【A CROSS SECTION】

【A CROSS SECTION】

『CAD』
???製図をするコンピューターあるいはソフト
   マウスあるいはペンタブレットで作業を行う
   computer-aided design の略???


 図面を書いてくれと頼まれるのはいつものことだった。
 図面や作業手順書を規定のフォーマットに作り上げるのが最近の仕事の大半を占めるようになった。
 文書を作るのも、CADを操作するのも嫌いではないので、別にその仕事に文句はない。
 が、
 こいつの仕事だけは別だ。
 竹井拓也(たけい たくや)は、CADの横に立っているその男をちらりと横目で見、再びスクリーンに視線を移した。
 マウスを操作し、下書き線を縦と横に入れる。
「お願いします」
 机の上に置かれた図面とMO。
 視界の端に写るそれらを確認し、気付かれないように眉をひそめた。
 嫌な予感がする。
「これは?」
 ようやく、スクリーンから目を離した竹井は、傍らに立っている男を見上げた。
 立って並んでいても見上げなくてはならない高い上背を持つその男は、去年入った後輩だった。
 名を、安佐由隆(あさ ゆたか)。竹井が所属する生産技術課第二チームの将来有望と噂されるプロセスエンジニア。
「だいたいは作れているんです。後発行と承認手続きの方を」
 そう言って、にこにことしている
 竹井はため息をつくと、
「わかった」
と一言返答した。
「詳しいことはメールで送ります。あと、手順書の修正もお願いしますね」
「はいはい」
 ため息を隠すのに一苦労しながら、安佐に手を降った。
 竹井は安佐が去っていくのを確認してから、おもむろにMOを取り上げた。
 書き始めたばかりの図面を保存し、スクリーンを全削除する。
 MOを入れ、ファイル一覧から目的のモノであろうファイルを開く。
「……」
 やっぱり……。
 竹井は、露骨に顔をしかめた。
 確かに図面は出来ていた。
 だが、このままでは発行することができない。
 必要な項目が抜けているし、寸法にも足りないところがある。それになんとなくおかしい所が多々あって……。
 それがざっと10枚以上ある。
「これを俺にやらせるのか……」
 うんざりと竹井は呟いた。
 こんなことなら最初から手書きの図面だけくれた方がやりやすい。
 他人がやったCADは何が何だか判らないところがあったりして直すのに手間取る。
 安佐は確かに腕の良いプロセスエンジニアだとは竹井も認めている。図面や文書処理しか能のない自分からしてみれば、羨ましい限りだ。
 だが、安佐は文書処理能力が欠けている。
 竹井に言わせてみ見れば、出来る癖に雑で肝心なところが抜けている。
 今日持ってきた図面も、そういうミスが多々あった。
「ああ、メール……」
 メールがどうのこうのと言っていたのを思い出した。
 仕方なくCADを最小化し、社内メールを開く。
 新規メッセージの表示が出、タイトル一覧から「YUTAKA ASA」を選び出してクリックした。
「あんの、馬鹿」
 メッセージに一通り目を通した竹井は、思わず呟いた。
 水曜日までにお願いしますという内容……。
 今日は金曜日。
 土日は休み。
 残り3日。
 それで10枚……他の仕事がなければなんとかなる。
 しかし、竹井の仕事はそれだけではない。
 特に月曜日は本来の仕事の手順書と工程カード作成という事務処理が大量発生するのだ。
 月曜に出来ないとなると、残り二日。
 竹井は思わずメールの返信ボタンをクリックした。
『この量では水曜日までに発行することは出来ません。
 規定のフォーマットに足りない部分を入れるとレイアウトも狂ってしまいます。その辺りを作り直すと、かなり時間がかかります。こういうことはもう少し早く言ってきてください。
 それに前回発行依頼を受けた図面を渡していますが、未だに承認経路を回っていないようです。そのあたりはどうなっていますか?
 この図面をチェックすると同じような図面が見受けられます。
 まさか同じ図面と言うことはないでしょうね。
 この辺りのチェックをしていただかないと、作業することはできません』
 馬鹿丁寧な文章を一気に打ち込んで、その勢いで送信ボタンをクリックした。
 後は野となれ山となれ。
 今まで描いていた図面をやる気力も失せ、竹井は気分転換に作業場に向かおうとした。
 と、PHSが鳴った。
「はい」
「○○からです」
「はい」
 担当チームから依頼されて部品図を作成しモノづくりをお願いしている取引業者からの電話に、竹井は首を傾げながらつないで貰う。
 なんかあったっけ?
 幾つかの言葉を交わしている内に、竹井の顔が歪んだ。
「ちょっと待ってください。すぐ確認します」
 図面が違う?
 慌てて、机に戻り図面を引っ張り出す。
 さっきメールで送った図面と見積もり用にFAXで送った図面が違う?
 A4用紙にプリントアウトされた図面と、メールで送信した図面を起動させ、見比べる。
 しまったっ!
 確かに違う。
 手持ちの図面をそのままFAXして、メールのは担当者がつくったのを中身も見ずに送信してしまった!
「す、すみません、左右逆ですね。はい、すぐ直しますから」
『いえ、左右逆なら逆でこちらで対処しますから。FAXの方がOKなんですよね』
「はい、そうです。どうもすみません」
 平謝りで電話を切る。
 しっかりした図面を作る人のだから、信用してそのまま送ってしまった。
 何だか疲れてしまって、竹井は椅子にぐったりと凭れてため息をついた。
 それでなくても安佐のメールで、仕事をやろうという意欲がそがれている。
「あーあ、かったりー」
 のろのろと立ち上がると、作業場に様子伺いに出かけることにした。
 定時まで後一時間ほど。
 ふと、安佐からの依頼の事が脳裏に浮かぶ。
 ほんとにあいつは……。
 ちゃんとやれば出来るのに、どこかピントがずれているんだ。
 こういう事務系の仕事になると、それが顕著で。
 技術屋としては問題ないだろう。
 業者とのつき合いも上手いし、意見は臆することなくぶつける。
 できあがった装置の面倒もいいし、それを仕事に合わせて改造させる手案などは見ていて惚れ惚れする。
 そういう所は羨ましい。
 心底思う。
 竹井に無い物を持っている安佐は、ある意味羨望の対象だった。
 が。
 ここは生産技術部門。
 できた装置を製造の人間達に使わせなければ行けない。
 そのためには、手順書を作り、設計書を書き、工程カードで設定を指示しなければならない。
 新製品の図面を作成して業者に指示する必要もある。
 それが、安佐にはできない。
 ほおっとため息をつく。
 確かに竹井は、チーム内のそういう仕事を引き受けている。
 だが、他のメンバーは自分たちでもそれだけの物を作れるのだ。
 ただ、忙しいから、竹井が手伝っているだけ……。
 安佐以外のメンバーが作る図面は、手を入れるにしても簡単だ。
 手順書にしろ、工程カードにしろ、一度こうしたいと指示すれば、それに沿って原案を作ってくれる。
 だが、安佐は……。
 ちらりと安佐からのメールを眺め、ますますやる気を失いそうで……メールを閉じた。
 自己路線を突っ走る安佐のその手の資料は、手直しにもの凄く時間がかかる。
 それに……。
 つい口元に苦笑いが浮かぶ。 
 別に安佐のせいではないのだろうが、安佐の資料はパソコンと何故か相性が悪い。
 先日手直しした手順書は、やり終わるまでに通算6回のフリーズを経験した。
 一つの文書にしては最多記録だと思う。
 5Mbもあるせいかも知れないが……写真が多用してあるから……、それにしても異常だ。
 また、あのフリーズ地獄が始まるのだろうか……。
 今日は金曜日だし……こういう日は時間が来たらさっさと帰ろうっと。

 だが、えてして上手くいかない時は徹底して上手くいかない。
 二度あることは三度ある。
 三度目の正直。
 どちらがぴったり来るだろう。
 竹井はため息をついた。
 定時が来て、さあ、金曜だからさっさと帰ろう……としたらPHSがなった。
 げ、外線ぽい。
 画面表示を見て、唸る。
「はい」
「××さんからです」
「……はい」
 今度はさっきの図面を加工してくれる下請けさんだった。
 尺度が違うって……。
 あの野郎……。
 図面を作った奴に内心当たり散らしながら、納期を聞く。
 今日中ですよねえ、やっぱり……。
「担当者がいないので、少し遅れるかも知れませんが必ず送りますから……」
 これで残業決定。
 しようがないなあ……。
「あ、残業届出さないと」
 慌ててチームリーダーの所に行って、残業になることを伝える。
「間に合うか?」
「はい、大丈夫です。大した事ではないですから」
 そう、たいしたことではない。
 尺度設定を変えて、見栄えをよくしさえばいい。
 だから、気軽に答えた。

                   ☆☆☆☆☆

『R加工』
???角の部分を丸く加工し、角による傷つきや欠けなどを防止する技法
   R3は半径3mmの丸みを付ける事???


「何なんだ、これは……」
 開いた図面をよくよく見ていた竹井は唸ってしまった。
 厄介な図面だとは思っていた。
 単純な平板な部品なのだが、外形が複雑でRが多用している。
 くねくねと曲がったラインは、それぞれRの設定値が違う。
 問題は……。
「ここ、違う……」
 眉間にしわを寄せ、スクリーンに見入る。
 念のため寸法を表示させてみると、全く違う寸法が出てくる。
「岡さん……無理矢理図面ひいたな」
 割合ちゃんとした図面を引く人だったが、最近やけに忙しいそうだからこういう所に手抜きが出たのだろう。
 RはこのCADでは以外に描くのが面倒なのだ。
 だが、今回はこのミスが致命的だ。
 尺度が違っていて良かったと思う。
 このデータをそのまま装置に入れて加工したら、違うモノが出来てしまうところだった。
 そうなると業者にも迷惑だし、こちらも大変なことになる。
 岡さんの図面て、信用していたのになあ……。
 けれど、たいてい定時に帰ってしまう竹井は、迷惑をかけられたからってあまり強く言えない。
 竹井以外のメンバーは、納期に追われて仕事をしているからだ。納期が守れなければ、生産がストップする。そんなことになれば、会社の利益に反することになる。
 竹井の仕事は、そういう部分からするとワンステップ内輪にあったものだから、自分の遣り繰りでなんとかなる。早く帰ることも、休みを取ることもできた。
 絶対的な仕事量が違うのだとは思う。
 そんな自分が、竹井はいたたまれなくなることがある。
 竹井は27歳。
 今の仕事が嫌いなわけではないが、やはり現場でばりばり働いている人たちからすると、目立たない。成果も見えない。同期入社の人たちと比べても昇進の対象から外れているのも判る。
 認められにくい立場なのだ。
「まあ、俺がいないと、みんなの仕事量が増えて大変になるもんな……」
 その思いだけが、竹井を支えている物で……口に出してほっとため息をついた。
「竹井さんがいないって……どういうことですか?」
「え?」
 いきなり声をかけられ、慌てて声のする方を見上げる。
 まさに見上げなければならない所に、安佐の顔があった。
「安佐君……」
 どうしてこんな所に……と考えて、送信したメールの件を思い出す。
 安佐のその手に手順書の紙が握られていたから。
「竹井さん、まさかいなくなるんですか?」
 固い口調の安佐に戸惑いながらも、竹井は笑い飛ばす。
「ばーか。もし俺がいなかったからこんな図面や手順書、みんな自分で作るんだろうなあってこと。お前だって、自分で描くんだぞ」
 揶揄するように言葉をかける。
「そんな。竹井さんがいないと俺困ります。今だって、迷惑かけているし」
 真剣な眼差しが堪えられなくて、竹井はつい視線を外す。
 何なんだよ。
「冗談だよ。こんなことしか俺出来ないから、いなくなるって事もないよ」
 ちょっと冗談言っただけなのに。
 まあ、こいつにとっちゃ死活問題に近いのかも知れないな。
「お前みたいな奴がいる限り、俺の存在意義はあるよな」
 自嘲めいている、とは思う。
 だが、なんとなく口から出ていた。
「……」
 安佐が息を呑んだのが判った。
 視線が竹井に突き刺さる。
 まずいな。
 口を滑らしてしまった。 
 竹井はくるりとスクリーンに向き直った。
「すまんが、これ至急なんだ。お前の分は来週やるから……」
 拒絶の言葉を言ってしまう。
 気分が滅入っている時に、お前の相手はできない……。
 安佐は、竹井にとって羨望の対象。
 自分がなりたかったプロセスエンジニアの力を申し分なく持っている人間。
 だから……。
 言わなくてもいいことを言ってしまった、という後悔。
「月曜に詳しい打ち合わせをしよう。水曜は無理かも知れないが、来週中ならなんとかする。それでいいかな」
 スクリーンに視線をむけたまま、竹井は話した。
「わかりました」
 スクリーンに映る影が、動いて去っていく。
 言葉少ない安佐に、悪いことをした、とは思ったけれど。
 熱くなってしまった目の奥。
 今は去ってくれたことに心底安堵していた。


                   ☆☆☆☆☆
『スプライン』
———CADでは自在な波線を記入するときに用いるコマンドーーー

「まだかかるのか?」
 CADのスクリーンに見入っていた竹井は声をかけられびくりと反応した。
「あ、香登さん……」
 竹井のチームのリーダー香登(かがと)が心配そうに立っていた。
 まだ、いたんだ……。
 まずい人に見られたと思い、肩を竦める。
 香登は竹井の肩越しにスクリーンを覗き込むと、首を傾げた。
「この図面だと、岡君のだな。竹井君が描いたのか?」
「え、いえ……これは岡さんが作図されたものです……」
 声が小さくなる。
 それは香登の次の台詞が判っているから……。
「何で岡君が作図したものを竹井君が残業してまで直しているんだ?岡君はさっさと帰ったぞ」
 呆れたような口調に、竹井はスクリーンに視線を移した。
 これは俺のチェックミスだから……。
 でもその言葉を発する前に、香登が言う。
「てっきり君が作図した物の修正かと思っていたが……おかしいと思った」
 おかしい……?
 何がだろう。
 そう思ったけど、出てきた言葉は違う言葉で。
「あの今日中に業者に図面送らなきゃいけなくて……俺、ミスっていたの気付かなかったから……」
 ちらりと香登を見ると彼は大きなため息をついていた。
 まだ35歳、竹井の会社では比較的若いリーダーだ。
 5人のメンバーをまとめる彼は、面倒見が良かったが、だからと言って甘いわけではない。
 自分の事は自分でしろ、といつも口を酸っぱくして言っている。
 そんな彼からすると、しなくてもいいような他人の仕事をしている竹井が歯がゆいのだ。
「確かに部品発注は君の仕事だし、図面を起こすのも君の仕事だ。しかし、他人が描いたもの位、その人間に直させないと、いつまでたっても当の本人はミスを知らないまま、同じミスを繰り返すぞ」
「はい……」
 確かにそうなのだ。
 だが、忙しそうに走り回っている岡を見ていると修正を言うのが躊躇われた。
 それにすぐにチェックすれば、こんな残業することもなかったから。
「でも、チェックし忘れていた自分のミスですから」
「お前らしくないな。図面の確認を怠るとは」
 俺らしくない?
 竹井は訝しげに眉をひそめる。
 いつも香登は、竹井らしくない、という言葉を使う。
 俺は普通通りにしている。
 確かに図面チェックは基本中の基本だったけど……。
 黙って俯いている竹井に香登はその横顔を窺う。
 と、息を吐いた。
「それで、これはいつまでかかるんだ?」
 諦めにも似たその口調に、竹井はようやく顔を上げる。
「あ、もうここにスプラインで波線入れ直して、寸法入れるだけです。だから後20分くらいかと」
 指さす所を香登は見、そして竹井に視線を移す。
「直ったら、声をかけてくれ。俺はまだいるから、帰りは一緒に帰ろう」
「え?」
 その言葉に驚きを隠せない。
 一緒に帰る?
 でも俺達はそれぞれ車なのに。
「どうせ、お前一人暮らしで食事はコンビニ弁当なんだろ。俺も今日は嫁さん実家に行っているから、一緒にファミレスでも行こう」
 ああ、それでか……。
 一人の方がいいかな。
 とは思ったけど、上司のお誘い断るわけにも行かないだろう。
 それに決して香登が嫌いなわけでもない。
 だから竹井は了承した。
「判りました」
 と。
 

 帰り道にあるファミレスに寄る。
 竹井達一人暮らしのメンバーが揃うとたまに寄ることもあったが、今日は見知った顔は一人もいなかった。
「竹井君は何年目だっけ?」
「5年目です」
 二人して同じハンバーグセットを食べているのが、なんとなく不思議だ。
 妻帯者の香登とこんな風に食事をするなんてことは、忘年会なんかの集まり以外ではなかった。
「今の仕事、君は満足している?」
 いきなり聞かれて、口の中の物を慌てて飲みこんだ。
 何なんだ?
 目を見開いている竹井に香登は苦笑する。
「最近な、竹井君なんだか煮詰まっていないか?いつも眉間にしわ寄せてCADやパソコン覗き込んでいるだろう。夏くらいからかなあ、3ヶ月ほど前か……。その前は結構にこにこと画面に向かっていたと思うんだけど」
 かちゃんとナイフが皿にあたる。
 決して少なくないその動揺は、何でかなんて自分でも判らなかった。
 確かに夏頃から、自分の仕事が面白くなくなっていた。
 でも、それは隠し通してきたつもりだった。
 けど、そんなに表情に出ていたのだろうか。
 手を止め、じっと香登を窺う。
 この人は一見のんびりしているようで、実は鋭いんだな、と思ってしまった。
 もっとものんびりやなだけでは時間に追われがちな生産技術課のチームを引っ張っていけるわけではないのだが。
 何も言わない竹井に、香登は口の端をあげて言葉を継いだ。
「何か悩み事でもあるのか?」
「いいえ、ありません」
 それだけ言うと、手を動かして料理を口に運ぶ。
 悩み?
 目下の悩みは、安佐のあの仕事だ。
 3日で仕上げろなんて無茶な依頼はなんとかしないと、こっちの身が持たない。
「そういえば、安佐君が竹井君に嫌われているかも知れない、と心配していたが」
 なんてタイミングでこの人は、安佐のことを言い出すんだろ。
 内心呆気に取られてしまう。
 俺が安佐を嫌う?
 確かに安佐の仕事は嫌いだが、安佐自身を嫌ったことはない。
「別に安佐君が嫌いとは思っていませんよ」
「そうか?だが、今日、二人で話しているのを見かけたが、竹井君、ちっとも安佐君の方見ようとしなかったろ。あれでは安佐君も嫌われていると思ってしまうんじゃないか?」 
 責められている。
 そう思うと食事がおいしくなくなった。
 残り僅かだったが、箸を置く。
「本当に嫌ったりなんかしていません。あの時は、ちょっと疲れていたのが態度に出てしまって……」
 竹井が箸を置いてしまったため、香登も、しまった、というように顔をしかめた。
「すまなかったな、食事中の話題ではなかった」
 ぽつりと漏らす言葉に竹井は首を振った。
「いいえ。安佐君とは月曜に仕事で話をします。気をつけますので」
 確かにあの時は何もかもがまずかった。
 タイミングも言葉も……。
「ところで」
 香登が何か言おうとしているのに気が付いて視線を向ける。
「デザート食べるか?奢るぞ」
「は?」
 いつの間にか香登の手にはウエイトレスからメニューが渡されていた。
「竹井君はケーキ好きだったろ。食べないか?」
 確かにケーキは好きだけど……。
 男二人でこんな所で食べるには不似合いで。
 恥ずかしくないのか、この人は。
 だけど、期待に満ちた目でメニューを見ている様子を窺うにつれ、断れない。
「香登さんもケーキ好きなんですか?」
「ああ、最近太り気味なんであんまり食べていないけどね」
 香登は結局無難にショートケーキを二つ頼んだようだ。
 二人の前にケーキが置かれた。
「それで話が戻るけどね、三ヶ月前、何かあったのかい?」
 食べ始めると、香登はそう尋ねてきた。
 もしかして、この話をするためにケーキを頼んだのだろうか?
 このまま帰ると、話が出来ないから?
「別に何もなかったと思います」
 言われても、ぴんと来ない。
 夏頃と言えば、なんだかとっても忙しかった記憶はある。
「あの頃といえば、君は杉山君のサポートに入っていたよな」
 そういえば。
 あの頃杉山さんが担当している装置の検収があって、ばたばたしていたのを思い出した。
「そう言えばそれからだよな。竹井君の笑い顔、少なくなったの。前は何がおかしいのかなって思うくらいよく笑っていたのに」
 何だかそれって褒められているとは決して思えない。
 竹井はため息をついた。
「あ、ああ、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、竹井君て結構いける顔立ちだろ。その君がしかめっ面をしているのは似合わないって女の子達が怒るんだよ」
「何ですか、それは?」
 俺は女の子達のご機嫌取りの餌なんだろーか。
「まあ、その子達が一番に君の様子が変わったのに気が付いたって事言いたかったんだけどね」
「ああ」
 そうか……。
 3ヶ月前。
 何もなかった。
 特に気にすることは何もなかった。
 だけど。
 何かが脳裏に浮かび上がる。
 思い出したくなくて封印した思い出。
 もしかして、あれはやっぱり結構俺にとってショックだったんだろうか?
 今の悩み……ほんとはある。
 もしかすると、この悩みはあの時のあの言葉が引き金になっていたのかも知れない。
 竹井はようやくその事に気が付いた。

『竹井君は、よくあんな地味な仕事やっていられるよなあ』
『あいつは不器用だからな。プロセスエンジニアには無理だよ』
 誰が言っていたかなんて思い出せない。
 4人くらいが話していたのは覚えている。
 たまたま席を外して、帰ってきたらそんな言葉が聞こえた。
 話している人たちは、竹井が帰ってきたことに気付いていなかったようだ。
 竹井は思わず立ち止まった。
 そして、その時ゆっくりと振り向いたのが安佐だった。
 それだけははっきりと覚えている。
 安佐と視線が絡んで、竹井はいたたまれなくなってその場からこっそりと離れた。
 確かに地味な仕事だとは思っていた。
 だが、はっきりとプロセスエンジニアに向かないと言われ、不器用だとも言われた。
 そんなことは判っていた。
 だけど、あの時の安佐の目が忘れられない。
 驚いたように目を見開いて。
 
 忘れたくても忘れられない言葉ってあるもんなんだな。
 竹井は目の前のケーキをつついて口に運んだ。
 甘みが口の中でとろけていく。
 記憶もこんな風に溶けてなくなってしまえばいいのに。
 そうすれば、また笑って仕事ができるようになるだろうに……。
 
 考え込んでいる竹井を放っといてひたすらケーキを食べている香登は、幸せそうだった。


                   ☆☆☆☆☆
『C加工』
???R加工と同じく、角に対する加工方法。Rが丸みをつけるのに対して、Cは角を取る。
   丸みではないのでできあがった物は角張った印象がある。
   C3なら頂点から3mmずつの場所をつなぐ線を落としてしまう。
   CADによっては、一瞬で作図できる???


 竹井は金曜日からずっと気が滅入っていた。
 思い出した会話。
 あれ以来、安佐と話をすることが苦痛になった。
 前はたった一人の後輩ということもあって、気さくに話をする事が多かった、と思う。
 話ができなくなって仕事も説明が受けられないままになって、トラブリ易い。
 どうしていいか判らなくて、止まってしまう。
 それ以前と以後、仕事の内容に変わる物はない。
 変わったのは安佐に対する自分の態度。
 安佐が嫌いなわけではない。
 ただ。
 あの場所にいた安佐。
 そしてその内容を竹井が知っているという事実を知っている安佐と会話するのが嫌だった。
 
 もともと、竹井は人と打ち合わせをするのが苦手だった。
 思ったように自分の意見を出せない。
 気が付けば押し切られているか、結局何もまとまらなくて終わってしまうことが多い。
 だから今回の打ち合わせ、できればしたくなかった。
 だが、どうあがいても水曜日までに仕上げることが出来ないから、打ち合わせをするしかない。
 結局部屋を一つ陣取って話をすることになった。
 こんな部屋、取らなくて良いのに。
 机の所で話をるつもりだった竹井だったが、安佐が「ここの方が邪魔されなくていいでしょう」と言ってPHSまで切ってしまったから、文句が言えなかった。
 確かに自席だと、いろんな人がやって来て、ゆっくりと打ち合わせできない。
「図面11枚と手順書……結構多いよな。20ページ位ある?」
「そうです。面倒な機械ですので、どうしてもその位は……」
「あと、工程カード……最初にいついる?」
「最初?」
 言われた意味が分からなかったのか、問うような言葉の安佐に竹井は書類から目を離さないまま言葉を足した。
「製造が作業に入る日は?それまでに最低必要なモノってどれ?」
「あ、ああ……金曜日に作業を開始するので、えっと工程カードはこの3枚。手順書はこの5ページです。図面の方は、できれば全部あった方が、その方が説明しやすくて」
 竹井は頷くと、下書き原稿に日付を書き込んでいく。
「そのもしかすると手順書と工程カードの方は、状態によっては少し内容が変わるかも……」
 その言葉に竹井の手が止まった。
「金曜日に製造が作るのに、まだそういう状態なのか?」
 言葉に険が入ってしまう。
「すみません」
「俺に謝られても……じゃあ、仮発行ということで、修正が入り次第手直しだな」
 ため息をつきつつ、妥協案を言う。
 本当なら、こういう案の状態で作らなきゃいけないのは好きじゃない。
 後の修正が面倒なのだ。
「はい」
 神妙な安佐の声に気づき、竹井は顔を上げた。
 目の前の安佐は、目を伏せて竹井の手元の資料を見つめている。
 そういえばさっきからあんまり話して来ない。
 こっちの質問に答えるだけなので、妙に間が空いてしまう。
「安佐君?」
 いきなり問いかけられ驚いたように安佐が顔を上げた。
 真正面にいたせいで、もろに視線が逢う。
 慌てて竹井は視線を逸らした。 
 久しぶりに間近で見てしまった安佐は、前より端正さが際だっているような気がした。
 それに、捕らわれそうな視線の強さを感じてしまう。
 有無を言わさないような強さ。
 こいつ、こんな目をしていたっけ?
 そういえば背の高さの関係もあって、普段はこんな真正面で話なんかしない。
 まして、最近は目を合わせることすらしていなかった。
「何ですか?」
 問われても、何とはなく声をかけただけなので困ってしまった。
「いや、何でもないんだ、それより他の資料は来週のいつまでならいい?」
「あ、できれば来週火曜日までには全て。それにさっきの手順書の件も土曜日に最終の試作ができるんで、その時には完成版ができあがるんです。ただ、前工程だけ金曜日にやってしまうらしくて……」
「あ、そうなんだ。判ったよ、できるとこまで作っておいて、月曜に一気に仕上げよう」
 なんとかなるかな……。
「あの、大丈夫ですか?」
 心配そうな声に、ふと視線を向ける。
「何か?」
「月曜日は忙しいんでしょう。他の人からの依頼もあって」
 何だ、心配してくれるのか。
 安佐の心配そうな声に竹井は笑みを浮かべて返した。
「大丈夫だ。前倒しして、月曜は空けとくよ」
 まだ腑に落ちなさそうな安佐に言ってやる。
「他のはそんなに急ぎじゃないから……。多少は前倒ししているから、絶対月曜にやらなきゃいけないって事はないんだ。ただ、俺が月曜にやってしまうって決めているだけ」
 ほんとうに、安佐の仕事以外は割と予定通りに終わるのだから。
「それならいいんですけど」
 ぼそぼそと呟く安佐は、なんだかおかしくて笑ってしまう。
 いつもの安佐じゃないような気がした。
 今はどんな目をしているんだろう?
 気になったが、視線をあわせるのは止めた。
 なんとなく怖い。
「そんなに気になるんだったら、少しでも設定なり手順なりを決めておいてくれ。そしたら、月曜の負担軽くなるだろ」
「あ、はい。必ず」
 勢い込んだ安佐の様子がおかしくて、また笑ってしまった。
 なんだか、安佐と話をしていて笑ったのって久しぶりだな。
 すると安佐がじっとこっちを見ているのに気が付いた。
 まずい、笑いすぎたかな。
「なんか、竹井さんが笑っているの見るの久しぶりなような気がして……うれしいです」
 ぽつりと漏らされたその言葉に目を見張る。
 俺ってそんなに笑っていなかったんだろうか?
 金曜に香登に指摘された事を思い出す。
「うれしいって……」
「最近、竹井さんずっと不機嫌だったから、俺って怒らればっかりだし、嫌われているのかと思ってた」
 嫌うって……確かに安佐の仕事の依頼内容は嫌いなんだが……。
 安佐と話をするのが苦痛で……。
 だけど安佐自身は嫌いじゃない。
 それだけは判っている。
 でも安佐にとってすればそんな事判らないだろうな。
「だからできるだけ自分でやろうと思ったんです。だけど、やっぱり迷惑かけているみたいで、本当にすみません」
 それで、自分で図面ひいていたのか。
 しかしそれはさらに竹井を不愉快にさせるもので……。
「俺、愛想悪いからな。気にしないでいいよ。これが俺の仕事なんだし、遠慮なく言ってくれればいい」
 社交辞令を75%くらいブレンドして、言う。
 できればこんな仕事は遠慮して欲しい。
 そう思っている自分に内心苦笑する。
 面倒な仕事はごめんだという気持ちと、安佐と話をするのが嫌だという気持ち、そして安佐なら頼られても悪い気がしないという三つの気持ちが、頭の中でせめぎあう。
「これが終わればしばらく落ち着くんです。そうなったら、文書関連について教えて欲しいんです」
「俺に?」
 驚いた。
 だけど安佐は真剣そのもの。
 困ったな。
 何が困るといって、この教えて欲しいというのが一番困る。
「別に教えるほどの物じゃないから……」
 力無く答える。
 竹井は教えるのが苦手だった。
 頭の中で理解しているわけじゃない。
 なんとなくこうしたらいいんだ、という程度でやってきていた。だから、人に説明できないのだ。
 雰囲気でしか説明できない。
「決まったフォーマットに入れていくだけだから。ちょっと練習すれはできるよ。抜けが無いようにさえ、気をつければ」
 それだけだ。
 何の技術もいらない。
 工程カードなんて、決まった場所を修正するだけ。
 作っている最中に他のこと考えていたりする。
「それでも俺、上手く作れないんです」
 落ち込んでいるのだろうか?
 安佐の言葉は暗かった。


 CADを操作しながら、頭は別の事を考えていた。
 手はマウスを操作して、角を次々とC設定に変化させる。
 その単純作業を繰り返していると、ついつい先ほどの安佐との会話を思い出してしまう。
「何を落ち込んでいるんだよ」
 えいっとばかり、マウスをクリックする。
 と。
「あっ違った」
 操作した角が一個ずれていた。
 慌てて「取り消し」コマンドをクリックする。
 俺がやっていることなんて決まった手順の繰り返しだ。
 今みたいなミスをやらなければ、そんなに難しいことではないと思う。
 例え安佐の作る図面が無茶苦茶だと入っても、それは社内規格通りでないと言う程度。
 もともと知識は有るのだから、その辺りを注意すれば上手く出来るだろう。 
 きっと安佐は文書関連の処理を上手くこなせるようになる。
 そうしたら、こんな事俺に依頼する事もなくなって。
 安佐の厄介な仕事が来なくなれば、俺は楽に、なれ……る。
 ……。
 竹井は視界が歪んだような気がして、慌てて目を瞑った。
 目の奥が熱くなる。
「何なんだよ」
 言葉が漏れる。
「こんな面倒な図面の修正も、フリーズ地獄の手順書の修正も無くなるのに……」
 泣きたくなるような感情が湧いて出てくることに、竹井は戸惑った。
 どうして?
 安佐からの仕事が無くなることは、竹井にとっても一番喜ぶべき事なのに、それを喜べない自分がいる。
 寂しい。
 そう思ってしまう。
 一度陥った負の感情に、その日は1日仕事にならなかった。


                   ☆☆☆☆☆
『原点復帰』
???機械装置において、原点とは動作の最初の基準点
   ここを基本に装置は動きを始める
   原点復帰はその場所に戻ること。???

 結局一週間の内に終わるべき所まで終わらなかった。
 月曜日に落ち込んだ仕事のペースは、何故だが回復することなく……フリーズ地獄もやはり始まって、滅茶苦茶手間どった。
 たぶん元にしているファイルがおかしかったのだろう。
 それらを全て正しい狂わないフォーマットに写し終わるのに結構手間取った。
 結局、休日出勤を出した。
 香登が何か言いたげだったが、竹井は無理矢理通して貰った。
「やらなければ間に合わないんです」
 この言葉に香登は書類にサインをした。
「無理するなよ」
 香登の言葉に竹井は笑う。
「書類作るだけですよ」
 何が無理なことなんだろう。


 土曜日の出勤は意外に好きだ。
 会社が休みだから外線もかかってこないし、急な用事も発生しない。
 全てが自分のペースで仕事ができる。それに静かだ。
 竹井が順調に手順書を作っていると、安佐がやってきた。
 そういえば、今日は最終の試作をやるとか言ってたっけ。
「すみません、俺の仕事のせいで休日出勤させちゃって」
 申し訳なさそうな安佐に竹井は苦笑を浮かべる。
「これは俺の時間管理が甘かったんだ。気にすることはない。それに大した量じゃないから、昼過ぎには終わるし」
「え?じゃあ、今日は昼までですか?」
「一応、昼の弁当は頼んでいるよ」
「あ、じゃあ、昼一緒にしましょうよ。きりのいい時間に呼びに来ますから」
「……ああ」
 嬉しそうな安佐の言葉に戸惑いを覚えながら竹井は了承の言葉を言った。
 まあ、一人で食べるのも侘びしいし。
 少し誰かと話をしたい。
 安佐は杉山と一緒に出勤している。
 気分を変えないと、仕事の効率も悪いし……。
 竹井は一週間のもやもやした気分が再燃しそうだった。
 今日が終われば、安佐からの仕事は8割方終わる。
 それが寂しいのだと自覚してからは、安佐の事を考えないようにしていた。
 だが、今安佐にあったことで、その寂しさが沸き起こる。
 こんな考えが変だという自覚が、竹井を戸惑わせていた。 
 だから、その考えを振り払う。
 まずは仕事だ。
 期限までに終わらされないと、困るのは安佐ではなく、製造の人たちなのだから。
 それにたぶん、安佐からの依頼はここでいきなり無くなる物ではないだろう。
「まだまだ、だ。あいつはそう簡単に文書を作成する事なんてできやしない」
 願望にも似た想いを口に乗せる。
 去年からずっと安佐の事は見てきた。
 初めての後輩。
 だから、安佐がどれほどそういった面に向いていないか知っている。
 だから。
 竹井の仕事は尽きることがない、はずだ。



 12時がきても安佐はやってこなかった。
 竹井はパソコンの右下に表示されている時間をちらちらと見ながら、最後の仕事をしていた。
 フリーズに悩まされた手順書もフォーマットを変えてからは順調で、あっという間に処理できた。
 プリントアウトした手順書を確認し、ホッチキスで束ねる。
 後は、これを安佐に見て貰って、チェックして貰えばいい。
 明日になったら、修正項目を入れて、完成だ。
 時計は12時30分を表示していた。
「きりがつかないのかなあ」
 仕事の終わったパソコンを終了させる。
 束ねた書類の山を掴むと、竹井は立ち上がった。
 呼びに行くついでに書類を渡してしまおうと思った。
 安佐のいる筈の作業場は3階で事務所から一つ下に降りたところにある。
 装置が定期的に奏でる音が作業場中に響いていた。
 その装置の横で安佐と同僚の杉山が小さな部品を組み立ていた。
「あれ竹井君、君も来ていたのか?」
 杉山の言葉に軽く頷く。
「あ、俺が頼んだ書類のせいなんです。すみません、もう少しかかるんです」
 安佐が杉山に理由を説明し、竹井に謝る。
「うまくできなかったんですか?」
 二人の手元にある部品は、接着されている筈の部品がついていない。
「ああ、最初の設定ミスって、接着時間が弱かったんだ」
 杉山の説明に竹井は頷くと、装置に視線を移した。
 今回作った手順書は、この装置の取扱説明だった。
 その装置が、規定の型に打ち抜いたシートを吐き出している。
 そのシートを安佐達が部品に貼っているのだ。
 手元にある部品の山は後50個位か。
「これ、できたから、月曜までに見ておいてくれるか」
 机の端に書類を置く。
 それを見た安佐の表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
 にこにこにしている安佐に、竹井までなんだか楽しくなる。
 なんだか、さっきまでの暗い気分が吹っ飛んでしまう。
 何だろう、これ?
 と、
 ピーという警告音を出して、装置が止まった。
「あれ?」
 杉山が操作盤のスクリーンを見に立ち上がる。
「打ち抜き品詰まり、だってよ。どっか詰まっているか?」
 杉山の言葉に安佐と竹井が、装置の中を覗き込む。
「あ、あれか?」
 竹井が先に見つけた。
 台から2mmほど突き出た刃にそのシートがひっかかっている。
 見つけたついでに手が出る。
「取れそうだよ」
 指先が詰まっていたシートを掴んだ。
 と。
 がしゃ
 装置がいきなり動きを再会した。
「っ!!」
 声にならない叫びが竹井の口から漏れた。
 即座に状況を把握した安佐の手が殴りつけるように操作盤の赤いボタンを押した。
「どうしたっ!」
 杉山が慌てて駆け寄る。
「ってーーーー!!」
 竹井は激痛に顔を歪め、左手で右手首を掴む。
 右手が動かなかった。
「挟まれてる!」
 安佐の悲痛な叫び。
「開いていないのか!」
 杉山の叫びにも似た声。
 慌てふためく二人の声に竹井は顔を歪めながら自分の手を見る。
 右手が掌を上にして、機械に挟まれていた。
 流れ出る血。
 熱さを伴う痛み。
「刃が刺さっているんだ。安佐っ!」
 杉山の言葉に安佐が、原点復帰ボタンを押す。
「駄目です。上昇しません!」
 それを聞いた竹井がのろのろと安佐を見上げる。
 必死の形相の安佐が目前にあった。
 何を焦っているんだろ……。
 そして、操作盤を見つめる。
 さっきまで作っていた手順書のフレーズが頭に浮かんだ。
「安佐君……非常停止、解除……主電源、OFFにしてからON」
「え?」
 安佐が竹井を見つめる。
 竹井が痛みに顔を歪めながらも僅かに笑みを浮かべる。
「大丈夫だから、落ち着いて……」
「あ、はい」
 竹井の言いたい事が判ったのか、言われるがままに操作する。
 操作盤の扉を開き、主電源の重いスイッチがOFFにされ、そしてONになった。
 かちゃん
 装置が再起動され、生き返ったように動き始める。
「運転準備……ON」
 吐き出すように呟かれたその言葉と同時に安佐が反応した。
 安佐も操作手順を思い出したのだ。
 そのボタンは原点復帰も兼ねている。
 しゅー
 空気の漏れる音がして、エアシリンダーが上昇した。
「くうっ!」
 突き刺さっていた刃が掌から抜ける痛みに、目を固く閉じて耐える。
 ずるりと手が装置から抜け出た。
 ぼたぼたと床に落ちる血。
「竹井君っ!」
 杉山がウエス代わりの紙タオルを竹井の手に当てる。
「安佐っ!車を回せ。病院に連れて行くんだ!」
「はいっ!」
 走っていく安佐。
 それを見送り、視線を手元に戻す。
 紙タオルがどんどん赤くなっていくのを見ながら、どこか冷静な思考が頭を占める。
 これって事故報告書書かなきゃいけないんだよなあ。
 申し訳ない事した。
 俺のせいだ。
「すみません……」
「何言っているんだ。すぐ病院に行くから、それまで我慢しろ」
 我慢?
 痛みに?
 そういえば、痛みが変わってる……。 
 痺れて、じんじんと疼く。
「ああ、血が止まらない」
 杉山の声がせっぱ詰まっている。
 竹井の手から溢れる血は、最初に当てていた紙タオルを染め尽くした。
 竹井は左手で右手首を強く押さえた。
 そうすれば少しでも血が止まるような気がした。
「大丈夫だから……刃先2mm程しかなかったから……」
「そりゃそうだが、圧力もかかったろ。つぶれてもおかしくなかったんだぞ」
「安佐君が……非常停止してくれたから……」
 そう、それで潰されずに止まったのだ。
「くそ。エリアセンサは働かない。異常が解除された途端の勝手な動作、非常停止後の原点復帰ができない、なんて装置だ」
 その言葉に竹井は眉をひそめた。
 それってこの装置を設計した安佐のせいだってことになるんじゃないか……。
 電源を切っていない装置に手を突っ込んだ俺が悪いのに……。
 嫌な気がした。


                   ☆☆☆☆☆
 
『エリアセンサ』
???手や躰、あるいは物などが侵入したことを感知する装置の一つ。
   光学式では、二本の棒状のセンサが両側に立っていて光が遮られるとスイッチが入ったり切れたりする。
   安全装置として付けられることが多い???


 安佐の車で病院に行った。
 安佐が受付で説明している間、待合いで椅子に座り込む。
 強ばって青くなっている安佐の表情が見ていられなくて、顔を上げることが出来ない。
 竹井はずっと自分の手を見ていた。
 紙タオルに包まれた右手の痛みはそれほどでもない。
 痺れてしまっているせいかも知れない。
「どうだ?」
 隣に座っている杉山が竹井の手を心配そうに覗き込む。
「はい……だいぶ血が止まってきているようですから」
 ほんとうに血が止まってきていた。
 新しい紙タオルが血に染まる速度が落ちてきている。
「竹井さん、治療室へ行ってくださいって」
 安佐が戻ってきて、竹井の左腕を引っ張った。
「ああ」
 引っ張られる力のままに、椅子から立ち上がる。
 杉山も立ち上がる。
 治療室の前で二人と別れた。
 心配そうな二人に笑いかける。
「大丈夫だってば」
 だって、そんなに痛くない。


 竹井にとって何が痛かったって……指を曲げて伸ばすように言われて、それをした時が一番痛かった。
 ひきつれるような痛みに、塞がりかけていた傷口までもが口を開き、血が溢れだした。
 それでもちゃんと動いた竹井の右手に医者は安心したかのように頷いた。
「念のためだ。レントゲンも、撮って」
 医者の言葉に手をガーゼで押さえたまま、レントゲン室に移動する。
 部屋から出たとき、安佐の視線がずっと竹井を追ってくるのが判った。
 ごめん、安佐君。
 口の中で何度目かの言葉を呟く。
 絶対、安佐が責められる。
 こういう事故は、怪我をした本人より、その機械を設計した人あるいは作業手順を指示した人が責められる。
 『どんな人が作業しても安全であること』 
 それが機械設計の基本であるから。
 俺みたいな不器用な人間が作業しても安全であること。
 でも。
 そんなこと……。
 俺のせいであることは変わりない。
 俺のせいで安佐が責められるなんて……。
 ぎりっと下唇を噛み締める。
 と。
「痛いですか?」
 看護婦が心配そうに声をかけてきた。
「いえ……大丈夫です」
 安心させるように微笑む。
 傷の痛みはたいしたことがない。
 それよりも安佐の事を考えると沸き起こる胸の痛みの方が痛かった。
 

 傷口のすぐ側に、次々と細い針が刺される。
 最初の数本はとにかく痛かった。が、すぐに痺れて、自分の手じゃないようだ。
「よかったなあ、神経切れてなくて」
「はい」
 にこにこと医者が言うのを、竹井は苦笑いを浮かべた。
「ただね。圧迫されているから、内出血して腫れてしまうかも」
 医者の手が器用に針を動かし、傷口を縫い合わせていく。
 曲がった針が不思議で、じっとその動きを見ていると医者が苦笑していた。
「そんなにまじまじと傷を見ている人も珍しいですね」
 言われて、竹井は顔を上げた。
 初めて医者と視線が合った。
 ずっと考え込んでいたから、ずっと傷口を見ていたような気がする。
「ああ、顔色悪いですね。貧血ではなさそうですが……やっぱりショックだったんでしょうね」
 優しい言葉にほっとする。
 人を安心させる声だ。
「俺、不器用だから……みんなに迷惑かけちゃって……」
 ぽつりと呟く。
「不器用ですか?結構器用そうに見えますよ、この手は」
 次々と縫い合わせながら、糸を縛っていく。
 その手の方がよっぽど器用そうだ。
「この怪我の仕方だって器用ですよ」
 そう言って医者の指が傷口を触れないようになぞる。
「ほら、関節を除けているでしょう。指の部分だって肉のついている所を切っているから、神経や骨が傷ついていなかったよ」
 その言葉に黙って頷く。
 掌と指に走る傷口は、親指の根本から薬指の付け根付近で直角に曲がり、人差し指の先端でとぎれていた。
 直線が2本、直角で薬指の所で交わっている状態。
「でも、縫い合わせるのは大変だけどね」
 苦笑しながら、それでも手は止まらない。
 新しく縫う場所に麻酔を打つ。
「ここね」
 医者が指さす所を見る。
 人差し指の先端。
「ここが一番痛いかもね。神経が集中しているから。それに削いだように切れているでしょう」
 言われて気が付く。
 ずっと傷ばかり見ていたのに、そこの肉が浮いているのに初めて気が付いた。
「でも、完全に切れているわけじゃないし、こうやって縫ってしまえばひっつくからね。でもしばらくはここだけ触感がおかしいかも知れないけど、不都合は無いはずだよ」
「はい」
 触感がおかしいと言われても、ピンとこないから竹井はただ頷く。
「全治……2週間かなあ。2週間もしない内に抜糸できると思うけど……どの程度内出血するか判らないな。
それまで不便だろうけど、右手は使わないように。それと絶対に濡らさないように」
「わかりました」
 2週間か……不便だろうなあ。利き腕だし。
 竹井は包帯が巻かれていくその手を見、そして医者に視線を移した。
「20針」
 竹井の視線に医者は笑みを浮かべながら言った。
「え?」
「20針縫ったから……前は10針だったよね。こんど怪我したら30針かな?」
 言われて、かっと躰が熱くなった。
「覚えてました?」
 上目遣いの竹井に医者は笑いを返す。
「カルテを見てね、思い出したよ。今よりもっと初々しかった竹井さんの事。あの時は足だったよね。もう大丈夫?」
 竹井は入社して1年立つ頃、やはり会社で怪我をした。
 やはり装置を扱っていて、何かの拍子に稼働した装置の角に思いっきり足をぶつけた。
 ぶつけただけかと思っていたら、ざっくりと切れていて……。
 そういえば、同じ医者だった。
 というか、この人うちの会社の産業医だ。
「あの時、竹井さんは自分のことよりその装置を作った人の事、酷く心配していたから覚えていたんだ」
「俺って進歩無いですねえ。また同じことやってしまってた」
 苦笑する竹井に医者は首を振る。
「その人がどんなに注意していても怪我はしてしまうもんなんだよ。だったらその装置の作成者が、徹底的に危険を排除しないと駄目なのは当たり前だよ。でないとね、何かの拍子に命を失うかも知れないからね」
 医者の言葉が胸に響く。
 だけど、そんな風には割り切れない。
「竹井さんのお陰で、その人は自分の装置の欠点に気が付いて直すことが出来るし、二度とそんな装置は作らないだろう。だから、自信をもっていればいいんだよ」
 自信?
「自信を持って怪我していたら、本当に命がいくつあっても足りやしない」
「本当に怪我されたら困るね。まあ、その寸前で気が付いてくれれば一番いいんだが」
 そんな器用なこと。
「気をつけます」
 その言葉に医者は満足げに頷いた。
「ああ、それとね」
「え?」
「怪我したときくらい、痛そうな顔していいんだよ。ずっと傷口見てたでしょう。なんだか他人事みたいな表情で。まあ、痛いって騒がれるのも困りものだけど、もっと痛そうな顔をして、他人を心配させたっていいと思いますね」
「どうして?」
「その傷、痛いって認識してるかい?何だか、違うことに心を捕られているようで、それで痛みが抜けているように思えるね。心ここにあらず、っていうか……」
 軽い口調だったがその目が真剣そのもので、竹井は狼狽える。
「そんなこと……ないです」
「悩みはさっさと解消しとおかないと、また怪我しますよ」
 最後の言葉は少しきつく、竹井の胸に突き刺さった。



 お大事に
 その言葉に送られながら治療室を出ると、待っている人間が3人になっていた。
 険しい顔つきが竹井を認めて、和らぐ。
 だが、後ろの二人の強ばった顔がほっとするのを見て取ってしまい、竹井は俯いてしまう。
「香登さん……」
 立ちすくむ竹井に香登は近づく。
「大丈夫か?」
「あ、はい」
 頷く竹井はちらりと後ろにいる安佐を見た。
 安佐の視線は竹井の右手に向かっている。
「二人から話は聞いた。とりあえず会社に帰ろう。その後で家まで送っていくよ」
「えっ、でも……」
「いいから。今日の仕事は終わっているんだろう。後処理はこの二人に任せればいい」
「はあ……」
「あの、みんなは先に会社へ帰っていてください。俺が薬受け取って持って帰りますから」
 安佐の言葉に香登は「任せたよ」と言うと、竹井の腕を掴んで歩き始めた。
 後ろから杉山も付いてくる。
「ご、ごめん」
 慌てて、後ろを振り返ると安佐から「気にしないでください」と小さな声が聞こえた。

「全く、ちょっと様子を見に会社へ出てきて作業場に行ったら、血だらけの装置しか残っていないだろ。あまりのことに正直びびったよ」
 香登の言葉に杉山が苦笑する。
「すみません。とにかく竹井君を病院に連れて行かないと、と思ったんで」
「しかも、安佐君か杉山君が怪我したのかと思ったら、竹井君だもんな。4年前の出来事がフラッシュバックしたぞ」
 その言葉に竹井も苦笑するしかなかった。
 全治2週間。
 あの時の怪我だ。
 あの時の装置は香登の設計だった。
 あの時もたまたま手伝いにいって、事故った。しかも今日と同じように休日出勤していての事故。
 責められたのは竹井ではなく、香登。
 全ての装置の安全一斉点検が始まり、ひどく忙しくなった。
 だから、二度と怪我だけはするまい。そう誓ったはずなのに。
「で、手は後遺症なんかは大丈夫なのか?」
「あ、はい。骨も神経も筋も大丈夫だと言われました」
「相変わらず、悪運強いなあ。前の時も、酷い怪我に見えたのに、骨は折れていなかったもんな」
 香登の言葉に杉山も頷く。
「そういう悪運は強いのに、怪我をすると見た目だけは大けがなんだから、困ったモンだ」
「すみません……」
「ああ、責めている訳じゃないよ。ただな、これからお前もオレ達も忙しくなるからな。それだけは覚悟しろよ」
 杉山の言葉に竹井は首を傾げる。
「何で?」
「ああ、覚えているだろ。前の怪我の時の一斉点検。滅茶苦茶忙しかったじゃないか。絶対あれやるぞ、また」
 ため息混じりの杉山に、竹井は小さくなった。
「杉山君、竹井君が困っているじゃないか」
 香登の言葉に杉山が苦笑いをする。
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
「竹井君はすぐ自分のせいにするからな。まあ、そろそろそういう時期だったんだろ。たまたま怪我をしたのが竹井君だったていうこと。竹井君がしなくても誰かがしていただろうし、それが製造の人間だったら風当たりがまた酷くなっていただろうに」
「ああ、そうですね、竹井君だったから、安佐君もまだ良かったんじゃないかな」
 安佐の名前に竹井の胸に痛みが走る。
「安佐君には悪いことしてしまって……」
「ほら、また自分のせいにする」
 香登は竹井の頭を軽くこづいた。
「だから言っているだろう、無理するなって」
「無理って……」
「何て言うか、竹井君てそうやって何もかも自分のせいだと、自分が悪いって決めてかかっていないか?自分が悪いから、自分がやらないと駄目だって……今日の出勤だってもともと安佐君のやるべき仕事だろ。あいつの文書は滅茶苦茶だから手直しに時間がかかったんだろ」
「はあ」
「だったら、安佐君にやらせれば良かったんだ。間に合うとか間に合わないとか……それもあるかも知れないけど、少しは他人に任せるって言うのも手だぞ」
「……」
 黙ってしまった竹井に香登はため息をつく。
 杉山にいたっては、頷いていた。
「そうだよ、今日だって俺も出ているから、安佐君だってそんなに忙しくなかったはずだ。手順書位直せるはずだ」
 だけど、これは俺の仕事だから……。
 その思いが沸き起こる。
 俺はこれしか取り柄がないから。
「とりあえずは、今日は送っていくからな」
「あ、でも俺の車……」
「月曜の朝、迎えに行くから駐車場に置いておけ」
「はあ……」
 結局押し切られる形ではあったけれど香登の申し出を受け取ることにした。
 包帯に包まれた右手は曲げることが出来なかったから。


「竹井さん、薬です。化膿止めは毎食後、痛み止めはその都度だそうです」
 事務所で片付けをしていると安佐が戻ってきた。
 竹井に近寄り薬を渡す。
「ありがとう」
 受け取った薬の袋は意外に重い。
 結構量が入っていそうだ。
「すみません、俺の設計が悪くて……試作でエリアセンサ外したの忘れていたし……」
「安佐のせいだけじゃないよ。俺も電源切っていないのに手をつっこんだんだし。俺ってそういう所、いい加減でさ、つい手が出てしまう」
 竹井の自嘲めいた言葉に安佐は首を振った。
「でも、俺焦って原点復帰出来なかったのに、竹井さんの的確な指示で俺操作できたんです。竹井さん、自分が挟まれているのに、凄く冷静で、俺感心しました。凄いです」
「だって、寸前までその手順書作っていたんだぞ。ちゃんとその中に非常停止後の操作方法まで書いてあったじゃないか。ちゃんと必要な項目が入っていたって事だろ」
 笑みを浮かべて安心させるように言うが、安佐の表情は強ばったままだった。
「でも、俺は思い出せなかった……それに」
「安佐君?」
「この手……痛そうです」
 すっと安佐の両手が竹井の右手を手に取る。
 包帯に包まれたその右手はまだ麻酔が効いていて、痺れたように感覚がない。
「俺……この手がキーを操作しているの、好きなのに……」
 ずきん
 感じないはずの右手から痛みにも似た疼きが走った。
 何だ?
「安佐……」
 思わず出た言葉に、安佐がはっと手を離す。
 離されて行き場を失った竹井の手がゆっくりと降りる。
「すみません」
 安佐は一言言うと、さっと振り向いて走るように去っていった。
 竹井は呆然とその場に突っ立っていた。
 香登に呼びかけられるまで。
 

                   ☆☆☆☆☆
『FOOLPROOF』
???安全対策の合い言葉。
   「フールプルーフ」=「馬鹿でもできる」
   転じて、誰がやっても安全であること。
   だけどこれを実現するためにはとってもたいへんなので……???



 香登に送ってもらい、途中で昼用と夜用の弁当の買い出ししてから家へと帰り着いた。
「明日は日曜だしゆっくり休めよ。その手、指先だから結構薬が切れたら痛いかもな」
 玄関先で香登が言う。
「それと、何か不自由があったら遠慮なく電話してこい。その手だと日常生活も結構不自由だろ」
「ありがとうございます。でも大丈夫だと思います。何とかなりますよ」
 心配そうな香登に笑いかける。
「じゃあな。月曜は7時頃ここに来るから」
「はい。判りました」
 ドアが閉じられかけ、再度ドアが開かれた。
「香登さん?」
 思い詰めたような香登に、竹井は息を飲んだ。
「お前……たぶん自覚していないんだろうけど……」
 いいにくそうな香登に竹井は首を傾げる。
 自覚?
 この人は何を言いたいんだろう……。
「いや、いいんだ」
 そのままばたんとドアが締められた。
「ちょっ!」
 竹井は慌ててドアを開けようと右手を伸ばし、開けられないことに気が付いた。
 じっとその右手を見て、竹井はため息をついた。
 香登の指摘通り、麻酔の切れた傷がじんじんと疼く。
「香登さん、何が言いたかったんだろう?」
 何を自覚していないって?
 竹井には見当も付かなかった。 


 ばたばたしていて、凄く疲れていた。
 コンビニで香登に指摘されるまで昼を食べ損ねていたことに気付かなかった位に。
「薬を飲まなきゃ」
 食欲は無かったが、薬のためと思い少しだけ口にした。
 最初から食べられないだろうなと思っておにぎりが二つ入っただけの物を買ったのだが、それでも一個しか食べられなかった。
 一緒に買ったお茶で薬を流し込む。
 疲れた……。
 言い様のない躰の怠さに、竹井はのろのろと立ち上がるとベッドに倒れ込む。
「今頃杉山さんも安佐君も試作の残りして、装置の設定なおして……大変だろうなあ」
 ぽつりと漏れた言葉に、竹井は中空に視線を向けた。
 月曜に製造に移さなければならない装置。
 だけどこの事故の対策をしない限り、製造は受け取ってはくれないだろう。
 事故を起こすような装置は、使えない。
「安佐君、がんばっていたのに」
 連日残業して、移すための準備をしていた安佐。
 一緒に昼を取りましょうって言っていた安佐は、もう少しで終わるはずの仕事に、随分と楽しそうだった。 なのに。
 ふと、安佐の暗い顔が浮かんできた。
 本当にすまないことをした。
 月曜日にきっと安佐が責められる。
 前の時、香登が責められたように。
 あの時もつらかった。だけど、今はもっとつらいような気がする。
 安佐の事を考える度に、自分のドジさ加減を思い知らされる。
 よりによってこんな時に……。
 青ざめて強ばった安佐の顔、見ないようにしたのにはっきりと思い浮かんでしまう。
 あんな顔をさせたのは竹井自身。
 それに、薬を受け取ったとき、安佐は何て言っただろう……。
 竹井の手を取り、呟いた言葉。
 竹井はかっと躰が熱くなるった。
 どういう意味なのかは判らなかった。
 しかも自分の躰に起きた反応は、竹井自身把握仕切れない物で……。
「安佐……」
 ぎり
 唇を噛み締める。
 名前を呼ぶと、胸が締め付けられるように苦しくなる。
 自然に溢れ出た涙が、頬を伝う頃。
 安佐……。
 竹井は安佐に惹かれている自分がいることを……自覚した。

                   ☆☆☆☆☆

 日曜日、昼頃まで寝て過ごした。
 夜中に傷が疼いたせいで慌てて飲んだ痛み止めが効くまで寝られなかったせいだ。
 竹井は起き抜けの働かない頭を右手で叩き、頭より右手の方に痛みが走って眉をひそめた。
 何やってんだか……。
 右手の包帯を見つめる。
「あー、朝の薬飲んでなかった……」
 どうしよう。
 でも、朝の分先に飲んで、少しずらして昼食べてから昼のを飲めば……。
 竹井はとりあえず牛乳を一杯飲み干し、薬を飲みこむ。
 窓の外を見ると青空が広がっていた。
「洗濯しないと……」
 一人暮らしで溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込む。
 だが、左手だけで洗剤をすくって入れようとすると上手くいかない。
「……」
 竹井はため息をつくと、箱ごと抱えて適当に流し込んだ。
 一通りの家事が何もかも面倒だった。
 髭を剃ることすら、片手では上手く隅々まで剃れない。
 結局、着替えて終わるまでに1時間はかかってしまった。
 疲れた……。 
 やっと着替え、洗濯も干し終わり、疲れた躰をベッドに投げ出していた時。 
 ぴんぽーん
 玄関のチャイムが鳴った。
 時計を見ると3時がきていた。
 こんな時間なんて……セールスか?
 起きていくのも面倒で放っておくと、再びチャイムが鳴る。
 仕方なく竹井は立ち上がり玄関先へ声をかけた。
「はーい」
「あ、竹井さん!」
 聞き慣れた声に慌てて鍵を開ける。
「安佐君……」
 目前に、緊張しているのかひきつった笑みを浮かべた安佐が立っていた。
「あの、夜の弁当なんです。香登さんが、竹井さんは食事が作れないから持っていってくれって」
 竹井は安佐の手元を見、そして再度視線を安佐の顔に向けた。
 どうしてここに……。
 安佐は竹井の家の場所を知らない筈。
「竹井さん?」
 突っ立ったままの竹井に、安佐が困ったように呼びかける。
「あ、ああ、ごめん。入ってくれ」
 躰を除けて、安佐を招き入れる。
「よく家が分かったな」
「あ、香登さんが地図書いてくれたんです。あっ、それとこれ」
 小さな箱を差し出す。
 開けなくても中身が判る箱。
「竹井さん、ケーキ好きだって聞いたんで」
 受け取って開けてみるとフルーツたっぷりのケーキが2つ入っていた。
 何だか安佐とケーキが似合わなくて、くすりと笑みが漏れる。
「ありがとう。だけど誰に聞いたんだ?」
「香登さんに」
「ああ、そうか」
 先日ファミレスでケーキを食べた事を思い出す。
 確かあの時の会話の内容って……。
 安佐はまだ俺に嫌われていると思っているんだろうか?
 安佐を和室のテーブルに招くと、皿とカップを出し安佐の前に置いた。
「一緒に食べよう。ただちょっとこの手なんで……すまないがコーヒー入れてくれないか?」
「あ、はい」
 安佐が慌てて立ち上がり、インスタントのコーヒーを入れる。
 竹井は動かない右手で箱のふたを押さえ、左手でそっとケーキを取り出した。
「手、痛くないですか?」
 コーヒーを置きながら安佐が問いかける。その言葉に竹井は右手に視線を落とした。
「痛くない。大丈夫だから」
 本当は少し痛い。
 というか、手を動かすたびにじくじくと鈍い痛みが走る。
 はっきり言って、怪我した直後より厄介な痛みだと思う。
 うっとうしい痛み。
 だけど、安佐にそれを言う訳にはいかない。
 それでなくても、安佐には迷惑をかけてしまった。
「それより装置の方は大丈夫か?明日、製造に移せそうか?」
「え?あ、はい、それは何とか。今日も最終チェックして、安全確認もしました。非常停止後の動作もプログラムを直して貰ってますし、エリアセンサもきちんと付け直したんです。あれなら「フールプルーフ」でOKだって。香登さんが最終チェックしてくれたんです。これなら大丈夫だろうって……」
「香登さんが?」
「昨日、竹井さんを送られた後、また会社に来られたんです。今日も朝来られてチェックされました」
「あの後に……」
 なんだか凄く申し訳ない。
 俺のせいで休日の筈の香登さんまで振り回してしまった。
「あ、で、香登さんからの伝言なんですけど……」
 安佐が上目遣いに竹井を窺いながら言った。
「気にするなって……そう言えば判るからって」
 その言葉に苦笑するしかなかった。
 なんだか香登さんにはすべて見透かされている気がする。
「竹井さん……今回のこと、本当に自分のせいだと思っているんですか?」
「え?」
 安佐の暗い声に、竹井は安佐に視線を向けた。
 と、じっと竹井を凝視している安佐と目が合ってしまう。
 まただ。
 強い視線に捕らわれそうになる。
 静かな声と同じく、静かな視線だと思う。
 なのに、強い。
 目が離せなくなりそうで、慌てて視線をずらした。
 質問の意味、考えたくなくて、安佐の前に置かれたケーキを見つめる。
 イチゴとキウイ、白桃に黄桃……生クリーム。
 甘そうだな……。
 だけどその甘さが好きだった。
 安佐はケーキは好きなのだろうか?
「竹井さん、聞いています?」
 はっと我に返り、口を固く結んだ。
 どうやら答えるのをじっと待っているのだ。
 ……。
 自分のせいだ、と思っている。
 だけど、そんな事を言ったら安佐は否定するだろう。
 いや、香登さんと話をして竹井が自分のせいだと思っていることを知っているから、こんな事を聞いてきたのだ。
 反応の判っている問いをなぜ聞いてくるんだろう?
 竹井は息を吐いた。
「なあ、先にケーキ食べないか?俺、朝から何も食べていないから腹減った」
 その言葉に安佐は鼻白んだようだが、微かなため息とともに無言でフォークを手に取った。
「ほんと、俺ケーキ好きなんだけどなかなか買えなくて。なんか、1個だけ買うのって買いにくくて」
 仕事の話を安佐としたくなくて、話題を逸らす。
「そうですね。たまに食べるのもいいですけど、かといってまとめて食べるのはなんか嫌ですね」
 安佐が話を合わせてくれることかうれしくて、竹井の顔に笑みが浮かんだ。
 それに気付いて、安佐が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「何?」
「やっぱ、竹井さんて笑ってる方がいいですね。すっごく優しい感じになる」
「そうか?」
「俺、竹井さんが笑ってくれるならいつだってケーキ買ってきますよ」
 言われて、顔が赤くなる。
「べ、別にケーキがあるから笑う訳じゃない」
 むっとして言うと安佐が声を出して笑い出した。
「いいじゃないですか。竹井さんて線が細いところあるし、ケーキでもしっかり食べて太った方が体力付くかも」
「何言ってんだよ。ぶくぶくの脂肪太りになるか糖尿になるかが落ちだろう」
「大丈夫ですって。だいたい竹井さんって、最近やせてきてません?顔色悪いこと多いし」
「そうかな?」
 そうは言うが、自分でもやせているのは判っている。
「香登さんも言ってましたよ。竹井さんは悩み事があるとすぐやせてくるから判るって」
 か、香登さん……。
 竹井は指を額に当てて下を向いて唸ってしまう。
 そんなこと安佐に言わないで欲しい。 
「あのですね。その悩みって俺のせいですよね。俺の仕事、本当は嫌なんですよね。厄介な物ばっかり押しつけて……」
「そんなこと……ない」
「竹井さん、優しいからどんな仕事だって拒絶しないでしょ。だから、ついつい頼んじゃうんです。俺、そういうの苦手だから」
「だってそれが俺の仕事だから、頼まれたらやるよ。別に安佐の仕事だから嫌だとは思っていない」
 ああ、そうだ。
 今、気が付いた。
 安佐の仕事だから嫌なんじゃなくて、ややこしくて面倒だから嫌なんだ。
 だって、安佐の事嫌いじゃない。
 それにどんなにややこしくて面倒でも、これは俺の仕事。
 呪文のように胸の中で呟く。
「俺、もう少し文書作成巧くなりたいんです。竹井さんの手、煩わせなくてもできるように。今回の件、無事済んだら、絶対巧くなろうって思っていたんです。そしたら、竹井さんに無理を言うことも無くなりますし」
 にこやかに言う安佐に、竹井の胸は痛みが走る。
 なんだかすごく寂しい。
 だけど、安佐ががんばろうとしているのに、どうして自分が何か言える?
 でも、安佐が手元からどこかに行ってしまいそうで……。 
 昨日自覚した思いが急にわき起こる。
「安佐君……」
「はい?」
 返事をされて、始めて自分が呼びかけたことに気が付いた。
 どうしよう。
 狼狽える竹井をじっと見つめる安佐に竹井は堪えられなくなる。
 だけど。
「安佐君ならきっと巧く作れるようになるよ」
 そうとしか言えなかった。

                   ☆☆☆☆☆
『公差』
???機械加工で、工作物の許しうる最大寸法と最小寸法との差。許し代(しろ)???
   

「安佐君、昨日ちゃんと行ったか?」
 車に乗った途端、香登が問う。
「あ、はい。弁当持ってきてくれました。香登さんに言われたと。ありがとうございます」
 竹井が軽く会釈をすると、香登は可笑しそうに軽く握った拳を口元に当てながら笑った。
 安佐とは結局、夕食までたわいのない話をして過ごした。
 仕事の話になりそうになると竹井が意識的に話を逸らしたのだ。
 安佐は気づいているのかどうかはわからなかったが、そんな竹井に話を合わせてくれた。
 だから、楽しかった。
 今だって思い出すと楽しい気分になれる。
 こんなに安佐と話をしたのは久しぶりだった。
「安佐君ね。竹井君のことものすごく心配しているくせに、一向に見舞いに行く決心がつかないようだから、理由をつけて行かせたんだ」
「ああ、そうなんですか」
 その光景が簡単に脳裏に浮かんでしまい、竹井はくすりと笑みが漏れた。
 思い描いたその姿はまだ入ったばかりの頃の安佐。
 竹井の指示にどうしていいか判らなくて狼狽えている時の安佐。
 懐かしいなあ。
 あの頃に戻れるといいのに……。
 叶うことのない想いを考えてしまい、自嘲気味に笑みを静めてしまう。
 何やってんだか……。
「で、自覚した?」
「え?」
 いきなり脈絡のない言葉に、竹井は目を見張った。
 自覚って……。
 何のことだ?
「あの……何を自覚するって?」
 困ったように問いかけると、香登はちらりと竹井を見、そして視線を前に戻した。
「竹井君が悩んでいる原因」
 ぽつりと漏らした言葉に竹井は首を傾げる。
 何で安佐君の話から、そんな事になるんだろう。
「別に悩んでなんかいませんけど……」
「何だ、まだ自覚していないのか。安佐君が行ったから自覚してくれると思ったんだけど……」
「何で安佐君が関係あるんですか?」
 判らなくて首を傾げる。
 悩んでいることはある、と思う。
 それに安佐に惹かれている自分は自覚したけど……これは悩みなのだろうか?
 だが、それを何故香登が気にするのか竹井には判らない。
「いや、いいんだ……」
「どういうことですか?」
 言葉を濁して誤魔化そうとしている香登に、竹井は気になってしようがなくて問いかける。
「まあ、竹井君が元気になったようだし、これはこれで良かったかなって……」
 何が良かったのかね、なのか判らない……。
 訝しげな視線を向けるが、それっきり香登は口を開こうとしなかった。


「おはよーございます」
 更衣室で一苦労して作業着に着替え、生産技術課の事務所に行くと、一斉に中にいた5人ばかりが竹井に寄ってきた。
 杉山もいる。
「おはよー。どうだ、手の具合は?」
 問われて、竹井は右手をみんなに見せた。
「こんな状態のままなんで、中がどうなっているかはわかりませんけど」
 気を遣わせることのないように笑って返す。
 興味津々な質問にも喜んで答える。
 怪我の事なんて、何でもない。
「おはようございます」
 眠たそうな声とともに安佐が事務所に入ってきた。
 どきりと心臓が跳ねる。 
 何だ?
 自分の反応に驚く自分がいる。
「ああ、安佐君。9時から緊急安全委員会あるから。事故報告書は出来ているか?」
 香登の言葉に今度は胸に痛みが走る。
 緊急安全委員会……やっぱりあるんだ……。
「はい。あ、そうだ」
 安佐が机の引き出しから紙を一枚取り出した。
「これ、事故報告書って、怪我の具合とか書くところあるんですけど、俺聞いてなかったんです」
 竹井に差し出す。
「ああ、ここね。えっと『裂傷と圧迫』で『20針、全治2週間』って書いといて」
 包帯に包まれた右手でその欄を指し示す。
 普通通り話せている自分にすこしだけほっとする。
「はい、判りました」
「おい、その欄に確か怪我の場所を絵で描くんじゃなかったっけ」
 杉山の言葉に竹井も思いだしたように頷く。
「それと写真がいるからね。ある?」
「あ、まだ撮っていません。デジカメどこだっけ?」
 安佐がばたばたとキャビネットからデジカメを取り出す。
「じゃあ、俺、怪我の場所の図描いておくから、安佐君が写真撮ってきて」
 杉山が事故報告書を竹井から受け取る。
「はい」
 元気の良い返事と共に安佐が事務所を飛び出していった。
 それを何とはなしに見送っている竹井に杉山が問いかける。
「で、どこだっけ?」
「え?」
 問われた意味が一瞬判らなくて狼狽える。
「怪我の位置は?」
「あ、そうですね。右手の平、親指のここから……」
 杉山の手を借りて説明する。
「薬指の付け根から曲がって人差し指の先までです」
「OK。これって単純な四角の刃でよかったなあ」
 しみじみと言う杉山に竹井も頷く。すると周りの同僚達も口々に賛同した。
「ほら、岡さんのR一杯の刃だったら、もっと怪我の程度ひどかったんじゃない。
波打った傷口になって……」
「いや、ほら穴が一杯ある刃あったじゃない。φ6が5つ程の……」
 くすくすと笑いが漏れる。
 他人事で、しかも当の本人が元気なものだから、好き勝手なことを言い出す。
 竹井もそんな傷跡が自分の手にあるのを想像して、思わず笑みを漏らした。
 治療した医者だって、もっと大変な目に遭っていたに違いない。
「そんなことなら、もっと複雑な形で小さかったら、その刃型の図面探さなくてもこの手を見れば判るって事になったかも知れませんねえ」
 竹井の言葉に、部屋の中が一瞬静かになり、そして全員一斉に吹き出した。
「そりゃ、いい」
 何がいい?
 そんなことは誰にも判らない。
 だけど竹井も自分の言葉が可笑しくて声を出して笑う。
 竹井の言葉に触発されて、皆が口々に自分が経験した怪我談義になってしまった。
 自慢げに自分の怪我を話す人に他の人がつっこみを入れる。
『だからこのシステムはこういう安全対策になったんだよな』
 その言葉に皆が頷き、そして次の話題になる。
 ああ、結構みんな怪我しているんだ。 
 だけどそれは既に過去のことで、今ここに皆が揃っている以上、懐かしく楽しい経験談なのだ。
 経験に勝る物はない。
 みんなそれぞれの経験を生かしてここにいる。
 俺の怪我もみんなの経験の一つになるんだろうか。
 安佐にとって良い経験になるのだろうか。
 そう考えると嬉しくなる。
 みんなと一緒に笑うことが楽しい。
 同じ仕事をしている仲間なんだって思える。
 本当に、久しぶりに心の底から笑ったような気がした。
 あまりに楽しくてこの時ばかりは仕事の悩みも、安佐の事も何もかも忘れた。
 写真を撮影して帰ってきた安佐が、賑やかな事務所に何事かと目を見開いたのにも気づかなかった。

「どしたんですかあ?」
 しばらく突っ立っていた安佐は、誰にも気づいて貰えそうにないので仕方なく話しかける。
 と、竹井がくるっと振り向いた。
「ああ、安佐君。写真撮れた?」
 笑いすぎて潤んでしまった目元を指で押さえる。
 口元の笑みは消えないままだ。
 すっかりテンションが上がってしまって、安佐と普通に会話できているのにも気づかない竹井がいた。
 それに気づいた安佐が目を見開く。
「あれ?撮れなかった?」
 竹井の何気ない言葉に安佐は嬉しそうに竹井を見つめた。
 安佐の頬が少し赤い。
 部屋が外より暑いのかなと、首を傾げる。
「撮れてます。これ竹井さんのパソコンにつなげるんですよね」
 そう言って差し出すデジカメを竹井は受け取った。
 少し古い方のデジカメで、RS232C経由でデータをやりとりするタイプだった。そのケーブルは竹井のパソコンに付いている。
「すぐやるよ」
 受け取ったデジカメをケーブルに接続しようとして、はたと手が止まった。
 片手でできる作業ではなかった。
 それに気づいた安佐が慌ててデジカメを受け取る。
「接続はやります」
「ん」
 安佐に接続を任せると取り込みソフトを起動させようとしてまた手が止まる。
 まずいぞ、これは。
 マウスは動かせる。
 手を載せて動かせばいいのだから。
 だが、クリックできない。
 右手の指は小指以外動かせないように包帯でしっかりと固定されている。
 人差し指は指先の怪我だから、いつもの倍はあろうかという位包帯で巻かれている。
 どうしよう、仕事にならないかも……。
 これでは役立たずだ。
 落ち込みかけ眉をひそめる竹井に香登がはっと気が付いた。
「安佐君」
 香登の呼びかけに安佐が顔を上げる。
「はい?」
「君は当分竹井君直属の部下な」
「え?」
「はあ?」
 竹井と安佐の声が被る。
「その手だとマウスの操作もできないから、手伝いなさいって事」
「はい!」
「で、でも」
 元気で嬉しそうな安佐の返事と狼狽えている竹井の言葉が事務所内の笑いを誘う。
「いいねえ。しっかりやりなよ安佐君」
「ほんとほんと、竹井君の仕事が滞るとみんな困るんだからね。竹井君も安佐君をこき使って早く治しなよ。そんな遠慮なんかしなくていいからさ」
「す、すみません」
 困る、という単語に反応して反射的に漏れた言葉に、香登が笑みを含ませ言う。
「謝ることはないよ。みんな君に頼りっぱなしだったんだから、いい機会だよ。しっかりと困らせてあげなさい。そうしたら復活した時の仕事が楽になるから」
「2週間だけだもんなあ。しようがない、がんばるかあ」
 杉山の言葉に皆が苦笑いを浮かべながら頷いた。
 その心遣いが嬉しくて、顔が綻んでしまう。
 ああ、少しは頼られていたんだ。
 だから嬉しい。
「とりあえず、治すことが先決だよ。2週間もしたら治るんだから、余計な事は考えないこと。怪我したところは動かさないように言われているだろう。医者のOKが出るまで、右手が必要なときは安佐君をこき使いなさい。彼は君の部下なんだからね」
「はい、判りました」
 香登の言葉に、竹井は今落ち込んだことも忘れて、嬉しくてなって頷いた。


 香登と安佐が会議に行った後、静かになった事務所で竹井は自分でもできることを探していた。
 香登はああは言ったが、全てが安佐に頼れるわけではない。
「マウスは慣れるまでが大変だけど左利き用にすればいいか……キーボードは何とかなると。テンキーが使いにくいよなあ……」
 それに今日は安佐の手順書なんかの仕上げがあるはずだけど。
 土曜のトラブルから考えると、まだ見直しが済んでいない可能性の方が高い。
 ため息をつくと、他の仕事からすることにした。
 それでも一度上がったテンションのお陰で何をするにしても楽しい。
 こんなに仕事が楽しいと思ったのは、久しぶりだった。
 どうしてこんな事を忘れていたのだろう。
 嫌な言葉を忘れるついでに、楽しく仕事をする事も忘れていたのだろうか……。
 自嘲めいた嗤いが口元に張り付く。
 だが、それも一瞬だった。
 仕事をしないと……。
 まずはCADで図面を引く仕事が1件。
 立ち上げるのにも手間どってしまう。
 マウスをのろのろと動かし、線を引く。
 む、難しい……。
 習ったばかりの頃を思い出す。
 ピンポイントでクリックするのがこんなに難しいことだなんて思わなかった。
「あ、手伝いますよ」
 いきなり背後から呼びかけられて、ぴくりと大きく躰が揺れた。
 狙いを定めたカーソルがずるりと別の場所に移動してしまった。
「驚いた」
 むすっとして言いながら背後を見ると、安佐が立っていた。
「すみません、驚かすつもり無かったんですけど」
 ひどく恐縮しているその様子が子供のようだと思い、竹井はくすりと笑った。
 途端に安佐がほっとするのが判る。
「いや、いいんだけど。もう終わったんだ?」
 30分ほどしか時間がたっていない。
「はい。事故処理とか、装置の改造が全て終わっていたんでみなさんの印象が良かったんです。他の装置の対策は必要ですけど」
「そっかー。良かった」
 竹井が笑うたびに安佐が嬉しそうな顔をする。
 昨日もそうだった。
 何気なく笑うとひどく嬉しそうにして、とにかく場を和まそうと努力しているのが判った。
 俺ってそんなにずっと仏頂面だったんだろうか?
 安佐の仕事は嫌だと思いこんでいたから、それが顔に出ていたんだろうか。
 朝の事務所の賑やかさが竹井のテンションをあげていた。
 だからこそ、こんなに安佐と和やかに話ができるのだと思う。
 でないと、今日の委員会の件もあって落ち込んでしまっていただろう。
「しばらく竹井さんの直属の部下と言うことなので、よろしくお願いします。何でも言ってください」
 にこにこしている安佐に竹井は困ったように苦笑した。
 ほんとに困っていた。
 竹井の部下になることは臨時で決まったことで、安佐自身の仕事はそのままなのだ。
 それを考えるとそうそう頼れる物ではない。
「それよりさ、この前渡した手順書は見直し済んだ?」
「あ、いえ、まだです」
「じゃあ、それからやってよ。でないといつまでも仕上げられないし」
「でも……」
 何か言いたげな安佐から視線を外す。
 CADの画面に向かいながら、言葉を継ぐ。
「でもじゃないだろ。俺、これでもゆっくりやっているから……そっちの方が急ぎなんだからね」
「はい……」
 仕方なくと言った感じの安佐に再度振り返る。
「さっさとやってしまおうよ」
 そう言って竹井が何気なくにこりと笑いかけた。
 と、安佐が真っ赤になった。
 それこそ、一瞬で耳まで赤くなったという形容がそのまま当てはまるほど。
 安佐の手の甲が口元に当てられる。
「俺……」
 そこには明らかに狼狽えてどうしていいか判っていないような安佐がいた。
「安佐君……?」
 呆気に取られて声をかけると、はっと我に返った安佐は脱兎の如く事務所から飛び出していった。

                   ☆☆☆☆☆
『危険予知』
???どんなところが危険なのか、あらかじめ考えておくこと。あるいはその訓練
   たとえばカッターを使う前に、何をどうすれば危険なのかがどの程度想像できますか?ってこと???



 一体どうしたんだろう……。
 大きな音を立てて閉まったドアを呆然と見つめる。
 何が起きたのか理解できなくて、そのまま固まっていると、ドアが開いた。
 外を気にしながら入ってきたのは香登だった。
「なんか安佐君が血相変えて走っていったけど、また何か事故った?」
 竹井の方を向き、不審そうに問いかける。
「いえ、別に連絡は無かったようですが……」
 寸前まで普通に話していたし、電話も何もなかった。
 何が起きたのか竹井自身が聞きたいくらいだ。
「ふーん、じゃあ、腹でも壊したかな」
 香登が冗談めかして言う。
「そういう気配も無かったですけど……普通に仕事の話をしていて。でも、なんだか急に顔色が赤くなって……そうなんでしょうか」
 竹井が考え考え言うと、香登は持っていた書類をばさっと床に落としてしまった。慌ててかき集めている香登の視線が探るように竹井を窺う。
「赤くなっていたって?」
「はい、急に赤くなって狼狽えて、で、飛び出して行ったんですけど……」
 その言葉に香登がため息をつく。
「安佐君が赤くなる前に、竹井君が何か言うか、するかした?」
 何でそんな事を聞くのか?
 言葉の意味がよく分からなくて、首を傾げる。
「さっさとやってしまおう、というような事は言いましたが……」
「やってしまおう……って……それって、笑って?」
「え、ええ。笑ったと思います」
 その言葉に力無く椅子に座り込んでしまった香登を訝しげに見つめる。
 『何やっているんだあいつは……』
 呟くような言葉が香登の口から漏れた。
 だが、その声が小さくて竹井にはうまく聞き取れない。
「何ですか?」
「いや、何でもない。まあ、そのうち戻ってくるだろうけど……」
 香登はちらりと竹井を見、そして閉まっているドアを見る。
「その間、できそうなことをしていてくれ」
「はい」
 何がどうなっているのか?
 何で香登がため息を付いているのか検討がつかない。
 しかし、あんなふうに安佐に出て行かれると、何か自分がしたんだろうか?と思ってしまう。
 結構いい雰囲気で楽しく仕事ができそうだったのに……。
 なんだか寂しくて、自然とため息が出た。
 俺、何か気に障ることでも言ったんだろうか……。
 それに、安佐がチェックしてくれないとこのペースでは水曜日までに終わらない。
「早く帰って来いってば。水曜まで終わらないじゃないか……」
 呟いている竹井に気が付き香登は小さなため息をついた。
 そして意を決したかのように瞳に強い力を蓄え、口を開いた。
「竹井君、今日の安全委員会なんだが……」
「はい?」
 手を止め、椅子ごと香登に振り返る。
「とりあえず、安全装置の作動確認と、非常停止後の作動確認が議題に上がってね」
 予想通りの事に竹井は頷く。
「で、一部手順書の改訂があるだろうからそれは竹井君に依頼が行くと思う。まあ、できる範囲でいいから無理をしないようにやってくれ。現行で製造が扱っている装置の手順書が最優先になる」
「はあ……」
「それと安佐君の装置の製造への移管なんだが、製造リーダーの坂本さんとも相談して来週の金曜日まで延びる事になった。それまでの受注分はこちらがメインで製造がサポートという体勢で生産することになる。まあ、数量がたいした事ないから。だから杉山君と安佐君がメインで動いて貰う。だから安佐君から依頼されている資料は後回しでいいから」
 後頭部を殴られたようなショックを受けた。
「やっぱ、俺が怪我なんかするから、スケジュール狂っちゃいましたね」
 眉をひそめ、ぽつりと漏らす竹井に香登は首を振った。
「君の怪我は必然だった。だが、その根本である君が悩んでいることを放置した俺に責任がある」
「え?」
 ここでなんで香登の責任が出てくるのが判らない。
 必然?俺の怪我が何故?
 だが、香登はふっと口元を綻ばせた。
「君はすぐ落ち込むから本当はさっきの移管が遅れる件、言うつもりは無かった。だけど、いい加減君を落ち込ませている原因に向き合わないと、もっと大きな怪我をすることになるかも知れない……そう思うと言わずにはいられなかった。本当は気付いてくれるのを待っていたんだがね……」
 言わなければならない。
 その決意が香登を後押しする。
「竹井君、もうこれ以上落ち込むな!」
 強い言葉に、竹井はびくりと顔を上げた。
 香登のきつい視線をもろに浴びて、顔が強ばる。
 動かない筈の右手が拳を作ろうとした。
「今回の事故は装置が悪かったんだ。設計した安佐君が悪かったんだ」
「で、でも!」
「何故君が手順書の担当になったのか覚えているか?」
 いきなり振られた質問に頭が回らない。
 手順書の担当?
 いつからだろう。
 気が付いていれば、作っていた。
「……いいえ」
「文章をつくるのが巧かったってこともある。だが、一番の要因は怪我をしたことによって誰よりも危険予知に優れるようになったから、だ。その事も忘れてしまったのか?」
 言われて思い出す。
 確かにそう言われて、竹井はそれを喜んで受け入れた。
 忘れていた。
 俺は喜んでこの仕事を引き受けたのだ。
 俺がきちんとした手順書を作ることでこんな怪我をする人が一人でもいなくなるように。
 竹井の表情が変化したのに気付いた香登は、一呼吸すると精神を落ち着かせた。
「君の作る手順書は製造に受けがいい。わかりやすいし、必要なことが網羅されているからね。先日の怪我をしたときも、手順書を作った君だけが対処法を知っていた。設計に携わった安佐君よりもね。なぜだか判るか?」
「いえ」
「いつだって君は頭の中で考えているんだ。手順書を作りながら、図面を引きながら……どうすれば危険でないか。どうしたら危険から逃れられるか」
 そう……。
 いつも思ってしまう。
 刃先を見たら、それが与える傷を考えてしまう。
 怖いとは思わないのだが、あらかじめ想像がつくから、そういう行為に及ばないように注意できる。
 装置を見たら、どういう時にそれが凶器になるのか、それを思い描いてしまう。
 前に怪我をしてから、自然と身に付いてしまった思考。
 だけど、この先日の怪我の時は、そんなこと一つも思い浮かばなかった。
 装置を見ても、何にも思い浮かばなかった……。
「あの時、俺、何にも思わなかった。引っかかっている物を取ることしか頭になかった」
 自嘲めいた言葉に、香登も口の端を上げる。
「あの時、血だらけの装置を見て、安佐君がしたんだと思いこんでいた。生産技術の人間が怪我して病院に運ばれたってだけは聞いて、病院に向かったから。でも待合いで杉山君も安佐君もどこも怪我した気配もなく座っていたから、呆然としてしまった。だから杉山君の口から事の顛末を聞いた俺の驚き、どのくらいだったと思う?あの時、竹井君が治療を終えて出てこなかったら、俺はあの二人をあの場で叱りつけていただろうね」
 言われてあの時、二人が安堵していたのを思い出す。
 あれって絶妙のタイミングだったのかも知れない。
「それにその思いをしたのは俺だけではないよ。今日の会議の後、坂本さんが言われたんだ。彼は君のことも良く知っている。その彼がね、信じられなかったって。怪我をしたのが竹井君だって事が、この目で見るまで信じられなかったって……みんなね、知っているんだよ。この生産技術課で誰が一番安全に心を砕いているかってこと。だから今日の結論は、そんな君でさえ怪我をする装置が悪いのだと言うことになった」
「俺のせいだ……」
「そうでないと言うことも、そうだよと言うことも出来るね」
 曖昧な言葉に眉をひそめる。
 今まで、頑ななまでに竹井のせいではないと言っていた香登が、竹井のせいと言っていることに違和感を覚える。
「装置が悪いのは確かだ。それは安佐君のせいになる。が、普通だったら怪我をするような行為からもっとも遠いと思われている君が怪我をしてしまったということが問題なんだ」
「問題って?」
「危険予知ができる君にさえ、危険を予知させない機械装置は使えない。そう、坂本さんは言われた」
 頭の中が混乱してきていた。
「俺は……」 
「一度身に付いてしまっていたそういう思考の仕方を忘れるほど君は落ち込んだ。自分がそこまで落ち込んでいるという事実を自覚しているのか?……していないだろう」
 俺ってそんなに落ち込んでいたのだろうか。
 普通に振る舞っていたつもりだった。
 何も言わず唇を噛み締めている竹井に香登は立ち上がり、傍らに移動する。
「だけど、生産技術の人間以外は君が落ち込んでいるのを知らない。危険予知が出来なくなっているほど悩んでいるのを知らない。だから今回の件は安佐君が悪いってことになる」
「俺のせいで」
「そうだよ、君のせいだ。君がいつまでもそうやって落ち込んでいるのが原因だ。安佐君を嫌っていないって言ったよな。だったら、安佐君のためにも以前の竹井君に戻りなさい。君がいつまでも落ち込んでいるってことは何の解決にもならない。君を落ち込ませて悩ませてしまったことは俺達も悪いんだから。これは生産技術課全員の責任なんだ」
 その言葉に竹井ははっと顔を上げた。
 香登は優しい笑みを浮かべ、竹井を見つめる。
「これはみんなの責任だ。竹井君と安佐君だけが悪いのではない。悪いのは冗談でも馬鹿なことを言った連中だからね」
 それを聞いた途端、竹井の顔から音を立てて血の気が引いた。
 まさか?
 呆然と見つめる竹井に、香登は苦笑を返す。
「ずいぶんと苦労したよ。言った本人達も忘れていたからね。ただ、この前ファミレスで話をした時に、やっと細かい時期がわかったから、その辺りを集中して調べた。特に安佐君との仲がおかしくなった時期が同じ頃だと判ったし」
「まさか……」
「ちょうど安佐君からも相談を受けていたからね。安佐君にその時期に何か無かったか問いただした。そしたら安佐君もね日曜日にね、やっとのことで思いだしてくれたよ、それで合点がいった」
「……」

『竹井君は、よくあんな地味な仕事やっていられるよなあ』
『あいつは不器用だからな。プロセスエンジニアには無理だよ』
 そして竹井を見る安佐。 

 脳裏に鮮明にフラッシュバックする。
 忘れようとした言葉。
 忘れようとした目。
 ファミレスで思い出した時よりはるかに鮮明に思い出してしまう。
「安佐君は今頃になってそれが原因だと気が付いてショックを受けていた。その時の言葉は会話の流れで冗談のように飛び出した物だったらしい。君がショックを受けているとは思わなかったみたいだし。どう見ても嫌われているとしか思えない態度を取られて戸惑っていたんだ」
「別に安佐君を嫌ったりはしていません」
 安佐が言った訳ではないのだ。あの言葉は。
 だけど。
「だけど、君の態度は特に安佐君にひどかったよ。傍目で見てもありありと判るくらいにね。安佐君は、君の笑顔がみたいと言っていた。いや安佐君だけではない。みんなが言っている。これは事実だよ。君はもっと自信を持っていた方がいい。そんな言葉を気にすることが無いくらいにね」
「気にしていません」
「そうだね。気にしていない振りをしている。気にしていないと思いこんでいた。なのに態度は正直だったよ」
 それまで優しく語っていた香登の言葉にいらつきが混じった。
「だけど、この3ヶ月、君は惰性でしか仕事をしていない。俺が何回君に「竹井君らしくない」と注意したか覚えているか?」
 きつい視線が竹井に突き刺さる。
「ずっと君らしくなかった。いつもしていた仕事のやるべき手順を忘れていたのに気が付かない。以前の君なら、どんなに忙しくて図面をチェックせずに外部に出すなんてしなかった。打ち合わせをせずに仕事に入ることも、完成の報告もせずに書類を机の上に放置することもなかった。人の目を見ずに話をすることはなかった!」
 香登の言葉が胸につきささる。
 いつも落ち着いている香登がここまで荒れていると言う事実が身に染みる。
 変わっていないつもりだった。
 気にしていないつもりだった。
「すみません。俺、そんなつもりなかったんです。でもやっぱ俺って滅茶苦茶落ち込んでいたんですよね。安佐君にも悪いコトしたな。安佐君が悪いわけでないのに……仕事していることがなんだか面倒だなって思って……そうなると安佐君の手順書って滅茶苦茶面倒だから、余計に彼に冷たくなってしまったのかな。安佐君が嫌いなわけでないのに……」
 嫌い……絶対にそんなことないと思う。
 先日見舞いに来てくれたときの楽しさは、今にも心の中に残っている。
「自覚するってことは大切だよ。自分が何に落ち込んでいるのか?何を気にかけているのか……何が好きなのか……自分が何をしたいのか……そして、誰が一番なのか……」
 最後の言葉が竹井には聞き取れなかった。
「え?」
 竹井の訝しげな視線に香登は笑いかける。
「それにね、事務所にいつもいる君が楽しそうに仕事をしていると部屋の雰囲気が良くってね、今日の朝みたいに笑って過ごしてくれるだけでもここの雰囲気が良くなることに気がついているかい?」
 そんなこと思ったこともなかった。
 だから首を振る。
「竹井君がここの所元気がないのはみんな気づいているんだ。だから、今日楽しそうにしていた君を見て、みんなが喜んでいたの気づいたか?」
 喜んで?
 そんな事思わなかった……。
 でも、そう言えばみんなノリが良かったような気がする……。
 竹井は俯いてた顔を上げた。
「だからずっとね気にしていたんだ?いろいろ心当たりがないかみんなに聞いて回ったりもした」
「すみません」
 ぽつりと呟く竹井に、香登は口元を緩めた。
「自分の仕事に誇りを持ちなさい。今の君にはそれが一番重要だから……。君がいなくなれば、うちで作った装置は製造に移せないんだって位の事、思ってくれていいよ。それが事実なんだから」
 俺がいないと製造に装置が移せない……。
 本当に?
「そうなんでしょうか?」
 不審そうに伺う竹井に香登は力強く頷く。
「誰に聞いてもそう答えるよ。竹井君は俺達生産技術課の必要な人間なんだから」
 おだてられたような気もする。
 でも胸の奥がもの凄く暖かくなっていく。
 暗い思考が飛んでいくようだ。
「だからね、自信を持ちなさい。安佐君を見てみなさい。あれだけ装置設計を得意としている癖に妙なところでポカしてくれるわ、手順書は作れないわで、竹井君を見習えって俺はしょっちゅう言っているんだぞ。」
 そういえば、よく香登に怒られている姿を見かける。
 考えてみると、竹井の仕事場はこの事務所がメインだから、誰がいつ香登に怒られて、誰がどういう事をして、誰が何に困っているか、全部知っていた。
 それなのに……
 自分の事には気付かなかった。
「俺って、馬鹿ですよねえ……自分が何をしているのか全然判っていなかった」
 吹っ切れたような口調に香登はにっこりと笑み浮かべながら頷いた。
「そうやってね、自分で気付いてくれると良かったんだが……自分の事になると本当に君は鈍いって言うか……でも、まあ、そうやって判ってくれると話をした甲斐もあるって言うもんだな」
「ありがとうございます」
 満面の笑みが自然と顔に浮かぶ。
 右手が自己主張しているかのように疼くのすら心地よかった。
 だから、また香登が小さな声で呟いたのには気付かなかった。
「後一つ……」
 そう呟いたことに。

                   ☆☆☆☆☆
『危険予知』2

 事務所内にPHSの音が響いた。
 香登も竹井も同時に自分のPHSに視線を移す。
 この業務用のPHSもメロディ変えられればいいのに。
 みんなの共通の意見。
 今回は竹井のPHSに着信を知らせる赤い光が点滅していた。
「はい、竹井です」
 出る前に誰からは判っていた。
 ディスプレイに表示されている発信者番号は安佐の物だ。
『安佐です。今、よろしいでしょうか?』
「ああ、大丈夫」
 先ほどまでの香登の言葉が引っかかっていて、妙に緊張してしまう。
『すみません、急に出ていってしまって』
「いや、腹具合でも悪いのか?」
 香登の言葉が頭にあったので、そう聞いてみる。
 と、PHSの向こうの声が途切れた。
「もしもし?」
 ふと気が付くと、香登が机の上に突っ伏していた。肩が揺れている。
「……」
 思わずそちらを見ていると。
『もしもし、すみません……あの、そうなんです……ちょっと調子が悪くなって』
「あ、ああ、そうか。で、もう大丈夫なのか?」
『はい、それは大丈夫なんですが……その、あの後連絡が入って、装置トラブルで呼び出されて、今作業場なんです』
 申し訳なさそうな声に、竹井は苦笑した。
「しょうがないよ、それが安佐君の本来の仕事だからね。それにこっちもそんなに切羽詰まってにないし。こっちの事は気にせずに仕事してよ」
『はい、すみません。できるだけ早く終わらせますので』
「ああ。じゃあ」
 PHSを切ると、それに気付いた香登が笑いながら声をかけてきた。
「安佐君、何だって?」
「装置トラブルで作業場に呼び出されたそうです。ここに戻れないって」
「そうか?何の装置だって?」
「あ、すみません、聞いてません」
「そうか……。まあ、何かあったら連絡があるだろう」
 そう言ってまだくすくす笑っている香登を竹井は不思議そうに見つめていた。
「あのー、何がそんなにおかしいんですか?」
「い、いや……安佐君も大変だなあって……」
 何がおかしいのか……。
 何だか自分が笑われているような気がする。
 むすっと香登を見つめていたらしい。
 それに気付いた香登が決まり悪げに席を立って、逃げるように事務所を出ていった。
 それを見送り竹井はため息をつく。
 何なんだ、一体。


 結局、定時まで安佐は事務所に帰ってこなかった。
 かろうじて休憩を取れている状態なのか、休憩時間でもばたばたとしている姿が目に付く。
 話がしたいと思う。
 装置の話もあるし、それに、謝らないと……駄目だろうなあ。
 それでなくても手が動かないせいで、仕事がはかどらない。
 ぐずぐずと頭の中はいろんなことを考えている。
 どうしよーかなあ。
 しばらく病院通いで定時に退社しないと行けない。
 いったん病院に行って、再度会社に来るっていう手もある。
 今日はどうしよー。
 竹井はさっきから手元の資料を見ながら唸っていた。
「竹井さんっ!すみません、今日いっこも手伝えなくて」
 ばたばたと入ってきた安佐が、竹井の元に駆け寄ってくる。
「ああ、しようがないから良いんだけど、俺、これから病院行くから……」
「あ、そうでしたね。運転、大丈夫ですか?」
 心配そうに竹井の右手に見つめる。
 巻かれてから丸2日たったその包帯は、少し汚れている。
「大丈夫だろ、左手が使えれば……、で、その後、俺直帰しようかと思うんだけど?」
 安佐は今日は残業だろう……。
「え?あ、はい、もちろん。まだ塞がっていないかも知れないし、無茶しない方が良いですから、気にせず帰ってください。何かあったら、俺が対処しますから」
 勢い込む安佐に竹井は苦笑する。
 任せてしまうことに不安が沸き起こるのは否めない。
 でも、せっかくだから……。
「じゃあ、俺これで帰るから……何かあったら携帯に連絡頼む」
「はい、お疲れさまでした?」
「お先に……すみません、お先に失礼します」
 安佐に声をかけた後、事務所にいる他のメンバーに声をかける。
「おお、お疲れさーん」
「お疲れ?」
 帰ってきた返事に会釈しながら、事務所を出た。
 更衣室で私服に着替える。
 開けたロッカーにはスーツが一着入っていた。
 そろそろ持って帰って、違うのにしようかな。
 それを眺めながら考える。
 緊急出張用のそのスーツは、もう3ヶ月以上そのままだ。
 そろそろ冬用にしないと。
 思いついた時に持って帰りたかったが、この手では当分無理だと諦める。
 出張行くこともないしなあ。
 だが、何があるか判らないから必ず一着は確保しておくように言われている。
 ふうと息を吐くと、いい加減クローゼット代わりになっているようなロッカーを閉める。
「お疲れさまでした?」
 更衣室にいた他の社員に声をかけて、竹井は病院に行くために退社した。


 部屋に戻り、荷物を置くと和室に座り込んだ。
 右手の真新しい包帯に視線を向ける。
「はい、問題ないですね。腫れもひきかけているようですし。じゃあ明日も消毒に来てくださいね」
 医者の言葉が思い出される。
 消毒され真新しいガーゼと包帯に包まれた右手は、前よりすっきりとしていた。
 完全に動かせないのは、人差し指と中指だけ。ひきつれた感じを我慢すれば、他の指は何とか動かすことができる。
 2日でこの状態だと、この先少しずつ包帯に覆われた面積も減るかも知れないな。
 2週間なんてあっという間だ。
 そう思うことにした。
 病院で手間取った分、定時退社にしては遅い。
 まだ、安佐君は仕事をしているのだろうか?
 帰りに話をした感じでは、元気そうだったけど。
 携帯を取り出し、留守電もメールも入っていないことを確認する。
「何もないのかなあ」
 一人の部屋は何だか静かで、いたたまれない気持ちになる。
 視線を台所に移せば、昨夜安佐と賑やかに食べた後がそのまま残っていた。
 たった1日なのに、なんだか懐かしい。
 だが、このままいつまでも放っとく訳にもいかず、竹井は立ち上がった。
 片付けないと……。
 テーブル上の残骸をゴミ袋に放り込み、コップ類を流しに運ぶ。
 昨夜、洗い物をすると言い張った安佐に、遅いからもう帰れと追い返したのは竹井だった。
 二日連続で休出した安佐が疲れているのが感じられたからだ。
 基本的に家事が苦手な竹井は、つけおき洗いの洗剤を常備している。
 それを取り出すと、たらいに溶かし、洗い物をつけた。
 濯ぐだけなら片手でできる。
「さてと、何食べよーかなあ」
 冷凍庫を漁る。
 いい加減弁当も飽きてきたので、今日は買ってこなかった。
 冷凍庫を漁れば、2?3日分位のおかずは出てくる。
 ご飯はレンジで温めるタイプの物が常備してある。
 今日は、それで食べるつもりだった。
 その時。
 携帯の着信メロディが部屋に響いた。
「あっ」
 慌てて、上着から携帯を取り出した。
 会社からと思ったが、見たことのない番号に首を傾げながらも、キーを押す。
「もしもし?」
『もしもし、安佐です』
「ああ、安佐君か」
 聞き慣れた声にほっとしつつも、だが不安が沸き起こる。
 会社で何かあったのか?
 携帯を握る力が強くなる。
「何かあった?」
『いいえ。今日は何事もなかったです……』
「そっか。よかった」
 ほっとする。
 でも、じゃあ何で……?
 新たな疑問に竹井の眉がひそめられる。
『あ、あの、怪我の具合どうでしたか?」
「ああ、順調だよ。包帯の量が減って、前より少し動かし易くなったし」
『よかったですね』
「ん。ところで、何か用か?」
『え、ええとですね……」
「何?」
『晩ご飯、まだだったら……一緒にどうかなあって……あの、弁当買われたんですか?』
 え……。
 竹井は、開けかけた冷蔵庫を見つめ、ぱたんと閉じた。
「いや、今日は家にある物食べようと思って……でも安佐君、まだ会社じゃないのか?」
『あの、今竹井さんちの近くのコンビニにいるんですけど』
 って……。
 思わず窓に近寄りカーテンを開ける。
 竹井のコーポから目と鼻の先にあるコンビニだ。
 ここからでも明るい看板が見える。
「近くまで来ているんだ?」
『はあ……弁当買って行こうかと思ったんですけど……あの、お邪魔でしょうか?』
 遠慮がちな物言いに、断る気など起きなかった。
 いや、それ以上に妙に嬉しい。
「邪魔じゃないって。ああ、そうだ。俺これからそっちに行くから、待っててくれ」
『え、ええっ?』
 安佐の驚きの声が耳元に飛び込んでくる。
 竹井は思わず携帯を耳元から離し苦笑いを浮かべた。
「歩いても5分とかからない。待っててくれ」
 ぶちっと携帯を切る。
 上着を羽織ると鍵を握り外に出た。
 外の冷気に身震いをする。
 だけど気にならなかった。
 コンビニまでの最短距離を頭に描きながら、道を辿る。
 早足で歩いてものの3分とかからなかった。
 駐車場に安佐が車の側に立ってるのが見えて、思わず走り出した。
「竹井さん!」
 安佐も駆け寄ってくる。
「ごめん。待たせた?」
 まるでデートの待ち合わせだと思いつつも思わず言ってしまった。
「言ってくれれば買って行きましたのに、竹井さん、さっさと切っちゃうから」
 安佐の顔に苦笑が浮かぶ。
「弁当、何があるか判らないしさ。どうせ暇だったからね」
 安佐を促して店に入る。
 外の冷気に曝されたせいで中の暖房が暑いくらいだ。
 二人で弁当コーナーを物色する。
 弁当にビール、つまみを取ってレジに行く。
 安佐はどうしても自分が奢ると言って、竹井に金を出させなかった。
「俺が行かなかったら、弁当じゃなかったんでしょう?だから奢りますって」
 そういう安佐には逆らえない物があって、竹井は仕方なく頷いた。
 あいかわらず強引だなあ、と竹井は思う。
 だが、ふと首を傾げた。 
 最近、その強引さが影を潜めているような気がする。
 俺が怪我したせいだろうか?
 いや、その前から……。
 安佐ってここまで他人のためにまめまめしく動く奴だったけ?
「竹井さん、行きましょう?」
 レジの側で考え事をしていた竹井を安佐が訝しげに声をかけてきた。
「あ、ああ」
 店を出た途端、身震いをする。
 温度差が激しくて、中で少し汗をかいていたようだ。
 それが急に冷えた。
「寒いですか?早く車に」
 促されて乗り込む。
 病院に行った時に乗った車。
 あの時は後部座席だったが今度は助手席だ。
 帰りの車の中で、弁当はもういいいや、と思っていたことがふと思い出された。
 だけど、今は帰って弁当を食べることが楽しみだ。
 俺って弁当飽きたんじゃなかったけ?
 自分の心境の変化に戸惑いを覚える。
 ちらりと安佐の方を見ると、運転中の安佐は前方を凝視していた。
 どき。
 心臓が跳ねた。
 ライトに照らされた横顔が格好良いと思ってしまった。
 そう意識した途端、かっと顔が熱くなる。
 何なんだ、これって……。
 左手の掌を頬に当てる。
 ふと気が付くと、車は既にコーポの駐車場に入ろうとしていた。
 げ、早く元に戻さないと。
 慌てる竹井を余所に安佐は車を竹井の車の後ろにつけた。
「ここでいいんですよね」
「あ、ああ」
 竹井は車が止まった途端、ドアを開けて外に出た。
 吐く息が白くなる程冷たいはずの大気がマジで気持ちいい。
 しばらくその場に佇んでしまう。
 明るいところに行く前にこの顔の火照りを何とかしないと。
「竹井さん、寒くないんですかあ」
「あ、ごめん」
 苦笑を浮かべ竹井は部屋の鍵を開けて、安佐を招き入れた。

                    ☆☆☆☆☆
 
『危険予知』3

 和室に小さなテーブルを置き、角を介して座っていた。
 壁に背を預けた安佐が4本目のビールのプルトップを引き上げる。
 既に6本買った缶の内3本が、あっという間にほとんど安佐の腹の中に収まってしまっていた。
 ほんのり赤くなっている安佐は、さっきからずっと竹井を見つめるようにして話をしていた。
 その視線が痛い。
 顔を上げると視線があってしまいそうで、竹井はずっと自分の手元のビールを見ていた。
「竹井さんてそんなに呑みませんでしたっけ?」
「まあね。それに、傷に障るかなっと思ってさ、というより安佐君のペース早すぎ。そんなに呑むとは思わなかった」
「なんだかこんなに早く帰れるのって久しぶりだし、竹井さんが楽しそうだからつい、ね」
 まあ、楽しいけどね。
 でもそんなに見つめないで欲しい。
 車の中で赤くなった頬が、また熱くなってきそうな気配。
 慌てて、意識を逸らす。
「そうだよな。安佐君っていっつも遅いんだろ。今日は仕事大丈夫なのか?」
 いつもの安佐ならまだ会社で仕事をしている時間だろう。
 一人暮らしの連中は、帰ってもする事があまりないのか残業することに無頓着だ。
 特に安佐はやっと2年目。
 仕事がおもしろくて仕方がないと言った感じで、連日遅くまで会社にいると聞いている。
「なんか、香登さんがもういいから帰れって……」
 ぐいとビールを飲み干す安佐は楽しそう。
 こうしてプライベートで逢った時の安佐の笑顔を見るのは本当に楽しいと思う。
 結構気を遣わなくていいって所がいいのかもしれない。
 先日見舞いに来たときにつくづく思った。
「香登さんが、竹井さんの機嫌治っているから行ってこいって言うんですよ」
 いい加減ほろ酔い気分なのか、よくしゃべる。
 それは良いんだが……香登さんが行って来いって?
 最近安佐からは香登、香登からは安佐の名前をよく聞く。
 何なんだ?
 竹井は内心首を傾げる。
 だが。
「とりあえず、トラブった装置も治ったし、それに製造への移管もずれちゃったから」
 何気なく漏れた安佐の言葉に竹井はぎくりと顔をしかめた。
 幾ら香登に言われても、それでも自分のせいだと思うことは止められない。
 勝手に落ち込んで、勝手に怪我したのは俺のせいなのだから。
 竹井の表情の変化に安佐はぴくりと反応した。
「あ、もしかして気にしてます?」
「い、いや」
 しまった……。
「竹井さんのせいじゃないですって。気にしないでくださいね」
「別に……」
 気にするなと言われても、それが俺の性格だ……。
 その言葉を飲みこむ。
 俺が落ち込むと安佐に迷惑をかけそうな気がした。
 今回だって十分迷惑をかけた。
 安佐にこれ以上迷惑をかけたくはない。
 それに。
 先に言わなければいけないことがある。
 本当は目を合わせて言わなくてはならないんだろうと思う。
 だが、その勇気までは出てこなくて、俯いたままに言う。
「今回の事は、ともかく……その、今までのこと、すまなかった」
「何が……ですか?」
 いきなり言われた安佐の方が戸惑っている。
「俺、ずっと機嫌悪かったろ。決して安佐君が嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、何だか落ち込んでいて、そのせいか、冷たくあたってしまった」
「あ」
 ようやく何のことか思い当たった安佐が、表情を和らげた。
「香登さんから聞きました。元はと言えば俺達が冗談でも言ってはいけないことを言ったのが原因だから、決して竹井さんのせいではないです。謝らなければならないのは俺の方です」
「違うよ。俺、気にしていないふりをしていた。気になっていたくせに、自分から言い出せなくて自分で勝手に落ち込んでいた。自分が仕事が面倒くさくなっていたのにも気付かなくて、面倒な安佐の仕事が嫌になって……あっ」
 はっと竹井は包帯に包まれた右手を自分の口に当てた。
 言わなくても良かったことを言ってしまった事に気づく。
 俺って馬鹿……。
「俺の仕事ってやっぱ面倒ですか?」
 ぽつりと呟く安佐に竹井は申し訳なく顔をしかめる。
「すまん……」
 謝るけれど、否定までは出来なくて……。
「ああ、それこそ竹井さんが謝る必要ないことですよ。俺、自分でも厄介だろうなあとは思っていたんですから。だから、ね、竹井さんに教えて貰おうと思って……もう少し竹井さんに迷惑をかけないようにしようとは思っていたんですけど……」
 安佐の自嘲めいた口調が判るから、竹井はさらに申し訳なく思う。
「いや、その……安佐君の書類ってなんだか俺のパソコンと相性が悪いんだ。しょっちゅうフリーズ起こすし……で、ちょっと、いやだなあって……ごめん!」
 竹井の言葉に安佐は大きく目を見開いた。
「俺って……いや俺の書類ってそんなにフリーズするんですか?」
「ああ。フォーマットが悪いのかなあとも思えるんだけど……。同じ所で同じキー操作をすると何でかフリーズして、それをフリーズしないようにするのが無茶苦茶面倒くさくて……ごめん」
 言い訳がましくて、竹井のだんだん声が小さくなる。
 安佐は僅かに顔をしかめると、竹井の肩を置いて軽く揺すった。
「それこそ竹井さんが謝る事じゃないでしょう。」
「え?」
「だって、それっと俺が作った書類のせいで、竹井さんは嫌がりながらもそれを直してくれたんです。礼を言うのはこっちの方です。竹井さんが謝る必要なんて一つも無いじゃないですか。俺、そんな面倒な仕事をしてくれた竹井さんに凄い感謝してます」
「あ、ああ……」
「だからそんな事で落ち込まないでください。俺、そんな細かいこと全く気にしない方だから、これからも竹井さんに迷惑かけるかも知れないのに、そのたんびに竹井さんが落ち込んでいたら、俺、何にも頼めないですよ」
 慰めてくれているのが判る。
 だけど……何か変なことになってないか?
 もともと、こいつのフリーズ書類が悪いんだよなあ。
 それで、言わなくても良いことしゃべってしまって……。
 それは良い……よくないかも知れないけど、今はいい。
 だけど、これからも迷惑かけるかも知れないって堂々と言うなよな。
 こいつってば……
 だいたい安佐に慰めて貰うのってなんだかしゃくなような気がしてきた。
「確かに安佐君は細かいところ気になさすぎだよな」
 にやっと嗤って言ってやると。
「俺って雑だから」
 軽く返された。
 むっとして眉間にしわを寄せる。
「あっ、竹井さん、怒りました?」
「……」
「ああ、ごめんなさい、そんなつもりは無かったんですけど……」
 安佐が慌てて、機嫌をとろうとする。
「くく」
 堪えられなくてのどの奥が鳴った。
「安佐君ってそんなに俺の機嫌が悪くなるのが嫌なのか?」
 いたずらっぽく笑って問う竹井に安佐は困ったように口を閉じた。
 細められた目元が赤くなっているのはアルコールのせいだろうか?
 それともからかわれて怒ったんだろうか?
 安佐の手に捕まれていた肩。
 その手に力がこもっているのに気が付いた。
 まるでそれが怒っている安佐を表しているようだと思う。
 その反応に竹井の方が慌ててしまった。
 俺、ビール一缶で酔ってしまったんだろうか。
 さっきからいらないことばっかり言ってしまっているような気がする。
 駄目だ。
 気をつけないと……。
 ぎりっと下唇を噛み締める。
 と。
「俺……嫌です」
 ぐっと肩に置かれた手にさらに力が入る。 
「あ、さ……くん?」
 呆然と呟く竹井の上げられた視線が安佐の視線に絡め取られる。
 泣きそうな、つらそうな表情が竹井の胸をえぐる。
「竹井さんに嫌われるのは嫌です……」
 その言葉が胸に直接響く。
「俺……安佐君のこと嫌っていないって……」
 掴まれた肩。
 絡め取られた視線。
 そのどれもが振り解けない。
「竹井さん……」
「えっ」
 ぐいと掴まれた肩を引き寄せられた。
 バランスを崩して左手をつく。
 その分安佐の躰に近づいてしまう。
 視線が外れ、目の前に安佐の胸がある。
「俺、竹井さんのこと好きです」
 頭の上から降ってきた掠れた声に躰が驚くほど反応する。
 その動揺が掴まれた肩を通して安佐に伝わった。
 さらにその手に籠められた力に、その言葉の意味を曲解することなど出来なくて……安佐の言いたい意味を竹井は理解してしまった。
「……冗談だろ」
 振り絞るようにそれでも言ってみる。
「本気です……友達とか仕事仲間とか……そんな好きじゃなくて……もっと踏み込んだ、好きです……」
 思わず顔を上げた竹井の目前に安佐の顔があった。
 その切なげな瞳の奥に込められた熱い思いが伝わってくる。
 慌てて視線を逸らそうとする竹井を安佐はさらに強く引き寄せた。
「あ、安佐っ!」
 バランスを崩した躰を支えようと右手でテーブルを掴もうとして、包帯で滑ってしまった。
 気が付くと暖かい胸に押しつけられるように、竹井は安佐の腕の中にいた。
「こうやって、抱きしめて離したくないほど、好きなんです……」
 切なげな声が耳もとで響く。
 途端、ぞくりと背筋を甘い痺れが走った。
 心臓が大きく跳ね、かっと全身が熱くなる。
 そんな自分の反応が信じられなくて、驚きが躰を動かす。
「ばっかっ!離せ」
 慌てて手を突っ張るが、安佐の腕が頭と腰を強く包み込んで離さない。
「嫌だ……」
 耳元で囁かれた拒絶の言葉が、竹井のパニックを助長する。
 ど、どうしようっ!
 頭の中は混乱して、逃げる方法が思いつかない。
 それ以上に、形容しがたい感情が幾重にも重なって沸き起こる。
 男に好きだと言われたこと……
 それが安佐だということ……
 その安佐に抱きしめられていること……
 そして、心臓が馬鹿みたいに激しく鼓動していること……。
 押しつけられた耳元から直接伝わる安佐の心臓の鼓動。
 そして……。
 どこかほっとしている自分がいること……。
 だけど。
「安佐っ!俺は男だ!こういうことは女とやれってっ!」
 ぐいっと渾身の力を込めて安佐の手を引き剥がそうとして……。
 と。
「ってえー!」
 突っぱねる際に思わず使ってしまった右手に激痛が走った。
「竹井さんっ!」
 安佐が慌てて腕を離す。
 その隙を逃さず、竹井は安佐から擦り抜けた。
「あっ」
 とっさに安佐が伸ばした手が竹井の腕を掴む、が。
 びく。
 竹井の躰が大きく震え、渾身の力を込めて掴まれた手を振り払った。
「あ……」
「大丈夫だからっ!」
 後ずさって壁に背を預けた竹井はその強い言葉とは裏腹に泣きそうな目をしていた。
 何もかも判らない。
 自分を抱き締めた安佐が怖いと思う。
 だけど、あの暖かい胸の中で……俺は一瞬ほっとした……。
 そんな自分が判らない……。
 呆然と見上げる竹井の視線の先で、安佐は振り払われた自分の手を見つめていた。
 その表情には何の感情も浮かんでいない。
 冷たく張りつめた空気が辺りを支配していた。

 沈黙に先に耐えきれなくなったのは竹井だった。
「この酔っぱらいっ!」
 竹井らしからぬ怒声に安佐は大きく目を見開いた。
「お前、ピッチが早すぎたんだよ」
「俺……酔っては……」
「酔ってるんだよ!」
 ぴしゃりと言われ安佐は出かかった言葉を飲み込む。
「今日はもうお開きにしよ。明日は会社あるんだし……て、ああっ」
 はっと気づいた竹井が眉をひそめた。
「竹井さん?」
「お前、車なのに飲んだろ……」
 言われて安佐は苦笑した。
 今頃気づいたのか、というようなニュアンスの笑みに、竹井はむすっとする。
「どうやって帰るんだよ……」
「そりゃあ、車で」
「馬鹿!そんなの飲酒運転だ。タクシー呼ぶから……」
 思わず携帯をひっつかみ、メモリーからタクシー会社の電話番号を引っ張り出そうとした。
 が、その携帯はやすやすと安佐の手に奪い取られる。
「いいです。こっから10分もかからないんですよ。タクシーなんか嫌です。車で帰ります」
「ばかっ!酒気帯びで捕まって見ろ、会社辞めさせられるんだぞ。俺のとこ来てくれた帰りにそんなことになったら俺どうすればいいんだよっ!携帯返せって!」
 どうして、この人は……。
 竹井が本気で心配しているのが安佐には判った。
 安佐はため息つくと、すっと竹井の傍らに屈み込んだ。
「車を置いて帰ると明日困りますから。それとも、ここに泊めてくれるんですか?」
「!」
 びくりと反応する竹井に安佐はくすりと笑みを漏らす。
 竹井の表情から怒りが抜けて、戸惑いが浮かぶ。
「車がないと明日困りますから、ね……車で帰ります」
 諭すように話しかけながらすり寄ってくる安佐に竹井は壁に強く背中を押しつけて張り付いた。
「判った……判ったから近寄るなって……」
 戸惑っている竹井に安佐はそっとその頬に手を添えた。
 びくんと竹井が震え、その視線が宙をさまよう。
 熱を伝える瞳から逃れたくて。
 逃げたい。
 だけど、躰が動かなかった。
 力のこもっていないその手は簡単に振り解けるはずなのに。
 ぎりりと音がしそうなくらい竹井の口元が引き締められた。
 安佐はそっと添えた手の親指で、その口をなぞる。
 竹井の全身にぞくりと痺れが走った。
「くっ」
 思わず目を瞑った竹井に安佐は微かに口の端を上げた。
 その口から言葉が漏れる。
「さっき振り解かれたとき……本当に、諦めようかと思いました……でも、やっぱり、諦めきれない」
 熱のこもった言葉が竹井の耳朶を打つ。
 添えられた手から伝わる熱がどちらのものか判らないほど熱い。
「いつだって、竹井さんは優しいから……諦めさせてくれない……」
「お、俺のせいかよっ!」
 必死の思いで叫ぶ。
「そうですよ、竹井さんのせいです。俺、諦めきれない……」
 言葉が竹井を縛る。
 それから逃れたくて、必死の思いで口を開く。
「い、嫌だ……」
「嫌だったら、どうして追い出してくれないんです。どうして、心配なんかしてくれるんです。どうしてっ!」
 叫ぶような言葉に竹井は結局言葉を飲み込む。
 そうだ。
 どうして、心配なんかしてしまったんだろう。
 飲酒だろうがなんだろうが、飲んだのは安佐なんだから……。
 どうしてこんな状態の安佐を心配してしまったんだろう……。
 俺は……。
「帰ります……。俺、これ以上竹井さんに嫌われたくない。諦めきれないけど……だけど嫌われてまで、あなたに無理はしたくない……」
 掠れた声が、安佐の感情をよりダイレクトに伝える。
「……」
 何も言えない竹井に、安佐は笑いかけるとその手を離した。
「失礼します」
 その言葉とともに安佐は立ち上がると、振り返りもせずに玄関から出ていった。
 その姿を呆然と竹井は見つめる。
「何なんだ……」
 起こった事を整理しようとして。
 しかし、冷静に考えられなくて、竹井をさらに困惑させる。
 ただ判るのは胸がとてつもなく熱いこと。
 そして、信じられないほどの寂しさ。
 気づかぬ内に流れ出した涙。
 それだけ。

                    ☆☆☆☆☆
『危険予知』4
???相手が人であろうと、危険予知は必要かと……???

 会社に行くのがこれほど億劫になったのは久しぶりだった。
 昨晩は寝ようとしてもいつまでも安佐の言葉が頭の中を駆けめぐった。
 そのたびに安佐に抱き締められた感触が沸き起こる。
 思い出されると躰までがあの時のように熱くなる。
 それが信じられない。
 どうしてっ!
 これからどうやって逢えばいい?
 だいたい何で俺なんだ?
 俺もあいつも男なのに……。
 俺はあいつの事、嫌いじゃない……でも……好きかと言われると判らない……。
 堂々巡りする思考に、いつまでたっても眠気はやってこない。
 それでもやっと眠りに入ったのは明け方だった。
 2時間と寝られず、睡眠不足の頭が働かない。
 頭どころか、躰までもが疲れ切ったように怠く、それを無理矢理奮い立たせるように会社に向かった竹井は、事務所にたどり着いたところで力つきた。
 机に突っ伏した竹井に何人かが声をかけるが、何もかもが寝不足の竹井の神経を逆撫でするようで、あからさまに不機嫌さを漂わす返答に誰もが近寄らなくなった。
 安佐が面倒な仕事を持ってきたときと同じで、その対象が安佐だけでなくなったというだけ。
 杉山がそっと香登の側に近づき、耳打ちをする。
「何かあったんですか?昨日は元に戻っていたような気配だったんですが?」
「さあ……」
 香登は困ったように竹井を見つめた。
「不機嫌モードの竹井君って久しぶりに見ましたよ。ずっと落ち込みモードだったし……」
「安佐君だけには不機嫌モードで接していたがね」
 言われて杉山ははたと気付く。
「そう言えば、そのもう一人の問題児は、今日は?」
 杉山の言葉に香登が苦笑する。
「さっき遅刻するって連絡があった。寝坊したんだと」
「何かあったんですかねえ……」
「玉砕したんじゃないのか?竹井君の様子だと」
 興味津々の杉山に香登は笑って返す。
「やっぱりそう思います?せっかく香登さんがあれこれお膳立てしていたのに」
 その言葉が竹井の耳に入った。
 お膳立て?
 その言葉に反応する。
 顔を上げ、香登の方を見る目が座っている。
「やば」
 それに気づいた杉山がそそくさと事務所を出ていった。
「こら、杉山君、待てよ」
 慌てて後を追おうとした香登を竹井は引き留めた。
「お膳立てってどういうことですか?杉山さんは何を知っているんですか?」
 険悪なムードに、「現場見てきます?」とばかり他の同僚達も逃げ出していく。
「お膳立てってことじゃなくて……」
「どういうことです?」
 にっこりと笑みを見せる竹井に、香登はぞくりと寒気が走る。
 笑顔が優しいと言われる竹井だが、冷たい目をして笑うと妙な凄みがある。
 不機嫌モードは滅多にならない竹井だが、一度それに陥るとなかなか復活してくれない。
 落ち込みモードですら3ヶ月かかったのだ。しかも自分からは復活できなかった。
 香登はそれを知っているからこそ、竹井の態度には敏感だった。
 が。
「あ、ほら、安佐君が竹井君に嫌われて困っているっていうからさ、そんなことないから、見舞いに行っておいでって言っただけだよ」
 顔を引きつらせながら香登は言う。
「安佐君もそう言ってましたけどね」
「そうそう」
「で、何で杉山さんとそんな話をするんですか?」
「あ、それは……」
 狼狽えた香登が口を開こうとした瞬間、どこからともなくPHSの着信音が鳴った。
 詰め寄っていた竹井の動きも止まる。
「……香登さんのじゃないですか」
 ため息とともに竹井が後の机を指さす。
「え?ああ」
 これ幸いと香登が一目散にPHSを取り上げた。
「はい、香登です」
 勇んで出た香登が相手を確認した途端、ほっとしたような表情を浮かべた。
「あ、ああ……すぐ行くから」
 PHSを耳に当てたまま香登は竹井をちらりと見ると、あたふたと部屋を出ていってしまう。
 呆然とその姿を見送った竹井は、ふと気が付いた。
「あ……逃げられた……」
 仕方なく自席に戻る。
 PHSの相手は杉山だろう。
 はああ
 大きなため息をつくと竹井は仕事を始めるためにCADを立ち上げた。
 いくら気分も体調も最悪とは言え、納期だけは確実にやってくるから。
 
「おはようございます?」
 聞き慣れた声に竹井はふと顔を上げた。
 向けた視線の先で安佐がこちらを見ていた。視線がぴたりと逢ってしまい、慌てて視線を逸らす。
 昨夜のことが脳裏に鮮明に浮かんでしまい、必死になってそれを追い出した。
 が、当の安佐の態度に変化がない。その顔は完全にいつものようで、竹井は何だかむかついた。
 お前のせいで、俺は寝不足だ。
 それでも。
「おはよー」
 挨拶だけは返す。だがその顔は不機嫌そのものだった。
 安佐が顔を引きつらせた。
 せっかく復活していた竹井の機嫌が最悪になっているのが安佐にも判った。
 いや、落ち込んでいるのではない。……最悪なのだ。
 はっきり言ってこの状態の竹井に話しかける人間は、落ち込んでいるとき以上にいない。
 事務所に誰もいない理由が判った。
 みんな、逃げたんだ……。
 安佐も逃げ出したくなった。
 だが、遅刻届を出すためには香登の印鑑がいる。
 仕方なく、安佐は竹井に尋ねた。
「……香登さんは?」
 安佐を無視しようと思ったが、ちらりと見た安佐が困っているようなので仕方なく答える。
「PHSで呼び出された。どこにいるか判らない」
 答えた途端に画面に向き直る竹井はとりつくしまもない。
 前に仕事を頼んだときと同じ態度に、安佐はこっそりとため息をつく。
 こういう態度を取られるとは思わなかったのが本音。
 仕方なく安佐は、自分のPHSで香登を探そうとし……結局、この場でするのが躊躇われて事務所から出ていった。
 それくらい、竹井から不機嫌のオーラが発散されているのだが、当の本人は気付いていない。
 何とか言えないのか、あいつは!
 出ていった安佐の態度に余計に怒りを募らせながらも、巧く操作できないマウスを八つ当たりの代償にして……ただひたすら竹井はCADに向かっていた。

 結局午前中かかってやっと一枚の図面を引き終えた。
 できあがった図面を確認し、自分のサインを入れる。
「岡さん、できました」
「ああ、ありがとう」
 岡はちらりとそれを眺めるとファイルに綴じ込む。
 実は修正が入ったなんて今の状態の竹井にとても言える物ではなかった。不機嫌そのものの竹井に、今は誰も文句は言えない。
 竹井は、次は手順書だ、とばかりワープロソフトを立ち上げる。
 竹井自身、自分の精神状態が普通でないのは気が付いているが、それを収める手段が見つからない。できるだけ周りに当たることは止めないととは思っている。
 頭の中では、判ってはいる。
 だけど苛々してしようがない。
 俺を好きだといった安佐にも。
 絶対に安佐をけしかけたであろう香登にも。
 どうやら何かを知っている杉山にも。
 ……。
 苛々と左手オンリーでキーをガチガチと操作する竹井に、パソコンが悲鳴を上げた。
「……何で……」
 真っ青な画面。おきまりのエラーメッセージ。
 セーブ、していない……。
 苦労して片手で打ち込んだ20行ばかりが消えていった。
 あまりのことに、竹井自身もフリーズしてしまう。
 硬直して真っ青な画面を見ている竹井に、今しがた事務所に戻ってきた香登が近寄ってきた。
 画面と竹井を見比べ、状況を把握した香登は、ためらいがちに話しかける。
「竹井君」
「はい?」
 さすがにいつまでも固まっている訳にはいかないので、竹井は顔を上げた。
「ちょっと問題が起きてね」
 深刻そうな香登に竹井は首を傾げる。
 問題?
「なんでしょう?」
「実は木曜日にカット機の検収に行く予定の杉山君が、急に行けなくなってね」
「検収にですか?」
 検収は装置が業者によって納入される前の、業者に置いて行う大事なチェックだ。
 それに行って、希望通りの物が出来ていないと受け入れることはできない。
「杉山君担当の装置が今調子が悪くてね、離れられないんだ。今、生産が立て込んでいるから、できるだけ装置を止めたくない。交換部品が木曜日にくるから、交換後のテストもして貰わないといけないし……。だから、杉山君を今出張に行かせるわけにはいかない。で、君が行ってくれると助かるんだが?」
 それは懇願の形を取っているが、命令であることが竹井には判った。
 が、その内容に竹井は呆然とする。
 俺が?
 出張なんて6ヶ月ばかり行っていない……。
 というか、検収?
「俺、その装置のことほとんど知りませんよ」
「ああ、安佐君も行くから大丈夫だろう。彼は、杉山君についてその装置の仕様設定に携わっていたからね」
 安佐、という言葉に竹井は露骨に顔をしかめた。
「香登さん、安佐君が行くなら俺は必要ないでしょう」
 今のこの状態で、安佐と一緒に出張なんてごめんだ。
「それがだ。安佐君は確かに仕様には詳しい。だけどあいつはこういう検収という作業には残念ながら向かない。それは竹井君もよく判っているだろう?」
 きっぱりと言う香登に思わず竹井も頷いた。
 確かに細かいチェックが必要な作業に安佐は向いていない。
「だから、君がいってフォローしてくれ。ついでに教育してくれると助かるんだが。出張先は神奈川。安佐君には話をしているから詳しいことは聞くといい」
 香登は言いたいことだけ言うと、逃げるように事務所から出ていった。
 呆然とそれを見送る竹井。
 もしかして、また何か企んでいるんじゃないのか?
 だが、香登の言うことにも一理ある。
 安佐一人での検収は確かに不安が残るだろう。
 しかし……出張?
 この手で?
 しかも、安佐と?
 どうしよう……。

                    ☆☆☆☆☆
『検収』

 気の進まない出張。
 竹井は、その前準備のために今もっとも二人きりになりたくない筈の相手とともに打ち合わせ室にいた。
「明日、15時にここを出て新幹線で行きます。終了は木曜日の17時予定ですが、検収の内容次第では次の日に帰社ということになるかも知れません」
 竹井の心情に気づいているのかどうか判らない、いつも通りの安佐が淡々とスケジュールを説明する。
 だから、竹井も必要以上に意識しないように努めていた。だが、安佐の何気ない動作に躰が反応する。
 それが隠せない。
 気にすると余計に態度に出てしまい、さらに焦りを生み冷や汗に近い汗が額ににじむ。
「検収はもう最終のものです。そんなに問題は起きないと考えています。ただ、安全関係の確認について、念のためもう一度するようメンテナンス部から依頼を受けていますので、その辺りは一通りする必要があります。試験用の材料等は、今日俺の方で送っておきます。後、作業着は持っていってくださいね」
 その言葉と共に顔を上げた安佐から何気ないように視線を逸らしたつもりだったが、安佐はそれに気づいたらしく苦笑を浮かべる。
「緊張しないでください。何もしませんよ」
 その言葉にかっと顔が熱くなる。
「お前の言うことになんか信用できるか」
「信用とか言われても……。今は仕事中ですから、プライベートのことで竹井さんを困らせようなんて思っていません。竹井さんのほうがよっぽど意識しているじゃないですか」
 紅潮していると自覚できてそれがさらに自身の羞恥を煽る。
「俺、そんなに節操無しではないですから」
 さすがにむっとしたのか、冷えた口調で安佐が漏らした。
「どうだか」
 竹井の口調も負けてはいない。地を這っている機嫌はそうそう簡単に治る物ではなかった。
 だいたい安佐が怒る筋合いではないと思う。
 上向き加減だった竹井の機嫌を損ねたのは安佐の行動のせい。しかももともと面倒な仕事は嫌いな所に持ってきて、この不自由な状態での出張。原因は安佐を一人で検収に行かせられないこと、それにつきる。
 竹井は打ち合わせも嫌いだが、それを当然含む出張もあまり好きではない。
 安佐が絡むと厄介な仕事ばかりになるのかそれが不思議だった。
 ほんとうにただの同僚だとどうしていけないのか。それだったら、どんなに気があうだろう。なのに……どうして俺なんかが良いんだろう。
 それが判らない。安佐の態度が理解できない。
 諦めないと言ったその真意も……。
 螺旋を描くようにどんどん奥底に沈んでいく思考が、急に怖くなった。根底まで辿り着いてしまうと後戻りできないようなそんな恐れ。
 慌てて考えることを止めてしまう。一呼吸して、地を這っていた状態を少しだけ上昇させた。
「もういいよ、そのことは……それより出張計画と新幹線やホテルの手配は?」
 今は仕事中なのだから。
 だが、安佐の方はそう簡単に切り替えられないのか、眉間のしわそのままに竹井を睨んでいる。
「安佐君?」
 ため息と共に呼びかけるとやっと返事が返ってきた。
「計画もこっちで作っておきます。チケットの手配なんかも申請しておきます。帰りはどうなるか判らないので指定は取れませんが……」
「ああ、それでいい。それと設計書なんかに目を通しておきたいから、資料を持ってきて欲しい」
「判りました。後でお渡しします」
 こんなもんかなあ。
 頭の中で一通り反芻する。
 久しぶりの出張のせいか安佐が相手の性なのか、なかなか勝手がつかめない。
 出張ねえ……。
 再度ため息をつくと竹井は部屋を出るために立ち上がった。手元の資料をかき集めつつ、安佐に視線を送るとなぜか安佐はじっと竹井を見ていた。
 ん?
 竹井の動きが止まり、安佐の視線の先に気が付くと顔をしかめた。
 安佐は竹井の、未だ包帯にがんじがらめの不自由この上ない右手を凝視していた。
「何?」
 あまりにも凝視しているので、さすがに竹井も無視することが出来なくなった。だが、安佐は何を言われたのか判らなかったのか訝しげに竹井を見上げる。
「さっきからじっとこの手見てるだろう?何かあるのか?」
「あ、すみません」
 そう言ったきり口を閉じてしまう。
 その態度に苛つきを感じたが、だからと言ってこれ以上安佐と話をしたいとも思わない。
 竹井は黙りこくってしまった安佐を置いて部屋を出ていった。

                   ☆☆☆☆☆


 どんなに行きたくないと思ってもその日は来てしまう。
 例えどんなにその日の夢見が悪かったとしても、その出張を取りやめることは出来ない。それでも何度か杉山に装置の様子を尋ねてみたが、その返事は期待できるものではなかった。
 夢……とんでもない夢、何であんな夢……
 竹井はその日数え切れないほどのため息をついた。
 忘れようとしても、何度も思い出してしまいそれがさらに鮮明になっていく。考えることを止めようとしても、目前にその夢に出てきた男がいると嫌がおうにでも思い出してしまう。
 眉間にしわを寄せため息ばかりついている竹井に安佐は困ったように傍らで立っていた。今日の竹井は声をかけるのも躊躇われるほど不機嫌さが増している。手が空いているから仕事を手伝おうとしているのだが、竹井が安佐の方を見ようとしないのだ。
 それでも何とか声をかけて受け取っていた仕事を仕上げ持ってきたのだが、やはり声をかけるのを躊躇するほどだ。
「竹井さん、これでいいんでしょうか?」
 朝頼んでいた図面を差し出され竹井はちらりとそれに目をやる。
「ああ、見とくよ」
 受け取って机の上に広げた。
 寸法・R・構成部品……
 問題はなさそうだな……んと、サインがない。
「安佐君、ほら作成者のとこにサインがない」
 ずっと傍らで様子を窺っていた安佐に、図面とペンを差し出した。
「あ、ここですね」
 竹井の差し出した図面とペンを受け取ると、竹井のすぐ横に図面を置いて前屈みになってサインを入れる。
 そのせいで竹井の顔の至近距離に安佐の顔がせまり、竹井は思わず椅子ごと躰をずらした。
 近づくなー!
 心の中で叫んでいた。
 夢でもこんな風に近寄ってきた。そして……。
 竹井は必死で呼吸を整えて冷静さを装おうとして、少なくともこれまではそれに成功していた。
 内心の動揺を絶対に安佐には気付かれたくなかった。
 例え夢でも……安佐に欲情してしまったことを……。
 絶対に気付かれたくなかった。
 
 結局予定通りに出張に行くことになってしまう。
 時間が来て、更衣室に移動するが竹井はそこで悪戦苦闘することになった。
 朝、スーツを着ようとして挫折し1セット抱えて会社に来たのだがやはり巧く着られない。
 ボタンは何とかなる。
 だが、もともと苦手なネクタイだけは一向にきちんと結べなかった。
「まずい……」
 まさかノーネクタイで行くわけにもいかない。
 竹井が鏡を見ながらひたすら唸っていると、安佐が着替えを終えてやってきた。
「どうしたんです?ああ、ネクタイですか?」
 すっと安佐が喉元に手を伸ばす。
 ばっばか!近づくな。
 思わず後ずさる。
「い、いいよ。自分でやるから」
「遠慮しないでください。それにそろそろ出ないと余裕がなくなりますし……」
 言われて時計を見ると確かに出なければならない時間が来ていた。
 安佐に近づかれるのは嫌だったが、他に人はいない。仕方なくネクタイを握っていた手を離した。
 安佐が竹井の前に立ってネクタイを手に取り結び始める。そのため自然に竹井の顎が上がった。喉のすぐ下で安佐の手が動く。
 シャツ越しに安佐の手が躰に触れる度に躰が強ばり竹井は眉をひそめた。
 反応する躰に鼓動が早くなり息苦しさを覚える。
 さすがに竹井もこの感触が普通と違う事に気づいていた。
 俺……感じている?夢の時と同じ……。
 堪えようとして唇を噛み締める。あれは夢なんだから……だが現実でも躰は正直に反応しそれが悪い刺激でないことに否が応でも気付かされる。
 安佐は勝手が違うせいか手間取っている。
 僅かに顔をしかめて一心にネクタイを結びなおしているのだが、その刺激に堪えきれなくなった竹井は自分でやろうと手を伸ばした。
「自分でするから……」
 制止しようとする声すらも掠れていて息を飲む。
「俺も人のってうまく出来ないんですけど、もう少しですから」
 だが竹井の真意に気づかないのか苦笑混じりの視線を向けた安佐は竹井の手を捕まえ押さえた。その手が温かい。しかも話す安佐の吐息が喉元をくすぐり竹井の心臓を跳ねさせた。
 竹井は無意識の内に一歩後ずさっていた。その拍子に背中がロッカーに突き当たり金属音が響く。
 いきなり離れた竹井の躰と音に驚いた安佐が視線を上げて竹井の顔を見つめる。 
 その瞬間、竹井は思わずきゅっと目を瞑って顔を逸らした。
 一気に全身の熱が上がるのを止められない。
 掴まれた手が微かに震え、それが安佐にダイレクトに伝わった。
 目を見開き竹井を見つめた安佐の目が苦痛に耐えるかのように細められる。
「……どうして……」
 僅かな間をおいて安佐の音のない声が間近で竹井の耳に入り、そして柔らかく乾いた物が唇に微かに触れそして離れた。
 その感触にはっと見開いた目に、視界に入りきらないほど間近な安佐の顔があった。
 安佐の瞳が竹井を写している。
 キス……された……?
 抗うべきだと心の片隅が叫ぶ、が躰が動かなかった。
 動こうとしない竹井の様子に安佐はその襟元を引き寄せた。今度は強く唇を押し当てる。
 乾いた感触に竹井の躰の中心から全身へ一気にぞくりとした痺れが広がる。手を離され浮いたその手が躰の横を所在なげに漂い、安佐のスーツの裾に触れた途端本能的にそれを握りしめた。
 安佐の手が竹井の頭と背中に回され竹井を強く抱き締めた。あまりにも熱い安佐の躰に包み込まれ竹井の体温も上昇し、さらに抱きしめられた事によってさらに強く安佐の唇が押しつけられる。
 不快でない行為と感情に竹井は抗う術すら思いつかない。
 俺は……何をやっているんだ……。
 安佐の唇が離れてもそのスーツの裾を握りしめたまま竹井は動くことが出来なかった。
「竹井さん……」
 切なげな声が竹井の耳元で囁かれる。
「ばか、やろー、離せよ……」
 ののしる声に力が入らない。
「だって、誘ったのは竹井さんですよ。あんな顔して俺が我慢できるはず無いじゃないですか」
「誰が誘うって……もういい加減離せってば!」
 そんなこと!
 慌てて身を捩って安佐から離れる。握りしめていた服を離すと手が汗ばんでいて、空気にさらされてひんやりとした。
「仕事中は何もしないって言ってたじゃないか」
「仕事外だったらいいですか?だって嫌じゃなかったんでしょう」
 首を傾げる安佐に竹井は頭を大きく横に振る。
「い、嫌だったよ!」 
 強く否定するが安佐の笑みは止まらない。
「嫌じゃないでしょ」
 言下に断定され、言葉に詰まる。
 こいつは!
 悔しいが確かに嫌じゃなかった。だけどそれをこいつに教えてやるのは滅茶苦茶、癪だ。
「絶対に嫌だって言っているだろ」
 眉間に深いしわを寄せ竹井は安佐を睨み付ける。
「もう時間だろ。さっさと行こう」
 冷たく言い放つが安佐はにこりと微笑む。
 竹井の不機嫌モードが堪えていない。
 安佐は竹井のネクタイを整え直すと、再度竹井に笑いかけた。
「じゃ、行きましょうか」
 それにそっぽを向いて無視する竹井は実は気付いていない。
 未だその頬が染まっていて、しかもその目が扇情的に潤んでいることに。

                   ☆☆☆☆☆
『検収』2

 新幹線で4時間弱。
 そこから乗り継いで1時間。
 途中で食事をしていたため予約していたホテルにチェックインできた時にはもう10時を回っていた。
 竹井にとってその5時間……特に新幹線の中での4時間弱は苦痛でしか無かった。ずっと隣に安佐がいる、というその事実が極度の緊張を強いる。
 無言でひたすら窓の外を眺めていた竹井に安佐は特に話しかけることもなかった。それはそれでありがたいと思う。だが、その分竹井自身に考える時間が増えてしまった。
 それにずっと風景を見ていたのだが、トンネルに入るたび、そして日が暮れて外が暗くなってからは窓に車内の風景が映り込む。そうなると左右どちらを見ても安佐の姿が目に入ってしまい、最後にはひたすら正面を見るしか無くなった。
 安佐は男だ。俺も男だ。
 それがまず前提……。
 結局のところ、竹井の思考はいつもそこで止まってしまう。
 更衣室でしてしまったキスは決して不快ではなかった。だからといって、安佐を恋愛の対象とすることがどうしても受け入れられない。
 それは相手が男であるから。
 しかも、今までの流れを見ているとどうしても竹井の方が女役になっているような気がする。男同士というのがどういうふうにつき合うのかなんて知らないとは言えない。だから……それも嫌だった。
 数え切れないほどの何十回目かのため息。
 どうして両方とも男なんだろうなあ……。
 ちょうどトンネルに入り窓に車内が映る。
 窓枠に頬杖をついているせいですぐ傍らに安佐がいるような錯覚を受ける。その間目を閉じやり過ごしていた。でないと不本意ながらでも安佐にみとれてしまう。
 もし俺が女だったら、確かに安佐に告白されたら小躍りしてでも喜んだだろうなあ……。
 はあああ
 ため息は止まることがなかった。
 だから、ホテルの部屋に入れたとき、竹井は心底ほっとしていた。
 本当はホテルに入るまで気が気ではなかった。まさかとは思ったがホテルの部屋が一室とかいうことになったら、一人でカプセルホテルでも何でも泊まってやる、と思っていた。だから、シングル二つとキーを渡されたときには、本当に安心したのだ。
 そのあからさまな態度が出ているのに本人は気付いてなく、安佐が苦笑を浮かべていたのもあまりの安堵に浸っていて気付いていなかった。
「おやすみなさい。明日8時にここを出ますので」
 念を押されて竹井は頷いた。
「じゃあ、おやすみ……」
 その日はそこで別れた。
 さすがに夜這いをかけてくるような奴でもあるまいし……。
『仕事外だったらいいんですか?』
 鮮明な記憶。
 どうしてこういう印象的なシーンて簡単に思い出してしまうんだろう。思い出してしまったことをほぞを噛む思いで頭を振ってうち消した。
 はあああ
 どっと疲れた躰をベッドに投げ出す。
 だが、どこか冷静な頭がスーツに皺が寄るっと警告を出す。
 あーあ。
 結局その警告を無視することができず、竹井はのろのろと服を着替えた。
 おとついは安佐に迫られて、その事で眠れなかった。
 昨日は早くには寝られたのだが、夜中に強烈な夢のせいで目が覚めてしまいその後もんもんと過ごすことになって眠られなかった。
 いい加減寝不足で躰が悲鳴を上げている。
 今日こそ夢も見ずに寝てやるっ!
 悲壮な決意を込めて竹井はベッドに転がった。


 寝過ぎた……。
 夢も見ずにぐっすりと眠れたのはいいのだが、起きてみたら7時30分。
 8時にここを出るって言っていたよなあ……。
 ベッドの上で半身を起こし呆然としていたが、いつまでもこうしていても仕方がない。
 とりあえずシャワーを浴びる。
 昨日面倒腐らずにシャワーを浴びておけば良かったと、今更ながら後悔する。
 それでも熱めのシャワーでしっかりと目が覚めた。右手を濡らすわけにはいかないのでいろんな所で余分に手間取る。
 カラスの行水もどきくらいに短時間で終わらせると、バスローブを羽織った。今度は身支度を整えようとして手が止まる。電動シェーバーを忘れたのだ。
 ふー。
 かみそりでやるにしても利き腕がこうである以上、流血沙汰は避けられない。
 と、電話の音が聞こえた。
 ホテル内の内線電話が鳴っているのに気付いて竹井は慌ててベッドサイトへと向かった。
「はい?」
「あ、おはようございます」
「あ、安佐君、おはよう」
「えっと準備できました?これからそっちに行ってお手伝いしますよ。ネクタイ締められないでしょう?すぐ行きますから」
 来て欲しくないという思いと来て貰わないと困るという相反する思いで返事が出来ない。
 だが、安佐はそんなことも先刻承知なのかこちらが何も言わない内に電話を切ってしまった。
 むっとして電話を睨むが来て貰わないとどうしようもないのは確かで、竹井は諦めて受話器を置く。と、同時くらいにノックの音がした。
 隣の部屋からだから早いのは当たり前だと思いつつ、残り15分で服を身につけていないのはなあ……寝坊したのが原因とはいえ……。
 とは言っても開けないわけにはいかないので渋々とドアのロックを解除した。
「おはようございます……って……着れなかったんですか?」
 安佐が入ってきた途端、しげしげと上から下まで見つめられ竹井は頬が熱くなってしまった。
「ちょっと寝坊した……それより俺シェーバー忘れてしまって……」
「ああ、俺持ってます。持ってきますから着替えていてください」
 寝坊自体情けなくなっている所に、安佐の指示には従うしかなくて、頷くしかない。
 竹井は部屋に戻るとズボンからはき始めた。
 なんとかズボンをはき終えた所で安佐が戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「あっ、先にシャツ着ます?寒そうですよ」
 安佐はそう言いながら既にシャツを手に持っていた。
「ああ」
 それくらい出来るんだが……とは思ったが時間がない。仕方なく安佐に着させて貰う。
 羞恥心が沸き起こって躰が熱いのはもうどうしようもない。
 平静に、平静に……と頭の中で呪文のように唱える。
「ボタン……」
 安佐が前に回り込み、ボタンをしていく。
 喉元のボタンの時、昨日のことが思い出されて緊張したが安佐は難なく下までボタンをはめてしまった。明らかにほっとしている竹井に安佐が苦笑を浮かべる。
「じゃ、問題のネクタイですね」
「昨日みたいなこと、するな」
 冗談めかす安佐に竹井は釘を指す。それにおかしそうに顔を歪めくくと喉を鳴らしながら安佐は竹井にネクタイをかけた。
「あれは竹井さんが誘うからですよ」
「誘ったつもりはない」
 顔を赤らめ言う竹井の言葉に説得力はない。
「ああ、動かないでくださいって」
 安佐の指が竹井の顎をくいっと上げさせるよう動く。
 ムッとはするが邪険に払うことも出来ない。
 屈み込み喉元を覗き込むようにしながら安佐は昨日より要領よくネクタイを締めた。
「ほら、できました」
 その言葉に上げていた顔を下ろしかけた時、屈み込んだ躰を伸ばしかけた安佐がふっと竹井の顎に手をかけた。
「な、に?」
 目と目があう。目前ににっこり笑う安佐がいた。
 昨日の事が脳裏に浮かび、竹井は安佐を押しのけようとした。
「ひげ剃ってなかったですよね」
 その言葉に宙に浮いた手が止まる。
「あ……」
 安佐はそのまま片手で傍らに置かれていたシェーバーを取り上げ、電源を入れた。それを竹井の喉元に当てる。ひんやりとした金属の感触と低温のモーター音と振動が肌を通して伝わる。
 ちょ、ちょっと……。
「自分でできるって……」
 目を見開いた竹井に安佐は至近距離で笑顔を向ける。
「俺、剃ります」
「いいって」
 手を上げ安佐の手首を掴む。
「でも時間ないですから、ちゃちゃっとやっちゃいますんで」
 時間を言われると逆らえない。
 寝坊して準備が遅れたのは自分のせいだ。
 仕方なく安佐の言われるままに動いてひげを剃って貰った。
 剃ったばかりの顎の線を安佐の指が確認するように伝う。その動きにぞくりと背筋を走るものがあった。思わずしかめてしまった顔に安佐の手が止まる。
 訝しげに覗き込む安佐から竹井は逃げるように一歩下がった。
「ありがとう、もういいよ」
「竹井さんって……」
 安佐がふうと息を吐くと、くるりと振り返った。
「何だよ?礼を言っただけだろ」
 その態度に思わず口走る。
 後から思えば、どうして一言多いんだろうっていつも後悔する、そんな瞬間だった。
 ふっと安佐が振り返りつかつかと竹井に近寄る。
「え?」
 動く暇もなかった。
 安佐の手が竹井の腕を掴んで引き寄せる。
 素早く背に回された腕に力が込められ、自然に顔が上を向いた。そこに安佐の顔が下りてきた。
「んっ!」
 抗議の言葉が安佐の口の中に消えていく。
 昨日より幾分湿った柔らかな感触にを竹井は諦めにも似た心境で受け入れるしかなかった。
 安佐が去っていこうとしたのを止めてしまったのは自分なのだから……。
 安佐が漏らした言葉の意味が分かってしまったから……。
 抗わない竹井に安佐はふっと表情を和ませた。
 安佐の口元が僅かに開かれ舌先で竹井の唇をぞろりとなぞる。
「んんっ!」
 今まで感じたことのない感触がダイレクトに下半身に伝わった。漏れる声が止められない。
 恐れにも似た感情に襲われ、竹井は思いっきり安佐を突き放した。庇った右手のせいで力は入らなかったがそれでも安佐の躰は離れた。
「いい加減にしてくれ……」
 力無い言葉に安佐は苦笑を浮かばせて竹井を見る。
「ほんとうに……竹井さんて……嫌なんだったらそんな顔、俺に見せないでくださいよ」
 それが何を示しているのかは判っていた。
 だが、そんな顔をさせるのは誰だ?
 お前が触れなければ……したくてしている訳ではない。
 だが、その言葉を発することは出来なかった。
 それは安佐の行為に竹井が感じているという事の証明にしかならないのだから。
 だが、安佐の行為がエスカレートしていることは感じていた。それに飲みこまれそうになっている自分自身がいるにも気付いている。
 どうしよう……。
 だけど。
「竹井さん、そろろそ行かないと間に合いません」
 その言葉に我に返る。見上げると安佐が困ったように竹井を見つめていた。
「そうだな。仕事の時間だ……」
 だから……考えるのを止めた。
 後回しにしてもいつかは考えなくてはいけないと判ってはいたが、仕事でここにきているのだ。
 今は仕事のことだけ考えていたい。でないと、この前みたいな事故はごめんだから。
 竹井はふうと息を吐くと、にっこりと微笑んだ。
「さあ、行こうか」
 荷物を放り込んだバックを抱える。
「は、い」
 安佐がその笑顔に魅了され、一瞬反応が遅れた。
 ったく、この人は……。
 安佐はもう苦笑いをするしかなかった。
 そんな安佐の反応が理解できない竹井は、僅かに首を傾げたがそれ以上何も言わなかい。さっき墓穴を掘ったばかりだ。
 結局、何もなかったかのように二人揃って部屋を出た。
 
 
                   ☆☆☆☆☆
『検収』3

 なんだ出来るんじゃないか……。
 安佐の仕事ぶりを間近で見たのは初めてではないはずだ。だが、どこか今までとは違うような気がする。
 検収の作業として、チェックするべき所はすべてチェックできていると思う。
 もともと交渉能力や設計能力の方は長けていたのだが、文書関連の稚拙さやチェックのずさんなところがマイナスのイメージを与えていた。
 だが今日は、相手の書類をチェックし、実際の装置の稼働点検の運びも問題ない。時折こちらに確認の視線を向け、竹井がそれに頷く程度で、竹井のやることなどほとんどなかった。
 俯いた視線の先に左手で持っている装置の設計書類がある。
 相手担当者に何か追加項目を言われてもこの手では書き込むことも出来ない。直接関わっていなかったので、突っ込まれた設計上の話になると何も判らなかった。
 竹井は自分がここにいる必要性を感じることができなかった。
 俺は何をしているんだろう……。
「竹井さん?」
 安佐が竹井の硬い表情に気が付いて声をかけてくる。
「何か問題でも?」
「あ、いや、大丈夫、です」
 その言葉に安佐のみならず対応している担当者までがほっとした表情を浮かべていた。
 慌てて暗くなっているた思考を無理矢理切り替える。
「装置の設計上の問題は大丈夫だし、通常状態の稼働に関しては問題ないですね」
「じゃあ、緊急時のチェック、やってみましょうか」
 安佐の言葉に担当者が電源を入れると、装置が音を立てて材料を指定寸法にカットし始めた。制御盤のシーケンサに接続したコンピューターで偽の信号を送る。警報が鳴り、装置が停止した。
 似たような手順で次々に動作確認をしていくが、特に問題はおきない。これが最終の検収だからだいたいの問題は片づいていたのだろう。
 安佐が竹井を見て安堵の笑みを見せる。それに僅かに笑みを見せて答えていたが、ふと何かが気になって復帰行動に移っている装置に視線を向けた。
「あ、れ……」
 何かが琴線に触れた。「すみません、今の動作もう一度……」
 竹井の真剣な眼差しに気付いた安佐も装置に見入る。
 停止した装置が、エラー解除されて再起動を行う。その瞬間。
「あ……」
 安佐も小さな叫びを上げた。
 装置が規定外の動作を行っていた。さすがに担当者も気が付き、慌ててプログラムのチェックを始める。
「どうだ?」
 相手方の上司が担当者の肩越しにコンピューターの画面を覗き込む。
「プログラム上では問題ないようなのですが……」
 担当者が顔をしかめ、次々と映し出されるデータに見入っている。
 安佐もじっと装置から目を離そうとしない。装置は材料がカットされない旨の警報を発し、停止していた。
 竹井はふと時計を見た。
 4時……か。
 予定では5時にはここ出る筈だった。帰るのに5時間は見なければならない。ここを出るタイムリミットは8時、30分まで……。
 それまでに直るか?ここまで順調に来ていたのに……。
「すみません。他のチェックを先に済ませたいんですが、いいですか?」
 装置を見つめていた安佐が焦りの色を込めて担当者に声をかけた。
「あ、はい。判りました」
 担当者が慌てて次のチェック項目のために装置を再起動させる。行われた残り数カ所のチェック項目は特に問題ない。結局先ほどの一カ所は再度のテストでも誤動作を引き起こした。
「竹井さん……もしかすると厄介かも」
 安佐の珍しく深刻そうな口調に、竹井は眉をひそめた。
 安佐が言うのならきっとそうなのだろう。
 竹井はプログラム関連は専門外だったから、担当者が何をやっているのかは判らない。だが、安佐と担当者の顔が渋いのだけは判る。
 時刻はすでに6時。
「どうする?」
 最後まできちんと検収するか、それとも検収を次回に伸ばすか、ここで検収を止めて納入までに直して貰うか……。
 安佐が眉間に深いしわを寄せ考え込む。
 装置自体はきちんと造り込まれている。担当者やその上司の対応も評価できる。このまま納入しても、それまでには直しているだろう。だが、それでは許されないこともある。
 疲れたな……。
 普段事務所で事務仕事専門の竹井にしてみれば、慣れない出張の上立ちっ放し。かなり足にきていた。
「すみません……ちょっと時間がかかるようなんです」
 担当者の顔に焦りと疲労の色が濃い。
「もし明日もう一度検収するとしたら……それまでには直りますか?半日では無理ですか?」
 安佐が尋ねていた。
 明日?
 竹井が驚いて眉をひそめる。
「明日ですか?そうですね、原因さえ分かれば対処は早いと考えていますので。半日頂ければ何とかいたします」
 担当者も勝ち気な性格なのか、安佐にはっきりと明言する。
「え?」
 そのやりとりに思わず目を見開くと、安佐が今度は竹井の方を向いて言った。 
「ということで竹井さん、私は残ります。竹井さんは今日の便で帰っていただいていいですので」
「え?」
「後一カ所ですし、どうしても納期遅れは避けないと駄目な装置なんです。ですからどうしても終わらせたくて……私だけでも大丈夫ですから」
 ……そんなことできない……。
「いい。私も残るから」
 思わず言ってしまった。
 ここまでつき合ったんだから、どうせなら検収の最後までつき合いたい。
 俺が設計したわけではないしずっと関わってきたわけじゃないけど、1日この装置の周りにいて検収していたら何となく愛着が湧いてきた。
 それに、何がいいですよ、だ。
 俺は香登さんにお前のフォローを頼まれているんだ。放っとく訳にはいかない。
「安佐くんホテルの手配と会社への連絡頼む」
「でも……」
「早くホテルの手配しないと。部屋がないと泊まりようもないだろ」
「はあ……」
 竹井の言葉に安佐も仕方なく頷く。
「それでは、明日……そうですね10時頃再度こちらに伺うと言うことでよろしいですか?私どもとしましても、最後まで見届けたいと思いますので」
 向こうの上司に話しかける。
「はい、申し訳ありません。必ず明日までには何とかいたしますので」
「この一カ所さえ何とかしていただければ、まず後は問題ないと思いますのでよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 柔らかな物腰の竹井の対応に、明らかにほっとしている相手に内心苦笑を浮かべる。
「竹井さん、ホテル昨日と同じ所取れたんですけど……ただ」
 竹井が相手と話をしている間に安佐はホテルの手配を終わらせたらしく、その報告を竹井にする。
「ああ、よかった」
 ある意味このまま5時間かけて帰るより、ホテルで一泊出来る方が楽かも知れないと竹井はほっとしていた。だから、安佐が言葉尻を濁しているのに気が付かなかった。
「会社の方への連絡は?」
「まだです。これからします」
 そう言うと、安佐は携帯の短縮で会社を呼び出す。
 竹井はその間に帰り支度を始めた。テスト用のサンプル類の保管と最寄りの駅までのタクシーを相手に依頼する。
 と。
「竹井さん、香登さんが」
 呼びかけられ振り返ると安佐が携帯を差し出してきた。
「あ、ありがとう」
 携帯を受け取る。
「もしもし?」
『ああ、竹井君、明日までかかるって?』
「はい。最期まで安佐君が確認したいと言うので、後一カ所なんですけど」
『ああ、聞いた。安佐君にしては珍しく慎重だな。やはり竹井君と行かせて正解だったか』
「え?」
『安佐君、竹井君の前でははりきるからなあ。尊敬っていうか、憧れみたいなものなのか、ちょっと冷たくされるとすぐ困ってきりきり舞しているし、で少しは仲良くなったかと思ったのに……なのに、また喧嘩したみたいだったから、良いところ見せてみろって言っておいたんだ。竹井君ももう少し安佐君とうち解けたらどうだ。ああいうタイプと一緒にいると悩むのがバカらしくなるだろ。何を喧嘩したのかまで教えてくれなかったが、せっかく一時的にでも仲良くなったんだから、このまま仲直りしなさいって』
 喧嘩って……あいつどういう説明をしたんだ?というか、何でそんなこと香登さんに言うんだ?恥ずかしくないのか?
 それに……。
「香登さん……もしかして、そのために?」
『そのためだけじゃないけどね。だけど、竹井君だってたまには外に出ていろいろ体験しないとね』 
 確かに滅多にない経験かも知れない。だが、問題はそれだけじゃない。それに楽しそうな物言いの香登に加えて、後ろから笑い声が聞こえる。
「周りに誰かいます?」
 低い声で尋ねると、香登は一瞬息を止める。
『……杉山君がね』
(ちょっとお)
 慌てた声が被さってきた。
 この二人は……。
 竹井は携帯を耳に当てたまま、眉間のしわに指を当てて唸る。
 この二人が何らかの策略を練って竹井が出張に行くようにしたのだろうとは簡単に想像がついた。
 こんなこと普通考えるか?
 失敗するような事ではないとはいえ……仕事、なのに……。
『竹井君?』
 黙ってしまった竹井に香登が一転して不安そうに呼びかける。
「香登さん、覚えといてくださいね」
 低い声で唸るように宣言すると香登の返事を聞く前に携帯を切った。そのまま驚いた表情を見せている安佐に無言で返す。
 傍らで訳が分からず呆然としている相手方担当者ににっこりと笑いかけると、安佐に帰るよう指示を出した。

                    ☆☆☆☆☆

 竹井はホテルに帰り着くまで全くの無言で通した。困り果てた安佐は既に話しかける努力を放棄していた。
 だが。
「何だよ、これはっ!!」
 低い声でぐっと安佐を睨む竹井に、安佐は口元をひくつかせて立ちすくんでいた。
 場所はホテルの一室。その部屋に並ぶのは二つのベッド。
「話しかけても返事してくれないから……言い損ねたんです。何度も言いかけたんですよ。でも無視しているから……」
 小さな声で言い訳する安佐に竹井も言葉を失う。
 そりゃ確かに香登さんの話に苛ついて、安佐と話をするのも嫌になって……。
 だけど、だからといってこの状態は……。
「電話したらツインしかなくって……」
「俺、どっかカプセルホテルでも何でも探す」
 竹井はむっとした表情のまま荷物を持って安佐の横をすり抜けてドアへと向かった。
 今の状態でこいつと一緒の部屋にいるのは嫌だ。
 香登さんと杉山さんの策略に乗っかるのも嫌だ。
「待ってください!」
 安佐が竹井の腕を掴んで引き留める。
 ぐいっと引っ張られ安佐と向き合うようになった竹井、口を一文字に引き締めて安佐を睨む。
「そりゃカプセルホテルならどっか空いているかも知れませんけど、でもそんな所余計疲れてしまいますよ。いいから、ここで休みましょうって」
 宥めて言い聞かせるような物言いの安佐に、竹井はかちんときた。
「何だよ。ちょっと油断したらキスしてくるような奴と一緒に居れる訳ないじゃないか」
 むうと眉間のしわを深くして竹井は安佐を睨む。
「あれは竹井さんが誘うからです。普通にしていてくれれば俺もそんな節操無しじゃありません」
「誘ってないって言っているだろ」
「誘ってますよ。真っ赤な顔して震えて……好きな人が目の前でそんな顔して煽られない人なんていませんって」
 ぐいっともう一方の腕も掴まれる。安佐の顔が近づき、その真剣な視線に耐えられなくて目を反らす。
「あ、あれは、お前が触るから……」
 言ってはっと口ごもる。
「感じただけですよね。でも嫌いでもないでしょ」
「それは……」
 竹井は言い様がなくて口を閉じた。
 嫌いじゃない……たぶん、そうなのだろう。
 ここに一緒に居ることに耐えられないのはむしろ自分の方。
「だけど、竹井さんが嫌なら俺がカプセルホテルでも何でも移ります。だから、竹井さんはここにいてください」
「ま、待てよ。この出張のメインはお前で、俺は今日帰ってもいいようなのが残っているんだから……疲れているのはお前の方だろ。だから、俺が出ていくから」
「駄目ですよ。俺竹井さんが好きだから、だから竹井さんを大事にしたいから、ここにいてくださいって」
 そんな事を軽く言う安佐は、でもその口調は真剣そのもので竹井を縛る。
 そんな……そんな事言わないでくれ……。
 歪む視界。
 駄目だから、俺は……。
「俺は……お前なんか嫌いだ」
 掠れた声が自分の物でないように遠くから聞こえる。
「……いいですよ。それでも」
 はっと見上げた安佐の目が、どこかで見たような錯覚に陥る。
 いや、これは……違う?
 もっと切なげで苦しそうな目。
 あの時のは同情だった……。
「俺、もともと竹井さんに嫌われてましたから、ずっと」
 安佐の力の無い声が胸に突き刺さる。
 動かなくなってしまった竹井から安佐は荷物を取り上げて床に置いた。そして、自分の荷物を持つ。
「じゃあ、明日9時にお迎え来ますからね。準備していてくださいね」
 明るく言う安佐に竹井は返事が出来ない。
 俺は何をやっているんだ?
 胸が激しく鳴っている。
 安佐が出ていく。ああ言った以上安佐は出ていくだろう。だからといってどうする?
 嫌われていたって?
 違う。嫌ってなんかいない。
 いや、むしろ……。
 どうにかしようとして、どうにもならないジレンマ。
「ああ、竹井さんてば、そんな顔しないでくださいよ。マジで襲いたくなってしまう。やっぱ、俺出ていった方が良いですね」
 わざとおどけているのが竹井でも判る安佐の声。
 安佐が竹井の横を足早に通り抜ける。
 その動きに伴って起きた微かな風が竹井の頬をなでる。それはごく僅かであったけれど、それを感じた途端、竹井ははっと顔を上げた。慌てて振り返る。
 だが、安佐は竹井を振り返りもせずにドアを開けて出ていった。
「安佐くん……」
 竹井の声が届くことなく中空に消えていった

                    ☆☆☆☆☆
『検収』4

 閉じられたドア。
 かちりとオートロックがかかる音が聞こえる。
 立ちすくんだまま竹井はそのドアを見つめていた。
 これでいいのか?
 自問自答する竹井の顔は晴れない。
 一人でいたいから、安佐が出ていった事に問題はないはずだ。
 ただ、ここは安佐が手配したホテルで、今回の出張は安佐がメインだから、疲れが取れにくいカプセルホテルには竹井が行くべきだった。
 胸の奥に鋭い痛みが走る。
 思わず押さえた胸に視線を落とす。
 気にしなければいいんだ、勝手に安佐が出ていったんだから。ここにいれば俺に欲情してしまう安佐がそれをしないがために出ていったのだ。
 仕方のないことだ。
 そう思いこもうとして……だけどそれが無理なことを思い知らされる。
 考えまいとしてもいつまでたっても安佐の最後の表情が脳裏から離れない。無理に作った笑顔が竹井の頭の中ににこびりついている。
 その笑顔が思い浮かぶたびに、胸の痛みが鋭くそして大きくなっていく。
「く……」
 俺が悪いんだ……。
 俺が自然に振る舞って、いつものような態度で接すれば良かったんだ。
 安佐は決して節操無しじゃない。いつだって優しいから、無理強いはしない。
 だけど……。
 少しは無理矢理にでもせまってきたらいいのに……。
 ふっと浮かんだ考えに、竹井は思わず手の甲を口に当てて唸った。
 全身が朱に染まる。
「俺……何を……」
 だが一度浮かんだその考えは簡単に消えるモノではなかった。
 唇に触れた手の甲の感触に安佐のキスまでが思い起こされ、さらに竹井の心の中はパニックを起こす。
 思い出しただけで躰が熱くなり、何とも言えないぞくぞくとした感触が背筋から下半身に集まっていく。
「う、そだ、ろ」
 自身のモノが欲情しているのを感じて、竹井は思わず跪いてしまった。
 熱く高ぶった躰が恨めしいほどに敏感に感じる。
「なんで……安佐のこと……」
 言葉に出すと、自らの言葉が刺激となって耳から入る。
 信じられなかった。
 自分の躰が安佐を欲しがっているという事実が。だが、高ぶった自身のモノは、安佐の事を考えるたびに固くなっていく。追い出そうとすると余計に脳裏にはっきりと思い出される安佐との接触。
「んく……」
 思わず触れてしまい、それだけで今まで以上に敏感に感じてしまう自分に驚く。漏れた声が羞恥を呼び起こし、さらに自らを煽る。
 一度高ぶった躰は一向に冷める気配はなかった。しかし。
 安佐……ごめん。
 激しい後悔と共にぐっと下唇を噛み締め、なんとか躰を静めようとする。
 こんなことになるために安佐を追い出したのではなかった。心の痛みが苦しくて目尻から涙がこぼれ落ちる。
 馬鹿だ……。
 噛み締められた唇の間から嗚咽が漏れる。
 俺が一番馬鹿なんだ。
 結局自分の方が我慢できないほど安佐を欲しているんじゃないか。
 優しい安佐に甘えて、安佐を悪者にしていたのは自分の方。
 息が苦しい……。
 思わず自らの腕を躰に回す。
「安佐……ごめん」
 涙とともに言葉が漏れる。
 判ってはいた。
 キスされて不快じゃないってことの意味がどんなものか位、判っていた。
 安佐が見舞いに来てくれることがどうしてあんなにも嬉しかったのか。
 安佐がばりばりと仕事をして、仕事の依頼が減ってしまうって考えることがとてつもなく寂しいって思える意味も……。
 判ってはいた。
 俺は安佐が好きだ。
 安佐とともにいたい。
 だけど、だからといって安佐が欲しているような事をそれを受け入れるかどうかは別だった。
 どうしても乗り越えられないプライドという壁が邪魔をする。
 俺は男で、安佐も男。
 そして安佐は自分の後輩……それが安佐を受け入れることを拒絶していた。
 だけど今、拒絶しているのがつらくなってただ泣くしかできない自分がいる。安佐に抱きしめられたくて、呻いている自分がここにいる。
 馬鹿だよな、俺って……。
 自分で自分の首を絞めているようなものだ。
 安佐を拒絶すればするほど、苦しくなって安佐が好きなのだと思い知らされる自分がいる。
 これでいいのか?
 こうやって安佐を拒絶し続けて、それでいいんだろうか?
 越えられない壁を、最初から諦めて越えようとしなくて……いいんだろうか?
 俺は、また失うつもりなのか……。
 努力せずに失ったプロセスエンジニアとしての力のように……。
 受け入れようと努力もせずに、安佐を手放してしまうことができるのだろうか?
 ……。
 嫌だ……絶対に。
 手を伸ばせばそこにある存在。
 簡単なことだ。求める物は本当にすぐそこにあるのだから。
 どこまで受け入れることができるかはその時にならないと判らないかも知れない。
 竹井の心に中途半端ではあったけれどもある決意が宿る。とりあえず、できることをやらなければならない、と。
「安佐くんはどこにいったんだろう……」
 ふらりと立ち上がる。
 あの強引で実行力はあるくせに、妙なところで抜けてて……俺には優しくて腰がひけているあの馬鹿を捜し出して連れ戻そう。
 話はそれからだ。
 あいつが俺の事を気遣うたびに俺はいたたまれなくなる。
 だから。
「だけど、どこを捜せばいいんだろう」
 窓際に寄り、下を見下ろす。部屋の灯りが反射した窓から外は見にくく、所々明るい街の様子だけが窺える。考えてみればカプセルホテルの言い出しっぺは竹井なのに、その問題のカプセルホテルが近辺にあるかどうかも知らない。
 始めての街だから今一つ地理感覚がつかめない。
 ふと時計を見る。このホテルに入ったのは一体いつだったのか?正確な時間は判らないが、入ってすぐに言い合いになったのだから、安佐が出て行ってからそんなたいした時間はたっていないはずだ。
 ただ問題は安佐の方は何度もこの街に来ているはずだから、地理には詳しい。それでもドアを出て追いかければ、まだ近辺にいるかも知れない。
 その時、携帯の着信メロディが鳴り始めた。その音にびくっと躰が反応し、音の鳴る場所を探す。
 妙な予感があった。出なければならないと思った。
「もしもし……」
『……竹井さん?俺です、安佐です』
 安佐くん……
 安佐の声に竹井は明らかに安堵した。
『竹井さん、聞いてます?』
「ああ」
 捕まえられたことが泣きたいくらいに嬉しくて、声が震えないように必死の思いで声を抑える。
『俺、うっかりしてその部屋の鍵持って出ちゃって、それでフロントに預けておきますから、竹井さん取りに』
「嫌だ!」
 安佐の言葉を遮るように竹井は言った。
 逃がさない。おおぼけしてくれた安佐に感謝したい気分だった。
『た、竹井さん……』
 だが、そんな竹井の心理状態など判らない安佐はてきめん狼狽えていた。
「何で俺が取りに行かなきゃいけないんだ?お前が持って帰ってくればいいだろうが」
 うわずる声を押さえつけて不機嫌な声を出す。
「それは……そうなんですけど……」
 力のない安佐の声が聞こえたが、それを無視して電話を切った。ついでに携帯の電源を二度とかかってこないように切る。こうすれば、安佐のことだから必ずここまで鍵を持ってくる。
 確信があった。


「竹井さん、はい」
 ノックされたドアを開けると安佐が入ろうともせずに鍵を差し出してきた。
 これを受け取れば、そのままUターンするんだろうな。
 安佐のきつく結ばれた口元が固い表情を見せていた。
 怒っているのか、とも思えるその表情に竹井は不安に襲われる。それが表情に出てしまったのか、安佐がふっと口元を緩めた。
 しょうがないですね。
 安佐は何も言っていないのに竹井にはその表情がそう言っているように見えた。
 安佐の手が竹井の左手を掴み上げ、その掌に鍵を載せて握らせた。
 透明なプラスチックの棒が安佐の体温を伝えてくる。竹井それをがぐっと握りしめたのを確認すると、安佐はそっと手を離した。
「それじゃ」
「ばかかお前はっ」
 別れの言葉を言おうとした安佐に竹井は言葉を叩き付けた。
「は?」
 驚いて見開かれた目が竹井をまじまじと見つめる。
 その隙に安佐の手から荷物を奪い取ってさっさと部屋の中に入ってしまった。
「え?あれ?」
 安佐が呆然とさっきまで持っていたはずの荷物と自分の手の中を交互に見やる。
「何、そんな所に突っ立っているんだ?」
 竹井に声をかけられ、安佐は訳も分からず部屋の中に入ってきた。
 背後でドアが締まる。
 竹井は安佐の荷物をベッドに放り投げると、未だ状況を把握できない安佐に視線を向けた。
「お前さ、ここで寝ろ。俺も出ていかない。それでいいんだろ」
 入ってすぐに言い合いをしたせいで着たままだった上着を脱ぎながら声をかけた。
「でも、いいんですか?」
 それでも突っ立ったままの安佐に竹井は仕方なく笑いかける。「いいんだって言っているだろ」それは多少引きつってはいたけれど、何とか成功した。
「お前が手配かけたホテルだろ。二人泊まるためにちゃんとツインになっているのに、何でお前が出ていく必要があるんだ」
 言い出したのは竹井ではあったけれど、とりあえずそれは棚にあげてしまう。
「はあ……」
「ほら、お前もスーツ脱いで休めよな。いつまでそこに突っ立っているつもりだ?」
 ハンガーを取り出し上着を掛けようとした。が、右手が巧く使えないせいでするりと床に落ちてしまう。それを見た安佐がようやく動いた。
「やりますよ」
 ようやく諦めもついたのか、安佐がため息と共に竹井の手からハンガーを取り上げる。
「ああ」
 素直に竹井は頷く。足下に落ちた上着を安佐が拾い上げハンガーに掛けてクローゼットに入れた。ベッドに座り込んだ竹井はじっとその様子を眺めていた。
「ネクタイは?」
 言われて慌てて取ろうとした手を押さえられ、安佐の手が器用にネクタイを外した。しゅるっと衣擦れの音がし、安佐の手にネクタイがかかる。と、安佐の動きが止まった。手にかかったネクタイをじっと見つめている。
「どうした?」
「いえ」
 竹井の問いかけにはっと我に返った安佐が笑いを口元にだけ浮かべた。
「キスしたことでも思い出したのか?」
 努めて冷静になるよう、だが顔を見せる勇気はなくて部屋の中が映っている窓で安佐の様子を窺っていた。
 窓の中の安佐が驚いたように竹井の横顔を見つめている。
 熱くて息苦しい。
 ほおっと息を吐くが、籠もった熱は容易には逃げて行かなかった。
「煽らないでくださいって、言っているでしょう」
 かろうじて紡ぎ出された言葉は掠れていて、安佐が欲情しているのを感じてしまう。
「煽っているつもりはない」
 俺って、結構天の邪鬼?
 こんな状況でも安佐に対抗しようとしている自分に内心苦笑する。
「だって、俺、もう我慢の限界なんです。こうやって竹井さんが俺を入れてくれて、一緒に泊まろうって言ってくれて……そういう意味じゃないって判っていてもすっごく嬉しくて……でも、やっぱり苦しいんです。だから、お願いです。俺を煽らないでくださいって。もう笑いかけないでください。俺、竹井さんの笑ってるのが大好きだから、それだけで理性なんて吹っ飛んじゃいそうだし……もう俺って」
 頬を赤く染めとぎれとぎれに訴える安佐を横目で見ながら、竹井は可愛いと思ってしまった。
 それと安佐の台詞の相乗効果が竹井を赤面させる。
 お互い視線を合わさないようにするが、それはそれで奇妙な緊張が場を支配する。
 うう。
 耐えられなくて、ふいっと立ち上がると冷蔵庫からビールを取り出した。プルトップを開け、一気に流し込む。熱く高ぶっていた躰が内から一気に冷やされた。入っているだけのビールを取り出すと、どさりと音を立ててベッドに座り込む。
 狭いビジネスホテルの部屋のツインだから、ベッドの間は1mもない。
 安佐はどうするのだろうか?
 ふつふつとわき上がる不安があることは否めない。飲まずにはいられないとばかり、ビールに口をつける。
 2本目のビールを空け、3本目の缶を手にした頃、もうどうでもいいやという気分になってきた。
 考え込むことが馬鹿らしくなってくる。なるようになればいい。
「竹井さん……」
 しかし竹井が3本目を手にしたのを見てとった安佐が竹井の手元と傍らに置かれた缶を交互に見、顔をしかめた。
「何?」
 頬が染まっていることはアルコールのせいにしてしまおうと脈略もなく考える。
「あんまり飲めないんじゃなかったんですか?」
「まだ3本目だよ。これ位は大丈夫」
 ぐいっとビールを流し込む。
 その手を安佐が押さえビールを取り上げる。「怪我にさわりますよ」
「大丈夫って」
 こんなたわいもない会話が嬉しくて、つい笑ってしまった。
「……駄目ですってば」
 安佐が口元をひくつかせながらあらぬ方を向く。それを追いかけるように竹井は安佐の顔を覗き込んだ。
「この程度でもぶっ飛んでしまうのか?」
「駄目ですって……」
 安佐の2度目の台詞は小さく掠れていた。その言葉が可愛らしく感じ、思わず笑みを漏らす。
 自分が煽っているのは判っていた。だが煽らずにはいられなかった。
「俺はあなたの笑みに惚れたんですよ……」
「普通に笑っているだけじゃないか」
「それでも!」
 必死に何かに堪える安佐に、竹井は我慢ができなくて言葉を漏らす。
「安佐君はさ、馬鹿だよな、俺なんか……男で、我が儘で、感情的で、仕事も出来ないような……お前なんかに好きになられるようなモンじゃないのに……」
 自嘲めいた言葉を吐く竹井に、安佐はすうっと目を細めた。
「竹井さんは優しいですよ。仕事だって目立たないけど、竹井さんがいないとうちの部の機能止まっちゃいます。みんな面倒で細かいところ苦手だから。それにいつだって真面目で一生懸命で……みんな判ってるんですよ。俺、そんな竹井さん見てるのが好きでした。笑ってる顔が一番好きで、ずっと竹井さんと仕事できたらいいなって……」
 ふと安佐が言葉を切った。
 安佐がずいっと近寄ってきた。急に心臓の動きが早くなり、体温が上昇する。安佐の真剣な眼差しがじっと竹井を見つめている。
「竹井さんが笑わなくなって、初めて気がついたんです。俺がどんなに竹井さんが好きなのか。失ってみて、初めて気がついた。もの凄く寂しかった。信じられなかったけど、こんな風に抱きしめてしまいたいと思うほど、好きだったんだって」
 息づかいが聞こえるほど近いところに安佐がいる。
 それだけで竹井の躰が微かに震えた。微かではあったけれど、安佐には十分伝わる。
 それが安佐の理性を崩した。
 気が付くと、安佐に抱きすくめられていた。きつい力に半端立ち上がるようになる。
「判ってます?ずっと我慢しているんですよ。告白してからずっと……。なのにあなたは俺を翻弄するだけ翻弄してくれる。俺、自分がこんなに節操無しだとは思わなかった。こんなにもあなたを自分の物にしたくなっていることが恐ろしいとも思った。だからずっと我慢していた。夢にまで見て……何度あなたに欲望の対象にしたことか。そんな俺の前で、あなたは嫌だって言いながら自ら俺を煽るんですよ。こんなことって……酷い!」
 酷い。
 その言葉が竹井の胸に突き刺さる。
 きつく締め付けられる腕の力が安佐の感情を豊かに代弁していた。
 だけど。
 俺だっていい加減つらい。
 安佐への想いを自覚しているのに、越えられない壁がある。
 その壁を壊すか越えるかするために竹井自身何かのきっかけが必要だった。
 それをくれないのか、お前は?
 竹井が息苦しさにもがくと顔だけが上に出た。
 安佐と視線が合う。
 ふっと竹井が目を閉じた。それに誘われるように安佐が触れるだけのキスをする。
 安佐の唇が離れると同時に竹井は目を開けた。
 じっと安佐の焦げ茶の瞳を見つめる。
 今しかない、そう思った。だから。
「安佐……。俺、お前が好きだ」
 精一杯の告白。
「竹井、さん?」
 驚きのあまり安佐の表情が固まる。
「好きだけど……俺、お前が欲しがるようなこと全部あげられないかも知れない。まだそこまでの決心はつかない」
「あ……」
 安佐の腕が緩んだ。腕から離れた竹井の躰は再びベッドの縁に座り込んだ。目元まで赤く染め、それでも安佐を見る。
「それでも……いいか?お前にとっては、とんでもないことかも知れないけど……俺がお前のこと好きだっていうだけじゃ、駄目か?」
 震える声を何とか抑える。ベッドについた左手でシーツを握りしめる。
「いつかなんて判らないけど……いつかはお前を受け入れることができるかも知れないけど。だけど今は……それじゃ、駄目か?」
 じっと安佐を見ているのに耐えられなくて、視線を逸らしそうになるのを何とか我慢する。
 安佐は、何も言わなかった。
 言わなかったけれど、大きく首を振った。
 そして、自らの目を竹井の目の高さに合わせるように躰を屈める。
 すぐ鼻先に安佐の顔が来て、竹井は思わず視線を逸らした。
「本当に俺のこと、好きなんですか?俺がいいって、本当に?」
「お前のこと、嫌だったら……」
 ごくりと息を飲み込む。決意をこめて、自分に勇気を与える。
「嫌だったら、お前を部屋になんか入れなかった……」
 小さな声にならない声。
 だが、間近にいた安佐の耳にはかろうじて届いた。
「信じられない……」
 安佐の呆然とした表情から言葉が紡ぎ出される。それを聞いた途端竹井はむっとした。
「じゃあ、信じるな」
 冷たく言い放つと安佐が慌てて頭を振った。
「信じます!だけど、本当に良いんですか?」
 終わりになるほど小さくなる声。
 うう。
 なんでそこで疑問形なんだ?
 なけなしの勇気が消えそうになって目を細めて睨む。
 こいつは。
 俺の一世一代の告白を信じられないのか?
「……もういい。やっぱりお前は俺のこと信じられないんだろ」
「ち、違いますって。だってあんまりにもうれしくて、なんだか夢みたいで……竹井さんが好きだなんて言ってくれるなんて……だって竹井さんの性格だったらもう一生言ってくれそうにないなんて思っていたから、だから」
 興奮しているのか一気にしゃべり尽くす安佐。
 だが、竹井の不機嫌な表情は改まらない。
 一生言わないって……こいつ、俺のこと、どう思っているんだ?
「でも、うれしいです、本当に。夢みたいだ。夢じゃないんですよね!」
 しかし安佐が子供のように興奮して喜んでいるのを見ていると、竹井もなんだか怒っているのがばからしくなってきた。
 こんな風に単純に喜べる安佐が羨ましいとさえ思える。
 ほおとため息をつくと、竹井は安佐の横に座り直した。
 安佐がびくんと反応する。
「それで、話を元に戻すけど……」
「俺、竹井さんがその気になるまで待ちます。だって今無理して竹井さんを失ってしまったら一生後悔する事になる。それまでは、竹井さんに欲情しても俺、自分で処理します!」
 だ、だから!
 あまりの安佐の台詞に竹井は耳まで赤くなって喘ぐ。
 あ、安佐あ……。
 自分が何を口走っているのか判っていない安佐は、竹井が睨んでいるのにも気付いていない。
「あ、だけど、キスはいいんですよね?」
 けろりとして聞いてくる安佐に、竹井はがっくりと肩を落とした。
「駄目ですか?」
 返事をしない竹井に心配そうに問いかける。
 縋るような視線に竹井は思わず口走った。
「キス、くらいなら……」
 途端、安佐が竹井を抱きしめる。
 至近距離に安佐の顔がある。しばらく見つめ合った後、竹井はそっと目を閉じた。
 それに誘われるように安佐が優しくキスをする。
 竹井が初めて自ら受け入れたキスは、心からの安堵ともに甘い痺れを全身に走らせた。
『検収』5

 安佐はいつまでたっても竹井を離そうとしなかった。
 むさぼるようにキスを求めてくる。肉厚の舌が竹井の咥内をまさぐり、竹井の舌を捉えようと蠢く。口の中がこんなにも感じる物とは思わなかった竹井はそれだけでその快楽に溺れそうになった。
 だが、さっき自分から言い出したばかりなのに、このまま流されてたまるか、という想いが理性をかろうじて保たせる。
 馬鹿な事だとは自分でも自覚していたが、こればっかりは譲れる物ではなかった。前言撤回するにしても、できれば安佐に対してだけでも自分が主導でいたいと思う。
 そう竹井のプライドが主張していた。
 だが制止しようとする言葉も押しのけようとする手も、全て安佐に塞がれていた。
 どちらのものとも判らない唾液が竹井の喉を伝う頃、繰り返し与えられる思っても見なかった刺激に竹井の意識は霞がかかったようにぼんやりとしてきた。逆らう力が抜け始めた竹井を支えながら、安佐はその手で竹井の背骨のラインを上下に優しく愛撫する。そのせいで竹井の躰は時折全身を襲う痺れにさいなまれ、それがさらに下半身にダイレクトに響く。
「んん……くう」
 竹井の喉から意識しない声が漏れ、その度に所在なげな手が安佐の服を強く掴む。
 襲ってくる刺激に堪えられなくて、歯を食いしばりたくても安佐の舌が咥内にあるためそれもできない。ただ、与えられる感覚を享受するしかなかった。
 ふっと安佐の唇が離れた。
 溢れた唾液が竹井の顎を伝い、喉元に流れる。
 竹井は目元まで朱に染めていた。虚ろな視線が安佐を求めて宙を舞う。
 と、安佐が流れた唾液の痕に添って竹井の首に顔を埋めた。濡れた柔らかな舌が唾液のラインをなぞる。
「んあっ」
 ぞくりとした刺激が脳天を貫き、同時に竹井の躰に飛散した。
「ああっ」
 竹井の顔がのけぞり、白い喉が露わになる。晒された喉元を何度も安佐の舌が上下する。その度に走る刺激に竹井の躰は完全に力を失っていた。安佐の支えだけで立っている状態だった。
 いつの間にかシャツの第三ボタンまで外されているのにも気づいていない。
 安佐の舌がはだけられたシャツの間に入る。
 鎖骨のラインをなぞり、左右の鎖骨の間にきつく吸い付いた。
「んっ」
 竹井は固く目を瞑って与えられる刺激に堪えていた。
 安佐は微かに震え続ける躰を愛おしそうに抱き締めたまま、そっとその躰をベッドに横たえる。
 背に柔らかい感触を感じ、竹井はうっすらと目を開けた。どこか焦点の合わない瞳が安佐を見つめている。安佐は竹井の目尻に浮かぶ涙を舌で掬い取ると、再度竹井の胸に口付けた。
 日に焼けていない躰は白く、そこに赤い斑点がそこかしこに散りばめられる。
 吸い付かれる僅かな痛みに朦朧としていた竹井はわずかに覚醒した。
 ……?
 躰の上に安佐がいる。
 意識が違和感を感じさせた。
 俺は……何を……?
 躰の上の重みと躰を接しているところから伝わる熱い温もりを感じた。
 胸元に降ろした視線の先に安佐の頭がある。
「んくっ」
 途端に走る胸からの刺激に竹井は顔をしかめる。無意識の内に手が安佐の頭を掴んだ。
 安佐の舌が竹井の胸の突起を包んでいた。強く吸い付かれ、ぞくぞくと甘い痺れ全身に伝導する。
 下に回された安佐の手が竹井の太股の内側をなで上げる度に躰がびくりと反応する。
 だ……だめ、だ……。
 竹井の頭の中のどこかが警告を発していた。
 だが安佐の愛撫にはよどみがなかった。竹井が感じるであろう所を間断なく責め立てる。
 止めさせないと、という意識に躰が反応しない。
「あ……さ……」
 止めさせようと出す声も掠れて甘く余計に安佐を煽り立てる。
 するりと安佐の手が竹井のモノを服の上からなで上げた。
「あっ」
 竹井の躰が今まで以上に反応した。それに煽られるかのように安佐の手が強くそれを上下に擦る。
「ん、あっ……やあ」
 あまりの刺激に肘をついて上半身を起こそうとするが、上に安佐が乗っているため僅かにしか上がらない。
 安佐の残っていた手が器用に竹井のズボンのベルトを外し、ファスナーを降ろした。
「!」
 その金属音が竹井の意識をはっきりと覚醒させた。
 こ、いつは!
 慌てて、力を込めて安佐を押しのけようとする。
「止めろっ」
 だがその声を無視した安佐は、竹井の背に右腕を回し体重をかけて動きを封じる。その隙にするっと下着の中へ左手を差し込んだ。
「ひっ」
 直に触れられたそれはもう充分に猛っていた。先端の敏感な所に触れられ、起こそうとした躰がベッドの上で仰け反る。
 安佐の大きな手が竹井のモノを掴み、ゆっくりと上下に扱く。
「や、め……あぁ」
 それでもなお制止しようとした竹井手は慣れた安佐の手の動きに翻弄され完全に封じられていた。きつく抱き締められ、安佐の唇が臍の周りに吸い付く。
 背に回された安佐の指先が、竹井の細い腰のラインをなぞる。
「あ、あ……ああ……」
 扱かれ竹井のモノは先走りの液でしとどに濡れていた。それが安佐の手の動きをなめらかにし、さらに竹井の快感を増幅させる。
「あさっ……やっ」
 絶え間なく訪れる快楽の波に堪えることが苦しくて竹井の顔が歪む。竹井の手が縋り付く物を捜して安佐の髪の中で蠢いていた。
 そんな竹井に安佐はふっと笑みを漏らすと上半身を起こした。
 手の中にあった安佐の髪が外れ、躰の上から消えた重みに竹井は不安そうな表情を見せる。
 だが、すぐに安佐の躰が再び竹井に覆い被さった。
 下半身に集中した重みに竹井ははっと半身を起こした。が、
「うくっ!」
 起こした躰が支えていた腕の力が抜けてベッドに沈み込む。身を捩って逃れようとするが、押さえられた腰は動かない。
 猛っていたモノがすっぽりと柔らかな物に包まれていた。それが安佐の口だと直感で気が付いた。
「離せっ……て……ううっ」
 口の中で安佐の舌が竹井のモノを巻き込み、きつく上顎に押しつける。
 すぼめられた唇で竹井のモノをゆっくりと上下に扱く。
 始めての感覚に竹井のモノは一気に膨張した。
 確かに増加したその硬さに安佐の顔に笑みが広がる。
 そして自らのズボンの中から自身のモノを取り出した。
 そこは安佐に翻弄されている竹井の姿に煽られ弾けんばかりに怒張し、先走りの液で濡れていた。触れるとびりびりと躰に刺激が走る。
 安佐は竹井のモノを口で扱きながら、自分のモノもその手で扱いていた。
 もう限界が近かった。
 手に入れることなどできないかも知れないと思っていた人が安佐の下で喘いでいる。
 それだけで安佐のモノは高ぶる。
 何度夢見たことだろう。
 こうしてこの人を躰の下に組み敷くことを。
 最後まではできない。
 それは判っていた。
 だが。
「うあっ……あ、さ……はな、して……も、だめ……」 
 限界に近づいた竹井のせっぱ詰まった声が安佐に届いた。
 竹井は固く目を瞑って、激しく迫る奔流に逆らおうとしていた。
「竹井さん……達ってください」
 口の中に含んだままだから声がくぐもっている。だが、その響きがダイレクトに竹井のモノに伝わった。
「んくううううっ」
 その瞬間、竹井のモノが弾けた。安佐の咥内に独特の匂いが広がる。
 びくびくと痙攣する様子が安佐の躰にまで伝わる。
 竹井が口の中で達った。
 その喜びが安佐を一気に高めた。竹井のモノを銜えたまま、堪えることなく自分の手の中に迸らせる。
「んんっ」
 手の中に出された白濁した液が、指先を伝いシーツにぽたりと流れ落ちた。そのシーツを使い安佐は手のモノをぬぐい取る。
 全身を襲った快感が心地よい気怠さを引き起こし、ぐったりと竹井の躰に倒れ伏した。その拍子にずるりと竹井のモノが口の中から抜け出た。
 その刺激に竹井は身震いする。肩で大きく息をしていた竹井は虚ろな視線を安佐に向けていた。その目の前で躰を起こした安佐は口の中に残った竹井の出したモノをごくりと飲み干した。
 動く喉でそれを知った竹井は、息を飲んだ。
 驚きに目を見開く。
「あ、安佐!」
 安佐の口の中で達ったことを視覚で認識してしまった。
 それが竹井の全身を一気に熱くした。耳まで真っ赤に染まった竹井が慌てて躰を起こした。だが安佐から離れようと身を捩った瞬間、手で支えていた躰を安佐がの手が引き起こし抱き締める。
「は、離せ!」
 安佐にイカされてしまった……。
 羞恥と怒りがない交ぜになった竹井にも収拾のつかない感情が竹井を揺り動かす。
「素敵でした……」
 うっとりと耳元で囁く安佐の言葉など耳に入っていない。
 こんなことって!
 暴れる竹井を安佐は決して離さなかった。
「ちゃんと約束は守っていますよ」
 耳朶を甘噛みされぞくりと痺れが走るが、その耳に入った言葉に怒りの方が表にでる。
「何が守っただ、こんなことまでしていいって言った覚えはない!」
 まだ躰をまさぐる安佐の手の動きに必死で堪える。
 どうしてこいつはこんなに力が強いんだよ!
 情けない思いで一杯になりながら、それでも逃れようと身を捩り、手を突っ張る。
 使えない右手が不便この上ない。
「キスしたんですよ。あなたの躰に。それだけです」
「それだけってなあ!」
「あなたの躰にキスして、あなたのモノにもキスして……だってキスはいいって言いましたよね」
「うう……」
 そんな……キスってこんな所までするのか??
 冷静に考えれば変な論理ではあるのだが、パニックを起こしている今の竹井には冷静に判断できない。
 こんなこと……。
「や、だって……もう、やめ……ろって……」
 安佐の手が竹井の躰の上を動くたびに、思考が停止する。
「何もしていませんよ。抱き締めているだけですから」
 耳元で囁かれると高ぶっている躰がさらに体温を上げる。甘く切ない痺れに再び流されそうになっている躰に竹井の目尻から涙がこぼれ落ちた。
「たのむ……もう、止めて、くれ……」
 切なく訴える竹井に、安佐はうっすらと笑みを浮かべると、再度耳元で囁いた。
「じゃあ、もう怒りません?」
「……ああ」
 俯いて微かに頷く竹井の顎を指で上げると安佐はその口にそっと口付け、手を離した。
 だが、竹井はその瞬間漂ってきた嗅ぎ慣れた匂いに顔をしかめる。
「信じられない……何でそんなもの飲めるんだよ」
 再び捕まらないように素早くベッドの端へ移動しつつ安佐を睨む。
「だって、竹井さんのですよ。それに怒らないって言ったじゃないですか」
「そんなこと言ったって……」
 ううと唸りながら安佐を上目遣いに睨む。
 安佐が苦笑いをしながらそんな竹井を見つめていたが、ふっと何かに気が付いたように
「ああ、そうだ。竹井さんシャワー浴びられたら?汗かいたでしょ」
「……ああ」
 とにかく高ぶった躰を何とかしたかったから、安佐の意見に否応もなかった。
 さっさとベッドから降りて浴室に向かおうとして、がくりと崩れ落ちる。
「え?」
 足に力が入らなかった。
「大丈夫ですか?」
 慌てて安佐が抱き起こそうとするが、それを身を捩って遮る。
「大丈夫だから、さわんな!」
 赤くなって睨む竹井に迫力はない。
 安佐はくくと喉の奥で笑うと、竹井を抱き起こした。
「やだって」
 制止の言葉に耳を貸さない安佐に、脇の下から腕を回されて支えられ浴室へ向かう。
「もういいって」
 このまま中まで付き合わされそうで、慌てて安佐を追い出した。
 名残惜しげな視線を無視する。
 ばたんと閉められたドアにほっとした途端、躰から力が抜けずるずると床に崩れ落ちた。
「信じられない奴……」
 ぼそっと呟くとはあっと大きなため息をついた。
 こんなに簡単にイカされるとは夢にも思っていなかった。
 中空を見ていた視線を自分の躰に落として始めて自分の状態に気が付いた。
「げ」
 ズボンはずり落ちかけ、シャツは大きくはだけている。晒された肌のあちこちにあるほんのり赤い点は、さすがにキスマークだと気付く。
 かあっと熱くなった躰に竹井は顔をしかめて頭を抱えた。
 こんなことまでされたのに記憶がはっきりとしない。
「一体俺ってば……」
 翻弄され流されてしまった自分が情けない。
 強気になった安佐は本当に強引だと、改めて認識した。うっかりしているとどこまでも流されていきそうだった。
 これじゃあ、迂闊にキスもできない……。
 さすがに落ち着いてきた頭で考えれば、先ほどの安佐の言動はこじつけとしか言い様がないと思う。
 だが、また同じ行為を迫られてそれを拒絶できるかと言えば、その自信がない。
 不快感がないことだけははっきりと判っていた。
 それが悔しい。









『検収』6

 竹井は浴室から出るのを躊躇っていた。
 シャワーだけ浴び、備え付けの浴衣を着てから10分以上も立っていた。
 その間ずっと、ドアの取っ手に手をかけ、また外すという行為を何度も繰り返す。
 眉をひそめ自分の行為に舌打ちをしながらも、それでも竹井は安佐がいる所に行くのが躊躇われて仕方がなかった。
 はあああ。
 大きなため息に、竹井の口元にふっと苦笑が浮かんだ。 
 ここんとこため息ばかりついている。
 しかも、全てのもとをただせば安佐に辿り着く。
 安佐に同情されたから。
 安佐の仕事が面倒だから。
 安佐の装置の移管を遅れる原因を作ってしまったから。
 それに。
 安佐に告白されたから。
 安佐にキスされたから。
 そして……。
 どうしてこんなにも安佐に翻弄されるのだろう。
 ふと思いついた疑問。だが、その答えは判ってはいた。
 自分が拒めないのだ。
 安佐が好きだから。
 安佐に嫌われたくないから。
 有能な社員として自分とは違う道を進んで、離れていってしまう安佐をなんとしてでも繋ぎ止めたいという、独占欲から……。
 それなのに、素直に手を伸ばせないから。
 こつんとドアに額を当てる。
 はあああ。
 冷たい硬質の触感が気持ちいい。
 どうしよーかなあ。
 そのまんまの姿勢でぼおっとしていた。
 がちゃ
 いきなりドアが開いた。内開きのドアが竹井の額を押しのける。
「うわっと!」
 押されて崩れた体制をたたらを踏んで何とか堪える。
「えっ、大丈夫ですか!」
 開けた本人がびっくりして、そのまま何もできずに突っ立っていた。
「いきなり開けないでくれ」
 自分のしていた事が恥ずかしくて、低い声で言う。
「すみません。あんまり長いこと出てこられないんで……」
 申し訳なさそうな安佐の声に他意はなさそうだった。
 その姿を上目遣いに見、ふいと視線を逸らす。先ほどとは別の意味の恥ずかしさがこみ上げた。
 安佐を見た途端、自分の痴態を知られてしまった事への羞恥が改めて竹井を襲う。
「大丈夫ですか?」
 動こうとせず押し黙った竹井に、安佐が足を進めた。
「いや、大丈夫だから」
 心配げに差し出されたその手を除け、竹井は浴室から出る。
「俺、もう寝るから……疲れたから」
「ああ、判りました。窓際のベッドを使ってください。手前のはシーツ汚してしまったから」
 あ、ああ……そうか。
 納得しかけて頷いて……っていうことは?
「じゃあ、安佐君はどこで寝るつもりなんだ?」
 至極当然な疑問が沸き起こる。
「シーツ、なんとかずらして……まあ、寝る所は確保していますから、心配しないでくださいって」
 笑う安佐に竹井は不審そうに視線を送る。
「大丈夫ですって。それとも、竹井さんのベッドに一緒に寝かせて貰えるんですか?」
 軽い口調に思わず頷きそうになって、慌てて首を振った。
「何言ってるんだっ!」
 かっと熱くなったのは怒りのせいか羞恥のせいか……。
「冗談ですよ。明日は仕事ですものね」
 くくと喉の奥で笑う安佐に、竹井はむっときつい視線を送ると安佐を中に残したままバタンと音を立ててドアを閉めた。
 あいつは!
 ちょっと気を許すとすぐ調子に乗る!
 あいつの言うことなんか聞くもんか!
 からかわれたと判って怒りに覆われ、だが次の瞬間、竹井の機嫌は最下層まで落ち込んだ。
 どうして、あいつは……。
 急転した感情は躰をも蝕んだ。
 ぐったりとした疲れを感じ、指示されたベッドに転がった。
 シーツの冷たさに身震いし布団の中に潜り込むと窓際に向いて身を丸める。
 俺はからかわれる存在でしかないのだろうか。
 安佐が気軽に言っているのは判る。理性ではそれを理解しているのに、感情の方は安佐に翻弄される自分が情けなくて嫌だともがいている。
 一度落ち込んだ感情を宥めるのは大変だった。
 安佐とは年は1歳しか違わなかったが、社会人としては三年の違いがある。
 安佐が入ってきたとき、初めて先輩の気分を味わった。
 三年間、ずっと竹井が一番の下っ端だったのだ。
 だから安佐が入ってきた時、マジで嬉しかった。
 人に教える楽しさと難しさを初めて体験した。
 会社にある装置や機械の構造、メンテナンスシステム、設計の方法など、安佐はあっという間に身につけた。それは竹井が驚くほどで……その時は軽い嫉妬すら覚えた。
 だが、同時に安佐の弱点も目の当たりにして、それが竹井の得意分野であることに内心ほくそ笑んだものだった。
 子供じみているとは思った。
 だけど、初めての後輩に追い抜かれたくはなかったのだ。
 なのに。
 今その安佐に、いいように翻弄されている。
 確かに嫌悪感はない。
 安佐のことは好きだ。
 だが、それとこれとは別問題だった。
 ぎりりと下唇に歯がくい込む。
 安佐が好きだからこそ……。
 だからこそ、安佐より強い立場にいたい……。
 それは譲れるモノではなかった。
 だが、結局は安佐のいいようにされていると感じてしまう。
 俺って、やっぱりそういう弱い人間なんだろうか……。
 ふうと息を吐いた。
 暖まった躰が眠気を呼び起こす。一度それに気付いてしまうと、その眠気が急速に加速してきた。
 落ち込んでいるとはいえ、慣れない出張と初めての行為、そしてやっとやってきたアルコールの影響もあって、竹井の意識は眠りの中に沈みかけていた。
 その耳にドアが開く音が聞こえた。
 微かに覚醒した竹井はごろりと身を転がす。うっすらと目を開いたその先に浴衣姿の安佐がいた。
 ああ、出たんだ……。
 夢現の竹井は、ベッドへと向かう安佐をその視線で追いかける。
 もっとも近い場所まで来たとき、一瞬僅かな緊張が沸き起こる。だが強烈な眠気が竹井の意識をゆったりと霧散させた。
 だから気がつかない。
 ベッドに入ろうとした安佐がその動きを止め、じっと竹井の寝顔を窺っていた事を。
 愛おしそうに見つめていたその表情に、切なさが入り交じったやや苦悶の色が浮かび、そして諦めたかのように苦笑して……。
 そして安佐は竹井に背を向けるようにベッドへと入った。


 微かな音に竹井の意識はいきなり覚醒した。
 まだどこか虚ろな視線を彷徨わせ、ふっと枕元に手を伸ばす。
 会社行かないと……。ある筈の時計を求めて手が動く、と。
「あ」
 出張中なのを思い出す。
 ついでに昨夜の行為と安佐と同じ部屋なのを思い出した。
 慌てて視線を巡らすと安佐はまだ隣のベッドの中にいた。
 何となくほっとしてベッドサイドにある時計を見る。
「げっ!」
 思わず叫んだ。
 その声に安佐がびくりと躰を震わした。
「うーん」
 眠そうに唸り、身を捩って竹井の方を向く。
「おはようございます」
 数度目をしばたたかせる。
「おはよー」
 思わず返し、竹井ははっと我に返った。
「おい、もう9時だぞ!」
 その言葉に安佐は虚ろな視線を竹井に向け、一瞬後、跳ね起きた。
「しまった、目覚ましセット忘れてた!」
 安佐が慌ててベッドから下り、クローゼットから二人分の服を取り出した。
「今日10時の約束でしたよね」
「ああ」
 もたもたしていると朝飯の時間が無くなる。
 二日連続で寝過ごした竹井にしてみれば、こんな情けないことはない。それでも昨日よりは、少しはマシだなと働かない頭で考える。
「すみません。俺うっかりしていて」
 あたふたと安佐が服を着、竹井の準備を手伝う。
「いや、お互い様だろ」
 竹井も目覚ましのセットを完全に忘れていたのだ。いつもなら携帯の目覚まし機能を使う筈……。
 ふと、竹井を覚醒させた音の正体に思い当たった。
「安佐君、携帯に何か入っていないか?」
 自分の携帯には着信が入っていないのを確認しながら問う。
「え……あ、入ってます。……会社から……」
 安佐はそう言って口元をひきつらせて竹井を見た。それに竹井は苦笑して返す。
「電話してみろよ」
 その言葉に安佐は携帯を操作した。
 数度の呼び出しで出た相手は香登で、しかも電話をしてきた当の本人だったらしい。
 ひとしきり電話に出れなかった事への言い訳をしていた安佐がふっと表情を和らげた。
 うれしそうに電話を切ると、竹井を見る。
「昨日の担当者から電話があって、装置ちゃんと動いているそうですよ」
「ああ、そうなんだ。じゃあ、今日無事検収終わるな」
「はい」
 よかった。
 実際に動いているのをその目で見るまでは安心できないが、それでも一仕事終わったような気がする。
「ね、竹井さん、今日飛行機で帰ります?」
「は?」
「そしたら、会社へ寄るの楽でしょ。それに病院も会社に行く前に寄ったらいいし」
 言われて、確かにそうだなと考える。
 新幹線だと駅からさらに在来線に乗り換えて……結構手間取る。
 それよりか空港経由の方が会社に近いのだ。
 今日の仕事が昼までに終わると踏んだ安佐の意見だった。
「そうだな」
 どうせ、会社に帰らなければならないのならその方がいいだろう。
 竹井は頷き、部屋を出る支度を再開した。
 安佐がやると言い張るひげ剃りは強引に断り、ネクタイだけしてもらった。
 3度目になるその手際は、もともと器用な安佐の手だと自分でするより早い。
 安佐は最後にくいっとネクタイごと竹井を引き寄せるとその唇に触れるだけのキスを落とした。
「いい加減にしろ」
 それだけなのに耳まで赤くなり狼狽える竹井に、安佐は笑いかける。
「キスしただけだすけど」
「これから仕事なんだ!」
 それは安佐に、というより、流されるかけている自分に檄を入れるための言葉。
 息を吐き、心の中に漂っていた甘い雰囲気を追い出す。
「行くぞ」
 仕事の時間だ。


 装置の検収は無事終わった。
 昨日の問題点は、無事改修されていた。チェックも滞りなく終了し、互いが穏やかな雰囲気で打ち合わせを行う。
 別れ際に菓子折らしい手土産を渡され、その工場を後にした。
 最寄り駅から東京に向かい羽田空港から飛行機で帰ることは、あらかじめ報告して了承して貰った。費用はかかるが、時間は短縮できる。
 東京方面の出張の際のみ許される飛行機利用だった。
 だから3時頃には工場へ帰ることができた。
 ついでに空いている時間だからと病院によって消毒をし、包帯を換えて貰う。さらにすっきりとなった右手を安佐はにこにこと眺めていた。
 安佐はよくこの手を見つめている。
 何で?と聞くといつも適当なことで誤魔化される。
 ただ判るのは、右腕がスムーズに動けるようになるほど安佐の顔の綻び方が大きくなる。
 どうも治っていくのが楽しいらしい。
 竹井も早くこのうっとおしい包帯が取れればと思う。
 そうすれば、やたら安佐にちょっかいされるのも少なくなるのに。
 会社に到着しロッカーで着替えた。
 固いスーツから着慣れた作業着に着替えるとほっとする。いつもの雰囲気の作業場、社員達。それだけのことで、心が和やかになる。
 だが、生産技術の事務所に向かう途中、竹井は香登を見つけた。
 途端、昨日の電話の事を思い出した。
 一体何を企んでいるのか?
 どこまで何を知っているのか?
 聞きたいことは幾らでもあった。
 しかし、香登は開発部の人と話し込んでいて、こちらに気付かない。
 真面目な話かな?
 竹井が声をかけるのを躊躇っていると、安佐の方が何も気にせずに話しかける。
「香登さん、今帰りました」
 その声に安佐が会話を止め、二人の方を振り向いた。
「ああ、ごくろうさん。もう少ししたら事務所に戻るから、結果を報告してくれ」
「はい、判りました」
 香登がちらりと竹井に視線を送る。
 竹井は黙ったまま、僅かに頭を下げると安佐について事務所へ向かった。
「さっき話していた人って開発部の人ですよね。こっちに移管する製品でもあるんですかね」
 安佐の言葉に竹井はふと先ほどの相手の顔を思い出した。
「そうかも知れないな」
 彼の所属するチームの製品の開発が終了すると、それは生産技術部の香登が率いるチームへと引き継がれる。
「今ある製品群を製造へとさっさと引き渡さないと、次の仕事が来ると首が回らなくなりそうだな」
 だが、前の移管の遅れを引き起こしたのは自分である事を改めて思い出してしまう。
「早く手が治ればいいのに」
 右手を見て呟く。この手では作業効率が悪いことこのうえない。
「手伝いますって。それに、後一週間もすれば抜糸でしょう」
「ああ」
 後一週間。そうすれば、仕事が出来る。
 確かに安佐の考え方ができれば、ずっと楽だろうな。
 香登に言われた事を思い出す。
 俺は考え過ぎなのかも知れない。
「竹井さん」
 事務所に入る少し手前の通路で、それまで黙っていた安佐がいきなり話しかけてきた。
「何?」
 口元を引き締めている安佐は、真剣な眼差しで竹井を見つめていた。
「今日、俺ん家来ませんか?出張も無事終わったし、飲みたいなって思って……つき合って貰えません?」
「嫌だ」
 間髪入れずに答える。「何されるか判らないからな」
「飲むだけって」
「んな筈ないだろ」
 むっとして言い放つと、安佐が苦笑した。
 安佐流の考え方云々は撤回!
 もう少し考えて発言しろ! 
 だが、そんな竹井の耳元に、安佐は顔を近づけ囁いた。
「昨日、怒らないって約束したでしょ」
 耳元で囁かれたその言葉に昨夜の出来事を思い出して、甘い刺激が全身に走った。それに耐えるように眉間にしわを寄せ、目を細める。
「あれは……昨日だけだ……」
 唇を噛み、視線を逸らす。
「駄目、ですか?」
 縋るような安佐に竹井は思わず首を振りそうになるのを堪えた。
「ああ」
 そして、安佐を振り切るように事務所へと入っていった。
『A CROSS SECTION』

??断面図。
  部品をどのように組み立てるか、複雑な形状の部品などに用意する図面。
  これがないと『部品』が組み立てられないことも……



 部屋に入った途端に竹井は杉山に捕まった。
 ぐいっと腕を引っ張られ、奥の杉山の席に連れて行かれる。
「何ですか?」
 その掴まれた腕の痛さに、竹井は顔をしかめる。
 だが、杉山ははあっと大きく息を吐いてから竹井の顔を見つめた。
「で、安佐君とはどういう風になった?仲直りできたのか?いくとこまでいったのか?」
 いくとこまでいく?
 その意味が分からなくてきょとんとしていた竹井は、しばらく考え……判ってしまう。
「す、杉山さんっ!」
 顔が火を吹いたかと思えるほど、熱くなった。
 赤くなって狼狽える竹井に、杉山は意味ありげに頷いた。
「うーん、奥手なお前がこの意味に気付くとは、それなりの進展があったということか」
「進展って……いや奥手って何ですか!!そんなの誰だって判るでしょうが!」
 掴まれたまま狼狽えまくっている竹井に、杉山はにやっと嗤い返す。
「この前、安佐君が竹井君を見て真っ赤になって部屋を出ていったときに、腹具合が悪くなったのかって言ってたような奴は、奥手と言われても仕方がないだろう」
「あ……」
 思い出した。
 そうか、あれはそういう意味だったのか……。というかなんで、そのことを杉山さんが知っているのか?
 思わず口ごもる竹井に、杉山は一人ほくそ笑む。
「ま、安佐君もがんばったんだろうな。ここまで竹井君を成長させたってことは」
「な、何を言っているんですか?安佐君は関係ないです。何にもありませんでしたって」
「嘘つけ。今朝寝坊したんだろ、二人揃って……。昨日がんばりすぎたってこと、はぐっ」
「やめてくださいって!!」
 竹井の両手が杉山の両頬を掴んで横に引っ張っていた。
「それ以上言ったら……」
 竹井の目が座っていた。
「た、竹井さんっ!何やっているんですかっ!」
 安佐が入ってこなかったら、竹井は杉山の頬を引っ張り続けただろう。
 はっと我に返った竹井が杉山の頬から手を離す。
「ってえ……」
 両手で頬をなでながら、幾分涙目の杉山が竹井を睨む。
「こんなんのガキの時以来だな」
「すみません。つい……」
 ……何をやっているんだ。かっとなって、つい手が出てしまった。しかもよりによって、子供の頃から親に怒られた時にやられていた技を使ってしまった……。
「うう、ほんま竹井君って怒らすと怖いよなあ。何やるか判らないことがある……」
「すみませーん」
 情けなくなって竹井は俯いてしまった。
 本当に、何やってるんだろ、俺って……。
「安佐君、お前さあ、こんな訳判らない所がある奴のどこがいー訳?確かに竹井君は、普段は真面目でさあ、まめだし、熱心だし……だけど、結構感情的だろ。すぐ怒るし……すぐ落ち込むし……」
 その言葉が、竹井の胸にずきりと刺さる。
 相変わらず口が悪い……。
 そりゃ、これが杉山さんなんだけど……。
 それに言っていることはその通りだとは思っている。
と、安佐がずいっと竹井の前に出てきた。
「竹井さんは優しいです。いつだって一生懸命だし」
 安佐の口調が怒っているようで、竹井はふと安佐の背中を見つめた。
「惚れてしまえば、あばたもえくぼっていうけど……安佐君に竹井君が扱いきれるかな?」
「扱いきれます!杉山さんに心配されるようなことはありません!」
 って、おい!
 俺は機械か何かか?
 何が扱えるだ。
 むっとして自然に視線がきつくなる。それに杉山が気がついた。
「ほら、また怒っているぞ。今度のはそっちだからな。俺は知らないぞ」
「え」
 言われて安佐が慌てて竹井を振り向く。
「すみません、その、俺、何か失礼なこと……」
 言ったんだよ、気付いていないのか。
「まあ、前よりはましか」
 杉山がぼそっと呟くのを竹井は聞きとがめて、視線を向けた。
「どういうことです」
「少なくとも、少しは歩み寄りがあったってこと。まあ、どこまでいったかは知らないが、そこそこの進展はあったんだろ」
「どうして……そういう考えになってしまうんです……」
 どうして、そんなに俺と安佐をひっつけたがるんだ?
 俺は男で、安佐も男で……普通そんなの考えないだろう。
 だからこそ、竹井も自分の気持ちに気づけなかったのだから。
「俺、そういうのって敏感なの。ああ、香登さんもね。あの人の場合、それでリーダーになったようなもんだからね。世渡り上手って言うか……。まあ、それに安佐君は露骨だったもんなあ……竹井君に嫌われたかも知れないって心底落ち込むし、笑ってくれたってもうそれだけで上機嫌だし、はたから見てても、竹井君に惚れているってのがありありと判るくらいだから……まあ、本人は気付かれていないつもりみたいだが……岡くんだって、土山さんだって気付いているよ」
 ふと安佐を見ると、真っ赤になって俯いている。
 ばかたれ……自業自得だ。
「でも、そういうのって普通変でしょう。何で後押しするようなことするんです」
「そうだな。最初はどうしようかと思った。単純に慕っているだけなら問題はないかなって思ったんだけど、どうもそういうのとはちょっと違うような気がしたっていうか、もう安佐君見てたらはっきりと好きだって言う想いが強かったし……ほんと、諦めさせようと思ったこともある」
 杉山が当時の事を思い出して苦笑する。
「でもそんなんで簡単に諦めきれない想いってあるよな。男と男なんて関係ない。好きになった相手が男だったというだけじゃないかって……相談した友人に言われて、さ。それで、ああ、そんなもんかって思えて。じゃあ、くっつけちゃえって」
 く、くっつけちゃえって……。
 そんな簡単に……納得してしまうものなのか?
「その、杉山さんの友達って、理解あるひとなんですね」
「ん、まあな。ああいう女にもてるような奴がそう言うんだから、そうなんだろうなって納得してしまった」
 誰だろう?
 ふとそんな疑問が沸いたが、それどころではない。
「だから、俺達をひっつけて、どうしようっていうんですか」
「だからさ、いいコンビだろ。機械・設計が得意な安佐君と、図面・書類・安全が得意な竹井君なら、仲良くやっていければ仕事の効率あがるじゃない」
「はあ……」
 それは確かにそうかも知れない。
 竹井と安佐の得意分野は見事なまでにずれていて、お互いの足りないところを補うように仕事すれば、きっといい成果を生みだす事ができるだろう。だが……。
「だからさ、俺と香登さんでねちょっとした賭だったんだ。鈍い竹井君をなんとかしろって安佐君をたきつけたしね。こういうタイプは多少強引に進めないと落ちないぞって」
「強引……」
 それであれか。
 あれは安佐が自分で決めた事じゃないのか?
 香登達にたきつかれて、それで実行に移したのか?
 じゃあ、もしそれがなかったら、安佐はどうしていた?
 急速に心の奥が冷めてくる。
「杉山さん!」
 安佐の悲痛な叫びが耳から耳へと通り過ぎる。
 仕組まれていたのか、何もかも。
 俺が安佐にキスされて、あんなことまでされたのも……全部、この二人が企んでいたんだ。
 そうじゃないかって気はしていた。
 何かを企んでいる気配はしたのだから。
 だが、どうせならずっと黙っていてくれれば良かったじゃないか。
 聞きたくない。
 何もかも聞きたくない。
 俺がどんな思いだったと思う?
 竹井は、安佐と杉山をきつく睨むと、ふいっと踵を返した。
 自席に戻る。
 さすがに杉山も言い過ぎたことに気がついた。
 安佐が、ぎりりと唇を噛み締める。
 竹井は、椅子に座ると、溜まっていた書類を片付け始めた。
 その目はそれしか見ていない。
 竹井の背は、完全に周りを拒絶していた。



 香登が戻ってきたのは、それから10分ほどたった頃だった。
 入ってきた途端にその場の冷たい雰囲気にぴくりと立ち止まる。それほど事務所の雰囲気は凍り付いていた。
「どうした」
 小声で渋い顔をしている杉山に話しかける。
 杉山は顎で竹井の方をしゃくる。
「怒らしちまって……ちょっとばらしちゃって」
 小さな声で申し訳なさそうにいうその内容に、香登はさすがに目を見開いた。
「それは、まずいだろ。何やっているんだ……どうするんだよ」
 香登も途方に暮れた。
「安佐君じゃ駄目か?」
「駄目みたいです。っていうか、安佐君もばらしたことに怒ってて」
「そりゃま、そうだろうな」
 ほおっと大きなため息をつく。
「ところで、例の件は?」
 杉山が思いだしたように言う。
「ああ、その件で打ち合わせしようと思って帰ってきたんだが……でも、まあ、しないわけにはいかないし」
「では、今やりますか?」
「遅らせても事態は好転しないだろ。それとも3ヶ月また待つのか?」
 嫌みがたっぷりとブレンドされた言葉に杉山は苦笑するしかなかった。
「納期1ヶ月、これは変わらない。奥君達を呼んでくれ」
「……わかりました、会議室とりますか?それともここで」
「いい、ここでやろう」
 竹井は香登の声にふと顔を上げた。
 真剣な顔つきで杉山と会話している。
 話の内容から察するに会議が始まるのだ。
「安佐君、竹井君も、後の二人が来たら、ちょっと打ち合わせをするから。開発から移管が入る。しかも短納期……1ヶ月だ」
 その言葉に、竹井と安佐が言葉を失った。
 1ヶ月、それは、開発から移管を受けた品物を1ヶ月で製造へ移す、その期間。
 これは、この生産技術内でなんら検討もする暇もない、強行移管を表す。必要な書類を揃え、とりあえず製造へ移せ。
 そう言っているのだ。
 だが、クレームを出すわけには行かないので一通りの量産試作はしなければならない。また、そういう場合、同時進行で試作品扱いとは言え客先出荷もあるのだ。その手配……。
「マジですか?」
 安佐の口から思わず漏れた言葉に竹井も視線で賛同する。
 それは、香登のもっとも嫌う移管であった。
「仕方ない。客あっての商売だろ」
 ため息と共に漏れた言葉に、誰も何も言えない。
「製造とも話がついている」
「岡君、土山さん共にすぐに来られるそうです」
「ああ、そう。ちょうどいい」

 二人が帰ってくるとすぐに香登の机の周辺に椅子を持ち寄って会議が始まった。
 と言ってもすでに決定された事を伝えるための物だ。
 ただ。
「主担当者は竹井君、装置関連のサポートは安佐君、その他のメンバーは試作時の全面サポート。スケジュールは開発が立案、人員補助は製造から。月曜9時より第一次移管会議だ」
 その言葉に、竹井の顔がひきつった。
 俺が……主担当?
 よりによって、こんな緊急移管が?
「竹井君、今回の移管は手順書なんかの書類面の作成がメインになる。装置や工具自体は現存の物が使えるからな。だから、君が主担当で進めてくれ」
 すでに決定された事柄に反論する余地はない。
「はい」
 ただ、そういうしかなかった。
 はっきり言ってやりたくなかった。
 この手の移管はいろんな所との事前交渉が成功の是非を握っている。
 移管において、ネゴ(事前交渉)が最も重要なファクターになる。
 書類の整備や装置の設定などは二の次だ。
 俗に「ネゴを取る」と言われていた。
 それができるかできないかは主担当者の能力による。
 そして、竹井はこれが一番苦手だった。
 ただ、今回はある程度のネゴが済んでいるという感じはした。それでも、移管にとっての重要なファクターであるのに間違いないネゴ。
「結構な短納期だったんで、こっちもいろいろと条件を付けさせて貰った。竹井君が担当になることも言っている。竹井君が動きやすいようにはなっている筈だ」
「はい」
 言葉少ない竹井だったが、香登は気にせずに次々と連絡事項を伝えていく。
「とりあえず、来週からどんどんそちらに時間をとられることになるから、今できることは早急に片付けてくれ。特に安佐君は、残っている装置移管は杉山君に任せて、とりあえず躰を空けなさい。判ったね」
「はい、判りました」
 無表情の安佐も、固い表情の杉山もその言葉にどれだけ緊急度が高いかに気づいてしまう。
「じゃあ、解散。1ヶ月間、がんばろ」
 1ヶ月で済めばいいけど。
 ふと脳裏に浮かんだ縁起でもない言葉を追い払う。
 やらなければならないのだから。

「竹井君」
 席に戻ってすぐに香登が呼ばれる。顔を上げると香登が手招きしていた。
「はい」
 立ち上がり、香登の机の傍らに行く。
 香登が小声で聞いてきた。
「嫌か?」
「え?」
「嫌そうな顔をしている」
「そんなことは……」
「嫌なんだろ」
 きっぱりと言われ、口ごもる。
「竹井君は他人を巻き込んでやる仕事苦手だからな」
 図星だった。
 人と打ち合わせをするのが苦手だから、人とペースをあわせるのも苦手だから……実は、移管会議はもっとも苦手とするところだった。
「だけど、いつかはやらなきゃいけないのは判っているだろう。それができて始めて生産技術なのだから」
「……」
 そう、判ってはいた。
 今までぬるま湯に浸っていたと言うことも。
 5年間、香登と杉山の庇護下にいたせいで直接担当になることはなかったのだ。その事務能力故にいつも二人のどちらかのサポートに入っていたから。
「それと……」
 ふと香登は事務所内を窺い、そして再度竹井を見上げる。
「安佐君の件、お節介かとは思ったんだけど……いい加減きりを付けて貰わないと困るから、強硬手段に出させて貰った。安佐君のせいではないからね」
「それは……」
「電話で威勢のいい啖呵を切ってくれたから、安佐君が何かしたんだろうとは思ったけどね」
 くすりと笑う。
 それを聞いて竹井は頬が火照るのを止められなかった。
 言われて始めて自分からばらしていたのだと気づく。
「安佐君とは、その……」
 言って良いモノか……口ごもる。
「5年間ずっと竹井君と共に仕事をしてきた。竹井君の性格はよく知っているから……だから、竹井君が安佐君を嫌っていないのは知っているし、それ以上の感情を抱いているのも知っていた。竹井君は自覚していなかったみたいだか、もうずっと安佐君のことをいつだって目で追っているんだ」
 にっこりと口元は笑っているが、その目は真剣だった。
「もうね、きりをつけないと……二人とも苦しそうだよ。結局、男と男ってのがネックなんだろ。まあ、俺はそういうの理解できないところもあるけど、知り合いにいない訳でないし……たきつけてよいものか悩んだりもしたけど……このままではいけないってのは判るからね。ただ、当事者の問題だから杉山君にはお手柔らかにとは言っておいたんだが、やりすぎたかな」
 うまくいかなかったわけではない。
 それどころか、竹井は自分の気持ちを確認できた。
 告白もしてしまった。
 ただ、安佐の強引な行動が杉山のせいだと知ったとき、そんな安佐に対しての憤りが押さえられなかった。
 人に言われないと、俺にせまれないのか?
 お前の俺への想いはその程度なのか?
 黙ってしまっている竹井に香登は苦笑いを浮かべた。
「もう一度、安佐君をたきつけてみようか?」
「いえ!」
 思わず否定する。
 それは嫌だ、と心底竹井は思った。
 それがきっかけで安佐にせまられるのは嫌だと思った。
 自分の気持ちを考える。
 俺は何がしたいんだろう。
「どうする?安佐君とはこのままでいるのか?」
 香登は知らない。
 すでに竹井が告白していることは。
 ただ、受け入れきれないだけだ。
 ただ、安佐の言い様にされるのが癪に障る。
 ああ、そうか……。 
 まずは、そこから……そうすれば、いつかは全てを受け入れることができるかも知れない……。
「大丈夫です。何とかしますから」
 それだけ言う。
 だが、それで香登には伝わるだろう。
「そうか……移管、がんばってくれな」
 竹井を見る香登の目は、上司としてのそれに変化していた。
『A CROSS SECTION』2
 
「安佐君、打ち合わせをしよう。場所は……C棟屋上」
 PHSに出た安佐に、竹井はそれだけ言うとPHSを切った。
 それだけで、どんな内容の打ち合わせかは安佐にでも検討はつくだろう。
 屋上は、陽があたっていればそこそこに暖かい。だが時折吹く風は鋭い冷たさを持っていた。自然に風が避けられる装置の影に身を寄せる。
 ボイラーや各種大型排気装置類が乱立している屋上は、滅多なことでは人は来ない。装置の影から、周りを眺めるとすでに茶色がかった色が増えてはいるが、それでも紅葉している山々が映えて綺麗だった。
 それをぼーと眺めていると、金属質の音が聞こえた。
 屋上と室内を隔てるドアが開いて、閉じた音。
 ふっとそちらを見ると、安佐がきょろきょろと辺りを見回していた。
 階段を駆け上がってきたのか、肩で息をしている。
「安佐君」
 竹井が呼びかけると、それに気づいた安佐が、床を走っているパイプ類を乗り越えて最短距離をやって来た。
「竹井さん……」
 さっきまで竹井がひどく怒っていることを知っている安佐の表情は固い。
「聞きたいことがある」
 竹井の言葉に、安佐はぴくりと躰を震わせた。
 顔をしかめて竹井の様子を窺う安佐は、なんだか情けない。
 竹井はくっと喉で笑うと、安佐を見上げた。
 背の高い安佐。至近距離だといつもこうやって見上げることになる。それはまるで、自分の方が見下されているようで……それが嫌だと感じたのはいつからだったろう。
「杉山さんが言っていたことは事実なのか?」
「それは……」
「杉山さんに言われたら、俺にせまったのか?もし、杉山さんが何も言わなかったら、この出張で安佐君は俺に何もしなかったのか?」
 まっすぐに見つめる安佐の瞳は、竹井を見ていない。
 僅かに染まった頬が安佐の心の動揺を表しているようだった。
 安佐は何も言わない……いや、何度か口を開きかけ、そして閉じる。
 言う決心が付かないようだった。
 それを見て取り、竹井の方が口を開く
「俺は安佐君のこと好きだ。たぶんもうずっと前から好きになっていたんだと思う。だけどな、俺はお前と対等でいたいんだ。お前とだけは……」
 自分でも驚くほど淡々とその台詞が出た。
「お前に組み伏せられるのは、嫌だ。俺の意志を無視して、突き進まれるのも嫌だ。それに他人に言われたから行動したという程度にしか俺との事を思っていないのも嫌だ」
「違いますっ!」
 安佐が叫んだ。
「確かに杉山さんには言われました。言われたから、それに煽られて更衣室でキスしてしまったけど……ホテルでのことは、そんなこと頭にありませんでした。竹井さんを手に入れたくて、嫌われたくないと思ったのに……キスまでって思ったけど、自分でも止められなかった。手に入れたくて、自分のものにしたくて……それ位、竹井さんの事が俺は好きで……もうどうしようもないんです。だけど……竹井さんの意志、無視しちゃったのはほんとですよね……本当にすみませんでした」
 必死の形相の安佐が本心で言っている。
 そんなことは竹井には判っていた。
 安佐は、ずっと本心だった。
 ただ、自分の方が子供じみたプライドに縛られて……どうしようもなかったのだ。安佐の思い通りになるような経緯は嫌だった。
 なら、どうする?
 竹井は安佐の作業服の胸元に手をかけるとぐいと引っ張った。
 突然のことに引っ張られたまま躰をかがめた安佐の唇に自分の物を押し付ける。
 驚いて目を見開き、躰を起こそうとする安佐の首に腕を回し、離れられないようにした。
 ただ、したい、と思った。
 されるのではなく、したいと思った。
 自分に正直でいようと思ったら、実行に移していた。
 俺ってたいがい……天の邪鬼な性格……。
 一瞬、そんな思いが沸き起こる。だが、それも、驚きの波が去った安佐が、竹井の躰に手を回した事によって立ち消えた。
 そっと目を閉じると、唇に触れる感覚だけが研ぎ澄まされる。
 積極的になった安佐の唇が竹井の感覚を煽る。
 きっかけが安佐の方だったということが嫌だったのだ。
 何だって安佐よりは上の立場にいたかったから……だから、改めて告白した。
 改めて告白させた。
 俺が安佐のもの、じゃなくて、安佐が俺のもの、でいたい。
 意識上でだけでも……そう思いたいから……。
 安佐の舌が竹井の唇を割ってくる。
 それだけで沸き起こるぞくぞくとした感覚に心臓が高鳴る。
 早くなった血流が余計に全身を熱くし、感覚を鋭敏にした。
 安佐の手が触れている部分から、じんわりとした刺激が竹井の躰に入ってくる。
 堪えられない!
 そう思った途端、目の前が弾けた。
 ぐっと腕に力が入る。
 それがさらに安佐との接触を深くした。
 咥内奥深くに入った舌が竹井の舌と絡まり、吸い付かれる。その刺激が心地よい。
 熱のこもった躰が浮遊感を持つ。
「ん……」
 安佐君……俺は、もう、お前から離れたくない……。
 だけど、その言葉は絶対に言わない。
 吸い付かれていた唇を無理に離し、竹井は安佐を見上げた。
「安佐君は俺のこと、好きなんだろう?だったら、これからずっと俺の事をサポートしてくれるか?」
 もうずっと心の中にあった想い。
 離れたくなくて、離したくなくて……仕事が認められて次々と仕事をこなす安佐を、もうあんな気持ちで見たくない。仕事のできる安佐に嫉妬して落ち込んでしまう、自分の訳の分からない感情に振り回されたくない。
「竹井さん……誓います。ずっとあなたをサポートしていきます。たとえ、どんな事になろうとも」
 掠れた安佐の声が耳に入るか入らないか……竹井の目尻から涙が流れ落ちた。
 背に回された手が、安佐の背中をぎゅっと掴む。
 そんな竹井を安佐が強く抱き締めた。
「いつだって、必ず……」
 
 寒さが身に染みるようになって……どちらからともなく、手を解く。
 涙に潤んだ竹井の目尻に安佐は軽くキスを落とした。
「仕事、戻りましょうか……」
 言葉とは裏腹に、名残惜しげな安佐の態度に竹井は苦笑した。
 離れたぬくもりが恋しいと冷たい風に晒された躰が身震いする。
「今日家に来てくれませんか?」
 屋内に入るドアを開けながら思い出したかのように尋ねてくる安佐に、竹井はくすりと笑う。
「無理だって」
 くすくす笑う竹井の真意に気づかない安佐はがっくりと肩を落とす。
 だから、ばらしてあげよう。
「だって、香登さんが言っていたじゃないか。今している仕事はできるだけ早めにしておくようにって。つまり、安佐君も俺も、今日さっさと帰ってゆっくり飲んでいる暇なんてないんだよ。もしかすると明日くらい出勤して前倒ししとかないとやばいかも知れない」
「あ、そうか」
「それに安佐君は、俺が怪我したあの装置の移管が終わっていないだろう。それをなんとかしないと、杉山さんにして貰うにしてもきちんと処理をしないと、渡せないだろう?」
 それを聞いた安佐がむううと唸っている。
 一ヶ月間修羅場かもしれない。
 分かり切ってはいたが、その前の段階からこの調子なのだ。
「だって俺のサポートやってくれるんだろ。だったら、できるだけ開けておいてくれないとこっちが困るからね」
「判ってます。しようがないなあ……とにかく、早く移管してしまいましょうね」
 妙に張り切りだした安佐には悪いが、竹井はほっとしていた。
 この手は当分使えそうかなあ……
 と。


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「竹井君」
 階段から作業場内に入った途端、通路から声をかけられた。
 そちらに視線を向けると、開発部のリーダーがこちらを手招きしていた。
 慌ててそちらに向かう。その後ろに安佐も付いてきた。
「はい?」
「今度移管する製品、竹井君が担当するんだよね。よろしく頼むよ」
「あ、はい、そうです。こちらこそよろしくお願いします。篠山さん」
 開発部工業材料第1チームリーダー篠山は、その整った顔立ちを僅かに崩し、竹井達に笑いかける。
 開発部の第3リーダー達はおしなべて、若い。香登は生産技術のリーダーとしては若い方だったが、篠山は香登よりまだ若い。27歳というリーダーもいる。篠山は杉山と同期の筈だった。
「お客さんからの要望でね、緊急になってしまったけど橋本がある程度のデータ集めしてくれているはずだから、何とかなると思う」
「そうですね」
「ああ、それと、竹井君怪我はもういいのか?」
「あ、はい。後一週間もすれば抜糸ですから……もう痛みもないし」
「そっかー、じゃあ、竹井君お得意の手順書は期待できるな。良かった……それがあるから、竹井君に担当になって貰いたかったんだ」
「はあ」
「それじゃ、また月曜にね」
 戻っていく篠山を見ながら、ふと杉山の言葉を思い出した。
 女にもてる友人……って、篠山さんのことだろうか。
「竹井さん、あの人って結構いい加減な性格って聞いたことあるんですけど、本当ですか?」
「え?ああ、そうかな。でもまじめにやる気になったら、結構凄いって言う噂もあるし……まあ、彼の部下の橋本さんはほんとにまじめで信用できる人だから、その人と仕事できれば楽かも知れないな」
「そうですか」
 心配そうな安佐の背中を竹井は軽く叩いた。
「さ、仕事、仕事」
 それでも月曜日からは修羅場になるだろう。
 安佐には申し訳ないけど、しばらくは二人で逢う暇なんて無いかもしれないな。
 それが寂しくもあり、しかしほっとしている竹井だった。


【了】