「ね……」
 低く抑えた声で話しかけながら、隅埜啓輔(すみのけいすけ)は視線で目的の相手を先輩である服部誠(はっとりまこと)に教えた。
「……ほんとだ……」
 服部もその姿を目にして、驚きに目を見張りながら小さく頷く。
 ここは更衣室。

 出勤時間がもっとも混むこの部屋の片隅に、ひどく険しい顔つきの男がいた。
 その常にない雰囲気は啓輔達以外の社員にも伝わっているようで、狭苦しいはずの朝の更衣室がそこだけがぽっかりと1メートルは空いている。
 着ていた上着を肩から落とし、ハンガーに掛けると作業着を着込む。
 その慣れた一連の作業の間ずっと彼を見やっていたのだが、いつもならにこにこと挨拶を返す彼が、その険しい表情を崩すことはない。
「……なんかあったのかな?」
「何かって?」
 こそこそと小声で話しているのは啓輔達だけではない。
 彼となりを知っている皆がそうやって窺いながら噂をしているというのに、当の本人は全くそのことに気づいていない。
 それすらも珍しいことだと、よけいに噂話に花が咲いていたところに。
 ガチャンッ!
 ロッカーの閉まる甲高い金属音。それが響いた途端、他の音が消えた。
 数秒後、絶妙のタイミングで全館放送から有線放送の音楽が『掃除をしろ』と響き始める。
「……っ!」
 その瞬間、初めて周りの状況に気づいたかというように彼が顔を上げた。
 慌てて周りを見渡して、自分が衆目を浴びていると気づく。
 途端にぶわっと真っ赤になった顔。
 ぎくりと広げられた右手が顔を覆う。
 指の隙間から覗いている印象的だと言われる瞳までもが赤く染まっているのを啓輔は見て取っていた。
 そう、そんな醜態を晒してしまっているのは、啓輔にとって恋人以外に唯一気になる相手 緑山敬吾(みどりやまけいご)。
 次の瞬間脱兎のごとく更衣室を逃げていった緑山の羞恥に晒された顔。
 それは……。
「服部さん……あれって……反則だよね……」
 思わずロッカーのドアに手をついて前屈みになり、内股になってしまった啓輔に、服部は蔑むように目をすがめた。
「君だけだよ……」
 恋人がいてなぜに他人に反応するのか判らない、と服部がため息とともに漏らした言葉は、取り戻された喧噪さの中で劣情に苛まれる啓輔以外に聞こえることはなかった。



 結局、朝っぱらから元気に自己主張する息子のせいで寒風吹きすさぶ屋上に隠れるハメになってしまった啓輔は、仕事場である部屋に10分も遅れて入った。
「すみませ?ん……」
 恥ずかしいことに、遅刻の原因は服部にはばれている。
 顔を上げるのも恥ずかしくて、俯いたままとぼとぼと自席へと向かった啓輔だったが、誰かが自分の椅子に座っているのに気づいた。
 誰だろう?
 って顔を見ようと視線をあげた途端、ピキリと全身の筋肉が硬直する。
 表情すら動かせなくなった啓輔の姿に、服部がくつくつと肩を震わせていた。
 必死で押し殺しているにも関わらず漏れる笑い声にも動かない緑山。
 そのアンバランスな世界が啓輔をよけいに混乱させた。
 何で???っ!!
 内なる心の叫びが何度も何度も頭の中でこだまする。
 よりによって、欲望を処理するのに遣っていた相手が、なぜ自分の席にいるんだ?
 も、もしかして、遣っちゃったのがバレたっ?
 んな筈ないだろって一人で突っ込みながら、だが一抹の不安を消しきれなくておずおずと緑山を窺う。
 そう。
 不安が消せない理由の一つに、緑山のその不機嫌きわまりない表情があった。
 何をするでもない。
 ただ、啓輔が先週からそこに放置していた特許公報をじっと睨んでいる。
 それが、緑山にとっては何の関係もないモノであることは啓輔とてよく知っていた。
 つまり彼はそれを見ているわけではないのだ。
 しかし……。
 だからと言って、そこを占領されると啓輔としては仕事にならない。
 すでに始業開始のチャイムはとっくの昔に鳴り終えたのを屋上で聞いて知っているというのに。
 決して真面目とは思わないが、最近たまり気味の仕事を今日はさっさと終わらせたいと願っている啓輔にしてみれば、そこを占領されるとどうしようもない。
 これが彼以外ならどうとでも追い出すのだけれど……。
「……緑山さん……」
 意を決して話しかけると、ようやく緑山が顔を上げた。
「あ、ごめん」
 抑揚のない声がその唇から漏れる。
 血の気の少ない顔の中でいつもより赤色の濃い噛み跡のついた唇が視界の中で蠢いた。
 ゆらりと力のない体が立ち上がる。
「邪魔しちゃったね……」
 申し訳なさそうに謝る緑山の表情がその一瞬、ふっと和らいだ。
「っ!」
 口元がほころび、きつく鋭く見据えていた目が柔らかく弧を描く。
 その元気のない笑みは、だからこそひどく儚げで啓輔の心臓を鷲づかみにした。
 ごくり。
 無意識のうちに啓輔の喉が鳴った。
 いつもならそんな反応をすればムッとにらみつけてくる筈の緑山。
 ところが今日はそんな啓輔の様子すら気づかない。
 視線がどこか遠くを見つめていた。
「ちょっと……事務所に居づらくて……」
 いつにない緑山がそこにいた。
 その力のない表情は……啓輔の封印していた記憶を呼び起こす。
 そんな……。
 機械に占拠されたいつものコンピュータールームが、あのときの狭い部屋を彷彿とさせた。
 そのとんでもない既視感に捕らわれた啓輔が呆然と立ちすくむ横を、緑山が通り過ぎようと……。
「危ないっ!」
「えっ!」
 ふらりと宙を泳ぐように緑山の体が啓輔の方へと倒れてきた。
 服部の声に我に返った啓輔がすんでの所でその腕を掴む。
 無造作に強く腕を引き、倒れる方向を変えた緑山の体を啓輔は全身で受け止めた。
 胸に抱き込むようになる。
 顔の下に緑山の頭があった。
 ふわりと泳ぐ髪が鼻下をくすぐる。微かに香った匂いは、シャンプーの香りだろうか。
 思わずぎゅっと腕に力が入ってしまった。
「緑山くんっ!」
 その声にはっと我に返った。
 慌てて、腕を緩めて緑山の体を抱き直す。
「緑山さんっ!」
 意識がないのだと気づいて、よけいに慌てた。
「は、服部さんっ、どうしよ?っ!!」
「貧血っぽいから、とりあえず寝かせようっ!」
「あ、はい」
 寝かせると言ってもベッドなどないから、床に直接寝かせるしかない。
 啓輔よりは小柄といっても、力を失った緑山の体は結構重く二人がかりでずりずりと滑らせながら床に横たえる。
「あっ、これ枕代わり」
 服部が差し出したのはノートパソコンを入れるフリース地のケースだった。
 それでもないよりはマシだろうっと頭の下に入れる。
「んっ……」
 頭を動かした途端に、緑山が微かに声を漏らした。
 よくよく見れば血の気のなさを通り越して真っ青だ。
 大丈夫なのか……。
 不安が胸を締め付け、跪いたままの啓輔は中腰で見下ろしている服部を見上げた。
「病院連れて行かなくていいかな?」
「……もう少し休ませてみようよ。昨夜は眠れなかったみたいだし、食事もあまり取っていないみたいだし……」
 へ?
 その言葉に驚いた。
「何で?」
 落ち込んでも復活する様を見ているから、ここまでダメージを受けている緑山にひどく違和感を感じる。
 彼は強いんだ、と思いこんでいた。
「ちょっとだけ話を聞いたんだけど……。彼が浮気をしたとか……」
「えええっ!!」
 ため息混じりの服部の言葉には、今度は天と地がひっくり返るかと思うほどに驚いた。
 だって、緑山さんの相手って……相手って……。
 傷ついた緑山を癒したのは彼だ。
 彼がいなければ今の緑山はあり得ないと、啓輔はそのことを当事者としてよく知っていた。
 それなのに……、
 目を丸くして服部を見返していた啓輔だったが一刻の驚きが去ると、さもありなん……と、どこか納得してしまっていた。
 ……。
 あまりいい印象のない緑山の相手は、その出会いからして最悪だった。
 いつだってきつい目で睨まれ続けているのだから。
 だが、啓輔の相手である家城純哉(いえきじゅんや)の言っていた言葉が脳裏に浮かび上がる。
 緑山の相手は、かなり遊んでいる……と。
 やっぱ……そういう人だよな……。
 他からも伝え聞く噂というモノは、その特性から数歩下がって聞いたとしても、その相手がいかに遊び人かということを如実に伝えてくる。
 それでも……。
「緑山さんがこんなになるなんて……」
 どれほどのショックをこの人に与えたんだろう?
 この人をそんな目に遭わせるなんて……。
 可哀想だ……。
 無意識のうちに啓輔の手が伸びて緑山の額にかかっていた前髪をさらりとあげた。
 そうやって露わにした真っ青な顔。
 わずかに開いた唇に誘われそうになる。
 と、触れた指先に気づいたのか、微かに緑山のまつげが揺れ、うっすらと目蓋があがった。
「気づいたっ!」
 服部が真っ先に気づいた。
 途端に、啓輔は自分の行為にはっと我に返った。慌てて手を引っ込める。
 どこかぼんやりとした緑山の瞳が、服部の呼びかけに力を取り戻すかのようにはっきりと焦点を結んだ。
「あ……オレ……」
「大丈夫?気分悪くない?」
 事態が判ってないのだろう。
 手を額に当てながら、上半身を起こそうとする。
「いきなり……倒れたから、びっくりした」
 まだ指先に残る伝わってきた熱を味わうように握り混み、背に隠す。
 じんじんと鈍くわき上がった劣情を隠すように、何でもないように啓輔は嘘の笑いを口元に浮かべた。
「どしたのさ、緑山さん?」
 軽口を叩く。
 そうしないと、気づかれそうで。
 忘れられていない自分に気づかれそうで。
「ごめん……」
 呟きを乗せてはふっと吐き出す息がひどく重く、室内に響く。
「……ここで休んでいいから。隅埜くんの椅子貸してあげてね」
「あ、いいですよ。オレはこっちの椅子を使うから」
 一日座り仕事の啓輔達の椅子は、とても座り心地がいい。
 未だ力の入らない緑山にはぴったりだろうと、啓輔も頷き返した。
 先ほどまで緑山が座っていた椅子をころころと転がしてくると、服部が緑山の体を支えるように立たせた。
「ごめん……仕事の邪魔だよね」
 ほんの少しだけ色の戻った顔に苦笑いを浮かべる緑山に首を振る。
「……ここなら他に誰も来ないよ。ね、言いたいことがあったらここで吐き出して。溜めることがどんなに辛いかは知っているから……だから、気にせずに言ってよ。ここにいるのは、事情が判っている人間だからさ」
 服部の言葉が嘘でないから、緑山も素直に頷いていた。
 だからこそ……ここに来てしまった。
 そう思った緑山は嬉しそうに笑った。
 それだけで気が楽になる。
 一点だけに捕らわれていた心が周りに目をやる余裕すら見せ始めた。
 だからこそ、啓輔が困っているのも気がついてしまう。
 それに気づけたのだということが、さらに緑山に余裕をもたらした。
「うん……ありがと」
 そしてちらりと啓輔を見やる。
「聞いた?」
 いつもの蠱惑的な笑みを向けられれば、啓輔はいつものように口ごもるしかない。
 判っててやっている緑山は、自分を取り戻そうとしているのだろう。
 それが判っても、啓輔にしてみれば心臓に悪いことこの上なかった。
「浮気されたってことは……」
 ……もしこの二人が喧嘩でもして別れたら……。
 未だ意識をせざるを得ないこの人がフリーになる。
 途端に、確かに背筋に寒気が走ったのだ。
 まずいんだ。
 と、ひどく心が警戒する。
 もし自分がフリーなら、飛びつくようなシチュエーション。
 だけど。
 ふっと脳裏に浮かんだ恋人が、今は何よりも大切だから……。
「オレ達がどこまで役に立つか判んないけどさ……聞かせてよ」
 この二人、絶対に別れさせてはいけないんだ。
 どんなに妄想の対象にしようとしても。
 自分にとってやっぱり大切なのは純哉だから。
「どうせ穂波さんが悪いんだろ」
 ニヤリと笑うその先で、緑山も嬉しそうに笑っていた。
 ああ……やっぱ、この人には笑っていてもらいたい。
 あんな目に遭わせてしまったけれど、今でも忘れられない初恋なんだからさ。




「つまり……穂波さんの背にキスマークを見つけてしまったんですね、緑山さんは……」
 その日、平日ながら啓輔は純哉の部屋に来ていた。
 四肢を伸ばしてラグの上にうつぶせに寝っ転がっていた啓輔は、ちらちらと横目で隣のソファに深く体を預けている純哉を窺っていた。
 それでなくても結構キテいる。
 憂いを帯びた緑山の顔は、モロ好み。
 滅多に見ることのないその顔と雰囲気にそそられてしまったせいで、胸の内にモヤモヤと疼くような劣情を抱いてしまった。
 朝一回ヌいたくらいでは、解消できないところが啓輔の下半身の若いところだ。
 それを解消したくなって……ここに来たというのに。
 だが、どうもそういうムードにならない。
 下手に誘うと、どうしても受けずにはいられなくなるし……。
 今日の劣情を解消するためにはどうしても純哉を押し倒したい。
 腕組みをして何かを考え込むように目を半ば伏せている純哉の顔は、そういう仕草をするとよけいに冷たさが増してくる。
 笑み一つもたらさないその雰囲気。
 いったい何を考えているのか?
 穂波の浮気話をしただけなのに、なぜか純哉はひどく厳しい顔つきのような気がする。
 その沈黙に堪えきれなくて啓輔は、俯せのまま無意識のうちに足を膝のところで折り曲げて宙を蹴りながら、ぼつぼつと言葉を継いだ。
「それで……緑山さんが食事も喉に通らないほど落ち込んでいて……オレ達のところで貧血で倒れちゃって……」
「コンピュータールームでですか?」
「うん……服部さんと仲がいいからさ……まっ、状況が判るからだと思うけど……朝行ったらもういて……その時に」
「大丈夫だったんですか?」
「あっ、うん。びっくりしたよ、急に倒れかけてきて……オレ側にいたから腕掴んでぎりぎりで抱き寄せた。オレいなかったら床に激突してて悲惨だったろうねえ……。緑山さんのきれいな顔が傷つくところだった」
 何気なく……本当に何気なく啓輔は呟いた。
 脳裏に浮かんでいたのは、あの血の気の失った緑山の顔。
「緑山さん……って、前見たとき、結構な量を食べるんで驚いたけど、今日抱いたときとっても軽くって……それも驚いた……」
 横たえるときに抱えた体は、持ちにくかったけれどそれでも意外なほど軽くって。
 途端にあのとき味わった疼きが下肢を襲う。
 ん……。
 がくりと膝が砕けるような微弱な電流に襲われたせいで、宙を蹴っていた足がぱたりと床に落ちた。
 あ、やば……。
 押さえつけていた興奮が枷を失ったように体を支配してくる。
 ヤりたい……。
 ちくしょ……オレ、やっぱ相当キてる……。
 そういや、もう2週間ばっかしていないよな。
 純哉、研修とかで土日いなかったし……。
 この際、駄目もとで押し倒してみようか?
 などと考えながら、啓輔は横目で窺うように純哉に視線を移し……ひくりと息を飲んだ。
 お、怒ってる???
 はじめからなんとなく怒っている感じはあった。
 でも、それでも別に態度が変わるものでもないし、平日で疲れているんだろうって思っていた。
 最近、やっかいな仕事が増えたって言っていたし。
 なのに、今はその時よりずっと鋭く啓輔を睨んでいる。
 腕組みをして凝視する様に、周囲の空気は一気に氷点下に陥ったようで、啓輔は急速に襲ってきた寒気にぶるりっと体を震わした。
 思わず掴んだ腕は、服の下は総毛立っている。
「じ、純哉?」
 窺うように甘い声を出しても反応がない。
 お、怒っているよ……やっぱ……。
 だけど、その原因が思い浮かばない。
 何で……???
 ?マークばかりが、頭に浮かぶ。
 このパターンは……。
 イヤな予感がした。
 逃げた方がいいと、経験に根ざす予感が訴える。
 視線を純哉に据えたまま、啓輔はそろそろと体を起こした。
「あ、……そういやもう帰らないと……明日も仕事だし……」
 あはは……。
 と笑いながらわざとらしく時計を見る。
「まだ早いでしょう?」
 だが、純哉の動きの方が早かった。
「あっ」
 するりと滑るようにソファから降りてきた純哉がぐいっと啓輔の肩を掴んで強く押したのだ。
 鋭い痛みとともにぐいっと床に押しつけられる。
「いっ、痛いよ」
 顔をしかめて訴えるが、純哉はその口元を多少歪めただけだった。
 ぞくり
 悪寒にも似た震えが背筋を走る。
 押し倒された。
 この後に続く行為を甘くだけど冷たく想像させる。
 これって……やっぱ……。
「あ、あのさ……明日仕事なんだけどね」
 駄目だろうな……とは思いつつ、訴えてみる。
「今更何を言っているんです?」
 くすりと鼻で笑われる。
「したかったんでしょう?そのつもりで今日ここに来たのに、今更何を言っているんですかね、あなたは」
 ああ、やっぱり……。
 啓輔の欲望など純哉には筒抜けだったようで、さらりと冷たく指摘されては返す言葉は口の中から出ることも敵わない。
 だけど……このパターンではない……と言いたいのだが、純哉の冷たい怒りの前ではそれすらもできない。
 せいぜい、「何、怒ってんだよ」と、訴えるくらいだ。
 だが。
「……他人に煽られている恋人に怒りを覚えない人間なんています?」
 などと返されては……啓輔はその全身を硬直させることしかできなかった。
 ば、ばれてた??!!
 真っ白になった頭が、ただそれだけをリフレインする。
 冷静になればバレてしょうがない言葉を吐いているのに、今の啓輔はそれに気づかない。
 ただ、この後に施されるのは嫉妬に狂った純哉からのお仕置きだと……そればかりが頭にある。
 服部さん??ごめんっ!明日会社にいけね────っ!!
 と、喉に純哉が口づけた途端に頭の中で叫んでいた。
 そのままぺろりと首筋をなぞられ、舌先を尖らして耳朶の後ろを刺激してくる。
 何をされるかと緊張に強張っていた体が、その行為に記憶を取り戻して啓輔に快感を伝えてきた。
「……ふっ…ん…」
 じんわりと走る疼きに堪らず鼻から甘い声が漏れる。
 怒っているという割にはその動きはゆっくりとしていて、的確に啓輔の感じる場所を刺激していた。
「あっ……」
 ぐいっと腰を押しつけられ、自分のそこがひどく堅くなっているのを身をもって感じる。
 ぐりぐりと押しつけられては、堪らず腰を踊らせた。
 それでなくても、朝から煽られて続けてきたそこは、ひどく敏感に反応する。
「んっ……あっ……」
 無意識のうちに手を伸ばして純哉の体をかき抱く。
 ずしりと加わる重みすら気持ちいい。
 挿れたい……。
 緑山に煽られたときは無性にそう思っていた。
 この部屋に来たときも、いかにしてそういうシチュエーションに持っていくかを考えていた。
 だけど……今はもうこの先に来る快楽を体も心も求めている。
 ただ、欲しい……と。
 純哉に抱きしめられ、その唇が胸元に降りてくる頃には、もう啓輔はただそれだけを考えていた。
「純哉……あっ……」
 欲しいよ……。
 すっかり慣らされた体が啓輔を翻弄する。
「……あなたが緑山さんを忘れられないことは知っていますけれど、それでもあなたの口から直接聞くと……私自身がコントロールできなくなります」
 その嫉妬丸出しの言葉を耳朶に吹き込まれると、冷たい声音だというのに全身の力が一気に抜けていく。
「……だって……」
「倒れてきたからしょうがないのだと思いますけれど、それでも抱いたなんて言葉を聞くと、ひどく不快になります。あなたの手の中に入るのは私だけにしてもらいたいですね」
 たんたんとした口調なのに……。
 それでも普段は決して口にしない言葉をわざわざそうやって訴えずにはいられないほどに、純哉が嫉妬しているのだと気づいてしまうから……。
「ごめん……ごめん、純哉……」
 ぎゅうとその背を抱きしめる。
「あなたを……傷つけるほどに激しく抱きたくて……堪らない」
 ここに閉じこめるために……。
 耳元で囁かれて、全身が甘く痺れた。
「いいよ……オレ……明日は緊急の予定なんてないし……」
 頭の中に、山積みになった未処理の特許公報が浮かんだけれど、それを片隅に追いやってにこりと笑いかける。
 だってね、オレだって堪んない。
 この人に、ここまで言わせてしまった。
 抱きたいほどに可愛いこの人を。
 こんなにも甘えん坊なのに、不安にさせた。
 冷静沈着だと評される男を、甘えん坊にできるのはオレだけなんだよな。
 それだけで、抱きたいって気持ちは消え失せる。
 好きにしてもらいたいって思えるんだから不思議だ。
「少しくらい激しくったって……ごめん。オレが悪かった」
 片方の手だけをずらして肩口に埋められていた純哉の顔を上げさせた。
 ちょっとだけ笑いかけ、許しを請うようにキスを請う。
 途端にうっすらと赤くなった顔がゆっくりと近づいてきて……。
 触れあった柔らかな唇の感触だけで達きそうになったオレって……。
 なんとかその衝動を堪えた啓輔に気づいた純哉が、くすくすと唇の上で笑う。
 かああっと火が噴きそうなほどに熱くなった顔をよけることすらできない。
「ううっ……」
 簡単な愛撫だけで達きそうになる息子を抱えた啓輔。
 そんな彼をぐうの音も出ないほどに翻弄することなど純哉には簡単なことだった。


 お約束のように仕事を休むハメになった啓輔が、純哉のベッドで寝っ転がっていると携帯が鳴った。
「はい?」
「あ、服部だけど……大丈夫?」
 いきなり加減を聞かれて、絶句する。
 あ、いや……腹具合が悪いって休んだっけ……。
「あ、もうだいぶ良くなったけれど」
 えへへと笑いながら答える啓輔は、次の服部の科白にぽろりと携帯を落とした。
「家城さん……怒ってたんだろ?無茶された?」
「!!!」
 何でっ!!!
 慌てて取り上げた先で、大きなため息が聞こえた。
「あ、あの……」
「ごめん……梅木さんがまた盗聴してたんだよね、いや……盗撮っていうのかな……」
「トウサツ??」
「盗撮……この前出張ついでに僕の買い物頼んだんだ。そのときついでに見つけてきたらしくって……。ちっさいカメラがサーバーの上に据え付けてあったのを今日見つけたんだ……そういう知恵だけはよく働くんだよ?、あの人……普段はそういう機械に興味なんか全くないくせに?っ!!」
 と、いうことは?
「あの様子、そのまんま家城さんに教えたらしいんだ。さすがに見せてはいないけれど……」
 な……なんだってえぇぇぇぇっ!!!
 思わずがばっと跳ね起きて、体の中心から脳天を貫いた痛みに身もだえる。
「大丈夫?」
 心配そうに聞かれても、食いしばった歯の隙間から漏れるのはうめき声だけだ。
 だいぶ慣れてきたとは言え、昨日のそれは激しくて、何回されたか判らない。啓輔自身、挿れられた回数以上に吐きだしたのだ。
 だが、そんな行為を許したのも、嫉妬に狂わせた自分自身の行為を恥じたからこそ。
 だけど、あらかじめ純哉は何もかも知っていた?
 ということは、啓輔の失言を聞くまでもなく純哉は何もかも知っていたと言うことで。
 となると、昨日のあのすべては最初から仕組まれたことではないのか?
 そう言えば、逢ったときから様子が変だった。
 最初から怒っていたような……というのはやっぱり間違いなかったんだ。
「今日休むって聞いて……怒られたんだろうなって思って。ごめんね。梅木さんにはきつく言っておくから」
 その服部の”きつく”がいっこうに梅木に効かないのは、知っている。
「もう遅いですよ」
 きっと、緑山に欲情しているとあることないこと伝えたに違いない梅木にはもう怒りを通り越して呆れるしかない。だいたいやり返す案も浮かばない。
 いかんせん、相手の方が頭が切れる。
 なおかつ、純哉などそれをさらに上回る。
 きっと欲しがっている啓輔の先手を打ってのあの態度。
 何もかも知っているから、きっと啓輔が来ると踏んで、怒りを静かに内包させつつも手ぐすね引いていたんだ。
 だから怒っているわりには行為そのものは優しくて、翻弄されまくったのだ。
「今日は僕一人でも大丈夫だから、ゆっくり休んでね」
 その優しい言葉にもただ嘆くことしかできない。
 ぷちっと切れた携帯をベッド下に落とし、啓輔は深くなが?い嘆息をついていた。
 恋人以外に欲情するのはもうやめよう。
 とは思うのだけど……無理だろうなあ……。
 節操無しな下半身を抱える本人だからこそ、それがはっきりと自覚できて。
 きっと純哉を抱くことなど当分できないのではないか、と諦めにも似た境地に襲われていた。

【了】