【階段の先】-6

【階段の先】-6

6.

 ギシ、ギシと頭上で縄目が軋む音がしていた。
 ベッドから下ろされた俺は、床の上に敷かれたビニールマットの上で立たされて、腕が上へと引っ張られていく。
 両手を戒めていた手錠は、その反対側の輪っかに荒縄が通されて、上から吊られてしまっている。
 けれど足の裏は付いているから、それほどきつくはない。
 縄の上昇が止まったのを確認して、俺はほっと息を吐いて足下を見つめた。
 視線を逸らしたタイミングで、照明が俺を照らす。その分、周りが闇に溶け、何も見えなくなった。
 そんな俺の前に、ハーネスで上半身を飾った冬吾さんが入ってくる。ぎゅっと引き締まった下半身を隠すのはビキニパンツと股間が大きく空いたレザーのパンツ。足首まで幾重にもベルトがあって、クロムメッキの金具がやけに重々しく目立つ。
「これがおまえのお気に入りか? にしては、ずいぶんと反抗的じゃないか」
「まだ調教を始めたばっかで、これから躾けるところだ」
 その後ろから龍二さんが薄ら笑いを浮かべながら近づいてきた。
「だ、れ……」
 台本通り、怯えて後ずさるけれど、手錠で捕らえられた状態ではそんなに後ろに下がれない。
 演技外では凜々しい感じの人だったけれど、逞しい身体を晒した冬吾さんは、龍二さんより怖い。決して大きくないのに、のし掛かってくるようなそんな恐怖に背が震えた。
 それは、冷たく眇められたあの視線のせいだと思う。
「リュウの見てくれに騙されたか、子羊ちゃん。なるほど、おまえ好みの顔をしている」
「んぐっ」
 顎を取られ、上向かされて。下がっていた身体が引きずり寄せられた。
「俺はおまえのご主人さまになるリュウの知り合いでトウという。ほら、挨拶しな」
 顎から離れた指がとんと乳首を突き、直後伸びた爪がカリッと引っ掻いた。
「痛っ」
 鋭い刺激に堪らず声を上げる。
 けれど。
「──っ」
 パアーンと甲高く響いた音に、何が起こったか判らぬままに目を瞠る。遅れてじわっと熱くなった頬に、自分が叩かれたのだと気が付いた。
「……ぇ……」
 こんなの台本になかったはずなのに、なんで……。
 見開いた視界が、生理的な涙で歪む。ジンジンと疼く頬は、ただ叩かれただけだ。
 だが。
「挨拶しろと言っただろう?」
 下から覗き込むように見上げられた瞳が、俺の疑問を封じる。
 強張った唇が、促されるままに言葉を紡いだ。
「こ、んにち……は……」
 震え、掠れた声音は弱々しく響いて、俺の内心をしっかりと伝えただろう。
 これは演技で、アドリブの一つなのだと思うけれど、でもストーリー展開として、こんなにきつい感じだったろうか?
 SMだから穏やかとは言いがたい展開もあったけれど、それでもプレイの一環としてのSMだったと思ったのだけど。
「こんにちは、ご主人さまのご友人さま、だ」
 有無を言わせぬ展開が続いて、俺の疑問には誰も答える気がないようだ。というより、これで進めなければならないのだと、無言の圧力が迫ってくる。
「こ、こんにちは……ご、主人、さま……の、ご友人、さま……」
 促されるままに言葉を紡ぎ、冬吾さんの背後にいる龍二さんを見つめた。
 どうしたら良い?
 どうすれば良い?
 もともと台本と言っても、行為に入れば喘ぐばかりで台詞なんて決まっていない。最初は怖がって拒絶して、けれど与えられる快楽に喘いで欲しがって最後は一緒に愉しんで、達まくる。そんな感じで進めるだけの、だから俺でもできた今までの役。
 けれど、今日のはなんかそれまでがとても長い。
 怖い時間がとても長い。
「セイキ、トウは俺の大切な友人で、だから、俺の大切なおまえを見せたかったんだ。俺の可愛いセイキを」
 優しく甘く、低い声音でうっとりと告白される言葉は、限りなく愛の言葉だ。
 だけど、その言葉も表情も、目の前の冬吾さんの冷たい気が全てを覆い尽くす。
「確かに可愛いかもしれないが、それだけでは躾にならないぞ。まずは俺が手本を見せてやろう」
 そう言って、口角を上げて嗤い、その手が取り上げたのは太い浣腸用のシリンジだった。それがバケツに入れられた粘液を吸い上げていく。
「な、何、それっ」
「まずは腹の中をキレイにしてやろう。本来なら、自分で準備しておくべきだが、どうせそんなことも知らないのだろうからな。洗腸の前に浣腸だな」
「か、ん、ちょー……って」
 そんなものイチジク浣腸ぐらいしか存在を知らない俺にとって、ガラスの筒の中で幾つもの泡を浮かばせるその量に目を剥いた。
 直腸洗浄ぐらいはもちろん撮影前にするから知っている。もちろん浣腸だって知っている。
 だから台本に書かれていても、しょうがないなとは思っていた。でも、両手で持つほどのシリンジの目盛りの最大まで入った液体の量に、イヤだと、俺は本気になって首を振った。
「リュウさっ、やだっ、お願いっ、リュウさんっ、助けてっ」
 近づくトウの向こうで腕を組んで様子を見ている龍二さんに呼びかける。
 俺が助けを求められるのはリュウにだけ。それは台本通りで、こうやって必死に呼びかければリュウも絆されて助け船を出してくれる。
「やだっ、止めてくださっ、いやっ」
 なのに、龍二さんが動かない。
 俺を見て困ったように首を傾げているだけで。
 それでも、俺の必死の視線に気が付いてくれたのか、苦笑を浮かべて冬吾さんに声をかけてくれた。
「トウ、ちょっとそれは多いんじゃないか?」
「そうかあ、この程度序の口だろうが。これぐらい入らねえと、キレイにならないぞ」
「あー、まあそうだなあ」
 だが、止めてくれるのかと思った龍二さんは、そこから動かない。冬吾さんがシリンジを持って俺の尻側に来ても、止めてくれないで見ているだけ。
「い、やだっ、リュウさんっ、止めてっ」
 逃げようにも、腕を繋がれていてはそれほど離れることはできない。
 さっきとは逆に必死になって冬吾さんから離れようとして、龍二さんの方へと足を進めるけれど、腕が軋んで進めない。
 逃げようと藻掻いていると、さらに恐怖が募ってきて、必死になって龍二さんを呼んだ。
「リュウさっ、リュウさんっ、助けてっ、助けてぇっ」
 ギリギリと手首に枷が食い込んだ。伸ばしきった肘と肩の関節が悲鳴を上げている。
「ったく聞き分けがないな、リュウ、押さえてろ」
「はいはい、セイキ、ちょっと我慢したらすぐ終わるから」
 ようやく近寄ってくれた龍二さんが俺の身体を包み込む。抱き寄せられてほっとしたのも束の間、届いた言葉の意味を脳が理解して。
 同時に、尻タブに触れた冷たい硬質な存在に、ひくりと硬直する。
「い、いや……」
 もともと浣腸は好きじゃない。なのに、あんな量なんて、信じられない。
 涙目で後ろを見やれば、太いシリンジの口が俺のアナルへと向かっていた。
 慌てて身体を捩ろうとしたら、その身体はがっしりと龍二さんに捕まえられていて動けない。
「な、なんでっ、イヤだっ、龍二さんっ、離してっ」
 本気で逃げたくて、自分が龍二と呼んでいるのにも気が付かずに、一度は安堵した場所からも逃れようと必死になって暴れたけれど。
「んぐっ」
 滑る粘液が溢れた口は、俺の強張った尻の狭間に容易に入り込み、窄まったその場所へと食い込んでいく。
 冷たい液が、じゅるっと入っていく感触に、激しい悪寒が走った。
 しかも。
「あれはガラス製なんだ、暴れて折れたりしたら、尻が使い物にならなくなるぞ」
 そんなふうに脅しのような言葉を耳元で囁かれて、恐怖のあまり動けなくなる。
「良い子だ、ちゃんと零れないように締め付けていたらすぐに終わる」
 なんて、優しく言われて、確かにそのとおりなんだけど。
 あっという間に直腸を満たした液体は、さらに奥まで逆流しようとしてるのが感じられて、俺は必死になって歯を食い縛った。
 冷たかったせいかもう腹が痛い。
 もともと撮影用にキレイにしていた腹の中に汚物なんてほとんどないはず。
 なのに、この量を入れられては、苦しくて堪らない。
「う、ぐ……んっ……駄目っ、出る……ぅ」
 ぎゅっと目を瞑り、喘ぎながら額を龍二さんの胸に擦りつける。
 嫌な汗が全身に噴き出し、腹がグルグルと音を立て始める。
「で、出るぅ……トイレ……トイレ……行かせて……」
 刺激が強い液体だったのか、それともこの量のせいか、腹が痛い、苦しい。
 呻く悶える俺に、けれど、腕は外してもらえない。
「な、なんで……行かせてっ、お願っ、い、もう、もうっ」
 いつものように五分すらも保たない。
 懇願の言葉に、けれど、龍二さんは困ったように見下ろすだけ。
『すまない』
 耳元で小さく呟かれた言葉。
 カンと床に置かれたブリキのバケツ。
「子羊ちゃんのトイレはこれだよ」
 楽しげにカンカンとバケツの縁を叩く音とともにかけられた冬吾さんの言葉に、呆然と目の前に龍二さんの顔を見上げる。
「うそ……」
「見たいんだ、良いだろ?」
 うっとりと俺を見る龍二さんが、俺の汗で貼り付いた髪を梳き上げる。覗き込む瞳は優しげで、軽く触れる舌が俺の滲んだ涙を拭い取っていく。
『出てる部分は映さないから、な。我慢すると辛いぞ』
 同時に囁かれる言葉。
 調教師としての冬吾さんの指示には逆らえない、と、優しいキスを繰り返す。
 そう言われては俺も無駄な足掻きをすることはできなかった。
 何より、その言葉にこれは撮影なんだって思い出したから。
 そうだ、これは撮影なんだ、何パニクっていたんだろう。
 苦しいけど、辛いけど。
「んくっ……く……」
 冷や汗が浮かび伝い、悪寒で小刻みに震えて。出すしかないのだと決心するころには、マジで限界だった。
『支えといてやるよ』
 優しい言葉。それだけで、ほっとする。
 もう限界の俺の肛門からつうっと液が垂れていく。
 龍二さん達だけでなく、スタッフもいるこの場所で、無様に出すところなんて見られたくないけれど、それでも、そんなプライドなんて拘っている場合ではないのも事実。何より、これは撮影なのだから。
 ようやく自分で納得できたその瞬間。
「う、あっ……あっ、あっ、あっ!!」
 一気に緩んだ肛門から、入れた液が勢いよく噴き出した。


 耳元で「すばらしい、可愛い」そんな言葉が繰り返されている。
 腹痛に耐えての急激な排出に、熱を奪われた身体が寒い。そんな俺の震える身体を抱きしめてくれる龍二さんの身体は熱いほどで、それに縋るように俺は身を寄せていた。
 全身をしっとりと濡らした汗が気持ち悪い、たっぷりとした排出には吐き気すら感じて、俺は何度も嗚咽を繰り返した。
 こんな量の浣腸なんて未経験の俺にはひどく辛くて、ゆっくりと背を撫でてくれる龍二さんの優しさが今はとてもうれしい。
 数度の深呼吸でなんとか息を落ち着くと、顎を上げさせられて甘い口付けが降りてきた。
 さっきの貪るような物とは違う。
 優しく、宥めるような、それでいて俺の官能を擽るキスに、冷たくなった身体も熱くなる。
「ん、あっ……」
 クチュクチュと耳だけでなく伝わってくる音にも、全身が熱を帯び、萎えていた股間にまで血が集まってくる感じだ。
 背後でスタッフが後始末をしてくれている気配が伝わるんだけど、止まらないキスに意識がすぐに熱いうねりの中に引きずり込まれる。
「リュウ……あ、ん……っ、んっ」
「いい子だ、よく我慢したね、ご褒美だよ、飲んで」
 囁かれる言葉に、知らず笑みがこぼれる。
 頑張ったからもらえた、褒めてもらえた、それがこんなにもうれしくて、流し込まれる唾液を喜んで飲んでいく。
 そんな時、腫れた尻にも誰かの手が触れた。熱を持ち、敏感になったそこは僅かな接触にも過敏に反応する。撫でられればざわりと快感が這い上がり、龍二さんの足に触れていたペニスがむくりと鎌首をもたげて、ぷつりと粘液を零した。
「イヤらしい尻を振って、涎を垂らして。ご主人さまの唇がそんなに美味しいのかい?」
 背後からかけられる低い声に、誰かと思う間もなく頷いて。すぐに、それが冬吾さんの声だと気が付いた。
 とたんにヒヤリと感じた悪寒は、さらに触れてきた硬い棒状のものが肩甲骨の下を這うのに激しくなる。
「イヤらしい子には俺も褒美を上げよう」
 含み笑いが込められた言葉は、決して好意的なものではないとすぐに気が付いた。
 迫る気配から、逃れるように龍二さんに身体を寄せるけれど、肩を押されて離される。
「リュ──さんっ」
 離れていく熱に、声にならない悲鳴とともに呼びかけたけれど、返されたのは曖昧な笑みだけで。
「リュウジさんっ」
 恐怖が全てを奪い去る。演技、なんてものはできなくて、そういうことすら忘れていて、ただ必死に目の前の龍二さんに縋ろうとしているのに。
「良い子だよ、セイキ。トウはおまえのもっと可愛い姿を引き出してくれるから」
 龍二さんは笑顔のままだった。


「うがっ、はっ」
 衝撃に開いたままの口から悲鳴とともに唾液が迸る。
 背中から伝わったそれに身体が揺れて、後から鋭い痛みが追ってきた。
 ぐらりと垂れ身体が手首を基点にユラユラと揺れる。
 背後の冬吾さんの姿は見えないけれど、全身が彼の動きを捕らえようと感覚が鋭敏になっていて。
 空気を裂く音に反射的に全身が強張った次の瞬間。
「あぁぁっ!! 痛っぁっ!!!」
 背に下ろされた鞭の、激しい痛みに悲鳴を上げて身悶える。
 何、これ?
 これって撮影で、SMだからってこんなに激しく打たれなきゃいけないのか?
 なんて、一回目、二回目までは思っていたけれど、今はもう、そんなことを考える余裕もない。
 悲鳴を上げて、激痛に耐えて、早く終わって欲しいと願うばかりで。
「おやおや、まだ後回しか打っていないのに、なんて軟弱な」
 まだ五回、されど五回。
 現実逃避に走る頭が、変なことを考えてる。でも、それがおかしいなんてことも思わずに、俺は泣きながら訴えた。
「や、無理ぃ……も、許ひぃえ……」
 演技なんてもうできない。逃げることばかりが頭の中にあって、今自分が何をしなければならないのかなんて、全く考えられなかった。
「止めて……無理、だきゃあ……」
 本気の拒絶だったそれを、けれど返ってきたのは忍び笑いのような、その吐息だけ。
 しかも、長い鞭が床をずりっと這っていく音に、冬吾さんが動く空気の流れが鋭敏になった肌を擽ってきた。
 その迫る恐怖に首を振る。
「も、ごめんなしゃ、いぃ……許しへぇ……」
 ひくつく喉から情けなく言葉を紡ぎ、必死になって足を突っ張る。
 少しでも遠く、あの鞭から、あの迫る音から逃れたいと必死になる。
 涙で歪んだ視界の中で、逆光となった世界に影が見えていた。それが、龍二さんだと知っているから、必死になってそこに向かう。
 ガチャッと頭上遠くで音が鳴る。
 ピンっと突っ張る腕はもう限界まで伸びていて、肩が痛い。
 けれど、どんなに逃れても、迫り来る恐怖はちっとも離れてくれなくて。
「許す? 何を?」
 冬吾さんの嗤い声が、俺の必死さをバカにした。
「許すも許さないも……これは褒美だよ。勝手にイッて、浣腸を喜んで、ご主人さまの匂いで勃起するような、そんなド淫乱な子への褒美なんだよ、これは」
「ち、違ぅ……俺、んな……、してにゃいっ……ひょんなのぉ」
 勝手にドライで達ったけど、でも浣腸は苦しくて堪らなかっただけだし、匂いで勃起したんじゃんなくて。
 優しいから、好きだからその温もりに勃起してしまったけど……でも。
「おやおや、自分が淫乱だって認められないなんて。こんなに褒めてあげているのに」
「ぢ、が……」
 どこが、褒めてる? 褒められてる?
 こんなに痛いのに、辛いのに……。
「うーん、褒めようが足りなかったかなあ。なら、もっと褒めてあげよう」
 ビュンと空気を切り裂く音がごく間近でした。
 触れるか触れないか、紙一重のところを通り過ぎた存在感あるそれ。
「ひ、ぃぃっ!!」
 当たってはいないのに、激しい痛みを感じたように悲鳴が零れる。
 ガクガクと足が震え、早く逃げないと、って思うのに立っていられない。
「リュ……さん、助けて……お、おねが……ゐ……ぅ」
 白い世界の中にいる影に縋る。
「お、お願ぃ……龍、じ、さんが、イイ……、助け、てぇ……する……、から……」
 龍二さんならここまで強く打たない。
 だって、さっき尻を叩かれた時も、こんなに痛くはなかった。いや、痛かったけど、でも、龍二さんだったから、加減してくれていた……から、きっと。
 ボロボロと泣きながら、ユラユラ揺れる身体に為す術もなく、近づくこともできないままに縋る。
「俺ぇ……龍二さん、が……いいよぉ……、お願いぃぃ……助けてぇ、ひっ、がぁぁっ!!!」
 パーンと脳髄まで響く音、遅れて全身が激しく痙攣する。
 右肩から腰まで、広い範囲で広がる激痛に、目の前すら白く弾けた。
「あ、ぁ、……あ」
 意識が闇に引きずり込まれる。落とし穴にでも落ちたように身体が一気に吸い込まれる。
 そのままがくりと全身が崩れ落ちそうになった時、ふわりと力強い腕が俺を支えた。
 その瞬間は何か判らなかったけど。
『大丈夫か?』
 囁かれた優しい言葉に、暖かな腕。
 トクントクンと響く穏やかな鼓動に、落ちる寸前だった意識がかろうじて引き留められた。
 気が付けば、目の前に裸の胸が広がっていて、両脇から身体が支えられていた。
「ちょっと、トウ、俺のものにやりすぎたよ、それは」
 頭上で響くそれが龍二さんの物だと理解したとたん、激しい安堵感に包まれた。
「褒美をやっているだけだよ、イヤらしく男を誘ってるその身体に」
「だからって、可哀想にこんなに怖がってる。トウは迫力ありすぎなんだよ」
 それには俺も無意識でうんうんと頷いていた。
 とにかく怖い、堪らなく怖い。
 蛇のように這う鞭を自分の手のように扱って、躊躇うことなく打ち下ろす冬吾さんは、威圧感も半端なくて、恐ろしいほどだった。
 こうやって龍二さんの胸板に顔を押しつけて見えていないのに、でも背後に、すぐ近くにいるのが、ありありと判る。
「ひっ」
 今、彼が手を動かした。鞭が遊んでいる。楽しげに喉を鳴らしている。鞭が俺の足下近くで床を叩いた。
 その一挙手一投足が、意識しなくても俺の五感を刺激しまくって、怖い。
「あーあ、こんなに痕を作ってさ」
「傷にはなっていないだろうが、ちゃんと手加減してやったのに」
 嗤う冬吾さんの声に、あれでっ、と驚愕した。
 あんなに痛かったのに、身体が裂けて、血でも噴き出してんじゃないかと思っていたのに。
「うそ……」
 呆然と呟いた俺の言葉に、龍二さんが泣き濡れた俺の頬を舐めながら、安心させるように教えてくれた。
「ん、傷はないぞ。ちょっと赤くなっているだけだ。始めてだから軽く叩いても結構響いたんだろう、ほら、もう大丈夫だ」
 って言われても、ちょっと触れられるだけでもピリピリと痛い。
「痛い……ぃ……」
「腫れてるからな、だが、可愛かったよ、俺を求めて必死になって泣き叫ぶ姿は、本当に可愛かった、マジで惚れ直した……愛してる、ずっと俺のものになってくれ」
 言ってることはひどいって思う。
 けれど今の俺は、龍二さんの言葉がうれしかった。
「ほんとに……?」
「ああ、本当に愛している、『正樹の』全てを俺のものにしたいって思ってる。もう一時も離したくない、どこにもやりたくない」
 俺の本名を確かに耳元で囁いて、続けられた言葉に、一気に多幸感に襲われた。
 それこそ、痛みも霧散してしまうほどに、これって演技じゃないよな。だって、俺の名前を呼んでくれたから。
「おいおい、奴隷にするんじゃなかったのかよ、おまえ、マジか?」
「マジ、さ。愛しているんだ、俺はこいつを。こいつの全てを自分のものにしたいほどにな」
「……へえ、おまえがそんな顔をするなんてな。今にも食らいつきそうで、そんなにその子が気に入ったのかよ。だったら、さっさとものにしちまえ。まだ犯してないんだろ?」
「これからさ、ああ、こんなとこに吊してると何にもできねえ」
「はいはい、そんなにがっつくなよ」
 頭上と背後で交わされる言葉とともに、俺の腕が解放される。
 そのままズルズルと床へと崩れ落ちたのは、足腰に力が入らなかったせい。しかも、ずっと上げていたせいか、痺れまくっている腕は下ろしたとたんに一気に血流が戻って激しい痺れをもたらした。それに、関節が痛いせいもあってうまく動かない。
「う、腕……痛い……」
 背中も痛いけれど、腕の痺れはまた別物の痛みがあって、だらんと垂れ下がったそれをどうしようもなく呻く。
「ああ、無理に動かすな」
 蹲り動けない俺を、龍二さんが膝裏と背に回した腕で軽々と持ち上げた。
 それこそ軽い荷物を持ち上げたときのように、あまりにも簡単に持ち上げられて、一瞬何が起きたか判らない。そのままベッドまで運ばれて、ポスンとマットに下ろされた。
 触れたシーツに背中がビリビリと痛む。
 けれど、そんなことより今与えられた優しさと温もりに、そんな痛みも意識の外へと追いやられて。
 その腕の盛り上がる筋肉を凝視してしまう俺から、離れていくそれに追いすがる。
 そんな俺をあやすかのように大きな手のひらが頬に触れ、大きな身体がのし掛かってきた。
「可愛いな、結構前から気になっていたから、こうやって俺のところに来てくれてうれしいよ」
 精悍な顔立ち、筋肉の盛り上がった逞しい身体。それは、決して見せるために作った筋肉ではない、実用的な身体でひどく男らしくて。
「だから俺のものになってくれ」
 耳朶に吐息とともに囁かれた甘い言葉に、ずきんと下腹部が激しく疼いた。
「りゅ……さん……」
 心臓が激しく鳴っている。
 痛みを与えられているときは忘れてしまう演技のことを、こんなときに思い出してしまったのは、悔しいけれど。
 龍二さんの瞳がひどく本気に見えて、俺ももう本気の思いを込めて返していた。
「俺も……俺も大好きです、ずっと前から、一目惚れで……。だから……俺のほうからお願いします、もう……離さないで……愛してます……」
 かろうじて痺れが小さくなった腕を伸ばして、弱い力のままに龍二さんの身体を抱きしめた。本当はもっと強く抱きしめたかったのに、それでも指で縋るように抱きしめる。
 そんな俺の上に、ずしりとのし掛かってくる熱い身体に、身体の痛みも忘れて陶然とする。
「愛してる、だから全部俺のものになってくれ」
 囁く言葉がもたらす堪らないほどの甘い疼きを抱きながら、俺は何度も頷いていた。