【階段の先】-16

【階段の先】-16

16.

 ご主人さまはいつ帰ってくるんだろう?
 蛍光灯以外にもう一つ、ベッド近くの壁に取り付けられた間接照明が、地下室をほの暗く照らしている。
 ご主人さまがいないときは、蛍光灯はいつも自動的に暗くなり、そして勝手に明るくなる。それはきっと夜を表しているのだろうと思うけど、よくは判らない。
 そんな中で、もう定位置のようになってしまったベッドの上で、傷だらけの身体をタオルケットの中で横たえて、眠れないままに丸く膝を抱えた。
 ご主人さまは、最近来られていない。
 撮影があると言われてたから、今頃仕事中なのだろう。
 でももう夜なのだったら、終わって帰ってきているのだろうか。
 けれど、そのことを聞いてからどの程度時間が経っているか、時計も何もないここでは何も判らない。ただ、動かなくてもいろいろな生理的欲求はあって、だからそろそろこのくらいと推測するぐらいしかできない。蛍光灯の明暗も数えているわけでないし、いい加減な俺の身体だから、その時間感覚もきっとすごくいい加減だろう。
 この地下室は、撮影の時には巧みに隠されていたらしいけれど、壁際に大きな冷凍庫と冷蔵庫、食品保管庫なんかがあって、中にはたくさんの食料が保管されていた。それこそ、ちょっとしたシェルターみたいな感じなのだ。
 その横に、電子レンジは置いたのはご主人さまだ。
 食事はご主人さまが持ってくるときはたいてい予告がある。予告がない時は勝手に食べていても文句は言われない。普段はとても厳しいご主人さまだけど、食事に関しては鷹揚で、俺が先に食べていても「遅かったからな、食い意地が張ってるおまえが待てるわけないか」って笑っているだけだ。「腹が減りすぎてバテてたら、遊べねぇし」って言われることもあるけれど、ご主人さまは、俺の体調についてはかなり気を遣ってはくれている。
 でも、俺はできるだけ待つようにしていた。
 だって、ご主人さまが持ってきてくれる食事は美味しいものばかりだし、俺が美味しそうに食べていると、悦んでくれているのが判るのだ。時には楽しげにおしゃべりをしてくれることもあって、そういうのを見たいってのもあって。
 だって、そういう時は、俺が好きだった龍二さまを思い出させてくれるから。
 ああ、やっぱりこの人は龍二さまなんだって、思わせてくれるから。
「龍二さま……まだかな」
 思わず呟いたご主人さまの名に、俺は慌てて口元を押さえた。
 普段はご主人さまとしか呼べなくて、封じていた呼び名だけど、こんなふうに独りでいるときはつい口をついて出てくる。
 前のように気軽に龍二さんなんて呼べないけれど、それでもあの人の名を、ご主人さまとじゃなくて呼びたいと思うときがあって。
 こんなふうに独りでいると無性に呼びたくなるその名で呼んでしまう。
 今日もその龍二さまは戻ってこられない。
 それでも待ちきれなくて、ついさっきも冷凍のお弁当を温めて食べた屑をゴミ箱に放り込んだところだった。もう何食目になるのか、一人っきりに食事の後はもうやることなんてなくて、ごろんと転がったままに小さく呟いた。
 もう、直接には呼べない名は、こんな時にしか口に出せない。
 けれど、そんな分不相応な呼びかけに、怒りや呆れですらも返してくれる人はいなくて、なんだかひどく寂しかった。
 そのままぎゅうっと自分の身体を抱きしめるようにすれば、腕の傷に指先が触れて。
 かさつくそれに爪がひっかかり、小さな痛みが走った。
 それは、数日前のお仕置きのときの傷だと、この身体で一番新しい傷に、そうっと触れ直した。
 血を流すほどの傷だったけれど、表面の傷はすでに薄い膜が張っていて、未だ敏感ながらも順調に治っているようだ。
 そんなに深くなかったから、この傷も他のところと同様にいつかは消えていくだろう。
 それとも、まだ新しい跡のように、白く薄い色で残るだろうか。
 もう何度鞭で打たれたか判らないほどにこの地下室で暮らしていて、痛みはずっと日常となっていた。もともとそんなに痛みに強くなく、最初のころは何度も気を飛ばしていたほどで、叩き起こされることもしばしばだった。
 けれどある日、何かの拍子に鞭で打たれながら射精してしまって。
 あれは一体何だったのか、未だに記憶ははっきりしない。
 ただ、アナルにバイブを入れられたまま、鞭で背中を打たれたその瞬間、身体の中で全てが一つに繋ったような、ぎゅうっと凝縮したそれが一気に爆発したような、そんな初めての感覚の中で、気が付いたらご主人さまはたいそう悦んでいた。
 それこそ、子どもが試合にでも勝ったような、そんな無邪気さすら見える喜びに浸っていて、ものすごく俺を褒めてくれてた。
『すごいぞ、さすがだ、さすが俺が奴隷にしたいって思っただけのものがあった、さすが、俺の正樹だっ』
 そんな言葉を何度も何度も、『俺の正樹だっ』って、何度も、そして、倒れ伏した俺の身体を抱き上げて、その腕の中で抱きしめてくれたのだ。
『もうぜってぇに離さねぇよ、ずっと俺が飼ってやる……』
 弛緩した身体は力が入らなくて、強く抱かれて傷ついた背中も何もかもが痛いのに、ぼんやりとした頭はその言葉に堪らない愉悦を感じていた。
 龍二さまが……、あの龍二さまが。
 こんなにも悦んでくれてる、うれしがってくれてる。
 俺が鞭打たれて射精するような身体だったから、だから、龍二さまは俺で良いって、のもので良いんだって。
 そんな身体だから、こんなにも悦んで、ずっと飼ってくれるって。
 ただ、それだけが頭の中を占めてた。
 本当に、そんなことがあっただけだったのだけど、その日から俺は鞭で打たれても勃起するようになっていたのだ。
 もっとも、それだけではなかなか射精までには至らない。
 ただ、鋭い痛みに身悶えながらも、勃起したペニスは先走りを零す。
 最初はそんなにでもなかったけれど、今ではお漏らししたみたいに濡らすようになっていて。今ではそれが通常になってしまって、気が付いたら、龍二さまが鞭を持っているだけで勃起してしまうようになっていた。
 本当は、射精するほどまでになれば良いのだけど、今のところは龍二さまはそれでも俺を褒めてくれる。
 お仕置きの間射精できないままに勃起している身体を、よく鞭に耐えたとご褒美に犯してもらえるようになったのもそのころからだ。
 血を滲ませた傷に口付けを味わいながら後ろから犯すのが大好きだと、荒々しく突き上げるそれに、俺はいつも呆気なく達ってしまう。そんなに簡単に達くと、精力旺盛な龍二さまの相手を最後までするのはひどく辛くて大変なのに、けれど、この身体はもう龍二さまの身体の一部が触れているだけでひどく喜び、犯されれば浅ましく達くようになっていた。
 それが嫌だと……思うことはない。
 だって、俺はもう、龍二さまのものなのだ。
 龍二さまがご主人さまで、俺は奴隷。
「龍二さま……いつ、帰って、くるかな……」
 だから、今は寂しい。
 誰もいないから、封じられた名を口にしてしまうほどに、龍二さまの熱が欲しい。だって、ここは独りでいるのには寂しすぎて。
「ご主人さま……龍二、さま……」
 腕の傷から腰へ、下腹部に回った指先が、項垂れたペニスに触れる。
 陰茎に飾られた五つのリングは根元に繋り、射精を戒めるものだけど、もう俺のペニスは触れたぐらいでは勃起しない。
 だって、今触れているのは俺の指でしかないから。
 今俺が欲しいのは……。
 なんてことを考えたとたん、触れてないアナルがぞわりとざわめいたような気がした。
 きゅっと力が入った尻タブに、何も含んでいないアナルが引き絞られる。たったそれだけのことに、俺は背筋をゾワゾワと震えさせて、きゅっと爪先を曲げた。
 零れた吐息に熱がこもり、荒く息を吐く。
 同時に、背に残る数多の傷が淡く疼き、そのまま全身へと伝わっていく。
 今の俺にとって、快感と痛みは、どちらも性的衝動と結びつくという点で同じものだった。


 ガチャという待望の音がして、俺は浅い眠りから一気に目覚めた。それこそ、跳ね起きた身体がベッドから転がり落ちそうになったのをかろうじて堪えて、期待の眼差しをドアへと向ける。
「久しぶりだな」
「お、はようございますっ、ご、ひぃっ、──っ」
 かけられた声に嬉々として応えようとして、けれど目に入ったその姿に、言葉は、悲鳴になりかけて、そのまま喉の奥へと消えていく。
 身体にぴったりとあった黒いレザージャケットにレザーのパンツ。威圧感を与えるデザインのそれは、彼を倍増しで強大に見せていた。
 けれど、そこにいたのは龍二さま──ご主人さまではなかった。
 体格はよく似ているけれど、ご主人さまより少しだけ低くて、細身。だけど、その格好と筋肉質の身体は似ていた。でも、もっとも違うのはその顔、まったく知らない顔ではないそれに、俺は思わず後ずさり、震える口を開閉された。けれど声は出ない。
「少し痩せたか、まあ、あれの相手は大変だろうからな」
 口角を上げてニヒルに嗤うその姿は、最初のころの好印象さなど欠片もない。それは、あの撮影の時そのままの酷薄な調教師の姿で。
「ぁ、ぅ……と、冬吾、さん……、なんで、ここに」
 かろうじて言葉を紡いだ俺は、近づくその姿に、知らずタオルケットを握ったままに尻で後ずさった。
「龍二の奴隷の出来具合を観察に」
 近づきながら言い放たれた言葉に、俺はごくりと息を飲む。
 近づくにつれ強くなる恐怖は、あの撮影の時よりも何倍も強い。
「弟弟子の専属奴隷がどうしようもない駄作では、俺の評判も地に落ちるのでね。お披露目の前に確認しようとしたんだが」
 冷たい──それこそ氷点下の視線。
 もう後がない俺は為す術もなくて、伸ばされた腕で引き寄せられる。
 引き起こされ、膝立ちとなった状態で至近距離で嬲るように見つめられた。
 とたんに全身がガクガクと痙攣とも言えるほどに震えて、血の気が音を立てて失せていく。
 込み上げる恐怖は、ご主人さまを怒らせたときなみに激しくて、見つめられてるだけで失禁しそうなほどだった。
 当然、声など出せず、震える唇は荒い吐息すら出ていかない。
「ふ、ん、躾はまだまだだな」
「うっ、くっ」
 不意に腕を放されて、なすがままの身体は音を立ててベッドに崩れ落ちた。
 そのままベッドの上で蹲り、顔一つあげられず、恐怖に耐える。
 何だ、これ……。
 まるで獲物を見つけた肉食獣に睨まれているように、身体の芯から恐怖が湧いて動けない。ひどく逃げたいのに、逃げられない。
 ただ、ガクガクと震え続けていたら。
「あ……姿が見えんと思ったら……。後で案内するって言ったろうに」
 不意に聞こえた慣れ親しんだ声音に、反射的に頭が動いた。
 広がった視界の中、冬吾さんの向こうから現れたご主人さまに、あれだけ動かなかった口が勝手に動く。
「ご主人さまっ」
 一瞬、冬吾さんのことは意識から消えていた。
 嬉々として、ベッドの上で正座をして、三つ指をついて頭を下げる。
「お帰りなさいませ、ご主人さまっ」
 ようやく、ようやく戻ってきてもらえた。
 そんなことを思いつつ、頭を下げ続けていたら、ご主人さまが近づくより先に、別の気配が俺の髪を引き掴んだ。
「いっ!」
 無理に上げさせられた頭から鋭い痛みとブチブチと髪が千切れる音が響く。
「ご主人さまへの挨拶を、床へも下りずに……、ずいぶんと横着もんだね、これは」
 ドスの利いた低い声音に、俺は「ひぃっ」と声にならない悲鳴を上げた。
 怖い、怖い、怖い。
 夜の街中で、やくざに囲まれたらこんな恐怖かというような恐ろしさに、腰から下の筋肉が完全になくなったかのようになってしまっていた。
「離してやってくれよ、そいつの髪は触り心地が良いって言うのに、抜けちまうじゃねえか」
「何、甘いことを」
「この前の仕置きで膝近くに傷が入ってな。しばらくはベッドの上で良いって言ってんだよ。膝をひどくすると、遊びの幅が狭まっちまうからな。俺はこいつを四つん這いにして責め立てるのが気に入ってっからな」
「ご、主人さま……」
 庇われた言葉に、ひくりと喉が震える。そこに優しさがあるように感じて知らず笑みが口元を綻ばせた。
「あ、りがと、う、ございます……」
 崩れた姿勢を腕の力でなんとか整え頭を下げて、感謝の意を伝える。
 そんな正樹に返されたのはただの一瞥だったけれど、それでもそこに侮蔑がないだけでもうれしかった。
 同時に、機嫌を損なえば即座に始まる仕置きも何もないことに、心の中でほっと安堵したのだけど。
「甘すぎるって、そんなんだから、奴隷ごときがつけあがってしまう、まあ、お仕置きされたいこそ、だろうがなあ」
 即座に振ってきた嘲笑に、ぎくりと身が強張った。
 恐る恐る視線を向ければ、冬吾さんの口元が歪んでいて、すうっと背中が冷えていく。
「それに、おまえを見ただけで勃起させるビッチ奴隷とは聞いていたが、俺の前でもはしたないお漏らしをするってのはこれは節操がなさすぎる」
「……ちっ」
 冬吾さんの言葉にご主人さまの視線が動き、即座に響いた舌打ちに、自分の浅ましい姿に遅れて気が付いてしまった。
 なんとなれば二人の視線が向けられた先で、俺のペニスはしっかりと立ち上がり、先走りの液でシーツを濡らしてしまっていたのだから。
 だけど、これは。
「あ、ち……もう、しわけ、ありませんっ、ご主人さまっ、でも、これはっ、違うって、あの、ご主人さまをっ」
 あまりのことに咄嗟に言い訳が口を吐いて出かけた。
 だってこれは、冬吾さんを見たからじゃなくて、ご主人さまを見たから。久しぶりのご主人さまに、身体が勝手に……。
「ほお……、奴隷の分際で口答えとはねぇ、やっぱり龍二の躾は甘すぎるんだよ」
「甘くしたつもりはなかったんだが。でもまあ、最近こいつは姑息にも媚びを売ることを覚えて、罰を逃れようとすることもあるから、そろそろきちんと罰を与えんと、とは思っていたが」
「しかも発情したメスブタみてぇに俺たちの顔色を窺って。こんなんじゃ明日の倶楽部でのお披露目で大恥をかいてしまうだろうが。ちょっと躾け直してやらないとな」
 その言葉に、それでなくてもひどい寒気にも似た悪寒に襲われていた俺は、呆然と二人を見つめてしまった。
 そんな俺を、言葉の酷薄さが別物のように、二人の笑みを孕んだ視線が嬲るように辿る。
 肌を突き刺すように、俺の、確かに淫らな液を零すペニス、前回のときにさんざんいたぶられて腫れがようやく治まった乳首、腕や腹に薄く残る鞭の痕、まるで次はどこを喰らってやろうかと品定めしている捕食者のような視線に、俺は竦み上がり、動けない。
 一体何がどうなっているのか、それこそ、ここに始めて連れてこられたときのように、何が起こっているのか判らない。
 判らないけれど、自分にとって良くないことが起きるということだけは、理解できた。
 だけど、これ以上口答えしたら、きっともっとひどいことになる。
 それは、しっかりと判っていて、何も口にすることはできなくて。
「ま、おまえはそこに座って見学でもしてろ。久しぶりに俺の本気調教を見せてやろう」
「はいはい、よろしく」
 二人の間で交わされた意味不明の言葉に、俺はただ震えることしかできなかった。


 この部屋の天井にはフックが幾つか設置されていて、今俺は、両腕を大きく開いた状態でそのフックから伸びた鎖に繋がれていた。足も開いたままに床に短い鎖で繋がれて、それこそXの字で固定されていた。
「ご、めんなさい、許して……、ごめんさない……」
 恐怖に戦慄く唇が、何度も何度も言葉を紡ぐけれど、冬吾さんはずいぶんと楽しそうに俺を拘束していった。
 時折ちらりと視線を向けられるたびに、ちびりそうなほどな恐怖に襲われる。
 つられる前に排尿を命じられていなければ、マジでちびっていただろうほどだ。
 撮影時の冬吾さんより、今の冬吾さんはさらに怖い。それは楽しげな表情であったり、視線であったり、いろんなものが記憶の時の冬吾さんより、今のほうが怖いと伝えてきていた。
「こんなものいらないよなぁ、良い奴隷ってのは、こんなもので制御しなくても、きちんと自己コントロールできるのが普通だ」
 なんて言いながら、恐怖に縮こまったペニスの枷も外される。
 それに俺も「はい」と掠れた声音でかろうじて返事をして、コクコクと頷いた。
 さすがに、今の冬吾さんが傍にいて、勃起できるほど俺も淫乱でないし、何より、罰で勃起できるのはご主人さまだからのはずだから。
 白く色を失った身体に、たらりと冷たい汗が流れる。
 決して暑くも寒くもない部屋なのに、どうして汗が流れるのか判らない。
 そんな俺の背中に回った冬吾さんが、不意に俺の尻の肉を掴んだ。
「ひっ」
「メス穴の中はキレイか? 主人の許可なく遊んでたんじゃないだろうなあ?」
「あ、ぎっ、いっ……いっ!!」
 入り込む泥濘んだ指が、前触れもなく俺が堪らなく感じてしまう前立腺近くを押し上げた。びくっと震えた身体が突っ張ったように硬直する。
 それはこの地下室でさんざん味わった堪えようもない快感で、俺は手枷の先で指が手のひらに食い込むほどに握りしめ、走り抜けた快感を荒い息を吐いて逃した。
 あの撮影より前は、感じてもここまででなかったと思う。
 だけど、今はほんの一押しされただけでも、ハアハアと荒い息を繰り返すほどに感じて、身体が震えてしまっていた。
「ふーん、ビッチ奴隷らしくずいぶんと敏感だなあ。だったら、良い物をやろう。俺の初調教記念に、せっかくだし」
「え……ああっ」
 ようやく衝動が治まったかと思う身体に、グリグリと大きな異物が埋め込まれていく。
 見えないそこに、一体何が入っているか判らないけれど、それは先ほど指が押し上げた場所に一番太い部分が当たって止まったようだった。
 その圧迫感に、むず痒いような疼きが生まれ、腰が勝手に揺れる。
「い、な、なに……を……」
 これは、やばい……。
 ピンポイントを狙ったその刺激は、指で押されるような強さはない。だけど、感じるか感じないかの表面を軽く嬲られているような感じがする。
 それは、激しくない分、尾を引く甘さを身体に与えてきていた。
「しっかりと銜えていろ。ああ、けど落としても良いけど、そうしたら罰を追加するだけだから」
「んんっ」
 そんなことを言われて落とせるはずもなく、思わず尻に力を入れたら、走る疼きが甘さを増した。その甘酸っぱさに口内にじわりと涎が増えて、飲み干す喉が鳴った。
 これ……やだ……。
 始めて鞭を打たれて射精したとき、確かこんな物を入れられていた。敏感なアナルを刺激するそれに、俺は鞭の痛みと快感を混同してしまって。
 それ以来、鞭を打たれて感じてしまうようになってしまったのだから。
 そんな記憶が、嫌な予感を呼び起こす。
 脳が警告を発しているのだ。
 それは、もうさんざんに味わったこの先の痛みと恐怖の襲撃に。
 そんな恐怖に震えるジンの先、遠いところでご主人さまはどっかりとソファに腰を下ろしていた。そのご主人さまの傍らには、琥珀色の酒が入ったグラスとともに愛用の鞭が置かれていた。そして、楽しげに喉を鳴らす冬吾さんの手にも、それがある。
「おまえは、鞭で打たれて勃起どころか射精までする、変態マゾ奴隷だと聞いているけどね」
 バシン、バシン。
 鞭の柄で手のひらを叩く音が背後でし始めた。
「奴隷は主人の許可なく何もできないってのは知っているよな」
「は、はい……」
 視線が背後を探ろうとする。けれど、首を巡らせても、冬吾さんは視界に入ってこない。だったら、今度は左からと首を動かしても、まだ見えない。
 だけど、音はする。
 甲高い弾けるような音が絶え間なく続く。
 俺の視界から巧みにその姿を消し、見えない恐怖が音によって倍増していく。
「これからおまえを鞭で打つ、なぜか判るか?」
「それは……」
 背後の音が気になってはいたけれど、それでも冬吾さんの言葉は頭が理解した。というより、必死になって理解しようとしていた。
 俺が冬吾さんに罰を受ける理由……、受ける理由……。
「そ、それは……俺が勝手に勃起したからっ、ですっ──っぁぁっ!」
 パアーンと肌を打つ音に混じって、俺の悲鳴が上がった。
 軽い、そんなに強くない一打ではあったけれど、いきなりのことに堪らず上がった声だ。
 いつものように、いつまでも身悶えるほどの痛さはなくて、すぐにヒリヒリとした痛みの余韻のようなものが肌の上に残る。
「それだけじゃねえよ、まだあるだろうが」
「ま、まだ? ひっ、す、すみませんっ」
 先より低くなかった声音に声が上ずる。打たれた場所を軽く手のひらで叩かれて、そんなに痛くないはずなのに、嫌な疼きに身を震わせた。それに追い立てられるように記憶を辿って、言葉を追加する。
「あ、お、俺は、か、勝手に勃起して……、ダラダラ、と、いや、らしー、液を零して、シーツを汚してしまいました、も、うしわけありませんっ」
「ああ、そうだ」
 端的に返された反応に、なんとか合格がもらえたと、ほっと肩の力が抜けたけれど。
「まずはさっさと謝罪しなかったことへの罰だっ!」
 ヒュッと風切り音が鼓膜に届いた、と同時に、激しい衝撃が背中に走る。
「あ、がっ!」
 背中を前へ強く押されて、身体が仰け反る。肺から一気に押し出された空気が、唾とともに噴き出す。
 重い。
 まるで鈍器で殴られたような重い衝撃に、遅れて激痛が背中を遅う。
「あ、あっ……あっ」
「龍二のより効くだろう、俺のは。おまえみたいに、なり損ないのマゾ奴隷でも泣いて悦ぶ代物だよ。俺の可愛い奴隷も、俺が鞭を持つとヒイヒイ泣き喚きながら、尻を振りたくるほどにお気に入りでな、自ら尻を差し出してくるぐらいだ」
 楽しげに嗤う声に、風切り音が重なった。
 鞭は鞭、痛みはそんなに変わらないと思っていた。けれど、こんなところでも二人は違う。
「ぎぃぁぁぁ──っ」
「もっと可愛い声で啼けよ、こら。耳障りな悲鳴など、興醒めにしかならん」
 尻に鋭く走った痛みに仰け反り、反射的に出た悲鳴を揶揄される。
「ま、待ってっ、や、やだぁっ、あぁぁっ、っっっ!!」
 床を叩く音に、微かに肌を嬲る風。
 見えないのに鞭の動きを感じてしまい、咄嗟に身体を捻ったけれど、痛みから逃れるものではなかった。
「あ、あ……」
 吊された両手を基点にぐらりと身体が揺れる。
「おやおや、まだ三発しか打ってねぇのに、もうバテてるって? 一体どれだけ甘やかされてきたんだ、淫乱奴隷の分際で」
 たった数発。
 それが信じられないほどに、俺の身体はダメージを受けていた。
 たぶん、傷というものはまだないだろう。だが、迫り来る鞭の恐怖は、始めてご主人さまのそれを味わったとき以上で、たまらなく怖いのだ。
 今もドッドッと心臓が早鳴りしてて、全身から汗が噴き出している。
 ハアハアと喘ぐ口から、飲み込む暇もなかった涎がダラダラと落ちていた。それに、涙と鼻水まで混じる。
 なんで、こんなに……。
「は、ん……しかも、マゾ奴隷のくせして、鞭で勃起すらしてないとはどういう了見だ、これは」
「ひ、あ……も、申し訳……ありま……んっ」
 言われるがままに下を向けば、久しぶりに枷から解放されているペニスが、だらりと下腹部の下にぶら下がっていた。それどころか今までになく縮こまり、震えている。
「龍二の奴隷なら、鞭で悦ぶのが当然だろう、というか、そういうのだと聞いていたけどなあ。というか、龍二が嘘吐いたってことか?」
「おいおい、俺がなんで嘘を吐かなきゃならねえんだよ。それは正真正銘鞭打ちで勃起して射精までするド淫乱だよ。おまえの鞭が弱すぎるだけじゃねえか」
「ほざけ、なら見てろよ」
「ああ、おい、正樹、おまえは鞭の痛みで勃起するよなあ」
 冬吾さんの言葉に、明らかにご主人さまの機嫌の悪さが露わになった声音に俺は震えた。
 続いた問いかけに、コクコクと激しく頷いたのは、それが事実だからだ。
「だったら、俺のほうが下手だってことかよ」
 けれど、そんな俺の態度に反応したのはご主人さま以上に機嫌を降下させた冬吾さんだった。
 その冷え冷えとした声音に、立っていられないほどに膝が震え出す。
 慌ててご主人さまへと視線をやったけれど、ご主人さまはただじっと俺を見つめているだけだ。
「ったく、俺もついつい甘さが出てしまったのかね、それじゃ、手加減なしで行こうか、なっ」
「──っ!!!」
 言葉が、勢いよく途切れた。と気付くより先に背中に走った激痛に、音も出さずに悲鳴が迸った。腰で折れんばかりに仰け反った身体が、大きなX字型のままに硬直する。
 目玉が飛び出んばかりに見開いた視界に、薄暗い天井が写った。
 そんな俺をジーッと見つめるのは、何カ所かに設置されている監視カメラのレンズ。
 それが俺を追いかけるように回転するのと同時に、身体がぐらりと揺らぎ、先とは反対に前のめりに崩れかける。ガンと肩に重い衝撃が走り、ぐらぐらと何度も身体が揺れた。
 目の前に幾つもの星が飛んでいて、たらりと何かが背中を流れていく感触に身震いする。
 グワングワンと耳奥がうるさい。
「う、ぅ……くっ……」
「勃たねぇじゃないか」
「下手くそ」
「ざけんな」
「白目を剥いてんじゃねえか」
「柔すぎだ」
「気を失わねぇ程度に打ち続けてやるのが、一番のお気に入りなんだよ、これは」
「ちっ、面倒な」
 そんな会話が遠く聞こえていた。
「ま、でも、加減ってのは大事だしなあ、俺のもやりすぎるとザーメンじゃねぇもん噴き出しやがるから、掃除がめんどくなるしな」
「ああ、それは言える。盛り上がってるところで中断は厭だからな」
「俺もだ、っつうか、そういや、こいつのストップワードは?」
 ストップワ……? 何だろう、それ?
 意識が朦朧とする中で、聞き慣れぬ言葉に、ほんの少し意識が動いた。
「は、ん? ねぇよ、そんなもん」
 即座に返された言葉に、冬吾さんのだろう苦笑が漏れ聞こえた。
「ま、そんなことだろうと思ったが」
「冬吾に言われたくないねえ。あれも知らなさそうだったしな」
「おいおい、俺もそこまで非情じゃないって。ちゃんとストップワードぐらい設定している」
「へえ、ちなみに何?」
「……」
 何かを冬吾さんが呟き、それに、ご主人さまが大笑いを返した。
 近くにいたはずなのに聞こえなかったそれに、なんでそんなに楽しそうなのかが判らなかったけれど、少しでもご主人さまのご機嫌が治ってもらえるなら、良かったって思えた。
 ビリビリと脈打ち痛む背が痺れたみたいになっているけれど、それ以上に体重のかかった肩が痛くて、俺は震える膝に力を込めて、なんとか身体を支えた。それでも、フルフルと震える足は、すぐにでもバランスを崩しそうだ。
 それでも、腕にも力を入れて、なんとか全身を支える。
 口から零れると荒い吐息が、ひどく熱い。
 ポタリと床に落ちる汗を追った瞳が、リノリウムに広がる赤い染みを見つけた。
 薄い、けれど、そこにまた別の濃い滴がポタリと落ちていく。
「おや、目が覚めたか? せっかくこの俺が調教してやっているのに、意識を飛ばすとは、なんてバカな奴隷なんだろうなぁ。ほら、しっかりとそのアホ面を上に向けて、ご主人さまに詫びの一つでも入れな」
「あ……」
 前髪を引っ張られ、正面を向けさせられて。
「奴隷の不始末は、主人の技量のまずさでもあるんだ。おまえが粗相をすれば、全部主人へと跳ね返って、嗤われるってことだ」
「……俺の……粗相……が、全部? 痛っ!」
 言葉を吹き込むほどに近い距離での言葉を呆然と繰り返していると、耳たぶに鋭い痛みが走った。
 ぎりっと軟骨に固く鋭いものが食い込んで、たらりとうなじへと液体が流れていく。
 至近距離で香る血の臭いに、ふわりと目の前がくらんだ。
 なんの匂い?
 どこかで嗅いだその匂いは……と考える間もなく、そのシーンが脳裏に鮮明に浮かび上がった。それはご主人さまに褒美をいただいてるときのものだ。
 鞭打たれて傷だらけの身体を、舐められながら犯されているとき。多様な痛みに呻く身体の中をご主人さまの熱く猛々しいものでギチギチに満たされて、与えられる快感に狂わされながら施される口付けで嗅ぐ匂いが、これと同じだった。
 その記憶に、身体が、脳が、即座に反応し、冷たくなっていた奥が小さく疼き出す。 
「無様な姿を見せぬよう、しっかりと踏ん張っておけ」
 鞭の柄が軽く膝裏を叩き、すぐに離れていった逞しい支えを失った身体がそのまま崩れかけたけれど、さっきの言葉の意味を理解し寸前で力が入った。
 俺がきちんとしないと、ご主人さまが嗤われる。
「ふふ、そうだ。おまえ、龍二のことが好きだろう? あんな世界に否応なく飛び込むはめになって、おまえはなんで頑張れた?」
 ここに来てから深く考えることを止めていた脳が出す答えはシンプルだ。だって、そこにあったのは明確な想いを俺は忘れていない。
「あ、こがれ……てた……、龍二さま……ご主人さまが、いたから……」
 AV男優とはいえ、憧れていた人と一緒の職場にいられる、と、思ったから。
「好きなんだろ、あいつが」
「ぁ……、あ、す、き……?」
 不意に脳裏に浮かんだのは、好きな人に好きと言えない思春期ころの記憶。
 ネットの世界を知るまで、ゲイだという自分を封じ込め、性的な意味で人を好きなることを諦めていた。そんな日々の中、ネットで配信されていたAVで彼を見つけたときにその逞しい姿に魅入られた。同年代の子達が女性アイドルに嵌まるように、嵌まっていった。
「す、きです……、ご主人さま、好き」
 憧れだけでは判らなかった姿を目の当たりにしても、それでも嫌いにはなれなかった。
 痛みと恐怖に捕らわれても、それでも放り出されるのが嫌で、離れたくないと強く願っている。
 その昔、願っていたのとは違うけど。
「なら龍二のために、良い奴隷になれ」
「良い奴隷? ご主人さまの、ために?」
 頭の奥で、鈍い痛みが走っている。
 うまく思考がまとまらない中で、冬吾さんの言葉がやけに大きく響く。
 頬に触れた冷たい指が、ジクジクと膿んだように痛む耳たぶに触れて、滑りを帯びたままに首筋から胸へと下りていった。
「ここに、誓いの徴を刻み、全てを主人に捧げろ」
 触れたのは左の胸。
 心臓を突き刺すように指を突き立て、強く押す。爪先が食い込み、跡が赤く腫れた。
 丸く弧を描いたその円の中心にある乳首に触れて、爪弾いて。
「その全身全霊を持って龍二に傅け。自身の言葉を持たず、主人の言葉を自分のものとしろ」
「っ、あっ」
 引き千切れるかのごとく乳首に爪が食い込んで、痛みに悲鳴を上げた。
「おまえの主人は誰だ?」
 響くその声に、呻きながらも顔を上げる。苦痛に浮かぶ涙の向こうで、俺の目はご主人さまを見つけていた。
 ご主人さまも、俺を見ている。
 気怠げにソファにもたれかかり、けれどその眼は鋭く、俺の全てを見逃さぬとばかりに睨んでいる。
 それを認識したとたん、背筋に電流のように快感が走った。
 見られている、見てもらっている。
「ご主人さま……」
「そうだ、おまえの主人は龍二だ。おまえは主人だけを見続けていれば良い」
 主人だけ、ご主人さまだけ。
 それ以外何も気にすることはなく、気に留める必要もない。甘い毒のように、脳の中を灰色に染めていく言葉に、俺は犯されていった。
「ご、主人、さま、だけ……、ご主人さまだけを見続ける……」
「そうだ」
 俺が繰り返した言葉に、冬吾さんは満足げに頷き、痛みを与えていた爪が離れた。
 その寸前、熾火の最後のきらめきのような痛みが鋭く走り、赤く腫れた乳首がぷるりと震える。
「さて、罰の再開だ、龍二の奴隷としての振るまいがその身に染みつくまで、しっかりと味わえよ」
 ふわりと柔らかくなびいた空間を、悲鳴のような音が切り裂いた。