【階段の先】-3

【階段の先】-3

3.

 撮影場所に入って、数歩も行かぬうちにごくりと息を飲んだ。
 もう何度か経験したこの場の雰囲気に慣れたとは言い切れない。けれど、それでも最初の時のような緊張感などもうなくなっているとは思っていたのに、この現場に入ったとたんに四肢が別物にでもなったかのようにうまく動かなくなる。
 それは、いつもと同じ撮影でないこの雰囲気のせいかもしれないけど。
 今までとは違うレーベルのせいか撮影スタッフも始めての人ばかり。誰もが黙々と作業していて気軽に話しかけられない雰囲気が俺の緊張を高めているのだが、それ以上にこの場所が醸し出す雰囲気に飲まれていた。
「……なんか……本格的っていうか……」
 口の中で呟いた言葉とともに辺りを見回した。
 撮影のために借りた家の地下室。
 カーテンが引かれたままのマイクロバスで運ばれた上に、走り出して早々に眠ってしまったせいで場所は知らない。
 しかも最初に案内された時にも驚いたけど、一軒家の玄関から奥まった部屋にあった階段を下りたドアの向こうに立派な地下室があったのだ。普通の家ではない重々しい雰囲気のある地下室の存在に、否応なく緊張は高まっていた。
 四方がコンクリート、床はビニールタイルでどこか冷たい空間に、天井の一か所だけにある蛍光灯の灯りが物の影を落としている。もっともその照度が低いせいか、どことなく薄暗く異様な雰囲気が増していた。一軒家が持つ地下室にしては広いのも異様さを醸し出している。
 ちらりと見えた家の外観からして一階部分と変わらぬくらいには広いのではないかと思う。物があまりないせいでよけいに広いのかもしれないが、単なる地下室に見えないのは壁にぽつんと水道の蛇口が付いていたり、天井に滑車がぶら下がったレールがあったりというところだろう。
 事前の説明では、何かの工房みたいな感じで使われていたということだが、一番驚いたのはこんな地下室なのに一角にはシャワーの設備とトイレまであったことだ。それも仕切る壁がなくて、天井から膝ぐらいまで薄地のカーテンがぶら下がっているだけだ。そのカーテンも今は全開状態だ。
 最初は撮影用の小道具かと思ったけど、スタッフによれば元から設置されているものだという。工房をしたころの名残なのかもしれないけど、仕切りがカーテンだけっていうのでまるで牢獄とかみたいに感じた。
 そんな違和感ありまくりの地下室に撮影用のベッドが運び込まれていたが、それも病院にでも置かれているような金属フレームの味も素っ気もないやつだった。
 他にも持ち込まれているのは、床でとぐろを巻いている鎖に金属の手錠に、さびの浮いたようなブリキのバケツと俺の胸ぐらいの高さの鉄のオブジェのような棒。そこには血のように赤いろうそくが何本も立っていて、ホラー映画の舞台のような不気味さ伝わってきた。
 どれもが寒々とした金属製なのが、否応なく恐怖感を煽る。そんな小道具を確認していると、マジで背筋がぞわりと震えた。
 今日の撮影は、通い続けた酒場でようやく憧れの人に声をかけられて、その人の家に連れて行かれる青年役。
 憧れの人が龍二さんの役で、こればかりは演技しなくても良いくらいデートシーンはノリノリで最高にうまくできたって自信があった
 ただその憧れの人はSMが趣味で、この部屋に連れてこられてからは有無を言わさず調教されてしまうのが僕の役。
 今日はそのシーンを取るのだけど、なんかこう……台本とか読んでいるときはこのぐらいって思ったけれど、さすがにちょっとこの雰囲気は怖いものがある。
 あの痴漢物以外、無理矢理系は拒否していたというのもあるんだけど。この話も相手役が龍二さんでなければ、初見で断っていただろう。でも、龍二さんが相手と言え、煮えきれない態度だった俺に、隆二さんが自ら説明してくれたところによると、雰囲気はともかく、内容はそれほど厳しいものではないということだった。
 ここに連れてこられて俺の役は、さすがに驚いたとしても最初は甘い雰囲気で押し倒されるってことだし、SMって言ってもソフトな雰囲気を盛り上げるものっていう程度らしい。ただ、どんなふうにそのSM行為が展開されるのか、その詳細は台本には載っていなかったし、龍二さんも俺が引き受けてから決まるということで、そんなに詳しくはなかったらしい。
 その辺りはあの冬吾さんの指導の下、臨機応変に龍二さんが進めていくらしいのだ。
 それが不安でないと言ったら嘘になるけれど、それでも相手があの龍二さんなのだから、怖がる必要なんてないだろうって思う。
 うん、うまくやれる。
 俺は始めてここを訪れて驚くけれど、それでも甘く流されていくシーンをしっかりとこなしていけば良いんだって、そんなふうに意気込んでいた、そのとき。
「正樹くん」
「ひえっ」
 不意に肩を叩かれてびくんと背筋が伸びた。地を這うような低い声音のそれに慌てて振り向けば、しかめっ面をしていたのは今回の監督兼……。
「社長……」
 その強面はいつ見てもちょっと緊張してしまう相手なうえに、変なふうに驚いたせいもあって引きつった顔が戻せない。
 もっともそんな俺の様子などに慣れっこな社長がくいっと顎をしゃくってきた。
「そろそろ始めるからな。リュウが入ってくるのを、今みたいに驚いて振り返るシーンからだ」
「は、はいっ」
 龍二の役名はリュウ、俺は芸名のままにセイキ。本名の正樹の読みを変えただけの芸名はこの社長が付けた物だけど、センスがないなとあまり気に入ってはいない。
 だったら本名のままって言われたら、それは嫌だったから受け入れた。
 どうせ顔が出るから知り合いが見たらバレバレだけど、それでも気分的なもので本名までは出したくなかったのだ。
 何せ俺がこの世界に飛び込んだのは決して望んだからではない。こんなハメになったのは、実家が負った借金を少しでも返したかったせい。
 もともとゲイだったからこの手のAVを見たことはある。あるけれど自分が出たいと思ったことは一度もなかった。だが借金取りの男に紹介されたこの仕事を俺は拒絶できる立場ではなかったのだ。
 その時に引き合わされた社長がこの人だったが、いつも無表情で何を考えているのか判らない。いつもは所属する俳優を送り出すだけで裏方専門だったけれど、今回監督だと聞いてそんなことまでできるのかと驚いたくらいだった。
 だが、今までの外や酒場で行うシーンはなんの問題もなく順調に進んでいて、すごいと思った。
「こっちだ」
「はい」
 示された場所でドアを背に立つ。
 シャワーを浴びた後、案内されて入った異様な地下室に呆然としながらチカチカと明滅する蛍光灯を見上げるところから始まるシーン。
 スタートの合図を背後に聞きながら、蛍光灯を直視しない程度に見上げていると、カチリとドアが開く音に演技でなく鼓動が早くなる。
 跳ねるように振り返り、ブラックスーツの上着を肩から落とし始めた龍二さんの姿を目にしたとたん、なんとも言えぬ安堵感が湧いてきて知らず顔が綻んだ。
「リュウさん……」
 縋るように声をかければ、おどけた仕草で片眉を上げて「なんだ、緊張しているのか」と笑み混じりで問いかけられた。
「あの……なんかこの部屋……」
「静かだろ、ここ。上だとたまに表通りを走る暴走族の音がうるさくてさ、ほら、あそこの直線道路って多いんだよな。だからこっちにも寝室をつくろうと思って……って、でもまだベッドしか運べてないんだ」
 上着を傍らの台にパサリと放りだし肩を竦める龍二さんの言葉に、「それで……」とこくりと頷く。
「セイキとの初めてなのにあんな音で邪魔されたら興醒めだろ。だから風情がないとは思ったけどこっちでしようかなって」
 近づいた龍二さんに肩を抱き込まれ引き寄せられた。触れた胸板は厚くてひどく頼りがいがある。
 俺はそっとそこに身体を預けて、間近に迫った精悍な顔立ちをうっとりと見上げた。この辺りはもう演技なんか不要で、マジで龍二さんは格好良くて見惚れてしまう。
「リュウさんがそうしたいなら……」
 甘く返せば、肉厚の唇がそっと俺のを塞ぐ。
 最初は触れるだけだったのが次第に強く貪るようなものになっていく。潜り込む舌が俺のを探し出し、ざらりと舌先を擦られて背筋に疼きが走り、開始早々に膝から力が抜けそうになった。
 堪んない……。
 これは撮影だけど、でもまるで本気のキスみたいな巧みさに身体から力が抜け、堪らず縋り付いた。
 そんな俺の身体を軽々と持ち上げる逞しい腕。
 掬い上げられて不安定な浮遊感に怖いと思う暇もなく、マットレスに身体が沈み込む。
「可愛いよ、セイキ」
 甘く囁かれる言葉が吐息とともに耳朶を擽る。
 俺はうっとりとそんな龍二さんの頭を抱きしめ返そうと思ったのだけど。
 大きな手に軽く握られた俺の手首の内側が、指の腹でなぞられる。
「んんっ」
 頭の横でベッドに押しつけられたまま深い口付けを繰り返し、何度も何度も浮いた血管の上を擦られる行為にぞくぞくっと肌が粟立った。
 足が勝手に動いて、のし掛かってきた身体を膝がぎゅっと挟み込む。
 この世界に飛び込んだとき、本当は憧れの龍二さんに初めてを奪って欲しかったけれど、初体験も名も知れぬ男優に撮影の中で終わらせられてしまった。それでも前よりもっと憧れが強くなった龍二さんにいつかはと思っていたから、今日の撮影はとにかくうれしいばかりが先に来る。
 幸いに今のシーンもそういううれしくて仕方がないって盛り上がるシーンだから、もう演技どころでないほどに俺は萌えていて、身体が昂ぶるのが止まらない。
 しかもすでに結構な経験有りの役だから純情ぶる必要もないし。
「ん、あっ……リュウ……あんっ、んっ」
 キスから解放された唇から、溢れた唾液とともに喘ぎ声が零れ出す。
 足掻くように足の裏がシーツの上を滑り、押しつけられた手が縋るように何度も開閉した。
「セイキ……」
 甘く囁かれるその言葉だけで、意識が飛びそうになるほどな快感が走った。甘い疼きが全身を駆け巡り、全身の力を奪う。うっすらと開いた視界に入る薄暗い蛍光灯も、今は優しく俺たちを包んでいるみたいだ。
「いい子だ、いい子にはもっとステキなことをしてあげよう」
「……ステキなこと?」
 かけられた言葉をオウム返しに返す俺は、この先を知っているけれど不安はない。
 まして、セイキはまだ何も知らないから不安がる必要もない。
「そうだ、今まで知らなかったおまえの一面をみせてあげよう」
「俺の一面? なんのこと?」
「心配することはないさ、俺が全てを教えてやるから、だからセイキのイヤらしい姿を晒しておくれ」
 そんな言葉とともに、冷たい感触が手首に触れる。
「だから、この手は……こうしてしまおう」
 ガチャッと何かが噛み合う音が二回。
 虚ろだった瞳がいぶかしげに眇められ、顔を上げたところでそれが眼に入って見開いた。
「な、何っ、なんで、これ?」
 引っ張った腕が複数の金属質の音とともに止まる。手首に冷たく食い込んだその輪は内側には革が貼られていて、すぐに肌を傷つけるようなものではなかったけれど。
 明らかに拘束するための手錠だと、頭が理解したとたんに動揺する。
 こんな早い段階で拘束されるなんて、台本にはなかった、はずだ。
 だけど。
『予定変更、だがそのまま驚いてろ』
 端的に耳元で告げられた言葉に動揺は残ったままに理解する。ああ、そうだ、これは撮影中で、予定変更もあるからって言われていた。
「暴れると痛いよ。大丈夫、ちょっと雰囲気を出すだけだから……」
「あ、あのっ」
「大丈夫、無茶はしないよ……可愛いセイキの顔がいつでも見られるようにしたいんだ……ね? セイキは恥ずかしがり屋みたいだからすぐ顔を隠そうとするだろ、だから……」
 甘く囁くように言われれば納得できる理由に動揺も落ち着いてきて、俺はこくりと頷き返した。
「リュウさんがそう言うなら……」
「ごめんな、驚いたかい?」
「……少し……」
 甘い言葉にはにかみながら応え、確かめるように手を引っ張っても確かに思ったより痛くない。目立たぬ内側の革が金属の固さを和らげてくれている。
 見上げれば、手錠はベッドの金属製の柵に繋がれていてしっかりと固定されているようだった。そんなことで気を取られていると、俺の手首を押さえる必要がなくなった手がガウンの紐を解いて、割り開いていく。
 直接触れた手のひらのざらつきに、敏感な肌がざわりと震えた。
「んや……リュウ……さん……」
「可愛いよ、滑らかな肌だ、それに、恥ずかしいのかな、うっすらと染まってずいぶんと美味しそうな色合いだ」
 そんな言葉と同時に下がる目線を追いかけて、その染まってるモノの正体に気が付いたとたんに顔が火を噴きそうなほどに熱くなった。
 龍二さんの視線が向けられていたのは俺の晒された股間であって、男にしては淡い下生えの中ですでに立ち上がって震えているペニスだったのだから。
 というかもうすっかり準備万端、先端からは先走りの滴すら滲ませている俺って、いくら相手が憧れの人でも早すぎるだろ?
 これって撮影なんだし……って、ちょっとヤバいって焦ったんだけど。
「い、あ、ぁくっ」
 龍二さんの手が伸びてクチュリと先端を嬲ったものだから、浅ましい嬌声を堪えるのに息を飲むハメになった。
 すご……ものすごい感じる……。
 滴をすくった指が敏感な先端ばかりを嬲る。指の腹を使い鈴口からカリ首の下まで執拗なほどの刺激が与えられて、その妙なる快感にぎゅっと目を瞑って耐えた。あっという間に限界まで達しそうな射精感を必死で堪えはするけれど、溢れる液がさらに指の滑りをよくするものだから腰が揺れるのまでは止まらない。
 さすがに、こんな早く射精するのはまずい。
 台本では最初の射精はもっと後で、ほんの少しサドっ気を出してきたリュウに意地悪されて喘いでもできるだけ我慢するようにってなっていたし。
 射精は合図があってからで……なんて、頭の片隅が必死に訴えるのだが、、なんと言っても相手は龍二さん。憧れというだけでなくベテランの彼の手腕に、まだまだ新米の俺の身体は呆気なく高められていく。
「ま、っ、あうっ、だめぇ……っ、や、イクぅ、やっ、あっ」
「この程度でもう達くのか? ウブかと思ったが、ずいぶんと淫乱だったんだなあ……俺はウブなやつのほうが好きなんだが」
 意地悪く囁かれる言葉に、嫌われたくないと首を振る。
 本気で止めて欲しいのだけど、そんなことを口はしては駄目って注意されたのは頭に残っていた。
 だって、セイキは何をされてもリュウなら良い、うれしく思っているという設定なのだ。
「ダメッ、やっ、ゴメン、なさっ……だって、ぇ、あ、もう、出るっ、イくぅ」
「イヤらしいなあ、もうチンポから噴き出したいって? もうちょい我慢できるよな」
「だ、だって、そ、そんなぁぁ、い、いあっ、扱かれたら、ぁっ、イクぅっ」
 そう言われても、俺ももう堪えきれないと思った。
 だけど。
「あ、あ……な、んで?」
 思わず呟いて、身体の上の龍二さんをマジで呆然と見つめてしまった。
 だって、ほとんど寸前まで高められていたというのに、龍二さんの手が止まってしまったのだ。
 続いて向けた視線の先で糸を引いて離れていく手が、彼の口元に寄っていく。そのままぺろりと舌が舐め取ったのは俺の先走りの液で。
 向けられた壮絶な色気を含む流し目にびくりとペニスも震えたけれど、さすがに刺激もないままに射精までには至らない。
 実際、今までも俺はまだペニスを扱かないと達けなかったりして、すごくうまいっていう人が相手でも、やっぱり撮影ってことで直接的な刺激がないとなかなか身体がそこまで興奮しないからだ。
 だからこんなふうに止められてはいくら達って良いと言われても達けるものではない。と言っても、寸前で止められては身体が辛い。
 ヒクヒクと震える股間のペニスはまだ浅ましく粘液を零しているし、身体は熱く刺激を欲し続けていたのだ。
 だがそんな俺を見下ろして、龍二さんはくすりと笑った。
「扱いたらイくって言ったから止めてやったんだよ」
「……あ……だけど……」
「まだ射精はするなよ。しないって言うんだったら扱いてやってもいいがな」
 それはさすがに無理だと首を振ったら、また龍二さんが笑った気配がした。けれど続いてもたらさせた言葉に、俺は思わず呆然と見つめ返した。
「俺が良いっていうまで、射精は禁止だ、良いな」
 逆光になってよく見えない龍二さんからもたらされた低い声音は、確かに龍二さんのものなのに。
 けれど、まるで違う誰かのように感じて、なぜか全身が総毛立つような悪寒が身体を襲っていた。