【帰るところ】

【帰るところ】

 忙しい日々は、忙しいと思っている間はあっという間に通り過ぎてしまう。
 新規製品が立ち上がるときはいつも同じような状態だが、新人ではなくなった緑山敬吾の負担は前に比べて格段に増えていた。一時も気を抜く暇もなく時間のやりくりして、仕事をこなす。
 気が張って、疲れたとも思わない日々が続いていた。
 だがそれも一段落ついて、ふっと気が抜ける瞬間が訪れる。その途端、蓄積されていた疲労が全身から吹き出すのだ。

 その瞬間が、今だった。
 ぐらりと傾いだまま倒れ伏した体への衝撃は、柔らかなスプリングに吸収された。軽くバウンドして、ぐたりと沈み込む。一日負担をかけていた足腰やピンと張っていた背筋が重みから解放されて、身震いするほど心地よい。
 忙しい日々であっても、定常外業務もこなしていかなければならないのはいつものこと。
 なんとか落ち着いてきた仕事の合間に、今日は東京で行われた展示会とそれに付随するセミナーを日帰りという強行軍で行ってきた。
 昼食を取る暇もなかった。展示会場で胃に入れたのは、スポーツドリンクとのど飴とクラッカーのようなものだけ。一日ずっと興味のあるブースを回り歩き、説明を聞き、山のようなカタログを貰ってきた。大半は、宅配便で会社宛に送ったが、それでも手のひらに食い込むほど紙袋いっぱいを持ち帰るはめになったのだ。
 粘りすぎて、帰りの飛行機は駆け込むように飛び乗った。
 乗ったら乗ったで、ほおっと一息ついてすぐにノートを取り出して、報告書の原案を作製する。
 そうやってチェックしていると、行き損ねたブースは多々あって、思い出すとため息が零れた。
 しかも、空港からの帰宅途中の車の運転は、あと少しで帰り着くという期待すら感じさせないほどに辛いものだったのだ。
 気が付けば、目の前にあったのは穂波幸人の住むマンションで、敬吾は迷うことなく部屋に向かった。自分の鍵と一緒につけてある鍵で、留守の家に上がり込む。
 寂しい——と常になく思ってしまったほどに、暗い部屋。
 いないと判っているのに、各部屋を確認する。
 そして。
 最後に立ち寄った寝室で、敬吾は上着を脱ぐことなくベッドに倒れ伏した。
 お腹が……空いたような気がする……。
 ぼんやりと今の怠さの原因を思い浮かべながら、敬吾はベッドにうつぶせに横たわったまま視線を周囲に這わした。
 壁一杯のクローゼット。
 高い天井。
 ベッドサイドのテーブルには、読みかけの本。
 分厚い本のタイトルはここからは見えないけれど。
 彼がずいぶんと勉強家なのは、良く知っているから、その本もビジネス書の類であろう事は簡単に想像できた。
 くん……。
 鼻を鳴らして、枕に染みついた匂いを辿る。
「幸人さん……」
 途端に包み込まれるような暖かさを感じて、知らず甘い言葉が乗った吐息を零した。
 ゆっくりと体を動かすと喉を締め付けられる感触があって、ごそごそとネクタイとベルトを外す。
 上着は、腕を抜くのが面倒でそのままだ。
 もうちょっとだけ……。
 少しだけ休憩して、それから……。
 僅かながらの寝苦しさより、横たわった気持ちよさが勝って、敬吾はそのまま目を瞑った。
 空腹感が怠さを助長していると判ってはいるが、今は寝たい。
 目を瞑ると、目の神経も疲れ果てていたようで、光を閉ざしても痛みすら伴う。そのまま、開けたくないと切に願ってぎゅうっと目を瞑れば、吸い込まれるように深い闇へと落ちていく。
「ん……」
 意識を保とうとした名残の行為か指先がぴくぴくと震えた。。
 どこか荒い吐息は苦しげで、掠れた音が薄く開いた唇から漏れていた。しかも、全身を遅う疲労はもどかしげな怠さとなって熟睡となるのを妨げる。
 衣擦れの音と荒い呼吸音は、いつまでも途切れることなく続いていた。


 体を揺れて、意識がふわりと浮上する。
 けれど、まだまだ睡眠は足りていないと、僅かな意識が無視をした。
 肩に触れていた布団を掴み、ぐいっと頭上まで覆い被る。
 眠い……。
 ほんわかとした温もりは睡魔の力を増すものでしかなく、薄れかけた眠気はあっという間に厚く敬吾を覆い尽くした。
 そんな中。
 くすり……。
 誰かの笑い声が響く。
 ふわふわとした心地よい意識の中で、心地よく響くそれ。
 水底深く埋もれかけた意識にまとわりつき、泡となってまとわりついた。軽くなった意識が、ふわりと水面近くに浮上する。
「起きな……ら、腕を……」
 馴染みのある声音が、敬吾をそっと揺り動かしている。
 体を締め付けていた服が腕から抜け落ちる感触に、敬吾は夢見心地のままため息を零した。
「こっちも……」
 足からも服が脱げていく。
 次々と楽になっていく体は、それだけで先ほどまでの怠さがなくなっていくよう。
 しかも、優しくかけられる声音が誰かなんて、敬吾にははっきりと判っていて。
 夢の中、その人に微笑みかけて、彼が乞うように体を動かして。
「あり、がと……」
「ん……ああ……」
 嬉しくて、感謝の言葉が自然に口を吐いて出た。
 会いたいと切に願っていた相手が、今ここにいる。
 それが判っているのに、敬吾の頭はいつまでも夢の狭間を漂う。そんな自分がもどかしいけれど、得も言われぬ安堵感を手放せないのも事実。
「おやすみ」
 頭を優しく撫でられて、そっと引き寄せられる。
 はっきりとした匂いが、鼻孔をくすぐる。
 くんくんと記憶に染みついた匂いを求めて子犬のように嗅ぐと、鼻先に触れたそれが震えた。
 優しく触れた手が、そっと背を包み込む。
 疲労という名の重しではなく、優しい温もりが敬吾の眠りを強く誘い、意識を深く沈めていく。
 先よりはるかに規則正しくなった吐息。
 怠かった体も、気にならなくなっていた。


「おはよう……。どうだ、気分は?」
 目覚めた途端に至近距離にあった端正な顔。
 寝起きだというのに一分のすきも感じられない幸人の顔を、敬吾はぼんやりと見つめていた。
「どうした? まだ熱があるのか?」
 額に触れる大きな手のひらの感触を味わって。
 はたっと気付く。
「熱?」
「ああ、微熱だったけどな」
 びくりと見開かれた瞳を覗き込んで、幸人が頷いた。
 差し出された体温計を、促されるままに脇の下に挟む。
「38度ちょっとだったか……。ずいぶんと寝苦しそうだったな」
「怠い……とは思ったけど。疲れてたからって……あれ?」
 昨夜の様子を思い浮かべながら喋っていて、喉の違和感に気付く。
 朝の喉の渇きとは違う違和感。
 思わず指で触れてみるけれど。
「喉……が……」
「声が掠れているな。風邪か?」
 喋るとそれだけはっきりと感じる痛みがあった。
 ピピッ と鳴った体温計を取り出せば、37度7分。
 平熱とは言えないけれど、熱が有るとも言い難い温度に、顔を顰める。
「ほら、のど飴だ。これでも舐めて……後で休む連絡を入れろ」
 とんと額を突っつかれて、簡単にベッドに沈み込む。口の中に放り込まれた飴が、冷たさと甘さを敬吾に与えた。
「でも……」
 ころころと口の中で転がる飴を奥歯の外に放り込み、幸人を見上げて話しかける。
 休みたいとは思うけれど、今日しなければいけない仕事のあれやこれやが脳裏に浮かんで、ダメだと首を横に振った。
 けれど、敬吾を覗き込む幸人はその顎を捕らえて、首を振る。
「普段丈夫なお前が熱を出す程だ。特に今の風邪はこじらせやすい。今日一日ゆっくり休んだ方が治りが早いはずだ」
 真剣な声音と有無を言わせぬ迫力で迫られて。
 けれど、残った仕事の量が敬吾を突き動かす。
「でも……昨日出張に出たから……仕事溜まってて」
「部下が休んだら、リーダーが何とかする。そのくらいの甲斐性はあるだろう? あいつは」
「で……も……」
 ニヤリと口の端を歪ませて言われて、敬吾は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「デートだ何だとうつつを抜かして、病気の部下を働かせるバカでもない筈だが?」
 その言葉に脳裏に浮かぶのは、凛とした姿で仕事を行っている上司、篠山の姿。その同じ姿の彼が、携帯が振動するたびににその顔を崩す。
 どちらも彼だが、ついつい怠けている姿の方が印象に強い。
「あれは、愚かな上司ではないはずだ」
 こんな時だけ彼を買う幸人に、敬吾はくすりと笑みを零した。
 いつもは、部下の滝本を任せられるような奴ではないと、揶揄してバカにしているけれど、実際には、こんなにも篠山を認めているのだ。
 けれど、幸人の言うとおり、確かに篠山ならば敬吾が一日休んだ穴埋めを何とかしてくれるだろう。
 そう思い至って、敬吾は体に入っていた力を抜いた。
 ほおっと長く息を吐き出せば、籠もった熱が出ていくようでひどく気持ち良い。
「今日一日休めば、明日には行けるだろう。幸いにして俺も今日は融通が利く。だから、安心して休んでいろ」
 かけられた言葉と深くなった笑みに首を傾げる。
 融通?
 問うように幸人を見上げると、苦笑が降ってきた。
「ったく……帰って来たときにお前がいるのに気付いたときには、誘われているかと思ったけどな。苦しげに唸る姿を見たときにはどうしようか、と焦ったよ」
 そっと唇に触れて離れるその感触が名残惜しくて、敬吾はじっと見つめていた。言葉の割にはちっともそんなことは感じさせないで、幸人が敬吾の額にかかった前髪を掻き上げる。
 焦点がかろうじて合う距離。
 妙にはっきりとした唇の紅さに見入られる。
「どうした? ん?」
 笑いながらこつんと額と額を合わせられ、触れるだけの口付けを施された。
 もっと……。
 優しさに胸の奥が甘い痛みを伴って疼く。
 この人が欲しかった。
 疲れていても——否、疲れているからこそ、この人に触れたかった。
 飢えたように、体が求めていた。
 ずっと、ずっと欲しくて堪らなかった。
「あんまり誘うな」
 苦笑して離れる幸人の腕を掴む。
「幸人……さん」
「何だ、欲しいのか?」
 ふざけた態度ではぐらかそうとする。
 常ならば、そんな態度に腹を立てたふりをして、敬吾も同じように返してやるのだけど。
「欲しい……」
 口を吐いて出たのは、そんな言葉。
 素直な欲求に、幸人はさらに苦笑を深くした。
「お前は……。俺の自制心を試しているのか? 敬吾が相手なら、いくらでも薄く脆くなるというのに……」
「ん……」
 触れて、離れて。
 首に回された腕が敬吾の体を起こして引き寄せる。
 深くなる口付けに答えて、強く舌を絡めた。交わる唾液が溢れて流れる。目眩がしそうな程の快感に、敬吾はしがみついた指に力を込めた。
「熱があるんだぞ?」
「いい……」
「悪化しても知らないぞ?」
「ん——あっ」
 制する言葉とは裏腹に、幸人の手が敬吾の肌を晒していく。
 ひんやりとした空気が、肌を冷やした。ぶるりと震え、総毛立つのは寒さのせいだけではない。
 性急に暴かれた肌に、幸人が赤く印をつける。僅かな痛みすら快感になり、敬吾は何度も身震いした。
 ずらされた下着から、そこだけは元気な雄が顔を覗かせる。それをそっと撫で上げられて、淫らに喘ぐ。
「一回だけな」
 なのに、ずいぶんと冷静な声。
 手を伸ばして視界を覆う肌を辿る。
 さっきより熱い体。抱き締めて欲しかった。
 縋り付くと幸人が意を察して答えてくれた途端に、鼻の奥が熱くなる。
 嬉しいとすり寄ったは無意識のうちだ。
「熱のせいか? ずいぶんと甘えん坊だ」
「違う」
 普段以上の優しさに触れたせいだ。
 対等であれ、と願う相手に弱さを見せてしまったと言うのに、そんな自分が許せてしまう。
 今だけは。
「頼む……欲しいんだ」
 その優しさも、熱も、何かもが欲しい。
 熱が下がれば、元気になる。明日になれば、こんな甘えを晒した自分を悔いるかもしれない。
 だが、今はそれらを享受したいのだ。
 濡れた瞳で見上げた途端、幸人がごくりと息を飲んだ。



「あっああっ、幸人……さっ——あっんっ」
 二本のいきり立った陰茎が艶やかな液に濡れそぼっていた。
 くちゅくちゅと二本同時に掴んだ指が動くたびに、泡立つ滴が流れ落ちる。
 ローションがたっぷり塗られたそれは、軟体動物が絡み合うように互いが互いを刺激し合っていた。
「んふぁ?あっ」
 くちゅと先端同士が重なりつぶれて、滑る。
 割れ目から吹き出す液が混じり合い流れ落ちた。荒い息が、大きく、そして掠れて響く。
 微熱など気にならない。
 それ以上の熱が体内を駆けめぐる。
 ずっと自分でもしていなかった敬吾の体は、呆気なく限界を訴えていた。
「あ、ああっ、達か、せて——っ」
 縋り付いた筋肉質の背に手を回し、懇願する。
 もっと強い刺激を求めて、腰を擦り寄せ、絡めた足に力を込めた。
 体の奥深くが、抉って欲しいと訴えている。
 けれど、幸人は今日は挿入するつもりはないようだ。
 だったら、もっと強い刺激が欲しい。
「幸人っ——幸人っ——もうっ」
「くそっ、俺も保たんっ」
 眉間に深いシワを刻み、幸人が唸る。
 激しくなった手の動きに、敬吾が声なき悲鳴を上げた。
 脳髄が弾ける。
 真っ白になった視界に、何度も閃光が走り抜けた。
「————っ!!」
 どくん、と、全身を走り抜けた衝動に、体が大きく震える。
 全てが弾けてしまいそうな衝撃に、ぎゅうっと目を瞑り、全身を硬直させた。
「んっ——」
 息を堪える音が、耳朶を打つ。
 同時に、熱いものが二人の下腹を濡らしていった。



「ようやく寝たか……」
 すうすうと規則正しい寝息を立てる敬吾の額に触れながら、幸人はくすりと笑みを零した。
 後始末をして、牛乳で柔らかくしたコーンフレークをカップ半分程食べさせて。
 薬と十分な水分を取らせたところで、限界が来たのだろう。かれた喉にと与えたのど飴が全て融けきる前に、敬吾がとろりと微睡み始めた。
 もう眠いと、舌先に出したのど飴を舌に絡めて受け取って、口の中で味わう。その隙に、ことりと横になった敬吾は、瞬く間に深い眠りに入っていった。
 ひんやりとした冷たさを与える飴を舐めながら、そんな敬吾の髪を梳く。
 夜中、接待をこなした幸人が帰ってきた時には、日付はとうの昔に変わっていた。
 玄関先にあった靴に、来ているのかと疲れた体を忘れて喜んだけれど。
 スーツを着込んだままベッドで苦しそうに呻いている敬吾に、そんな情欲など呆気なく吹っ飛んだ。
 敬吾に言った言葉は嘘ではない。
 文字通り慌てて、熱を測って。高ければ、あの嫌みな藪医者でも呼んでやろうかと、本気で思ったくらいだ。
 けれど、楽なようにと服を脱がしていると、敬吾が微笑んだ。
 幸人の動きに合わせて、体を動かして。どう見ても夢の中なのに、幸人の言葉に反応した。
 そんな敬吾が可愛くて。
 無意識の内であろう敬吾に引き寄せられた時、思わず一緒にベッドに入り込んだ。それが幸いしたようで、敬吾がほっと息を吐いた。そして、そのまま眠りに入ったのだ。
 さっきよりは落ち着いた寝息。
 苦しそうに悶えていた様子はみじんも無くなって、ずいぶんと楽そうで。
 幼子のように縋り付く敬吾に愛おしさしか感じなかった。
 だから、目覚めたとき、どんなに誘われても幸人は堪えた。

「おやすみ……」
 今は幸人を煽る瞳を閉ざしている敬吾に、そっと口付けを落とす。
「早く良くなれ。元気になりさえすれば、嫌と言うほど抱いてやるからな」
 そのためだけに、薄く脆くなった自制心をかろうじて持ち堪えさせたのだ。こんな体に無茶をすれば、熱が長引いて結局はお預けを喰らうはめになってしまう。
 その幸人の並々ならぬ苦労を、敬吾は気付かない。
 唯一、理性を保つため噛みしめた唇の傷が、名残となっているだけだ。
 だが、それも敬吾を愛する代償だと思えば、たやすいものだ。
 いつもは勝ち気な敬吾だが、今日のこんな甘えん坊の敬吾も新鮮で、可愛くて。
 幸人の心を鷲づかみにして離さない。
 こんなにも愛らしい存在に出会えるとは、遊び続けていた頃には思ってもみなかった。
 だからこそ、大事にしたい。
 愛おしいから、全てを貪り尽くしたい。
 敬吾が疲れ果てて気絶するように眠ってしまっても、まだ足りないと思うことが時にはあった。その激しさを堪えている幸人を、敬吾は何も知らずに煽る。
 無理な我慢が募れば、それは幸人の心をさらに凶暴化させるというのに。
 昔ならば、そんな我慢も街に出て解消していたが、今は無理だ。他の誰も敬吾の代わりにはならない。
 まして、弱った敬吾はもっと虐めたくなるほどに可愛くて。
「早く良くなれ。俺の我慢が切れる前にな」
 浮かべた笑みに苦笑が混じった幸人の、零した吐息はいつも以上に熱かった。


【了】