【連絡してよ】

【連絡してよ】


 避けられてるんだろーか。
 篠山義隆はパソコンに向かいながら考え込んでいた。
 会社の事務所で考える内容ではない、とは思っているのだが、ついつい手が止まってしまう。パーテーションに区切られた机だから、後ろから近づかれない限り何をしているかは分からない。
 別にそれに安心している訳ではないのだが、最近こうやって考え込む事が多くなった。

 データファイルを立ち上げて、さも仕事で考え事しているようにはポーズを作る、が。
 やっぱり考えているのは、恵のことだった。
 気になっていた出入りの営業マン 滝本恵に思いを伝え、トラブルはあったけれども、その思いを受け入れてもらえたのが1ヶ月前。
 ただ、その時のトラブルのせいで、最後までいかせて貰えなかったけど……。
でも、それからプライベートだけでも3回は会った。
義隆の会社が見積もり依頼を出している評価機の件が片づいたら、という約束をしているため、いってもキスどまりだったけれども、恵に逢うのは楽しかった。
会社に営業に来たときは毎回会っている。いつもいつも元気な笑顔は見ていて気持ちいい。その笑顔を思い出すと、義隆の顔が崩れる。
やっぱ、プライベートでもっと会いたいよなあ……。
 会社で会うと余計逢いたくなって電話する。
 それがここのところ留守電か出てもつれない返事しか聞かせて貰えなかった。
 今週末逃したら、こっちも来月来訪予定のアメリカ側親会社の取締役の準備に忙しくなる。
だから、昨日どうしても会いたいと電話をしたが、忙しいと断られ、最後には喧嘩のように言い合いになってしまった。その後、電話がかかってこないし、こちらからも何となく電話しそびれてしまった。
来週には英語版資料づくりに説明サンプルの作成etcと時間が予想以上取られるだろうに……そうしたら、休日もつぶれるかも知れないのに……。
 電話先で理由を聞いても、何となく誤魔化されたような気がする。
 それに電話するのはいつも義隆の方で、恵は滅多に電話してこない。携帯が会社支給のものだから、という理由で、しょうがないなと思いつつ、それでもやっぱり不満だった
 始まりが始まりだっただけにやっぱり嫌われているのではないだろうか?
 俺を好きだと言ってくれたのは、気の迷いで、今後悔しているんではないだろうか?
 ずっとそんな事を思っては、無理矢理頭から追い出すことを繰り返していた。
 電話した時の感触から、そんなに嫌われているとは思えない。
 だが、誘いをかけると、急によそよそしくなるのは何故だろう。
 あーあ
 がっくりとうなだれていた。
「篠山さーん。これ資料、置いときますけど……」
 急に机の上に資料の束を置かれ、はっと後ろを振り向く。
「えっ?」
 あんまり勢いが良かったせいで、向けられた視線の先で相手は戸惑っていた。
「あ、ごめん。で、何だって?」
 義隆は、無理に笑みを浮かべる。
 その先で、伺うような視線を向けるのは同じ開発部だがチームは違う滝本優司。そして、滝本恵の兄。
「今度の取締役の説明資料です。よろしく」
 そう言われて資料に目を向けると、分厚かった。
 何でこんなにあるんだ?
 工場説明の時間なんてたかだか1フロア5分だぞ。
 そう思いながらぱらぱらと資料をめくるとほとんどが写真と図だった。
「電子データの方はメールで送ってますから、4Mbほどあるんで開くの時間かかると思いますから気を付けてくださいね」
 おいおい。んなもんメールで送るか?
「共有に入れてくれればよかったのに」
 ため息を付きながら言うと、滝本はにこっと笑いながら、そうでしたねえと一言言い残して去ってしまった。
 絶対これは嫌がらせだ。
 うちの部の中でも一番コンピューターに詳しい奴、普段自分から大きいファイルは共有フォルダに入れてくれーとお触れを発している奴が、自分のでかファイルをメールで送るなんて、嫌がらせの何物でもない。
 気づいているんだろーなー。
 自分の弟の相手が俺だって事。
 そうしてみると、俺が今度の工場案内の設定役に任命されたのも、滝本の嫌がらせのような気がする。
 ちらりと斜め後方にある滝本の机の方を見ると、義隆をその役に任命した人が滝本と仲良さげに話し込んでいた。あながち外れの推理でない、と思う。
 篠山の会社は、外資系で少し普通の会社と違うシステムをとっている。特にその管理システムがが違っていて、各部に3ランクのリーダーがいる。第一リーダーがトップでその下に2?3人の第二リーダー、そして各チームを見る第三リーダー。それが標準の体制。
 開発部は第一リーダー 須藤の下に3人の第二リーダー、そして10人の第三リーダーがいる。篠山・滝本は第三リーダーの一人だった。滝本は第一リーダーとは今ひとつだが、第二リーダーの一人 水岡と仲がいい。水岡が昔やっていた開発を今滝本が引き継いでいるせいもあるだろう。そして、今回の取締役会議のセッティング役は水岡。水岡がよく相談する相手が三宅美佳。三宅は滝本の仕事のサポートを自ら買って出るくらい滝本と仲がいい。ちなみに水岡は三宅とも仕事がしたことがあり、水岡の方が年上だが入社したのは三宅の方が早いため、水岡とも友達のように仲がいい。滝本から三宅にそれとなく話がいって——たとえば、その役は篠山がいいですよとか……、それを水岡が聞いたら、どうしても判断が傾く……。
 まあ、水岡さんがそれだけで全てを決めるタイプではない、とは思っているけれど……勘ぐりたくなるのはしょうがないよなあ……。
 ため息をつきたくもなるっていうもんだ。
 一心に悩んでいたので隣の席にいる部下の橋本が何度もパーテーション越しに不審そうに篠山を見ているのにすら気が付いていない。
「篠山さーん。何をため息ついているんですか?」
 ため息を聞くのも嫌になった橋本から呆れたような口調で呼びかけられ、篠山は我に返った。
「え?俺、そんなにため息ついていたか?」
 部下といっても年も近いせいか友達みたいな橋本に、篠山は苦笑いを向けた。
「もう数え切れない程……ていうのは冗談だけど、ほんと多いですよ。恋患いですか?」
 さらっと図星を言われて口ごもる。
「え、もしかして、マジ?」
 マジだけどな。だけど、それをバラす程俺も正直ではないぞ。
 だいたいこいつは仕事もせずになに人を観察しているんだ。
 目を丸くして驚いていた橋本に、篠山はわざとらしくため息をつく。
「違うって……お前みたいに何考えているか分からない奴の相手をしているとため息もつきたくなるんだ」
「きっつー」
 橋本が傷ついたような表情を見せるが、それが本気でないのは篠山は経験上よく分かっていた。
「で、それだけか?言いたいことは?」
 無理矢理話を終わらせるために別の話題を振る。
「あ、そうでした。そういえば、うちのフロアにあった滝本さんとこの機械が移設するでしょう?その跡地のレイアウト案です」
 そう言って先ほどの資料の上に、さらに図面が数枚置かれた。
 こうやって山が増えていくんだよなあ……。
 その山に一瞥を加える。
「で、移設時期を含めて、滝本さんとことミーティングするんですけど、今度の月曜日の9時からなんで・・・・・」
「月曜の9時?」
 何か引っかかったぞ。今……。
 慌てて、パソコンの予定表を開く。
「あー、橋本、お前休み!ってことは?」
「いやあ、さすが篠山さん、勘が鋭い!」
 へらへらと笑う橋本を睨み付ける。
「お前、謀ったな」
「嫌だなあ、そんなことする訳ないでしょ。向こうからその日しか空いてないって言われて。だから、篠山さんよろしく」
 最近今ひとつ仲がよくない滝本チームとのミーティング。俺に相手しろってか……よりによってあの……いや、まあ、ミーティング自体の内容からして、向こうはリーダーが出るもんじゃないだろうけど。
 ああもう。
 思いっきり深いため息をついた。
「橋本」
「はい」
「お前、月曜休みなんだから、エムイーケイ向けデータ、明日金曜までな」
「えーーーーー!」
 事務所中に響き渡る絶叫を篠山は無視した。
 
「篠山さん。いいですか?」
 篠山はデータ処理で見入っていた画面から顔を上げた。
 橋本より素直で可愛い部下——と思っている、緑山が立っていた。
「何だ?」
 笑みを含んだ表情を向ける。
 その向こうで「緑山には優しいんだから……」という言葉が聞こえた。後ろを気にする緑山に、気にするなと言い、後ろの橋本を睨み付けた。
「で?」
「あ、あの評価機の件ですけど……」
 恵と今の関係になった原因の評価機の購入計画は、今緑山が担当していた。
 とてもじゃないが、現在の仕事量でそこまで関わることが出来なかったのだ。
「ああ、どうなった?」
「みんなで検討した結果、RA島田のものになりました」
 がーん。
 こんな擬音がぴったり来るような衝撃を篠山は受けた。
「RA島田……川崎理化学のは駄目だったのか?」
 思わずきつい口調になったので、緑山は狼狽えている。
「篠山さんは川崎理化学がお気に入りだからー」
 後ろでふざけたことを吐く橋本に四角いプラスチックサンプルの固まりを投げつけ、緑山に先を促す。
「え、はい。そのオプションとか性能と金額の照らし合わせとかで。川崎のは確かに安いんですけど、操作性が今ひとつで……」
「……ああ、そうか。じゃあ、それで行くとして計画申請と実施計画書を書いてくれ、それと駄目だったところも折りをつけて電話しとけよ」
「はい。明日ぐらいにしようと思っています」
 ほっとしたよう緑山が戻ると、篠山は本当に深くため息をついた。
 できれば、恵に取らしたかったな……。
 きっと、もう絶対……これで恵の機嫌がまた悪くなる……。
 
「えー!」
 思わず叫んだ電話口。
 恵は慌てて口を押さえた。
 川崎理化学営業三課の部屋。
 外回りから帰ってきた恵は、外出中にかかってきた電話に対する応対をしていた。
 その中の一件。
 周りにいた人間が一斉に恵に視線を向ける。
 恵が仕事中にここまで狼狽えたのは初めてで、みんな何事かと近づいてきた。
「す、すみません。大きな声を出して……ほんとうに申し訳ありません……いえいえ、そんなお気になさらないでください。今回は確かに残念な結果でしたけど……ええ、はい……また詳しいことはお聞かせ貰う事になると思いますが……はい、また別の機会がございましたら、よろしくお願いいたします。……はい、ほんとうに……失礼いたします」
 がっくりと受話器を下ろす。
「どうした?」
 近づいてきたうちの一人が代表して声をかけた。
営業三課の穂波課長。恵に営業手法を教え込んだ教育担当者でもあった。だからこそ、恵の狼狽えぶりが気になった。
「いえ、その……」
 口ごもる恵に穂波課長はぴんときたようだった。
「ジャパングローバル、駄目だったか……」
「はい」
 沈んだ声の恵。
その肩を、穂波課長はぽんと叩いた。
「お前ががんばっていたのは知っているから、お前のせいだとは思わない。ここまでやって駄目だったのならしょうがないと言うことだ。詳しいことが分かったら教えてくれ。まあ、これをバネに次がんばれよ」
「はい」
 優しい穂波課長の言葉だったが、今の恵には慰めにはならなかった。
 本当に欲しかった。
 ずっと義隆に無理に逢わなかったのは……まあ、ちょっと別の理由もあったけど……でも、できればこの仕事とるために専念したかったから。
 とにかくがんばって準備した、のに……。
 この仕事とれたら、大手を振って義隆に逢いにいってやろうって思ってたのに……。
 あまりに落ち込んでいる恵に、穂波課長は周りの人間を見回した。
「しょうがないな。今日は金曜日と言うこともあるし、残念会と言うことで奢ってやる。三課のアイドル滝本が元気ないと、この営業三課の志気が下がるからな」
「さんせー!」
 周りから一斉に声が挙がった。
「こら待てって!奢るのは滝本だけだぞ。私にはそんなに金ないからな」
 慌てる穂波課長の姿がみんなの笑いを誘った。
「もう、誰がアイドルですか……」
 恵も口の端を上げ笑おうとする。が、それはうつろな笑いにしかならなかった。
 どうしても、取りたかったのに……。
 そればかりが頭の中で響いていた。


今日は金曜日。 
完全に忘れていた。
 盛り上がっている宴会の中で、一人義隆は料理をつついていた。
 特に盛り上がっているのは、橋本とその周辺。
 居酒屋の宴会場を一部屋借り切っての、橋本の結婚祝いの飲み会の日だった。
 これで恵と約束していたら……自分から誘っていて忘れてたからキャンセル、なんて思いっきり情けないよなあ……。ほんとに今日は断られてて良かった。
 心底思った。
「し、の、や、ま、さん。何やってんですかあ!」
 いきなり緑山が抱きついていた。
 持っていたグラスからビールがこぼれそうになる。
「お、おい!危ないだろーが!」
 慌てて緑山を押しのけようとするが、しっかりと義隆を抱きしめたまま赤く染まった顔を義隆に向けてにこにこ笑っている。
 普段はそうでもないんだが、飲むと緑山はすぐ義隆に抱きついてくる。
 前の歓迎会の時もそうだった。
 しかもその酔いでうるんだ目で、じっと義隆を見つめるのだ。
 結構細身の顔に、二重の大きな瞳が特徴の緑山は、結構女性に人気がある。
 そんな緑山が義隆に抱きつくと、周りから嬌声があがる。
「お前、酔ってるな」
「えー、酔ってません。篠山さんに見つめられて赤くなっているだけでーす」
 けらけら笑いながらぎゅうぎゅう抱きしめる緑山を、ぐいぐい押しのけながら周りの連中を睨む。
「誰だ?こいつにこんなに呑ませたのは。こいつの酒癖の悪さ知っているだろうが」
「えー。面白いじゃないの。緑山は篠山さんのこと気に入っているしぃ」
「もっとやれー!」
 無責任にもけしかける橋本達を睨み付ける。
「お前ら、覚えてろよ」
 それを全く無視して橋本達はあっという間に別の話題に盛り上がってしまった。
 くそー、お前ら後で覚えていろよ。
 義隆はとりあえず抱きついてる緑山を押しのける。
「えー、篠山さんーん。俺、寂しいですー」
 と、ほざく緑山を放っておいて義隆は部屋を出た。
 ほおっと一息入れていると、その廊下に、見知った顔を見つけて義隆は固まった。
「けっ!」
 恵と呼びかけそうになって思わず手で口を押さえた。
 恵の腕に並んでいる人が目に入った。
「滝本さん、どうしてここに……」
「篠山さんこそ、こんな所で逢うとは奇遇ですね」
 にっこり微笑む恵だが睨まれているような気がした。
 さっきのを見ていたのかも……だけど、この男は誰なんだ?
 身長は自分と同じくらいで、30台後半くらいのスーツ姿の男。
「だれ?」
 その男が恵に小さな声で問う姿がとても親しげに見え、気に入らなかった。
「あ、すみません。こちらジャパングローバルの篠山様です。篠山さん、私の上司で課長の穂波です」
「ああ、ジャパングローバルの……。いつもお世話になっております」
 そう言って慣れた手つきで名刺を差し出してきた。慌てて義隆も名刺を取り出す。
「こちらこそ……」
「今日は楽しそうですね。いいんですか?放っておかれて……」
 そういって指さす所にじっとこちらを見つめている緑山がいた。
 うー。いい加減にしてくれ……。
「ちょっと呑ませすぎまして、あいつ酒癖悪いから……」
 ため息をついてちらりと恵を見ると、また睨まれた。
 もしかして、嫉妬、してくれているんだろーか……それはそれで嬉しいんだけど……。
「とても仲良さそうでしたよ」
 そう言ってにっこり微笑まれて、篠山はひきつった笑いを見せた。
「メンバーの一人が結婚することになりまして、その祝いの飲み会なんです。そしたら面白がって呑ませすぎたらしくて……そちらは……?」
 分かっているのかどうか、穂波は軽く頷くと、滝本に視線を向けた。
「私どもは営業三課全員で来ているんです。今回のそちらとの取引ではあんな結果になりまして、滝本がたいへん落ち込んでいまして、その慰労会みたいなものです。滝本は、我が課のアイドルですからね、落ち込んでいては困るのですよ」
「課長!」
顔を赤らめ抗議する恵の肩を、穂波は軽く叩く。
落ち込んで……。
義隆は少なからず責任を感じで恐縮する。
「もっとも、私の可愛い部下をこんなに落ち込ませた原因はそれだけではないようですがね……」
 ぴくんと恵が体を震わした。
 そんな恵の肩に穂波は手を回し、引き寄せるようにする。恵が戸惑ったような視線を穂波に向ける。その穂波は、義隆をじっと見ていた。
 こいつ、何を言っているんだ?
 何か知っているというのか?
 それよりなにより何なんだ、その親しげな様子は?
恵に触れるな!
 俺の恵に!
 義隆の顔が怒りに歪む。
 と。
「篠山さんっ!」
「わっ!」
 後ろから抱きつかれて、バランスを崩し慌てて壁に手をついて支える。
「み、緑山!お前、いい加減にしろっ!」
「だめですよお。篠山さんがいないと、面白くないじゃないですかあ」
「あー、もう!」
 義隆は緑山の襟を掴むと、部屋へ放り入れた。
 その背にくすくすと笑い声が響く。
「お邪魔しちゃ悪いですね。それでは、失礼いたします」
 恵の腕を掴んで去っていく穂波を睨み付ける義隆。が、こちらを向いた恵の視線が怒りを含んでいるようで、義隆は下唇を噛んだ。
すり寄る緑山にげんこつをお見舞いする。
なんだってんだ、あいつは。
何であんなに恵と親しいんだ?
恵も恵だ。
何であんなに睨んでいるんだ。
そんなに評価機の受注が取れなかったのが悔しいのか?
あー、もう!
俺が何したって言うんだよっ!


なんだよ、あれ!
あんな奴とべたべたしちゃって。
俺がこんなに落ちこんでのに、楽しそうでさっ。
 恵は自分の宴会場に戻ってきてから立て続けにビールを飲んだ。
 ったく、俺がどんなつもりで一生懸命がんばったと思っているんだ!
 それが駄目で、課長が連れてきたここで、偶然義隆を見かけたまではよかった。
 だけど、あの緑山って奴に抱きつかれて……・。
 頭の中、真っ白になった……。
 さっきも課長と話をしていて、俺の方なんか見向きもしないしさ。
 また、あいつに抱きつかれて……あいつ、あの緑山って奴、仕事の時も何か嫌だった。こっちを睨みながら話をする。細かいところばっか突っ込んできて、だけど一番メインの性能やら価格交渉となるとすっごい投げ遣りで——こんな奴が義隆の部下なんだってんだから、義隆が気の毒になった。なんで、あの義隆にこんな奴がついてるのか不思議だった。とにかく、こっちはすっげー神経使って……。なんであんな奴がよりによって担当だったんだよっ!
 ちっくしょう!
 グラスに残っていたビールを飲み干す。
 空になったグラスに自分でビールを接いで、また飲み干した。
「滝本、お前飲み過ぎだ」
 グラスを掴んだ手を押さえられ、恵は顔を上げた。
「かちょー」
 何だか、課長の顔が歪んで見える。
 こうしてみると課長もかっこいいよなあ。男前でさ。仕事もばりばりできるし……。
「大丈夫か?お前、あんまり強くないんだから、そろそろ止めとけよ」
「えー、大丈夫ですって、まだまだいけますよー」
 へらっと笑って、空いている方の手でグラスを掴むと、また一気に飲み干した。
「滝本!」
「へへへ、だいじょーぶってば……」
 課長の姿が歪んできた。
 何か慌てているなあ……・。
 あれーーーー。
 俺って空飛んでるうー……。
 
 
 くそっ。
 どことなく調子が悪いのは、昨日の酒のせいか……。
 結局、義隆は、あの後しがみついてくる緑山を橋本に押しつけて、さっさとマンションに戻ってきた。あれ以上呑んでいてもあの穂波って奴の顔がちらついて、悪酔いしそうだったから。
 時計を見る。
 もう10時を過ぎようとしている。
 恵はまだ寝ているのだろうか……。
 評価機の件は、何をいっても言い訳にしかならないかもしれないけど、昨日の件ははっきりさせておきたかった。
 緑山とのこと。穂波という課長のこと。
 携帯を取り、恵の番号を選択した。
 呼び出し音が鳴る。
 長い間出なかった。
そろそろ切ろうかと思ったとき、呼び出し音が消え、繋がった。
「もしもし、恵?義隆だけど」
「……」
 だが、向こうからは何の返答もなかった。
 昨日の去り際の怒ったような視線を思い出す。
「恵……怒っているのか?」
 不安にかられて問うと、信じられない言葉が義隆の耳に聞こえてきた。
「滝本は、まだ寝ているよ」
 その声は……。
「穂波……さん」
 かろうじてつけた「さん」という言葉に、向こうはかすかな笑いを返した。
「滝本の携帯とは言え、これは会社支給の携帯なんだからね、出た相手を確かめてから話をするべきだよ。にしても、滝本の相手はやはり君だったのか。昨日もしかして、とは思ってみたけれどもね」
「な、んで?滝本さんはどうしたんだ?」
「ん。滝本は昨夜うちに泊まったから。可愛い顔して寝ているのに電話の音がなったから、起こしちゃまずいと思ってね」
「他人の電話に勝手に出るか?」
「他人?滝本は他人とは思っていないよ。俺の大切な人だからね。それに会社の携帯にかかってきたんだ。上司としては一応確認しようと思ったんだけどね」
 意味ありげな言葉に、義隆は絶句した。
「最近、滝本は物思いに耽ることが多くてね、どうしたのかと様子を見ていたんだが、普段あそこまで取引に執着しているのも見たことがなかったし……昨日、君を見つけて、君が仲良さそうなあの子に迫られているのを見ている滝本は本当に苦しそうでね。だから君が原因なんだと思ったよ」
「見て、苦しそうだった?」
「そう、ずっと」
「あれは……あいつは酒癖が悪くて……」
「でも滝本は君のためにがんばっていたみたいだからね。それにその時のそちらの担当者が昨日の君のお相手だろ。ショックだったんじゃないかな」
「……」
「まあ、どちらにしても俺の滝本に手出しは無用ですよ。あの明るい彼にあんな顔をさせる君に滝本を渡すつもりはないからね」
 俺の、というところを強調する。
「じゃあ、もう電話しないでくださいね。彼は少し疲れているから、ゆっくりと休ませないとね」
 意味ありげな言葉が耳朶を打つ。
 切れた携帯の画面を見ながら、義隆は呆然と立ちつくしていた。
 何なんだ。これは。
 今、恵はあいつと一緒にいるのか?
 寝てるって……。
 休ませるから……。
 どうして?
 なんであいつが、「俺の滝本」なんて言うんだ?
 どうして……。
 頭の中に穂波の言葉が荒れ狂う。
 「恵……」
 義隆は握りしめていた携帯を投げつけた
 音を立てて、部品が飛び散る。
 散らばった破片の間に、義隆は座り込んだ。


 心地よいぬくもりに恵はうっとりと身を委ねていた。
 だが、それが布団の中のぬくもりであることに気づく頃、誰かの声が聞こえてきた。
 誰だろう……?
 だか、霞がかかったように頭が働かない。
 瞼も重く、体がまだ寝ていろと命令する。
 人の気配が近づき、恵は無理矢理瞼をこじ開けた。
「起きたのか?」
 聞き慣れた声が耳を打つ。
「……穂波課長……なんでここに……」
 回らない頭。だるい体を手をついて起こす。
「何でと言われても、ここは俺の家だからな」
「えっ」
 慌てて見渡すと、部屋に見覚えがあった。前に何度かお邪魔したことがある穂波の家に間違いがない。
「……俺、もしかしてつぶれちゃいました?」
 恵の言葉に、穂波は笑って頷いた。
「さして強くもないのにがぶ飲みするからだ。記憶がないのか?」
「いえ、飲んだことは覚えています……」
 そうだ、昨日義隆にあって、いたたまれなくて、ひたすら飲み続けた記憶はある。
「お前は強くないんだから、セーブして飲むように教えただろうが……ったく。そんなことでは接待に失敗するぞ……どうした?」
 決してきつい口調で言った訳でもないのに、穂波は恵の顔がこわばったのに気がついた。
「もしかして、失敗したことがあるのか?そんな報告を受けた覚えはないが……」
「い、いえ!失敗なんかしていません……」
 慌てて取り繕うとする恵。
 だが、穂波は苦笑を浮かべた。
「ばーか。お前がそうやって慌てて言ってる時は、ごまかそうとしている時だろ。俺が教えていた時といっこも変わってないな。客相手にばれないよう日頃から気を付けるように言っていたはずだぞ」
 何もかも見抜かれているようで赤面してしまう恵。
「で、いつ失敗したんだ?」
「……本当に失敗した訳ではありません。ただ、確かに飲み過ぎたけど……。でも、フォローはしておきました。失敗ではなくなったんです……」
 あのときは・・…。
「ふ、ん。もしかして、相手はあの篠山って奴か?」
「えっ!」
 びっくりして目が点になっている恵をおもしろそうに覗き込む穂波。恵は慌てて目をそらした。
「お前、まさか未だに客先でそんな素直に反応して見せているわけではないだろうな」
「ま、まさか……」
 ひきつった笑いを見せる恵。
「で、それが図星だとして……お前はあいつのことどう思っているんだ?」
「ど、どうって」
「昨日のお前の様子見ていたら、勘ぐりたくもなるよな。最初はまあ機嫌良く飲んでいたのに、外に出ていったお前が戻ってこないので見に行ったら、あいつのことじっと見つめていたろ。あいつの仲間が抱きついているのを見て、つらそうな表情でな。その後の機嫌の悪さって言ったら……俺が止めるのも聞かずに飲んでたからな」
 恵は昨日の緑山と篠山の様子を思い出した。
「別に、篠山さんとは何でもありませんよ。確かに最近仲はいいといえばそうでしょうが、友達でしたから……」
「フーン」
 納得したのかどうなのか判らない表情で穂波が頷く。
「友達か……」
「ええ、そうです」
 やっと心の中を落ち着かせ、笑顔を見せる。
「滝本のことを『恵』と名前で呼ぶくらいに仲がいい友達か……」
「?」
 恵と呼ぶくらいに……って、昨日、義隆は名前で呼んでいないのに……なぜ?
「ったく……この義隆っての、篠山ってやつの名前だろ。携帯に登録するってことはよっぽど親しい友人なんだな」
 そういって穂波が放ってきたのは恵の携帯だった。
 着信履歴が開いている。
 その画面が指す事実に恵は驚愕した。
「これって、ついさっき……まさか、穂波課長がでたんですか?」
 なんで!
「うるさいくらいしつこく鳴っていたんでな。手に取ると義隆って出ているだろ。その名前は昨日貰った名刺の持ち主しか思いつかなかったからな」
「そんな、人の電話に勝手に出るなんて!」
 恵の顔が怒りで紅潮する。
「何言っているんだ、これは会社の携帯だろ。それに、お前がつらそうな表情するのなんかほうっとけるか。そんなにつらい表情を浮かべる奴なんかとつき合わせることなんかできないね」
「そんな!プライベートのことまで課長に束縛されるいわれはありません!電話に出て一体何をいったんですか!」
「ああ、恵は俺のものだってっておいた」
「へ?」
 きょとんとしている恵に穂波は声を押し殺して笑う。
「お前は俺のものだから、電話なんかしてくるなって言ったんだよ」
 その言葉の意味する所を恵はやっと理解した。
 とたん、
「何だってっ!」
 誰が誰のものだって!
「何でそんなこと義隆に言わなきゃいけないんだ!勝手に電話に出て、よりによってんなこと!誤解するじゃないかっ!」
 あまりのことに義隆と名前を呼んでいるのにも気づいていない。
「誤解?誤解される程度のつきあいなら今からやめとけばいい」
「そんな!なんで課長にそんなこと言われなきゃいけなんだっ!」
「ほらほら、言葉遣いがなっていないね。いつだって冷静になれるようあれだけ言い聞かせたはずだか」
「今はプライベートですっ!」
 それでもかろうじて怒りを抑えようとする。
「あいかわらず素直だね。そんな滝本が心配で言っているんだ。これが相手がまだ可愛い女の子なら放っとくつもりだがね。相手は取引先のしかも男ときたら、心配になってくるだろう。しかも、最近のオーバーワーク気味は相手のせいだろう。いつも元気で明るい滝本が、眉間にしわ寄せて資料とにらめっこしている姿がずっと続いていたんで、みんな心配していたんだ。何せ、三課のアイドルだから、君は」
「アイドルって……言ってるのは課長だけじゃないんですか?もしかして」
「みんなで言ってるよ。だいたい、最初に言い出したのは、楠木だからな」
 むっとした表情の恵に微笑み返し、穂波は続けた。
「1ヶ月前……あの篠山の接待から、滝本は沈んでいる表情が増えた。一時期、復活していたんで、安心していたんだが、ここ2週間ばかり、ほとんど笑わなくなった。お前は喜怒哀楽がはっきりしているからな、みんなすぐ何か遭ったんじゃないかって気にしていた。それで、私が調べることにしたんだ。私も滝本は大事な後輩だからな。弟みたいにすら思っているんだ」
 言われて、恵は俯いた。
「俺って、そんなに表情に出ていました?」
「ああ。普段営業で感情を押し込めているせいか、帰ってきた時とか、プライベートなんかになるとはっきり感情が出ているよ」
「それで、俺と義隆……篠山さんが怪しいって?」
「決定的なのは昨日。じっと見ている視線の先があいつだっただろう。しかもさ、すごいつらそうだったし。普通の友達なら、あんなことないと思うしな。それに、あいつも俺のことにらんでいたし」
「だからといって、人の電話に出るなんて……」
「試してみたんだ。あいつが本気なのか?滝本のことを大事にするタイプなのか?」
「よ、篠山さんは、大事にしてくれます。だって、約束を守って……」
「約束?」
 恵は慌てて口を塞いだ。
「いえ……なんでもないです」
「聞きたいな。ここまで来て聞かせてくれたっていいだろう?」
 冗談じゃない!
 恵は大きく首を横に振った。
「ふーん。じゃあ、もう彼には会わせないって言ったら?たとえば、配置転換とか……」
 真顔になった穂波に言われて、恵はひきつった顔を見せた。
「そ、それって、ジャパングローバルの担当から外されるって……」
「そう」
「そんな、卑怯です!」
「卑怯?大事な滝本が傷つくのを防ぐためだよ」
「し、篠山さんは俺を傷つけたりしない!」
「だが、今回の取引ではずいぶんと滝本が傷ついたように見えたがね。いつも帰ってくるうんざりとした表情を見せていたじゃないか?」
「それはあの担当の緑山って奴が……」
「緑山?ああ、昨日彼に抱きついていた?」
「睨むんです。俺のこと。打ち合わせ中もずっと……」
「ふーん。昨日のことといい、どうやら彼はその緑山ってのに好かれているらしいな」
「え?」
「何だ気づかなかったのか?昨夜だって滝本のこと睨んでいたろ」
「でも、俺と篠山さんがつき合っているなんて、誰も知らない……」
「そんなの、俺でも判ったんだ。まして好きならさ、恋しい相手が目を向けているのが誰なのかなんて憶測してしまうと、それが間違っていても排除する行動にでるだろう」
「……」
「まあ、あの篠山ってのも結構鈍感みたいだから、その辺は判っていないようだがね。だから、滝本は外れた方がいいんじゃないか?でないと、そういう攻撃をまた受けるし、鈍感な彼はそれに気づかない。一人滝本が苦しむことになるんだ」
「嫌です!俺、そんなのに負けるもんか」
「だったら、さっきの約束聞かせて欲しいな。それを聞けば滝本をどれだけ思っているのか判るような気がするからね」
「そ、それは・・…」
 口ごもる恵に穂波は諭すように話しかける。
「なあ、俺は滝本が弟みたいだってさっき言ったよな。それは三課の連中みんな思っているんだ。お前は素直で、明るくて、元気で……だから、安心できる答えがでるまで、俺達は、お前をあいつに渡さない」
「俺達って……」
「三課全員さ。このことをみんなに話したら、絶対そう思うよ」
「い、言うつもりですか?」
「それは滝本次第」
「それって脅迫って言うんですよね」
「ん、まあそうとも言うが……取引って言ってくれた方がうれしいな。営業マンとしてはね」
「うー」
「ほらほら」
「篠山さんとの約束は……あの取引が終わるまで、絶対に俺をだ……抱かないって……俺が頼んで……」
「抱かないって?その抱かないってのは、そのSEXのことだよね」
 恵はまともに言われて耳まで真っ赤になった。
「何でそんな約束。恵から言ったって……どうして?」
「そこまで言わなきゃいけないんですか?もう良いでしょっ!それを篠山さんはずっと守ってくれたんです。だけど、俺の方がそんなのつらくなってきて・・…。その、キスするだけでも俺、すっごい感じちゃって……。あの緑山の件もあったし……だから会わないようにしてたら……電話がかかってきても、なんかいっつも怒っているようで……。なんか会えなくなって……だから取引が成功したら、喜んでで会いに行けると思ったんだけど……」
 穂波はそれを聞いて心底呆れたように肩をすくめた。
「だけど、取引には失敗する。昨日はあんな場面を見てしまう。か……。つらくなるような約束……滝本からしたんなら反故にしてしまえばよかったんじゃないか?」
「だって、そんなの言えないじゃないですか?俺から、だ、抱いてくれなんて……」
「お前は……へんなところで頑固なんだな」
「そんなこと言ったって……」
「つまりお前は、逢うとどうしようもなくなるんで、逢わないようにしていたらに連絡も取り合うのが苦痛になってしなくなったって……それじゃあ、相手も怒るだろうが……まあ、そんな滝本の様子がわかってやれない鈍感なのを相手に選んだのが間違いといえば間違いなんだが……」
「だから、さっきの電話。そんなこといったんなら、絶対誤解しているに決まっているんだ……」
「うーん。このまま別れさすってのも手だが、どうもお前らお互いべた惚れのような気がする。」
「べた惚れってなんですかそれは?」
「さっきの電話もそうだったけど、そんな感じがする」
「でも、誤解してる、きっと俺のことなんか嫌いになっているんじゃないかな」
「そんなの……。ん、まあこの機会にしばらく様子をみたらどうだ。まあ、多少の罪悪感は俺にもあるし、フォローしてやる。ただし、そいつがお前にふさわしいって納得したらだからな」
「どうして、そんな気になったんです。さっきまでは反対しまくっていたのに。」
「男ってのは結構欲望に正直だろ。お前が我慢できなくなったのだってそのせいじゃないか?それを一ヶ月待つといって、待っていたんだから、まあ、多少は彼のランクがあがったかな」
「そ、そんなものなのかな……」
 照れたように俯く恵に穂波は笑いかける。
「相手を本当に大事にしようって思わない限り、そうだろ。まして相手は男なんだ。女のように妊娠したりしないしな」
「なんか課長って理解ありませんか?」
「そうか」
 涼しい顔をして答える穂波に滝本はため息をついた。
「なんか、課長が判らなくなった」
「俺は俺。そのうち判ってくるさ」
「でも本当に大丈夫なのかな」
「滝本の心変わりがない限り大丈夫さ。それともあの緑山ってのにとられていいのか?」
「いやです!」
「じゃあ、がんばるしかないだろ。これはいい機会なんだ。お互いの気持ちを確かめるためにね」
 俺の気持ち……。
 俺は、義隆が好きだ。
 こんなことになっても義隆が好きだ。


 怠惰に過ごした休みが終わり、会社が始まった。
 気乗りのしない仕事が始まる。
初っぱなの仕事が、目の前にいる滝本優司との打ち合わせだった。
 義隆は、眉間にしわを寄せて滝本を睨む。
「何で、滝本くんが来ているんだ?担当者はどうした?」
 滝本のチームのフロア引っ越し担当者は、確か鈴木だったはずだが……。
「篠山さんが相手だというので、鈴木くんが自信がないっていうんで……」
「何なんだ、それは……」
「で、まあ、私がかわりに来ることになりました。しょうがないでしょう?鈴木くんからしてみれば、篠山さんなんて雲の上の人みたいなもんでしょ」
 そりゃまあ、鈴木は新人だから第三リーダーとは言え俺達のこと、そう思うかも知れないけど……。同じチームなら、リーダーと新人でももう少し親しいのだが、他のチームのリーダーとなるとそうはいかないのだろう。
 そういや、前に緑山も似たようなことを……。情けなくないか、それって……。
「ちょっと新人鍛え直した方がいいかなあ……」
 そう呟く篠山を、きょとんとした表情で見ている滝本。
「思わないのか?リーダーが怖くて仕事ができるか?こんな些細なことにいちいち俺達が出ていたら、幾ら体があっても足りないぞ。それでなくてもリーダーとしての雑用が増えているのに」
「まあ・・・・・そうですけどね。でも、そう言われましても、私たちだって、須藤さんは苦手でしょう?」
 苦笑いを浮かべる滝本。
「それは、まあ……苦手の意味が、たぶんあいつらとは違うがな」
 二人揃ってため息をつく。
 こんなことに時間をとられるのも、我が第一リーダーの気まぐれのせいだからなあ。
「ま、その須藤さんが原因のミーティングでも始めましょうか……」
 そうして乗り気のしないミーティングが始まった。
 ミーティングの内容は、ある意味簡単な物。
 要は、同じフロアにあった二つのチームのうち滝本のチームが別のフロアに移る。
 本来、同じ場所にあるべき筈のないチームが、須藤の意見で一つに閉じこめられて一年。やっと引っ越しが決まったのだ。
 滝本チームが引っ越せば、それに会わせてぎゅうぎゅう詰めだった篠山チームが場所を広げる。その実行計画を立てるためのミーティングだった。

「だから、こっちは一部出荷があるんです。この日に移動は無理です!」
「こっちだって装置が入るんだ。場所を空けて貰わなければ困る!」
 堂々巡りになっていく。
 ああ、もう、こいつってこんなに頑固だったか?
 言うことなす事反発してくるっ!
「ああ、もう。橋本は何やっていたんだ。このままだと、必要な時に引っ越しができない!」
「ったく、鈴木くんにまかせていたらどんなことになっていたか……」
 滝本も同じような事を言う。
「こっちとしては、今日は鈴木くんにきてもらっていたら、簡単にことが済んでいたというのに……」
 滝本を睨むと、滝本も睨み返してきた。
「やはり私がきて正解でした。篠山さんは押しが強いですからねえ」
「何だ、それは……」
 ああ、もう、こいつは最近つっかかるばっかりする。
「そうやって、うちの弟も迫ったんですかね」
「!」
 い、いきなり、来るかっ!お前はっ!
「ほんとうに篠山さんは、こうと決めたら押しが強いですからねえ」
「決めてた訳じゃない。ものの弾みだっ!!」
 いつの間にか認めているのに義隆は気づかない。
「弾みぃ?そんなんで、うちの弟に?」
 滝本の眉間にしわがよる。
「ち、違う」
 ああ、もう自分が何言ってるか分からないぞ。落ち付けって!
 篠山は大きく息を吸うと、心を落ち着かせる。
「俺は、恵とのことは本気だ。そりゃあまあきっかけは無茶苦茶だったかも知れないけど……」
 滝本と視線が合う。
 滝本が息を飲むのが分かった。
「知っていたんだろう、いきさつも」
「……ええ」
 だからこそ、滝本はいつも義隆につっかかってきていたのだろう。
 こいつも単純な奴だ。
「俺は、誰がなんと言おうとも恵が好きだ。今までこんなに人のことを好きになったことはない。大切にしたいとさえ思う」
 これは本気だから。
 だから想いを込めて伝える。
 それは滝本にも伝わったのだろう。
 明らかに滝本の表情がおだやかになった。
「分かってます。篠山さんが根は真面目だから……男が男とつき合うのは……・、生半可な思いでは始められない位のことは知っていますし」
 根は真面目……それって、普段の俺のことどう思っているんだ、こいつは?
 いや、今はそんな事じゃなくて……。
「何か理解あるな、もしかして、そういう経験あるのか?」
 滝本の顔を伺う。
 と、一瞬で耳まで真っ赤になった滝本がそこにいた。
 おいおい、図星かよ……。
「はあ。滝本くんってほんと恵と一緒で反応が素直だよな。まあ、恵の方がどっちかというと、殻を被るのが上手いところはあるが・・・・・」
「……どうせ、いつも言われているからいいですけどね……」
 ふてる滝本がおかしくて笑みがこぼれる。
「で、滝本くんの相手は誰だ?俺が知っている奴か?」
 そういえば、恵もそんなこと匂わせていたような……。
 にいさんもつき合っている人がいるから、ね。
 あれは、こういう意味だったのか……。
「そんなこといいでしょう。今は篠山さんの方の話をしているんだから」
「あ、駄目か」
 篠山が軽く首を傾げると、滝本も笑みをこぼす。
 ああ、こいつ、やっぱ恵に似てるな。
 義隆は、恵のことを思い出す。
 何をしているんだろうな。
 結局あの後、気がついたら携帯は壊れてて、メモリは復活しなくて。電話番号が分からなくなった。
 家に行っても、留守で……。
 逢って話がしたかった。
 あの穂波って奴の言ったことも聞きたかった。
 ずっと逢えなかった理由もはっきりさせたくて……本当に忙しいだけなのだろうか。タイミングが逢わなかっただけなのだろうか……。
逢えないというその事実に気分が苛つく。
 あいつが言ったことは、違うって思ってはいたけれど……でもやっぱり恵の口からそれが聞きたい。
「篠山さん?どうしたんですか?」
 黙り込んで難しい顔をしている義隆に滝本が訝しげに問う。
「なあ、恵の電話番号教えてくれないか?」
「な、んで?知らないんですか?」
 不審そうな滝本に義隆は口の端を上げる。
「ちょっと携帯壊しちまって、メモリが壊れたんだ。恵のは、聞いたときに直接メモリに入れてたから、どこにも控えていなかった」
「壊したって……何やったんですか?」
「ちょっと、無茶苦茶嫌な電話があって……電話に当たってしまった……」
 それを聞いた滝本は目を見開いた。
「なんか、信じられませんね、篠山さんが切れるなんて」
「なんだよ、それは……」
 苦笑いを浮かべる。
「篠山さんは、仕事している時って、怒っているときでもどこか冷めてるっていうか、計算ずくみたいな所があるでしょう?こういう時にどうすれば、相手がどう反応するかって……。でも、実際はそうでなかったんですね」
 へー、俺ってそう思われていたんだ。
 知らなかった。
 もしかして、恵もそう思っているかなあ——いや、思っていないのは確かだな。
 あいつは俺の失態を知っているのだから。
「で、今携帯は?」
「あ、ああ、今取り寄せてるんだ」
「じゃあ、向こうからも電話がかからない状態ですね。それを恵は知っているんですか?」
「いや、知らない、と思う」
 そういうと、滝本は随分と考え込んでいた。
 義隆が痺れをきらして、問いかけるまで。
「どうした?」
「いえ、もしかして、それって恵にとっては凄い不安なことじゃないのかなって思って……」
「そう、かな?」
「うん……何でもない事みたいたげど、好きな人と連絡取りたいときに連絡が取れないっていうことは不安なんです。私は、恵が本気なのは知っているから……だから、今の状況って不安だと思いますよ」
 恵が本気?
 やっぱり、あの電話はからかわれてたのかな……。
 飲み屋の時から妙につかかってた奴だったから……畜生!
「教えてくれないか?」
「うーん。教えたいのはやまやなんですが……後で携帯取ってきますから、それからになりますけど……」
「えっ?」
「車に置き忘れたんです。必要なんで、お昼にでも取りに行こうと思ってはいるんですけど」 
「あ、ああ、いいよ。分かればいいから……ありがとう」
「いいえ。ただし、恵を泣かせる……いや、あいつは滅多に泣かないから……傷つけないでくださいね。許してるわけじゃないけど……でも、当の本人達が納得しているのに、私が文句をいう立場じゃないってのはわかってはいるんです……でも、言いたくなるのは分かってください」
「ああ」
 こいつの言いたいことは分かる。
 弟が大切なんだ。
「なあ……お前って、最初どうだったんだ……」
 ふっと口をついて出た。
「最初って?」
 問い返されて、義隆の方が狼狽えた。
 俺って、また馬鹿なこと口走っていないか……。
「い、いや、何でもないんだ」
「何か……気になるじゃないですか?篠山さんがそんなに狼狽えるなんて?」
 じっと義隆を見つめる。
「いや、ほんとに何でもないんだ」
 俺、また何やってんだか……。
 滝本がからかうように笑う。
「篠山さんが狼狽えてるのって、普段見ないから面白い」
「ほっとけ」
 言うと、滝本がふっと視線を逸らした。
「……最初って、つきあい始めた時って事でしょう?」
「えっ?」
 慌てて視線を向けると、耳まで真っ赤になっている滝本がいた。
「まあ、話の流れからね。だいたい想像はついたんですけど……」
「珍しく鋭いじゃないか」
「ほっといてください」
 むっとする滝本に苦笑を浮かべる。
「いいんだ。馬鹿な事を聞いてしまったって思っているんだ。どうも、俺、恵が絡むとその場の雰囲気で思っていること口に出してしまうみたいで。情けないとは思うけど……すまない」
「まあ、いいんですけど……でもなぜ、そんなことを聞きたいと思ったんです?」
「あ、まあ、それは……」
 口ごもる義隆に、滝本は何か気づいたのか、目を見開いた。
「あ、あの、まさか……まだ……なんですか?」
 どうしてこいつは、今日に限ってこんなに鋭いんだっ!
 普段ぼーっとしてるくせに!
 眉間にしわを寄せつつ、真っ赤になって俯く義隆に滝本はため息をついた。
「だってもう1ヶ月以上たつのに……でも、何かその方がいいとは思うんだけど・・・・・いや、でも……・その……」
 ああ、言いたいことは分かる。分かるけどな……・だから睨むな。
「それは、いろいろ事情があって……。その仕事が一段落ついたらって事になっていて・・・・・それはその、この前終わったんだけど……だから、まだ……」
「何か信じられないです。結構強引なところあるから、どっちかという篠山さんの方が無理矢理ってこともないだろうけど、もう……してるんだろうなって勝手に思ってました」
 誰が強引だ、ったく。
 内容が内容だけに、二人とも真っ赤になって話をしていた。
 こんな所他の連中に見られたら、なんと思われるか……。
「それで、本当に聞きたいんですか?」
「何が?」
「最初の質問です」
 言われて思い出す。
「いや、いい。聞いても仕方がないことだよな」
「……何か篠山さんの印象が変わりましたよ。本当に……」
 滝本が再びため息をついた。
「そうか」
 しばらく沈黙が続く。
 その沈黙を破るように電話の音が鳴った。
 二人同時にPHSを探す。
「ああ、俺のだ」
 義隆は自分のPHSが着信しているのを確かめると、ボタンを押した。
「はい、篠山です」
『川崎理化学の穂波です』
 その言葉に義隆は、一瞬にして顔がひきつった。
「何か」
 義隆の声が怒りを含んでいるのに気づいた滝本が不審そうに義隆を見つめる。
『少しお話がありますので、来ていただきたいのですが』
「今どちらです?」
『入荷場です』
「……分かりました。後少しで行けますので……」
『お待ちしています』
 PHSを切る義隆に、滝本が問う。
「どうかしたんですか?今の外線ですよね……怒っているようでしたけど……」
「ちょっとトラブル発生。じゃあ、今日はこれで終わっていいか?」
「構いませんが……続きは明日にでもします?今日はもう気がそがれてるし」
「そうだな。お互い少し部下を鍛え直そうよ。でないと、こんなことにまで俺達が口出していたら、体がいくつあっても足りないからな」
「そうかも知れませんね……」
 事務所に戻りながらそんな会話をする。
 義隆はいったん事務所に戻って荷物を置くと、今度は入荷場へと向かった。
 何で、あいつがここに来るんだ?
 うちの担当は恵じゃないのか。
 そんなことを考えながら、扉を開けると、入荷場の端に穂波がいた。
 こちらに気づくと軽く会釈をする。
「篠山さん、すみません、ご足労願って」
「いえ、私も話がありますので……」
 そう言うと、穂波も意味ありげに笑みを浮かべた。
「では、こちらにでも……・ああ、私どもの車にちょっと来て貰えませんか?資料が車の中にあるんですよ」
「あ、はい」
 相手の意図が分からなかったが、義隆はおとなしく従うことにした。
 まさか、ここで言い争いにするわけにも行かないしな。
 側面に川崎理化学と書かれたバンの助手席に案内され乗り込む。
 穂波は運転席側に乗り込んだ。
 車は工場の外に向かって止めているので、この状態では中の様子は工場から見えないだろう。そう思った義隆は早速本題に入ることにした。
「この前の電話なんですけどね」
「ああ、それが何か?」
「あれ、嘘でしょう」
 言い切ってみる。
「嘘、だと思われましたか?」
「恵があなたのものだっていうの、嘘でしょう」
「ああ、やっぱり気づいたんですか?」
 しれっと言う穂波の襟元をぐいっと掴んだ。
「どういうつもりなんですか?。恵の上司だからって、俺達のことまで口出しする権利はないと思いますが」
 引き寄せられた穂波の目を見ながら、それでも口調だけは冷静に言う。
 だが、そんな義隆に抗うわけでもなく、にっこりと穂波は微笑んだ。その様子につい手を離してしまう。
「そうですね。上司としてでも、先輩としてでもとってもらって結構だと思いますが。ただ、私は、滝本がつらそうにするのは見たくないだけなんです」
「恵がつらそう?」
「そう。篠山さんは意外に鈍感そうだからね、気づいていないんでしょうけど、そちらの緑山さんに結構嫌がらせのようなこと受けたみたいなんです。本人は詳しく言わないんですけどね」
「緑山が?何で?」
「ほら気づいていない。あの宴会の場の醜態だって、その緑山さんの計算ずくだったんじゃないですか?滝本が見てるって分かってたから」
「どうして緑山が……」
「だから鈍感なんですって。その緑山っての、篠山さんが好きだから、滝本が邪魔なんじゃないんですか?」
「え!」
 緑山が俺を?
 そんなそぶり……あったと言えばあったか……。
 でも、そんな……。
 そんなんで、恵を?
 でも何でそんなこと緑山が知っているんだ?
「ったく」
 穂波は呆れように息をついた。
「いや、でも、私は、恵とつきあっているなんて言ってない……」
「……お前らは、二人揃っておおぼけ野郎だな……」
 いきなりぞんざいな言葉で穂波に攻められ、むっとする義隆。
「何だよ、それは?」
「まあ、しょうがないか。とにかく、緑山さんは篠山さんが好きだから、気がついたってことですよ。篠山さんのちょっとした態度でね。そうしたら例えそれが憶測でも排除しようとして……それが滝本への態度となったってことですね」
 また元の丁寧な言葉遣いに戻った穂波が義隆を見つめる。
 その視線が攻めているようで、義隆は顔を背けた。
「気がつかなかった」
「これ」
 封筒を渡す。
「今回の評価機の資料です。滝本がそちらに提出した資料や見積もり。もう受注はどうでもいいですが、一度確認して下さい。滝本のためにも。あいつはがんばっていたんですから」
 義隆は黙って受け取った。
「お互い忙しいかも知れない。だけど、好き逢っているなら、連絡が取れない、あるいは断られることって何か意味があるんです。忙しいってのもあるだろうけど、何かを気にして逢えないとか……」
「何が言いたいんだ?」
「滝本が、篠山さんの誘いを断ってた理由ってのを考えて欲しい、とね。まあ、一度逢って、ちゃんと話をしたら分かると思います。いや……話をしなくても、分かるかな?」
 意味ありげな笑みに、義隆はむっとする。
「何だよ」
「ま、鈍感な君でもさすがにその時は分かると思いますが」
「ああ、もう。あんた、一体どういうつもりなんだ?本当に」
「私は滝本を守りたいだけですよ。私だけじゃない、川崎理化学営業三課はね、みんな滝本のことが気に入っているんです。アイドルだっていう人もいるくらいにね。そんな滝本をかっさらおうとする君に嫌みの一つでも言ってやりたいのと、滝本を傷つける奴は許さないって言いたかったんですよ。できれば、反対したいんだが、滝本はどうも君に惚れているようですし、そんなことをしたら、こっちが嫌われるだけだから、それは避けたいしね……」
ちょっと待て。
 こいつらうちの滝本と同じ事を言っていないか……。
「まるで保護者だな」
「ん。そうかも知れないねえ。弟みたいにも思っているからね……」
 げー、やっぱり
 なんか恵ってば、やたらめったら保護者がつきまとってないかい。
「ま、とにかくそういう訳で……ああ、そうだ。もう一つ聞きたいことがあったんです。」
「?」
「篠山さんの携帯に電話が繋がらないと、滝本があせっていたよ。あの後、私が出たのがばれてね——というかばらしたんですが、それで滝本が電話しようとしていたら、メッセージが出て繋がらないって」
「あ、ああ、その、勢い余って携帯壊しちまって……」
 そういうと穂波は呆れたような視線を送ってきた。
「結構篠山さんも感情的になりやすいんですね。それなら、他の電話で連絡をとってやればよかったのに」
「そのメモリが死んだみたいで、電話番号が分からなくなって……」
「……バックアップとは言わないまでも、記録していなかったんですか?」
「ばかにするなよな!そりゃ、してたけど、ここ一ヶ月はしていなかったんだよ。油断して。そしたら恵の番号入れる前のしか残っていなかったし……」
 ああ、もう、何でこんなことまでこいつに言わなきゃいけないんだ。
 だけど、何か言わなきゃいけないようになってる自分が情けない。
「ったく。そんなことで滝本は君に嫌われたんじゃないかって悩んでいるし……」
「すぐ電話しますよ。さっきやっと番号がわかる者をみつけたから」
「ああ、駄目ですよ。滝本の携帯はここにあるから」
 そういって取り出す携帯。
「な、んで……」
「これはね会社支給のものなんです。それを明らかに私用に使っていたんだからね、しばらく没収ということ」
「没収って……じゃあ、恵にどうやって連絡とればいいんだ?」
「そうだねえ。これに電話かけて頂ければ、私がでるから伝言いたしますよ。何かあったら言ってくれればいいですから」
「……そんなことできません!」
「なら、連絡をとるのをあきらめますか……ああ、ついでに滝本は私の家に泊まらせているから、家に行ってもいないですよ」
「何で!」
「あなたが押し掛けてきて、恵を押し倒しても困りますから」
「だから、どうしてそこまで穂波さんに指図されなきゃいけないんだ?」
「まあまあ、だから伝言があれば、ちゃんと伝えますから」
「信じられない」
「じゃあ、このまま恵を落ち込ませたまま放っておきますか?それならそれで、こちらもそういう対応をとりますが?」
「対応って?」
「私が彼を慰めてあげようかな、と」
 さらりと言い放たれた言葉に、義隆は目を見張った。
「ぐっ!冗談!」
「冗談じゃないよ。どうも彼が落ち込むと、慰めたくなることないですか?どういう手段でもね」
 落ち込むって……・。
 まだ面と向かって落ち込ませたことはないっ!
「伝言あるっ!」
「ほお」
「今度の土曜日、必ず逢いにいくから、家にいろって伝えろ!」
「土曜日でいいのかい。うちに来てくれればすぐに会えるんだが」
「それこそ冗談だろ。あんたの監視付で逢うなんて冗談じゃない!」
「ふ?ん。でも、一週間我慢できるかな」
「何が」
「私が」
「!」
 こ、この男は?
 どうしろって言うんだっ!
「まあ土曜日と言わず、今日の夜でもきたらどうです?そうして、私の家から滝本を奪い返すくらいの気力は欲しいと思いますね。ほら、これが住所ですから」
「あんた、何企んでいるんだ?」
「何も」
「じゃあ、何で」
「嫌がらせ。私たちから滝本を奪った篠山さんへのね。だから、あなたがどうやって滝本に弁解するのか見てみたい」
「弁解って……」
「あなたが悪いんです。滝本の胸の内が判らないあなたがね」
「恵の?」
「だからさ、今日きて下さい。待っているから。そう、滝本にも伝えておきますから」
「……わかった……」
 諦めて頷く義隆の様子を伺った穂波は、満足げに頷いた。
 そして、話を終わらせるために車を降りる。
「じゃあ、篠山さん。今日はありがとうごさいました」
 穂波みずから義隆側のドアを開けた。
 一礼する穂波に義隆は顔をしかめなる。つられるように義隆の言葉遣いが変化した。
「どうもあなたに良いように踊らされているような気がします」
「どうとってもらっても構いませんよ。要はお気に入りの滝本が傷つかないでいてくれれば、ってう親心みたいなものなんですけどね」
「……恵は保護者がいっぱいいるんですね。うちの滝本といい、あなたといい……それらをクリアしないと辿り着けないっていうことですか」
「滝本……ああ、お兄さんがいましたね。このことはご存じなのですか?」
「ついさっき、ようやく許してくれましたよ。ほとんどあんたと同じ事を言っていましたがね」
「滝本を見ているとそうしたくなるんですよ。そうは思いませんか?」
「……そうかもしれませんね」
 なんとなく判るような気がした。
「それでは失礼いたします」
 穂波は帰っていった。
「今日か……」
 義隆は手元の資料を呆然と見ながら、呟いた。


「何だ、これは……」
 義隆は机いっぱいに書類を並べ、唸っていた。
 あれから事務所に帰る途中、PHSで緑山を呼び出し、評価機に関する資料をすべて持ってこさせ、ずっとその資料を調べていた。
「これは、データが違う。こっちの見積もりは古い……一体あいつは何をやったんだ?」
 それは明らかに、意図的にやったと思われる資料の改竄。
 この資料のもとに決定したのだとしたら、それは明らかに誤りをもたらす。
「滝本くん。ちょっと来てくれるか?」
「はい?」
 滝本が歩いてくる。
「今度うちで買う評価機の件なんだけど、そっちにも話がいっているだろう?」
「ああ、はい」
「で、そっちの担当者は誰だっけ?」
「えーと、鈴木くんかなあ。大学でも使ったことがあるって言ってたもんで」
 鈴木か。
 確かおとなしそうな奴だよな。
「滝本くんは詳しくないのか?」
「判らないことはないですよ。ただ知識が古いかもしれないので、新人に任せたんですが?」
 何か?というように首を傾げる。
「ならさ、この資料を調べて、滝本くんならどれを選ぶか意見を聞かせて貰いたいんだ?」
「え?」
 資料の山と義隆の顔を見比べる。
「すまんけど、今日中。できれば定時までに……」
「えー」
 露骨に嫌そうな顔をする。
「私、今日忙しいんですが」
「たのむって。俺以外の意見を聞きたいんだ」
 義隆は資料を束ねて、滝本に押しつけた。
「はあ」
 ため息とともに、資料を受け取る滝本。
「今度なんかあったら言ってくれれば対処するからさ。今日だけたのむわ」
「はい」
 結局押し切られるように滝本は自席に帰っていった。
 それを見送ると、義隆はため息をついた。
 緑山のやつ……どうしてくれよう。


 定時寸前。
 滝本が資料を返しにやってきた。
「見ましたよ」
 むすっとした顔で資料を突き返す。
「で、滝本ならどれを選ぶ?」
「そうですね。RA島田か川崎理化学のか、甲乙付けがたいですね。ただ、データの再現性みたいなところで、川崎理化学優位って所でしょうか?値段もオプションも申し分ないですし……贔屓じゃないですよ」
「判ってる。滝本くんがそんな贔屓をしないのは知っているから聞いたんだ」
 やつぱり、川崎のを選んだか……。
「一体、どうしたっていうんです?」
「緑山はRA島田を選んだ」
 そういうと滝本は首を傾げた。
「そうみたいですね。でも、RA島田が優位な所はあまりなさそうですが。それにあそこは今ひとつメンテナンスなんかの対応が悪いでしょう?それとも担当者が変わったんですかね」
「いいや」
 義隆はため息をついた。
「もう一回検討し直した方がいいのかな」
「あ、れ。でもその資料の中に計画申請書や実施計画書なんかも入っていましたよ。もう決定じゃなかったんですか?」
「そうだな……でもこのままじゃ、俺は承認できない。滝本くんはどうだ?」
「そうですねえ。私もこの資料のままではRA島田を選んだ理由が判りませんから、承認はできませんよ」
「後で、緑山に聞くけど、緑山が俺を納得させることが出来なかったら。もう一度練り直しになる。その時はまた意見を聞くから、よろしくな」
「はい、それは構いませんが」
 何か言いたそうな視線を向ける滝本だったが、義隆が難しい顔で考え込んでいるのでそのまま自席に戻っていった。
 義隆は、資料を手に取ると、緑山がいるであろう作業場へと向かった。
 幸いにも緑山は一人で実験データを解析していた。
「緑山、話があるんだが、いいか?」
「あ、はい。大丈夫です」
 義隆は近くの椅子を持ってきて、隣に座る。
「今日、川崎理化学の課長が来て、この資料を置いていった。例の評価機に関わる資料一式だ。そして、こちらがお前が持ってきた資料」
 両方を差し出す。
 緑山はそれを見比べ、顔色が変わった。
「何のことか判ったようだな。どういうつもりなんだ?」
 義隆は努めて冷静に問いかけた。
 本当は怒鳴りつけたい気分だった。
「……」
「何の弁解もしないのか?ということはやったことを認めるということだな」
 緑山は下唇をかみしめ、視線は床をさまよっている。
「緑山がなぜこんなことをしたのか、人に言われてやっと判ったよ。俺はどうもそういうところが鈍感ならしい。ただな、それが全くのプライベートで行われたのならどうしようもない。人の気持ちなんて本当にどうしようもないところがあるからな。だけど、お前がしたことは、会社に不利益をもたらすことになることだってあるんだ。俺は、それの方が許せない」
 義隆にとって本当は逆なのだが、それはさすがに言えなかった。だからこそ、遠回しに攻める。
「もう、RA島田に連絡を入れたのか?」
 緑山は首を横に振った。
「では、もしかして連絡したのは川崎だけなのか?」
 こくんと頷く。
 義隆は大きく息を吐いた。
「そうか。では、この件に関しては再検討する。当然、緑山はこの件から外れて貰うが・・…」
「……すみませんでした」
 絞り出すような声に義隆は緑山を見つめた。下を向いているのでその表情は伺えない。
「謝ることになるくらいならやらないで欲しかったよ・・…」
「俺、あの人が親しげに篠山さんと話をするのが許せなかった。篠山さんだって、あの人から電話がかかるとほんとうにうれしそうで……悔しかった」
「……俺は、お前の言うように川崎の滝本と、かなり親しいんだ。だからといって、今回の件、それは理由にして行うことは許されないことだろう?だから、緑山がRA島田のものを選んだ時も、疑いもしなかったよ……川崎の課長に聞くまでな」
「なんで、滝本さんじゃなくて課長さんが?」
「彼がかなりがんばっていたらしくてなその分ショックも大きかったらしくて、課長さんが不審に思って問いただして、緑山の滝本に対する態度とか——あの宴会の時に滝本さんと一緒にいた人なんだけど、あの時の様子とかで……おかしいと思ったらしい」
 嘘と真実を半分ずつ混ぜて説明する。
「そうですか・・…」
 呟く緑山。
 義隆は、ぽつりと漏らした。 
「俺、お前のことそういう対象としてはみれないから……」
「判っているんです。そうなんだってことは……でも、なんか悔しくて……あの滝本って奴と俺とどこが違うんだろうって……でも、それって篠山さんにとっては違うものなんですよね。なんか判ってはいたんだけど……」
  泣きそうな表情で義隆を見上げる。
 それがあまりにもつらそうで、義隆は視線を合わすことができなかった。
「ごめんな」
「謝らないでくださいよ。俺、後悔はしていません。あ、でも滝本さんにしたことは後悔していますけど……」
「そうか」
 なんか自分がつらい。
 緑山の感情が伝わってくるようで……。
 だけど、なぜか緑山にはお気に入りの部下という感情しか起きなかった。きっと恵に逢う前であろうと、そうであるだろうと確信があった。
「あの、今まで通り俺仕事がんばりますから、俺、もうこうなったら割り切るのも早いから……だから、今まで通り、お願いします。」
 真剣な視線に義隆は頷いた。
「今まで通り、がんばろうな」
 ただ、それだけしか言えなかったけど……。


 渡された住所を頼りに辿り着いたマンションの一室の前で、義隆は手を挙げては下ろすのを繰り返していた。
 えーと……逢ったら、何て言えばいいのかな。
 謝るべきなんだろうか。っても、何に謝ればいいんだろ……。
 それにここはあの穂波って奴の部屋だからな。
 うーん。
 腕組みして考え込んでいたら、この階の住人らしき人が歩いてきた。
 不審そうに見られ、慌ててインタホンを押す。
『はい?』
 中から、穂波の声が聞こえた。
「あのお、篠山です」
『ああ、鍵開いているから、入って』
「はい」
 仕方なく、義隆はドアを開けて入った。
 と、目の前に恵が立っていた。
「遅かったですね」
 無表情な恵の言葉に、義隆は視線が合わせられず下を向いた。
 恵が固い口調で話をするときは、ビジネスである場合と怒っている時そしてからかっている時……。
 今はどれなんだろう…・。
「ちょっと、いろいろありまして、全部片づけてたら遅くなりました」
「ふ、ん。まあ、入ってください。……といっても課長の家なんですが……」
「おじゃまします」
 靴を脱ぎ、出されていたスリッパを履く。
 義隆のマンションより広々とした部屋で、穂波はテーブルの上に料理を用意をしていた。
「やあ、やっと来たね。いい加減お腹も空いてきたし、先に食べようかって思ってたんだよ」
「え……」
「篠山さんもお腹空いたでしょう?。一緒に食べませんか?」
 恵が義隆を引っ張って椅子に座らせる。だが、その顔は表情がなくて、義隆を不安にさせた。
「あのう、俺、いや、私は滝本さんと話に来たんだけど……」
 義隆が穂波と恵を交互に見比べる。
「まあ、そう言わず。お腹空いていたら、頭も働かないだろ。この料理は、君に食べさせるため滝本もがんばって作ったんだからね」
「え、恵も?」
 言われて恵を見つめると、恵が真っ赤になっていた。
「食べてください」
 ぶっきらぼうに言う恵に、義隆は頷いた。
「食べますよ」
「よかったな、滝本」
 言われてますます赤くなる恵が、僅かに笑みを見せた。
 うれしそうだった。
 その笑みを見た義隆も、緊張していたのがほぐれる。
 思わずこぼれた笑みに恵が気づき、発する言葉に明るさが加わった。
「あの、うちの課長って、すっごい料理がうまいんです。だから教えて貰ったんで、食べてみて」
 言葉遣いがラフにだんだんラフになっている。
 うれしくなって、義隆は料理を口に入れてみた。
「ああ、おいしいよ」
 本当にそう思った。
「滝本くんは器用だから、がんばればもっと上手になるよ。そうしたら篠山さんもおいしい料理をいつも食べさせて貰えるって訳だ」
 いつも、って……。
 穂波の言葉に、義隆はなぜか赤面してしまった。
 そんな義隆を見て、穂波はくすくすと笑う。恵は、二人を見比べ、首を傾げた。
「何でそんなに赤くなって、それに何で笑っているんです?」
「何だ、滝本は分からないのか?」
 からかうような声音に、恵はむっと眉間にしわを寄せる。
「わからないから聞いているんですけど」
 穂波はそれには答えず、篠山の方を向いた。
「さあ、たくさん食べてください。今日はいろいろあったみたいですし、ね」
 その言葉に促されるように義隆は箸を進めた。
 料理は確かにおいしかった。
 だが、義隆も恵も何か緊張していて、言葉が少なかった。
 もしも穂波がいなかったら、俺達はどういうふうになっていたのだろう。
 ふとそんなことを思う。
 穂波のせいでよけい誤解を生むようなことはあったけれども、それはそれで結局フォローしてもらい、その件はなんとなくだが納得してしまった。
 だけど、今の状況はおかしいこと位はわかる。
 俺達は子供じゃないのだから、保護者はいらない。
 自分達のことは自分たちでけりをつけたい。
 義隆は、恵の表情を伺った。
 恵は一生懸命食べている。
 だが、食べていることに集中しているふりをしているのが、時折こちらに向ける視線でなんとなく判った。
 一体、何が問題なのだろう。
 どうして、俺達の関係に保護者がこんなにもでばってくるのだろう。
 問題は、何だ?
 たよりないのだろうか?
 見ていておかしいのだろうか?
 まだ、つきあい始めて1ヶ月。初っぱなのトラブルを引きずっている内に、別のトラブルをお互い抱えてしまっていたような気がする。
 俺側は、緑山の一件と仕事の忙しさ、そして滝本の存在。
 仕事はともかく……滝本はなんとかなった。もともと表だった邪魔はされていないのだから、問題はごく少なかったはずだ。
 緑山の件は、とりあえずの問題は解決したが……それをまだ恵には伝えていない。
 では、恵の方は……。
 仕事が忙しい……それは緑山のせいでもあるし……。
 穂波の件は、穂波自らのフォローで解決?しているし……。
 まだ他に何かあるのだろうか?
 そういえば、穂波が恵の胸の内?なんてこといっていたが、それは一体何のことだろうか……。
「どうしたのです。箸が止まっていますが?」
 言われて、慌てて次の料理を口に運ぶ。
 穂波はその様子を見ながら笑みを浮かべた。
「その様子では、まだ今の状態の本当の原因が分かっていないようですね」
「本当の原因?」
 義隆が首を傾げる。
 そうかもしれない。
 なんでこういう状態になったのか?
 なぜ、逢えなくなったのか?
 仕事が忙しいって理由にならないと思う。
 逢おうと思えば、それこそ逢えるほどの距離に住んでいるのだから……。
 恵を見ると、なぜか恵は赤くなって俯いていた。
「恵?」
 問いかけると、ふと義隆を見つめ、また俯いた。
 その視線が妙に艶っぽく、義隆の心を打つ。
「その問題はね、いずれ判りますよ」
 意味ありげに頷く穂波が憎らしかった。
「あんたは何でも知っているって感じだよな。高いところから見下ろす感じで、俺達はあんたの掌で踊っているっていうのか?」
「そんなことはありませんよ。ただ、経験者として忠告しているだけです」
「け、経験者!」
 義隆と恵が二人同時に叫んだ。
 経験者って……。ってことは、こいつも男とつき合って……。
「まあ、昔のことですけどね。男と男ってね、実は女相手より難しいものがあるでしょう?お互いのプライドも女相手の時より邪魔することもありますし、ね。うまく相手の心を引き出せないんですよ。甘えられないっていうか。そんなこんなで気がついたらすれ違いが多くなって……やっぱり仕事の責任っていうのも増えますしね。逢えなくなる機会も増えてくると、ねえ」
 さらっと言ってのける穂波に、義隆は息を飲んだ。
 口調はたんたんとしているが、どこか寂しげで……。
「私は、それで失敗したんです。だから、あなた方がどうなるのかが、ね。見ていると、私の時と同じ道を歩みそうで……だからつい構ってしまうのかな。なんせ滝本が傷つくのはみたくないですからね」
「課長は、失敗、したんですか……」
 滝本が不安そうな視線を穂波に向ける。
「くす。気になりますか?」
「少し……」
 そういって俯く恵に、義隆は言った。
「穂波さんがどうであろうと、俺達は関係ない。どんなことがあろうとも恵から離れるつもりはない」
「義隆……」
 恵が視線をこちらに向けた。
 視線が絡む。
「確かにずっと忙しかった。でも、逢えないのはそれが原因じゃないんだろう。恵が何か不安に感じているのなら、俺に問題があるのなら、言ってくれればいいんだ。緑山の件は、俺のせいだけど、これ以上、恵には迷惑をかけない。評価機の発注の件は白紙に戻った。後、1?2週間はかかるかもしれないけど、たぶん今のままだと川崎のになる」
 きっぱりと言い切ると、恵はびっくりしたような表情になった。
「評価機の件、白紙に戻るのか?」
「ああ、最終決定は、俺とうちの滝本が行う。その二人が資料を見て、決めたんだ。贔屓じゃないぞ。公平に判断してな。社内の申請が通ったら、そちらに正式に発注する。それにかかって2週間。うちのリーダーに文句を言わせない資料をつくって速攻で通すからな」
「よ、かった……」
 そういうと恵の目から涙が落ちた。
 義隆はびっくりして恵を見つめる。
 兄の滝本が「恵は泣かない」と言っていたのを思い出す。そうだろうな、と納得していた自分も思い出す。
 だけど今、恵はぽろぽろと涙を流していて……。
 義隆はそんな恵が愛おしくて、無意識のうちに席から離れ、恵を抱きしめていた。
「泣くな……」
 呟く。
「気にしないで・・…なんかすっごくうれしくて、そしたら涙出て来ちゃって……どうしたんだろう、止まらないよお」
 恵は回された義隆の腕を掴む。その強い力が恵の心を表しているようで、義隆はさらに強く抱きしめた。
 そのまま、ずっと恵を抱きしめていたかった。が、
「すまんが、ラブシーンは食事が終わってからにしてくれないか……」 
 呆れたような声が聞こえ、慌てて義隆は腕を放した。
 恵も真っ赤になって、俯いている。
 本当に穂波の存在を忘れていた義隆は、それでも穂波を睨む。
「まあ、いいシーンを見させて貰ったとは思うが……独り身にはつらいよなあ、そんなのは」
「……」
 そういわれると何も言えなかった。
 ちょっとは反省しよう……・と思った矢先。
「ところで、滝本くんどうだった?久しぶりなんだろ、抱きしめられるのは?」
 前言撤回!
「ほ、穂波っ!」
 義隆はテーブルに手を叩き付ける。
 耳まで赤くなり体を小さくする恵。
「そんなに怒ることないだろ?今まで抱きしめられるのが嫌みたいな事言っていたのに、ずいぶんとおとなしく抱きしめられていたからね。どうなのかなあって純粋な好奇心だよ」
「は、あ……・」
 今なんて言った?
 思わず恵に視線を送ると、恵の体が震えている
 その態度が、それが事実であること義隆は悟った。
「どういうことだ?」
 ついつい口調がきつくなる。
 じっと恵を見つめていた。
 穂波が自分の食事を抱えて、別の部屋に移ったのにすら気づかなかった。
 恵は黙っていた。
「恵、答えてくれないのか?本当に俺が恵を抱きしめるのが嫌だったのか?それで、逢わなかったのか?何となく、仕事が忙しいというのは口実のような気はしていたんだが……」
 できるだけ静かに問うたつもりだった。
 それでも、恵は顔を上げようとしない。
 義隆は苛立ちがわき起こるのを感じた。
 このままでは止められなくなる……。
 それは恐れだった。
 今まで、我慢してきたことがあふれ出しそうだった。
 それでも——後一歩のところで踏みとどまる。
 恵は俺が嫌いなのか……。
 そんなことは、ない……と思う。
 でも、やはり男同士だから、抱かれたりするのは嫌なのだろうか……。
 だけど、俺は、いつだって抱き留めたい衝動があるのだから、このままの関係ではやっていられない。
 ……
 そういえば、この状態はあの時と同じだな。
 ふと思った。
 あの時、恵はなんていったんだっけ。
「黙り込んで何も言わないのは会社員としては最低の行為ではないですか……だったかな」
 口をついて出た。
 その言葉に恵が反応した。
 顔を上げ、義隆を見つめる。
 その顔が真っ赤に染まっているのを見て、義隆はたじろいだ。
「恵……」
「俺、義隆に抱きしめられるは嫌いじゃない。嫌じゃないんだ……ただ」
「ただ?」
 何かを言おうとして口ごもる。それが数回続いた。
 義隆は耐えきれなくなって、恵を抱き締める。
「嫌じゃないんだろ……」
「うん」
 おとなしく身を寄せてくる恵に義隆はさらに力を込める。
「では、なぜ、穂波さんがあんな事をいうんだ?」
「それは……」
 それが原因なのだというのなら、俺は知りたい。
 たとえ、恵が言えないことだとしても、知りたい。
「言えないのか?」
「……本当に抱きしめられるのは嫌いじゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
 先ほどからそれの繰り返しだな……。
 何か言いたげで、だけど言えなくて、恵が苦しんでいるのは判る、けど。
 俺はそれを放置しておけないんだ。
 どうしても知りたい。
 義隆は恵の顎を持ち上げた。
 紅潮した頬、潤んだ瞳、言葉を発しようとして発せられない唇が義隆をそそる。
 義隆は、その唇を塞ぐよう口づけた。
「ん……」
 恵の微かな声が口から漏れた。
 その声に煽られるように、義隆は深く口づける。
 耐えられないように吐息が漏れた唇の隙間から舌を差し込む。
 ぴくりと震える恵の体が愛おしく、深く貪るように舌を動かす
 歯茎をなぞり、舌を絡める。
 頭に回していた手が、首筋に降りる。
 と、恵が義隆の体を押しのけようとした。
 だけど、我慢できないほど高ぶっていた義隆は、離すまいとますます力を入れる。
 手が、首筋をなぞると、恵の体がびくんと大きく反応した。
 堅く閉じた瞼が、何かに耐えるように震える。
 それに気づいた義隆が、ふと口を離した途端、恵の体が力を失い崩れ落ちた。
 慌てて腕で支える。
 ぐったりと項垂れた首筋が赤く微かに震えている。
「恵?」
 ぴくりと反応するが、その吐息は苦しそうだった。
「恵?」
 再度呼びかけ、その顔を起こそうとするが、いやいやするように力無く左右に首を振った。
 手を突っ張り、義隆から体を離そうとする。
 今まで、こんな恵を見たことがなかった。
「どうしたんだ?」
 力を込め、椅子から抱き起こす恵の体は力が入らないようで、結局義隆のなすがままだった。
「ごめん、俺」
 掠れた微かな声に義隆はさらに煽られた。
 再度唇を逢わす。
 途端恵の体が大きく震え、声があがった。
「ああっ!」
 その瞬間、恵の腕に力が入り、義隆はびっくりして手を離す。
 そのまま床に崩れ落ち、恵は肩で大きく息をした。
 その頬を流れる涙を見た途端、義隆は恵に何が起こったか知った。
 まさか、イッたのか?
 そんなに、感じて……。
 こんなことでイッてしまう程……。
 ……。
「ご、ごめん……俺って」
 涙を貯めた目が義隆を見上げる。
 それかあまりにも扇情的で、義隆は下半身に鈍い痺れを感じた。
「もしかして、ずっとそうだったのか?だから、俺を避けて」
「俺。自分から頼んで約束してもらったのに、なのに、自分が我慢できなくて、それを悟られるのが嫌だった。だから」
 泣きながら訴える恵を義隆は抱きしめる。
「ごめん。気づかなかったよ」
 髪をなでる。
 これが、穂波の言っていたことか……
 これが、恵の胸の内の苦しみ。
 逢いたいのに、逢うと我慢できないから逢えない……・。
 恵がいつの間にかそれほどまでに俺を欲していたなんて……。
「俺、逢いたかった。緑山のことも言いたかった。でも、そうなると絶対キスくらいしてくるだろう?そうしたらさ、絶対、俺が自分から欲しがりそうで……、こんなに苦しいとは思わなかった。我慢することが。こんな我慢を義隆にさせているのに、俺の方が我慢できないなんて、そんなの俺が約束させのに……そう思ったら、逢えなくなった」
「いいんだ。恵が悪いんじゃない。もともと、俺が原因なんだから。そのことでここまで恵を苦しめた俺が悪いんだから」
 優しく慰める義隆に、恵はその胸に顔を埋めていた。
「恵」
「ありがとう」
 恵がぽつりと呟いた。
「義隆はいつも優しいから、俺、すっごく甘えたくなる。わがままいっぱい言いたくなる」
「いいんだ。恵が甘えたいなら甘えてくれて良いから。な」
 義隆はすごく幸せだった。
 このままずっと抱きしめていたい。
 と、
「ほら、シャワーでも浴びておいで」
 ばさっとバスタオルが恵の頭から被せられた。
 慌てて、恵の体を離し、その男を恨めしげに見上げる。
「荷物の中に着替えくらいあるんだろ」
 穂波が恵に荷物を差し出すと、羞恥に赤くなった恵は慌ててバスルームに走っていった。
「さて、篠山さん、残りを食べたらいかがです。もう冷めているかもしれないけど、滝本がつくったんだからね」
「はあ……」
 いいところで……。
 義隆はため息をついた。
「放っておくと、どこまでも進んでいきそうだったのでね……」
 にこやかな笑顔で言われると、義隆はさすがに何も言えなかった。
 そういえば、ここはこの男の家だった。 
 いたたまれないような気分になり、義隆はとりあえず食べ始めた。
 何となく良いようにあしらわれているような気がしたけれど。
「何もかもご存じだったんですね」
 きっとあの約束のことまで。
「うーん。何もかも、というわけにはいかないけどね。まあ、約束の件は無理矢理にでも聞き出したんだけど、どうしてそんな約束したのかは滝本はついに言ってくれなかったし。だけど、その後の滝本が何を考えているのか位は想像ついたよ。二人を見ているとね、どうもすれ違いをしているのが判ったよ。しかも、なんか決定的なことでそういう状態になったんじゃなくて、さっき言ったよう自分の感情やプライドと相手への思いやりが交錯している状態なのは判った。だから、助けてやろうかなとは思ったよ」
「それであんな嘘を……俺が今日こなかったら、恵は自分で慰めるって」
「うーん。半分嘘、かな。半分は本気」
 義隆はそれを聞いて引きつった。
「本気ですか?」
「恵を慰めるというのは嘘だよ」
「じゃあ本気は?」
「君を慰める」
 そういって義隆の椅子の側にいた穂波がくいっと義隆の顔を上へ向かせた。
 そこへ口づける。
 とっさの事に動けなかった義隆の口を貪る。
 現状を理解した義隆が手を振り上げるのと、穂波が体を離すのが同時だった。
「暴力は反対だな」
「ど、どういうことですか?」
 真っ赤になって怒っている義隆に、穂波は笑みを浮かべた。
「滝本は好みじゃないんだ。部下としては可愛いとは思うけどね。私の好みはどちらかというと君だからね」
「好みって……」
「まあ、今のは骨を折ってあげた礼ということでね、貰っておくよ。まあ、安心してよ。滝本を傷つけることをするつもりはないから」
 それは暗にこれ以上義隆にはちょっかいを出さないということだろうか。
「でも滝本を傷つけるようだったら、私も考えがあるよ」
 睨み付けられる。
 その視線があまりにも冷たくて、ぞくりと、背中に悪寒が走った。
 「滝本を傷つけた分だけ、君を傷つけることは私にはできるからね」
 その視線は本気だった。
「たとえば、今ここでキスしたことは、滝本には言えないだろう。好きな相手にそういう隠し事をすることは、つらいことだよね。そういう隠し事を君にたっぷり味あわせることだってできるんだよ」
 なんか言っていることが支離滅裂のような気がした。
 だけど、もしそんな事態になったら俺はどうすればいいんだろうか?
 もし話したら、恵を傷つける。
 そんなことはしたくなかった。
「お、俺は、恵を傷つけないよ。絶対に。だからあんたの思い通りになんかならない」
「ふーん、それは残念だね」
 にこりと笑う穂波が心底怖いと思った。
 この人は今まで何を経験してきたのだろう。
 いつも笑みを浮かべて人当たりが柔らかいのに、その視線を向けられると動けなくなる。
 いつの間にか思い通りに動かされて、翻弄されている。
「だったら、しっかり食べてくださいね」
 にっこりと言われ、義隆は食べた。
 残りわずかではあったけれど、食べずにはいられなかった。
 何もしないことが怖くて。
「滝本が出てきたら、滝本を連れて帰っていいよ。滝本を引き留めておく必要がなくなったからね。そこにあるのが彼の荷物だから」
「……」
 そうこうしているちに恵がでてきた。
 義隆は無言で立ち上がり、恵の荷物を持つ。
「ああ、滝本、明日は仕事休んで良いから、家でゆっくりしていなさい」
「え?」
「これから、篠山さんに送ってもらってね。もう話はついているから、君ももう大丈夫だろ」
「えっと、いいんですか?」
「休みのことかい?明日になったら私の言ったことの意味がわかるから。だからね」
「はあ」
 要領を得ない恵を促すように義隆は玄関へと向かった。
「あ、あの、ありがとうございました」
「気にしないで良いよ」
 手を振る穂波に恵は頭を下げる。義隆は、無言のまま恵を引っ張っていった。
「どうしたのさ?何怒っているの?」
 車の中で恵が義隆にといかける。
「怒っているわけではないんだ」
 ため息をつき、こわばった顔をほぐすかのように笑ってみる。
「たださ、ちょっとあそこは居心地が悪くて……早く出ていきたかった」
「ごめんね。なんか課長があそこまで強引だとは思わなかった」
「滝本のことを思ってしてくれたんだよ」
 本当のことは言えない。
 だからせめて笑って返す。
「そうかもしれないけど……じつをいうと俺もちょっと怖かった。なんか、掌の上でもてあそばれた感じがしたからかな。何もかも課長の思い通りになったって感じ」
「あの人は、絶対昔何かあったんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
 会話が途切れる。
 穂波のことは、今はもうどうでもいい。
 今、ここに恵がいるのだから。
 義隆は意を決して言った。
「それより、このまま俺のマンションにいっていいか?」
ぴくんと震え、一瞬のためらったがそれでもはっきりと恵は言った。
「……うん」
 そして真っ赤になって俯いた。


「なんか久しぶりだな」
 そういう恵を後ろから抱きしめる。
「よ、義隆!」
「もう待てないんだ……」
 喘ぐように訴える義隆に、恵は抗うのを止めた。
「実は、俺も……」
 後ろを振り返りはにかむように笑う恵の口に軽く口づける。
 恵を促し、ベッドに向かうと恵が一瞬躊躇した。
 それを見た義隆が恵を抱き上げる。
「や、やだ」
「待てないからな」
 その唇を数度ついばむと恵はうっとりとした表情を向けた。
 ベッドに恵を横たえると、その上に覆い被さる。
 両手を恵の肩の上について、顔を見合わせた。
「俺、いつの間にかこうしたいって気持ちが強くなってた。どうしてだろうな。そんなに何回も逢ってたわけでも、ずっとつき合ってた訳でもないのにね。そんな自分にはっきり気がついたのは、3回目のあの時。キスされた時だった……」
「あの時の?」
 そういえばあの時、恵は義隆から離れるとすぐにキッチンに言った。
 ビールを取りに行くとか言って……。
「うん。自分が、信じられなかったよ。だって、義隆が離れるのが、嫌だったんだ。もの凄く感じちゃって……どうしてこのまま先に進まないんだろうって……で気がついた。それを約束させたのは俺自身。こんなこと義隆はよく我慢できるなって」
 その時義隆は、恵が耳まで真っ赤になっているのに気がついた。
 潤んだ瞳が、義隆と視線を合わせないように宙をさまよっている。
「恵」
 呼びかける。
 ぴくりと反応するが、それでも恵は話し続ける。
「でも興奮している自分を、そんな俺を義隆には知られたくないって思って……。俺って、昔から我慢強くない方なんだよね、ほんとは。俺が我が儘いうと、たいてい優司兄さんが買ってくれたり、何かしてくれたり……。だからかなあ、結構思い通りに行かないとすぐ苛つくんだ。だから逢いたいのに逢えない事実に、結構苛ついちゃって、それで、三課のみんなにも義隆にも迷惑かけちゃったかなあ」
 このまま放っておくとずっとしゃべりそうな恵の頬に、義隆はそっと口づけた。
「恵、怖いのか?」
 図星なのだろう。
 恵が目を見開いて義隆を見つめる。
「しゃべり続けないと始まってしまうことが怖いんだろう?」
 優しく耳元で囁くと、恵は観念したように息を吐いた。
「ばれちゃった?」
 泣き笑いのような表情で呟く。
 それが溜まらなく可愛くて、そっと唇に口づけた。
 可愛いついでに、ついからかいたくもなる。
「やっぱり止めるかい?」
 笑みを浮かべて問いかける義隆に、恵はむっとする。
 しばらく躊躇するように視線を泳がした後、何故か恵は口の端に笑みを浮かべた。
「篠山さんは意地悪ですね」
 改まった言葉、射るような力強い瞳に、義隆の下半身が反応した。
「け、恵……」
「私を苛めて反応を楽しむのはいいですけれど、それで篠山さんが途中で止められるとは思いませんけれど」
 ビジネスの殻を被った恵。
 会社でずっと見かけていた恵の一面。
 そうだ、俺が最初に惚れたのは、こんな恵だった。
 プライベートの素直で可愛い恵とビジネスモードの明るく快活で押しが強くて駆け引き上手な恵。
 俺はどちらの恵が好きなのだろう?
 とまどっている義隆に、恵はにっこりと微笑んだ。 
「義隆が意地悪するなら、俺も容赦しないんだからね」
 言われて、義隆も笑みを浮かべる。
「容赦しないって?じゃあ、俺がこのまま恵を放りだしても良いっていうのかい?」
「それも嫌だなあ」
 本気で嫌そうな表情を見せる。
 ああ、そうか。
俺は、元気で快活で口が達者で……そして、素直で可愛い恵が好きなんだ。
 プライベートの恵もビジネスモードの恵も俺はどちらも大切なんだ。
「恵、好きだ」
 そっと呟くと、恵の体の上に覆い被さった。
 目元から首筋にかけてついばむようにキスを続ける。
「お、俺も……ずっと、逢えないことが苦しくて……・。ずっと義隆の側にいたかったんだ」
 微かな喘ぎの合間に声を漏らす。
 義隆はその言葉に煽られるように、首筋を舌でなぞった。
 服の下に手を這わせ、恵の感じるところをゆっくりと探す。
 脇の下から、胸の突起近くまで来ると明らかに恵が反応した。
「……んん……」
 耐えきれなくてこぼれた声に、義隆はその場所を重点的に愛撫する。
「んあぁ……」
 片方の手で、恵のシャツのボタンを外す。舌は首筋から鎖骨のくぼみをなぞっていく。時折、赤い印を残すと、恵の体が微かに震えた。
「よ、したか……何か、俺……」
 恵が顔をしかめているのに気がついた。
「どうした?」
「俺、力入らなくて……義隆ばっかにしてもらって……」
 唇を噛み締める恵に、義隆は笑みを浮かべる。
 ほんと、お前は可愛いな。
「いいんだ、俺がしたいようにしているだけだから……恵が気にする事じゃないよ」
「あ、あん」
 胸の突起をはさむ指に力を込めると、恵の体が仰け反った。
 それに今は優しくできるけど……後で、どこまで俺が我慢できるかは分からないから……今だけは優しくさせて欲しい……。
 義隆はその言葉を飲みこむと、左手を恵のズボンの中に差し入れた。
「あ、やだ……」
 体を上にずらし、逃げようとする恵の体を押さえつける。
 すでに高ぶっていた恵のモノをそっと掴むと、敏感な部分をなで上げる。
「んっ、ああ……くっ……」
 その度に大きく震える恵。
 義隆は恵のズボンと下着を一気に引き下ろした。
「やっ!」
 恥ずかしさのあまり全身がピンクに染まったかのような恵に、義隆は喘ぐように息をもらした。
 羞恥に身もだえる姿が義隆を煽る。
体の下から逃れた恵の足を捕らえて抱え上げ、その付け根の辺りに吸い付いた。
「っ!……・んあぁ!」
 その度に声を上げ、髪を振り乱す恵。義隆は幾度も恵の敏感な部分に吸い付き、印を残していった。
 恵のモノから幾度も透明な液がしたたり落ちる。
 それを指に絡め取り、すっと恵の後ろに回した。
 つんとつつくと震える蕾に塗り込める。
「ひゃぁ!」
 妙な叫び声に義隆はくっと笑いを漏らした。
 だが、恵はそれすらも気づかず、固く目を閉じ、歯を食いしばっている。
「んん……・くうっ……・・・・やあっ」
 後ろに感じた異物感に、恵が身を捩った。それを押さえ込み、さらに指を奥に進める。
「ったあいよお……・・やだぁ……いやあ」
 涙混じりの声が訴える。だが、義隆は止めるつもりは全くなかった。
 奥をまさぐり、どこかにある筈の一点を探し出そうとする。
 熱い体の奥底に沈められた指を動かすと、とたんに恵の体が仰け反った。
「ああ、何!」
 閉じられていた目が開かれた。その焦点の合わない視線が、宙をさまよう。
 義隆は、その一点を攻めた。
「んあっ……ああああ……やあっ……んあああ」
 うつろな目が恵の理性が飛んでいるのを示していた。
 義隆が指を増やすと、さらに嬌声を上げ続ける。
 「恵……俺、もう我慢できないんだ……だから」
  恵の体を引き寄せ、耳元で囁く。
  その言葉に、恵の瞳が焦点を合わせた。ゆっくりと、義隆を見つめる。
「よ、した、か……・来て……・」
 掠れた小さな声が義隆に届いた。
「恵……」
 義隆は恵の中に己自身を侵入させた。
「くうっ!」
 恵の顔が痛みに歪む。
 きついっ!
指で慣らしたとはいえ、初めて男のモノを迎えようとしているそこは、まだきつく、恵は必死で痛みを耐えていた。
義隆は、恵の頬を流れる涙を舌で掬い上げた。
「恵……たのむから、力を抜いて……・息を吐いて……」
 その言葉にふっと力が緩む。
 義隆は、その瞬間を逃さず、自身を突き立てた。
「ああああっ!」
 恵の体が大きく仰け反り、大きく開いた口から、悲鳴が飛び出す。
「ごめん、恵っ!」
 義隆がその体を抱きしめると、ぶるぶると震えていた。
「恵……」
「……だい、じょーぶ……だから。よ・・・・したか・・・・のが俺の中に……」
 苦痛に耐えながらも、気丈に笑みを浮かべる恵に口づける。
「い、いから……したか……きて……」
 その声に促されるように、義隆はゆっくりと腰を動かした。
「んくっ!……・くうっ!」
 だが、恵の口から漏れるのは痛みを耐えているかのようなものばかり。
 やっぱり、無理なのか……・。
 そう思った。
 もう止めよう、と動きを止める寸前、恵が大きく反応した。
「やあっ!」
 その叫びは、今までの声とは違っていた。
 義隆が再度その場所をつく。
「あああ……あん、あっ……はあっ……」
 義隆の動くリズムに合わせて、恵の嬌声があがる。
 それに煽られるように、義隆の動きが早くなった。
「ああっ……し、たか……おれ……もう……あん……ああっ」
「俺も……恵……一緒に……」
 その瞬間、義隆が恵の中に放った。
 同時に、恵も果て、意識を失った。
「恵……俺、絶対にお前を傷つけない……」
 怒濤の一日。
 その疲れが一気に義隆にも押し寄せ、恵の横で深い眠りについた。
 

 目覚まし時計で目を覚ます。
 隣で寝ていた恵も顔を上げた。
「おはよう」
「お、はよう……」
 赤くなり再びベッドに顔を埋める恵の頭をそっとなでる。
「大丈夫か?」
「駄目……」
 恵がつらそうに身を捩る。
「腰……痛い……」
「……ごめん」
 初めてで勝手が分からなかった。
 だから、恵の体を傷つけてしまったのかも知れない。
 義隆は唇を噛み締めた。
「義隆が謝ることないよ。たぶん、こうなるのが普通なんじゃないの。だから、穂波さんは今日休めって言ったんだと思う……」
「こんな所までお見通しなのか、あの人は……」
 義隆は悔しそうに呟く。
「あの人、経験者なんだろ。だからだよ」
 唸りながら呟く恵。
「まあ、穂波さんのお墨付きの休みなんだから、ゆっくりしとけよ。俺はちょっと行かないとまずいからな」
 起きあがり、服を着る。
 食べる時間はないな……。
 朝食用に常備してある菓子パンと牛乳を袋に詰め込んで、ベッドの縁から恵を覗き込んだ。
「行ってくるけど、大丈夫か?」
「うん。でも義隆は大丈夫なの?」
「ああ、ちょっとだるいけど……まあ、大丈夫だから」
「そう」
「鍵おいとくから」
「うん」
 恵は微笑むと布団に顔を埋めた。
 義隆はその頬に口づけをする。
 俺も休みがとれたらな。
 ため息をつくが、こればっかりはしょうがない。
 恵達と約束した評価機の件もある。
 滝本との打ち合わせに英語の資料づくり。ここで休むと休日出勤になってしまう。
「じゃあな」
「いってらっしゃい」
 手を振り、出かける。
 誰かに見送られるのかこんなに気持ちがいいとは思わなかったな。
 義隆は幸せな気持ちで会社に向かった。

【了】