていた頃の幸せを思い出してしまう。
 断片的とはいえ、それが襲ってくると、もう海人は堪えきれなくて嗚咽を漏らすしかない。
 それでも……。
 征の庇護下から外れることは考えなかった。
 また、あの場所に戻るのはどうしても嫌だった。
 今を知ってしまったから。
 警官として手に職を持って生きることを知ってしまったから。
 それが最低のモラルしか持ち得ていない警官だとしても……。

「うくっ?」
 嗚咽を漏らしていた海人の喉が、違う呻きを漏らした。
 どくんと心臓が高鳴り、目の前がぼやける。
 中からわき起こる熱が全身に飛散して、それが一点に集中する。
「う……あっ……」
 どくどくと波打ち、血が集まる。
 萎えていたはずの海人の雄が、見る間に勃ち上がった。
「あっ……ま…さか……?」
 薬?
 急な変化に体から力が抜ける。
 なのに、手を動かせと脳が言う。
 動かして、自分を握りしめろ。
 握りしめて、激しく扱け!
 先ほど達かされなかったせいか、あっという間に海人の器官は雄々しく勃ち上がってしまっている。
「あっ……やっ……」
 動こうとする手をぐっと握りしめ、床を撃つ。だが、その痛みすら快感となって海人を責め苛んだ。
 全身がより激しい快感を求めて震え、自我が崩れそうになる。
 きっとワームバイブを取り出す時に入れたのだと……。遅効性の薬……催淫剤を。
 それが今、海人の体を苛み始めた。
「あ、ああ……うぅぅぅ……」
 達きたい……。
 触れたい……。
 意識がそこに集中する。
 だが、同時に、ここではしたくない。
 こんなことで達きたくない……。
 そんな思いもわき起こる。
 だが、それが海人を余計に苦しめるのだ。
 海人が持っている羞恥もプライドも、全てを根こそぎ奪うようにし向ける。
 それが征のやり方だった。
 ここは、たった一つの海人のテリトリーだった。
 時には征に蹂躙される場でもあった。だが、ことが済めばここは海人の部屋だ。
 今ここに征はいない。
 だが、胎内で暴れる熱は、征そのものだ。
 その熱に浮かされそうになると征の視線を感じる。
 その手を伸ばせ。
 いやらしい体を自ら弄べ。
 そんな声が間近で聞こえる。
 あ……や…だ……。
 気がつけば、固く握りしめる手があった。
「ああっ」
 ずきりと痛いほどの刺激を感じ、喉から悦びの嬌声が漏れる。
 とたんに理性は崩壊した。
「い、ああ、いいっ……イイっ……あぁぁっ!」
 激しく上下に擦り上げれば、あっけなく達ってしまい、その手を汚してしまう。
 だが、そこはまだ萎えない。
 達く事が新たな刺激になって、まだだと海人を誘う。
 ふっとその視界に、ヘアムースの容器が目に入った。
 ごくごく普通の径が3cmほどの円筒状の容器。
 あれで……いい……。
 薬に支配された思考が、それを別のモノに見せる。
 海人はずりずりと這うようにしてそれに近づいた。
 それが欲しくて欲しくて堪らなかった。
 海人はそれを手に取ると、濡れてもいないそこを無造作に後孔に突き刺す
 海人のモノより乾いた表面が孔の縁で絡みつく。太いそれは痛みを与えたも関わらず、海人はぐいぐいっと押し込んだ。
 入りきったとたんに海人は欲望の証を吐き出した。
 それでも手は止まらない。
 イイところを突き上げるように何度も何度もそれを動かし、もう一方で前を扱く。
 擦る先から、何も出なくなっても、擦り続ける。
 体が止まらない。
 欲して、欲して堪らない。
 こんな固いモノでなく、別のモノが欲しい。
 柔らかくて固くて熱いモノ。
 それが欲しい……。
「あ……やあっ……あぁぁ……」
 口の端から唾液が溢れ、喉を伝う。
 後孔が異物で広げられても、それで体が満足しない。
 もっと、もっと……。
「あ……たす…けて……」
 体の中を駆けめぐる熱が暴走している。
 どうすればいい?
 こんなモノじゃ足りない。
 助けて……誰でもいいから……入れて……めちゃくちゃにかき回して……。
 溢れる涙は辛いから。体と心が辛いと叫ぶから。
「い、ああああぁぁぁっ」
 ……。
 結局その地獄のような欲望の嵐から解放されたのは、それから1時間後だった。
2
 ……なんだよ、ここ……。
 アキヤ・カーサスは呆然とそこに突っ立っていた。
 入ってきたときからもう10分は経っている。
 薄汚れた待合室は、座れるのが不思議なくらいのイスが転がっている。
 皆一様に苛ただしげに眉間にシワを寄せ、自分の番が抜かれないように辺りを警戒している。
 そうぼやっとしていたら、あっという間に割り込まれるのだ。
 アキヤもここに用があって来たのだが、いくら経っても前の人数が減ることはない。
 アキヤのそのあまり変化しない表情の中で、翡翠色の瞳を持つ目が僅かに細められる。
 ちょっとここにいただけで、警察署の中というのに何度もとっくみあいの喧嘩が始まる。
 それに警官達は全くの無関心だ。
 警官達のテリトリーというのに、安全地帯ではない。
 怒号と破壊音。
 そんな騒音は子守歌代わりにもならないとばかりに居眠りを決め込んでいる輩もいる。
「てめーえぇっ!出てこいやあっ!」
「うるせーっ!」
 視界にきらりと光ったそれに一瞬気を取られたが、警官の一人が軽々とそれをいなしているのが視界に入る。
 対する警官のそれ相応の技量が見て取れて、改めて彼らも警官なのだとは認識できた。
 ああ、……やせても枯れても警官なんだ。
 そんなことを思っていたときだった。
「おい……?」
 突然声をかけられた。
 気を取られていて、近づかれるまで気がつかなかった。
 はっと顔を向けると、視線の先に自分より背の高い男が立っていた。
 まだ若い。
 たぶん、同じくらい。
 黒い髪を掻き上げながら、目を細めてアキヤを見つめている彼を見たとたん、ずきりと感じるモノがあった。
 それが下肢の間からわき起こったと知って、ひどく狼狽える。
 だが、それを外に出さないでいられるほどには自制心があった。
 この人……えらく色っぽい……。
 整った顔が余計にそう思わせるのだろうか?
 少し朱い目の縁のせいなのだろうか?
「ここじゃ、そんなに遠慮していたらいつまでたっても先に進まない?」
 微かに首をかしげてアキヤを見るそれは、ひどく優しそうに見えた。
 この街に来て、初めて見た。
 そんなに優しそうに他人を見る目。
「はあ……」
 アキヤ達の背後で、一際高い怒鳴り声が聞こえた。
 ふっとそれに視線を向けると、よぼよぼの老人が受付の警官に向かって怒鳴っている。
 店のお客が物を壊したのに、通報した警察が来なかった……という苦情を、警官が、けんもほろろに追い返している。
 それを見て、ほおっとため息をつく。
 確かにここでは遠慮なんかしていたら、どうにならない。
 それは判っているのだが、かと言ってこの連中達に割り込む気にはなかった。
 アキヤは目前の男に視線を向けた。
「で、何の用なんだ?見たところ、この辺の人間じゃないだろ?」
 男の銜えられたタバコからぽろりと灰が落ちた。
 それを慌てるふうもなく足でささっとその灰を壁際に払う。
 そんな姿でも、映画俳優のように目を引く。
 困った……。
 なんで男相手に目が離せないんだ?
 アキヤは自分の気持ちが整理できなくて、イライラと柔らかく僅かに巻いた栗色の髪を掻き上げる。
 その拍子にちらりとその両の耳たぶを飾った翡翠色の涙型のピアスが現れた。
 それに男の視線が言ったような気がして、アキヤはその手を髪から離す。
 ピアスは……自分の国では、自分の証。
 だが、ここでは何の意味もなさないとは判っていても、そう人目に晒すことはない。
 たぶん男も、ちらりと見えた色に反応しただけだろう。
 アキヤは自分の感情を押し込める術を知っていた。
 だからアキヤの動揺を男に知られない自信はあった。
 だから、見上げる。
 その男に困ったようなに眉をひそめて見せて。
「ええ。先日ここに来たんですけど……」
 男の目が探るように見ている。
 それがひどく強い。
 警戒…もしているのだろう。
 それに探るような視線を向けたら、顔をしかめられた。
 だが、次の瞬間それはふっと緩められた。
 え……?
 途端に魅入られる。
 先ほど思ったが、翳りのある表情の中に見える優しさが笑顔の中に露わになる。
 それに誘われるように口を開いていた。
「あの……道を聞きたくて来たんですけど……やっぱり、無理そうですね」
 その言葉に、相手がタバコを銜えなおした。
 じろじろと何かを探るようにアキヤを見渡す。
「どこに行きたいんだ?」
 ようやく口を開いた男は、同時にくすりと笑みを零す。
 自信なさそうなアキヤの態度に呆れたのかもしれない。
 それが端正な海人の顔を柔和な物にする。
 ああ、やっぱり。
 この人は笑うと素敵だ。
 妙な艶やかさが消える替わりに、優しさが強まる。
 それがアキヤの警戒を解れさす。
 つい、笑ってしまった。
 口の端を緩めるだけの、僅かな微笑み。
 だが、その途端に男が一瞬目を見開き、その口元が苦笑に変わる。
 えっと……ぼくは何かした?
 見つめたまま、目的地を告げる。
「あの……カーサイド・ホテル……」
 前にいた街から荷物だけは先に送ったのだが、いざ自分が行こうとするとひどく道が判りにくかった。
 新しい地図のはずなのに、その地図が正確ではない。
 道のはずなのに道がない。
 アキヤは困ってしまって道を尋ねようと目についた警察のマークに誘われてここに入った。
 そのホテルの名を聞いた彼は黙って頷いた。
 肩にかけていたジャケットをいったん手に取り再度掛け直す。
 それすらも様になる。
 別の場所にいた濃い化粧をして肌も露わな女性達が熱い視線を送っている。
 それには全く無関心な彼は、アキヤに向けてくいっと顎をしゃくった。
「ああ……ちょうど暇だから送ってやろう」
 え……。
 驚いた。
 優しそうな人だとは思ったが、そこまで親切にしてくれるとは思わなかったのだ。
 数歩先に進む彼の後ろ姿を呆然と見つめる。
 信用してもいいのか?
 この街に入ってからずっとまとわりつく不快な気分が、必要以上にアキヤを警戒させる。
 それに気づいた彼が振り返った。
「来ないのか?」
 目をすがめて睨まれ、アキヤは、どうしようと逡巡した。
「でも……」
 信用できるのか?
 この街に来る前にさんざんみんなから脅されている。
 ガイドブックにも最低の街、人を信用できない街。
 はっきりとそう書かれていた。
 だが、そんな街を選んだのはアキヤ自身であった。
 だから自分の身は自分で守らなければならない。
 と、男が胸ポケットから身分証を取り出して、アキヤの前にちらつかせた。
「俺は、高際海人。ここの警官だよ」
 そのカードと海人の顔を交互に視線を移動させる。
 警官……この人が。
 だが、あの感じる優しさは今も変わらない。
 アキヤは足を進めると、海人の傍まできた。
 海人の行為に応えるように身分証を掲示した。
 学園都市星ユニバーサルの国印が入っており、アキヤが大学院生だと言うことが示されていた。
「アキヤ・カーサスと言います。お手数をかけますが、お願いいたします」
 ぺこりと頭を下げると、海人は困惑の表情を浮かべて、肩をすくめた。
 ちょっと丁寧過ぎたかな?
 アキヤの脳裏にも苦笑が浮かぶ。
「歩いて10分ほどだから、暇だったらついでに観光案内でもしてやるよ。はぐれないようについて来いよ」
 ニヤリと嗤う海人がどこか楽しそうだ。
 だからアキヤも付いていった。
 楽しいことは好きだ。
 そして、それがどんなことであろうと対処できるくらいは度胸がある。
 アキヤは、誰にも気づかれないようにその口元に笑みを浮かべた。

 

 警察署の外に出ると、海人は外の日差しに目を瞬かせた。
 体が怠い。
 とんとんと腰を叩き、空を仰いだ。
 ああ、もう……。
 昨夜の責め苦は海人の身も心もずたずたにした。
 朝、起きあがることもできずにしばらくのたうっていたほどだ。
 だが、仕事はやってくる。
 トップ達の乱行はともかく、同僚達とともに仕事をするのは結構楽しい。
 今の海人にとって、それが唯一の息抜きだった。
「海人っ!」
 呼びかけられ、ふと振り返ると同僚のキースが手を振りながらかけてきた。
「ああ、何?」
「何って、お前どこ行くんだよ。朝っぱらからすっげー疲れた顔してたくせに」
 心配そうに顔を覗き込んでくるキースに苦笑を返す。
 あいかわらず……。
 キースはいつもそうやって海人を心配してくれる。
 その原因が決して口に出して言えるものでないだけに、その心配に素直に答えることはできないが、それでも彼の心配は海人をほっとさせるものだった。
「ああ、ちょっと息抜きかねてこの人を道案内してくる」
「はあ……珍しいことするな」
 ちらりとアキヤの方を見たキースが声を潜めて海人に話しかける。
「珍しいか?」
「ああ……お前、今までしたことあるか?」
 改まって言われると、そんなことしたこと無いような気がする……。
「いや……なんか、放っとくと犯罪に巻き込まれそうなタイプじゃないか?」
 海人も声を落としてキースに囁く。
 言われてキースも苦笑混じりに頷いた。
「確かに可愛いどこかの坊ちゃんタイプだな。まあ、いいか……気をつけていってこいよ」
「ああ……なんか今日は仕事する気もないし、後頼むわ」
「ああ」
 手を振って別れる。
 その姿が警察署の中に消えるのを確認すると、思わず大きなため息が漏れた。
 はああ
 キースとは仲がよい。
 なのに、どうしても言えないことがある。
 そのせいでどうしても話がぎこちなくことがあって、それが海人を疲れさせるのだ。
 キースと話をするのは、楽しいはずなのに……。何もかも……征とのことが海人を苦しめる。
 思わずついたため息に、アキヤが申し訳なさそうに話しかけてきた。
「すみません……お疲れのようなのに。場所さえ教えて貰えれば自分で行きますから」
 そんな人を気遣う言葉などキース以外に久しぶりに聞いたような気がして、海人はアキヤを見つめていた。
「いや」
 端的に答える海人自身、なんでそんな気になったのか、が実は不思議だった。
 顔立ちは海人の好みの範疇ではあるが、ごくごく普通のノーマルな男だということは見て取れた。なのに何でこんな無表情で面白みのなさそうな男に声をかける気になったのか?
 後からきた人に押しのけられ、いっこうにカウンターにまでたどり着けないその鈍くささに呆れたのかもしれない。
 栗色の柔らかそうな髪は思わず手を突っ込んでぐしゃぐしゃにしたいような気分にさせる。身長は海人よりは10cmばかり低そうで細身。ちょっと見下ろすようになるのだが、だからといってひ弱な感じはしない。動くたびに薄地のTシャツの下から適度な筋肉が動くのが見える。
 あいつらの好きそうな体だ。
 ふっと征と署長のいやらしい顔が浮かび、慌てて追い出した。
 あの二人は揃いも揃って、適度な筋肉のついた、だがごつくはない体が好みなのだ。
「いいんだ……どうせ、暇だったし……ほら、来いよ」
 笑って、その背を押して促す。
「はい」
 ほとんど無表情に近い顔が時折ほころぶ様を、もっと見たいと思うのは何故だろう?
 ささくれだった神経が、ふっと和むのは何故だろう?
 考えても結論のでないことを悩んでもしようがないと、海人は頭の中の疑問を一緒くたにして隅へと追いやった。
 狭い脇道を縫うように進む。
 時折、酔っぱらいが道をふさいでいるのを海人がけっ飛ばして道を開けさせる。 アキヤは思わずそれに不快そうな視線を向けて問いただしていた。
「そんな蹴飛ばすことないじゃないですか?」
「昼真っから飲んだくれている奴に同情の余地はないね。ここでは自分の足で立ってない奴は、放置されてのたれ死んでも仕方がねーんだ。あんたも気をつけな」
「……はあ……」
 路地裏で明らかに薬をやっている連中を見て見ぬふりをする海人に、アキヤは口を開こうとして結局止めた。
 海人の目が時折冷たくなる。
 アキヤはそんな海人を見ていて彼がこの街を好んでいないことを知った。
 嫌悪に満ちた表情が見え隠れする。
 酔っぱらいもジャンキーも、まるでそれがこの街の象徴だというように、手荒に扱う。
 それがこの街の対処の仕方だといえばそれだけなのだろうが、アキヤにはそれがそれだけではないような気がした。
 路地裏を好んで行く海人に付いていくと、彼が案内しているのがこの街の暗部ばかりだと、すぐに気が付いた。
 彼の思惑がどこにあるのかは判らない。
 ただ、本当のこの街というものをアキヤと見せようとしているのかもしれない。
 それはそれでありがたかったが……。
 アキヤ自身、この街を選んだ時点でもっとも見たかったところだ。
 好奇心は身を滅ぼす……とは言われる。
 アキヤの今の暮らしは、どちらかと言えば安穏としている。
 だが、それを潔しとしない思惑も、実はあった。
 外見は静かで控えめだが、その実、結構苛烈なところがある。
 そんな性格が、こんな街を選ばせたのだろう。
 たった一度の公費による出国。
 みんながリゾート地を選ぶというのに……。
「あんた……なんでこんなとこ来たんだ?どう見ても似合わない」
 もっと海際のリゾート地のホテルでぼやーんとしている方がよっぽど似合う。
 そんなニュアンスのことを言われて、はっと我に返る。
 そうかもしれない。
 そういうところでぼうっとしたいという考えも実はあったのだ。
 だが。
「……見たことのない所に行きたかったから……」
 ぽつりと呟く言葉は聞き取りにくかったのか、海人は足を止めて振り返った。
「何?」
 それに少し大きくした声で、返す。
「こういう所、ぼくの育ったところはないから」
 それを聞いた海人がふっと首をかしげ、そして頷いた。
 それで納得するほど、ここが異常だと言うことは知っているのだろう。
「へえ……俺は、ここで育ったからな。これが普通だと思うけど。だけど、あんたは、どっか綺麗で整然とした街で育ったんだろ。衣食住に困ることなく、親の庇護のもとでのびのびと成長した……て感じ。俺なんか、そんなところ、もう無理だろうな。もうここ以外の場所だと、住めないだろうし……」
 ふっと海人が小さな声で呟いた。
 それは口の中で転がるように消えていった言葉だったが、アキヤの耳には聞こえてしまった。
 ……俺みたいな汚れた体……は……。
 その言葉に眉をひそめたことは海人には気づかれなかった。
 どういう意味だ?
 その疑問は海人の次の言葉で立ち消えた。
「あんた、幸せなんだろうな」
 口元に浮かんだシニカルな笑みがなぜか痛々しく感じる。
「どうして?」
 思わず問いかけた。
 どこか、きょとんとしてしまったのだろう。その問いかけに海人は、うっと息を飲んだようだった。
 だが、結局その返答に答えはなかった。
 ひどく苛立たしげな眉間のシワに、アキヤも口を噤む。
 幸せ……か。
 確かにそうかもしれない。
 そして、それに気づかないでいる自分を見ると、彼をいらだたせるのだ。
 彼は幸せではないのだろうか?
 アキヤは、そんな彼にますます興味を持った。
「どうして?」
 反対に問いかけられた途端、海人はうっと言葉に詰まる。
 幸せの中にいる者は自分の幸せには気づかない。
 その言葉が頭の中を駆けめぐる。
 ここにいるのなら、僅かな悦びに幸せを見つける。たとえ、ほんの僅かでも、それに縋り付く。
 喰うものに困らない。
 それだけでも幸せだと思えるのがこの街だ。
 ここでは安穏は望んでもなかなか手に入らない。
 だから、幸せというモノの意味が皆、何よりもよく知っている。
 それを決して手に入れることのできない者もいるからだ。
 そして、その幸せな地位にいることにも気づかないアキヤは、海人の神経をイラだたせた。
 確かにこの街では絶対に見ることのできない坊やだ。
 海人の視線に気づかないのか、アキヤはどこか茫洋とした視線を周囲に向けている。
 何を見ているのか……。
 視界にうつる全てが灰色の世界。
 こつんとつま先に当たるモノを見れば、エネルギー切れの銃だ。使い捨てのそれを軽く蹴飛ばす。
 こんなモノがあちらこちらと転がる街。
 使われた銃の数だけ、死体が転がる。
 そんな街の暗部に暮らすのが海人だった。
 そして、決してそれに馴染むことがなさそうなのがアキヤ。
 ……ったく、どうしてそんな奴がこんな所に来るんだろう。
 こんな奴を見ていると自分がひどく汚れているように感じる。
 その無垢な白さが眩しくて、自分の色……黒く染めたくなる衝動に駆られる。
 ごく普通のノーマルな男。
 この街の暗部に放り込めば、あっという間に絡め取られて逃げ出せなくなるだろう。
 白ければ白いほど、一度染まってしまえばもう元に戻ることはない。絡め取られると逃げ出せなくなるのだ。
 そんな彼に男の味を教えたくなる。
 汚したくなる。
 だが、それはできない。
 海人は込み上がってきた衝動を必死で押さえる。
 なぜ……自分はこんなことを思うんだ?
 単なる観光客だ。
 金を大量に落として帰っていく金蔓。
 なのに……気になってしようがない。
 自分がこんなガイドまがいのことをしているのも未だに信じられない。
 海人は、数度頭を振ると新しい場所に足を進めた。
3
 しばらくして落ち着いてきたのか、周りを見回す余裕がでてきたアキヤは物珍しそうにあちらこちらに視線を移していた。
 しばらくして気づいたのだが、アキヤはあまり激しい感情を出さないように見えた。
 笑うのは笑うのだが、その変化は最小限だ。
 だからと言って感情がない訳ではなさそうだ。
「高際さん……あれは何をしているんですか?」
「ん?」
 指さしたところに視線を送って……海人は固まった。
 ここは……マズイ……。
 慌てて、視線をそこから外す。
 幸いにして知っている顔はなさそうだが……。
 何で俺は……。
 ぎりりと知らずに奥歯を噛みしめていた。
 聞かれたのだから……教えていいだろう。
 ここで教えなくても遅かれ早かれ、誰かが教える。ホテルの案内書でも普通に教えていることだ。
 だが、こいつにこれを教えていいものか?
 たかが数時間、こいつにつきあって気付いたこと。
 ほんとうにこの街のことをよく知らないのだ。
 ここでは平然と行われている数々の事柄が、アキヤにとっては犯罪として認知されているということ。
 だが、犯罪と呼ばれることをしなければ、ここでは生きていけないこと。
 たぶんこのアキヤにとって、彼がが指さした所は……。
 犯罪であるかどうかは知らないが、少なくとも彼の道徳には反することは容易に想像できた。
 ここは展示場……。
 この街の者にそう呼ばれている所。
 特にステージもウィンドウを何もない。
 ただのつぶれた工場跡地だ。
 ただの……。
 建物はほとんど壊され、更地になったそこに幾人もの人々がたむろしている。
 展示物は、人だ。
 男も女も老いも若きも……そして子供までいる。
 筋肉隆々とした男が、その筋肉を鼓舞するかのようにポーズを取っている。
 身につけているのは、際どい長さに切り込まれた短パンのみだ。
 それにしだれかかっている若い派手な女がうっとりとその胸に手を這わしている。
 その隣で、小柄な女が踊っている。
 三角の布地が先端部のみを隠しているふくよな胸。薄衣のみを腰に巻き付けた女。
 高く足を掲げて踊るたびに、その股間が露わになる。
 そこには何も身につけていなかった。
「あ…ん……っ……ああっ……あ…みてぇ…あはぁっ……」
 淫らに求める声が辺りに響く。
 踊りながら明らかに欲情しているのだ。
 その女に、若い男が声をかける。
 途端に踊りを止めて、女が男にしだれかかる。
 そして……その場を立ち去る。
 10歳にもならない子供が観光客らしい夫婦にまとわりついている。
 ぼろをまとった子供達。
 彼らも商品だと言うことを、海人は嫌と言うほど知っていた。
「あそこは……」
 海人は言いかけて、口を噤んだ。
 教えるのはかまわない。
 だが、教えれば……こいつはどういう反応を取る?
 それは、多くの観光客が取ってきた対応と同じだろう。
 そうやってここの連中は生きていく。
 だが……。
 なぜ俺はここにこいつを連れてきたのだろう?
 ここにくればこういうことをしていると知っていたはずだ。
 俺は……見せたかったのだろうか?
 だが……説明はしたくなかった。
「行こう」
 ぐいっとアキヤの腕を引っ張る。
 が……。
 アキヤは動かなかった。
「もしかして……体を売っている……?」
 低い声音が動揺を押し隠しているように聞こえた。
 さすかにそこまで気付かないほど愚鈍ではなさそうだ。
 だがショックを受けているのも感じる。
「あんな小さな子まで……」
 その視線の先にいる10歳くらいの男の子が必死で客に縋り付いてる。
 下卑た嗤いが縋り付いている男の口から漏れていた。
 たぶんあの子供は男に奉仕することになるだろう。
 それがどんなに体を痛めつける行為だったとしても、それから逃れることはできない。
 悲痛な顔は、自分の運命を悟っていることを表している。
 と、アキヤの足が一歩動く。
 それを海人が引き留めた。
「止めるつもりじゃないだろうな」
 海人の声が低い。
 こいつに他の観光客と同じことはして貰いたくない。
 感情を押し殺した声が、アキヤの足を止めさせる。
 振り返って海人を見るアキヤの瞳に戸惑いの色が浮かんでいた。
「でも……」
「あんたがここであいつを止めたとして、どうすんだ?あんたが買ってやるのか?あいつらはああしないとここでは生活できないんだ。一度言ったよな。ここでは自分の足で立っていない者はのたれ死んでも仕方がないってな。あんたがお情けで今日の糧をやったとしても、それは今日限りのことなんだよ。あんたが与えようとしている中途半端なお情けを求めてあいつらはここに立っている。そうするように命令されるんだ。ここではノルマがあって、それ以上儲けないと制裁を受ける。あんた、それを払い続けられるか?……だが、確かに施しをうければ体は辛くない。それを見込んで観光客相手を専門にする奴もいる。結局……あんたみたいな奴らがあんな奴らを増やすんだ。買うものがいるから売るものがいて……そしてそりを取り仕切る奴がのさばるんだ……」
 それは血を吐くような言葉だった。
 そうだ……。
 観光客は可哀想だと、性の道具としてではなく子供達を買う。
 そして、出ていく時には放り出す。連れて行くわけではない。
 それをここの連中は知っている。
 組織の者はよく知っている。
 だから、子供を出す。
 だから……よけいに子供達がここに出さされる。
 子供がするのは、観光客目当ての商売。そうやって媚びる方法を覚える。
 そしていつしか、この街の人間を相手にさせられる。
 人に媚びて生きてきた子供は大きくなっても媚びることしか知らない。
 観光客は子供達は情けをかけたつもりで、組織の教育に力を貸しているのだ。
 そして気が付けば体を売るハメになる。
 一日のノルマをクリアしなければ、組織は制裁を加えるのだ。
 体を投げ出して、糧を得る。
 そうしなければ生きていけない。
 海人とて……そうだったから……。
 征に飼われるまで……ずっとそうして暮らしていた。
 ここにいると暗い過去が蘇る。
 してきたことを後悔することはない。そうしなけば生きていけなかったから。
 だが……思い出したくはない。
「行こう」
 アキヤの腕を引っ張ると、今度は何も言わずについてきた。
 もともと口数の少なかったアキヤだが、先ほどの場所からずっと一言も口を開かない。
 子供が体を売ることがショックなのだろうか?
 やはり、こんな街には不釣り合いな奴だ。
 なんで俺がこんなお坊ちゃんにつきあわなきゃいけないんだ?
 もう頃合いだ。
 ホテルに連れて帰っておさらばして……それでこいつとの縁は終わり。
 これに懲りてこいつはもう二度とここには来ないだろうし。
「ホテルに戻ろう」
 声をかけてもそれに返事はない。それに、アキヤの顔色が悪い。
 こんなことでそれほどショックを受けるのなら、さっさと帰った方が身のためだ。
 海人は、ホテルへの最短距離を選択した。
 ふと空を見上げると、明るかった空がどことなく黒ずんできていた。
 まずいな……。
 シャツの下に隠している小型の拳銃の所在を確かめる。
 見た目には判らないが、触れれば硬質の手触りが確かにそこにある。
 表通りでも、危険な界隈。
 それがこんな裏通りともなると……。
 ちょっと待て……。
 海人はふっと足を止めた。
 自分はなぜ、こんなところを移動している?
 少しでも安全を取るならば、大回りでも表通りに行った方がいい。
 いつも自分一人で行動しているときに取る行動パターンは、こんなど素人の観光客を連れて行うものではない。
 天候が荒れ始めたのか、暗くなるのが思ったより早かった。
「こいっ」
 アキヤの手首を掴み、走り始める。
 驚いて躊躇うような動きを見せたアキヤを無理に引っ張る。
 足早に駆け抜ける路地裏で、海人は嫌な胸騒ぎを堪えていた。
 しまった……。
 誰かにつけられているような気がする。
 長年この街で暮らしてきた海人には判る殺気。
 どっちを狙っている?
 職業柄恨みを買うことは多い。
 だから自分が狙われているのなら、アキヤを逃がせばいい。
 だが、いかにも観光客といったふうのアキヤが狙いだとしたら……それを考えるとアキヤを放り出すことはできない。
「高際さん……誰か追ってきている……」
 遠慮がちな声に、海人ははっとアキヤを見た。
 ずっと引っ張られていただけのアキヤが、明らかにその表情を変えている。
 これだけ走っているのに、その呼吸はそんなにも乱れていない。
 長時間走ることに慣れているのか、呼吸が一定のリズムを持ってされていた。
 それに時折ちらりと背後を窺うその視線がひどくきつい。
 ……ただのぼっちゃんじゃない?
「判るのか?」
 小さな声で問いかけると、その口が微かに動いた。
「二人……」
 正解……。
 心の中で感嘆する。
 とてもさっきまで狼狽え、戸惑っていた人物とは同一とは思えない。
 体を売る子供には戸惑いを見せるくせに、明らかに狙われているという状態は受け入れられるのか?
 変な奴。
 ヒュッ
 耳元で空を切る音が響いた。
 慌てて身を伏せる。
 どでんと地響きのような音に、自分がまだアキヤの手首を握っていたことに気がついた。
「大丈夫か?」
 声になるかならないかの声音でしゃべる。そうするとほとんど口元が動かない。
 それは盗聴と読唇を避けるための手段だった。
「……大丈夫……」
 アキヤも同様に返す。
 それに目を見張る。
 捕まれていたせいでこけた格好は最悪だったが、その後の体勢は完璧だ。身を低くし、路地裏のゴミ箱に身を隠している。しゃべる言葉は簡潔で、海人同様ほとんど唇を動かさない。なのに、きちんと海人まで届く。
 アキヤに抱いていたイメージがあっという間にすり替わった。
 だが、それに意識を取られていたのは一瞬だった。
 明確な殺気は、明らかに海人を狙っていた。
「高際さん……狙われる心当たりは?」
「ありすぎる」
 この街に身を置き、しかも警官などをやっている。
 警官の殉職率は30%を越えている。
 癒着著しい警察署でもこのパーセンテージ。
 狙われない方がおかしい。
「すまない。巻き込んで」
「……ぼくのせいでもありますから」
 何が?
 と、問いかけるまもなく第二波がきた。
 抉られる地面の様子を見るまでもなく、レーザータイプ。
 あちこちに炭化した地面ができあがる。
 相手はたった二人。
 だが、アキヤがいる以上迂闊には動けない。
 海人は眉間に深いシワを寄せて、逡巡していた。
 だが。
「もたないね、これ」
 その言葉に弾けるように顔をアキヤに向ける。
 アキヤは笑っていた。

 

「……もたないな、これ……」
 ふっと口に付いて出た。
 アキヤは口の端を上げて苦笑いを浮かべた。
 どうしようか……これは……止まんないや……。
 とくとくと高鳴る心音は、期待に満ちた音だ。
 この先に待っている楽しいイベント。
 アキヤの態度が変化したのを海人が過敏に気が付いたらしく目を見張っていた。
 それすらも気にならない。
 ああ……もう……。
 危険な地区だとは判っていた。
 だが、さっそくその洗礼を受け取るとは思わなかった。
 なかなか本国でも味わえない興奮が自身を支配する。
 子供のころから、慣らされていた感覚。
 危険を危険と認知できるように何度もたたき込まれた訓練。
 幼い頃から、生きるためにはどうすればいいか?
 危険に晒された場合、どうすればいいか?
 学校という教育の場において巧みに仕組まれた訓練は、効果的にアキヤ達を鍛えていた。それができなければ、確実に安穏とした後方に回されるだけだ。
 危険を危険だと認識できる強さ。それを体にたたき込まされていた。
 成長して今の職種には就けたけれど、だが、待ちかまえていたのは平穏な街。
 それを使う手段はそうない。
 アキヤが身を潜めていた大きなゴミ箱にレーザー光が集中する。
 集中砲火を浴びて、グズグズと盾になるために置かれているような強固なゴミ箱ですら端から崩れていく。
 そう遠くないうちに炭化した屑と化す。そうすれば、今度はアキヤ自身の体がこうなるだろう。
 なのに……口元から零れる笑いが止まらない。
 海人がちらちらとアキヤを見る。
 態度の変わったアキヤに不審を抱いてるのが判る。
 それに、海人自身が動くにはアキヤが邪魔なのだろう。
 ふっと空を見る。
 狭い路地裏。
 1mも離れていない低い高さのビル群。
 昔ながらの建築は、建物の外壁に沿ってパイプラインが走っている。
 目でその先を追い、3階建て程度のビルの屋上に視線を移し、そして走らせた先は、攻撃している輩の上空。
 ああ……いけるかも……。
 そう思った途端、体が動いていた。
「ぼく、ちょっと出てくるから、後頼みますね」
 その言葉に海人の動きが止まった。
 制止する間もなかったろう。
 アキヤはそんな海人を置いて、外壁のパイプラインをするすると上がっていった。
 手足をかけるところがあるから、昇るのに苦労はしない。
 鍛えられた指先が僅かなくぼみでも体を支える。
 自分の姿が猿のようだと前に言われたことがあった。
 だが、それはほめ言葉だと受け止めていた。何かに秀でることが、強さの証。
 リーチの長いアキヤは、その手を伸ばして屋上の柵を掴むと、ひょいっとそこを飛び越えた。
 ふと見下ろすと海人と目が合う。
 驚いている中に窺えるのは、不安げな色。
 だが、それも一瞬だ。はっと何かを感じたかのように海人が振り返った。とっさに構えられた銃口が、確実に敵の位置を捕らえる。
 その視線が遠目で見てもひどく鋭い。
 あれが彼か……。
 優しいだけでは生きていけないこの街で、彼はああして生きてきたのかもしれない。彼は、敵対するものは容赦なく殺すだろう。
 そんな殺気がオーラとなって彼にまとわりついていた。
 応戦し始めた海人から視線を外すと、アキヤは目的地までの最短距離を目線で辿る一瞬でそれを確認したアキヤは、助走をつけて一気に1mほど空いた隣のビルの屋上に飛び移った。そのまま勢いを殺さずに走り抜け、次のビルに飛び移る。
 ギュッギュッ、と屋上に張られた浸水避けのシートが音を立てるが、それ以上の音がしたから聞こえる。
 トンッ
 最後のビルに飛び移ると、走り抜けた勢いそのまま一気に宙に躍り出た。

 敵はすでにアキヤのことなど忘れていた。
 的確に打ち込まれる海人の銃を押さえ込もうと必死になっていた。
 馬鹿だ……。
 目の前にだけ気を取られている奴らは、結局三流の戦闘員。
 アキヤの敵ではない。
 浮遊感に身をゆだねながら、それでもバランスを取って落下をコントロールする。
 カッカッと壁を蹴ることで、落下のスピードを抑え、なおかつ、的確に目的地を目指す。
 敵がアキヤに気づいたときには、その姿はすぐ目の前にあった。
 最後に思いっきり壁を蹴り飛ばしたアキヤは、その勢いを片足に乗っけて思いっきり振り回す。
 ぐしゃ
 つま先で砕ける感触は、いつ味わっても気持ちいいものではない。
 吹き飛ぶ体から、血飛沫と砕けた歯が吹き飛ぶ。
 最後の瞬間、男の目に写ったアキヤは嗤っていた。
 が、着地した瞬間、左腕上腕部に灼熱を感じた。
「くっ」
 微かに洩れるうめき声は、一瞬のうちに消え去る。
 後、一人……。
 隠しきれない殺気が背後から襲ってくるのを感じたアキヤは、振り向きざまに体をかがめ、一気に地を蹴った。
 その反発力を使った動きに敵は動けない。
 銃口を構えたまま、その引き金を引くことなく、アキヤの拳をその顔面に受ける。 柔らかな肉が裂ける感触と、固い骨と歯が砕ける感触。
 その二つが拳からアキヤに伝わる。
 飛び散る血が、アキヤの腕と体に振りそそいだ。
「うぎゃぁぁぁぁっ!」
 地に伏し、のたうち回る敵の鼻孔と口から血の飛沫が辺りに散らばる。
「アキヤっ!」
 背後から聞こえる海人の声と駆けてくる音を聞きながら、アキヤは奪い取った銃口を敵の眉間に突きつけた。
 慣れた動きに隙はない。
 自分たちに敵意を見せた相手に対して……ともにいた人を狙った相手に対して、アキヤの心に容赦の文字はなかった。
 身動き一つできない男は、恐怖におののいていた。
 アキヤの口が微かに動く。
 冷たい笑みをその口元に張り付かせて。
「死にたい?」
 抑揚のない声が、響く。
 それに百戦錬磨であろうはずの敵が、大きく首を横に振っていた。
 これは誰だ……?
 海人の目前にいるのは、冷たいまなざしを持つ身軽な戦闘員。
 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。
 が。
 その目がアキヤの左腕をみとめて、さあっと血の気が引いた。
「当たったんだ……」
 見間違いではなかった。
 やはり、海人の狙いは外れていなかったのだ。
 敵を狙って引き金を引こうとした瞬間、敵との間にアキヤが降ってきた。
 あまりに突然の出来事に、海人は指を止めることができなかった。
 左肩下の服地が焦げて炭化し、袖が無惨にもぶら下がっている。そこから見える銃創は、レーザー銃特有の焼け焦げを作っていた。
「このくらい、大丈夫です。……それで、この人たち、どうしましょうか?それにぼく、やりすぎちゃったみたいです」
 銃を突きつけたまま振り返ったアキヤの表情は、あの困ったような情けないものであった。
 無線で事態を連絡すると、ほどなくしてパトロール中の警官達とともにキースも駆けつけてきた。
 警告灯をつけた車に、襲ってきた二人が放り込まれる。
 と言っても、一人は顔面に受けた蹴りで、前歯は全滅し鼻骨は折れて鼻があらぬ方向に曲がって完全に気を失っている。
 同じく顔に拳を入れられた方も同様で、口の端からだらだらと血を流していた。
 簡単な事情徴収は海人が答えた。
 アキヤは目立ちたくないのか、一歩下がって人ごとのようにそこにたたずんでいた。
『ばれたらまずい』
 そう言ったアキヤに、海人は何も尋ねなかった。
 そして、全て海人がしたように説明したのだ。それがばれる可能性もあるとはわかっていたけれど、アキヤを見ているとそうしたいと思わせた。
「それじゃ、また明日にでもゆっくりと聞かせてもらうよ」
 キースが、ぽんと海人の背を叩くと車へと乗り込む。
「ああ、判った」
 ぱたんと閉じられた車のドア。
 走り去っていく同僚達を見送りながら、ふっと海人はアキヤに向き直った。
 とたんにアキヤが笑みをその口元に乗せる。
 三々五々、野次馬達が去っていく中、海人はアキヤの傍らに近づき、その腕を覗き込む。
「大丈夫か?」
 怪我をした腕はすでに応急処置を施して包帯でカバーしていた。
 レーザー銃の痕は、火傷と一緒でじくじくと痛みを訴えるはずなのに、アキヤの表情に変化はなかった。
「このくらい……平気です」
 ふっと微笑むのは、海人を安心させるためか。
 それに苦笑を浮かべて返す。
 彼が何者であれ、海人の命を助けたことにはかわりはなかった。
「ホテルまで送るよ」
 ぽんと背を叩いて促していると、その触れた背に隠されている筋肉を感じた。
 黙って歩き始めたアキヤの背を見ながら、海人は先ほどのアキヤの動きを思い出していた。
 何らかの体術に精通している動き。
 行動に無駄がなかった。
 それは、それまでのアキヤの姿からは想像ができない。
 だから敵もアキヤの存在を忘れたし、海人も予想がつかないアキヤの動きに、撃ちかけた引き金を止めることができなかった。
 当初思っていたこととは違う。
 どう見ても、何もしらないぼっちゃんには見えない。
 そこそこの訓練も受けてるのだろう。
 あの会話術も見事なものだった。
 では、なぜ?
 どうしてそこに行き着いてしまう。
 アキヤがなぜ、ここに来たのか?
 正体も気になるが、ここにきた理由も気になる。
 何か理由があってここに来たんだろう。
 海人はそう睨んでいた。
「じゃあな。この街ではぼやっとしているとさっきみたいにろくなことにならないからな。観光だかなんだかしらないけどさっさと出て行った方が身のためだ」
 ホテルの前までアキヤを案内すると、海人は肩越しに別れを告げた。
 何かを呼びかけられたが無視してホテルの角を曲がってから、ほっと息をつく。
 足を止めた海人は所在なげに壁にもたれて、ぼうっと空を仰いだ。
 気になった。
 別れてなお、また逢いたいと思ったのは初めてだ。
 そんな相手に逢ったのは本当に初めてだ。
 海人は、ポケットからタバコを取り出すと、かちりと火をつけた。
 紫煙が立ち上り、海人の周りを漂う。
 行きずりの観光客にこうも心を惑わされるとは……。
 不思議な奴だったな。
 ふうっと大きく煙を吐き出す。
 と。
「あの、高際さん?」
「え?!」
 いきなり声をかけられ、驚いた拍子に手からタバコが落ち、地面を転がる。
「あんた……」
 今別れたはずのアキヤが、海人の目の前に立っていた。
 どうしてここに、という疑問と同時に、全く気配がなかったことにも驚く。
 いくらぼんやりしていたからと言っても……。
「あの、送っていただいたお礼にお食事でも……と思って」
 ぐっと腕を捕まれる。
 10cm。
 その差が、アキヤを上向かせる。
 海人がなんと答えるのか心配しているのか、不安そうに眉根を寄せる様はまるで捨てられた子犬のようだ。
「礼を言われるようなことはしていない」
 つっけんどんに答えながら、海人の視線は怪我した腕に吸い付いていた。
 邪魔な袖を切り落としたせいで、露わになった白い肌に巻かれた包帯。
 どきりと心臓が高鳴る。
 だが、同時に本能が危険信号を放つ。
 近づかない方がいい。
 自分の存在を壊すもの。
 だが、彼はそんな海人の葛藤など気づきもしない。
「食事、一人で味気ないですし……それに、どうもどこで食事していいか判らなくて……」
 自信なさそうに言葉を継ぐ。
 その情けない表情に海人は反論できない。
 ああ……。
 脱力する。
 そんなに奴がなんでこんな所に……。
 その誘いに逆らえなくなってきていた海人がいた。
 だが。
 ブルルと腰の辺りからの震動にはっと我に返った。
 慌てて取り出した携帯にメッセージが入っているのを見て取った海人の眉間に深いシワが入る。その差出人の名は、どこにいて吐き気を覚える。
 ──くそったれっ!
 少しだけ楽しく和らいでいた気分が、一気に下降した。
「……あの、お仕事ですか?」
 躊躇いがちの呼びかけに、「ああ」と短く答えた。
 仕事だったらどんなに良かったか……。
「じゃあ、今日は無理ですね」
「ああ。気にしなくて良いよ」
「残念ですね」
 本当に残念がっている彼に、ふっと申し訳ないと思ってしまう。
 だが、征が呼んでいるのだ。
「それじゃ」
「はい、ありがとうございました」
 その声を聞きながら、海人は踵を返した。
4
 帰る足取りが重い。それはこの後、何が待っているか知っているからだ。
 昨日あれだけ責め苛んでくれたというのに……何をするというのか……。
 途中で総合栄養食のゼリーを買って一気呑みする。
 おいしく味付けされているはずのそれが、ひどく不味く感じる。
 いつになったら解放されるんだろう。
 海人は、うんざりした面持ちで署の中にある征の部屋へと向かった。

「可愛い子と一緒にいたそうだな」
 入るなり言われた言葉に、眉をひそめる。
「可愛い子?」
 誰のことだ?
 と、疑問に思う前に、ふっとアキヤの顔が浮かんだ。
「彼のことなら、道案内をしただけです」
 ったく……どこでどういうふうに監視しているのか?
 征の情報収集力には呆れてしまう。
 もっとも、この署で副署長の任についているから、そういうのは得意なのだろうが……。
「珍しいこともあるものだ。目の前で死にそうな奴がいても素通りする奴が」
「あんた程じゃない」
 この男なら、ついでにとどめをさして行くだろう。
 その言葉にニヤリと口元を歪める。
 それが爬虫類を思わせて、海人の背筋に悪寒が走った。
「で、何の用です?」
 心の動揺を必死で押し隠す。
「いやね。いいものができあがったので、君に見せてあげようと思ってね」
「いいもの?」
 だが、感じるのはひどく悪い予感だ。
 この男のいいものに、海人にとっていい物があった試しがない。
「これだ」
 差し出されたのはメモリーカード。
 何だ?
 訝しげに眉間にシワを寄せる海人に、征はくつくつと嗤いを零すとそのメモリーカードを傍らに置いていたカメラに入れる。
 再生スイッチを押した途端、そこに現れたのはホログラフィ。三次元立体画像。
「っ!」
 その姿を目にした途端、海人の喉から声にならないうめき声が漏れた。
「いい格好だ。私の部屋から帰った後、ずいぶんと楽しみだったようだ」
 征がねっとりと海人を見つめる。
 視線で犯されているような不快なもの。
 いや、何よりこれは……。
 それは、昨日部屋に帰った後の海人の狂態が再現されていた。
 自らの雄を激しく扱き、口の端からよだれを垂らしている。
 ヘアームースの容器で後孔を穿つ様子も再現されている。
『あっ……あっ……イイっ…で…もっ……足りないっ』
 海人の嬌声が部屋に響く。
 いつの間に……。
 意識はほとんど飛んでいたとしても、それでもその自分がこんな姿を取ったことは覚えている。
 求めて、求めて……そこにいない自分をこんな目に遭わせた征すらも求めたのだ。
 あと10分……。
 薬が切れるのが遅かったから、海人は征の部屋に戻っていただろう。
 それを思い出し、海人はわなわなと唇を震わせていた。
 屈辱。
 もうすり切れてしまったはずのその感情が、海人を責め苛む。
「や…めろ……」
 強く制止しようとしても、震える声しか出なく、まるでそれが欲情しているかのようだった。
『あ…欲しい……もっと…もっと……あぁ、いれ…てぇ』
 奥まで差し込み、それで足りないと動かす自分の卑猥な姿。
 海人はそれから目を逸らすことができなかった。
 硬直した体が動かない。
「これを、売春組織の頭に売ろうと思うんだが……いくらで買ってくれるだろうねえ」
「えっ!」
 あまりの台詞に、硬直が一瞬で溶けた。
 売る?
 これを?
「お前を返せと煩いんだよ。よっぽど、気に入られていたのかな、君は?」
「い、いやだ……止めてください」
 この映像を売るのも、戻されるのも嫌だ。
 ふるふると首を振る海人に、アキヤと一緒にいたときの様子はみじんも感じられない。
 弱々しく、立ちすくむ海人に、征は嗤う。
「そんなこと、私は知らないね。お前の意見など聞いていない。いつから私に口答えできるほど偉くなったのかな?」
 くつくつと嗤いながら、征はぐいっと海人を引きずり倒した。
 項垂れていた海人は受け身を取る暇もなかった。したたかに背を受け付け、息がつまる。
 小さく呻き声を漏らす海人の首に征の両手がかかる。
「うっ……」
「さて……今日は何をして楽しもうか?」
「うくぅ……」
 完全に締められているわけではない。
 だが、完全に呼吸と血流が完全に途絶えない程度であるというだけで、襲ってくる苦痛は同じ物だ。
 何とか呼吸はできるものの、どんなにがんばっても必要な酸素量が足りない。
 苦しくて舌を出して喘ぐように酸素を求める。
 死ぬとはない……それは判っている。
 だが……。
 目前で嗤っている征の姿が、ぼやけてきていた。
「言ってごらん……。何をしたいのか?」
「う……あっ……」
 うっすらと霞がかかった向こうで、男が何かを言っている。
 必死で征の手首を掴んだ手から、徐々に力が抜けていった。
「ほら……言いなさい」
「あ……な…ん……でも……」
 声帯がつぶされかけて喋るも苦痛でしかない。だが、それでも言わないとこの手は緩まない。
「なん……でも……するから……」
 何度も言わされた言葉が無意識の内に口について出る。
「なんでも?そう……なんでもいいんだね」
 楽しそうな口調の征が、手に込めた力を緩める。
 途端に、海人の喉が解放され、勢い込んで流れてきた空気が刺激となって咳き込んだ。
 苦しい……。
 離されて、なお体が苦痛を訴える。
「あっ」
 喉を潰されかけたせいで掠れた声しか出ない。
「裸になりなさい」
 喉を押さえて床に蹲って咳き込む海人の髪を引っ張りながら、嗤いを含んだ命令が下される。
「い…たっ……」
 艶やかな髪が引き上げられ、崩れ落ちていた体が起こされる。
「聞こえないのかね。服を脱ぎなさいと言ったんだよ」
 ぴくりと体が震える。
 今日はここでするのか……。
 自分の仕事場でもあるこの建物の中で、征に陵辱されるのは嫌だった。
 だが、きつく睨み付ける征は、そんな海人の躊躇いすらも楽しいと言っている。
 それ以上、楽しませるつもりはなかった。
 隣で、海人の姿を写したホログラフィがリピートされ、喘いでいる。
 海人は、のろのろと自分のシャツに手をかけた。
 警官の制服は、飾りボタンの下にあるホックで留まるようになっている。
 それを一つずつ外して袖を抜くと、その下には何も着ていなかった。
 露わになった肌のいたる所に朱色の斑点が浮かんでいる。
 その胸の突起に征が爪を立てた。
「いっ、ひぃっ!」
 痛みから逃れようと前屈みになる海人だが、そのせいで今度は引っ張られた髪のせいで頭皮にひきつれた痛みが走る。
「う…あっ……」
 爪を立てられ、ぐりぐりと潰されて、海人の口から堪えきれない呻き声が漏れる。
 ずぎずきと襲ってくる痛みは、快感とはほど遠い。
「ああ……血が出てしまったね」
 途端に髪を離され、ぐらりと体が前へつんのめるのを、かろうじて手で支えた。
「さあ、早く脱いでしまいなさい。君が何でもしたいって言ったんだからね。たっぷりと楽しみたいんだろう?早くしないと時間が無くなってしまうよ」
 くっ……。
 海人はのろのろと立ち上がるとズボンに手をかけた。
 羞恥も悔しさも何もかもぬぐい去るように、一気に剥ぎ取った。
「相変わらず、いい体だね」
 征の目が海人の全身をなめ回す。
 それに総毛立つような悪寒を感じた海人は、そこにつったたままじっと俯いていた。
 無駄な脂肪のない体は、警官としての訓練をかかさなかった賜物だ。
 だが、ここではそれすらも征の性欲の道具なのだ。
 体を鍛えるのを怠けると、征からお仕置きという名の陵辱が待っている。
「さあ、おいで、君の望むように楽しいことをしようじゃないか」
 征の手の中にひものついた首輪があった。

 

「ふっ……あっ……」
 全身から汗が滴り落ちる。
 首輪を締められた海人は、冷たい床の上で四つん這いになるよう命令されていた。
 最初にその姿勢をとらされてから、もう15分は経っていた。
 ふるふると全身の筋肉が小刻みに震える。
「いい格好だね。君の筋肉が震えて汗が流れる様はいつ見ても素敵だよ」
 さわさわと触れるか触れないかの距離で征の手が全身をまさぐる。
「ここもね……おいしそうに銜えこんで……。こんな太いモノをね」
「うっああっ!」
 ぎちぎちに埋め込まれた極太のバイブレーターをぐいっと押し込まれ、奥を抉られる衝撃に口から堪えきれずに叫び声が出る。
「おっと、その姿勢を崩しては駄目だよ。これは、大切な訓練だよ。筋肉を鍛えるためにね」
 そう言いながら、上下左右、そして抉るようにバイブレーターを動かす。
 海人は危うく崩れそうになった体を手に力を込めて必死で支えた。
 ここで崩れてしまえば、より激しい責め苦が待っている。
 体の中に埋め込まれたそれは、子供の腕より太く、最初に差し込まれた時から不定期な脈動を海人に与え続けていた。
 何より、バイブを入れられる前に入れられた薬が、体の熱を一点に集めている。
 それは昨夜入れられた薬よりはるかに即効性が高かった。
 達きたい……達きたい……。
 意識が下肢に集中すれば、弱った手が崩れそうになる。
「うっくぅぅぅ……」
 歯を食いしばり、中からくる震動ときつい欲求に堪える。
 足の間にある海人の雄は、その先端から透明な粘りけのある液を滲ませていた。
 だが、達くことはできない。
 ずきずきと背筋を駆け上がる快感に、気を緩めると吐き出しそうになる。
 だが、許しを得ずに達けばどうなることか……。
「辛いかい?でも嬉しそうにここはよだれを垂らしているよ?」
 隣でホログラフィが、尻を振ってよがっていた。
 二人の海人が、苦痛の声を漏らす。
 それすらもう目に入らない海人の俯いた額から幾筋もの汗が流れ落ちていた。
「ん……く……うぅ……」
 だが、征にしてみれば我慢させ続けるだけでは面白くない。
 俯いて固く目を閉じて、意識を逸らしている海人には、征の動きが見えていなかった。
 楽しそうな声が下肢の方からした。
「よく我慢しているね。ご褒美だよ」
 えっと思う間もなかった。
 激しい快感が爆発する。
「あ、ああぁぁぁっ!」
 海人の口から嬌声が漏れ、我慢し続けたモノが勢いよく吐き出された。
 ぼたぼたと飛び散った白濁した液の中に海人の体が崩れ落ちる。その体の下に、別のバイブレーターが転がっていた。
 先端に押し付けられたその刺激に、海人は堪えることができなかった。
 それでなくても薬のせいで敏感になっている。
 解放感に打ち震える体が、すっと触れられた手にびくんと大きく震えた。
「あ……」
「達っていいとはいっていないが?」
 低く冷たい声音が海人の精神を揺さぶる。
「あっ……」
 慌てて体を起こそうとする背に、息を飲むほどの重みが加わった。
 痛みを伴う固い感触は、靴の底だ。
「うぅぅ」
「倒れて良いとも言っていないし。君は、昔からちっとも言うことを聞かないんだから」
 ぐりぐりと踏みつすように体重をかけられると、あっという間に浅黒い肌にもはっきりと判るほどの鬱血が現れた。
「す、すみませ…ん……。う、あっぁぁ……」
 体は起こせないのに首輪につながった紐を強く引かれ、喉から上だけが引っ張り上げられる。
「ううぅぅ……」
「お仕置きは、何がいい?」
 征の目は欲情に晒され、その口元には薄ら笑いが貼り付いている。
「す…みま……せ……」
 答えられるはずもなかった。
 苦痛が海人の目尻から涙をこぼさせる。
「駄目だよ、謝っても。君が決めなさい、何がいいかね」
 そう言う声音は優しい。
「…ゆ…るして……くださ…い……」
「駄目だ」
 ぐいっと容赦なく引っ張られ、体がバランスを崩した。
「うっ!」
 首輪が喉を締め付ける。
「おやおや。自分から首を絞めてどうするんだい。それにしても、お仕置きの内容一つ決められないとは……」
 と、その視線が、海人の後で蠢いているモノに移った。
 何を思いついたのか征の口元がニヤリと歪む。
 海人は肩で息をしながら、少しでも楽に呼吸できるように体を起こそうとしていた。
 だが、それでなくても昨晩、署長によって蹂躙されていた体は度重なる行為にされている以上のダメージを訴えている。
 それなのに海人の雄は、新たな刺激を求めるようにそそり立っていた。
 薬で高められた感覚が、より激しい快感を求めていた。
「くあぁぁぁ!」
 貼り付いていたものが剥がれるような音とともに、海人の体がしなりそのさらけ出された喉から嬌声を発する。
 征の手に、先程まで海人の中にあったバイブレーターが握られていた。
 一気に抜き出された刺激に、海人の全身がおこりのようにびくびくと震え、その下肢の間には新たに吐き出された液が液溜まりを作っていた。
「あっ……ああ……あ……」
 いきなりの強烈な快感が海人の意識を真っ白にする。
 がっくりと崩れ落ちた海人の体は、意識のないままに快感の余韻にひくついていた。
「うっ……あ……」
 体の中をざわめくように動く刺激に、うっすらと目を開けた。
 体が動かない。
 だが、覚えのある刺激に必死で意識を覚醒させた。
 ぼんやりとした視界が焦点を結び、その中にいる男を認めると、海人はびくりと体を竦めた。
「起きたか?」
 ニヤリと嗤われ、初めて自分が気を失ったことに気付いた。
 視線を彷徨わせて事態を把握しようとする。
 全裸になった貧弱な体が、自分の足を持ち上げていた。
 その体が動くたびに、何とも言えない快感が襲ってくる。
「ん……あ……」
 突き上げられるたびに、声が漏れる。
「あんな大きなバイブを入れていたせいですっかり緩んでいる。締め付けろ」
 ぴしゃりと足を叩かれ、海人は必死でそれに従うように後孔に力を込めた。
 体が動かないのも道理で、両手はベッドの柵に縛り付けられている。
 相変わらず首輪はそのままでそのひもの先は征の手の中にあった。
「んんっ」
 小さな叫び声とともに、中に熱いモノが迸った。
「んくっ」
 その刺激に思わず目を瞑る。
 体がその程度の事で快感を訴えるのが嫌で堪らない。
「海人……お前が気を失っている間にいいお仕置きを思いついた」
 ずるりと抜け落ちる感触にぞくりと体が震える。
 だが、そのほくそ笑む征の表情に、体の熱が一気に冷める。
 何を……。
 経験上ろくでもない内容だと直感で悟ってしまった。
「君の体、久しぶりに売りなさい」
「えっ!」
 思わず跳ね起きようとした体は腕を固定されているせいで跳ねただけだった。
「幾らで売れるかな?相場は3万だったか……。なら20万。それだけ儲けたら許してやろう」
 売る?
 自分を……?
 海人の脳裏に5年前の自分の姿が甦った。
 征に引き取られるまで、不特定多数の男達の相手をしていた頃。
「い、いやだ……」
 思わず漏らしていた。
 何のために、こんな屈辱に耐えている?
 あの生活から逃れるためだった。
 したくもない売りから逃れるためだった。
 今の生活だって決して良いとは言えない。
 だが、特定の二人だけを相手にしている方がよっぽどマシだった。
 知らない人間は何をするか判らない……。
「くくく。やっぱりな」
 征がしてやったり、という風情で嗤う。
「最近何をやっても堪えないんでな、何がお前にとって一番最悪なのかを考えた。やはり、これだったか」
 くつくつと嗤う征に目で縋り付く。
「他のことなら何でもする。だから、それだけは!」
「だったら、私たちの庇護下から離れるかい?警官としての職を失えば、結局待ち受けるのはその生活だろう?だったら、20万稼いでくるくらい何でもないんじゃないかね」
「あ……いや……だ……」
 ぶるぶると首を振る。
 だがいきなり股間をきつく掴まれ、びくっと硬直する。
「ここを突っ込むか、それとも後に突っ込まれるかは、お前の自由だ」
 言いながら、海人の体の中に自らを埋める。
 ぐいぐいと抽挿を繰り返しながら、海人に冷たく言い放った。
「明日から2日間が期限だ。それまでに稼いでこい。それが無理なら、さっきの映像を売ってやろう。ずいぶんと高く売れるからな」
 あれを…売る?
 とんでもないことだった。
 もしあれが頭の手にわたれば、早速編集されて闇市に出される。
 顔はそのまま、悶えている姿をさらすことになる。
 そして、奴らのことだから、現役警官とか銘打って宣伝するだろう。
 そんなことになれば……。
 逆らえない……。
「おい、腰を動かして、しっかり締め付けろ」
「ひっ」
 ぴしゃりと先端を平手で強く叩かれ、海人の雄が跳ねる。
 途端に尻に力が入った。
 感じたくもない征のモノを露わに感じてしまう。
「それでどうするんだ?返事は?」
 突き上げられるたびに喘ぐ声を漏らしながら、海人は結局頷き返すことしかできなかった。
5

「……どうしたんだろう……」
 アキヤは海人が路地裏に入っていくまでずっと見送っていた。
 仕事らしい連絡にしては、ひどく顔色がさえなかった。
 したくない仕事内容なのだろうか?
 だが、どちらにせよアキヤが関わることではない。
 アキヤは小さく息を吐き出すとホテルへと戻っていった。
 焼け焦げができてしまったシャツは着替えなければならない。
 袖から覗く包帯の下はじくじくとした痛みを訴えている。
 火傷特有のその痛みは今日一日は続くだろう。
 アキヤは小さく息を吐くとホテルへと戻っていった。

 部屋に戻って着替えをしたアキヤは、ベッドにごろりと転がった。
 高際海人。
 その顔が脳裏にちらつく。
 男のくせに妙に色っぽかった。
 普通に話しているときはそんなふうな感じはなかったのだが、時折こちらをどきりとさせるような視線を向ける。
 本人は無意識なのかもしれないが、アキヤの心臓には悪かった。
 この街にきて数時間。
 ここがどんなに最悪な街かと言うことを痛感した。
 ここまでひどい街が他にあるのだろうか?
 まずは司法が最悪。
 中央である警察署のあのざまを見れば、それは一目瞭然でアキヤはそれだけで呆れかえっていた。
 まあ……全員が悪いわけではないんだろうけどさ。
 少なくともあの海人という男は親切だった。
 彼に声をかけられなければアキヤはこのホテルを自力で見つけなくてはならなかっただろう。
 彼によっていろいろな所を案内されたのは、本当に助かった。
 海人がどんな意図で案内したのか判らないが、それはアキヤが知りたい、見たいと思っていたところばかりだったのだ。
 この街の暗部。
 それを見て、アキヤはこの街の行政自体が狂っていると感じた。
 海人が言った言葉の数々が頭の中に蘇る。
 『自分の足で立っていないとのたれ死ぬ』
 『ノルマを稼げなければ制裁を受ける』
 海人が、それを容認している事実が不快だったけれど、だからと言って海人を責めることはアキヤにはできない。
 立法組織がそれに対する法律を作らない限り、警官が取り締まることはできないのは承知している。そして、この街では、例え法律があったとしても、それが守られる状態ではないのだ。
 あの状態の子供を放置する行政に、まともな倫理を窺うことはできない。
「最低の街……だ」
 アキヤの口から何できない自分に対する怒りすら籠もった侮蔑の言葉が漏れた。
 部屋に響く呼び出し音に、アキヤは体を起こした。
 室内にある電話が鳴っている。
 アキヤはそれのスイッチを入れた。
『カーサス様にお電話が入っております』
「繋いでください」
 この時間にかかってくる電話。 
 アキヤはその相手を知っていた。
『よう、元気そうだな』
「おかげさまで」
 陽気な相手に抑揚のない声で答える。
 いつもこうだから相手も気にしない。
 同僚のクレスタは微かに肩をすくめると、アキヤを見遣った。
『それで、どうだ。最低の街の感想は?』
「最低だったよ、確かにね」
 苦笑が浮かぶ。
 クレスタは、アキヤが目的地を捜すのに、「最低の街」というキーワードを入れたのを知っていた。
『判って行ったのによく言う』
「でも優しい人もいた」
 脳裏に海人を思い浮かべながら、言うと自然に顔がほころぶ。
 それを見て取ったクレスタがうっと唸ってひいた様子がわかった。
 ほっとけ……。
 ムスッとして見返す。
『お前にそんな顔をさせるってのはどこのどいつだ?話を聞いてやろうじゃないか?』
「何言ってんだ?そっからここまで無茶苦茶な電話料金だろ?そんな長話は、帰ってからするから」
『面と向かったら誤魔化しの天才のアキヤの言葉をどうやって信用しろって?』
 ……図星だった。
「それより……そっちはどう?迷惑かかっていないか?」
 苦笑を浮かべて、話題を逸らす。
『ああ、それは大丈夫。オリンポスは至極平穏。なんのトラブルもありませんってか』
 その言葉を口にしたクレスタをじろっと睨む。
「それはNGワード。帰ったら、報告してやる」
 途端にクレスタが慌てふためいた。
 外へ向けての通信で……しかも国名を偽っている状態では、通信内容に国に関わることは行ってはならないのだ。
 オリンポス……。
 それがアキヤの星の名前だった。
 だが、その身分証にはそれとは正反対の大学の名を持つ国が刻まれている。
 いわゆる偽造なのだ。
 軍事国家であるオリンポスが外に門戸を開いてからもうかなり経つ。
 ごくごく普通に他星と交流しているはずなのだが、だが、やはりばらせないこともある。
 だからそういう時には、偽装証を使う。
 といっても国印も入った、立派な正真正銘のものだ。
 それを持って、オリンポスでは昔から、成人すると一回は外の世界を見てこいと放り出される。
 その行き先は基本的には自由だ。
 アキヤはその行き先をここに選んだ。
 見てみたかった。
 見て、最低の街を実感して……そして、それが自分ではどうしようもないということに気づいた。
 もともとどうにかしてろうなどと思ったわけではない。
 ただ、見て……自分の星がどんなところか比べてみようと思っただけだ。
『まあさ、滅多にできない旅行なんだからさ、楽しんでこいよ。最低の街でも』
「ああ……ほんとうにここは、今日も含めて4日しかいないけど、1日いれば十分って所だよ」
 それだけははっきりと力を込めて言えた。

 

「久しぶりだな」
 海人は征の命令を受けた次の日、その男の元を尋ねた。
 できれば来たくはなかった。
 遭いたくもない男が目の前にいる。
 切れ長の瞳が鋭く海人を見据える。
 瀬島リョウ。
 売春組織の頭と呼ばれる男だった。
 まだ若い。
 海人が本格的に男相手のに売りを始める前に組織の頭を引き継いだ彼は、まだ37歳。
 引き締まった体にぴたりとしたオーダーメードのスーツを着込んでいる。
 そのまま、ビジネス街に立てば彼がそんな組織の頭だとは誰も思わないだろう。
 だが、その実彼を怒らした人間が何人もその姿を消している。
 売りをしている人間からは鬼のように恐れられている男だ。 
 遭いたくなどない。
 だが、名義上は組織を抜けている海人が売春行為を行えば、組織に目をつけられることになる。
 だから……挨拶はしなければならない。
 海人を見て、にこりともせずにリョウは言い放った。
「何の用だ?」
 秀麗な眉が怪訝そうに上がる。
 それに、海人は平静を取り繕って答えた。
「二日間だけ仕事がしたい……金がいるんだ……」
「ほお……」
 さすがにリョウもそれには驚いたようで、タバコに火をつけようとした手が止まる。
「ここの仕事が嫌で、あんな下種野郎の所に行った奴が今更何を言い出すんだ?」
 驚きを通り越すと、今度は笑えて仕方がないと肩を震わせる。
 そうだ。
 確かに彼の言うとおりなのだ。
 癒着しているとはいえ、リョウは征を嫌っている。
 仕事上の立場からどうしても交流しているだけなのだ。
 もしこれがあの征の命令だと言えば、リョウは絶対に認めないだろう。
「どうしても必要で……頼みに来た。二日間だけだから……仕事をさせてくれ」
 なおも言いつのる海人に、リョウが不快そうに眉をひそめた。
「お前はあんな下種の所に行って言葉遣いも忘れたのか?」
 冷めた口調で言われ、海人は慌てて言い直した。
「仕事をさせてください……」
 怒らせては元も子もならない。
「ふん……で見返りは?タダでお前の言うことなど聴くはずもないことくらい判っているだろう?」
 それは判ってはいた。
 海人はきつく唇を噛みしめるとリョウを見遣った。
 反対にリョウは何の関心もないというように手元の書類をめくっている。
 ここでリョウが気に入る見返りをださなければ、仕事はさせてもらえない。
「何でも……できることをします。だから仕事をさせてください」
「何でも?」
「はい。何でも」
 その言葉とともに送られた視線が海人を雁字搦めするようにまとわりつく。
 何かよくないことを考えているとは判る。
 だが、海人には他にリョウが気に入る台詞を思いつかなかった。
「くっくっ……良かろう。仕事をさせてやる。そうだな……何を見返りに貰うかは……そっちの仕事が終わるまでに決めておこう」
「今じゃ……ないんですか?」
 二日後という言葉が気になった。
 すでにことが済んだ後に要求されれば、それがどんなことであろうと逆らえない。
「終わった後だ。ああ、安心しろ。お前をこの世界に戻すとか、バラす、なんてことじゃない。お前には危害は加えないさ。何せ、俺はこれでもお前を気に入ってるんだ」
 すくりと立ち上がったリョウの身長は、海人と変わらない。
 美丈夫という言葉が当てはまるリョウは、立ちすくむ海人の肩に腕をかけ耳元でささやきかけた。
「いい加減戻ってこい。お前に売りを強要する男の元にいて、何が楽しい?」
 びくりと体が震えた。
 知っていた?
 征が喋ったのか?
 そうでなければ……盗聴されているということか?
 何もかも……あそこでしてきた全てを聞かれている?
 海人がわなわなと震えているのに気づいたリョウが、くつくつと嗤って言った。
「そうだ。あの警察署の副署長室と署長室は俺の監視が入っている。どんなことでも、聞こえてくるぞ。昨日は、またずいぶんといい声で鳴いていたじゃないか」
 あれを……いや、あれだけじゃない。
 署長室でもしたことはある。
 その全てを……リョウに……いや、組織に聞かれていたのか?
「くくく、たいしたコレクションになっているぞ。あの豚どもがお前を虐めている様子が声と音だけでよくわかる。お前が4年間、どういうふうに調教されてきたか……。この体がどんなふうにしたら鳴くのか……ったく、あんな下種どもに渡したのは……あれを聞く度に本当にもったいなかったと後悔しているんだぞ」
 聞かれて……。
 激しい羞恥と屈辱が全身を支配する。
 立っていられなくて、ふらりと傾いた所をリョウの手が海人を抱き抱えた。
「映像も撮られたって?いいね、ぜひ買わせて貰うよ。お前が自慰にふける様はどんなに美しいだろうね」
 抱きかかえた手がさわさわと海人の肌の上を辿る。
「売ればどんな値で売れるだろうねえ……昨日のを盗聴当番が聞くだけで、達きそうになると……いや達った奴もいる」
「止めろ……」
 その力無い言葉は、リョウの手と言葉と両方に向けられたものだ。
 ぐいっと体に力を込める。
 狂おしいまでに激流する感情をようやく落ち着かせ、海人は自分の足に力を込めた。
 すうっと大きく息を吸い、言葉を吐き出す。
「売らないで……欲しいです……」
 聞いてはもらえないだろう。
 組織が儲け話をチャラにする訳がない。
 だが、リョウはくつくつと嗤う。
「まだ売らない」
 そう言う。
「え?」
「あれにはお前だけでなくお前を抱いている二人の声も入っているからね」
 それが誰かは言わなかった。
 だが、誰を指すのか海人には判り切っていた。
「切り札?」
 はっと気が付く。
 目前にリョウの勝ち誇っている顔があった。
「そうだ。いつか、あれを使ってお前を取り戻してやる。そろそろ……あいつらの行動には嫌気が差してきたからな」
 リョウの手が、海人を抱きしめ至る所を触ってくる。
 的確な責めが、海人の体を熱くする。だが、心は投げつけられた現実に打ち震えていた。
 取り戻す……。
 やはりリョウは諦めていない。
 征に飼われる前、海人はリョウの相手もさせられていた。
 だからといってノルマが減ることはない。
 疲れた体でリョウの相手をするのは苦痛だった。
 できるだけ遭わないようにしていても、それでも遭えばベッドに連れ込まれる。
 また、あの生活に戻るのは嫌だ……。
 だが……どうやらそれが訪れるのは近い。
「うっ……あっ……ぁ」
 リョウの手が海人の股間を弄ぶ。
「あいかわらず敏感でいやらしい体だ。あんな下種どもにはもったいない」
「ああっ……やあっ……」
 何も知らなかった海人の体を開発したのは、リョウだ。
 だから、海人の弱いところは知り尽くしている。
 その手が引きずり出した海人の雄の器官を弄ぶ。
 立ったまま嬲られ股間から来る疼きに海人の膝ががくりと崩れ落ちそうになるのをリョウが支えていた。
「立っていろ」
 言われて手を伸ばしてリョウの首に縋り付く。
 するりと降ろされたズボンの下には下着はつけていない。
 売りをする上で邪魔だからだ。
「今日はどっちをするつもりだ?」
 指一本程度はすんなりと入っていった。
「…あっ……できればタチを……んくっ」
 ネコとタチ、体の負担を考えれば、まだタチの方がいい。
 そして……相場以上に金を落としてくれる相手なら……なおいい。
「賢明な判断だな」
 揶揄される。
 もういい加減羞恥などどこかに言って欲しいと願うのに、海人の心にあるそれは、結局表に出てきて、海人を翻弄する。
「あ…やあ……ああ……」
 もう力が入らない……。
 海人は必死になってリョウの首に縋り付いていた。
 指を増やされ、的確に受ける刺激に海人は喉を晒して嬌声を上げる。
「ああ……入れて……ぇ……」
「我慢しろ……そんなことで20万稼げるのか?」
 冷たい声音が耳に入り、海人の熱が一気に冷めた。
「え……」
「もう行け。その熟れた体を展示場で晒せば、あっという間に客がつく。と言ってもそんな欲情に満ちた目元に、誘われる奴らは、お前に入れたいというのばかりだろうからな。だから、ほぐしてやったぞ」
 手が離された。
 ずるりと崩れ落ちた海人は、床についた手をぎゅっと握りしめる。
 体が疼いていた。
 だれでもいいから入れて欲しい。
 そう思っている自分に気づき愕然とする。
 リョウの手は薬のようだ。
 あっという間に海人を高めてしまう。
 それで放置されれば、もう我慢できなくなる。
「はやく行け。そして20万あの下種に払ったら、ここに来い。判ったな」
「はい……」
 雁字搦めだ……。
 征の命令を聞くためにリョウの命令に従い、そして結局それが他の命令に繋がる。
 雁字搦めの鎖に縛られた海人に、解放の時は来ない。

?
6
 展示場で海人は熱い体を壁にもたれさせていた。
 物憂げに立つ。
 それだけで先ほどから痛いほどの視線を感じる。
 ここに来るまでに少しは落ち着いた体だが、どこかうずうずとした感触は抜けきれない。
 はあ……
 体の熱を逃すために、何度も大きく息を吐いた。
 ただ、それだけの行為。
 だが、その途端、遠目に見ていた男がぴくと動いた。
 その顔がだらんと伸びきっている。
「よお……来いよ」
 腕を掴まれ、はっと顔を上げる海人の前にいたのは40代くらいの中年の男。
「入れれるんだろうな」
 それにこくりと頷く。
 リョウの言った通り、最初の男は海人の中に放出することを望んだ。

 怠い……。
 3人の男を相手にした。
 全て海人の体にいれたがった連中で、こうして立っているのも腰が辛い。
 突き上げられ続けたそこは、熱をもっていて身動ぐたびに鈍い疼きを伝えてくる。
 性欲の有り余っている相手ばかりだったようで、時間いっぱいまでさんざん弄ばれた。幸いなことはノーマルなプレイが望みの連中ばかりだったことだろう。
 そろそろ夜のとばりが降りようとしてた。
 まだ9万だ。
 後11万。
 今日より明日の方が辛いだろう。
 だから、海人は後二人……今日したかった。
 ぼんやりと暗くなりかけた空を見つめていると、広場の一角で騒ぎが起こっているのに気が付く。
「いいから、来いよ」
「……やめ……」
 ふと見つめると、ガタイのよい労働者に腕を引っ張られている男がいた。
 あれは……。
 海人の目が細められる。
 手をついて体を起こすと、海人はその騒動の所に近づいていった。
「こんな所に来ているってことは、犯りてーってことだろ。だったら、俺とおとなしく来いよ。天国見せてやるぜ」
「違いますっ!ぼくはそんなつもりじゃっ!」
 あまり言葉を荒げることのなかった彼が、相手の男をねめつけていた。
 アキヤ・カーサス……なんでここに。
 呆然と見つめる先で、アキヤの目が光ったような気がした。
 途端に脳裏に昨日の騒ぎが浮かび上がる。
 ヤバイッ!
 なぜアキヤがここにいるのかは別の問題だった。
 何より今ここで、アキヤが騒動を起こせばどうなるか。
 それの方が問題だ。
 気が付いたら海人は、アキヤの腕を掴んでいる男の手を掴んでいた。
「ねえ……お兄さん?そんなずぶの素人より、俺が相手するよ。俺……こう見えても極上品」
 しだれかかるようにその背に手を回し、ぐいぐいと自分の腰を押しつける。
「おまえ……」
「!」
 アキヤが声なき叫びを上げる。
 それを目線で黙らせた。
「行こう……」
 ぐいっと引っ張れば、男はにやにや笑いながら付いてくる。
 ああ……なんてことだ。
 ちらりと走らせた股間は、海人のちょっとの色仕掛けにすでに高ぶり初めている。
 それがでかい。
 数をしなければならないときに、絶対に相手をしたくない奴。
 なんであいつを助けなきゃいけないんだ……。
 そうは思うが、気が付いたら止めていた。
 背後から痛いほどの視線を感じる。
 さっさと行け。
 声をかけるわけにはいかなくて、心の中で伝われと願う。

「あ、あ、もうっ……いたっ……あやぁぁぁぁ!」
「おおぉぉっ!最高だっ!もっと締め付けろっ!!」
「もっ……やめっ……あああっ、やだ…ああぁぁぁぁっ!」
 咆吼に覆い被さるように海人の悲鳴にも近い声が室内に響く。
 アキヤを助けるために選んだ相手は、その太い器官で散々海人を痛めつけた。
 快感より痛みが勝るほどの太さ。
 だが、それも感じるところを抉られれば、目の奥にスパークが飛び散る。
「おおおおぉぉぉっ!」
「ああぁぁっっ!!」
 ほとんど叫びっぱなしの状態で、事が終わった途端海人はぐったりとベッドに突っ伏した。
 息も絶え絶えの海人に相場通りの金を寄越した男はさっさと部屋を出て行った。
 最悪……。
 裂けてはいないが、腫れてはいるだろう。
 触れるだけでびくりと全身が震えるほどの痛みが走る。
 流れ出す液が触れるだけで、身を震わすほどに感じてしまう。
 後……8万……。
 このままだと後3人も相手にしなければならない。
 だが……この様子ではもう無理だ……。
 どうしよう……。
 家に戻って薬を入れて休んで……そうすれば明日はなんとか……。
 海人はよろよろと言うことのきかない体を必死で動かしてホテルを出た。
 長く留まれば延滞料金を払うハメになる。
 そうすれど余分に売りをしなければならないから……。
 壁に手をつき何とかして出てきた海人は、はあっと大きく息を吐いた。
 空は完全に日が落ちている。
 なのに、辺りはネオンのせいで昼間のように明るい。
「あんたさ……体売っているんだ?」
 えっ!
 背後からしたその声に、海人は動くことができなかった。

 

 信じられなかった。
 売りをしている場所が気になってもう一度一人で見に行った。
 海人に制された時の言葉が耳に残っている。
 だが、それでも無視できないものがあった。
 だから、そこに行って……。
 迂闊にも自分を売りに来たのだと勘違いされてしまった。
 すえた汗の臭いがする大きな体を持つ労働者に腕を取られた時には総毛立つような気分を味わう。
「あんた可愛いねえ。俺、あんた買うぜ」
 じ、冗談だろ!
「ぼくはそのつもりでここにいるわけではありません」
 丁寧な物言いは、どうやら相手を余計に悦ばせただけだったようで、掴まれる腕がぎりぎりと痛い。
「こんなところにいて、何がそのつもりでないって……そんなこと、信じられるか?」
「ちがっ!」
 その気になればこんな相手を地に伏せることくらいできる。
 だが、本能がここで騒ぎを起こすのはマズイと訴えていた。
 どうやって逃げよう……。
「こんな所に来ているってことは、犯りてーってことだろ。だったら、俺とおとなしく来いよ。天国見せてやるぜ」
「違いますっ!ぼくはそんなつもりじゃっ!」
 その時横から手が伸びてきて、アキヤの腕を掴んでいる男の手を掴んだ。
「ねえ……お兄さん?そんなずぶの素人より、俺が相手するよ。俺……こう見えても極上品」
「おまえ……」
「!」
 その声には聞き覚えがあった。
 視線の先にいる彼は制服ではなくひどく砕けた服装ではあったけれど見間違いようがない。
 高際海人。
 彼がいた。

 どういうことだ?
 声をかけようとしたらその目が無言の圧力を与えてきた。
 男に話しかける海人は、ひどく色っぽい。
 あの視線をまともに受けたら、アキヤでも転んでしまいそうなのりが端から見ていてもありありと判った。
 男にしだれかかり去っていく二人を呆然と見つめる。
 何で彼があんなことを……。
 どう見てもその場逃れの行為ではない。
 無意識のうちに二人の後を付いていけば、そう歩かない内に二人はホテルに入っていった。
 それはどう見てもそのためのホテル。
 展示場が近いせいか、そこかしこにその手のホテルが乱立している。
 嘘だろ……。
 あの時、ああいう行為を嫌っていることが海人の言葉の端々から感じられた。
 だから、その彼が自分を売るということが信じられない。
 嘘だ……嘘だ……。
 目の前でその現実を見たというのに、まだそれが信じられない。
 だから……。
 ずっとホテルの外で待っていた。
 張り込むのは得意だから、苦にならなかった。
 苦痛を訴えるのは心の方。
 信じたいのに信じられない想いがアキヤを苦しめる。
 優しい男だと……思っていた。
 いや、さっきだってアキヤを助けてくれたのだろう。
 だが、そんな彼が……なぜ警官なのに体を売る?
 しかも男相手に……。
 1時間少しが経ってようやく男が先に出て行った。
 ずいぶんとすっきりとした顔つきで鼻歌交じりで歩いていくその男はアキヤがいることすら気づかない。
 それだけで、中で犯ってきたのだと判ってしまう。
 途端に脳裏に浮かぶ、邪な映像をアキヤは持てあましていた。
 そして、それから30分以上たって……出てきたのはやはり海人。
「あんた、売りやってんだ……」
 そう話しかけると、壁に手をついていた海人の動きが止まった。
「あんたさ……警官だろ?それがなんでよりによって売りやってんだよ」
 畳みかけるように言うと、海人がようやくこちらを向いた。
 その顔が青白い。
 見られてショックだったのだろうかと思った。
 が、それだけではなさそうだった。
 目の下に隈がある。
 手を付いていないと、立っているのも辛そうだ。
 視線が逸らされ、俯く海人はひどく弱々しい。
 あの時、自分を襲った輩と対峙したときの様子はみじんも窺えなかった。
「高際さん?」
 肩に手をかけると、彼がびくりと震えた。
 それがひどく痛々しげだった。
「……放っといてくれ」
 ようやく聞けた言葉はそんなもので、アキヤの神経を逆なでする。
 だが、その声が喉をやられたかのように掠れて声になっていない。
 そのことにはたと思いつく。
 しか喋るのも辛そうな彼は今にもそこに崩れ落ちそうだった。
「そういう訳にはいくか。ちょっと来いよ」
 無理に手首を掴んで引っ張った途端、「くうっ」と小さく呻いて海人の体が沈み込む。
「おいっ!」
 覗き込むと、海人の体がおこりのように震えていた。
 息が荒い。
 男と男がどうするかの知識は、ある。
 だから、海人の痛みがどこから来るのか想像がついた。
 あの大きな体の男が脳裏に浮かぶ。
 なぜだがかあっと体が熱くなった。
 あの男に組み伏せられる海人の姿を想像してしまったのだ。
「と、とにかく……休まないと駄目だな」
 珍しく内心の動揺が出てしまいそうになった。
 唸ってうずくまる海人は何もいわない。
 それをいいことにアキヤは強引に海人をおぶさった。
 途端に苦痛を堪える声がする。
 負担がかかるが他に抱えようがない。
 ふっとお姫様だっこの状態が浮かんだが、体格差のある海人をその姿勢でホテルに連れて行くのは難しいような気がした。
「ぼくのホテル行くからね」
 それに海人がふるふると首を振ったような気がする。
 だが、それを無視する。
 アキヤはそのままホテルへと歩き始めた。
 軽い……。
 身長はアキヤより10cmは高い。
 細身だが、見えている肌はその下のそこそこに発達した筋肉が窺える。
 なのに軽い。
 自分より軽いのではないか?
 ふっと肩越しに海人の様子を窺うと、固く目を瞑ってアキヤの肩に顔を埋めていた。
 やはり顔色がひどく悪い。
 抱いた感じでは熱はなさそうだが、どこかに傷を作っているのかもしれない。
 背中から伝わる温もりがひどく儚げで心許ない。
 何か……理由があるんだろうか?
 いや、あって欲しいと願う。
 先日、海人がアキヤを制したのは、それを嫌悪しているからだと信じたかった。
 先ほどもアキヤを助けたから、あの男とホテルに行ったのだと、信じたかった。
「高際さん……あなたは……警官、なんですよね」
 呟く言葉が海人の耳に届いたかどうか……。
 至る所でネオンが瞬き、空と比べて地上は暗闇がない。
 その中をアキヤは海人に負担がかからないようにゆっくりと歩いていった。
 アルコールと嬌声と……薬と拳銃の似合う街。
 最低の街……。
 だが、その中で出会えた海人だけは、その街に似合わないような気がしていた。

 

 ホテルのフロントが海人の姿を認めて嫌な顔をしたが、アキヤがきちんとした客であるからさすがに文句も言えないようだ。
 エレベーターを使い、部屋まで行くとロックを解除した。
 背中から降ろすときに僅かに身動いだが、ベッドに降ろした海人は眠りについているようで固く閉じられた目蓋は開くことはなかった。
 よく見ると、かなり汗を掻いている。
 アキヤはタオルを固く絞ると、それで海人の額を拭った。
 ホテルから出てきた海人を呼びかけた時の反応を思い出す。
 ひどく驚いて、そして嫌だとばかりに俯いた。
 あれは見られたくなかったんだろう。
 額をふき取ったタオルを首筋に向けて拭き取る。
 と、そのはだけた胸から見える朱色の斑点が目に入った。
 途端に胸の中にもやもやとした不快な感情がわき起こる。
 あの男としたのか?
 背の高い海人よりさらに大きい体にその体を寄り添わせていた姿が浮かび上がり、自分の胸の内に沸いたものが嫉妬だとはっきりと自覚してしまう。
 だが、嫉妬?
 アキヤは体を拭いていた手を止めて、海人をまじまじと見つめた。
 彼は……男だ……。
 確かに綺麗な整った顔立ちはしている。
 だからと言って、決して中性的な所はない。
 すらりとした眉は黒々として男性的であり、引き締められた口元は薄く柔らかそうに見えない。
 その体はきちんと鍛えられている体だ。
 余分な脂肪が窺えない。
 それなのに……。
「バカな……」
 ふるふると首を振る。
 明日の夕方……アキヤは宙港に向かう。
 そうすれば、彼とは二度と逢うことはないだろう。
 だったら、この沸いた感情を押しつけても、彼にとっては迷惑なだけだ。
 アキヤはくっと唇を引き締めると、手際よく海人の体を拭いていく。
 その全身に散らばる朱色の斑点も、気づいてしまった喉や手首の擦れたような痕も、何もかもを無視して……。
 そして感情を押し殺す。
 ふうっと意識が覚醒する。
 自分が布団にくるまれていることにほっとし、そしてはっと我に返った。
 慌てて跳ね起きて辺りを見渡すと、自分の部屋ではない。
「くっ……」
 腰の辺りがひどく重い。
 尻は未だにじくじくと不快な痛みを訴えていた。
 座ることによって、伝わったその痛みは、堪えられないほどではない。
 だが、この程度でも痛みを訴えると言うことは、この後しなければならない行為を考えるとひどく憂鬱になる。
 それより、ここはどこだろう。
 意識が別の所に行ったことに気づき、それを取り戻してもう一度周りを見渡した。
 どう見てもホテル。
 しかも普段自分が利用するホテルとは格が違うのがはっきり判る。
 一般観光客向け……。
 途端に一人の男の顔が脳裏に浮かんだ。
 同時に連鎖反応的に、全てを思い出す。
 あの時、確かにあの場にいたのはアキヤだった。
 アキヤに見られた。
 途端に胸がひどく締め付けられる。
 どうして彼に見られたくらいでこんなにも心が乱れなければならないのか……。
 だが、確かにあの時、自分はひどく動揺していた。
 瞬間、彼の問いに答えることができなかった。
 なのに……。
 崩れた海人を心配そうに窺って、ホテルに連れて行くと言ってくれた……。
 アキヤは自分より小さい。
 なのに……その背がひどく心地よかった。
 暖かい温もりが……体に染みこむようで、その気持ちよさにどんどんとうっとりしていって……。
 その後の記憶がなかった。
 
 ひどく怠くて疲れていたから、あの温もりで眠ってしまったことは簡単に推測できた。
「迷惑……かけたな……」
 ふうっと息をつく。
 それから慌てて時計を見た。
 まだ7時前だと判ってほっとする。
 まだ足りない。
 征の命令は20万。
 手に入れたのは12万。
 後、8万だ。
 それだけなら、なんとか貯金をかき集めれば……とも思った。
 だが、もしそんなことをしてばれた日には……いや、絶対にばれる。
 そうしたら、もっと別の制裁が待っている。
「後8万か……」
 ぽつりと呟く。
 たかが8万、されど8万だ。
「何が8万?」
 その声に慌てて振り向いた。
 気が付かなかった。
 どうしてこの男はこうも気配を消すのが巧いのだ?
 いつも背後にいきなり現れる。
「……なんでもない……」
 視線を戻して、首を振る。
 無意識のうちに胸に当てた手が服を握りしめる。
「ありがとう……もう行かないと」
 そうだ。早くしないと……後8万……。
 だが、ベッドから足を降ろして立とうとした途端に体がゆらりと揺らいだ。
 あっ……
 ベッドに手をつく寸前に体が手が回された。
 それに支えられる。
「まだ無理だ……」
 なんてことだ……。
 アキヤに支えられて、ようやく立っている状態。
 ここまで体がダメージを受けるとは思わなかった。
 確かに昔仕事をしていたときより、ノルマはかなりきつい。
 だが……。
 それでも……しなければならない。
 はあああ
 長く深いため息をつくと、海人は意志の力を振り絞って足に力を込めた。
 行かなければ……。
「すまん、大丈夫だ」
 ふうっと吐き出す吐息に心の中の全てを乗せる。
 考えても仕方がない。
 今しなければならないことをするだけだ。
「無理だって」
「行かないといけないんだ。離してくれ」
 アキヤの力は強い。
 だから、ふりほどけなかった。
 アキヤは本当に意外性が強い。
 もっとおどおどした雰囲気があった。
 それなのに、強かった。
 強くて……優しい……。
 暖かい。
 後ろから支えられたいるせいで、背中から抱きしめられている状態になる。
 それがアキヤの温もりを伝える。
 背負われている時にも感じた。
 暖かい……。
「高際さん?」
 黙って身動きしなくなった海人に、アキヤが不審そうに覗き込む。
 それから隠すように海人は顔を俯かせた。
 ぽたり
 溢れた熱い涙が、アキヤの腕に落ちた。
「高際さん……」
 アキヤが絶句する。
 海人は泣いていた。
 体を微かに震わせて、声を押し殺して泣いていた。
「う……ううっ……う……」
 溢れ出した涙はいつまでも止まらないようだ。
 だんだん海人の震えが大きくなる。
 それと同様に海人から漏れる嗚咽が大きくなる。
「いいよ、泣けよ。泣きたいだけ泣けよ」
 抱きしめれらた体を回されて、向き合うようにされた。
 自然に肩に顔を埋める。
 背に回された手が心地よいと感じたのは初めてだった。
 労るように背中をぽんぽんと叩かれることも気持ちいい。
「あ……すまない……でも……」
 止まらないんだ……。
「いいよ、幾らでも泣いていいから。なあ、あ、ぼくの名知ってったっけ?呼んで」
 誘われるがままに口を開く。
「ア…キヤ?」
「そう、ぼくの名。アキヤ。呼んで……高際さんにそう呼ばれるとなんだか気持ちいい」
「俺も……海人…と呼んで…くれ……。姓で呼ばれるのは……嫌いなんだ……」
 この姓は、あいつの養子になったから……だから嫌いだ。
「海人……海人……海人……」
「アキヤ…ありがとう……」
 不思議だ。
 アキヤに名前を呼ばれるのが気持ちいい。
 昔両親に呼ばれていたときのように……そんなほっとする気分にさせる。 
 ぎゅっと抱きしめられることが気持ちいい。
 初めてだ……。
 何もかもが初めて。
「海人……」
 耳元で呼びかけられ、ふっと顔を上げた。
 目の前にアキヤの顔があった。
 初めてまじまじと見たアキヤは、綺麗だった。
 あまり日焼けしない質なのか、白い肌が目の前にある。
 目が合うと、翡翠色の瞳に吸い込まれそうになった。
「海人……」
 形のよい唇が自分の名を紡ぐ。
「アキ……んっ」
 あまりにも甘い声音を感じて、思わず呼びかけようとした言葉は最後まで発することはできなかった。
 ぼやけるほどの至近距離にアキヤがいる。
 唇に触れる柔らかな感触が気持ちいいと感じたのはいつ以来だろう……。
「……ん……アキ……ヤ……」
 角度を変えられる僅かの間に、呼びかける。
「ん……海人……」
 アキヤのキスは優しかった。
 触れあうだけなのに、自分が熱くなっていくのが判る。
 そしてそれが恥ずかしいと感じてしまうのはいつ以来だ?
「…ん…あぁ……」
 キスだけで達ってしまいそうで、海人はぐっとアキヤを押しのけた。
 どくどくと高鳴る心臓が苦しい。
「海人……離したくない……」
 再び抱きしめられる。
 それは海人も同じだった。
 先日逢ったばかりのアキヤとなぜこんなことになっているのだろう……。
 熱くとろけそうな頭なのに、どこか片隅が冷めた目で今の状況を窺っていた。
 それが海人に警告を鳴らす。
 ……アキヤは観光客だ。
 こんな街にそう長くいる予定はないはず。
 離したくない……その言葉の裏を考えるとたまらなく切なくなる。
 離したくない……離さなければならない……。
 これは……。
 ふっと子供の頃を思い出した。
 売春組織に引き取られたばかりの頃、展示場に出さされた海人を、見かねた観光客の老夫婦が買ってくれた。
 食事をしてお風呂に入って柔らかなベッドで温もりに包まれながら一夜を過ごす。
『引き取りたいくらい可愛いね』
『ほんとにねえ、うちの子にしようか』
 まだ仕事を始めたばかりの海人はその言葉を素直に信じた。
 まだ11歳にもなっていない。
 幸せだと思えた。
 だが。
 次の日の朝、朝食だけは食べさせてもらえたが、昨夜の言葉をなんだったのかと思わせるくらいにあっさりとした別れ。
『ほらおやつ代』
 渡された小銭は、一晩の売り上げとともに回収された。
 連れて行ってくれるのだと思っていた。
 なのに……。
 ぽろぽろと落ちる涙はいつしか枯れて……。
 
 それを思い出して、海人はそっとアキヤの体を引きはがした。
「海人?」
「もう行かないと……」
 痛む体を無視して、力を込める。
 そろそろ行って仕事をしないと……。
 夢だったのだ。
 幸せな夢を見ていたのだ。
 今までのことは全て夢だ。
 そう思わないとやってられない。
 本当の別れの時にショックが大きい。
 だから、意識を無理矢理現実に向ける。
「じゃあ……泊めてくれて助かったよ」
 その言葉に感情は込めなかった。

続く