【階段の先】-4

【階段の先】-4

4.

「カット」
 遠く聞こえた声。
 知らない声でないと判っているのに、絶頂寸前まで高められては放置された身体は頭までもがそれで支配されていて、誰とも判らぬそれに反応できない。ただ呆然と、目前に迫る影を凝視しているだけの俺に不意に振動が伝わった。
 それに遅れて響く笑い声にようやく我に返る。まるでさっきまで覚めぬ悪夢にでも居たような、なんともいえぬ怖気が身体の中に残っていた。
 数度瞬きして、焦点がようやくあった視界に明るく照らされた龍二さんの笑い顔があって、意識がはっきりとしてくる。
「何だ、寝ぼけてんのか?」
 笑いを滲ませる声音に、ムギュッと掴まれる頬。
「い、痛い、ちょっとっ」
 呆けてた意識が痛みに揺り動かされ、覚醒して抗議するだけの力が戻った。
「俺の愛撫に蕩けすぎだって、おまえって、思った以上に敏感なんだなぁ」
「え? あ!」
 揶揄混じりにかけられた言葉に言い返そうとしたけれど、龍二さんの視線の先につられて向けた先、しっかりと立ち上がって濡れそぼってる俺のペニスの浅ましい姿にカアアっと全身が熱くなった。
 慌てて隠そうとしたけれど、引っ張った腕は音を立てて途中で止まり、その音に自分が拘束されていたことを思い出した。
「ん、ああ」
 俺の動いた視線に気付いたのか、龍二さんもそちらを見やって肩を竦めた。
「すぐ続けるからそのままなんだ。ああ、ちょっと待て」
 俺の身体の上で身体を捩った龍二さんの向きが元に戻ると同時に、ふわりと柔らかなフリースの生地が身体の上に被さった。だが同時に龍二さんの身体が上から消えて、なんともいえぬ寂寥感が湧いてくる。思わず手を伸ばそうとしたのだけど手首の手錠が邪魔をして叶わなかった。
 けれど、立ち上がった龍二さんが手を伸ばして俺の頬をそっと撫でてくれて。
「社長……じゃねえな、監督と話があるからちょっと待ってろ」
 優しい声音に、俺もさっきまでの寂寥感が立ち消えて、彼へと笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「はい、大丈夫です」
「この先もう少しテンポ良く進めた方が良いと思うんだ。だから、ちょっときつくなるけどな」
 その言葉の意味を問おうとするより先に、まだシャツを着たままの広い背が離れていく。見えなくなるほどに遠いわけではないのになぜか込み上げる不安は、ベッドから動けないこの拘束のせいかもしれないけど。
 知らずずっと追いかけた視線に気が付いたように龍二さんが振り返り、俺はそんなことをおくびにも出さずに微笑み返す。
 そんな俺の周りでは、いろんな小道具が位置を変えていき、龍二さんも話をしながら着ていたシャツのボタンをさらに外していた。その隙間から逞しい胸板が覗いていて股間に悪い熱が集まってくるのを感じてしまう。それでなくても下腹部に熱がわだかまっているのに、意識してしまうとさらに勃起してしまいそうだ。幸いに龍二さんがかけてくれた毛布のおかげで周りから俺のペニスは見られていないけれど、それでも俺自身その存在は無視できない。
 大きく腹式呼吸を繰り返しどうにか熱を逃そうとするが、微かに聞こえる龍二さんの声にさっきの行為が勝手に甦ってしまい、なかなか冷ますことができなかった。
 そんなことをしていて意識から外れていた俺の耳に、不意に監督の声が飛び込んできて驚いた。
「甘い雰囲気はさっきので十分ってことになって、次は豹変するリュウってシーンを先にいくよ。ちょっときついかもしれないがね」
 簡潔な言葉に俺は頷いて、頭の中で台本をめくってみた。
 確か甘い愛撫で一回達かせてもらえるはずだったけど、それで弛緩した直後からリュウはその本性を現して、どんどんSM的行為になっていくところ。
「雰囲気を出すから、あんまりカットは入れたくないな」
「そうですねえ。下手なとこで中断するとどうしても映像としておかしなところが出るかもしれませんし。それに一気にいったほうが正樹くんにも良いかもしれないし」
 気が付けば冬吾さんも部屋に入ってきていたようだ。
 監督と話をしながら着ていたガウンを肩から落としていく。それをスタッフの一人が受け取って、影になっていた身体が眼に入ったとたん思わずごくりと息を飲んだ。
 龍二さんとも負けず劣らずの逞しい身体に、食い込むほどにぴっちりとした革のズボン。浮かび上がる筋肉のラインは余分な脂肪など見られず、ウエストはきわどいラインで腰にひっかかっている感じ。こちらを向けばシックスパックの腹筋が見事な形を晒していた。短いサイズの上着は金属の金具が目立ち、逞しい腕も胸筋を隠さない。腰から下がる鎖が照明に鈍い光を反射して、否応なく緊張感を高めてくれた。
 それに、何だろう?
 言葉遣いはていねいで優しく聞こえるのに、伝わる威圧感は半端ない。
「んー、そうか、だったらこの流れで進めていくってことで……何か変更があれば冬吾さん、よろしく」
「了解です」
「よし、まあこっからは基本君たちに任せるよ」
 社長──監督の言葉に、二人が頷く。
「正樹くん、ちょっときついかもしれないができるだけカメラを回し続けるから……。まあ龍二にはきちんとレクチャー済みだから、大丈夫だよ」
 確かにここからは冬吾さんの指示がメインっていうのは最初から聞いていたし、ベテランだっていう彼の言葉に従っていれば大丈夫だからって俺も思うし。それに龍二さんも任せろってばかりに、自信満々で笑っていてくれる。
「はい……よろしくお願いします」
 だから大丈夫だって、俺も繋がれたままっていう今一な格好だけど、大きく頷いて返した。


「勝手にイくなんて、悪い子だな」
 再開した撮影現場はさっきとは雰囲気がまるで違っていた。
 ひしひしと伝わってくる緊張感が、否応なく俺にも伝わってくる。
 何より、龍二さんがものすごく怖い。
 かけられていたフリースの布は取り払われ、ベッドに繋がれた俺の真上に龍二さんが迫る。その瞳に走る剣呑な光に俺は何も言い出せないままに唇を震わせた。
「イくな、と言っていただろう?」
 声音は優しい。いつもの龍二さんのように、諭すようにゆっくりと話しかけてくる。
 けれど。
「悪い子にはお仕置きだ」
 すでに前をはだけていたシャツを脱いで剥き出しになった腕は太く、俺の顎を捕らえて冷たい瞳で覗き込まれた。
「っ!」
 力を込められた指に口が勝手に開く。開いた口内に入り込むのは、肉厚の舌だ。
「んぐっ」
 一気に奥まで入り込み敏感な上あごを擦られ、縮こまった舌を絡め取られる。
 まるで貪るようなこれは、キスというより口淫といった方が良いほどに激しかった。さっきまでの甘さなどどこにもなく、ただ貪られる。
 それでも沸き起こる疼きに腰がむず痒くなるほどに感じるのに、見つめられるその冷酷な瞳に脳の奥深くが冷たく凍えていた。
「う、ぁっ、むぐ」
 舌を強く吸い出され龍二さんの口内に取り込まれた。勢いが激しくて舌の付け根が痛いほどで思わず呻き声が出た。だがそれでも強い指は決して俺を解放せず、呼気すら奪われる。
 鼻で息をするのも限界で、息苦しさと痛みと快感がない交ぜになった。知らず流れた涙が頬を伝い、頭上で手錠がガシャガシャと音を立てたけれど止めてくれない。
 さすがに無意識のうちに足が動いた。
 目の前の重量物をはね除けようとしたけれど、空を蹴った足が不意にきつく捕らえられるとともに、舌が解放されてようやく呼吸が許される。
「っはっ、かっ……あっ……」
 荒い吐息を繰り返し、朦朧とした意識の中で薄暗かったはずなのに目映く見える照明を見上げる。その中に影となっているのは龍二さんのはずなのに。
「ご主人さまを蹴るとは、足癖が悪いな」
「あうっ」
 ぎりっと足首を掴まれて悲鳴を上げた。上から重みが消えて、代わりに不吉な重みを感じるものが足首に音を立てて嵌められる。無理な動きを頓着しない力で腰まで引き上げられて、逆らう間もなく頭上でも音がした。
 その音がもう一度。
 反対側の足も似たような状況にさせられて、状況を理解したときにはまるでひっくり返されたカエルのごとくM字開脚で腰を上げさせられていた。
 不自由な体勢に知らず浮かんだ涙でぼやける視界の中に、足首に繋がれた枷とそこから頭上へと伸びる鎖が見える。
「身体が柔らかい……イヤらしい格好が似合う身体だ」
 確かに俺の身体は関節が柔らかく多少の無理な姿勢もできるけれど、いくら撮影といえどこんな股間が全開の格好はイヤだった。淡い茂みの中それでも感じて力を持っている俺のペニスが動くたびに震えるという恥ずかしい格好に、激しい羞恥が沸き起こる。
「リュ……さん……、な、んで、こんなこと……?」
「セイキが悪い子だからだ」
 けれど演技でなく問いかけた言葉に返ってきたのは台本通りの台詞。
 それが、俺にも撮影だということを自覚させた。
 あまりにも激しいキスに演技を忘れていたのだと気が付いたのだ。
「お、俺……あ、その、ごめんなさい……リュウさんの言うこと、ちゃんと聞きますから。だから、これは……」
 本心の謝罪を龍二さんは判ってくれたのだろうか。引き締められていた口角が微かに緩んだような気がした。
 だが続けられた言葉に、俺は続けたかった言葉を飲み込んだ。
「悪い子だよ、イくなっていうのに勝手にイって、悪い子には罰が必要だ」
「ば、罰……?」
「そうだよ、まずは勝手にイくはしたないチンポに罰を与えよう」
「え……」
 酷薄な言葉は本気のそれでしか聞こえず、味わう恐怖に怯える俺に、龍二さんは黒いラバー製の何かを差し出した。
「な、何、それ?」
 ファスナーっぽいものとかバンドみたいなものとかが付いたそれは、ぱっと見では何か判らない。というより、こんなシーンが台本にあっただろうか?
 だけどこんなアドリブはいつものことだと、おくびにも出さないで必死に言葉を紡ぐ。というより頭が考えるより先に言葉が出る。
「なんか、それって……、やだ、なんか?」
「これは、おまえのはしたないチンポに躾をするものだ」
 そんなことを囁いて楽しげに口角を上げる龍二さん──いや、あれはリュウ。
 SMが趣味のリュウ。
 リュウになりきっているんだ。
「躾って……何をするって?」
 けれど必死になってセイキになろうとする俺の問いかけに答えはなくて、尻が高く持ち上げられてそのラバー製の何かが尻の下に敷かれた。ベルトの金属が触れる音が尻タブに伝わると同時に腰に何かが巻かれていく。
「何、何するんだよ? ねぇっ」
「うるさいなあ、その口も塞いだほうが良いかな?」
 本気としか思えない強い苛立ちに、言葉を飲み込んだ。
 向けられる冷たい瞳に、ものすごい圧を感じた。
 こうなると蛇に睨まれたカエルのごとく硬直した俺の身体は、瞬く間にラバー製のパンツに覆われてしまった。
 そうだあれは、拘束したままにはかせることができるパンツだった。
 もっとも材質はラバーで前側から股の間はきついぐらいに締め付けられているのに、尻側は狭間にベルトが通されているだけだ。でもきついほどに締め付けられていて、会陰や陰嚢がラバーの中できつく圧迫されている。
 穴から前方に飛び出したこんなときでも勃起したペニスが滑稽でみっともないのに、そこにもきついぐらいの締め付けで小さなベルトが幾重にも巻かれていった。
「な、何、これは……」
「貞操帯だよ、勝手にイく子を躾けるための。これは射精の動きを制限するし、締め付けるから穴も狭くなるしな。もう扱いても簡単にはイけないぞ、ほら、試してやろうか」
 言いながら、ひどく喉の奥で楽しそうに笑っていながら俺の剥き出しの鬼頭部を指の腹で撫でる。
「ひあっ」
 その刺激は前と変わらない。
 さっきまで与えられていた刺激を覚えているからこそ身体は即座にそれを快感と認識して、けれど俺はその言葉を耳にして顔から血の気が失せさせていた。
 撮影上ではすでに達ってることになっている。だけど実際には高められるだけ高められて達ってはいない身体は、呆気なく快感を思い出したのだ。
「いい子になるよう、しっかりと躾けてあげよう」
 近づくのは龍二さんは、さっきまで俺の口内を蹂躙していた舌がちろっと唇を舐めて。
「い、いやっ、止めてっ、それは、ああぁ!」
 背筋を走った堪らない疼きに悲鳴にも似た嬌声が上がった。
「くっ、あっ、やっ」
 背筋が仰け反り、頭上で拘束された激しく鎖の音が鳴る。
 腰が暴れるのを龍二さんの体重で押さえつけられ、無防備にさらけ出された亀頭部を熱く滑る舌がペロリベロリと這い回った。
「い、ああっ、あぁっ」
 今すぐにでも暴発しそうなほどの射精感は、けれどどんなに達きたくても最後の瞬間は訪れない。物理的に封じられた中で熟練の技で追い立てられていく俺は、脳裏が白く弾けるほどの快感に追い立てられるようなものだ。しかもそれが止まらない。
 亀頭が両方の指で押し広げられ開いた鈴口に舌が入り込む。ずずっと強く吸い上げられる先走りすらまるで放埒したかのような快感になる。
「やぁ、あぁぁ、待ってぇっ、イくぅぅ、出っぅぅ」
「達くな、と言っている」
 命じるときにほんの少し離れたのも束の間、辛いほどの口淫が再開した。冷たく言い放たれた言葉を理解する間もない。
「あっ、あぉぉ、ひっ、イ、イくぅぅ、イかせてぇぇっ、あぁぁ」
 もう演技をすることなど覚えていなかった。
 襲ってくる快感に達きたいとただ願うだけだ。
 込み上げる射精衝動に激しく腰が上下する。
 拘束された手首も足首も痛んだが、それ以上に解放を求めて身体が身悶えた。腰を突き上げれば龍二さんの口の中に吸い込まれ、より激しく嬲られる。力が抜けたように腰が墜ちれば、抜け落ちたペニスは解放されることなく指で虐められる。
 イきたいのにイけない。
 物理的に封じられたそこは、何度も何度も擬似的な射精の感覚を繰り返し、そのたびに視界が弾け、思考が快感に染まっていく。
 それでも実際にイけていないせいで、快感は幾重にも積み重なり、そして。
「ひっ、あっ、ああっ、イくぅぅっ、ああぁっ」
 今までになく高められた身体は、限界以上の高みで、いきなり弾けた。
 全てが白く、何も見えない中で、俺は雄叫びを上げて痙攣した。
 限界まで仰け反った身体でペニスは龍二さんに深く飲み込まれている。自分の者でない身体そのまま身体が完全に硬直して、俺はガクガクと激しく痙攣していた。
 もっとも自分でも何が起こっているのか判らないままに、ただ嬌声を上げ続けていた。
 身体が自分の物でなくなって、ペニスだけが別の生き物のように暴れているような。
 そのまま数秒、感覚的にはもっと長かったような、それとも一瞬だったような。
「あ……は……」
 不意にがくりと身体が崩れ、どさりとベッドに落ちた。
 龍二さんの口から、粘液の糸を引きながらペニスが抜け落ちる。
 それを認識することもできずに、俺は弛緩した身体はそのままに激しく喘いでいた。
「な、何……こ、れ……」
 すごい快感だった。けれど、射精したのとは違う。
 おかしな感覚が、全身を貫いた、そんな感じに意識が惑う。
 これが……ドライで達くっていうこと……?
 呆然と喘ぎながら、これが世に言うドライオーガズムなんだと考えるより理解した。というか、理解するしかない。けれど、それだけだ。
 だが。
「達くなと言ったのに、また勝手に達きやがった」
 それでも、その言葉に意識は急速に覚醒した。
 蔑む声に、ぞくりと背筋が泡立つ。冷たい汗が滲み、逃げなければと思うのに身体が動かない。
「やあ……ひっ……イっへぇ……にゃ……いぃ、でへぇ、ない……」
 うまく動かない舌でかろうじて、射精していないと言っているのに。
「イったことには変わりない。俺はイくなと言ったんだ」
 それはつまり。
「射精しなくてもメスイキはしたんだ。イったことには変わりないってことだ」
 ドスの利いた言葉に、俺は震え上がった。
「ひ、ひょんな……」
 確かに達くなと言われていたけれど、あんな刺激を与えられて、感じないはずがない。まして、龍二さんの口なのに。
 初めてのドライオーガズムはすさまじい快感だったけれど、こんな状況では冷めるのも早い。全身に噴き出した汗が一気に身体を冷ましたように、全身がぶるぶると震えた。
「さあ、次の罰だ」
「ご、ごめんなしゃっ、やっ、待ってっ」
 何をされるのか、何も判らなくなっている。
 堪らずに止めさせようと周りを見回すけれど、誰もが撮影に熱中しているようで、俺のことなど見ていない。しかも、声を上げるより先に、俺の口にずぼっと何かが入ってきた。
「むぐっぐっ」
「無駄吠えが多いな」
 嵌められたのは丸いボール状の口枷で、穴がたくさん空いている。それを固定するベルトが頬が食い込むほどにきつく締め付けられた。
「ううー、あっ、(龍二さんっ)」
 堪らずに名を呼ぶけれど、異物に遮られて言葉は出ない。
 ただうーうー唸るだけしかできなくて、必死になって身体を起こそうとすると、その上に熱い身体がのし掛かってきた。
「似合うぞ、セイキ」
『すまないな、ちょっと無理をさせるから、我慢してくれ』
 台詞に隠れて耳元で囁かれた言葉。
 優しくいたわりが満ちたその言葉に、俺の焦りは急速に落ち着いた。
「ううっ」
『しばらく思うがままに動けば良いからな』
「これで変な言葉を聞かなくて済む」
 酷薄に笑いながらもかけられた言葉に、俺は視線で頷いた。そのまま離れた龍二さんが、カメラに写らないように俺にウィンクまでしてくれて安心させようとしてくれている。
 そう思ったら、怖いのはそのままだけど、それでもこれは撮影なんだからという安堵感が湧いてきた。
 それに、口を塞いでくれたのは、俺のためだって判ったのだ。
 うっかり制止しそうになる、龍二さんと呼びたくなる。けれど、撮影中に予定外の台詞はまずい、ストーリーに沿ったアドリブならば良いが、そうでなかったら同じことをまたするハメになる。こんな撮影では、何度もされたら俺の身体も先にバテて撮影どころでないだろうに。
 龍二さんがベッドから離れてちょっと間が空いてる間に、俺もそんなことを考えることができて気分を落ち着かせることができた。
 これは撮影だって、何度も何度も頭の中に染みこませるように呟く。
 だから、龍二さんが再び視界に戻ってきたときは、怯える振りをしながらそれでも気丈に睨み返す演技まではできたのだけど。


 だけど。


「あああっ、あぁっ」
 口枷など必要がないほどに、俺は叫び続けていた。
 身体が腰で曲げられて、ラバーパンツから覗く尻タブが龍二さん達に晒されている。
 そこに、さっきから何度もバラ鞭が落とされていたのだ。
 初心者用で痛くないよ、と撮影前には聞いていた。一本の柄に何本もの革紐が付いていて、試しに叩いた机の上でちょっとビビったほどに高い音を立てていたけれど、それがバラ鞭の特徴だからって聞いていたやつ。実際、最初は確かにそれほど痛みがあったわけじゃないけれど、それも繰り返し打たれていると痛みがどんどん強くなった。
 もう何度も叩かれて尻が熱い。
 ジンジンと痛みが広がるそこに、ばらばらと複数の鞭が振ってきて、新しい痛みが追加された。
「いぁぁ、あっ、んがぁっ、あっ」
 もともと痛みにはそんなに強くない。途中からもう我慢なんかできなくなって、打たれるたびに頭を振り乱して叫びだして、止まらなくなった涙が飛び散りまくる。
 時折剥き出しのペニス近くにまで鞭の先が当たるのでよけいに怖い。
「淫乱な子の仕置きにはやはりこれが一番だな」
 さっきスラックスまで脱いだ龍二さんは、今はきわどいレザーのビキニパンツで、盛り上がった股間部分は紐で編み込まれていた。そのせいでより大きく見える膨らみが、ひどく猛々しい。しかも逞しい裸体を惜しげもなく晒しているせいで、よけいに威圧感が強い。その裸体を晒された時、俺だって思わず見とれたぐらいだけど、今はその逞しい身体が怖い。鞭を振り上げる盛り上がる筋肉を持つ腕が、怖い。
「ああゃぁぁ──っっ!!」
 太股にも当たる。
 ビリビリと響くそれに、浮いた尻が暴れるけれど、太股に巻かれたラバーの枷は緩むことがなく、無防備に尻タブを晒すはめになっていた。
 止めてくれと叫びたいが、枷が嵌まった口では言葉など出せず、拘束された身体では逃げることも叶わない。
 これでソフトなのか、SMって一体何なんだって、頭の中では現実逃避なことを考えることもあるけれど、それも次に打たれる一瞬の間だけ。
 これでもかってぐらい打たれて、もう喉はからからで、尻が焼けてんじゃないかってぐらいに痛い。
「淫乱が、叩かれてそんなにも尻穴がパクついてやがる」
「ぎゃおっ!!」
 パンと先とは違う硬いもので叩かれて、身体が跳ねる。見開いた視界の中で幾重にも歪んだ蛍光灯がチカチカと瞬く。
「なんだ、もっと強いほうが好きか? だったら、この棒で叩いてやろうか」
 そういって目の前に差し出されてきたのは、傍らにあった金属製のキャンドルスタンドだった。卓上用のゴツゴツとした金属の縄がらせんを描いて絡み合う三つ叉の矛先のような形状のそれ。
 鉄だと聞いたそれは俺が試しに持ったときはとても重かったのに、龍二さんは軽々とそれを片手で持ち上げて、俺の目の前にその切っ先を突きつけてきた。
「ひぃっ!」
 キャンドルを固定する先端は尖っていて、それが目の前十センチ足らずまで迫って、悲鳴が情けなく上がる。
 決して先端恐怖症ではないけれど、痛みと動けないのと恐怖がごっちゃになって目が離せない。
 じりじりとそれが近づくのに、身体を竦めて必死に逃れようとしたそのとき。
「カットっ!!」
 狙ったかのように飛んできたかけ声に、ひょいっと後退したそれ。
 とたん、何かの呪縛から解放されたように全身から力が抜けた。
「はあ、はあ」
 溢れる唾液に、涙と鼻水で呼吸もままならないままに大きく喘ぐ。真っ先にその口から枷が外されて、楽になっただけ思いっきり深呼吸を繰り返した。
「すまない、怖かったか……大丈夫か?」
 弛緩したら、今度は身体を動かすこともできない俺を、龍二さんが申し訳なさそうに振れてきた。
 とたんに、びくりと身体が震えたけれど、触れる手の優しさにすぐにその手を受け入れる。
「身体を起こすぞ」
 手足は拘束されたままで、自身では起き上がることもできない俺の背に龍二さんの腕が入り込む。近づく逞しい胸筋に、うっすらと浮いた汗。男らしい香りにくらりとめまいがしそうな感じがして、俺は慌てて目を瞑った。
 手錠はそのままだけど、ベッドヘッド側を外してもらえたから腕は自由だ。だけど、何度も無理に引っ張ったせいか、それとも先までの恐怖のせいか、腕に力が入らなくて身体の横にだらりと垂れて下がっているままだ。天井から尻を吊っていたのは外してもらえたけど、太股と足首を一纏めにされているのはそのままだから、ベッドにぺしゃんと座っているのだけど。
 シーツに触れた尻がジンジンと痛くて前屈みにしかなれない。その倒れかけた身体を龍二さんの太い腕がしっかりと包み込んで、胸板にもたれさせてくれていた。
 触れた耳朶から、とくんとくんと少し早い鼓動が響く。
 その音はどこか優しく響いて、俺はほっと息を吐くと、どこか強張っていた身体の力を意識して抜いた。
 怖かったのはリュウで、この龍二さんじゃない。
 やっぱり龍二さんは優しい、こんなにも気を遣ってくれる。
「大丈夫か? 不自然な姿勢だったからな、頭に血が上っているかもしれん……」
「でも、よく頑張ってましたよ、さすが龍二のお気に入りの後輩だ」
「まあな、実際こういう撮影が初めてにしてはよく頑張ってるよ」
 優しく撫でられる背が温かい。
 同時にくしゃっと髪の毛を掴まれて、掻き回されたのはきっと冬吾さんの手。
 二人同時に撫でられて、俺の中にあった恐怖も癒えてきた。
「あ、あの……俺……うまく、できへぇ、ま……?」
 枷に広げられていたせいか、それともその枷に歯形が付くほど食い縛っていたせいか、口がうまく動かない。
 もぞもぞと動きながら頭を上げて、それでも問いかければ、振ってきたのは龍二さんの満面の笑顔だった。
「ああ、良い絵が撮れているはずだ、よく頑張ったな」
「始めてだけときついだろうけど、ちゃんとできていたよ」
 再び二人に褒められて、思わず「良かった」と呟いていた。