【CROSS HATCHING】

【CROSS HATCHING】

HATCHING(ハッチング)

断面線を書く作業(CAD コマンド)。
断面図の断面部に描く斜線などの模様で、そこが断面であることを示す。
材質によって、指定された模様がある事もある。


 月曜日。
 うう、何で?
 朝から竹井さんの機嫌が悪い……。
 安佐由隆(あさゆたか)は、出社早々竹井拓也(たけいたくや)の様子を窺ってため息をついた。
 眉間にしわを寄せて社内メールに見入っている竹井は、ぶつぶつ言いながらそれらを一つずつ処理していた。
 まだ右手に巻かれた包帯が痛々しいが、それを気にせずキー操作をしている。
 痛くないのかなあ……。
 手の方も気になったが、竹井の不機嫌のもとも気になる。
 安佐はその背後からちらりと覗いてみた。
 ……うわっ……真っ赤……。
 未読メールは赤色で表示されるのだが、タイトル一覧は表示できる限りが真っ赤だった。
「どうしたんですか……」
 思わず口に出てしまった。
 普段の竹井のメールは、済んだものからどんどん別のフォルダに放り込んでいるから受信ボックスにそれだけ溜まっているということは珍しい。しかも未読状態だ。
 ざっと見た感じ、日付は金曜日のものが多い。
「この前帰った後に、これだけ来てた。あの人はどうして就業時間内に全部送ってくれてないんだ?」
 不機嫌丸出しの口調に安佐は苦笑いを浮かべる。
 あの人というのが差出人を表しているのは間違いない。
 来ているメールのほとんどが同じ名前だったからだ。
「篠山さん……何を送ってきているんです?」
 YOSHITAKA SHINOYAMA名義のタイトルには、ほぼ全てに添付ファイル付のマークがついている。
「今度の移管資料や、データ類……図面……手順書……仕様書、その他もろもろ……そっちに必要な書類は転送しとくから……」
「はい」
「それと、これ全部確認したいのは山々なんだけど、本来の発行書類が5件ばかり残っているんだ。メールの確認が済んだら、それやるから安佐君ちょっとこれらの書類、プリントアウトしといてくれるか?」
「はい、やっておきます」
 ふうと大きなため息が聞こえるが、この場はそっと離れておくに限ると、安佐は自席に戻った。
 竹井に何かを頼まれるという事はうれしいのだが、機嫌の悪い竹井を相手にしたいとは思わない。それにこういう時、なぜか安佐は失敗しやすい。
 安佐は早速、自分のメールを開いた。
「う、わ!」
 思わず口に付いて出る。
 竹井から転送されたメールが10件を越えている。
「凄いですねえ、これだけ資料があったら移管なんてすぐ済むんじゃないんですか」
 ぽろりと言った台詞に返事を返してくれたのは、隣の席の杉山だった。
「甘い。それだけ資料があっても改訂なしに使えるのはほんのわずか。所詮、開発が作った資料だからな。それを製造移管用に直すのは結構大変だぞ」
 しみじみという杉山に安佐はひきつった笑みを浮かべる。
「これだけ、全部ですか?」
「そ、全部。お前は、開発移管品の資料作成はやったことなかったっけ?」
「え、ええ。そうですね、いっつもこっちで開発設計した装置移管を担当していたから……」
「そりゃあ、いい経験になる。ま、竹井君と一緒にがんばりな」
 杉山はそこまで言うと声のトーンを落とした。
「竹井君は忙しくなったり疲れてくると、てきめん無口で不機嫌丸出しになるからな、ご機嫌取り頼むな」
「あはははは」
 その言葉に力無く笑う。
 図星だった。
 竹井は普段は笑顔で仕事をこなすし、難しい依頼も快く引き受けてくれる。そんなにはしゃぐタイプではないし、いつも静かに仕事をしているのだが……その竹井にも臨界点がある。
 特に疲れが溜まってくるとその境界が途端に低くなる。まず無口になり、何を言っても反応しなくなって、その内言葉遣いまでが乱暴になってくる。そんな時に依頼を出すと、嫌みと共に、それでも引き受ける。それが、怖い。
 しかも、メンバーの内、安佐以外は竹井にとって先輩。
 自然にその矛先は唯一の後輩である安佐に向かってくる……。
 しかもそういう時に限って、竹井でないとできない仕事が沸いて出るのだ。
 そして、それは大抵他人のミスのフォローで……。しかも、安佐自身が引き起こす事が多い……。

  
「ひえーー」
 安佐が思わず出した情けない声に、生産技術第2チームリーダーの香登(かがと)が反応した。
「どうした?」
 眉間にしわを寄せながらに安佐の傍らに立つと、その手元を覗き込んだ。
「ミスっちゃいました……」
 今週やっとかないといけないリストを見比べつつ、試作計画をチェックしていた矢先だった。
 登録していた材料コードが違っている。
 俺は、何を作るつもりだったんだ?
「……」
 香登はちらりと竹井を見ると、気の毒そうに安佐を見、そして見捨てた。
「香登さーん」
 情けない安佐の声に耳を塞ぐ。
「俺はしらん。自分で頼め」
「うう」
 安佐は泣く泣くそのデータを手にとって竹井の傍らに行った。
 今のやりとりで状況が判っているのか、竹井の視線は冷たい。
「すみませーん。コンピューター登録間違えてたんで、訂正お願いします……そのしかも、急ぎなんで」
 途端に大きなため息が聞こえた。 
 そう、これが竹井にしかできない仕事だった。
 登録の修正。
 工程管理に使用するコンピューターデータは、誰でも改訂されると収拾がつかなくなる。たがら、各課で、担当者を決め、その人以外には修正できないようにしているのだ。そして、改訂は急を要することが多いので出張などに滅多に出ない人間が担当している。
 そして、生産技術課の場合、それは竹井だったのだ。
「管理点変更依頼書書いて……」
 力が抜けた声に、安佐は申し訳なさそうに頷いて、自席に戻った。
 ひえ?怖いよお?
 経験上、こういう時の竹井は怒りを内に貯めている。
 それがいつ臨界点を越えるのかは誰にも判らない。
 越えないときだってある。
 だけど、移管会議も始まらない内からこれだと、今日は絶対越えちゃうよなあ……。
 先週、やっと想いが通じ合えた仲ではあるが、だからと言ってそれで安佐を甘やかす人ではないことは、安佐も重々承知していた。
 とにかく、これ以上ミスしないようにしようっ!
 固く心に誓うのであった……が。

 安佐のPHSが鳴った。
 不吉としかいいようがないPHSに表示された発信者番号。それは、安佐担当の装置を扱っている製造からだった。
 仕方なく鳴り響くそのPHSに出る。
 一言二言会話をし……がっくりとPHSを切った。
「竹井さ?ん……装置トラブりました?」
 竹井に声をかけると、その報告に竹井は頭を抱えた。
 じとっと見つめるその視線の先は安佐。
 安佐はというと顔を引きつらせていた。
 よりによって……。
 その思いが強い。
「それで、その……すぐ行かないと……」
「ああ、判った。今日は俺一人で何とかするから……」
 最悪……。
 よりによって移管会議が始まる寸前のトラブルだった。
 いくら、移管に主力を置けと言われても、やはり担当がトラブルとそっちもやらなければならない。
 このままそっちの装置にかかっていたら、会議に参加できない。だから、竹井は一人でやると言っているのだが……。
「あ、あの、俺、できるだけ早く終わらせますから、ね」
「大丈夫だよ、今日は顔合わせみたいなもんだし、装置の話までならないだろうから」
 口元はにっこりと笑っているが竹井の目は笑っていない。
「すみません」
「ああ、いいから、早く装置の所行って来て」
「はいっ!すぐ戻りますから!」
 脱兎の如く事務所を飛び出すが、実は早く帰れるなんて露にも思っていなかった。
 電話口の説明だけでも厄介なトラブルだと判っていた。
 あーーー。
 どうしてこううまくいかないんだ。
 俺はなあ、竹井さんをずっとサポートするって誓ったんだぞ。
 竹井さんが感心する位に上手にサポートして、で、竹井さんに、安佐はすっごく役立つもなんて思わせて……。
 それで、それで、安佐ならいいか……って思わせて……。
 そんで、絶対最後まで行き着いてやるって!!
 ……思ってんのに……
 どうして……失敗ばっか……
 どうして、何で、こうなるんだよお!!
 この前屋上でキスしてから、ずっとキスもさせてもらえないんだぞ!
 竹井さんってば、妙に警戒して、ぜっんぜん近づかせてくんないんだぞ!
 内心の雄叫びのまま、階段を駆け下り問題の装置に辿り着く。
 ぜいぜいと肩で息をしながら、装置に辿り着くと製造の担当者を捕まえた。
「どこがおかしいって!」
 鬼気迫る安佐に、製造担当者が怯えたように後ずさる。
「おい」
「そ、そこです……」
 指さされた所を見る。
 う、わぁぁぁぁ……。
 がっくりと装置に手をついて項垂れる。
「トラブった時にワークが勝手に落ちちゃって、で、他の所の部品も壊れたみたいで……」
 担当者の説明が右から左へと抜けていく。
 これって……かんっぺきに壊れてる……。
「これ、今日の生産予定は?」
「後300m……」
 悲痛な声に、安佐はがっくりと座り込んだ。
 2時間以内に治さないと、生産が間に合わない。
 そんな事になったら、そっちのフォローに回らないと駄目になるから、竹井のサポートどころでなくなる。
「治るか、これ?」
 一人ごちて、情けなく装置を眺めた。 
HATCHING 2

 呆然と壊れた部分を見つめていた安佐だったが、そんな自分を奮い立たせるように軽く装置を叩いた。
 設計・管理は安佐の仕事だったが、壊れた装置を直すのはメンテナンス部の仕事だ。
「メンテに連絡は?」
「さっきしました。すぐ来るっていう話だったんですが」
「そっか」
 とりあえず、装置の主電源を落とし、まだ中にある材料を外していく。
「これ、今日できなかったら明日に回せる?」
「今のところ明日の予定は無かったですから……でも、たぶん人がいないです」
「そうだよなあ」
 このご時世、製造人員は極限まで削減されている。ぎりぎりの人員で回っている以上、明日の生産予定にこのトラブルに回せる人員は無いはずだ。
 なんとしてでも後2時間で治さないと……。
 ぎりりと奥歯を噛み締める。
「おーい、安佐君。どこが壊れたって?」
 間延びした独特の低い声を持つメンテの井上が工具満載の台車を押してやって来た。
「井上さん、見てくれます?」
 安佐はほっとした。
 定年間近の井上は、こういう緊迫したムードとはかけ離れた存在だった。だが、長年機械一筋の井上は、その経験から無から有を作り出すと言われるほどの手腕を持って、皆に信頼されている。
「どこ?」
「あそこです。あの部品と下のとこ」
「あ?、わかった」
 井上が手にした工具で器用にその部品を外し出すと、安佐は一歩下がって製造担当者と壊れた原因について探る。
 担当者が話す内容からして、どうも材料送り出し時のトラブルによる部品の落下。
 安佐はため息をつくと、材料のチェックに入った。
 トラブルの原因を捜すためだ。
「おーい、安佐くーん」
「はい」
 井上の手招きに装置に近づくと、これっとばかり一つのプラスチック部品を渡された。
「それ、折れてるだろ」
「ええ」
 確かに折れているので頷く。
「それねえ、プラスチックの劣化……だからトラブった時に折れたんじゃないの?何か変なもの使った?」
 言われてもピンと来ない。
「あ、そういえば昨日この装置、開発が使っていました。休出して」
 背後から覗き込んでいた製造担当者の言葉に安佐の頬がひくりと強張った。
「それ、聞いていないけど……誰が来て使ったって?」
「工材1チームの篠山さん」
「!」
 あんのやろー!
 このトラブルは開発が原因か!
「確か、新しい製品の試作とかで……なんか溶剤臭してましたよ」
「聞いてないんだけど、ね、うちは」
 険悪な雰囲気の安佐に担当者が一歩下がる。「うちだって、貸してくれって言われただけで……」
「あ?、安佐く?ん。その部品替わりある?」
 その緊迫した雰囲気を井上が崩す。
「え、いえ、ないです」
 脱力した安佐が答えると、井上は少し考え込むと頷いた。
「その部品、設計図あるかい?同じとはいかないけど、似たような材質で当座のモノは作れるよ」
「本当ですか!すぐ図面持ってきます。ありがとうございます」
 さすが、井上さんっ!
 安佐は、大急ぎで事務所に戻った。ロッカーを開け、図面ファイルを引っ張り出す。
「どうだ?治るのか?」
 一人事務所にいた香登が声をかけてきた。
「開発が何か試作したせいみたいなんです。何か聞いています?」
「いや……どこのチーム?」
「篠山さんとこ!」
 怒り丸出しの口調で吐き出した名前に、香登は目を見開いた。
「……。確認しとくから、修理に専念してれ」
 やんわりと機制されたのが判った。
 思わず香登を見る。
「安佐君、今結構きているだろう、ここに」
 そう言って香登は自分の頭を指さした。言われて、安佐は苦笑するしかない。
「ま、落ち着きなさいって。その辺りはこっちからクレームつけとくから。ここであのチームと仲違いすると竹井君が困るからね」
「……そうですね」
 ほおっと息を吐く。
 確かに今、あのチームとトラブルことは避けなければならない。
 竹井さんのためにも!
 そう思うと怒りも静まるってもんだ。
「それじゃあ、装置のとこ戻ります。井上さんがやってくれているので、何とかなると思います」
 かなりの希望的観測を含めて、安佐は香登に伝えた。
「ああ、竹井君には伝えておくから、しっかりと治しておいてくれ」

 さすが……。
 順調に動いている装置を見て、安佐は尊敬のまなざしを井上に向けた。
「でも、その場しのぎだからね?。ちゃんと手配しといてよ」
「はい、ありがとうございます」
 安佐の言葉に井上は軽く手を振って、台車をごろごろ押しながら帰っていった。
「よかったあ?」
 安佐の言葉に、製造担当者も頷く。
「俺、今日帰れないかと思いました」
 しみじみと言われて安佐も「俺も」とうなずき返す。
 ふと時計を見る。
 会議、もう終わってるだろうなあ……。
 きっと竹井さん、滅茶苦茶不機嫌だろうし……。
「じゃあ、事務所戻るから、また何かあったら呼んでくれ……」
「あ、はい、わかりました」
 もう、絶対に呼んで欲しくない……。
 安佐はとぼとぼと事務所に戻った。
「ただいま?」
 何となくそういう気分になって挨拶しながら事務所に入る。
「お帰り」
 げ、竹井さん……。
 思わず立ち止まると、竹井が不審そうに眉をひそめる。今度は事務所に竹井しかいなかった。
 これはこれで気まずい……。
 いや、きっとみんな逃げているんだ。
「どうかした?」
「え、いえいえ、何でもありません」
 とりあえず、最悪な状態ではないらしい雰囲気にほっとしながら竹井の傍らに立った。
「で、装置の方は何とかなった?」
「あ、はい。とりあえず動いているんで……部品の発注が必要ですけど」
「へ?、よかったじゃないか」
 安心したように、にこっと竹井が安佐に笑いかけた。
 う、わ?反則です、それって。
 顔が熱くなる。
 それに気づいた竹井が、苦笑いを浮かべた。
「この位で赤くなるなって」
「だって……」
 怒っているかと思っていたのに……。
 いきなりの笑顔は止めてください、って言えたらいいのになあ……でも、そんな事言ったらせっかくの竹井さんの機嫌がまた悪くなりそうだし……。
「今日の会議な、順調だったよ。とりあえず、資料作らないと製造への移管はできないし、そのための試作人員は話が行っていたから、製造が用意してくれているし……」
 時折竹井が安佐を見上げるように顔を上げる。
 その時に覗く白い喉元がなまめかしく……ごくりと息を飲み込んだ。
 途端に竹井が表情が険しくなる。
「なんだよ、それ……」
 げ、欲情してんのばれた!
「い、いえ、何でもないです……。あの、その、参加できなくてすみませんでした」
 慌てて頭を下げた。
 と、その安佐の頭をそのまま竹井ががしっと掴んだ。
「えっ」
 不自然な姿勢に慌てふためく安佐の耳元で、竹井が囁いた。
「ばーか。少しは落ち付けって」
 揶揄されているというのに、安佐の心臓は爆発しそうだった。
 竹井の匂いが鼻孔をくすぐる。
 うわあああ、まずいっ!
 下半身に血が集中しそうな気配に、安佐は焦った。
「あ、あの、離してください!」
 せっぱ詰まった安佐の声に竹井がようやく手を離す。
 ぜいぜいと肩で息をして離れる安佐に、竹井はくすくすと腹を抱えて笑っている。
「うう」
 この人は……。
 俺で遊んでいる……。
 竹井は、何をするか判らないところがある、と言ったのは誰だっけ?
 安佐はじとっと竹井を睨んだ。
 その視線に竹井も涙目になった目元を指で拭きながら何とか笑いを堪えようとする。
「ひどいです……判ってやっているんでしょう」
「別、に……」
 嘘だ。
 絶対、判っている!
 と、いきなり竹井が安佐を見て言った。
「仕返し……」
「へ?」
「会議に来なかった仕返し」
 言ってくすりと笑う。
「だから、我慢するように」
 って!!
 それって、ひどい!
 口をぱくぱくさせて何か言おうとするが、言葉が出てこない。
 竹井はそんな安佐を面白そうに一瞥すると、さっさとパソコンに向かってしまった。
「ひどいですよお……」
 安佐は、まだ昼だというのに一日フルパワーで働いたようにぐったりと疲れ切ってしまった。
 とぼとぼと机に戻る。
「あ、そういえば」
 いきなり竹井が振り返った。
 机に突っ伏していた安佐が顔を上げる。
「はい?」
「原因何?」
 それが装置のトラブルを表しているのがピンときた。
「はあ、開発が休出して何かやらかしてくれたらしくて……それで部品が劣化していたんです」
「どこのチーム?」
「篠山さんとこです」
 竹井の眉間にしわが刻まれた。
 まあ、黙っていてもいつかは判ることだし……。
「そっか。後で橋本君にでも状況聞いてみるよ」
「橋本さんって、篠山さん所の?」
「そう、俺結構親しいから、安佐君もあの人と仲良くなっているといいかもね。貴重な開発のニュースソースだから」
「そうなんですかあ?」
「そう。開発だったら、橋本くんに高山さん、それと三宅さんかな?この3人を尋ねればたいていの事が判るから。その中で一番気さくなのが橋本くん」
「そうですか」
 いっつも事務所にいる竹井さんが意外に開発の情報持っていることもあって不思議に思っていたけど、そういう事だったのか。
 さっきの理不尽とも思える行為を忘れて、竹井のことをなんだか見直してしまう安佐だった。
HATCHING 3

 「橋本」名義のメールが来ていた。
 安佐は、朝一でメールをチェックしていてそのメールを見つけ、思わずスクリーンに顔を近づけて唸ってしまう。
 先日の装置無断使用のお詫びと、その装置使用&改造についての打ち合わせ願いとあった。
 それはいいが、何で打ち合わせ日付が今日なんだ?
「……」
 どうして?
 今一ヶ月移管という滅茶苦茶ハードスケジュールで動いているんじゃないのか?
 橋本さんて、あの篠山さんとこのチームな訳で……。
 いや……。
 そりゃあ開発品にしろ生産品にしろ同時進行で複数のモノが動くのは当たり前なんだが……。
 安佐にしてみれば、よりによって、ていう感じだった。
 ちらりと既にメールチェックを終えて机の上の回覧物を片付けている竹井に視線を向ける。
 宛先一覧に竹井の名前が入っている以上、既に目を通しているはずだが、その竹井の機嫌はそこそこだ。
 時折、隣の岡と話をし、含み笑いのようなものまで聞こえる。
 まあ、竹井さんにこの連絡が行っているのは”ついで”、なんだろーけど。
 決して口に出しては言えない言葉を頭に浮かべ、ため息をつく。
 でもって、安佐の場合は忙しいからって放っておく訳にもいかない。名指しされているその装置は安佐の管轄なのだから。
「竹井さん、何か昨日壊れた装置の件で今日ミーティング入っちゃって……」
「え?あ、橋本くんからのメール見た?」
 見た。ええ、見ましたとも。
「はい」
 うんざりともう一度そのメールに視線を走らす。
「これ以上壊さないようにしっかりとミーティングしてきてくれればいいから。俺の方も今日は他の仕事あるし、移管ばっかりできないんだ」
「あ、はい、判りました」
 にこやかな竹井に安佐は心底ほっとする。
 昨日もほとんど何もできていない。
 今日は、何ができるだろうか?
 1ヶ月、ほんとうに間に合うんだろうか……。
 心配ばかりしていてもどうしようもない、と思い直している安佐だった。


 ミーティングに行ったら、相手は篠山だった。
「橋本さんは?」
「急に客が来て、そっちに行ってもらったんだ」
 その言葉に、納得しかけ……でもこの人大丈夫なんだろうか、という気になる。
「だったら時間ずらしましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
 安佐の言葉にやや不機嫌そうに返してきた篠山に、安佐は口を閉じる。
 今この人の機嫌を損ねるのはまずい。
「まあ、お互い忙しいし、さっさと済まそう」
「はい、そうですね」
 ほんとならこんなミーティングに出る時間も惜しい。
 しかし。
「とりあえず、装置を改造したいって件で、今開発している製品の概要なんだけどね……」
 そう言って篠山が説明を始めた内容は……。
 ちんぷんかんぷんだった。
「あの……」
 情けない声で説明に割ってはいる。
「何?」
「すみませんけど、私は化学系でないもんで……」
 俺は機械工学出身だ。
 化学式なんざ、当の昔に頭から吹っ飛んでるわ、それ位気付け!
 ホワイトボードに羅列された化学式の山に根を上げている安佐に、篠山は「そうか」と首を傾げただけだった。そりゃあまあ、開発はそういうの判っているような人ばっかりだろうけど、さ……。
「えーと……」
 篠山が困ったようにホワイトボードを眺め……。
「つまりだ、溶剤を材料に含浸させて接着剤を付きやすくする工程を装置に組み込みたいわけ」
 思いっきりはしょりやがった……。
 安佐は苦笑いを浮かべて立って説明していた篠山を見上げる。
「で、そういうアタッチメントつけて欲しいって話なんだ、結局は」
「はあ……」
 安佐の頭にそのシステムが浮かぶ。
 出来ないこともない……。
 化学式を並べられたら負けるが、機械設計で負けるつもりはない。
「その仕組みが必要なのは、いつです?移管があるからそれにかかりっきりと言うわけにはいきませんが」
 口の端をあげて、笑いかける。
 忙しいのはそっちのせいだからな。
 そういうニュアンスを含ませた問いではあったが、篠山はそれを無視した。
「結構急ぐ。ほんとなら移管より先にそっちを先にやるはずだったからね」
「へえ?、そうだったんですか?」
「それなのに、あっちのお客がいきなり採用するからって、販売予測無視していきなり受注いれたもんだから、大慌てさ。こっちの人手だけじゃもそれだけの受注こなせなしね、で、急遽移管になったんだ」
 なるほど……。
 たいてい急な移管てのはお客の予定が早まるか、こっちの販売予測の失敗かだから、珍しい話ではない。
「で、俺達としては、こっちの開発品の方が面白いと思っているから、遅らせるわけには行かない。こっちだって客がいるし」
 にこやかに笑って説明していた篠山の顔が急に真剣になった。じっと安佐を見入る。
「だからできるだけ早く欲しい。開発で手作業でつくる分では不良率は低い。だけど装置で作るとなるとまだ別モノだからな」
 その視線に捕らわれる。
 強いな。この人は……。
 自分に絶対の自信を持っている。
 だから視線が強い。
 いい加減な人……そんな噂は嘘だ……まあ半分くらいはほんとかも知れないけど……。
 まあ、それはともかく、この人は自分が口にしたことは必ず実行するだろう。開発部工業材料第1チーム担当の開発第三リーダーの名は伊達ではないということか。
 だったら……こっちもそれなりの覚悟がいる。
 面白いな。
 安佐は内心ほくそ笑んだ。
 竹井さんのサポートもしなければならないことは判っている。だが、実際に自分の力が試されるこういう状況は好きだ。
 設計には自信はある。
 だが。
「先ほども言いましたとおり、移管があります。状況からしてそちらの方が先ということは、篠山さんの方がよっぽど承知していますよね。こちらの方も全員協力でそちらにかかっていますから」
「ああ」
「ですから、どうしても若干のずれは覚悟していただかないとならないでしょう。ですが、できるだけ早く設計できるようにします。そういう訳で開発からも人手を出して頂けるといいんですが」
 これは駆け引き。
 そちらが要望を出すのであれば、こちらもそれなりの要望を出させて貰う。
「判っている。移管の方は橋本がやる。こっちの開発設計は緑山に関わらせる。緑山は君の不得意な分野の専門家だから……。必要なら、俺も入るから」
 不得意は余計だって……。
「判りました。帰って香登さんに報告してからになりますが、詳しいスケジュールが決まりましたら、メール入れます」
「ああ、よろしくね」
 

 しまった……。
 勢いに乗って勝手に了承してしまった。
 安佐は事務所に戻る途中でで立ちすくんでいた。
 よく考えたら、竹井さんのサポートに入っている以上、何をするにしても先に竹井さんの了解を取らなきゃいけなかったんだ。
 いつものように動いてしまった……。
 俺って馬鹿?
 これもやっぱり先走り?
 こういうのって竹井さん、思いっきり嫌がりそうな気が……すっごくするんだけど……どうしよう。
 でもなあ、あんな風に言われて引き下がるのも嫌だったし……。
 あーあ、どうしよう……。
 絶対いるんだろうなあ、こういう時に限って。
 事務所を覗き込むと、やっぱり竹井はいて……ちょうどかかってきた外線を繋いでいる最中だった。
 ずっと事務所にいる竹井は生産技術全体の電話番でもある。
 メンバーへの電話は、この部屋にダイレクトにかかってくるから、誰かがここにいないと電話が不便になる。そして、その役目をしているのが竹井だった。それほど、竹井はたいてい事務所にいる。それぞれのチームリーダー達よりも。
 だから、安佐が逢いたくないと思っても……たいてい竹井はそこにいる。
「……お帰り」
 そおっと席についた安佐を目敏く竹井が見つけた。
 同じチームなので席が近いのだから、見つけられない方がおかしいのだが、見つけられた安佐はひくひくと顔を引きつらせた。
「どうした?」
 そして、また。
 竹井さんって普段はとっても鈍いくせに、隠したいなって思っていることに限って気付いてしまうのってどうして?
 あははは、と空笑いしている安佐に竹井は眉をひそめる。
「ミーティング、何かあったのか?」
「いやあ、何でもないですよ。ちょっと装置の改造頼まれちゃって」
 えへへへと笑う安佐に竹井はさらに眉をひそめた。
「笑い事じゃないだろ。移管用の装置だって改造があるくせに、別件でもう一個なんて何考えているんだ?」
 あ、やば……怒っている。
「あ、何とかします。移管が優先って事は伝えていますし、ね。移管が滞るようなことはしませんって」
「大丈夫なのか?」
 目を細めて安佐を睨んでくる竹井に安佐は必死になる。
「本当に、絶対です。ちゃんとスケジュール通りこなしますって」
「……本当に?」
 しつこいって!
 まだ疑っている竹井に安佐はつい、
「そんなに疑うなら……俺がスケジュール通りに全部こなしたら、竹井さんのキス下さい。俺、それ励みにがんばりますから!」
 言った途端、竹井の顔が一気に赤くなった。
 うわっ、可愛い!
「あ、安佐……」
 思わず回りを見回す竹井の傍らに近づく。
「誰もいませんって……それに、その位のご褒美期待していいですよね」
 本当は最後までっていいたいけど、それは絶対拒絶されそうだから、とりあえずこんな所を要望してみたわけで。
 だが、竹井はじっと安佐を見つめて何も言わない。赤くなった頬はそのままだが、安佐を見つめる視線がきつい。
 なんだか、さっきより機嫌が悪くなっているような……。
 勢い込んでいた気分が急速に沈む。
 やっぱキスでもまずいのか?
 うう。
「お前は……」
 ため息とともに竹井が掠れた声を出した。
「え?」
「お前は、それまで、キス、しないつもりなのか?」
「え?」
 赤くなってそっぽを向く竹井の横顔を安佐はまじまじと見つめた。
「ええ?」
 これって、これって……。
「移管が終わるまで一ヶ月くらいかかる間……一回もしない……つもりなんだろう、お前は!」
 最後は吐き出すように指摘され、安佐は自分が馬鹿な事を言ってしまったことに気が付いた。しかも。
 ああ、そうか!
 こんな約束したら、ずっとキスしないって約束にもなって……しかもそれが嫌だと言ってくれてるんだ!
 う、わぁぁぁ!
「嬉しい!」
「はあ、何が?」
「だって竹井さん、俺とキスしたいって言ってくれてるんですよ!」
 思わずがばっと抱き付くと、竹井が真っ赤になって必死に暴れた。
「ばかっ!離せ!」
 そんな様子も愛おしくて、ついついむぎゅうっと抱きしめていると、思いっきりぱこーんと頭をはたかれた。
「てっ!」
 何事かと首を巡らすと、眉間にしわを寄せて安佐を睨み付ける香登がいた。
 いつの間に!
「安佐君、何やっているんだっ!」
 言われてはっとなって手を離すと、今度は竹井が机上のファイルをおもっいっきり安佐の頭に叩きつけた。
「この馬鹿!」
 香登の一撃よりさらにそれは強烈で……。
 安佐は、その一撃に脳震盪を起こしかけ……床にへたり込んでしまった。
HATCHING 4

 あれ以来、竹井さんが口を聞いてくれない。
 困ったことにこの状態がすでに2日続いている。
 さすがにこの状態はまずいと思う。香登や杉山からも何とかしろとは言われているのだが……、何を言ってもなしのつぶて……どうしようもない。
 お互いやることはやっているので、特に作業上の問題は無いのだが、それでもそろそろやばい状況には違いない。
 安佐は、装置の設計図に書き込みをしながら、ちらちらと竹井の方を窺っていた。
 あれはさすがにまずかったと、反省はしている。
 だけど、すっごく嬉しかったんだから……だって竹井さんの方からキスしたいって言ってくれたようなもんだから。
 でも……も、駄目かなあ。
 ああ、どうやって竹井さんのご機嫌治そうか?
 そればっかりを考えている安佐だから、手元の図面修正は一向に進んでいない。
 と。
「安佐く?ん」
 どこか脱力させる間延びした声で呼びかけられ、くるりドアの方を向いた。
 ドアから半身を覗かせて井上がひょいひょいと手招きしていた。
「井上さん、何ですか?」
「これ、忘れてたからね、持ってきた。で、これがここにあると言うことは、まだ頼んでないでしょ?。駄目だよ?」
 にこにこと図面を渡してくる。
 げっ、忘れてた。
 そういや、壊れた部品発注しなきゃいけなかったんだ!
「あははは、ありがとうございます。すっかり忘れていました」
 冷や汗が背筋を流れる。
「あれねえ、あんま強度が良くないから、そんなに時間がもたないよ。早めに交換してね」
「はい、判りました」
 もう、おっしゃる通りです。
 愛想笑いを浮かべている安佐ににっこりと笑いかけた井上は、ふと視線を安佐の背後移した。
「あ、竹井く?ん」
 突然安佐の背後に向かって呼びかける。
 へ?
 竹井さんに用事とは、これはまた珍しい……と安佐も竹井の方に視線を向けた。
「はい?」
 竹井が何事かと顔を上げる。
「え?と、NO.56321の○○××の装置の部品図面、欲しいんだけどある?」
「あ、はい。ちょっと待って下さい」
 竹井が立ち上がり、ロッカーから図面ファイルを取り出した。
 すぐさま目的の図面が見つかったのか、それをファイルごと井上に指し示した。
「この図面ですか?」
「うん。これ借りて良い?」
「あ、じゃあコピーします。ちょっと待って下さい」
 竹井が井上に笑顔で断りを入れコピーをしに行く後ろ姿見送ると、安佐は井上に視線を向けた。
「あれ、生産ラインの奴ですけど、何かするんですか?」
「ああ、メンテナンスの時期だからね。ついでに交換部品のチェックしとこうと思って。あの装置もいい加減よく働いているからね?」
 しみじみと言われて、安佐は微笑んだ。
 そういう細かい気配りができるのはメンテナンス部でも井上くらいだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 受け取った図面を折り畳みながら去っていく井上を見送っていると、竹井が安佐の手の図面をひょいと取り上げ一瞥した。
 そして、安佐を睨み付ける。
「お前……原図渡していたのか?」
 その冷たい視線に一気に周りの気温が低下したかと思えた。
 あ、ああ、まずいっ!
 言われて、始めて気がついた。
 竹井が持っている図面には、しっかり朱色も鮮やかな「原図」印が押されている。
 今更どんなに焦ろうとも、もう、それは誤魔化しようがないもの。
「す、すみません!」
 ファイルに保管されている図面は原図だから、持ち出すときは紛失防止のためにもそれをコピーした物を持ち出すように言われていた。
 よりによって竹井さんに見つかっちゃった……。
 俺って不幸……。
「も、いい。さっさと忘れない内に発注しとけ……」
 ため息とともに言われた台詞は、面と向かって怒られるよりよっぽど安佐の胸を貫いた。
「すみません……」
 謝る言葉も無視される。
 う、わあ……最悪。
 これってこの前までの、俺にだけ冷たい竹井さんの再現じゃないか……。
 せっかくあそこまでいい雰囲気になっていたのに、俺って俺って、ほんまもんの馬鹿だあ!
 うう。
 井上さん、恨んでいいですか?
 呆然自失している安佐は香登と杉山がため息をついているのにも気づかなかった。


 このままではまずい。
 ほっんとうにまずい。
 そろそろ、いろいろと打ち合わせもしなくてはいけない。
 だが、会社では他の人の目も気になる。特に生産技術の事務所には、香登と杉山がいることだってある。この二人がいると竹井に話しかけるのも躊躇われる。
 だから、家を尋ねることにした。幾らなんでもあの二人はここまで見張りには来ないだろうし……。
 で、竹井さんの機嫌を回復させるには、やっぱこれかなあ……。 
 と、安佐は常套手段に出ることにした。
 さんざん悩んだあげく、それしか思いつかなかったというのもある。
 それは、贈り物大作戦であった。
 おいしいと評判のケーキ屋で物色したケーキを携え、竹井の部屋のチャイムを鳴らす。
 だが、開けられたドアから覗かせた竹井の仏頂面を見て、その意気込みが消えていく。
「何?」
 冷たく言われて、安佐は考えていた単語が全て頭から吹っ飛んだ。
「え、と……あの……」
 ごにょごにょと口の中で言葉を探していると、しばらくその様子を眺めていた竹井の口からため息が漏れた。そして、ドアを大きく開け放つ。
「……入ったら」
「え?」
「寒いだろ。入れよ」
 相変わらず不機嫌そうではあったけれど、少なくとも会社で感じていた拒絶の雰囲気が無いような気がした。いや、それより、はるかにいいと言える。
「おじゃまします」
 前に来たときから2週間もたっていないのに、ずいぶん経ったような気がした。
 あの時は怪我したばかりで真っ白な包帯が右手先全体に巻かれていた。が、今その手に包帯が……ない?
「包帯が……」
 声をかけると、竹井は、「ああ」と右掌を安佐の前に広げて見せた。
「抜糸したんだ」
 2つの線が走るその掌に未だ名残の糸が残り薄皮が剥けているような所もある。だが、包帯がない分、ずいぶんと楽そうだ。
「よかったですね」
 竹井がそれほど不機嫌でないのはそのせいかと納得する。
 包帯がなければ、キー操作もマウス操作も不自由がなくなる。作業効率も上がる。何よりも、生活自体楽になる。
「ああ、ありがと」
 ふっと竹井が口元に笑みを浮かべた。
 それだけで、安佐はほっと強張っていた躰から力が抜ける。
「この前はすみませんでした」
 ようやく考えていた台詞が口から出てきた。
「俺、後先もなく突っ走っして……ほんと、竹井さんに迷惑ばっかかけてますね」
 苦笑を浮かべて、申し訳なさそうにしている安佐に、竹井は視線を向けた。
 その言葉を無視するように何も言わない。
 が、竹井がふと安佐の手元を見つめた。
「何か持ってきたのか?」
 言われて、やっとケーキの存在を思い出した。
「あ、差し入れです」
 差し出す箱を受け取りながら、くくっと竹井が喉の奥で笑った。
 そんなふうにでも笑って貰えたのは、2日ぶりだった。
 しかも、可笑しそうに言う。
「これって機嫌取り用?」
 げげ。
 完全に見透かされている事に気づいた安佐の顔が赤くなる。
「……そうです」
 他に答えるべき単語が見つからない。
「ありがとう。でも安佐君も食べるんだろ、そこに座っててよ」
 何だか、入れて貰ったときより格段にいい雰囲気に、ほおっと息をつく。
 指さされた所に素直に座って回りを見回した。
 ああ、ここ、この前来たときと同じ場所。
 ここで始めて告ったんだよなあ……。
 あの時は、駄目もとで勢いで告白したけど……でも、まあ、あれが始まりなんだ。
 今だってはっきりと思い出せるあの抱き心地。
 だけど、今そんなことしたら、今度は何でぶっ叩かれるだろう。
「どうぞ」
 ことんと音がして、安佐の前にケーキの載った皿が置かれた。すぐにコーヒーの入ったマグカップも添えられる。
「ありがとうございます」
 なんだか恐縮してしまって、縮こまってしまう。
「何緊張しているんだよ」
「はあ、そんなつもりないんですけど……」
 無理矢理浮かべた笑みはひきつって、笑顔にならない。
 どうしてかな。
 変な事考えてしまったからかなあ。
 ほんとに、俺ってやっぱり節操無し何だろうか……。
 無言でただひたすらケーキを睨み付けてる安佐に、竹井がため息をついた。
 え?
 安佐が竹井に視線を向ける。
「いっつも安佐君は行動が先に出るよな。まあ、それも結構羨ましい所あるけどさ……だけどあの時のは凄く恥ずかしかった。香登さんに見られたってのもあって……。だからあの後、事務所で安佐君に話しかけるのもなんだか緊張しちゃって……、なんか香登さんとか杉山さんの視線がさ気になってね、仕事の話もしなきゃいけなかったのに……ずっと悪いとは思っていたんだけど、ごめんな」
「え、ええ?」
 まさか謝られるとは思っていなかった。
 呆然と見つめる先で竹井はひたすらケーキをつついて口に運んでいた。
 安佐の方を見ようとしない。
 むすっとしているのが判る。が、それは……。
「食べないのか?」
 竹井がケーキを指さす。
「あ、はい」
 口に運んだケーキはおいしかった。
 あまり甘くないのが嬉しい。
「おいしいですね」
「ああ」
 おいしいのはおいしいのだが、会話が途切れがちになる。
「あの……」
 ほとんど皿が空になったところで、安佐はいたたまれなくなって口を開いた。
「本当に俺がすぐ突っ走るのが悪いんです。この前だって、勝手に装置の改造依頼受けちゃってるし……すみませんでした」
「それはしようがないだろ。安佐君の装置なんだから、開発だって滞るわけにはいかないんだろうし」
「でも……」
 なおも安佐が言い募ろうとしていたら、竹井が首を振って安佐を制した。
「この件に関しては、確かにきっかけは安佐君が悪かったけど、でもな、いつまでも俺が変な意地張ってるから、安佐君の仕事にまで迷惑かけてしまった事は判っているんだ。だから、俺が悪い……」
 視線をずらし、ぼそぼそと呟く竹井は、心持ち赤くなっている。
 竹井にしてみれば、精一杯の譲歩だということが安佐には判った。
 この人は仕事に対する責任感が強い。その上、意外にプライドが高い。
 している仕事が滞れば自分のせいにすぐするし、しかもそれを他人に知られるのは嫌だという人。
 それなのにこうやって謝ってくれる。
 それだけで嬉しい。
「そんなの、俺が悪かったんです。だから、竹井さんが悪いんじゃありませんって」
 嬉しくて、竹井さんに気を遣わせるのも悪くて、笑えなかった顔が簡単に緩む。
 何だ、笑うのってこんなに簡単じゃん。
 にこにことしていると、竹井もにっこりと笑ってくれた。
 あはは。
 嬉しいな……これって、もしかしなくても、とってもいい雰囲気……かな。
「竹井さんって、すっごく気にするから……でも気にしないでください。俺、もう竹井さんの事考えると、後先考えられなくなって……ね。だから明日からまたがんばりましょうね」
 にこにこと安佐が言うと、竹井は不思議そうに安佐を見つめた。
 それに気が付いた。
「何か?」
「いや、何でもない」
 竹井が慌てたように首を振る。
 何だろう?
 何か言いたそうなのに。
 安佐は聞きたかったけれど、何だか聞くと今の雰囲気が壊れそうな気がしてその話題に触れることが出来なかった。
 しかも何だかその話題をした途端、竹井の機嫌が下降したような気がする。
 安佐は慌てて話題を探す。
「このケーキね、香登さんに教えて貰ったケーキ屋さんで買ったんですよ。『緑の小道』っていう店、知っています?」
「……駅前にあった店?」
 竹井が考えながら言うのに頷き返す。
「香登さんの知り合いの人が女性を口説くときに持っていくんだそうですよ。あんまり甘くなくて、カロリーが低いのにおいしいからって」
「女性を口説くって……香登さんの知り合いってどんな人なんだろうな?」
 あ、竹井さんが笑っている。
 よかった。
 内心ほっとしながら、話を続ける安佐だった。



 気まずい……。
 完璧な寝不足で、赤くなった目を擦りながら出勤すると……なぜか竹井は不機嫌だった。
 何で……?
 昨日はいい雰囲気だったぞ?
 結局、11時頃までたわいもない話で話し込んで、眠くなったという竹井の言葉に便乗する形で、早々に退散した。そうしないと、我慢できなくなると思ったからだ。
 プライベートと会社では別物なのだろうか?
 いや……そろそろ竹井さんは疲れてきているんだ。だから臨界点が低くなっている。眠いと言った昨夜の竹井の様子が脳裏に浮かぶ。
 疲れている竹井を煩わせないようにするのも自分の仕事だよな……いい加減、翻弄する訳にはいかない。
 安佐は諦めにも似た境地で自分を奮い立たせた。
 とにかく仕事。
 仕事が優先、自分の気持ちは抑えよう。
 とりあえず、移管して、装置改造して……でないと篠山との約束に間に合わなくなってしまう。それだけは嫌だ。何だかあの人には負けたくないし……。

 安佐はとりあえず遅れていた開発依頼の改造計画と装置改造案を一緒にしてメールで篠山宛に送る。同時にメンテのリーダーにも連絡を入れておいた。
 大まかな所は業者にやってもらうが、そういう場合でもこうやって通しておかないと後々トラブルの元になる。
 送った改造計画を開いて、安佐自身の追加事項を記入していく。
 ぎりぎり、かな。
 業者に見積もりかけて、金額によってはかなり上までの承認が必要になる。
 それに、プログラムのチェックは……。
 装置設計自体は、それほど難しい物では無かったが、対象の装置は製造が使用している物だ。今の製品が作れなくなったら困るから、その辺りの配慮も必要で、安佐を悩ませていた。
 両方がトラブル無く作れるようにしなくてはならない。
 安佐が図面を見ながら唸っていると、杉山に肩を叩かれた。
「はい?」
「煮詰まっているようだから、ちょっと休憩でもしないか?」
 杉山から時計に視線を移して時刻を確認してから頷いた。
 事務所を出るときに、ふと竹井と視線が合う。
 安佐はふっと微笑むとその視線を先に逸らした。
 話しかけにくいって言っていたから、竹井さんの方から話しかけなくてもいいようにしよう。
 仕事の話はこちらから伺えばいい。
 そう思ったから……だから視線を外した。
 だから、気がつかなかった。
 竹井がじっと安佐が立ち去った後を眺めていた事に。

 中途半端な時間なので休憩所には誰もいなかった。
 自販機でコーヒーを買うと、立ったまま壁にもたれて会話をする。
「まだ仲直りできないのか?」
 ストレートな言い方は相変わらずと、安佐は苦笑して返した。
 コーヒーの入った紙コップを口に運びながら、杉山を窺うと意外に真剣な顔で安佐は驚いた。
「仲直りってもんじゃないでしょう。普通にしているつもりですけど、俺は」
「じゃあ、問題は竹井君の方か?あの不機嫌さは何だって言うんだ?」
 どう聞いても安佐を責めている杉山に、安佐は眉をひそめた。
「俺、心当たりありません。昨夜、部屋に行った時は、抜糸も済んで機嫌いい方でしたよ」
「部屋?行ったのか?」
「ええ、手土産にケーキ持ってね。その時は普通でしたよ」
「にしては変じゃないか、今日は。じゃあ何で怒っているんだ?」
「だから、心当たりありませんて……あったら解消するよう努力はするけれど、思いつかないからこうやって仕事に専念しているんじゃないですか」
「そうか……」
「杉山さんの方こそ何か言ったんじゃないんですか?」
「俺はそんな事しないよ。少なくとも安佐君よりはあいつの扱いには慣れているからな」
 杉山にしてみればさらりと言ったその発言が安佐には胸にずきりと突き刺さる。
「……そりゃあまあ、あの竹井さんと付き合うのは難しいって自覚はしていますけどね」
「へ?、難しいか?」
「難しいです。プライド結構高いでしょ、あの人は。俺になんかに言い様にされてたまるかって全身で言っている……我が儘だし、すぐ機嫌悪くなるし」
「そうか?」
 そう言いながら杉山がふと顔を上げた。そのままの姿勢で固まる。それに気づかない安佐が、そのまま言葉を継いだ。
「そうでしょ。だってすぐ怒るし、何するか判らないところあるし……じゃなかったら、俺、もうちょっといい雰囲気でつきあえると、って!」
 いきなり杉山が安佐の足を蹴飛ばした。
 その拍子に手に持っていたコーヒーがこぼれる。
「何するんですか!」
 熱いコーヒーがかかった手から滴を振り落とし、杉山を睨み付けると、杉山がひきつった笑みを口元に浮かべ、安佐の後方を指さした。
「げ……」
 振り返った安佐の背後で竹井が睨んでいた。
 ぎりと口元を引き締め、眉間に深いしわが寄っている。
「いつからそこに?」
 安佐がひくひくと頬を引きつらせながら問いかける。
「俺と付き合うのは難しいって所から……」
 げげ
 最初からじゃん。
「面倒だろ、俺みたいの相手だと。いいよ、俺の事なんかどうでも良いんだろ。俺になんか気をつかわなくていいから、安佐君は安佐君の仕事をすればいい。移管は俺一人で何とかするから……」
 一気にまくし立てて、安佐に反論する暇さえ与えず、竹井は走り去ってしまった。
 それを呆然と見送っていると、杉山に持っていたカップを取り上げられた。
「この馬鹿!何ぼーとしているんだよ。やっぱ、竹井君の機嫌が悪いのはお前のせいじゃないか。判っていないのか?何で、竹井君がここに来たと思う?あんな事言いたい訳じゃないと俺は思うぞ。お前だって。さっきみたいな事伝えたいわけじゃないだろ。何でそんなに煮詰まっているんだ、二人して。昨夜は仲良かったって言っていたじゃないか。その意味をよく考えろ。竹井君がお前に求めている物を考えろ。あいつを扱うのは確かに難しいが、そんな所もひっくるめて惚れているんじゃないのか?」
 怒鳴りつけられ、今度は思いっきり尻を蹴られた。
 ふらついて床に手を付きそうになるのをバランスを取って堪える。
「さっさと追いかけろ」
「は、はい」
 慌てて竹井が去った後を追いかけた。
 昨夜仲良かった訳?
 今不機嫌な訳?
 竹井さんが何を言いに来た?
 そんな事判らない……だけど。
 とにかく捕まえないと……。
 ……。
 で、あの人はどこへ行った?
 事務所には戻っていなかった。
 てことは途中で違う場所に行ったということで……げげ、そんなの判るわけない……。
 あてもなく工場内をうろうろする。
 竹井さん、竹井さん、ごめんなさい。
 俺、確かにそう思っているけど……でもそれを含めて竹井さんが好きです。
 だから、居場所教えてくださいって……。
 って、ああ、そうか。
 出てくれないかもしれないけど、でも一応。
 安佐は自分のPHSを取り出すと竹井の番号にかけてみた。
 呼び出し音が鳴り響く。
 一回、二回、三回……四回、五回……
 少なくとも、電源は切られていない。
 電波の届かない所にいない訳ではない。
 だけど、出てくれない。
 どこにいるんだろう。
 もう一度かけ直す。
 と、今度は三回で不通話音になってしまった。
 電波が届かないところに移動した?
 電源を切ってしまったって言うことも考えられるけど……。
 とりあえず、電波の届かないところ……探してみよう。
 トイレ?外……はないか。……屋上……屋上かっ!
 初めて竹井さんからキスしてくれた屋上。
 もしかして……。
 安佐は急いで階段を駆け上がった。
 C棟屋上、ボイラーの側。
 屋上に出る踊り場で息を整える。鍵が開いていた。重い金属の扉を押し開ける。
 外に出ると冷気が身に染みる。
 そろそろとあの時の場所に近づく。
 今日はボイラーが動いていた。低重音の響きが配管を伝わっている。僅かに重油の燃える臭いがしていた。
 その影に、この前と同じ所に竹井さんが踞っていた。立てた膝の間に顔を埋めている。
 その姿はまるで小さな子供のように思えた。
「竹井さん……」
 呼びかけても身動きしない。
「竹井さん」
 近づきながらもう一度呼びかけた。すると竹井の顔が上がった。
 だが、まだ下を見ているからその表情が判らない。
 勢い込んで探したけど、こういう場合って何て言えばいいんだろ。
 謝ればいいんだろうか。
 だけど、それも何だか変なような気がした。
 どうしよう。
 安佐は言うべき言葉が見つからなくて、そこに立ちすくんだ。
「竹井さん……」
 それ以上出てこない。
「何だよ、俺なんか放っておけばいいだろ、俺なんか我が儘で、すぐ機嫌悪くなるし……プライドばっか高いし……」
「竹井さん」
 顔は見えないけど、その声が震えていた。
 その震えが寒いだけじゃないってことは判る。
 安佐はおずおずと竹井に近づいた。その傍らに膝をつく。
「顔、見せてください」
 だが、竹井は決して顔を上げようとしなかった。
「確かに竹井さんは、我が儘で気分屋で、プライド高いです」その言葉にぴくりと竹井の肩が震える。だが、安佐はそのまま言葉を継いだ。「だけど、俺はそんなところ全部ひっくるめて竹井さんが好きです。だから、放って置いてくれ、なんて言わないでください」
 そっとその頭を胸に掻き抱く。
「だから……泣かないでください。ごめんなさい」
 びくりと大きく震える肩を抱きしめる。
 なんてこの人は可愛いんだろう。そんな事は決して口にはできないけれど。
 知れば知るほど違う面が見えてくる。
「……ひくっ……」
 しゃっくりをあげる竹井が愛おしい。
 プライドの高いこの人が、こんな面を他人に見せることは珍しいことだろう。それなのに、安佐の胸の中から逃げようとしない。
「竹井さん、俺が悪いから、俺を責めていいから、自分を責めないでください」
 必死で訴える。
「言いたい事があったら、いつだって俺に言ってください。気に入らないことがあったら俺にあたってくれていいですから、だから自分を責めないでください」
「……安佐、くん……」
 竹井が顔を上げた。
 頬を伝う涙にそっと口付ける。
「大好きだから……信じてください」
 その言葉に竹井が微かに笑みを口元に浮かべた。
 ほっとしたような安心した表情が浮かぶ。
「なあ、安佐君、キスしよう……」
 竹井が安佐の目をまっすぐ見つめて言った。
 その視線と言葉が安佐を縛る。
 じっと見つめられたその視線に引き寄せられるように安佐は竹井に口付けた。
 冷たくなった唇がお互い触れ合ったことで温もりを取り戻す。
 冷たく凍えた竹井の躰を暖めるように安佐は竹井を抱きしめた。
 キスしているのにキスされているような感触。
 触れ合った舌がお互いを求めてさらに絡まり合う。
 このままずっとここにいたい。
 このまま、ここでこうしていたい。
 だが。
 先に竹井が躰を離した。
 困ったように苦笑いを浮かべる。
「ごめん……マジで冷えた。ちょっと寒い……」
 言われて安佐も身震いする。
 1週間の違いは、気温を大幅に低下させていた。
 安佐は竹井の手を取ると立ち上がらせた。
「俺、安佐に謝ろうと思って……ついて行ったんだけど、杉山さんがいたから話かけられなくて」
「謝るって、何を?」
 歩きながら話をする。
「俺、今日不機嫌だったろ。だから」
「あ、そういえば……」
 確かに不機嫌で、それで必要以上に構わないようにしたんだった。
「でも、何で?そんな謝らないといけないことなんですか?」
 竹井の不機嫌な様子は、今日に限ったことではない。
 だから、何で今日に限って?と頭がハテナマークを飛ばす。
「俺、昨日安佐が何もせずに帰ったのが気にくわなくて……馬鹿だよな、安佐は俺との約束守ってるだけなのに」
 言っている事が理解できなくて、まじまじと竹井を見つめた、その先で竹井の頬が赤くなっているのは、急に暖まったせい?
「そしたらさ、今朝安佐君の顔見たらなんだかむかっとしちゃってさ。……これって理不尽な怒りだよな。だから謝ろうと思って……」
 だんだん声が小さくなる。
「あのお、それって……」
「昨日……俺キスしたかったんだ」
 掠れた声でやっと聞こえる程度の声。
 それを聞いた途端、安佐は竹井に抱き付いた。
「ごめんなさいっ!謝るのは俺の方だよね。ごめんなさい!」
「あ、安佐!」
 すでに工場内に入っているので、竹井が真っ赤になって安佐を引き剥がしにかかった。
「あ、ああ、そうか、ごめんなさい」
 ここには香登さんはいないだろうけど……。
 それでも安佐は苦笑いを浮かべながら、竹井に回していた手をほどいた。
「ね、竹井さん。少なくともこんな事になるのは俺も嫌だから、だから言ってくださいね。俺、何でか竹井さんの思っていること気付くの鈍いときあるから、だから遠慮なく言ってください。キスしろって。俺、何だって従いますからね」
「そんなこと、言えるかよ」
 赤くなった竹井の頭に軽くキスを落とす。
「でも、喧嘩するよりましでしょ」
「それは……そうかも知れないけど……」
「無理にとは言いません。俺が気が付かなかったらけっ飛ばしてくれてもいいですから、だからね。溜めないでください」
「溜めるって……俺はそんなに溜めていないぞ、どっちかというと安佐君の方がよっぽと溜めているんじゃないのか?」
 にやっと嗤う竹井に安佐は苦笑するしかない。
「溜めていませんよ。溜める前に竹井さんにアタックかけているでしょ」
「……ばか……」
 赤くなった頬を冷やそうとして手の甲を頬に当てている竹井に、安佐は笑いかける。
 可愛いなあ、この人は……。
 その言葉を飲みこみながら。
HATCHING 5

 竹井が事務所に戻りたくない、と言う。
 泣いた目がまだ赤いのだからしようがないかとは思う。
「じゃあ、打ち合わせします?ずっとしていなかったから、そろそろスケジュールの直しもしないと」
「そうだな。でも資料が……」
 そうか、資料を取りに行くとなると事務所に戻らないといけない。それに会議室の予約も入れないと……。
「俺、取ってきます。竹井さんのことだから、ファイルにまとめているんでしょ」
 竹井の整頓された引き出し、机上を思い浮かべ、提案する。
「それは、まあ……キャビネットの上の段に、移管名書いたのが入っているから、それを持ってきてくれれば」
「わかりました。行ってきます。会議室の予約入れた時点で電話入れますから、繋がるところにいてくださいね」
「……判った」
 先ほど屋上に出ていたことを言われたのが判ったらしくて、少し不機嫌そうに頷いた。
 もう、最近すぐ表情に出すんだから……。
 安佐の顔に苦笑いが自然に浮かんだ。
 もともと顔の表情は豊かな人だった。だから、不機嫌になればすぐ判るのだが……最近、もっといろんな表情を見せてくれる。
 それが嬉しい。
 安佐は、うきうきと事務所に入り、コンピューターで会議室の予約を入れる。
「あれ、竹井君は?」
 安佐が一人でしか戻らなかったのを見て取った杉山が、眉をひそめて安佐を見る。
「これから打ち合わせすることになったんで、先に会議室に行って貰うようにしたんです……ああ、応接5が空いてる、ラッキー……と」
 予約を登録すると、すぐ竹井のPHSに電話して伝えた。
 応接5は日当たり良好、冬場の打ち合わせには最高だ。
 と、るんるんと竹井のキャビネットから頼まれたファイルを取り出す。
 そんな安佐を杉山は呆れたように窺っている。
「ま、仲直りできたっていうことか……」
 ぽつりと漏らした言葉も、安佐の耳には入っていない。
 香登が杉山を手招きしているのを視野の片隅に捕らえながら、安佐は事務所を出ていった。

「やっぱ、遅れている……」
 黙々と資料をチェックしていた竹井を見ながら、安佐は気付かれないようにため息をついた。
 そりゃあまあ、二人っきりの打ち合わせだからって甘い雰囲気を期待して俺が馬鹿なんだけど……。
 竹井さんって、切り替え早いよなあ……。
 恨めしげに安佐は竹井を見つめた。
 竹井はスケジュール表と手順書の出来具合を見比べながら唸っている。
「安佐君の方は?装置はそのままとは言っても、多少の改造があるんだろ」
「はあ……」
 図面を広げ、竹井に説明する。
「間に合う?試作開始は来週末だけど……」
「何とか……します」
 実はちょっとやばい状況だと今気が付いた。
 マジでがんばらないと……。
「そっか、まあ、装置は安佐君に任せるよ。俺もこっちで手一杯になりそうだ……」
 ため息をついている竹井に安佐は頷く。
 どたばたしていた一週間、お互いに仕事はこなしていたと思っていたのだが、実は意外に進んでいないことが判った。
 竹井にとって始めての移管作業に勝手が掴めないのもある。
「ところで、篠山さんからの改造依頼は何とかなりそう?」
「え、はい。今日依頼かけて、来週末には試しができると思います。生産計画、確認しないといけないんですけど、たぶん来週土曜日あたりに試作出来るのではないかと……ああ、でも移管する方の装置も土曜当たりですねえ」
「そうか、やっぱり土曜日か……」
「何か用事があるんですか?」
「いや……用事ってものじゃないんだ……まあ、仕方ないよな。覚悟していたし……」
 どうしたんだろう?
 どこか煮えきれない態度をとる竹井。土曜に何か用事でもあるんだろうか……
 ふっと諦めたような笑みが竹井の口元に浮かんだ。
「あ、あの」
「ん?」
「何かあるんですか?何でもないって感じじゃないです」
 どうしただろう、これって……。
 何だか凄く気になる。
 竹井さんの本当に残念そうな顔。
「別に……ちょっと人と会う約束していたから、逢えないって連絡しないとなあって思って……」
 人?
「それって友達?」
「あ、うん……友達って言うか……営業の笹木くん、知っている?」
 はあ……?
 今、すっごい名前聞いたぞ?
 あのつきあいたい男ランキング堂々一位の、あの笹木さんかあ?
「知ってますけど……会社で逢えるじゃないですか?」
「まあ、そうなんだけど……なんか土日にこっちに遊びに来てるっていうから、一緒に遊ぼうって事になっていて、ね」
 はあ……どうして?
「あ、俺達同期なんだけど……年、一緒」
「え、えええっ!」
 安佐が思わず叫んでいた。「あの笹木さんと同期?じゃあ、開発の滝本さんも!」
 あの……。
「そんなに驚くことか?そりゃあ、片や営業のホープ、片や開発の最年少リーダーで、出世頭だからな。ついでにもう一人の家城(いえき)くんもばりばりと仕事こなしているし、俺なんか同期の中では一番冴えないからなあ」
 くらくらしてくる。そうか、品質の家城さんもか……。
 すっごい厳しい人。社外クレームでも出そうモノなら、すっ飛んできて延々お説教食らってしまう。
 あ、今それどころじゃなかった。
「……そういう事で驚いたんじゃないです……」
「じゃ、どういう訳?」
 むっとしている竹井に安佐は笑って誤魔化そうとする。
 確かにあの年に入った人たちは、人事に豊作の年って言われるくらいレベルが高くて、まさか竹井さんも同期なんて知らなかった。
 ……もしかして、竹井さんが落ち込みやすいのって、そのせいもあるのかもしれない。俺だって周りがみんなそうだったら嫌だと思う。
 だが、竹井が気にした点と安佐が気になった点は微妙にずれていた。
 竹井は知らない。
 その同期のメンバーが女性達にどう評価されているか。
 安佐は製造現場に出入りすることが多いので、女性達とも気さくに話をする事が多い。その時に結構いろんな噂を仕入れることがある。
 そして、竹井の同期達は。
 今時の超美形つきあいたい男NO.1と可愛い坊や系遊びたい男NO.1、クールで知的な近寄りがたい美形……。
 ちなみに竹井は、からかいたい位結構可愛いー男だと言われている。本人には口が裂けても言えない……。
 つまりそれくらい、女性達にも豊作の年で……。
 そんな人たちが集まる。それを想像して、そっちに驚いてしまった。
「その、他の人たちも一緒なんですか?」
「ああ、でも行けそうにないよな」
 心底残念そうな竹井に安佐の心の中で、行かせてあげたいという思いと、行かせたくないという思いがせめぎ合う。
 同期の集まりというのは、なかなか出来ないのは安佐も知っているから、せっかくだから行かせてあげたいって思う。
 しかし、あの豪華メンバーに竹井が入るということがなんとなく嫌だった。どう足掻いても安佐がたどり着けそうにない高みにいる人達。
 竹井さんが自分が仕事が出来ないって思いこみやすいのは周りが立派過ぎるからだって判ってしまった。
 安佐は自分の頭の中が混乱しているのを感じていた。
「まあ、家城君はこっちの状況知っているし、行けないって言えば判ってくれるよ」
「家城さん……俺、あの人怖いです。いっつも睨まれてるし」
 何度あの人に怒られたろう。
 この前の装置トラブルだって、危うくこっちに飛び火する所だった。製造の人が、原因が開発だって言ってくれたらしい。
 だが、竹井は不思議そうに首を傾げた。
「そうか?あいつ、確かに無表情だけどそんなに怖いって事は……。お前、クレームばっか出しているからじゃないのか?」
「……そうかも知れませんけど……」
「だいたい今回の移管の品質保証部の担当って家城君だよ。言っていなかったけ?」
 げげっ!
「聞いてませ?ん!」
 い、や、だー!!
「何でかなあ、みんなあいつの事嫌がるけど……理不尽な事は言っていないのに……」
「そうですけど」
 確かに理不尽ではない。だけど、理論整然……理詰めで説教されたら逃げようがない。しかも弁解の余地無し。
 そんな人が肝心要の品質代表?!そろそろそっちと関わらなきゃ行けないのにい……。
 ほんとうに1ヶ月で終わるんだろうか……。
「必要なデータそろえておけば大丈夫だって」
 にこっと言う竹井に安佐は苦笑を向けるしかなかった。
 竹井さんって、家城さんと仕事したことがないから……。
 ため息をつくしかなかった。
HATCHING 6

 その電話を受けた途端顔がひきつった。その理由を言えば、皆同情してくれるだろう。
 安佐は、もうどうしようもない思いで覚悟を決めた。
『家城ですが、ちょっと話があるんですけど、いいですか?』
 少し低い声が囁くように耳に入ってくる。
 落ち着いていて優しそうな声なのだが、それに騙されると大変な目に遭う。
「良いですけど、何でしょうか?」
 とりあえず、今は何のトラブルは無いはずだから。クレームではないよな。
『今週土曜日の出勤、なんとかならないかと思いまして?』
「はあ……」
 想像もしていなかった問いに、何のことか判らなくて、でも、それが竹井達同期の集まりのことを指している事に気が付いた。
『さっき竹井君から行けないと連絡受けまして。だが、せっかくなんで空いた時間だけでも来るように言っているんです……忙しいのは判っていますが。だが、1日いや半日でもなんとかならないものかと思いまして?』
「それは……」
 何と言えばいいんだろう。
 家城の口調から懇願しているような感じがしているのは気のせいだろうか?
 こんな風に話すこともあるんだ、この人は……。
 仕事が一番っていうふうなこの人がこんな事をわざわざ言ってくるということは、随分楽しみにしているんだ。
 仲がいいんだ。
 それって竹井さんもなんだろうか……。
『安佐君?』
 黙っていると、訝しそうな声がしてきた。
「あ、すみません。土曜日、私がなんとかします。でも、私が出ると竹井さんも出ると言われるんで……」
『ああ、そうですか。そうでしょうね、竹井君はそういう責任感は強い方ですし。安佐君も竹井君の下だと、大変でしょうね』
 くすりと笑っているような口調。
 それは安佐の中にある家城の印象とは随分違っていた。
 今どんな顔をしているんだろう、この人は……。
 浮かぶのは眉間にしわを寄せて睨み付けられている表情だけ。
 ここまであの家城さんを和らげるほど竹井さんって仲がいいんだ。
 竹井の事を凄く親しそうに呼ぶ家城に、安佐は胸の奥にしこりのようなものを感じた。
 なんだ、これ?
『じゃあ、竹井君がいなくてもなんとかなりますね。それが知りたかったんです。ありがとう。こっちで説得しますから』
「はあ……」
 説得って……。
 ああ、家城さんってそういうの得意そう……。
『じゃあ、仕事中すみませんでした。ありがとう』
「はい、失礼します」
 息苦しかった。
 切れたPHSを手の中で転がす。
 竹井さん、土曜日どっちを取るんだろう……。
 こっちの方に来て欲しい。
 同期の集まりだから、行かせてあげたい。
 だけど……来て欲しい……。
 親しそうな家城の口調が気になる。
 豪華な顔ぶれの中に取り込まれるように、竹井が連れ去られるようなイメージが脳裏にこびりついて離れない。
 そんなこと……。
 頭を振って自分の想像を否定する。
 竹井さんはどっちを取るんだろう。
 それが頭の中をリフレインする。

「安佐君、本当に明日いいのか?」
 金曜日の残業中、人のいない事務所で竹井はもう何度言ったか判らない問いを安佐に投げかける。
 心配そうな竹井に安佐は笑いかけた。
「大丈夫ですよ。明日は装置の確認で動かすだけだし、製造からも人が出ているし、杉山さんだって別件で出ているし……俺一人で大丈夫です」
 何度目かの同じ返答。
 結局、竹井は出勤しないことになった。
 すまなそうに言う竹井に、安佐は内心の動揺を隠して笑顔で答えるしか無かった。
「すまないな」
「ほんとうに良いですって。それに次は休めないかも知れないしね」
「ああ、次は必ず出るから」
 やっと竹井の顔に笑みが浮かぶ。
 行って欲しくないとは言えなかった。
 必ず出て欲しいといえば、竹井はこっちに出てくれるだろう。
 だけど……。仕事の内容からすると明らかに竹井の出番はあんまり無い。来ても事務所で事務処理をしていて貰うくらいだ。
 手が治った竹井の作業は、今のところ遅れも取り戻している。どちらかという足を引っ張っているのは安佐の方だった。
 だけど……。
 心の奥のわだかまりが何とかしろと騒いでいる。
 俺は……。
 したい……。
 安佐は周りに誰もいないのを確認して、竹井をじっと見つめた。
「竹井さん、俺、キスしたい……」
「はあ……ばっ、か!」
 真っ赤になって狼狽える竹井が、安佐の真剣な表情に気付いて口をつぐんだ。
「ね、そんなにすまないって思ってくれるなら、キスしてください。俺、竹井さんとキスしたくてしようがない……」
 これは……伺いを立てているようで実は強制なんだって判っていた。
 こういう言われ方をしたら、竹井さんは断れないって判っていた。
 竹井が羞恥に頬を染め、俯いてる。
 それだけで、そそられて堪らない。
 安佐はゆっくりと竹井に近づいた。
「馬鹿……。誰か来る……」
 竹井の力無い言葉は、拒絶の言葉ではなかった。
「少なくとも、生技の人間で残っているのは俺達だけです」
 それだけは判っていた。
 だから、座ったままの竹井の顎を指で上向かせる。
 こめんなさい。
 心の中で謝る。
 断れないの判っていました。だけど、今だけでもあなたを手の内に置きたい。
 心の中に沸き起こる不安を静めたいんです。
 そっとその唇に触れるだけのキスを落とす。
 竹井は観念したかのように目を瞑っていた。
 笹木、滝本、家城、竹井……。
 どうしてこんなに不安になるのだろう。
 たかだか同期の集まりじゃないか。
 なのに、どうして……。
 安佐は再度口付けた。薄く開かれているその唇の隙間に、こじ入れるように舌を差し込む。
 竹井の手が安佐の腕を掴んだ。
 竹井の舌が安佐の舌の動きに答えてくれる。
 先日の屋上での出来事以来、竹井の反応が素直になっているのが嬉しい。
 だけど……。
 それでも不安だった。
 決してそれ以上先に進めない。
 前はそれでもいいかって思っていた。
 この竹井さんが応えてくれるようになったと言うだけでも嬉しかった。
 それなのに、この不安は……。
 安佐はその不安をうち消したくて、竹井の唇を貪った。
 貪欲なまでに舌を絡め取り吸い付く。
 溢れた唾液を竹井の咥内に流し込んでいった。それを竹井が耐えきれなくて飲みこむ音に、さらにきつく舌を絡ませる。
 竹井が苦しそうに首を振るのを押さえつけた。
 離したくない。
 行って欲しくない。
「んん……うんうぅぅ……」
 竹井の喉から声が漏れる。
 その頬に溢れた涙が流れ落ちた。
 竹井が無理矢理安佐を押しのけなかったらいつまでも離れることが出来なかったろう。
「……お前、いい加減にしろって……」
 息苦しさを癒すために大きく息をする竹井が口元を腕で拭っていた。
 安佐を睨み付ける瞳が潤んでいて、安佐の下半身を直撃するほど色っぽい。
 抱きたい!
 その思いを安佐はかろうじて押さえた。
 ここが会社ではなく家だったら……間違いなく押し倒していた、と思えるほど。
 胸が痛い……。
 安佐は苦しそうに傍らの椅子に座り込んだ。
 狂おしいほどの思いを押さえつけるのが苦しい。
 どうして……。
 今までこんな事無かった。
 竹井の拒絶に笑って耐えることが出来ていたのに……。
 今は、それが苦しい。
「どうした?大丈夫か?」
 いつにない安佐の態度に竹井の方が狼狽えている。
「何でもないです」
 無理に笑おうとしたが、引きつってしまって笑みにならない。
「安佐君?」
「もう、竹井さん。今すっごく色っぽい表情しているんですよ。俺、たまんないです」
 だから、ふざけたように言って、席を離れた。
 自席に戻る安佐の後ろ姿に、「ばかっ」とののしる声が叩きつけられる。
 俺、どうしたんだろう。
 自分で自分が押さえつけられない。
 脳裏に浮かぶのは、先ほどの色っぽい竹井ではない。
 同期の3人に囲まれて、楽しそうに笑っている竹井。
 その目が家城だけを見ているような……。
 あれ?
 その時、ようやく安佐は気が付いた。
 心の中のわだかまりの正体を。
 な、ん、で……。
 安佐は両の拳を握りしめた。
 これって……嫉妬?
 何で?


 ばっかだよなあ。
 自分の感情が普通とは違うこと位判っているのに。
 自分が、竹井さんに惚れているからって、家城さんまでもが男である竹井さんに友情以上の感情を持っているなんて思うのがおかしいと思う。
 だけど。
 あの電話の親しげな様子が気になってしようがなかった。
 一晩中、すっきりとしない頭の中の思いを持て余していたせいで、あやうく遅刻するところだった。
 朝一から装置を動かす予定なので、事務所に寄ったらすぐ作業場に行かないと。
 と、入った事務所に、いる筈のない人。
「竹井さんっ!」
「遅い」
 むっと睨まれるのも嬉しい。
「何で?今日はみなさんと逢うんじゃあ?」
「あれは、10時からだ。……お前がこないと製造の人間が困るだろうに、何でこんなぎりぎりに来るんだ?」
「すみません、寝坊しました」
 素直に謝る。
 10時っていったら1時間もしないうちに出ないと行けないのに、わざわざ来てくれた。
 自然に顔が綻んでくる。
「何だ、元気じゃないか……」
 ぼそっと呟かれた言葉に耳を疑う。
「あ、の……それって?」
 竹井がしまったというように顔をしかめる。
「……お前、昨日帰り何か変だったから……」
 そっぽを向いている竹井さんが可愛い!
 思わず抱きしめたくて、手がうずうずとする。
「あ、あの、竹井さんっ」
 抱きしめたくて、キスしたい!
「おい、何考えているんだ?もう、製造はスタンバっているんだぞ」
 ぎろっと睨まれて、仕方なく頷く。
「じゃあ、行ってきます……」
 あーあ。
 やっぱり来てくれただけだもんなあ。
 それで良しとしないと……。
 部品図等の資料を抱えて事務所から出ようとドアへ向かった。
 と、その腕を竹井が掴む。
「え?」
 引き留められ振り返ると、竹井の顔が目の前にあった。
 ええ?
 呆然としていると、竹井の顔がさらに近づき、唇に柔らかい感触があった。
 それは一瞬で……すっと竹井の顔が離れる。
 竹井は頬を朱に染め、俯いて手を離した。
「すまないとは思っているんだぞ……」
 消え入りそうな声に、やっと我に返った安佐の手から資料がばさばさと崩れ落ちた。
 竹井さんがキスしてくれた……
 竹井さんがキスしてくれた……竹井さんの方から、キスってあの時以来?
 しかも……こんな……こんな所で……。
「あ、はい、えっと……その、行ってきます……」
 混乱した頭が言葉を紡ぎ出すことを拒否しているようだった。
 慌ててかき集めた資料を持って、ふらふらと事務所を出ていく。
 そんな安佐に竹井が頬を染めたままの顔に苦笑いを浮かべて見送る。
 そんな事にも気付かない。
 それほど頭がぶっ飛んでいた。
 う、うれしいーよお。
 安佐はもう完全に家城達の事を忘れていた。
HATCHING 7

「だからっ!」
 安佐は傍らの篠山に出てきた製品を突き出す。
「溶剤追加したでしょっ。だから硬化時間が長くなっているんです。新しく取り付けた部品はきちんと稼働してますって」
 接着不良を起こした製品から少しでも良品を探し出そうと、傍らで篠山の部下の緑山が次々と吐き出される製品をより分けていた。
「どうだ?」
「50%位です。ちょっと悪すぎますっ!」
 装置が製品を吐き出す際の音がうるさく響き、自然怒鳴るような会話になる
「ああ、もう、うるさいっ!」
「次回までには直しますって。それより、時間設定変えますから……何分?」
「さっき何分だった?」
 それは篠山が背後の緑山に投げかけた言葉。
「……0.75分です。……1分にしてみましょうよ」
 してみましょうって言われても簡単に変わらねえ!
 安佐は心の中で毒づくと、それでもコンピューターを操作し、プログラムを順番に変更していく。特別な作動をさせているので、操作盤だけでは操作しきれないのだ。
 ちくしょう!
 いつまでこっちに関わっていればいいんだ!
 今日はもう一つの装置も動かしている。本来、そっちがメインだったはずなのに、出張っていた開発の面々に連れ込まれて、こっちから動けないのだ。
 あっちだって、あんたらの管轄だろうが!
 だが、篠山は頑として安佐を離そうとせず……しかもなかなか思い通りにいかない装置のせいでその場を離れるわけにはいかない。
 やっぱ、一度に二台はきつい!
 誰がこんな計画立てたんだ!
 自分で自分を罵る。
 移管用の装置の方は、別件で来ていた杉山に頼み込んで付いて貰っていた。開発からは橋本が行っている筈だ。だが、篠山はとんと向こうには関心を持っていないようで、何の連絡も取らない。
 安佐の方も電話をかける暇もない状況で、向こうの状況が全く判らなかった。
 連絡がないってことは上手くいってんだろうけど、あっちも見たい……。
 それなのに。
 一生懸命装置に見入っている篠山を睨み付ける。
 この人ってばほんと人の都合を無視する……。
「少しよくなったみたいです」
 ふと、背後から製品が差し出されてきた。
「ありがとう、緑山君」
 それを受け取り、天井の蛍光灯に透かしてみる。
「よくついているでしょ」
 ほっとしたかのようににっこり微笑む緑山に、安佐も強ばっていた顔が綻んだ。
 厄介な上司には、何故かいい部下がつくよなあ。
 橋本さんといい、この緑山君といい……。
 橋本さんっててきぱき何でもこなすっていう感じで、緑山君はほんわかしているようで結構こまめに率先して動いてくれる。
 その緑山のお陰で、装置も安佐自身もまだなんとかなっている状態だった。
 はあっ
 大きくため息をつく。
 いい加減、周辺雰囲気中の溶剤の臭いで頭が痛くなるそうだ。
 これは、排気ダクトもなんとかしないと。
 安佐は屋上の配管の流れを辿っていった。頭の中で必要なラインを組みたてていく。
 ダクトの手配……メンテに頼まないと……ああもう、考える事が多すぎる……。

 わずかな時間を見つけて、やっとメインの装置に行けた。
「杉山さん、どうですか?」
「大丈夫だ。問題ないようだよ」
 良かった……。
 杉山の言葉に心底ほっとする。
 あっちもこっちもトラブった日には一体どうすればいいんだって思いがあった。
 こちらは順調にステンレスのケースに製品が順に積み重ねられている。
 送り出しの圧縮エアが解放されるときの音が響く程度の静かな装置。
「あっちはどうだった?」
 橋本の不安そうな問いに苦笑いを返しながら応えた。
「さっき、やっとなんとかなりそうな気配がしてきてて、今、造り溜めしているところです」
「ああ……篠山さんがこっちに来ないから、たぶんそんな所だろうとはおもったけどねえ。ごめんな、あの人、やりだしたらひたすら突っ走っちゃう人だから、さ」
「そうみたいですねえ」
 思わず本音が出た。
 慌てて口を閉じる。杉山がくすくすと笑いを漏らしていた。
「杉山さん、替わりましょうか?」
 嫌みを込めて進言してみる。
「いやあ、あれは安佐くんの装置。まあ、しっかりやってきなさいって」
 きっぱりと拒否された。
 っていうか、あっちは確かにそうだけど、こっちの装置の担当も俺なんですけどねえ……。
 ため息しか漏れない。
「今日、竹井さんって同期会だって?」
「あ、はい」
 ああ、そうだった。
 橋本に言われてその事を思い出した。今まで思い出すどころではなかった、というのが正しい。
 ふと、時計を見るとすでに3時を過ぎていた。
「あの4人って仲良いんだってね」
 橋本が興味津々と安佐に話しかける。
「らしいですねえ。でも、そんなに仲がいいなんて知りませんでしたけど」
 少なくとも2年間一緒のチームにいて、それまで竹井がそんな豪華メンバーの中の一人だとは知らなかった。
 俺、生技の中以外の竹井さんのこと知らない。
「電気化学2チームが滝本さんのチームだろ。そこの高山君に聞いたんだけど、あの4人って機会があったら会うようにしているくらい仲がいいんだって。でも、なかなか4人で遊びに行くっていうのはないらしくって今回のことはみんな凄く楽しみにしていたって」
「へえ、そうなんですか」
「知ってる?家城さんなんて、竹井さんがお気に入りでさ、竹井さんがまとめた資料なら文句も言わずに受け付けてくれるって……」
 その言葉に安佐の片眉が跳ねた。
 そんな安佐を杉山が面白そうに見ている。
「滝本さんと笹木さんも仲いいから、お互い行き来しているし……開発と生技と品質と営業だろ。この4人が揃うとなんかすっごいスムーズに仕事がいくんじゃないかなあって……あ、これ高山君の意見ね」
 そ、そんな事言われているんだ……。
 女性からの噂はわりと気軽に入ってくるのだが……。そういう噂はなかった。
 安佐は呆然と楽しそうにしている橋本を見つめていた。
「まあ、実際は担当がそれぞれ違うから、一緒に仕事することってあんまりないよね」
 ああ、そうなんだ。
 言われてみて始めて気付いた。
 安佐自身も、滝本や笹木と話をすることはほとんどない。
 家城とはよく関わっているが、その仕事の性格上親しくなろうとも思わない。いや、親しい方がもしかすると移管の時は有利なのかも知れないが……。
「でも……でも、あの家城さんが親しいからって、資料を文句無しに受けてるなんて事……」
 そんな事……。
「それがさあ、あるらしいよ。で、その書類にミスがあったとしても……まあ、滅多に無いらしいけど、わざわざ家城さんがその事を連絡して直させるんだって。俺らがそんな事やったら、呼びつけられて突っ返されるだけなのに……」
「……そう、なんだ」
 そんなに仲がいいんだ……。
 頭の中で落ち着いていたはずの考えがぐるぐると回る。
 家城と竹井。
 もしかすると俺よりお似合いかも知れない……。


 家に帰り着いた時には、もう11時を過ぎていた。
 安佐はベッドに倒れ伏すと四肢を投げだした。
「つ、か、れ、たあ……」
 体力の限界ってこういう事をいうんだ。
 もう一歩も動く元気がなかった。食べる元気も湧いてこない。ただ、寝っ転がっていたかった。
 終わった……。
 移管の方は、少なくとも装置に関しては何とかなりそうだ。
 開発の方も、まだ問題点はあるがどうにかなりそうな目処はついた。
 どちらも納期通りには何とかなるだろう。
 移管の方は残り2週間。
 今日作ったモノと同じ工程をもう2回。それで1週間。
 最後の1週間で、書類を整えて会議。余裕を見ても、週半ばでは移管会議したい。
 はあ。
 も、いいや。
 疲れた。
 ただ、この異様に疲れた原因はもう一つある。
 橋本の会話からずっと頭の片隅から離れない事。
「ね、竹井さん、俺の事好きでいてくれてますよね……」
 仰向けになり、交差させた両手で目を覆う。
 暗くなった視界に浮かぶのは竹井。
 今日の朝、キスしてくれた竹井を思いだす。
 わざわざ来てくれたって思って良いんですよね。
 あんな嬉しい事ってなかった。
 だけど、俺って、欲張りなんだろうか。
 さらにその先を求めている自分がここにいる。
 家城さん……。
 もし告白したのが俺ではなく家城さんだったら、竹井さんもすんなり受けたかもしれない。
 年も同じ、勤務年数も同じ……しかも実力は安佐よりはるかに高いレベル。
 安佐が絶対に辿り着けない場所にいる男。
 嫌だ。
 竹井さんは俺のものだ。誰にも取られたくない。
 竹井がイク時の何かを堪えているかのような眉間のしわを湛えた表情も口付けると微かに震える躰も朱に染まる肌も躰に走る強い刺激に思わず出ているのであろう涙も……。
 全てを自分のものだけにしたい。
 もっと見たい……組み伏して、自分の物にしたい……。俺の下で、喘がせたい……。
 もっと……。
 竹井さんの中に、入りたい……泣かせてみたい……。
 ……。
 くっ……。
 安佐はぎりっと強く唇を噛み締めた。
 堪えようのない熱が下半身の一点に集中している。
 ばか、だ。
 頭を叩く。何度も、拳で。
「俺……なんてこと……」
 食いしばった所から鉄の味が咥内に流れ込む。
 我慢しろ。
 先日の屋上で泣いていた竹井さんを脳裏に浮かべる。
 ちょっとした事で、落ち込みやすいあの竹井さんにそんな事をしたら……。
 ……。
 だけど……。
 食いしばっていた歯を緩める。
 唇に出来たその傷を舌で探ると、ぴりりとした痛みが響く。
「ね、竹井さん……俺、どうしたらいい?」
 ぽつりと漏らした言葉が中空に消えていく。
 と、そのタイミングでチャイムが鳴った。
 どきっと心臓が跳ね上がる。
 誰だ?
 ピンポーン
 再びチャイムが鳴り響く。
 明かりがついているから、中に人がいるのは判っているだろう。
 安佐は仕方なく、ドアを開けた。
「すまないな、こんな遅く」
 玄関先に立って白い息を吐いていたのは竹井だった。
「竹井さん……」
 その姿を見た途端、抱きしめたくなった。
 だが、表情のない竹井に何か違和感を感じて、それをかろうじて堪える。上がりかけた手を、無理矢理下ろした。
「今日の様子聞きたくて……いいか?」
「あ、はい。どうぞ」
 部屋に招き入れた竹井は来ていたコートを脱いだ。その途端、アルコールの臭いと煙草の臭いがほのかに漂う。
 煙草は店で付いたんだろうけど……。
「飲まれたんですか?」
「あ、ああ。夕食の時……」
 ふっと竹井が言葉を切った。
 普段あまり飲まない竹井が、かなり飲んでいるのがその雰囲気から判った。目に力がない。それに、どことなく変だ。
「あ、の……どうかしました?」
「何でもない。それよりどうだった?」
 竹井が安佐を見ながらベッドに座った。
「問題なかったです。順調でしたよ」
 確かに最後には順調だったから嘘ではない。
「そうか、よかったな」
 ふっと微笑む竹井。
「!」
 だめですって……。
 思わずしかめた顔に竹井が気が付いた。
「どうした?」
「え……いえ、何でもないです」
 慌てて顔を逸らした。
 だが、竹井はそれを許そうとしなかった。
 立ち上がり、その顔を両手で捕らえる。
 至近距離に見える竹井の顔が朱に染まっている。
「言って見ろよ」
「あ……」
 触れられた頬から痺れが走る。
 鼓動が激しく鳴り響く。
「言わないのか。俺をどうにかしたいんじゃないのか!俺の事好きなんだろ!」
 この人は何を……。
 あまりの展開で安佐の思考の処理能力を超えていた。だからか、意外に冷静に竹井を見ている自分がいた。
 もしかして竹井さんって酔っぱらっている……。
 呆然と見つめる先の竹井がふっと目を逸らした。
 一瞬唇を噛み締めた後、竹井は口を開いた。
「俺……今日家城君にキスされた……」
 へえ。
 家城さんにキスされたんだあ……って、え?
「ええっ!」
 思わず竹井の両肩を掴む。
「どういうことですっ!」
「どういうことって、そういうことなんだけど……」
 俯いた視線の先がうろうろと安佐の胸当たりを漂っている。
「だ、だから……何がどうなって、どういう風にそんな事になったんです?」
 家城さんって、家城さんってノーマルじゃなかったのかあっ!
「その……夕食って、座敷だったんだけど……そこで、何か妙な雰囲気になって……そこで、キスされた」
 わ、わからねー。何か滅茶苦茶はしょられてる。
「判りませんって、それじゃあ……家城さんって竹井さんの事が好きなんですか?」
「あいつ、からかっただけだよ……」
「あ、あれっ?滝本さん達はどうしたんですか?一緒だったでしょ」
「だから、あいつらが先に!え、あっ、ちがっ」
 まずったというように顔をしかめる竹井に、安佐の混乱はピークに達していた。
「滝本さん達が先にって……あ、あの、お願いです。最初から順番に話してくださいって。俺、訳判らんですって……」
 強い口調の安佐に、竹井はふうと息を吐くと、口を開いた。
「……その、滝本さんと笹木君がつき合っているっていう話になって、そしたら家城君がキスして見せろって……あいつ結構酒癖悪いから……それで、その二人がキスしたら……家城君がじゃあ俺達もって……」
「しちゃったんですかあ……」
「ごめん……逃げられなかった……ごめんな」
 えーと……。
 滝本さんと笹木さんの話も気になるけど……いや、それどころじゃなくて……。
 妙にしおらしい竹井に、安佐はどうしていいか判らなかった。
 本当に悪いと思っているんだ。
 それって、それって期待していいんですよね。
 だけど?
「ねえ、竹井さん。それ、何で俺に言いに来たんです?それにさっき怒っていたみたいだけど?」
「あ……それは……」
 俯いていた竹井の首筋が一気に朱に染まった。
 それがあまりに色っぽくて、思わず竹井を抱きしめる。
「ねえ、竹井さん、教えて欲しいです」
 だが、竹井はむっとしたまま口を開かない。
「竹井さん」
 呼びかけながら、朱に染まったままの首筋にキスを落とす。
 唇を通して竹井の躰の振動が伝わる。それがうれしくて数度ついばむように口付けると、竹井の口から甘い喘ぎの含んだ吐息が漏れた。
 その微かな音が安佐の心臓がどきりと跳ねる。
「……竹井さん……どうしたんです?」
 耳元で囁く。
 竹井の手が安佐の両腕を掴んだ。力無いその手が震えている。
 安佐は、竹井の震えを押さえるように腕に力を込めた。
「家城君がせまってきたから……滝本さん達がつき合っているって聞いたから、で、つい言ってしまった。お前とつき合っているって……」
 げっ!
 安佐は思わず竹井の躰を引き離した。肩に手を置いたまま、竹井をまじまじと見つめる。
「ま、まさか、家城さんや滝本さん、笹木さんに……言っちゃった?」
 こくりと頷く竹井は可愛かったが、それどころではなかった。
 ひ、ひゃあっ!!
 嬉しい!
 竹井さんの方から俺とつき合っているって言ってくれるって、そんな、嬉しいっ!
 再び竹井の躰を、今度は両腕できつく抱きしめる。
「だけど、家城君がどこまでって聞いてくるんだ、あいつ、あんなに嫌な奴とは思わなかった……」
 竹井のちょっとムッとした口調が可愛いくて安佐はにこにこと続きを促した。
「それで、なんて?」
「キスしたって言った」
 その場で竹井がどんな顔をしていたんだろうか?
 きっと酔った勢いもあるんだろうけど、きっと真っ赤な顔で掠れたような声で言ったに違いない。
「そしたら家城君がキスだけなら、俺にもできる、とかなんとか言って……それでキスしてきた」
 そんな、人?
 あの人って……。
「あ、あの人、そういう性格だったんですか……」
「酒癖悪いんだよ。滝本君達が止めてくれたんだけど……ふだん真面目を絵に描いたような奴なんだけど、飲むとその歯止めが利かなくなるんだ。会社では飲み会でもあんまり飲まないようにしているから、知っている人間なんてほとんどいない。だから、あいつ、それを知っている俺達と飲むのが好きなんだよ」
 印象が……がらがらと音を立てて崩れる。
 それであんなに竹井さんが行くことにこだわっていたんだ。
 もしかするとそういう仲だから、書類なんかもあんまり文句が言えないのかも……。
 でもまさか、俺がそれをネタに脅すわけにも……。
 なんて、馬鹿なことを考えていたら、竹井の次の言葉を聞いて頭がぶっ飛んだ。
「それで……思った。キスだけなら誰でも出来るんなら、本当の恋人だったらやっぱり最後までいかないといけないんだろうかって……」
 それって……。
 いや、結構真面目な竹井さんなら、そう考えてもおかしくはないか?
 でも、でも、この竹井さんからそんな事言ってくれる?
「竹井さん……まさか誘ってくれてる?」
「俺……今日、どうかしているんだろうなあ。飲み過ぎたのは判っているんだけど……、家城君にキスされてから、ここに来たくてしようがなかった。お前に逢いたかった。お前に……抱かれたかった……俺、変」
 最後になると掠れてしまった声で、それでも明らかに欲情を含んでいるのが感じられた。
「いいんですか?」
 期待と不安で心臓がどきどきと高鳴る。
「俺は、我が儘だぞ。俺が良いって言わないとこれから先だって出来ないかも知れないぞ。今何でか俺、その気になってる……自分でも不思議なんだけど……それ、逃すつもりか!」
 最後には怒鳴られた。
 そこまで言われて据え膳喰わぬは男の恥だ。
 だけどそのつもりで突き進むんだから、これだけは言っておきたくて竹井の耳元に口を寄せ、囁きかける。
「途中で嫌だと言っても、今日は絶対止めませんから……」
 ぴくりと全身で震える竹井をそっと抱きしめる。
「あ、安佐……」
 竹井の躰に不自然な力が入る。
 ああ、やっぱり。
 この人は勢いでここに来ているんだ。
 理性の奥底ではやっぱり不安な筈。
 今は勢いで良いって言ってくれているけど、それでも途中で嫌がるだろう。
 でも、一度だけでも……お願いです。
「竹井さん、今日だけは俺の我が儘、聞いてください。だから、絶対に、止めませんから」
 その言葉に竹井の目が大きく見開かれた。
 一瞬の躊躇の後、その瞼がゆっくりと閉じられる。
「判った……けど」
 呟きが竹井の口から漏れた。そしてまだ何か言おうと開かれたその唇を安佐はそっと塞いだ。
 もう、何も言わせたくなかった。
HATCHING 8

 竹井の躰をそっとベッドに押し倒そうとすると、竹井が安佐にぎゅっとしがみついてきた。
「あ、安佐……くん」
 付け足したような「君」という言葉に安佐はくすりと笑う。
 この人って、時々俺を呼び捨てにする。
 そして、そういう時ってたいがい興奮しているときだ。
 泣いたり、怒ったり……そして……こういう時。
 だったらいつだって呼び捨てでいい。
 そう呼んでいるときのそれがこの人の本音なんだ。
「竹井さん……怖い?」
「こ、怖くなんか、ないっ!」
 ムッとさせるのは判ってはいるけど……実際思った通りの反応。
 だけど、それでも微かに震えていた躰が止まる。
 ほんとに……勝ち気っていうのか、俺には弱みを見せようとしない。
 こんなに俺を誘ってくれるほど酔っぱらっている癖に。
 安佐は、睨んでいる竹井に微笑みを見せると、その額に口付けた。
 それだけでもびくりと震える躰に竹井自身が驚いたようでふいっと視線を逸らした。頬から首筋にかけて日に焼けていない白い肌が朱に染まる。
 目前に露わになったその首筋に誘われるように唇を落とした。
「んっ」
 竹井の喉から漏れる声が艶っぽい。
 暖かい肌の温もりが気持ちよくて、次々と首筋を辿い上へと向かう。
 目を瞑り、刺激に耐えている竹井の唇は微かに開かれ、時折甘い吐息が漏れる。
 その唇にそっと指を這わせた。
 途端に竹井の眉がひそめられた。目は閉じたままだ。
 その唇を今度は安佐の唇で塞ぐ。
 ぴくりと反応した躰を抱きしめる。でないと、また逃げられそうで……。
 するりと舌を入れると、竹井自身の舌が迎え入れてくれた。柔らかく熱い舌が絡まり、安佐の舌を誘い込む。
 安佐は引きずられそうになるを懸命に堪えた。
 竹井の珍しい積極的な行為が安佐を昂ぶらせる。
 絡まった舌を引きずり出し、吸い付く。
 どちらのともつかない唾液が溢れ竹井の頬を伝っていた。
 安佐の手がゆっくりと竹井のシャツのボタンを外していく。3つ目を外したときに、ようやく竹井がそれに気が付いた。びくっと見開かれた目が不安そうに安佐を見、そして中空を舞う。
 安佐はそこで手を止め、唇を離した。
「怖い?」
「くっ、お前は!」
 俺って、意地悪?
 ぎろっと睨む竹井の視線にぞくりとした痺れを感じながらも、それでも安佐は微笑み返した。竹井を安心させるために。
「じゃ、いいですね」
「えっ?」
 慌てる竹井を後目に安佐は開かれたシャツの間、鎖骨の間辺りに口付けた。
 少し強く吸い付く。
「あっ」
 竹井の手が安佐を押しのけようとして中途で止まった。くっと唇を噛み締め、止めようとした右腕で目を覆う。
 必死で弱みを見せまいとしている竹井が愛おしくて、安佐はすっとその噛み締められた唇に指を当てた。
「え?」
 何事かと開かれた口にするりと指を入れる。
「噛み締めないで、傷が入ってしまう」
 ふと思い出して自分の唇の傷をぺろりと舐めた。苦しんで傷つけたけど、今はその痛みが心地よい。
「あ、ああ」
 竹井がひそめられた眉のままに頷くのを確認して、再び胸元に唇を落とした。
 途端に竹井の口に入れた指に痛みが走る。
「駄目ですって、噛まないで」
「んなこと……」
 それでも竹井は噛み締めた歯を緩めた。
 噛み締められない分、今度は竹井の口から喘ぎ声が漏れ始める。
 それが聞きたくて、胸元に舌を這わした。
 時折ついばみ、その肌に赤い印を残していく。
「うっ……ああ……」
 ぺろっと胸の突起を舐めあげると、竹井の全身がびくびくと震えた。
 空いている手でもう片方の突起をつまむ。
「ひっ!」
 硬くなったその小さな突起を甘噛みし、舌でつつく。
「うっ!」
 耐えられなくて漏れる声。
 開かれた口から指を外すと、躰を伸ばしてその口に触れるだけのキスを落とすと、そのまま胸元に戻ろう、とした。
 だが、竹井が安佐の頭を抱えて離そうとしない。
「んんっ」
 竹井の方から絡めてきた舌に安佐は応えた。
 硬く閉じられたままの目尻に一粒の涙が浮かんでいた。密着した胸から竹井の激しいまでの鼓動。
 そして……。
 絡められた足。安佐の腰に当たるその足の付け根が紛れもなく硬く昂ぶっている。
 竹井さん……感じてくれてる。
 離してくれそうにない竹井に熱く深く口付けながら、安佐はそっと竹井のベルトを外していった。
「あっ」
 その金属音に気が付いた竹井が口を離す。
「だ?め!」
 ぐいっとその口を追い、塞ぐ。
「んんっ」
 抗議の言葉を吸い込む。その間に緩められたスラックスの中にするりと手を入れた。既に十分猛っているそれに直に触れる。
「んっ!」
 竹井がビクッと激しく跳ねた。
 緩く掴んで扱くとさらに一回り膨張したそれ。
「あっ、あっ」
 手の動きに合わせて竹井の躰が跳ねる。それを全身で押さえ込み、もう一方の手でその細い腰に手を這わせた。
 柔らかい……。
 始めてゆっくりと触れた肌は手に吸い付くようだ。
 欲しかった躰。
 今日だけは……必ず手に入れられる。
「竹井さん……こうして触れているだけで、俺のモノ感じているんです。判ります?」
 猛っているモノを竹井の躰に押しつける。
 しかめられた顔がさらにしかめられた。
 だが怒っているのではないことは、その上気した頬、潤んだ瞳が教えてくれる。
「あ、さ……」
 こぼれた言葉を聞くことすら心地よい。
 安佐は竹井の躰から起きあがるとするりと竹井の下肢を覆っていた服を下着ごと脱がした。
「えっ!ばかっ!」
 直に触れるひんやりした空気から逃れるように竹井が身を捩った。
「だって邪魔ですもの」
 恥ずかしそうに隠そうとする竹井の手を掴んで、ベッドに縫いつけた。
「安佐っ!」
「竹井さん……俺、我慢できないから……逆らわないで……」
 切なげに訴える安佐の視線に気が付いた竹井が観念したかのようにふっと力を抜いた。
「ばっか……」
 罵る言葉に力がない。
 だが、ふっと竹井が何かに気が付いたように視線を巡らした。
 何かを探しているようだ。
「どうしたんです?」
「俺、の、コート……のポケット……」
 コート?
 確かこの辺りで脱いだ……。
 安佐が躰を起こして、ベッドの下に落ちていたコートを取り上げた。
「これのポケット?」
 安佐が竹井を振り返る。
 と、その背中にずしっと重さが加わる。
「た、竹井さん……」
「お前も脱げっ」
 言いながら安佐の腰のベルトを緩める。
「ああ、もう、自分でやりますから、離れてって」
 腰にあった竹井の手を引き剥がす。
「じゃあ、こっちを外す」
 ムッしている竹井の行動に苦笑を浮かべ、仕方なく安佐はさせるがままにすることにした。
 この人って、ほんと行動が読めない。
 竹井が背中に密着して手を回し、安佐のシャツのボタンを外していく。肌の上をまさぐるように動く手が気持ちよくて、うっとりとなすがままにされていた。
 ふう
 熱くなった体を冷やしたくて大きく息を吐く。
 と、手に持っていたコートを思い出した。
 ポケット?
 コートのポケットを探る。
 右のポケットに紙袋の感触があった。
 それを引っ張り出す。
「薬?」
 紙袋には薬の広告が入っていた。
「それ……笹木君がくれた……。安佐君に渡せって……する時に……」
 笹木さんが?
 きょとんとその袋を見つめる。
「中身、何です?」
「知らない、笹木君が帰り際に買ってきて、俺のコートのポケットに突っ込んだ」
 何だろう。
「開けますね」
「うん」
 竹井も手を止め、背中越しにその袋を見つめる。
 開かれた紙袋の中身をベッド上にひっくり返す。
 ころんと転がったモノを見て、安佐も竹井も硬直した。
 長方形の平べったい箱には「極薄」とでかでかと書かれている。それだけで、中身が判った。そして、もう一つは、「潤滑ゼリー」と表示されている。
 こ、これって……。
 あの、何でこれを笹木さんが?
 パニクっている安佐が、背後の竹井に呼びかける。
「た、竹井さん……これって……」
「お、俺……するなんて言っていないからな」
 間髪いれずに応えられたその様子から察するに、竹井もかなり驚いているようだ。
「でも、これって……」
「言ってる訳ないだろ。……でも、笹木君って何か妙に鋭いから……」
 ぶつぶつ言っている竹井の方を振り向き、安佐はそっと抱きしめた。
 きっとこの人のことだから表情に出ていたんだろうな。
 営業のホープっていう位だし、本人も男とつき合っているのなら、そういうところの勘が鋭いのかも知れない。
「でも、何でもいいです。ね、しましょうよ」
 耳元で囁きかける。
「ここまで用意されて、しないって手はないでしょう?」
「ばか……」
 相変わらずの悪態だけど、それが心地よい。
 安佐は再度、竹井をベッドに押しつけた。
 緩められていた服を手際よく全て取り去った。ついでに、竹井の残っていたシャツも取り去る。
 全裸になった躰をあわせるだけで、一気に安佐のモノも竹井のモノも硬度を取り戻した。
「あさ……」
 吐き出される息と共に呼びかけられる。
「竹井さん、俺……」
 応える声が掠れていて自分の物で無いようだ。
「あさ、……ゆたか……」
 た、けい、さん!
 それだけでビクビクと下半身の一点に血が集まる。 
「そう呼んでくれます?」
「ゆたか……」
 呪文のように竹井の口から唱えられる。
 いつだって「よしたか」と読み間違えられるこの「由隆」という名前。
 知っている?
 竹井さんは一度も間違えたことがなかった。
 最初からいつだって読み間違えることはなかった。
 あの香登さんだって杉山さんだって、最初は何回も間違えたのに。
 嬉しかったんです。
 気に入っている名前なのに、誰も最初から読んでくれないこの名前。名刺交換の度に説明する読み方。それでも「あさ よしたか」と呼ばれることへの諦め。
 それなのに……。
「やっぱり素敵です。竹井さん……」
 貪るように竹井の全身にキスをする。
 瞼に、頬に、唇に……。
 首筋から喉、胸、臍……。
 腹から竹井のモノへ……。
「ふあっ……ああ……」
 ああ、お願いです。もっと呼んで欲しい。
 安佐は竹井のモノを頬張った。
「ひっ……はあ……ああっ」
 数度抜き差しすると、口を離した。
「ね……呼んで俺を……ゆたかって……」
「……ゆたか……」
 言葉共に竹井の赤く潤んだ瞳が安佐を見る。
 その艶めいた色にどきりと心臓が高鳴る。
「竹井さん……」
 再度そのモノの先端に口付ける。舌でつつくように感じるところを刺激していく。
「はあ……ああっ……ゆ、たっ……ああ」
 指を添え、竹井のモノを唾液だらけにしていく。
「や……もう……」
 はち切れんばかりの堅さは、竹井の限界。その先端から漏れる独特の味が咥内に広がる。
「イッて……受け止めてあげる」
 指と共に口で大きく扱く。
「あ、ああ……ゆ、ゆたかぁ!!」
 途端に大きく竹井が仰け反った。同時に咥内に竹井の精液が吐き出される。
 びくびくと震える躰が愛おしくて、抱きしめた。
 すると竹井も安佐の頭を掻き抱くように抱き付いてくる。
「ゆたか……ゆたか……」
 何度もその名を呟く。
 なんだか変?
 あまりにも可愛らしい仕草にずきんと下半身が疼く。
「竹井さん……どうしたの?」
 竹井の顔を見たくて、抱き付かれた腕を抜けてずりずりと這い上がった。
「ゆたか……」
 細められて潤んだ瞳が安佐を写す。
「竹井さん、もう嫌なの?」
「……」
 竹井がくっと唇を噛み締めた。
 きっと嫌なんだ。
 だけど、約束があるから、きっと嫌だとは絶対に言わないだろう。
 ごめんなさい。
 俺は竹井さんの思うとおりには動けません。
 今日だけは。
 安佐はそっと竹井の唇を塞いだ。噛み締められていた唇が解かれる。
 おずおずと竹井の腕が安佐の背に回された。
 安佐はそっと潤滑ゼリーのチューブを取り出した。
 竹井の腰に左手を回す。
「ん?」
 竹井が訝しげに眉をひそめた。
 ごめんね。
 ゼリーをたっぷり塗った手を竹井の後にあてがった。
「ひっ」
 竹井が慌てて安佐を押しのけようとした。
 しかし、安佐の躰が竹井の躰を押さえつけ、動くことは出来なかった。
「竹井さん……今日は……」
 耳元で囁いて耳朶を甘噛みする。
「あん」
 甘い声と同時に竹井の中に指を差し入れた。
「んっ」
 掴まれていた肩に爪が食い込む。
 その痛みに顔をしかめるが、それでも安佐はゆっくり解すように指を抜き差しした。
 きつい……。
 指一本でも簡単に出し入れできない。
 それ位竹井の躰が強ばって力が入っていた。
「竹井さん……こっち……こっちに意識を集中してよ」
 安佐が竹井の萎えていたモノを手でゆっくりと扱く。
「あ……ゆ……たか……」
 肩に食い込んでいた爪が緩み、同時に少しだけ締め付けられていた指が楽になった。
「はあ……」
 竹井が大きく息を吐く。
 それに合わせて指を奥まで入れた。
 確か、この辺り……。
 昔何かの本で読んだことのあるポイントを探す。
 もっと先かなあ……。
 安佐は少し解れてきたそこに指を増やした。
「あ、ああっ……やっ……」
 苦痛に歪められたその目尻から流れる涙に口付ける。
 ごめんね、ごめんね……。
 探るように、広げるように、指を動かす。
 同時に竹井のモノを扱いていく。苦痛に紛れてなかなか猛らないそれ。
 やっぱり無理なんだろうか……。
 それでも諦めきれなくて、痛みを伴うのを承知でさらに一本増やした。
「あくっ!」
 ぐっと竹井の爪が安佐の肩に食い込んだ。
「うっ」    
 その痛みに思わず声が漏れる。
 だが、竹井はそれに気付かない。ただ、指で広げられた部分の歯を食いしばって痛みに耐えている。
 安佐はぐいっと指を差し入れ、曲げた。
「んあっ!」
 びくんと大きく竹井の躰が跳ねた。
「ああっ……くう!」
 やっと見つけた。
 安佐の顔に笑みが浮かんだ。
 見る間に大きくなった竹井のモノをゆるく扱く。
 喘ぐ竹井の躰がぴくびくと反応するたびに、指が少しずつスムーズになる。
 解れたそこは熱く、内壁が指にまとわりつく。
 まだ少し早いかも知れない、とは思った。
 だけど、安佐の下で切なげに喘ぎながら朱に染まった躰を見るにつけ、刺激に耐えきれなくて漏れる嬌声が耳に入るにつけ……安佐にも限界が来ていた。
 それでもまだ竹井を警戒させないようにゆっくりと躰を起こす位はできた。
 貰ったコンドームを自身のモノに取り付ける。その間にも竹井を内部から刺激し続けていた。
 たっぷりとゼリーを塗りつけ、それを指が入っている場所に近づけた。
 ぐいっと竹井の足を高く掲げる。
「あ?」
 ふっと竹井が訝しげに安佐を見上げた。
 そんな竹井に安佐は微笑みかけた。
「竹井さん……ごめん」
 その言葉を竹井が理解できたかどうか。
 ずるっと指を引き抜くと、広がったままのそこへ一気に挿入した。
「うわっ!」
 逃げようとする躰を押さえつける。
 まだ完全には入っていなかったが、その表情からかなりの痛みを与えているのがわかった。
 こぼれ落ちる涙を舌で掬い取る。
「痛っ……駄目……」
 苦しそうに漏れる言葉。
 だけど聞いてあげることは出来ない。
「ね、竹井さん、俺、入っているんですよ」
「ばっかっ!」
 痛みに青ざめていた頬にさっと朱が走る。
 きつい位に締め付けるそこからは痛みすらあるけれど、だけどその熱さとまとわりつく感覚が安佐の胸をいっぱいにしていた。
 ゆっくりとだけど感じるであろう所を指できつく押さえ扱く。
「あ、ああっ」
 艶っぽい声に安佐は我慢できなかった。
 竹井の躰を押さえ、ぐいっと突き上げる。
「んっくうっ!」
 痛みに耐えてしがみつかれる躰を愛おしく抱きしめる。
 もう、理性なんてなかった。
 気持ちよさだけが脳を支配する。
 もっと深く、もっと激しく……。
 それだけが安佐の頭の中にあった。
「うわ……はあ……はあ……ああっ……」
 突き上げるたびに竹井の喉から喘ぎとも悲鳴とも付かない声が漏れる。
 深く抉るように動き、突き上げる。
 安佐の躰に押さえられた竹井のモノが昂ぶっているのが判っている。
「つっ……ああ……」
 漏らす悲鳴が痛みだけからのモノじゃないのが判る。
 だから安佐はもうただひたすら突き上げていた。
「た、けい……さん……」
「ゆたかっ!」
 竹井が解放を求めて安佐に縋り付く。
 その瞬間、安佐は竹井の奥深くでイッてしまった。
「んんっ」
 ぎゅっと竹井を抱きしめる。
 それが、竹井の限界をも超えさせた。
「んあっ!」
 躰の間に挟まれていた竹井のモノが弾ける。
 出された白濁した液が互いの躰を伝い流れ落ちた。
「竹井さん……」
 未だ入ったままの安佐のモノが締め付けられる。
 それに伴って、安佐のモノが再び膨張した。
「安佐っ!」
 体積を増やした存在に気付いた竹井が慌てて躰を押しのけようとする。
「嫌だ」
 それを払いのけて、再び躰の上にキスの雨を降らす。
「こっちこそ、嫌だ!」
 竹井が身を捩り逃げようとするがそのせいで体内のモノがさらに締め付けられた。
「んくっ……」
 駄目……止まらない。
 安佐は逃げようとする竹井の動きを使って、穿ったままの竹井の躰を俯せにした。
「あ、ばかっ」
 慌てて上へとずれようとする竹井を間一髪で押さえつける。
「言ったでしょう。今日は途中で絶対に止めないって……」
 背のくぼみに舌を這わせる。
 ここが弱いことは知っている。
 案の定、竹井さんの動きが止まった。
 微かに震える躰が内部を締め付け、さらに安佐を昂ぶらせる。
「安佐ぁ……もう……やめ」
 涙を浮かべる竹井に安佐は首をふる。
「ねえ、お願いですって、それに、ゆたかっ名前で呼んでって」
 ずずっと奥深くまで突き進む。
「あっ……はあ……」
「もっともっと竹井さんを感じていたいんです。やっと繋がれたのに……」
 一回目で馴染んだそこは痛みはかなり楽になっているようで、数回の抜き差しで竹井の口からは喘ぎ声しかでなくなった。
 ほんとうに……。
 安佐はニッと笑みを見せた。
 今日だけは、俺の思い通りにさせて貰いますから。
HATCHING 9

 怠い……。
 あまりの躰の怠さで目が覚めても起きようという気がしなかった。
 ごろんと寝返りを打つ。
 何かしたっけ……。
 安佐はぼーとした頭で考え、
「あっ」
 脳裏にはっきりと昨夜の行為が甦った。
 ああ、やっと竹井さんを抱けたんだあ。
 そう思うだけで、ほんわか幸せ満載の安佐であった。
「よいしょっと」
 怠くてもいつまでも寝ているわけには行かない。かけ声をかけて、その勢いで手をついて半身を起こす。
 ずり落ちた掛け布団の下は何も身につけていない。思わず見えそうになった下半身を隠し、辺りを見渡す。
「あれ……」
 隣にいる筈の竹井がいない。
 落ちた?
 狭いベッドなので、ついベッドの下を覗き込むが、落ちている形跡はなかった。
 どこに?
 もしかしてやりすぎたこと怒って……帰っちゃった?
 最後は一体どういう状態になったんだっけ?
 だが、その辺りの記憶がひどく曖昧だった。
 ……思い出せない?。
 不安になってベッドの下を睨んで唸っていると、
「何唸っている?」
 不機嫌極まりない声が台所の方から聞こえてきた。
「あ、そっちですか!」
 慌ててベッドから降りて……。
 がくりと膝が折れた。
「あれ?」
 力、入らない……何で?
 しかも頭がふらふらする。
「何やっているんだ?」
「竹井さんっ!」
 安佐は顔を上げ、恋しい人を見つけた。
 台所と隣室の間の壁にもたれてぐったりと座り込んでいる。
 その竹井がぎろっと安佐を睨み付けていた。
 その顔が青白い。眉間に深く刻まれた皺が苦痛に耐えているようで、安佐は息を飲んだ。
「あの……なんか俺力入らなくて……竹井さんは?」
 竹井の元に行きたくて、ベッドに手を付きなんとか立ち上がる。
 と、くらりと目眩がした。
「あ、れ?」
 バランスを失って、ドンとベッドに座り込んだ。
「どうしたんだ?」
 さすがに竹井の声が心配そうになる。
「な、んか……目眩……あ、そうか……」
「どうした?」
「腹減ったんだ。俺、晩飯食べてなかった……」
 その言葉に竹井が絶句した。すうっと目が細められる。
「竹井さんが来たとき、食べるのも億劫にな程疲れ切っていて休んでいたときだから、そのまま食べずにやっちゃったんですよ」
 気が付いたら猛烈に腹が空いてきた。
 だが、台所まで行かないと食べ物はない。
 いや、その前に服を着ないと……。
 自分の姿に気が付き、急に羞恥がこみ上げてきた。
 かろうじてベッドの下から自分の服を取り上げ、下を履く。シャツを羽織りながら竹井を見ると、その視線がひどくきつい。
 なんか……滅茶苦茶怒っている?
 ぞくりと背筋に寒気が走った。冷や汗が流れる。
「あ、の……竹井さん?」
 こちらが話しかけるのを待っていたかのように、竹井が爆発した。
「馬鹿かお前は!」
「あ、あの!」
「腹ぺこの状態であんな激しいことしたら、ぶっ倒れてもおかしくないだろうが!しかも、食べる元気もないほど疲れている奴があんなこと!」
 昨夜の行為を思い出したのか、それとも怒りのせいなのか……青白かった竹井の頬に赤みが差している。
「だって……せっかく竹井さんがして良いって言うのに、こんなこと逃すことなんてできませんよ?」
「そ、それは……」
 誘ったのが自分だと思い出したのか、竹井が口ごもる。
「しかしな……もう少しセーブしても……腹ぺこな癖に頑張りすぎるから、そんな力が入らないんだ……」
 えっと……もしかして俺の躰心配してくれているんだろうか?
 赤くなってぶつぶつ言っている竹井さんが妙に可愛い。
 ああ、もう何だか嬉しい。
 この人って。
 舞い上がっていた安佐だが、ふと竹井が時折顔をしかめるのに気が付く。
 それに随分と怠そうに壁にもたれている。
「竹井さんこそ、大丈夫なんですか?」
 さすがに心配になった。
 気をつけようとは思った。
 だが、限界まで昂ぶってしまった劣情を押さえきれなくてかなり無理理抱いてしまったような気がする。
 安佐はずるずると這うようにして竹井の側に近づいた。立ち上がると立ちくらみが起きそうな感じがあったから。
「俺のことはいいから、さっさと飯食べろって」
 竹井がそっぽを向いて、言い放つ。それを無視して近づくと、竹井の躰から石鹸の香りがした。
「風呂、入ったんですか?大変だったでしょう?」
「別に」
 尋ねるときつく否定された。しかし、肩が微かに震えている。
 座っているのにも辛そうだった。
「竹井さん、休んでいてください」
 ベッドに運んだ方が良いだろう。
 安佐はそう判断した。
 きっとシャワーを浴びただけで力つきてここに座り込んでいるんだ。
 だったら。
 安佐は竹井の躰に手をかけて抱き起こそうとした。
「くっ!」
 途端に竹井の口から堪えきれない苦痛の声が漏れた。
「す、すみません!」
 竹井の眉間に深い皺、その両目がきつく瞑られている。
「いい……」
 竹井がはあっと大きく息を吐いた。
「ちょっと無理に動いたから……ここでいい」
 先ほどまでの強い口調は微塵も感じられなかった。
 そのあまりに弱々しい竹井に安佐は息を飲む。
「痛い?俺、無理させすぎた?」
 覗き込むと顔を逸らされた。
「も、いいから……お前、何か食べろ……」
 あ、ああそうだった。
 こんなこと言い合いしている場合じゃなかった。
 早くエネルギーを補給して竹井さんを運ばないと……。
 と、安佐はよいしょっと立ち上がる。
「トーストと珈琲くらいですけど、竹井さん食べられます?」
「ああ」
 ため息と共にもたらされた返事に安佐は気力を奮い立たした。

 結局、竹井は安佐によってベッドに運ばれるとその日1日そこで過ごすことになった。
「馬鹿やろー」
 竹井はベッドの上でひたすら悪態をつく。
 安佐はそれを無視することも出来ずに何度目かのため息を気付かれないようにつく。
 うう、この人って、素直に応えてくれるようになったついでに、すっごい感情的にも素直になってないか?
「止めろって言ったのに!」
「だって、絶対に止めないって言っておいた筈です」
「馬鹿!限度ってモノがあるだろうが!」
「だって……」
「それは……俺が誘ったって事は認めるけど……だけどな!」
「だって」
 欲しくて欲しくて堪らなかった。
 こんなにこの人が愛おしいなんて思わなかった。
 今だって、怒っているせいで朱に染まった頬なのに、痛みで潤んだ瞳で睨まれているというのに、俺の心を鷲掴みにしてくれる。
 堪え性のない俺のモノがむくりと起きあがりかけるのを気を逸らして押さえ込む。
「もう、しない!」
 いきなり竹井がそう言い放つと俯せになって顔を枕に埋めた。
 無理に動いたせいで痛みが走ったのかくぐもった声が漏れる。
 だが、安佐はそれより何より発言された内容に愕然とした。
「し、しないって……それって」
「もう、しない!こんなの……しないっ!」
 げえっ!
 まずい、完璧に怒らしちまった。
「そんなの!だって、竹井さんだって感じていたじゃないですかあ」
「ばかっ!」
 竹井がはっと顔を上げ安佐を一睨みした途端、再び突っ伏した。
 その首筋が真っ赤に染まっている。
「あ、あの?」
 もしかして、俺、まずいこと言った?
「……しないったらしない!おまえなんかと、もっ、しないっ!」
 きっぱり、はっきり言い切られた。
「そんなあ……」
 頭を抱える。
 やっぱりやりすぎた?
 突っ走りすぎた?
 だけど、竹井さんだってすっごい嬉しそうだったじゃない!
 俺の背中、傷だらけなんですよ。
 俺にしがみついて、竹井さんからキスしてきて!
 だが、安佐はそれらの言葉を全て飲みこんだ。
「ごめんなさい、すみません、申し訳ありません、もうしませんから、竹井さ?ん!」
 考えつく限りのお詫びの言葉を連ねて訴える。俯いた竹井の躰を起こしたいが、それをやるともっと嫌われそうで手が出せない。
「竹井さんってば、ね。もうしないって言わないでくださいよお」
「うるさいっ!もうしないって決めた!」
 ひえー。
 これはまずい!
 どうしよー!
 安佐はどうしようかとおろおろと竹井を窺う。
 この人って、この人って……先が読めない!
「もう、無理しません。竹井さんが止めろって言ったら止めますから、だから、だから……しないなんて言わないでください!」
 もう、扱いづらい!
 何か子供みたい……。
 安佐ががっくりと頭を垂れていると、竹井がそれを横目で窺っていた。
「ほんとに……?約束できるか?」
 ぽつりと言われた言葉に安佐が慌てて顔を上げる。
「竹井さん?」
「約束だぞ。お前が言ったんだからな。守れよ」
「はいっ、もちろん!」
 喜んで応える。
「だったらいい」
「守ります、絶対!」
 嬉しくて、ほっとして……だから竹井の言葉を深く考えなかった。
 だから安佐は、後で思いっきり後悔することになる。
 そんな約束をしてしまったことに。
HATCHING 10

 手に入れた。
 手に入れることが出来た。
 だけど……だけど……。
 相変わらず不機嫌なんだよお?、竹井さん。
 安佐はがっくりとため息をつくと、眼下で安佐が作ったデータを確認している竹井を窺った。
 まだ体調が悪いのか、時折顔をしかめる。
 だが、それ以上にデータを見る竹井の顔が渋い。
「これ、少しバラツキが大きすぎないか?このままでは品質が受け入れてくれないかも知れない」
 ふうとため息が竹井の口から漏れる。
「そう、ですか……」
「そうだよ。ほら、ここの値なんか……」
 指さす値は安佐も気になっていたデータだった。
 しかも一番肝心要の特性値。
「少しは作るとき設定を変えられなかったのか?」
 そう言われても安佐は、「すみません」としか言いようがなかった。
 その装置に安佐は付くことが出来なかったのだから。
 ちらりと杉山を見ると、申し訳なさそうに安佐と視線を合わせてきた。
「かろうじて範囲に入っているけど、品質はこういう所のチェックは細かいから、誤魔化しようがない」
 品質イコール家城。
 安佐は頷くしかない。
 それにしても。
 躰の下で喘いで縋り付いてきた竹井は、一歩仕事に戻れば安佐にだけ不機嫌そうな相変わらずの態度。周りの他の人たちには、笑顔で接するのに安佐にだけは決してその笑顔を見せようとしない。
 うう……。
 前と一緒、どうして……。
 もっとも笑顔を見せようがない状況なのだから、そういう事を指摘されても竹井にしてみればしようがない。相変わらず安佐は竹井の足を引っ張り捲りであった。
「えっと、今日10時半から品質と打ち合わせなんですけど……やっぱ駄目なんでしょうか……」
「そっか……駄目と言えば駄目って言われそうな気がする。限界値ぎりぎりだからな」
 竹井のチェックは微に入り細に入っていた。
 そうか……ここまで細かいチェックをしているから家城さんも黙って受け取るんだ。
「安佐君、このデータ、次の生産で倍の数で取れる?それは、いつ?」
「今日の午後、試作予定です。倍数サンプリングするのは問題ありません」
「じゃあ、ちょっと大変だけど、きつい抜き取り検査をしてよ。それを今日とりあえず伝えといて。で、明日もう一度打ち合わせをするということで、品質を納得させてくれるかい」
「あ、はい。判りました……」
 あれ?
 今の言葉、何か変?
「あの、竹井さん?」
「何?」
「今日の品質の打ち合わせ、出られないんですか?」
「あ、あれ、言ってなかったっけ?俺、今日『データベース管理会議』とブッキングしているから、安佐君一人で行って欲しいだけど」
「ええっ!」
 それってそれって、俺一人であの家城さんと対決しろってことですかあ!
 竹井さんにキスした、あの人と……って違う!
 あの情け容赦ない品質の鬼とですか!
「竹井さん、駄目なんですかあ」
 思わず泣きつく。
 竹井さんが言っている事って、竹井さんがいるから通じる言い訳のような気がするから、俺一人でなんて……言い逃れできそうにない!
「大丈夫だよ。だいたいまだ一回目だろ。だいたいの状況報告みたいなものだから」
 ああ、見捨てないで欲しい。
「もう家城君には言ってあるから、よろしくな」
 冷たくきっぱり言われると、安佐としてもどうしようもない。
「判りました……」
 こそこそと引き下がる。
「あ、提出用のデータ作っておくから持っていってくれ」
「はい……」
 竹井さんって……冷たい……。
 もうため息も出なかった。

 打ち合わせ室に少し遅れてきた家城は安佐の向かいの席に座った。
「すまないな、遅れて」
 ちっともすまなそうにない台詞。
 ちょっと低めのその声は結構耳にすんなり入ってくる。気が付けば聞こえているという感じだ。だけど、気をつけないと大事なことを言われても聞き逃しそうだった。
「土曜日に一回目の試作をしたんだったな。そのデータは?」
 余計なことは一切言わないのは相変わらず。
 安佐は、手元の資料を一部家城に手渡した。
 竹井と同い年とは思えない落ち着き。
 そんな彼が、酔うと人が変わるという。だが、想像付かない。
 時折資料をめくるために動く指は細くて長い。機械を相手にしている安佐の指とは違い、竹井の指と似ていた。
 静かな時が流れる。
 だが、これはいつも安佐にとってはいたたまれない時間だった。
 審判を受ける前の犯罪者の心理にも似ている。だが、今日はそれだけではない感情も頭をもたげてくる。
 この人が竹井さんにキスをした。
 戯れだと言うが、それでもいい気はしない。しかも相手がいると知っての上での行為。
「何をそんなに睨んでいるんだ?」
 家城が、その切れ長の目を安佐の方へ向けて睨んできた。
「別にそんなつもりはありません」
 確かにそんなつもりはないのだが。だが、それでも先日の竹井の言葉が脳裏から離れない。
 だから自然にじっと家城を見つめてしまう。
 家城がふうと息を吐くと、開いていた資料をぱたんと戻した。
「何か言いたいことがありそうだな?」
 そのきつい視線が安佐を絡め取る。
 篠山と対峙している時とはまち別の緊張が走る。
 篠山の視線もきつく捕らえられるような感じがあったが、家城のはもっとがんじがらめになりそうな強さ。仕事の自信がある人は、みんなこんな視線を持っているのだろうか?
 安佐は思わず視線を机上の資料に向けた。
「別にありません」
 何を言えばいい?
 俺の竹井さんにちょっかいを出すな、と?
 安佐は、ふと浮かんだその考えを振り払った。
 そんな事を言って、それが竹井さんの耳に入ればどう取るだろう、あの人は?
「何でもないって顔ではないな。言いたいことは言った方が良いと思うが」
 そう言いながら家城は僅かに口の端が上げた。
 それが安佐を揶揄しているのが判ってしまって、安佐はムッとした。
 だから言うつもりのないことまで言ってしまう。
「竹井さんにキスしたそうですね」
「何だ、その事か」
 家城の表情は変わらない。しかし、安佐はその物言いにかちんと来た。
「竹井さん嫌がったのに、何でしたんですか?」
 家城を睨み付ける。
 が、対する家城は表情を変えずに安佐をちらりと見ると手元の資料に視線を向けた。
「別に。酔うとな、したいことをしてしまうんだ。それに理由など付けようがない」
 したいことをしてしまう?
 つまり竹井とキスしたいと思っていた。と家城は言っている。
「どうして、したいと思ったんですか?家城さんは竹井さんのことどう思っているんですか?」
「竹井君か……そうだな、面白い奴だよな。からかうと真面目に反応してくるし、楽しめる奴」
 真顔でそう言われて絶句する。
 思わず竹井が気の毒になった。
「あ、の……それだけ?」
「それだけだ。ああ、私があいつに恋愛感情を持っているとでも思ったか?」
 思わず頷くと、家城はくっと嗤った。
「あいつは、つき合っていて面白い。笹木君も滝本さんもな。それに私が酔って絡んでも、つき合いを止めようとは思ってくれない奇特な奴らだ。だから彼らは友達してつき合おうと思っている。せっかくのそういう奴らを、一時の恋愛感情などで失いたくないね」
 一時の恋愛感情?
 その台詞に引っかかりを感じたけれど、だがそれを追求できる雰囲気ではなかった。家城の次の台詞に顔が引きつる。
「だが、君も私の癖を知ってしまったらしいな。ということは、今度一緒につき合って貰おうか。これでも、酒は好きなんだが、なかなか一緒に飲む奴がいなくてな」
 にやりと嗤われ、安佐はぞくりと寒気が走った。
 こ、わ、い……。
 楽しい贄を見つけた。
 目がそう語っていた。
「え、遠慮します……」
 思わず及び腰になっている安佐に、家城はくくっと喉で嗤う。
「逃げられないよ、竹井君にちょっかい出されたくないんなら、君が私の相手をしてくれてもいいだろう」
 相手?
 相手って?
「あ、あの……」
「そうだな、とりあえずは明日の打ち合わせまでには、この資料を作り直して持ってくること」
 いきなりの方向転換に、安佐の頭がついていけなくて呆然としていた。
「このままでは受け入れられない。幾らなんでもこのバラツキは致命的だ。いくら竹井君が見栄え良く直していると言っても、肝心要のデータは誤魔化せないからな」
「はい」
 思わず頷いて受け取ってしまう。
 呆然と見つめる家城の表情はいつもの無表情で、先ほどまでの会話は片鱗にも感じられない。
「明日は、いつまでに出来る?」
「えっと、あの昼過ぎには」
「じゃあ、明日三時にしよう。それまでにデータをきちんとしたものをそろえること。それと竹井君は明日出られるのか?」
「え……聞いていません」
「そうか。じゃあ、君一人でいい。ちゃんと先にデータは持ってきておくように。会議中に読むのは時間の無駄だからな」
 そう言うと家城は立ち上がった。
 安佐もつられて立ち上がる。
 と、ドアノブに手をかけた家城がはたと止まった。
「竹井君な」
 まるで独り言のような言い方に危うく安佐は聞き逃すところだった。
「一見、何事にも真面目で一生懸命でこれでもかっていう位細かい仕事の仕方する癖に、妙なところで抜けている。周りの雰囲気に敏感ですぐ笑って、すぐ落ち込む。そして、本当の所は、我が儘なんだよな。すっごい扱いにくいのに、そんなあいつのどこが言い訳?」
 あまりに静かに言われたので、何を言われたのか理解するのにワンテンポ遅れた。
 どこがいい?って……。
 どこがいいんだろう……。
 真面目なところも、一生懸命なところも、細かい仕事の仕方も、抜けているところも、ついでに俺に対してはプライドが高くて……笑った顔なんて凄い素敵だと思うし……。
 黙っていると、家城はふと視線を安佐に向けた。
「答えられないのか?」
 きつい視線に答えないとまずいような気がして、安佐は口を開いた。
「いえ……たぶん、全部好きなんだと思います。つき合って、始めて知った面もあるけど、でも、それでも嫌だとは思えないです。俺は、竹井さんが好きです。その気持ちに変わりはない」
「ふん」
 家城は再度安佐を一瞥すると、そのまま何も言わずに部屋を出ていった。
 安佐は閉じられたドアを呆然と見つめていた。
 一体何だったんだろう……。
 家城の真意が理解できなくて、安佐はただ呆然と突っ立っていた。


 家城との打ち合わせが終わった途端、今度は篠山に捕まってしまった。
 事務所に帰る間もなく連れ込まれた打ち合わせ室で、先日のデータを見せられる。
「基本的な構成は問題ない。だが、思ったよりデータが悪くてな……」
 安佐は、そのデータを見ながら眉間にしわを寄せる。
 先ほどの家城とのミーティング内容がまだ頭の中で整理できていないところに持ってして別件のミーティングに入ってしまった。
 どうしよう。
 ああ、頭が沸騰しそうだ。
 だが、この人に弱みを見せるのもなあ……。
 安佐は努めて冷静に篠山に対応しようとした。
 少なくとも今まではそれが出来そうだった。
 と、途中篠山のPHSに連絡が入った。それを切ってからほどなくして、
 コンコン
 ノックに返事をする間もなく、ドアがかちりと開いた。
「ああ、すまないな。ごめん、安佐君ちょっと急ぎの用事らしいんだ」
「いえ、良いですけど……」
 入ってきた人を見て安佐は凍り付いた。
「これ、ね。急ぎだそうです。昼過ぎのミーティングで使いたいそうです」
 安佐に軽く会釈をしたその人は、開発の滝本……。
 この人って、あの笹木さんとつき合っている……って……。
「昼過ぎぃ?あいかわらず強引だな須藤さんは」
「というより、忘れていたようですけど」
 棘のある言い方で、開発部トップリーダーをこき下ろしている開発部第三リーダー達。
「滝本君は?もうできた?」
「まだです。さっき受け取ったばかりですからね。でも、このデータは作りかけていたいし。それより篠山さんこそ大丈夫なんですか?もうあんまり時間がないですけど、ミーティングしているし……どうせ出来ていないんでしょ」
 滝本にため息をつかれ、篠山は苦笑した。
「すまないな、安佐君」
 篠山は安佐に視線を移し、苦笑したまま言った。
「どうやら急ぎの用事はとっても緊急らしくて。先にこっちやりたいんで、ミーティングはまた後で……っていうのは?」
「あ、ああ大丈夫です」
 安佐は内心ほっとしていた。
 これで移管に専念できる。
 そう思ったのもつかの間、滝本が言った。
「そういえば、安佐君、竹井さんが探していたよ。家城君が帰ってきたのに、帰ってこないしPHSも繋がらないって」
「えっ」
 慌ててPHSを見る。
 しまった!
 家城さんのミーティングの時に、バイブモードにして忘れてた。
 しかも……バイブ気付かなかったら意味無いっ!
 慌てて竹井に電話をする。背後でくすりと滝本が笑みをこぼしていた。
「もしもし、安佐ですけど、捜されていたようですけど?」
『今、どこ?誰に聞いた?』
 ごく普通の声音にほっとする。
「今篠山さんとミーテイングしています。滝本さんが来られて、聞いたんですけど」
『ああ、そう、それで連絡がつかなかったのか。生産が今日の試作をどうするんだって連絡が入った。連絡してくれ』
「あ、はい、判りました」
 言った途端、ぶつっと切られた。
 やっぱ怒っている……。
「竹井君怒ってる?」
 滝本がくすくす笑いながら、聞いてくる。
「はあ、そんな感じです」
「大変だねえ、安佐君も……竹井君って扱いにくいだろう」
「ええ……ほんとに……」
 思わず口を滑らし、はっと掌で口を塞いだ。
 だが、時既に遅し……で、滝本が必死で声を押し殺しているのだが、苦しそうに腹を抱えている。
 それを篠山が不思議そうに見ていた。
「どうしたんだ?」
「何でも、ない、です」
 そう言いながらもくっくっと笑い続ける滝本。
「どうしたんだろう?」
 篠山が安佐に振ってくるが、そんなことは答えようがない。
 安佐は「さあ?」と首を傾げるしかなかった。
HATCHING 11

「ご苦労さんでした」
 安佐は、篠山のその言葉にほっとして、ぐったりと背もたれに躰を静めた。
 生産技術の事務所にわざわざ足を運んできた篠山は満面の笑みを浮かべて、安佐にそう話しかけた。
 それが何を指すかは、安佐は先刻承知であった。
「安佐君のお陰で、早期対応がとれてお客も満足している。なんとか次機種に採用されそうだよ」
 嬉しそうな篠山の言葉に、もうただ安堵するしかない安佐がいた。
 良かった……良かった……。
 これで、移管の方に専念できる。
 一週間。
 最初の試作を土曜日にして、最後の試作を水曜日に行った。その結果が即刻客先に送られた結果を篠山が報告しに来たのだ。
「これで、少しは時間が稼げるんですよね」
 安佐の机にもたれている篠山を見上げる。 
「そうだな。先日送ったサンプルはしばらくは客側の評価になるが、物自体に前とそう変わることはない。このまま、しばらくは様子見になるから、その間は少しはゆっくりできるんじゃないか」
「良かったです」
「ありがとう。また何かあったらよろしく頼むよ」
 ぽんと肩を叩き去っていく篠山に、安佐は苦笑いを浮かべた。
 何かあったらって、もう一つの移管の方もこの人の担当なのに……すっかり忘れているんじゃないか……。
 はあ……。
 それにしても、ほんとうに今週は忙しかった。
 仕事、仕事、仕事?
 仕事、装置、移管、改造、データ、サンプル?
 頭の中でずっとぐるぐると回り続ける単語。
 篠山側の装置は改造、サンプリング……そして移管側の試作、サンプリングにひたすらデータ取りと資料のまとめに終始してきたこの一週間。
 安佐は頭の中をフル回転させたため、金曜日の今日ともなるとすでに頭の中に真綿が詰まっているような状態だった。
 だから、篠山の言葉を聞いて、心底ほっとした。
 これで一つから解放された。
 後は、移管の方だけだ。
 とにかくこっちを何とかしないと竹井の機嫌が悪くてしようがない。
 何度家城と話をしたか判らない。
 一回わずか15分程度で終わるのだが、なかなかOKが出ない。
 良いか悪いか……その二つしかない品質との会話は不毛に近い状態に陥る。とにかく良くなければ引き取って貰えない。
 そのためのデータ取りは根気との勝負だった。
 そういう仕事は安佐の性には合っていない。
 疲れ切った頭を復活させるためにも、昼食をさっさと終わらせて残った時間に少しでも惰眠を貪ろうとしていたのだが、休憩室が一杯で休むどころではなかったのだ。仕方なく、事務所に戻ったら誰もいない。これ幸いと机に突っ伏してみたのだが……眠れるものではなかった。
「うー」
 そのまま唸っていると、誰かが背中をつんつんとつつく。
「は?い」
 誰だあっと顔を上げてみると竹井だった。
「疲れたのか?」
「え、いえ、大丈夫です!」
 あはは、と笑ってみせるが、竹井の渋い表情は相変わらずだった。
 はあ?、相変わらず。
 結局、この一週間竹井の笑った顔を見ていない。
 やっと成績の良いデータが取れて喜んで見せに行っても、ほっとしたような表情を見せてくれただけだった。
「なあ、明日はどうするんだ?出るのか?」
 休日出勤の事を言っているのは判っていたが、返事のしようがなくて黙り込んでしまう。
 試作は終わった。移管装置の改造も終わった。
 出る必要はないとは思うが、それを決めるのは竹井だ。
「安佐君?」
「え、あ、すみません。あの装置関連では出なくてもいいと……」
「そうか」
「竹井さんは?」
「俺は出ないで済みそうだよ。安佐君、頑張ってくれたから、その間に資料は全部揃えられたからね。それに昨日の試作で品質関連のデータも大丈夫だと思うよ。ほら、今日渡す資料」
 そう言って竹井が笑いながら、資料を手渡してくれた。
 え?
 今、竹井さん笑ってくれた?
 何か、嬉しい!
「もし出ないんだったら、明日つき合って欲しいんだが……」
「え?」
 ええ、これってデートのお誘い?
 何だか今日の竹井さんはもしかして機嫌いい?
「家城君がさ、飲みに行こうっていうんだけど俺一人だと嫌だし、で、誤魔化そうと思って安佐君と約束があるからって言ったら、一緒に連れて来いってうるさくて……。」
「行きます!」
 まずいって、竹井さん一人で行かせるなんて絶対まずい。
 あの人って、ほんと何考えているか判らないことにかけては竹井さん以上だと思うし……。
「いいのか?断ってもいいんだけど……」
 申し訳なさそうな表情の竹井に安佐は問うてみる。
「断れるんですか?」
「……いや……」
 そうだろうな。
 安佐は、にっこりと笑みを浮かべた。
「行きますよ。竹井さん一人で行かせられるもんですか」
 そう言うと、竹井はそっぽを向いてぽつりと呟いた。
「馬鹿……」
 微かに聞こえたその声。そこにいるのは頬を染め照れた表情を必死で隠そうとしている竹井だった。

「よし、OKだ」
 家城のその言葉を聞いたとき、安佐はただ呆然と家城を見ていた。
 OK?
 本当に?
 疑心暗鬼にかられて、思わず資料を見る。
 そういえば先ほどこの資料を竹井に渡されたとき、もう大丈夫だよって言われたような気がする。
「どうした。まだ何か気になるところでもあるのか?」
「いえいえ、とんでもありません」
 慌てて否定する。
 でも驚いた。
 確かにそろそろ大丈夫じゃないかとは思っていた。だけど、ただ単にデータが良いだけだったらしい先日は、簡単に却下されていたし……。
 だから、今日こんなに簡単にOK貰えるとは思わなかった。
 開発も片づいて、移管も片づく。まあ、正確には、移管はまだ移管会議というので正式に移管決定の可否判決を受けなければならないのだが、品質の許可を得れば、後はそう問題はない。
 こんなラッキーな日ってあるかい?
 一気に何もかもが片づく。
「まあ、竹井君のお陰だと思うんだね。昨日のデータは君がまとめたんだろう。ちょっと見たらすぐに判ったよ」
 確かに、昨日のデータは竹井に頼む時間がなくて安佐がまとめたものだったが、それをこうも簡単に見抜かれていたとはショックだった。
 竹井のフォーマットに沿ってデータを整理したはずなのに……。
 だが、結局昨日は駄目で、今日はOKだった。
「どこが違うんです?」
 だから聞いてみた。
 OKが出たことで、少し気持ちが大胆になっていた。
「簡単だ。桁の取り方、丸め方、数値の計算ミス……どうして同じフォーマットを使って、あそこまでミスるんだ?見直していないのがはっきりと判る」
 ……。
 安佐は言葉も出ない。
 確かに後で突き返されてゆっくりと見たら、何カ所がミスがあった。
 こ、細かいや……でも、細かいから品質の鬼。
 その鬼に認められている竹井さんって……ほんと、凄いって思う。
「一ヶ月で移管できたのは竹井君のお陰なんだから、肝に銘じておくんだな」
 揶揄しているような声音にムッとしたが、言っていることその通りだと理解できるので黙っていた。
「ところで、明日飲みに来るんだろ」
「はい、竹井さん一人で行かせるわけには行きませんから」
 きっぱり言い切ると、家城は口の端を上げて応えた。
「私達の仲に割り込むんだ、それなりの覚悟をしてくることだ」
「え?」
 どういうことなのか?
 問いかけようとしたが、家城はさっさと手元の資料を片付けると立ち上がる。
「明日、遅れないようにな」
 そう言うと、さっさと出ていった。
 明日……なんだか不安になってきた。

 えーと……。
 安佐は、指定された店で案内された座敷の入り口で竹井の両脇を固めている人物達を視認した途端、その場に固まってしまった。
 何で……。
 楽しそうに談笑していた人達が安佐を一斉に見ている。
 竹井を中心に、笹木、家城、滝本……。どうして全員揃っているんだ?
 だいたい笹木さんって東京だろ。先週来て、今週も来ているってのは……。
 呆然と突っ立っていたが、いつまでもそうしている訳にはいかない。
 安佐は覚悟を決めて、4人の元に近寄った。
「こんばんわ……」
 おずおずと声をかける。
「あ、ああ、今日の主賓の到着だ」
 家城の言葉に、安佐はぴくりと顔が引きつった。
 主賓って……。
 竹井の方を見ると、困ったように苦笑を浮かべていた。
 もしかして、謀られた?
「竹井さん……」
「俺も、笹木君達に逢うまで知らなかったんだ」
 竹井がすまなそうに言うが、もうここまで来ているからどうしようもない。
 忘年会シーズンで、あちこちの部屋から賑やかな声が聞こえてくる。
「笹木君は初めてだろ。顔くらいは見たことがあるかも知れないが」
「あの、初めまして……」
 安佐はぺこりとお辞儀をした。安佐にしてみれば、この4人は有名人でよく知っているが、相手が安佐を知っているかということになるとそれは普通だったら知らないだろうという部類にしかいない。特に笹木とは話をしたことがない。
「こちらこそ、初めまして、今日は逢えて嬉しいです」
 にっこり微笑む笹木は男の目から見ても綺麗で、引き込まれるような笑顔を作る人だった。
「あの……先日はどうも」
 例の品々の事を一応礼を言うと、
「ああ、役に立ったかな」
 と、切り替えされた。
 って……なんて答えれば良いんだあ!
 思わず顔が熱くなっているのをどうしよう、と狼狽えていたら、向こうで、竹井が睨んでいる。
 まず……。
 そのまま口を噤むしかない。
 笹木はくすりと笑うと……これがまた、いい笑い方で……、安佐のコップにビールを注いでくれた。
 機嫌の悪くなったはずの竹井は、滝本と話を始めるとにこにこと楽しそうに会話をしている。
 あ、いいなあ……あっちに行きたい。
 とは思うのだが、両脇を笹木と家城にがっちり固められて動きようがない。
 竹井へと視線を向けても、向こうは向こうでどうやら滝本に動きを封じられているようだ。
「ほら、飲みなさい」
 家城に言われてビールを突き出されたら、飲むしかない。
 何せ、一番下っ端だ。逆らいようがない。
 何か言われるのかと警戒していたら、何のことはない世間話や仕事の話で終始していた。
 特に笹木は話し上手で、緊張していた安佐の気分を上手に解してくれる。
 いい加減、酔いも回ってきた頃に、竹井がやっとこちらにやってきた。
 その顔が赤く、目尻までも染まっている。
「竹井さん……大丈夫ですか?」
「ああ……」
 ぐてっと座り込む竹井の目が座っている。
 あれ……竹井さん、もう酔っぱらっている。
 なぜなら竹井が何の遠慮もなく安佐にもたれかかってきたのだ。
「た、竹井さん、一体何杯飲んだんですか?」
「さあ……滝本さんに聞いてよ」
 力の無い声が竹井の口から漏れる。
 思わず滝本の方に視線を向けると、滝本は困ったように視線を家城に向けた。
「竹井君が本音を話すようになる分量だよ。そろそろかな。こいつは酒に弱いから。それ以上飲むと、後で困るし。まあ、体調によって変わるけど」
 品質らしく実際例で示されると、思わず納得してしまった。
 じゃなくて、何でそんなに飲ませるんだ?
「君も本音で話す量ってのを知りたいな。まだなのかい?」
 そう言いながら安佐を見る家城の目は観察しているかのように鋭い。
「俺はそんなの知りませんよ」
 だが、実際には結構酔いが回っていた。
「くく。そうかな?」
 楽しそうな声音の家城。
 警戒信号が頭の中を駆けめぐる。どう見ても会社での家城と違っていた。
 だがそれでも、家城が竹井の耳元で囁いたとき、安佐は耳を疑った。
「竹井君、私が安佐君とキスしたいって言ったらどうする」
「なっ!」
 まさか!
 本気じゃないよな……。
「家城君が安佐君とお……何で?」
 竹井がもたれていた安佐から躰を起こし、じっと家城を見る。
「気に入ったから」
「どこが?」
 この二人……。
 竹井と家城の顔が思ったより真剣で、安佐は息を飲んだ。
 竹井が何て答えるだろう……。
 それだけが頭の中にあった。
「可愛いだろ、一生懸命なくせにぼけてるとこがあるし」
 家城の最後の言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
 どうせ、どうせ……ぼけてますよ
 そんな3人の様子を、笹木と滝本が心配そうに眺めていた。
「大丈夫かな」
「大丈夫だよ、家城君だから、さ」
「そうだね」
 だが、安佐の耳にはその会話は入っていない。
「いいだろ、キスくらいしたって」
「家城君はキスが好きなのか?この前、俺にもしたろ」
「ああ、おいしく頂きました」
 その言葉に安佐の眉がしかめられる。
 それにだいたい何故本人を無視して会話が進められているのか?
「ならいいよ」
「えっ!」
 思わず安佐は竹井の両肩を掴んでこちらを向かせた。
「竹井さん、何で!」
「えー、だって、安佐君もキス好きじゃない。隙あらばキスしようって狙っているしさ、家城君もキスが好きなら、すればいいじゃない」
 って、ちょっと待ってぇ!
 これが竹井さんの本音?
 俺とキスするの嫌?
 俺が家城さんとキスしてもいいって?
「竹井さん……酔ってますよね。ね、だから、そんな事言うんですよね」
「酔ってないって」
「酔ってます」
 どこか焦点が合っていない竹井は、安佐の言葉などどこ吹く風……。
「さて、竹井君のお許しも出た事だし、安佐君、キスしましょう」
 じりっとずり寄ってくる家城。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ、家城さん本気ですか?」
「本気」
 何てこった。
 家城はにこりともしない。整った顔立ちに冷たい視線……真面目な顔で迫られる事がこんなに怖いとは思わなかった。
 安佐は後ろ手を付いて後ずさるが、覆い被さるように家城が近づいてくる。
 竹井は、そんな二人をぼーとした顔で眺めていた。
「止めてくださいって」
「諦めが悪いな……おい、黙ってさせろ。そしたら後でいい目が見れるかも知れないぞ」
「は、あ?」
 何の事だ?
 言われた意味を考えていて、一瞬動きが止まった。
 それを家城は見逃さなかった。
 すっと伸びた手が安佐のシャツの襟元を掴むとぐいっと引き寄せた。バランスを崩して、ぐらついた躰を抱えられた。
「やめっ」
 止めようとした手を払われ、制止の言葉は家城の口の中に吸い込まれた。
 驚きに目を見開いたままで目前の家城を見つめる。
 ぐらりと躰が傾いた。
 安定を失って思わず手近にあった家城の躰にしがみついた。だがそのままどさりと背が畳に触れた。
 家城が安佐の両手首を掴み、畳に押しつける。その力は予想外に強くて、身動きも出来ずに、ただ唇を貪られた。唇内に押し込まれた舌は、それでも歯を食いしばって侵入させない。
 い、やだ……。
 感じることは全くなかった。ただ、情けなくて早く終わって欲しいと、それだけを願っていた。
 ふと、視野の端に竹井の姿が映った。
 竹井さん……見てる?
 嫌だ!
 ぐっと目を瞑った。
 こんな情けない姿見られたくない!
「……止めろ……」
 暗くなった世界に静かな声が聞こえた。
「離せ!」
 竹井さん?
「由隆(ゆたか)を離せ!」
 ふっと躰の上の重さが消えた。
 それと同時に目を見開くと、竹井が家城を押しのけようとしていた。
「竹井さん……」
 呆然と呟く。
「何だ、お前がして良いっていったんだぞ」
「由隆は俺の者だ。俺以外の奴とキスするなんて許さない」
 安佐は畳の上に寝っ転がったまま、呆然とその様子を眺める。
 竹井さんが由隆と呼んでくれている。
 しかも、俺の者って……。
「相変わらず我が儘だな、お前は……」
 苦笑気味の言葉が家城の口から漏れる。
「それで、お前なら安佐君とキスしてもいいんだな」
「そうだ」
「ならして見ろよ」
 げっ!
 慌てて安佐が跳ね起きようとした。
 ところが今度は今まで様子見だった滝本と笹木が安佐の両肩をそれぞれ押さえつけた。
「ち、ちょっと!」
「まあ、もう少しね」
「我慢してよ。せっかく竹井君の本音が見られるんだから、さ」
 くすりと頭上で笑われて、安佐はマジで贄になった気分だった。
 ただ、滝本も笹木もひどく優しそうな色をその瞳に浮かべていた。だからか、おとなしく従おうという気になる。
 ふと気が付くと、目前に竹井の顔があった。それがゆっくりと降りてくる。
 安佐の両肩にあった重さがふっと消えた。
 だから手を伸ばして竹井の首に回し、そっと引き寄せた。
 柔らかい唇が触れてくる。
 ああ、竹井さんのだ。
 躊躇いもなく竹井の舌が入ってくる。
 安佐はそれを受け止め自らの舌を絡ませた。それだけで、甘い刺激が走る。
 家城のキスとは全く違った甘美なキス。 
 絡めた腕に力を込める。
 これが、竹井さんの本音……。
 俺を求めてくれる……。

 ボカッ
「てっ」
「うっ」
 幸せな気分で一杯の頭を誰かが拳骨で叩いた。
 安佐は思わず竹井から腕を離し頭を押さえる。竹井も重ねていた上半身を起こし、頭を抱えた。
「いつまでひっついているんだ。こんな所で」
 呆れたように言葉を吐いたのは、家城。
 その言葉に慌てて躰を起こすと、家城達がにやにやと二人を眺めていた。
「うっ!」
 途端に安佐も竹井も顔が沸騰した。
 真っ赤になった二人に、家城が押し殺した声で嗤う。
「これからが楽しみ……」
 そんな声が漏れ聞こえた。
 その背後で笹木と滝本がほっとしたように顔を見合わせている。
 も、もしかして……自分たちがターゲットにならないように俺達を犠牲にした?
 思わず二人を睨むと、滝本が申し訳なさそうな表情でそれでも苦笑いをしていた。
 と、後ろでつんつんと竹井が服を引っ張った。
「え?」
「安佐君、とりあえず帰ろう」
 小さな声で囁かれて、思わず後ろを振り向いた。
 朱に染まった頬に潤んだ瞳が安佐を見ていて、安佐はずきんと下半身が昂ぶるのを感じる。
「行くぞ」
 そう言うと竹井はさっさと立ち上がった。素早く自分の荷物を手に取ると脱兎の如く座敷を出ていった。
 それがあまりにも素早かったので、置いて行かれたような状態の安佐。
「待ってください!」
 慌てて後を追いかける。
「すみません、お先に!あ、お金!」
 会計の事が気になって慌ててお金を出そうとしたが、笹木に制止された。
「いいよ。奢りだから。それより早く追いかけないとまた機嫌が悪くなるよ」
 苦笑いを浮かべつつ言われて、安佐はぺこんとお辞儀をすると、急いで店を出た。が、既に竹井の姿はない。
 げー。
 どこ行った?
 店の外は忘年会で賑わっているせいか人が多い。
 きょろきょろ辺りを見回していると、後ろからがしっと腕を掴まれた。
「遅いっ!」
 竹井がぐいっと安佐を掴んだまま歩き出す。
「竹井さん……どこへ?」
 その横顔が、先ほどの余韻のせいで潤んだ瞳がネオンで照らされて妙に色っぽい。
 掴まれた腕から全身に甘い疼きが走る。
「どこでもいい」
 竹井の口からぽつりと言葉が漏れた。
「で、でも……」
 どこでもいいと行っている割には、竹井は安佐を掴んだままずんずんと歩いていった。
「竹井さんってば」
 引き留めようとするが、きつい視線で睨まれて言葉を失う。
 一体どこへ……。
 結局竹井が足を止めたのは繁華街の外れにある人気のない児童公園だった。
「あの……竹井さん」
「ごめんな」
 いきなり謝ってきた竹井に安佐は言葉を失う。
「俺、よくああやって家城君にからかわれるんだ。今日も、笹木君達が来ているの見た時点で家城君が何か企んでいるとは思ったんだけど、携帯取られて連絡しようがなくて、ね」
 安佐と視線を合わせないままに竹井はぽつぽつと話す。
「家城君がキスしたいって言った時、俺がこの前されたんだから、安佐君もされてみるのもいいかなって、ちょっと悪戯心が湧いてさ、いいって言ったんだけど……」
 安佐は黙ってそれを聞いていた。ただ、その目はずっと竹井を追っていた。
「だけど、本当に家城君が安佐君にキスしたら……俺、頭の中真っ白になって……俺、あの時……」
 俯いてしまった竹井。
 街頭に照らされたその横顔はうっすらとピンク色。
 安佐はその頬に誘われるように指を当てた。
 ぴくりと顔を上げた竹井の頬から顎にかけてそっと指でなぞる。
「安佐君……俺……」
「何?」
 指を顎に当てたまま、にっこりと笑いかける。
 聞きたかった。
 竹井の本心を。
 こんな時でないと言ってくれそうになかったから。
 竹井の口から白い息が漏れる。
「あ…さ…くん……」
「言って欲しいです。ね、竹井さん」
 それでも、言うのを躊躇っている竹井の唇に軽くキスして離れる。
 見開かれたその瞳を覗き込み、再度笑いかける。
「ね、竹井さん」
「……俺……嫌だった。取られたくなかった。だから、キスした……」
 ああ、やっぱり。
 だけど、もう一つ言って欲しい言葉がある。
 あの時以来、出張の日以来聞いていない言葉。
「どうして?どうして嫌だった?」
「それは……」
 俯きそうになる竹井を無理に上向かせる。
 俺の目を見て欲しくて。
「教えて、竹井さん……」
 竹井の視線が躊躇うように中空を舞う。
 だが、ふっと竹井が目を瞑った。
 そして口を開く。
「安佐君が……由隆が好きだから……俺は家城君に嫉妬した……」
 よく言えました。
 そう言いたかったけど、言えなくて……そのかわりに安佐はそっと竹井に口付けた。
 開いている方の手を竹井の腰に回して引き寄せる。
 本当に……。
 うっとりと竹井の唇を味わいながら安佐は、それでも内心の苦笑を押さえきれない。
 こうまでしないと本心を聞けないこの人って……家城さん達の言い分を肯定したい訳じゃないけど……。
 きっと、これからも大変なんだろうなあ……。


                   ***

「ねえねえ、竹井さん、いいでしょ?」
「馬鹿ヤロー、さっさと自分んちへ帰れ!」
「そんなあ……」
 ばたんと目前で閉められたドアの前で安佐は唸るしかなかった。
 ああ……いいムードだったのに。
 寒風吹きすさぶ中にいた竹井は、アルコールが飛んでしまっていて……部屋に帰り着く頃にはいつもの竹井に戻ってしまっていた。

?????????????????????????CROSS HATCHING Fin.
おまけ
こんなところで終わって安佐君がかわいそーっていう意見がありましたので……おまけです。
??????????????????????????????

 部屋に入った竹井は、冷蔵庫から取り出したお茶をがぶ飲みした。
 理性が戻ってきた頭の中には、はっきりと座敷でみんなの前で安佐とキスしたこと、その後公園で、安佐に好きだと言ったことがはっきりと残っている。
 一度こびりついた記憶は容易に消えてくれなくて、タクシーの中で安佐の躰が触れる度に、心臓が高鳴り、紅潮した顔は一向に収まらなかった。
「くそっ、家城君は!」
 がんとペットボトルをテーブルの上に置く。ファンヒーターのスイッチを入れると、ずるずると柱にもたれながら座り込んだ。
 真っ赤に紅潮した顔の火照りは、少々の水分補給では収まりそうになかった。
 家城は、いつも竹井の本音が聞きたいと酒を飲ませる。
 しかも、その飲ませ方は巧妙で、気をつけていてもちょうどいい案配の分量を飲ませるのだ。
 今日のターゲットは安佐だろうと踏んでいた。
 申し訳ないとは思ったが……、それでも家城のターゲットが逸れるのは嬉しかったので、そのままにした。
 うう、しかし、滝本さんまで関わっていたとは。
 想像してしかるべきだった。
 穏和で人をはめそうにない滝本さんに注がれて、ついつい飲んでしまい……。
 このていたらく……
 ったく……。
 理性が戻ってきたのは帰りのタクシーの中だった。
 ふっと自分が何をしたのか、はっきりと気がつき……途端に紅潮した顔は、一向に収まらなかった。
 こんな顔をこれ以上安佐に見られたくなくて、この寒空の中、安佐をドアの外に追い出した。
 帰れと言った……。
 安佐君は……期待しているのだろうか?
 公園でのあんなシチュエーション……期待するなと言う方が無理だろうなあ……普通の男だったら、自分でもそうするだろうと思う。
 だけど……俺も男だから、そう思うにしても……でも、その、やっぱ、無理だよなあ。あいつを受け入れるの……。
 だって、あいつ、無茶だから。
 先週……止めろって言ったのに、止めてくれなくて……それはまあ、最初にそう宣言されていたけど、だけど、あの後は本当につらかった。
 それは、まあ、最中は……良かった、けど……。
 先週の事を思い出すと、かっと顔が熱くなった。自分が昂ぶってくるのを自覚してしまう。
 ほおっと一息つくと、自分の掌を頬に当てた。その冷たさが心地よい。
「馬鹿ヤロ様なんだよ、あいつは……」
 自分が安佐を求めているのは知っているが、それを受け入れたくなくて、その両方の想いが頭の中で葛藤する。結局自分気持ちが整理できなくて、つい安佐に責任転嫁してしまう。
 だから、ずっと安佐には笑いかけることができなかった。
 竹井の笑う顔が好きだと言ったから。
 だから……笑うことがなんだか躊躇われた。
 俺って……マジでどうしようもない奴だよな。
 我が儘で身勝手で……俺なんか、どうせ……。
 なんだか落ち込んでしまうのを止めようがない。
 こんな、我が儘な俺が好きになったあいつが悪いんだから、放っといたって勝手に帰るだろ、ガキじゃないんだし……。
 帰る……よな。
 でも……。
 追い出したときの安佐の悲しそうな顔が思い出される。
「まさかな……」
 ふっと玄関の方を窺う。
 もう、帰ったよな……。
 あれから10分は経っている。歩いても30分とかからない。
 それでも。
 竹井は何かに憑かれたように立ち上がり、玄関へと向かった。
 もう、いないよな……。
 だけど。
 心の中にある期待。
 カチャリ
 ゆっくりとドアを開ける。
「安佐君……」
 そこには、寒そうに背を曲げて風を除けている安佐の姿があった。
 いたんだ……。
「あ、あの……」
 何かを言いかけて口ごもる安佐に、竹井は思わず潤んでしまった目を見せたくなくて、そっぽを向く。
「帰れって言っただろう」
 言いたい事とは反対の言葉が漏れる。
「すみません……その、ちょっと頭を冷やしてから帰ろうかなって……」
 はははと乾いた笑い。
 馬鹿か、こいつは。
 だけど、その笑い声ですら胸に響く。
「入れよ。風邪ひいたら、仕事に差し支えるだろうが」
 ムッとしている自分が抑えられない。
 どうして、俺って……。
「いえ、あの……もう帰りますから。すみません、ご迷惑をおかけして……」
 安佐が慌てて竹井に頭を下げると、廊下を去っていこうとした。
 行ってしまう……。
 こいつは!
「入れって言っているのに」
 思わず発した言葉が震えているのに気づき、はっと口を閉じる。
 安佐がゆっくりと振り向いた。
「竹井さん?」
 気付かれた!
 竹井は、すっと一歩退いた。
 同時に閉まりかけるドア。それを駆け寄った安佐が、かろうじて止めた。
「竹井さん……」
 入ってきた安佐の背後で、再び閉まるドア。
 戻ってきた安佐に、安心している自分がいる。
 安佐の腕が竹井の躰に回された。
 冷たい躰に熱を奪われる。ぶるっと身震いすると、安佐がさらに強く抱きしめる。
「泣かないで……」
 囁かれた言葉に、竹井は自分が涙を流していることに気がついた。
「泣いてなんか」
 それでも反論しようとする自分に、心の片隅のどこかでいい加減嫌気がさしてきている自分がいる。
 どうして素直になれないんだろう。
 こんなにもほっとしている自分がいるのに。
「冷たいな……冷え切っている」
 安佐の躰からは、冷たくなった体温がひしひしと伝わってくる。
「竹井さんが暖かくて気持ちいいです。このまま、しばらくこうしていたいです」
 嫌だと言えば、こいつは離すだろうか。
 だが、そんな事をいう気は毛頭なかった。
 竹井自身、火照った躰にその冷たさが気持ちよかったから。
「安佐君……すまなかったな。追い出して……」
「謝らないでください。だって、こうして出てきてくれたから。しかも俺がいたことに泣いてくれるんだから……こんな嬉しいことってないでしょう」
 いつだって安佐は優しくて、俺を翻弄する。
 竹井はほうっと息をついた。
 俺って何を意地を張っているのだろうか。
 もう少し、素直になればもっと幸せを享受できるのだろうか。
 だが。
 それは無理な相談だと、判っている。
「なあ、向こうの部屋、ファンヒーターつけてるから、あっちに行こう」
「あ、寒いですか?そうですね」
 するりと離れた腕、つい名残惜しそうに見つめてしまう。
 もう自分が止められない……。
 先に部屋に入った安佐が、暖かいなと呟いてコートを脱ぐ。その背中から竹井は腕を回した。
 密着した躰から明らかな動揺が伝わる。
「た、竹井さん!」
 首を回して背後を窺う安佐の目から逃れるように竹井は俯いた顔を肩に押しつけた。
「……俺みたいなのにそんなに優しくするな。答えられないのに……」
 その言葉に安佐の動きが止まる。
 沈黙の中で、竹井は自分の心臓の音だけを聞いていた。
 高く、激しく鳴り響く心臓。
 安佐が胸に回されていた竹井の手をそっと取った。その手を口元に運ぶと、そっと口付けた。
 そこから、甘い痺れが走り、竹井は思わず目を瞑って耐えた。
「それが竹井さんだから、俺は気にしません。俺は優しくないですよ。いつだって、竹井さんを自分のものにしたくてうずうずしている」
 安佐の舌がぺろっと指を舐めた。
 その柔らかい感触に引っ込めようとした手は、きつく固定されていて動かない。
「こんな事されると、俺、歯止めが利かなくなる……また酷いことしてしまう……」
 指の一本一本を丁寧に舌を這わせてくる安佐に、竹井はもう一方の手をきつく握り締めた。
 漏れそうになる声を必死で耐える。
 ふわっと指が暖かい物に包まれた。
 途端、指先から背筋を通って激しい疼きが走った。
「くふっ」
 思わず声が漏れる。
 膝から力が抜けそうになって安佐にもたれかかった。
 はあっと吐き出す息が熱い。
「竹井さん……お願いです。したくなかったら……離れてください。でないと俺……止まらない……」
 掠れた声が耳朶を打つ。
 離れる……。
 今、安佐から?
 そんな事……できない……。
 だから竹井は、安佐に回した腕に力を込めることでそれに答えた。
 俺……きっとまだ酔っぱらっているんだ。だから、こんなことできる……。
 安佐が大きく息を吐いた。
 その音に顔を上げる。
「竹井さん!」
 熱のこもった声で呼びかけられ、ぐいっと引っ張られた。
 安佐の前に引っ張り出されそのまま抱きしめられる。
「もう、駄目ですよ……逃げないでください!」
 逃げる……逃げるつもりなんかない。
 だから。
 見上げた安佐の顔に自ら唇を押しつけた。
 今日は……いいよ……。
 その言葉と共に。


【了】