【接待してよ】

【接待してよ】

 かったりーなー……
 篠山義隆(しのやま よしたか)は事務所でパソコンに向かって報告書を作成していた。
 何が嫌いかといって、この手の文書作成程嫌いな物はなかった。とにかく面倒くさいのだ。
 だが、これを作らないと月度報告会の時にこてんぱんにやられる事を知っているので、手を抜くこともできない。仕方なく、ひたすら溜まっていた報告書を作成していた。

 義隆はこの会社 ジャパングローバルという外資系の会社の開発技術部に入社してやっと7年がたった。
 化学系でただいま成長期という会社だ。若手でも結構重要な仕事が回ってくる。もちろん最終判断は上司に仰ぐが、結構自由にやらせて貰える風潮があった。 義隆も最近は大きな仕事も任せて貰い、精力的にがんばっていると思っている。
 義隆は比較的背が高く、細身で、小さめの顔を持っていた。髪は短めにして前髪が軽く額にかかるように下ろしている。特に手入れが必要のないようにしているからだ。顔はまあまあの線だろうと思っている。学生自体にはそこそこにもてたからだ。 だからと言って特につき合いもないまま、学生時代は終わってしまった。何故か、気に入った相手がいなかったからだ。
 でもまあ、一人ぐらいつき合ってたら良かったかなあ……と今更思っても遅い……そんな事を考えながら、退屈な報告書作成に疲れた頭を休めていると、PHSが鳴ったのに気がついた。
 電話に出る。
『川崎理化学の滝本さんです』
 開発部に直接かかってきた外線電話を三宅さんが取り次いでくれた。
 相手を聞いて、ちょっと気分が高揚する。
「はい。ありがとうございます」
 そう言うと、カチというような音がし、電話が切り替わった。
「もしもし、もしもし、お待たせいたしました篠山です」
 そう言うと、電話から聞き慣れた明るい声が聞こえた。
『あ、いつもお世話になっております。川崎理化学の滝本です!』
「こちらこそ」
『それでですね。今日お電話させていただいたのは、先日の見積もりの件なんですけど……』
相変わらず元気だなあ……。
義隆は、自分の顔がにやけるのを必死で我慢していた。
『いかがでしょうか?』
「ええ、そんなものかなとこちらでも思います。早速注文書を発行しますので、できるだけ早くの納品をお願いしたいですね」
『ありがとうございますっ!明後日 水曜日には納品できますので……』
「お願いいたします」
『こちらこそ、ありがとうごさいます。それでは、失礼します』
「失礼します」
 そう言ったものの電話を切るのがためらわれた。できれば、もっとその声を聞いていたかった。
 川崎理化学の営業マン 滝本恵(たきもと けい)は、会社員としては2年目で半年前から義隆の会社の担当になった。
 初めて会った時、にこにこと笑みを浮かべながら挨拶する恵に義隆は心臓の動悸が早くなるのを感じた。やや小柄で大きめの目をしている恵はどちらかというと可愛いという印象だった。しかも女性の可愛いではなく、男性なのに可愛い、と言えた。大学時代に告白された誰よりも、恵は義隆の心を捕らえたのだ。それほど自分の好みにどんぴしゃりだった。
 だが、所詮相手は男。
 これが女なら告白もできるのだが、相手が男となるともうどうしようもない。義隆は半ば諦めていた。それでもこうやって電話でその声を聞くと、うれしくて沈んでいた気分も高揚してくるのだ。納品立ち会いで彼が来ると、何はさておいて入荷場に足を運んだ。クレームが発生すると必ず呼びつけて、面と向かって文句を言った。そんな時、いつも笑顔の恵が口元を引き締め必死で詫びる。その姿もいいと思う自分に、内心苦笑していた。
 また逢えるかな……。
 あさってには納品に来る。その時を狙えば……。
 しかし、俺は一体何をしているんだろうな。こんな生産性のないことをいつまで続けるのか……。
 それでも、恵に逢いたいという想いは薄らぐことはなかった。



『あ、いつもお世話になっています。川崎理化学の滝本です』
 PHSが鳴ったので出てみると、いつも元気な恵だった。
 やっと来たか。
 顔が綻ぶ。
「今日納品の件ですね」
『はい、それと少しお話がありまして、お時間いかがでしょうか?』
 話って、なんだろう?
「構いませんよ。入荷場ですか?すぐ行きますが」
『ありがとうございます。では待ってます』
 義隆は今やっていた仕事を放り出すと、早速入荷場へ向かった。
 階段を駆け下りてドアを開ける。外に通じるシャッターの前で恵は待っていた。
「こんにちはー」
 かなり親しくなった義隆に満面の笑顔を見せる恵を心の底から可愛いと思ってしまう。
 ダークグレーのスーツの上着のボタンは外されており、その手に段ボール箱を抱えていた。その箱を床に置くと上着からネクタイがはらりと前へこぼれる。それを肩に跳ね上げ、次の段ボールを車から降ろした。
「それって、うちのですね」
「はい。篠山さんの物です。ちょっと待ってください、手続きいたしますから」
 そう言って入荷場の社員に書類を渡す。
 検品が済めば入荷棚に置かれ、発注した担当者が持っていくのだ。
 義隆は彼が全ての書類を渡してこちらに戻ってくる姿をじっと見ていた。あんまり見つめすぎたのか、不審そうな視線を向けられ慌てて視線を外す。
「あの、何か?」
「いや、そちらこそ話があると聞いていたのですが?」
 そういうと、恵は思い出したように手を叩いた。
 その仕草一つ一つが結構可愛い。だが、この見てくれだけを見ていると痛い目に遭うことも義隆は知っていた。値引き交渉一つ取ってみても、なかなかしぶとい所がある。芯が強いのか、妙なところでの妥協はしてこない。だからといって、こっちがあえなく手を引くと、あの手この手で購買意欲をそそるように仕掛けてくる。入社2年目にしては、結構な腕前と言えよう。天性の才能のような物を感じていた。
「実はですね、ちょっとお聞きしたいのですが・・・・・」
「何でしょう?」
「篠山さんは、お酒とゴルフどちらがお好みですか?」
 予想だにしていなかった質問に義隆は絶句した。
「あ、えっとですね、今度こちらの会社の方を接待しようと思いまして……それでご希望を聞こうかと……」
 自分の問いがいきなりだったのに気づいたのか、補足説明をする。
「あ、ああ、そうですか……」
 接待か。あーびっくりした。
「そうですね、私はゴルフはしませんのでお酒の方がまだいいです。といってもあまり強くはありませんが……」
「それは良かったです」
 良かったって……何が?
 不審そうに見つめたのが分かったのか、恵は恥ずかしそうに言った。
「実は、私はゴルフが苦手でして……ゴルフだと他の方に接待を担当して貰うんです。でもそれも失礼だなあと思っていましたので、お酒と言ってくださって本当に良かったです」
「へえ、ゴルフ駄目ですか?でもゴルフ接待って多いでしょう?」
「はい、でもゴルフを練習する暇もなくて……だからといってお酒もそれほど強くはないんですが、酔って忘れると言うことはありませんので、いいお話を聞かせてもらえるとうれしいかなって、実は思っています」
 義隆は彼と一緒にお酒が飲める、それだけでもう気分は最高潮になっていた。
「ぜひとも滝本さんの接待を受けてみたいです」
 本心からそう言った。
「それでは、また都合をお聞かせいただくために電話いたします。あっと、他の方にも声をかけていただければよろしいですので、お願いいたします」
 そう言って頭を下げる恵に義隆は困惑した表情を一瞬だけ浮かべた。
 他の奴らは誘いたくない。
 そう思った。



「申し訳ありません。どうしても他の方々と私が都合がつかなくて……」
「いいえ。篠山さんにはいつもお世話になっておりますから、おひとりだけでも全く構いません」
 そう言って向かいの席でビールのグラスを傾ける恵は、少し声のトーンを落とした。
「でも、本当にこんな居酒屋でよかったのですか?もうちょっと予算あるんですけど」
 そこはよくあるチェーン経営の居酒屋だった。義隆がそこがいいと言ってゆずらなかったのだ。
 最初に接待の話をしてから2週間後の金曜日だった。他人を呼ばないための裏工作にそれだけかかった。
「電話でも言いましたけど、どうも高級な店とか、バーみたいなとこは苦手なんです。どうせお酒を飲むならこういうとこがリラックスできますし……でもやっぱ接待だとまずいですかね……」
「いーえ。お客様のご要望ですから、まずいということはありませんよ」
 相変わらず笑顔を崩さない恵に、義隆はうきうき気分一杯であった。だが、やはり恵がビジネスモードでしか話をしないのが何となく悔しい。
 もう少し飲ませれば……変わるかな。
 そんな不埒な考えを抱いている自分に、内心苦笑をした。したが、実行することにした。
 あたりさわりのない話題をしながら、次々とグラスにビールを接ぐ。
「ちょっと待ってください。私の方が接待をしているのに……これでは逆ではありませんか?」
 アルコールに上気した頬、潤んだ瞳が義隆をそそる。
「かまいませんよ。私はあまり飲めませんし。滝本さんも会社の経費で落ちるんでしょう?だったら飲まないと損じゃありませんか?」
「それはまあそうだけど……」
 少しずつ恵の言葉から敬語が消えていく。
 義隆はその言葉すら、うれしくてしようがない。せめて友達にでもなりたい、そう思った。できれば、その先も……なんてのは心の片隅にあったが、やはり相手が男だと言うことで、突き進む勇気はなかった。
義隆はさらにビールを接ぐピッチをあげた。のみならずチューハイなんかも頼んで、恵にも勧める。自分は酔わないように、適当にセーブした。
「ところで、滝本さんて今何歳ですか?」
 とりあえず当たり障りのないところから聞いていこう、と気になっていることを片っ端から聞き始めた。
「私は、24です。大学卒業して、すぐ就職してるから?」
「やっぱ若いですよね。私なんかもう29才ですから、もうすぐ大台に乗っちゃいます」
 苦笑を浮かべながら、義隆がそう言うと、恵はびっくりしたようだった。
「えええ、もっと若いかと思ってた。でも結構いろいろ仕事やってるから、それもおかしくないよねえーーー」
 完全に恵の言葉から敬語が抜けた。24才の若者らしい言葉に変わっているが本人は気づいていないようだ。だいぶ酔っぱらっている。
 ビールとチューハイのちゃんぽんが結構きたようだ。
「滝本さんは、誰か好きな人とかいます?」
どさくさ紛れに聞いてみた。
「えーーー。そんな人いないいない。だって、ほら俺って結構忙しいから、彼女作ってる暇なんかないし。たまに飲みにいくのも接待のことが多いしぃ・・・・・」
 さっきから恵は自分のことを「俺」と言っている。営業マンが接待にきて酔いつぶれている姿を、同じ会社の人間に目撃されたらまずいだろうな。
 帰らないとまずいだろう。
 だが義隆は、まだ恵から離れたくなかった。
 まだ話がしたかった。
 もっと飲みたかった。
 できれば……友達としてつきあえるようなきっかけが欲しかった。
「ねえ、滝本さん。そろそろここ、お開きにして、家来ません?もっと飲みたいですし……」
「えーーーー。それは、その、まずいよーな気がする」
「まずいって何が?」
「えーと、滝本さんはお客さんだから、そのお宅に上がり込んで飲むっていうのは……」
 まだ理性が残っていたか。
 義隆は苦笑した。
「うーん。じゃあ、あなたは私の家にご用聞きに来るっていうのは?実は、そろそろ新しい評価機を入れる計画があるんですよねえ……」
 それを聞いた恵の背筋がしゃんと伸びた。
「その話本当?」
 義隆は苦笑した。
ほんとに根っからの営業マンだな。
「本当ですよ。私の家に来たら詳しいこと話して差し上げます。こんな所でそういう話はできないでしょう?」
 そう言うと恵は周りを見渡し、そして考え込む。
「うん、行くよ。だから教えてね」
 アルコールで潤んだ瞳に見つめられて、義隆はごくりと喉を鳴らした。
 敬語を使わない友人のような言葉も、新鮮で義隆は心躍らせた。
 楽しい夜になりそうだな。



 タクシーを使って自宅のあるマンションについた義隆は、恵を伴ってエレベーターにのった。8階のボタンを押す。
「凄いなー。マンション暮らしなんて……俺なんかちっさいコーポで一人暮らしなのに」
「マンションっていってもここ賃貸可の所ですよ。買ったわけじゃないし。29才の誕生日で会社が寮代わりに借りてくれたコーポを追い出されたんです。それで適当な家賃だったここに住んでるんですよ」
「そーかー」
「まあ、確かに一人暮らしだからマンションじゃなくても良かったんですが、防音性とかね。仕事上夜遅くなることが多いし、コーポって壁薄いところが多いから」
 そんな話をしている内に、8階についた。
「ここですよ。どうぞ」
 鍵を開け、恵を招き入れる。
「へえ、結構広いなあ。家具が少ないからかな……。でもきれいだなー。篠山さんてまめな性格?」
「ゴミの出ない生活をしているだけですよ。何せ、朝早くて夜遅いと大したことできないでしょう」
 そう言って苦笑すると、そりゃそうだ、といいながら何がおかしいのかというくらい恵も笑い転げた。
「だいぶ酔いが回っているようですね」
 キッチンテーブルの椅子に座らせながら恵の顔を覗き込む。
 微妙に視点が合っていない。
「んー。俺、酔ってないよー」
 目の前の顔に口づけしたい衝動に駆られて、慌てて離れて座る。
 顔が熱いのは、アルコールのせいではないようだ。
「その言葉を俺に吐くと言うことは酔ってるんだよ」
 義隆は言葉遣いを改めた。ここは義隆のプライベート空間だからビジネスモードである必要がない。
「あー、篠山さんって普段は俺なんだー」
「滝本さんも、俺って言ってるが」
「えー……・」
 はっと恵が我に返ったようだった。
「はははは。すみません。お客さんに変な言葉遣いで話しちゃってーーー」
 へらへら笑う。そう言いながらも、言葉遣いは直っていない。
「いいよ。ここは俺の家だから、気にすることはない」
 義隆はグラスに水をついで差し出した。
「もうビールはいいだろ」
「うーん。そうだなあ。あっ、それより評価機の話は?」
 酔ってても憶えているのは、根っからの営業マンなのか……。
 しょうがないな、と義隆は今計画中の話をした。
 確かに今見積もりを依頼しているもので恵の会社にも依頼を出す予定の物だからそれは構わない話だった。
「えーーーー。それって結構おっきな話だー。俺、それ欲しいっ」
「欲しいって言っても、値段の勝負だと思うよ。性能の差はどこのメーカーもさほど違っていなかったし」
「俺、がんばるからさー。最初は高めの見積もりだして、値引き交渉になったらどんどん落とすよー。小うるさい部長だろーが、社長だーろーが、決済貰って、安くするからさー」
 アルコールのせいとは言え、うるんだ瞳で訴えかけられると義隆は押さえつけていた感情がむくむくと起きあがってくるのを感じた。
 よく見ると頬は上気してピンク色でなまめかしい。甘えるような口調も妙にそそられた。
「……しかし、こればっかは、相手次第だろ……俺だって、滝本さんの所から買いたいとは思うけど……」
「俺、がんばる。何でも言ってよ、篠山さんがして欲しいことを。俺、ぜってーかなえるから。だって俺、篠山さんのこと結構気にいってんだから。篠山さんからの電話があると俺、結構うれしいーんだから。何か問題があったら言ってきてよー。喜んで対処すっからさー」
 酔ってはいるが、鋭い視線で義隆を見つめる。
 これは……まるで、告白を受けているようだ……。
 し、心臓に悪い。
 恵が義隆を見つめれば見つめるほど、義隆の心は恵への想いで一杯になっていくのだ。
 友達でもいいからつき合いたい、と思っていた。それが……。
 狂おしいくらいに心が燃え上がる。
「俺が、お前にして欲しいこと……」
「そう。いいよー、何でもやったげるからさー」
 にっこり笑みを浮かべる恵に、義隆は思わず言った。いや言ってしまったといった方がいいだろう。
「俺は……お前が、欲しい……」
「はあ……」
 きょとんとしている恵に、義隆は再度強い調子で言った。
「俺は、滝本恵、お前を抱きたい。俺の物にしたい!」
「ええーーーー!」
 あまりのことに恵が座っていた椅子から転がり落ちた。
「駄目か?なら、この話はなかったことにしよう」
 我ながらなんて意地悪なんだ。
 こんなことを言うつもりはなかった。だが、言ってしまった。なら、なら、突っ切るしかないだろ。 
義隆はそう思った。仕事が欲しいのなら、おれに抱かれろってのは、極悪人のする事だ、とも思った。だが、アルコールのせいもあるのか、恵の言葉に煽られたのか、とにかく言ってしまった。もう後戻りはできない。
 いい加減、恵の言動に煽られ続けた義隆の理性は、崩壊寸前だったのだ。
「お、俺……男なんだけど……」
 あまりのことに酔いも醒めてきたのか、おどおどと狼狽える恵。
 その姿すらもそそられるのだから、もうどうしようもない。
「知ってる、でも抱きたいんだ。で返事は?」
「そ、そんなことできるわけないじゃないかっ!」
 狼狽えて口走る言葉は、分かりすぎるくらい分かっていた。
 それもしょうがないか。もう、さっきその言葉を口走った時点で、この先どうなろうが受け入れるつもりだった。断られるのはわかっていた。それでも、言ってしまうほど義隆は恵にまいっていた。
「そうか……いっとくけど、俺はホモじゃない。今まで男を好きになるなんて事はなかった。ただ、お前を人目見たときから、気に入ったんだ。明るくて、いつも元気で仕事が楽しそうで……それに姿形も俺好みだったしね。ま、確かに俺も男でお前も男だから、さ。ほんというと、最初は諦めて、でもせめて友達くらいになれるかなって思った。だから今回の接待も結構うれしかったんだ」
「俺は……俺も確かに篠山さんのこと嫌いじゃないけど……それはやっぱ恋愛対象なんかじゃない、と思う。というより今まで、そんな対象として見てなかったし……」
「今日はほんとは友達付き合いできるきっかけがないかなって思っただけなんだ。俺、おまり飲まないようにしたのに、やっぱ酔ってたのかなあ、玉砕しちゃったよ。すまんな、無茶なこと言って。さっきの仕事の件はまた別だからさ、見積もり依頼がいったらがんばってくれよ、な」
 乾いた嗤いをする義隆に恵は何故か複雑な視線を向けた。
「もし、もし、俺が抱かれてもいいって言ったら、抱くのかよ。男の俺を」
 そっぽを向きながら呟く恵に、義隆は苦笑を浮かべる。
「たぶん……抱いた。今だって、お前の顔を見てると自分が欲情してくるのが分かる……」
「や、やめてくれ……」
 嫌そうに言う恵を見ているのがつらかった。
 このままでは、自分が負けて恵を抱いてしまいそうだった。
「ごめん。ここまで連れてきておいてなんだけど、帰ってくれないか?俺、お前を傷つけたくないから……」
 びくん、と恵の体が揺れた。義隆を見る。その視線が哀れむようで、嫌だった。
「帰ってくれ!」
 半ば叫ぶように言うと、義隆は寝室に通じるドアを開けると飛び込んだ。ドアを音を立てて締めると、ベッドに倒れ込む。
 こんなことを言うつもりじゃなかった……。
 畜生!友達になれたら、それで良かったのに……・結局、俺の本心はあいつをものにすることしか考えていなかったって事だ。
 もう、駄目だろーな。
 仕事としてつき合うにしても、こんなつらいことはない。
 どうして……どうして……あいつが男だったんだろー。
 ああ、もう、強姦したいくらいだ……。
 だから、逃げた。もう一目だっておとなしく見ている自信がなかったから……。
 うじうじと悩んでいたが、その内、アルコールのせいもあって、いつの間にか寝ていた。
 目が覚めたら朝だった。
 恵は、いつの間にかいなくなっていた。
 そうだろう。男に抱かれたくないんだったらさっさと帰った方が身のためだ。
 本当に悪い事したな……
 そんなことばっか考えていたら、一日が長かった。
 なんか、もう何もしたくない……。
 それでもお腹は空くんだよなーーー。



 数日後、義隆は恵の会社に見積もり依頼のFAXを送った。
 いつもなら、ここで速攻に電話をするところだったが、この前の件が尾をひいて、電話することができなかった。
 電話に出て、嫌そうに対応されるのが嫌だった。そんなことはないだろうけど、あいつなら例えどんな相手だろーが嫌な顔一つしないだろーけど。
 それでも、電話ができなかった。
 あーあ。
 失ってみると、恵の存在が心の中で大きなウエイトを占めていたことが分かった。ぽっかりと穴が開いたところはどうやって埋めればいいのだろう。
「……篠山さん……あの、篠山さん!」
 誰かに呼ばれて、慌てて振り向いた。
「あ、はい……何だ滝本くんか」
 そういえば同じ名字だよなあ。
 義隆がぼーっとしていると、滝本は苦笑を浮かべた。
「どうしちゃったんですか?さっきから呼びかけてるのに、全然返事しないし、何かぼーとしてるし……」
「ん、ああ、すまん。ちょっと考えごとしてて……で、何?」
 そう言うと、滝本は「そうかあ」とにこにこ笑いながら呟くと、本題に入った。
 へー、こいつの笑顔、あいつに似てるなあ……。
「ほら、来週アメリカの会長さんが来るじゃないですかあ。で、うちんとこと篠山さん所のフロアが同じだから、説明する所とか担当エリアの分担しようと思って……て、篠山さん、聞いてます?」
 不審そうに問いかけられ、篠山は慌てて返事した。
 まずった。
「すまん」
「体調でも悪いんですか?今週ずっと元気ないようだけど」
 よく見てるなあ……普段ぼーとしているくせに……とは口が裂けても言えないか……。
 黙っている義隆をしばらく見つめていた滝本が意を決したように話始めた。
「何か、さあ、この前の接待でなんかありました?」
 ぎく。
 何でこいつがこんなことを聞くんだー!!
「い、いや……なんでそんなこと聞くんだ?」
「あの……川崎理化学の担当者って私の弟なんですよ」
「え、えええええ」
 あまりに大きな声が口から出た。慌てて口を塞ぐ。
「そ、そんなに、びっくりすることですかあ?」
 滝本の方がよっぽどびっくりしたのか、一歩後ずさっている。
「……知らなかった……」
「あの、私のとこ4人兄弟で男ばっかなんですけど、その一番下。私はその上です」
 あーーー。確かに言われるとどことなく似ているような……。
 確か滝本は27位だったよなあ。
 うーん、弟か……ぜっんぜん気づかなかった。
「それでですね、金曜の夜、っていうかもう土曜に変わってたんですけど、いきなり私のうちに転がり込んできたんです」
 その時滝本がかすかに頬を赤らめた。
 だが義隆はそれを聞いた途端、血の気がひいた。
「凄い慌てて、もう真っ青な顔で、こっちもびっくりして、理由を問いただしたら、なんか接待失敗したって……そのちょうど笹木が家に泊まっていたんで、二人で慰めて、いろいろ理由を聞いたんだけど話してくれなかったんです。しばらくすると落ち着いたようで、車で送って帰しましたけど」
 やっぱりショックだったんだろーな。
 男の俺に告白されるなんて……。
 義隆はどん底まで精神が落ち込むのを感じた。
何も言わない義隆をちらりと見ると、滝本はため息をついた。
「あの、三宅さんに聞いたんですけど、金曜の接待の相手、篠山さんだったんですよね」
 びくん、と体か震える。
「何が原因で、恵があんなにショックを受けているのか教えて欲しいんだけど……」
 静かだが、有無を言わせない強い口調だった。
「何でもないよ。俺がちょっといらん事を言って、それで言葉のやり合いみたいな事になったんだ。どっちも結構酔ってたし……気にしないように言っておいてくれないか。俺が悪かったんだ」
 本当に、俺が悪かったから……あの笑顔が消えるようなことをした、俺が悪いんだから……。
 それを聞いた滝本が息を飲むのが分かった。
 ふっとそちらを見る。
 滝本が真剣な顔をして考え込んでいるのを見て、義隆は狼狽えた。
「どうしたんだ?」
「……私は、弟が好きです。いつも明るくて、元気で人当たりが良くて……私にない面を持っている弟が羨ましかった。その弟があれほど落ち込んでいるのを初めてみた……結構ショックだった。笹木がいうには、その原因と根本まで話をしないと解決しない問題みたいだ……って言ってました。だから、その言葉は、篠山さん本人からあいつに言ってやってください」
 きっぱりと言われて義隆は、唖然とした。
 何で……そんな……
「何で、そんな?笹木さんって営業の笹木さんだろ。何でそこであの人がでてくるんだ?」
「笹木さんは、人の悩みを引き出すのが上手なんです。俺がいると話ができないようだったんで、席を外したんで、はっきりとは分からなかったんだけど、後で、笹木に『当の相手が何か伝言を伝えるように言ってきたら、自分で伝えてきっちり話をしろって言え』って言われたんで……」
 一気に体温が上昇した。
 もしかして、笹木さんは俺が無茶なこと言ってしまったこと知ってしまったんだろーか。
「お願いしますね。私は恵の落ち込んだ姿なんてもう見たくないですから……」
 義隆が黙りこくっているので、滝本はため息をついた。
 滝本が自席に帰ってからも、俺の頭の中は先ほどの滝本の言葉で一杯だった……。

 

次の日、鳴ったPHSを取った義隆は、そこから聞こえた言葉に電話を落としそうになった。
『もしもし、川崎理化学の滝本です』
 だが、なんとなくその声にはりがないように聞こえるのは気のせいか?
『もしもし、もしもし』
「あ、すみません。篠山です。いつもお世話になっております。あのこの前はありがとうございました」
  慣れというのは恐ろしいもので、ビジネス電話の応対がすらすらと口をついて出る。
『こちらこそ。その、ご迷惑をおかけしたように……思いますが……』
 さすがに電話の向こうで言葉がとぎれるのが分かった。義隆は慌てて話題を変えた。
「ところで、先日見積もり依頼をFAXしたんですが、いかがでしょうか?」
『……はい、今日はそのための資料をお持ちしました。お忙しいようでしたら、こちらに預けますので、検討をお願いいたしたいと……』
 義隆はそれを聞いて、息をのんだ。
 いつものなら、こういう時はアポイントメントを取ってきちんと説明の時間を作り、いきなりの時でも、時間をとって欲しい、と暗に頼み込み、必ず口頭で自社製品のアピールをする恵が、資料を預けただけで帰ろうとするのだ。
 義隆は思わず自分から言った。
「あ、あの、今時間がありますので、説明をお聞かせ願えませんか?受付へ回ってくださるといいんですが……」
 電話の向こうで息をのんだような音が聞こえた。
 数秒の沈黙の後、恵が答えた。
『わかりました。そちらに伺います』
「よろしくお願いします」
 そう言って電話を切る。
 また、仕事にかこつけて失敗しないように自分へ言い聞かせながら、会議室予約画面を開く。
 幸いにも応接1が開いている。早速予約をいれ、総務にも電話を入れた。
 しばらくして、PHSがなった。
『今、受付に着いたんですが?』
「あ、はい、すぐいきます」
 俺は、必要なものを抱えると、受付へと向かった。
 受付カウンタの前で所在なげに立っている恵にはいつもの笑顔がなかった。こころなしか憔悴しているようだ。
「こんにちは」
 元気のない声に義隆の胸が痛んだ。
「こんにちは。応接1をとっています。どうぞ」
 促すと、靴を脱ぎスリッパに履き替えてあがってくる。応接1は受付のすぐ側の一番小さく、もっぱら業者や少人数の客対応に使われる部屋だ。
 部屋に入ると、椅子を勧めた。
 そうしないといつまでも立っていそうな気配だった。
「先日は本当に申し訳ありませんでした。できれば、アルコールのせいだということにして、忘れて頂きたいんです……」
 総務が茶を置いて帰ると、義隆は開口一番でそう言った。
 頭を下げながらちらりと恵の顔を伺う。
 だが、恵は口元を引き締め、何も言わなかった。
 やっぱり、もう無理なんだろうな……この前、酔ってても忘れないと言っていた。忘れろという方が無理だろう。
 義隆は本来の話題に移ることにした。
「それで、装置の説明をお願いしたいのですが……」
そう言って、こちらの計画表を出そうとした。と、
 ガタッ!
 恵が机を両手で叩き、立ち上がった。
 義隆を睨み付ける。
「あなたは、酷い人ですね」
 鋭い言葉が胸に刺さる。
 義隆は顔をしかめた。
「仕事の話にかこつけて、俺を口説くのはまだ良かったけど……いや、良くはないんだけど……それ以上に、仕事が欲しかったら抱かれろってのは、例えアルコールが入っていたとしても最低の言葉です!」
 激しい怒りを含んだ視線が義隆を襲う。義隆は何も言えず、下を向いた。
「俺は、仕事がばりばりできる篠山さんを尊敬していました。だから、あんなこと言われて、凄いショックで……やっとここに来る勇気がでてきて、今日来たけど……・アルコールのせいだとして忘れてもらえませんかってのは何ですかっ!」
 これが応接室じゃなく別の二人きりの所だったら、もっと罵倒されてただろう。殴られていたかも知れない。それが出来ないからできるだけ低く押さえたその声色が余計に義隆の胸に刺さる。
「……本当にすみませんでした……」
 義隆には、そういうしかできなかった。
 顔を上げようとしない義隆に、恵はため息をついた。
 そして、口の端をあげからかうように言った。
「今回のこの仕事、お詫びに頂きたいと言ったら、どうされます?」
 義隆はびくんと顔を上げた。
 そんな義隆に視線を寄こし、手元で資料を広げる。
「そうですね、この値段で……」
 その見積もりを見た義隆の顔色が変わった。
 恵が提示した値段は、すでに受け取っているどこの会社のものよりも高かった。ふっかけられていると言っても過言ではない。
「この……値段では、無理です……」
「あなたにそんなことを言う権利はないんですよ」
そう言って嗤う恵は、義隆の知っている恵ではなかった。
 もう、あんな笑顔は俺には見せてくれないだろう。
きっとシビアな営業マンに徹するのだ。
「……」
義隆が黙り込むと、恵は追い打ちをかけるように言った。
「いつもの篠山さんではありませんね。何か反論されたらいかがですか?」
反論など出来るわけがない。
今、恵が行っているのは、俺があの日に恵に強いようとしていたことと同じ事だから。
沈黙の時間が続いた。
その沈黙すら耐えきれなくて、義隆は呟いた。
「検討します」
そう言って見積もりを掴む。
と、それを恵が無理矢理引き取った。その調子にびりびりと破ける。
「え?」
義隆は訳が分からず、恵の顔と破れた見積書を交互に見つめた。
「ああ、破れてしまいましたね。私の方でもう一度見積書を発行しますので、またお送りします」
恵の顔は、無表情で何を考えているのか分からなかった。いや、怒っているように見えた。
「あなたがこれを受け取ろうとしたのは、一応罪悪感があるからと考えていいんでしょうね」
何が言いたいのか分からなくて、義隆は黙って恵を見つめた。
思考と声帯が機能を停止したように動かない。
「提案があります。そうしたら、こちらも無茶な見積もりは出しませんし、無茶な要求は出しません。よろしいでしょうか?」
そう言って意味ありげな笑みを浮かべる恵に、義隆は頷いた。
さっきから、完全に恵のペースだった。惚れた弱みというのか、元をただせばこちらのせいだというのが分かっているので、強いこともできない。まだ若い営業マンにいたぶられているベテラン担当者という図に、義隆はかなり落ち込んでいた。まして、相手は恵なのだから。
「提案というのはですね」
 そう言うと恵はこちらから視線を外した。「今度の土曜日、私は休みなんですが、篠山さんの方で接待していただけませんか?」
 にっこりと笑う。「ちなみに、あなたにこの申し出を拒否する権利を与えるつもりはありません」
 義隆は目を見開いたが、その真意を謀りかねていた。黙っていると、恵は言葉を続けた。
「接待といっても、今は飲みたい気分ではありませんので、私の行きたい所に連れて行ってくださればいいですよ。ドライブだと思ってくだされば。そうですね、朝10時に私の自宅に車で迎えに来てください。これが自宅の住所です。携帯の番号も書いておきます。よろしいですね」
 有無を言わせぬ強い意志が伝わり、義隆は思わず頷いた。
「それでは失礼いたします。あ、こちらが今回の装置の資料ですので、検討の方、よろしくお願いいたします」
 恵は封筒を義隆に渡すとさっさと部屋を出ていった。
 押しつけられた封筒を手に義隆はそこから動くことができなかった。



 土曜日の朝、ブルーのチェックのカジュアルシャツにブルージーンズの出で立ちで義隆は、指示された恵のコーポの前で車を降りた。
住所の場所は、義隆のマンションから車で15分程度だった。住所としては意外に近いのだが、そこまでの道のりがややこしく時間がかかった。
ドアをばたんと閉めると、恵がコーポのドアから出てきた。鍵をしめて、階段を下りてくる。
恵は、Tシャツの上にえんじ色のシャツを羽織り、ライトブルーのジーンズをはいていた。
 スーツ姿以外の格好を見たのは、初めてだった。年齢より若く見える。
「すみません。遅れました」
「もう、来ないのかと思った」
 詫びを言う義隆に、怒ったように恵は返答した。
「すみません」
 もう一度言うと、助手席のドアを開けた。「どうぞ」
 恵は軽く頷くと、助手席に座って、ドアを締める。義隆も運転席に座った。
「それで、どこに行かれたいのですか?」
 固い口調の義隆に、恵は視線を寄こした。
「もう少し、リラックスできないの?顔が強ばってるよ」
 さっきから、恵の言葉遣いはプライベートモードだった。酔っていないそんな恵を見るのは初めてだったが、義隆はそれを聞くとあの時の事を思い出してつらいのだ。
「どこに行きたいんですか?」
 そんな義隆に恵はため息をつくと、行き先を伝えた。
「……とりあえず、玉野の方行ってくんない?」
「はい」
 義隆は車を出した。
 旧2号を通り、バイパスへ抜ける。
 その間、ずっと義隆も恵も無言だった。ただ、ラジオの音だけが車内を流れる。
 長い信号待ちにひっかかった。
「あの、さあ……」
 先に耐えられなくなったのは恵の方だった。
「今日、接待って言ったけど……ちゃんと行き先言ってなかったから、スーツでこられたらどうしようかと思ってた。良かった、ラフな格好できてくれて。その格好も結構似合うよ。スーツ姿も似合ってたけど……」
 恵が気を遣っているのは分かったので、義隆もふっと肩の力を抜いた。
 いつまでもこんな言葉遣いでは、いい加減怒りそうだな。
 そう思った。
「ドライブだと聞いていたから、スーツというのもおかしいかなと思ったんだ」
 やっと言葉を崩した義隆に恵はうれしそうに笑った。いつも見せていたあの笑顔をやや子供っぽくしたような笑顔だった。
「それで、どこに行くんだ?」
「ん。おもちゃ王国」
「へ?」
 あまりの行き先に、義隆はひきつった顔で恵に視線を向ける。
「行ったことなかったんだ。大人の行くところじゃないっては思ってたから、一人でいくのも変だろ。かといって誘える人もいなかったから……さ」
「まあ、そうだろうな……」
 義隆はため息をついた。
「やっぱ、嫌?嫌だったら行き先を変更するけど……」
 恵がこちらを向けている視線を感じた。
「いや、今日は俺が接待する方だから、お客様のご要望にはお応えしないとな」
 そういって笑みを浮かべると、ほっとしたような表情が視界に入った。
 信号が変わって車を走らせる。
「今日の接待はどういうつもりだったんだ?」
「ん?」
「あの見積もりだって、次の日に送ってきたのは普通の値段だったろ」
「だって、俺、あの時本当にどうしようかと思ったんだからね。篠山さんがそんなこと言うなんて思っても見なかったから……だから、ちょっとしたお返しだよ。でもあの見積もりを検討するって言った時には、反省しているって分かったしね。でもあのまま許すってのも癪だったし……少なくとも友達付き合いってのもしてみたかったから、今日誘ってみたんだ」
 前を向いて話す恵がどんな顔をしているのか、運転中の義隆には分からない。
 少なくとも、恵が許していてくれそうなのでほっとした。
「ありがとう……」
 義隆がそう言うと、恵がこちらをちらっと見て、くすりと笑った。
「お礼を言われるのはまだ早いと思いますよ。今日の接待が失敗するようでしたら、また苛めさせて貰いますからね」
 意地悪そうに言葉遣いを改めて宣言する恵に、義隆は絶句した。
 そんな義隆の態度に、恵は声を上げて笑った。
 義隆はため息をついて、言った。
「そういえば、うちの滝本くんの弟だってな。知らなかったよ」
「へえ?結構みなさん知ってるよ。知らない人がいるとは思わなかった」
「俺は、そういう所は鈍感なんだ。噂にも疎いし」
「はははは。篠山さんてそんな風にみえないけどなあ、ばりばりと仕事こなしいるのを見てると」
 声をあげて笑う恵に、義隆は頬を赤らめた。
「俺はそれほど仕事が出来る方じゃないよ。だいたい、そんなにいつも俺の事見てる訳ないじゃないか。納品や打ち合わせの時だけだろ」
「まっ、そりゃそうだけど。でもさあ、怒るときには怒ってくるし、見積もりにも渋いし、打ち合わせだって真剣そのものじゃん。格好いいなあって思ってた。篠山さんみたいに俺も仕事こなしたいなって、実は思ってたんだけどなあ……」
 何か、こう照れるようなことをさっきから言ってくる恵に、義隆は動悸が早くなるのを感じた。
「まあ、そんな憧れの対象があんな事言ったから、余計ショックだったんだよなあ」
「……」
おもちゃ王国の駐車場に着く頃、褒められたり、けなされたりした義隆の心は疲れ果てていた。
 
「へえ、ここまで作っちゃうとおもちゃでも凄いよねえ」
 さっきからいろんなジオラマの前で子供のように感嘆の声を上げている恵に、義隆は苦笑を隠せなかった。次々といろんな展示品を見て回り、時には子供達に混じって実際に作ったり、遊んだりしている。普段の姿からは想像できない一面があった。
 そんな義隆の様子を見た恵は、にこにこと笑いながら言った。
「篠山さんて、子供の相手に疲れて呆然と見ているその辺のお父さん達と同じ顔しているよー」
「……滝本さんが子供みたいにはしゃいでいるからだろ」
 眉を寄せて睨み付ける義隆に、恵は一転して不満そうな表情に変えた。
「その滝本さんっての止めてよ。何か仕事みたいだ。滝本って呼び捨てにしてよ、友達なんだろ……何なら恵だけでもいいよ」
 それは……まずい。
 ずっとそう呼びたかった。でも、そうすると歯止めを一つ失ってしまいそうだ。
「駄目だ。その、普段ずっとそう呼んでいたから、急に呼び方を変えろって言われても……」
「ふーん。兄貴は滝本くんで、俺が滝本さんじゃ、よっぽど変じゃないか?」
 よく憶えてるな……と思いつつも
「滝本くんは後輩だけど、滝本さんは外部の方だから……」
「ん、もう。その普段遣いの言葉遣ってて、呼び方だけビジネスモードじゃ変だろ……わかった」
 何がわかったのか、恵は義隆を睨み付ける。
「俺は接待される側なんだから、俺の命令は聞かなきゃいけないよな。だから、俺は「恵」と呼べ!」
 そ、そんな無茶苦茶な……。
 義隆は頭の中で一人ごちていた。が、恵の方も本気のようである。
「無茶苦茶な要求に従うほどの接待ではない……」
 最後の抵抗をする義隆に、恵は意地悪げに笑みを浮かべ宣告した。
「じゃあ、この接待は失敗でいいの?」
 結局義隆は恵の提案を受け入れた。受け入れずに入られなかった。
「えっと……け、恵。次はどこに?」
 呼びづらかった。それに気づいているのかいないのか、上機嫌な恵に義隆はため息しかつけなかった。
「んと、次、あの建物入ってみよう!」

 結局、昼は中でカレーライスを食べ、夕方まで恵に引っ張られるように中を走り回された。
 義隆は棒のようになった足を投げ出すようにベンチに座り込んでいた。
 園内はさして広くないのだ。だが、恵は気に入った建物に何でも足を運び、イベントには必ず見に行き、中を何回往復したか分からない。
 今も、何度目かのジオラマ見物に建物の中に入っていた。
 目を閉じ、膝に肘をつき手の上に額を乗せて、今日何度目かのため息をついた。
 疲れた……。
 足も体も疲れているのだが、それ以上に精神力を使い果たしているようだ。
 恵と呼ばせ、何かにつけ甘えてくる。
 我が儘にふるまい、時に優しさを見せる恵に、義隆は振り回されっぱなしだった。その度に沸き起こる苦い思いに翻弄される。
 疲れないわけがなかった。
「篠山さん、疲れた?」
 ふっと耳元で声がし、慌てて顔を上げると至近距離に恵の顔があった。
 あまりに間近にあったため、その息が義隆の頬にかかり、それを感じて頬が紅潮する。心臓が音を立てる。
「あ、いや、何でもない」
 うつろな笑いに気づいているのか、恵は困ったような表情を浮かべた。
「うそばっか。普段事務仕事ばっかだから、足腰なまってんだろ、おじさん」
 あくまで憎まれ口を叩く。
「おじさんはないだろー」
 返す言葉に元気が入らない。それに気づいた恵は、苦笑を浮かた。
「じゃあさ、もう最後だから、それ終わったら帰ろ」
「ああ……」
 ふっと力が抜けた。やっと帰れる。心底思った。
「じゃあ、付いてきて」
 有無を言わせずひっぱっていく恵にひきずられて向かう先にあるものを見て、義隆は慌てて手をふりほどこうとする。
「なんなのさ。最後だし、券もあるんだ。一緒に乗ろう」
 観覧車を指さす恵に、義隆は懇願した。
「あれだけは乗りたくないんだ。たのむ、乗りたいなら一人で乗ってくれ」
 観覧車なんかで二人っきりの場になったら、俺は何をするか分からない。
 今こうやって手を掴まれているだけなのに、心は実は喜んでいるのを感じている。
 だから……この関係を、また壊さないためにも……乗りたくないんだ……
「何でだよ」
「そ、それは、高所恐怖症なんだ。高いところは苦手で……な、頼む!」
 我ながら恥ずかしい理由だとは思ったが、背に腹は代えられなかった。
 ふっと掴んでいた手がゆるむのを感じて、慌てて手を引き剥がした。
 恵は、じっと義隆を睨み付けていたが、しばらくしてから不服そうに言った。
「分かったよ」
 あまりに不機嫌そうなその声色に義隆は困ってしまった。
「本当にすまない……その、乗りたかったんだろーけど……やっぱ、駄目だから……」
「分かったって言ってるだろ。じゃあ帰ろうよ」
 そう言うと、恵はどんどんと先に歩いていく。
 義隆は慌ててその後ろを追っかけていった。


帰りの車の中で、恵はほとんどしゃべらなかった。
あれだけ機嫌良く遊んでいたのに、観覧車の一件で機嫌を完全に損ねてしまったようだ。
「なあ、食事するか?」
 尋ねてもちらりとこちらに視線を寄こすだけで、結局返事はない。
 しかたなく義隆は、途中にあったファミレスに車をいれた。
 席に着いて食事が運ばれてきて、少し恵の機嫌が直ってきたのか、笑みが浮かんできた。
 義隆は内心ほっとしながら、箸を運ぶ。
 すこしずつ当たり障りのない話をし、車に戻ってエンジンをかけようとした時、恵が義隆を見つめて言った。
「今日はありがと。結構楽しかったよ」
 その視線があまりにもまっすぐであったため、義隆はすぐに返事を返せなかった。
「……良かった」
 それだけ言うとエンジンをかけて、車を出す。
後、もう少しで恵のコーポに付くだろう。そしたらこの接待も終わる。
そしたら、恵はまた元のようにいつも明るくて元気な笑顔を返してくれるのだろうか?
「今日の接待の結果は……どうでした?」
 前を見ながら、問いかける。
 言葉が自然にビジネスモードになった。
 その返事を聞くのが怖かった。でも避けて通れないなら早く聞いた方がいい。
 だから問うた。
「ふーん。気になる?」
 かすかに揶揄するような響きが車内に広がる。
「気にならない筈がないと思いますが?」
「何で?」
「何でって?」
 聞き返されて狼狽える。
「無茶苦茶な見積もりふっかけられたら嫌だから、無茶な要求を飲まされそうで怖いから……それとも……他に何かある?教えてよ?」
 分かってて言ってるような、そんな気配に義隆は言葉が出なかった。
「本当はさ、観覧車に乗ったら教えてあげようとしたんだけど、でも誰かさんは露骨に嫌がってたもんねえ」
 義隆の顔が歪んだ。眉間にしわが寄る。下唇をぎりっと噛んだ。
 あんな所に恵と二人きりになるのは避けたかった。理性が保てそうにないような気がした。
 ついこの前、あんな事があったのに、結局また、求めてしまいそうだったから……義隆は自分の節操なさに呆れて、自分自身をののしっていた。
「ったく、観覧車に乗らない理由の、あの高所恐怖症って嘘だろ」
 顔がひきつった。
 げっ!ばれてる。
「あのさあ、マンションの8階に住んでいる奴のどこが高所恐怖症なんだよ。ふざけんなっての」
「ああ……そうか……」
 うつろに言ってしまってから、自分がばらしてしまったことに気づく、羞恥で顔が真っ赤になった。
「で、乗らなかった理由って何?それを聞かないと今日の結果教えてやんない。俺、嘘つかれたのに結構腹立ったんだからな!」
 それで、ずっと黙りこくっていたのか……。
 義隆は、何も言えずに黙り込んだ。
 乗れなかった理由など言えるわけがなかった。
「ああああ、今度はだんまり決め込むってのか!あんたさあ、俺よか経歴長いサラリーマンだろうがっ!困ったら黙りこむっての最悪の対応だって知ってるだろーがっ!」
「そんなこと言われなくても分かってますっ!」
 怒鳴られて腹が立って、思わず怒鳴り返す。
「じゃあ、言えよ!そんな言葉遣いで自分を隠そうとしても駄目だよ」
 きっぱりと言い換えされた。
「私は……」
 どうあがいても分が悪いのはこっちだった。
 隠す……そう。俺は、隠している。こうしていれば、またあんな醜態をさらさなくて済む。
 楽しい時間は終わった……今は、接待しているのだから……。
 恵の視線が痛いほど突き刺さる。
 運転しなければいけないのが幸いだった。そうすれば、あの視線をまともに受けなくて済む。
「……」
「あー、もう。黙りか……分かった、じゃあ、俺をお前の家に連れて行け。後少しだからな!運転してたら、何も聞き出せないから。分かったかっ!」
 な、何を!
「何を言うんですっ!」
 たまたま信号に引っかかったので、義隆は恵の方をむいて怒鳴る。顔が引きつっているのを自覚していた。
「しっかりその理由を聞かせて貰うまで俺、帰らないからね」
「だって、あの家は……あの時のこと、忘れたというのですかっ!」
 こんな関係になってしまった原因は俺の家で発生したのに、あそこに行くというのかお前はーー!
「忘れてない。だけど、理由は聞きたい」
 その顔があまりに真剣だったので義隆は何も言えなくなった。
 信号が変わり、車を出す。
 義隆のマンションはもう見えていた。

 結局押し切られるように一緒に部屋へ帰った義隆は、どさりとキッチンテーブルの椅子に座り込んだ。
 恵は、冷蔵庫から勝手にビールを取り出し、ごくごくと飲んでいる。
 勢いよく流し込んだせいで溢れたビールが喉元を伝う。それが妙になまめかしくて、余計に義隆を不安定にさせた。
「さて、理由を聞かせて貰いましょうか?嘘をついた理由をね。それと、その言葉遣い止めてくれない?とりあえず、接待の時間は終わりなんだからさ」
 義隆が座っている横に立って顔を覗き込む。
「ほら、言いなよ。篠山さん」
 有無を言わせぬ口調。
 おもちゃ王国での子供のような雰囲気はなかった。
 きっと、ちゃんとした理由を言わないと、恵は黙っていないだろう。
 この接待は失敗だとするのかも知れない。そうなれば、俺達はもうこんな日を過ごすことはないだろう。前のように会社で言葉をかわすだけの存在でしか、成り得ない……。
 だが理由を言って、やっぱり同じ結末になるのではないか……・。
 彼は、男であり、俺も男なのだから……。
「し、の、や、ま、さんっ!一体いつまでそうやって黙っているつもりっ!俺は、観覧車に乗らなかった理由を聞きたいだけ!なのに、何でそんなに意固地になってんのさっ!」
 恵がテーブルを拳で叩く。
 その視線が痛い。
 言いたくて言えない苦しみが胸を締め付ける。
 義隆は、恵の怒鳴り声を聞くのに耐えられなくて、テーブルの上で握りしめた拳を睨みながら話し始めた。
 もうどうなってもいいから、今の想いを伝えたい。
 例えどんな結末になろうとも……諦められないかも知れないけど……。
「俺は、恵のことが好きだから……この前の接待の時のことは本心だったから……まだ俺は諦められなくて、だから、観覧車みたいに狭い所二人っきりになるのが嫌だったんだ……嫌がられても恵を襲ってしまいそうで……自分が抑えられなくなったら困ると思った……。」
 羞恥心で体温が上昇する。心臓が激しく脈打っていた。
 恵からの反応はなかった。
 義隆は下を向いているので、テーブルについている恵の手だけしか見えなかった。
 その手がテーブルから離されるのだけが見えた。
 きっと嫌われた……。
 そう思った。
ったく俺ってこんなに節操無しだったか?もう少し我慢強いと思っていた。
だが、恵を見ていると、胸が苦しくなる。
この腕に抱きたいと思う。
あの時、口に出してから、本当に自覚してまったから……諦めることなどできなかったから……一度自覚してしまうと、自分の思いがどんどんエスカレートするのが分かったから……。
 唇を噛み締める。
「情けないなあ、俺が知ってる篠山さんとは全然別人みたいだ……」
 ため息とともに漏らされた言葉が至近距離で聞こえたので、義隆は慌てて顔を上げた。
 すると、マジで目の前にあった。慌てて逸らそうとする義隆の顔を、恵は両手で挟んだ。
「でも、いつも引き締まってかっこいいとおもっていた顔がそんな風に苦しみにもだえているってのも、結構そそられるよなあ」
 その言葉にこれ以上はないくらいに顔が熱くなる。
「くくく。今日、何回紅くなったり青くなったりしてるんだろ。見ていて面白いよ」
 からかわれているその言葉に、義隆はかっとなった。
「離せ!」
 押さえられた両手を掴み引き離そうとする。
と、その途端、口を塞がれた。
 それは一瞬だった。
信じられなくて目を見開いている義隆に恵は視線を逸らした。その横顔が紅くなっているのは気のせいではないだろう。
「何で……」
 口元を押さえる。
「さあね。ただ、あんまり情けないんで返ってそそられちゃったのかな……」
 軽口を叩く声が掠れているのが分かる。その言葉が本気でないのがなんとなく分かった。
「……私の事を嘘つき呼ばわりした恵が俺に嘘をつくのか……」
 その言葉に、恵は舌をぺろっと出した。
「へへ、ばれちゃった?」
 恵は振り向いた。ふざけた態度とは裏腹に、その目は優しく、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。さっきまでの高飛車な態度が嘘のようだ。
「恵……」
「俺さあ、実は篠山さんのこと好きみたいなんだな、これが……」
 義隆はそれを聞いて、目をぱちくりと見開いた。
 そんな義隆に恵は笑みを返す。
「ほんとに、あの時、あんな事言われて凄い落ち込んでいたんだけど……その後ずっと篠山さんのことばっかなんだよな、頭の中にあるの。気が付いたら、夢の中まで出てきて……俺、何か篠山さんならいいやって。でも一回拒否したから、どうしたらいいか分からなくて……で、こんな手、考えたんだ。ほんとは観覧車の中で告白しようと思ったんだけど、でも乗らないって拒絶されて、それがもの凄いショックで……こんなことしたから嫌われたんだって思ってた。でも、どうしてもそれを直接聞かないと納得できないから……。ごめんね。無理矢理言わせちゃってさ。どうしても聞きたかったから……そしたら……何かまだ嫌われてないんだって分かって……俺、うれしくて、つい……」
 素直に告白する恵を義隆は椅子から立ち上がり抱きしめた。抱きしめてみると恵の頭が顎の下にあった。
「すまない……結局、何もかも俺が原因だから、俺のせいだから……それなのに恵を苦しめた。恵の方から告白させた。俺のせいだ、恵は何も悪くない」
 呟く義隆に恵の言葉が重なる。
「あの時のあの言葉が篠山さんの告白だと、俺は思ってるよ。篠山さんて、普段の仕事ぶりからして、絶対根は真面目だと思ってたから……なのに、あんな風に男の俺に言わずにはいられないほど……そして、今日観覧車に乗るのを拒否するほど俺との関係を大事にしようとしていてくれる篠山さんがどれだけ俺を好きなのかが分かってしまうから……」
 恵が埋もれていた顔をなんとか上へ向け、まっすぐ義隆に向ける。
「俺も、恵が好きだ。あんな馬鹿な事を口走ってしまうくらいに、恵が好きだ……」
 そして、恵の口を塞ぐ。
 恵が義隆の頭に手を回した。どことなくぎこちないその仕草に、義隆は笑みを浮かべながら、口を離した。
「何が、おかしいの?」
「可愛いなって思ったのさ」
「何だよ、それ……篠山さん、その言葉言わないでよ。俺嫌いなんだ」
「義隆と呼んでくれよ」
 耳元で囁く。頬を赤らめた恵は、口の中で「義隆……」と呟く。
「なんか、素直だなあ……やっぱ、かわいいっ」
 頭をぐりぐりと掻き回す。
「いってぇー。止めろよっ。ガキ扱いは!」
 手をつっぱり、義隆の中から抜け出そうとする。だが、義隆は回した腕に力を込め、暴れる恵をさらに抱きしめた。
「逃がさない。やっとこの手で抱けたのに……どうして離せるっていうんだ……」
 さっきまでとは一転して切なく語りかける義隆に、恵は抗うのを止めた。
「なあ、どうして俺なんだ?その、俺って確かに可愛いって言われたことあるけど……でもそれが理由なら、俺うれしくない……」
 義隆に体を預け、恵は俯く。
「可愛いって言われるのは嫌いか?」
「俺は、義隆……さんが理想なんだ。かっこよくて、仕事もばりばり出来て、男らしくて。可愛いって言うのはさ、女の子みたいってのがあるじゃないか……そんなの嫌だ」
「俺が、理想?」
 義隆は唖然とした。恵がそんな目で見ているとは思わなかった。
「うん。初めてみたときから、かっこよかった。すっごいてきぱきしてて、他の人とは何か違ったな。ああ、背も高くて……俺、低いし。羨ましくて……。あれ、俺が聞いていたのに、何で俺が話してんだよ。なあ、どうして俺なんか好きになったのか教えてよ」
 口をとがらせる恵に、義隆は苦笑を返す。
「うーん。可愛いからって言ったら怒るんだろ」
「やっぱ、そうなんだ!」
 睨み付ける恵の目尻に、義隆は軽く口づけた。暴れようとした恵がおとなしくなる。
「でもさあ、恵の可愛さは女の子の可愛さと違うよ。子供の瞳をもったまま大人になった可愛さだよ。それにいつも元気で明るいし……だけど、営業している恵は、結構格好いいんだ。年上だろうが、お偉いさんだろうが、てきぱきと営業しているのを見てるとね、羨ましかった……」
「俺が……・羨ましいの?」
「そうさ、俺だって苦手な部分があるよ。恵みたいに人に元気を与えられない。楽しく仕事ができない。俺は、恵から電話がかかってくると気分が楽しくなるんだ。逢って話をすると仕事の話でも面白く思えるんだ。うちの奴ら、言ってるよ。川崎の担当者はいつも元気で、面白いから、次も発注したくなるってね。それは、恵が持っている特技だよね。俺は、そんな恵に逢うのが好きになって……そして、気が付いたら、恵自身が好きになっていた。だから、接待の話を聞いたとき、凄いうれしかったよ」
「飛んで火にいる夏の虫……ていう状態だったのかな」
 恵がぼそっと呟くと、義隆も笑って頷いた。
「その時は、まだ告白しようなんて思っていなかった。これを機会に仲良くなれたらって位だったから……だから、あの時は、本当に自分が何を言っているのか自分で自分が分からなくなってしまったし、言ってしまったんだからしようがない。このまま進んじゃえっていう想いもあった」
 義隆は少し腕を緩めた。恵の体と間が開く。
 義隆は、膝を折り恵の視線の高さと自分の視線の高さを合わせた。
「俺がこんなに節操がないとは思わなかった。恵のことを思うと、俺は苦しくて、訳が分からなくなる。今だって俺は、このまま恵を自分のものにしたいと思っている。恵はどうなんだ?」
 じっと見つめられて恵は目を閉じ、俯く。唇を噛み締め、頭を振る。
「恵……」
 とまどったような義隆の声が耳を打つ。
「駄目か……」
 義隆が呟く。恵は、ただ俯いていた。
 義隆の腕が離される。その手を恵が掴んだ。
「ごめん、ごめんなさいっ!でも、俺、義隆さんが好きだ。こんな風な関係になれてうれしい……でも……今は、まだそんな気持ちになれなくて……それにどうしても……」
 掠れた声で恵が訴える。
「いいんだ……」
 優しい義隆の言葉が恵の胸を打つ。だが、それでも、恵の胸の中にあるわだかまりは消えなかった。
「それにね。どうしても・・・・・・何かあの言葉が頭の中に残っているんだ」
「あの言葉?」
「装置の受注のために義隆さんに抱かれろって言葉……」
「あ、あれは!」
 狼狽える義隆。あの言葉が、ここで出てくるとは思わなかった。
「分かってる。分かってるんだけど、でも、俺は・・・・・今抱かれると、仕事のために義隆さんに抱かれてるって感じになりそうで……だから、今は、嫌なんだ……ごめん」
 必死に話しかける恵を、義隆はもう一度抱きしめた。
「いや、俺のせいだから……だから恵のせいじゃない……俺のせいだからな。恵が気に病む必要はない……だけど、この装置の発注が終わったら、もう一度言うよ。その時はいい返事を期待しているよ」
「うん。ごめん。でも……今からだと1ヶ月以上かかるんじゃないかな。発注まで……今までの経緯を見ていると」
 そういう恵に、義隆は苦笑いを浮かべた。
 確かにこの手の装置の発注はこじれると長くなる。
「分かってるって、もう謝るな……でも、キス位はいいだろう……それだけで、俺我慢するから、さ」
 恵は義隆を見つめ、目を閉じた。
 その薄く開いた唇に自らの唇を押し当てる。
 恵の体に回された腕に力を入れると、恵の顔が仰け反り、さらに強く押し当てられた。
「ん」
 恵の声が漏れる。
 義隆は恵の口の中に舌を入れた。怯えて引っ込められる恵の舌を絡め取る。
「んん」
 義隆はこのまま押し倒したい欲望に駆られ、それでも、踏みとどまる。
 この前踏みとどまれなかったから、こんなことになった。
 だから二度と同じ過ちはしない。
 ふっと口が離れる。
「義隆さん……苦しいー」
 あまりに強く抱いていたため、恵が苦しそうに喘いだ。
「す、すまん!」
 慌てて腕を緩める義隆に、恵は微笑みを浮かべて言った。
「俺だけだよな。義隆さんの狼狽えた姿、後悔している姿。欲情している姿……そんな義隆さんを見たことがあるのって俺だけだよな……」
「そ、そうだな」
 恥ずかしさのあまり紅くなって答える義隆。
「今まで、俺が見ていた義隆さんは仕事をしている義隆さんだけだった。それだけで好きだったのに、これからいろんな義隆さんを見られるんだね。楽しみだよ」
「俺のことを全て知ったら、俺のことが嫌いになるかも知れない……」
 恵が好きな俺は、仕事ができる格好よい俺。
 いまみたいに情けない姿見せたら、がっかりしているんじゃないかな……。
「ううん、きっともっともっと好きになるよ」
 恵は義隆の頬に指を触れさせ、言った。
「俺は、義隆さんが前から、好きだった。そして今、前より好きになった自分がいる。そして、これからもっと好きになるから……そうしたら」
「そうしたら?」
「俺は義隆さんを愛したい……」
 恵の告白に、義隆は恵を抱きしめた。
 熱い思い。
 今はまだ成就していないけど、いつかきっと二人求め会うようになるだろう。
 嫌、してみせる。
 俺達の恋はようやくはじまったばからなのだから……。

【了】