【階段の先】-2

【階段の先】-2

2.

 背後でドアが開く音がして、それが誰か判ったときに俺の心臓は確かに跳ね上がった。それこそマジで口から飛び出すんじゃないかって思ったくらいにだ。
「早いな」
 低く少しだけ掠れた声に、まだその時でないのに股間にあらぬ疼きが走ってしまう。おかげで反応が遅れてしまった。
「は、はい、おはようございますっ、龍二さんっ──くうっ!」
 あたふたと振り返りながら頭を下げてたら、いや、頭を下げたまま振り返っていたら、傍らのイスの脚を思いっきり蹴飛ばしてしまって、そのまま声も出せずに蹲った。
「……っ……だ、い丈夫か?」
 痛みに蹲った俺の上から、かろうじて笑いを堪えているふうの声が振ってくる。それに応えようとは思うのだけど、痛みはすぐに消えなくて。
「見せてみろ」
 諸悪の根源のイスが目の前から消えたのと、大柄な身体が現れたのとが同時で、伸びてきた逞しい手が俺の足首を掴んだ。
「え、あっ、いや、だいじっ、いっ」
 慌てて立ち上がろうとしたけれど、そのまま足首を持ち上げられて必然的に尻餅をついてしまう。
 軽く一周できるほどの手が掴んだ俺の足首が目線より上にあって、太股どころか股間までさらけ出している状態だと気が付いたのは、数秒後。
「────っっ!!」
 声なき悲鳴をあげながら慌ててパスローブの裾をたぐり寄せて、股間だけは隠したが。
「何を今更恥じらってんだよ、おまえのなんかもう何度も見ているだろうに」
 クツクツと笑いを堪えながらの言葉は確かに真実で、けれど恥ずかしいものは恥ずかしい。
 まして、いたずらっぽく手を伸ばし、俺の手から裾を奪おうとするのだから堪らない。
「見ないでくださいっ、っていうか、足下ろしてくださいってば」
「いいじゃねえか、見せろよ、正樹の可愛い、お、ち、ん、ち、ん、を」
「ああ、もうっ。そりゃ龍二さんのに比べたら可愛いサイズになっちゃいますけどねっ、ちょっ、止めっ、やだっ」
 ますます足を高く上げさせられて、熱くなった顔を隠すこともできずに右手は腰の後ろで床について身体を支え、左手で股間を死守して。
「撮影まで待ってくださいっ、まだ、こ、心の準備ってものがっ」
 半ば怒鳴ってしまったのは、見られると思ったときから感じ始めているのが判っていたからだ。
 まだバスローブを持ち上げるほどじゃないけれど、それでも百戦錬磨の龍二さんなら、すぐに気が付いてしまう。
「なーにが心の準備だ、売れっ子新人の正樹くん。出るAVは軒並みランキング上位、さらに虐めたいネコランキング堂々の一位のくせして」
「出るAV全てが大ヒットで超売れっ子龍二さんに言われても、うれしくありません」
 始めの部分をぼやき交じりに返しているとようやく足首から手が外れて、ほっとして裾を整えながら座り直したが。
 って……今、なんて言われた?
「なんですか、その虐めたいネコってのは?」
 売れ行きが良いのはホクホク顔の社長とかから聞いていたから知っていたけれど、そっちは始めて聞いた。
「どっかの雑誌がこっち系のAV界でいろんなランキングを発表するのに、社長が俺らを全員ノミネートさせたんだと。んでアンケートとかしてそれでおまえの名前が堂々一位」
「は、あ?」
 ノミネートされていたというのも初耳だが、一位というのはもっと初耳で。
「ほれ、おまえが出てた、あれ。あー、なんか痴漢物のやつ、あれで票を伸ばしたらしいぜ、一位の紹介で出てたパッケージがあれだったし」
「えー、あれって……」
 この世界にデビューしてわりと早い時期に撮ったやつだ。
 まだ人気とか全然なくて選べる立場じゃなくて出た場末の映画館での痴漢物で3P。マイナーな映像会社のうえに思った以上に無理矢理系が入ってて、相手とか監督とかがねちっこくて急にイスに縛られたりとかもして、ちょっと俺としては二度と出たくない雰囲気で行われた撮影だったんだよな。
 まあ、マイナーなところだったからあんまり数は出ていないって聞いてたけど。
「あれ、他とはちょっと違うやつだよな。おまえ本気で嫌がっていたし」
 なんてさらりと言われ、驚いた。
「え、あれ見たんですかっ?」
「おう、うちの新人くんがどんなことしてるかなあと、まあ興味本位で、だな」
「あー……龍二さん、うちの事務所のみんなが出てるやつ、ちゃんと観てますよね」
 それも楽しむためではなくて、後輩指導のためだということを知っていた。
 龍二さんはうちの事務所ではトップスターだけど、全然偉ぶらなくて、いっつも俺たちのことまで気にかけてくれていて、時間があれば演技指導とか、いろんなノウハウを惜しげもなく教えてくれたりもして、本当に面倒見が良くて、皆が慕っている。
 今は撮影用の衣装で、タイなしでドレスシャツを第二ボタンまで緩めたブラックスーツ姿。
 今日の撮影はデートから自宅に連れてきて、俺にシャワーを浴びせさせたってところから始まるからそんな格好だけど、そのスーツに隠されている身体はしっかりと鍛えられた羨ましいほどの筋肉のついたマッチョなボディだってことはよく知っている。それに肌もていねいにケアされているから、艶光りしているって思うぐらいにきれいなのだ。
 短くて硬そうな黒髪も男らしいし、ついでにいえばあそこも立派だ。
 そんなんだからまさしく兄貴という感じでファンも多い。かくいう俺もこの業界に入る前からファンだったりして、どうせやらなきゃいけないならこの人と同じところをって思ってたから、この事務所に入れたときには飛び上がって喜んだぐらいだ。
「あ、というか、俺なんかが一位……その虐めたいってのは微妙ですけど、そうだったら龍二さんも当然一位でしょう?」
「俺? あー、なんか抱いて欲しいってのとデートしたいってのと、恋人になってのは一位だったかな……って、なんかいろいろ入ってたらしいな」
 指折り数えてる龍二さんは、自分のことは興味なさそうだけど。
「あー……それ判るかも、龍二さん優しいから恋人になって欲しいって思いますよ、みんな」
 俺はうんうんと頷きながら、納得していた。
 龍二さんは、ちょっと痛い系の撮影のときでも、なんか優しさがあるっていうか。
 最初は無理矢理でも、好きだからどうしようもないっていうシチュで、最終的には恋人同士になって──とかいうシーンが多いから。
 もっとも、それは撮影だけでなくて、日常的にそうなんだよな。
 無茶なファンに声をかけられても愛想良くちゃんと対応しているし。
 なんて一人納得していたら、そんな俺を見た龍二さんが「なんか……なあ」と首を傾げて苦笑していた。
「何です?」
「俺って、そんなに優しい? これでも結構いじめっ子だよ、俺」
 そう言いながら伸びてきた爪先が、再びバスローブの裾を持ち上げようとしているのを、間一髪で押さえて。
「いじめっていうか、いたずら好きって言うか……それは否定しませんけど」
 可愛いいたずらだと思うけど、やられるほうは堪ったものじゃない。幸いにちょっと元気になっていた俺のは、いまはもう落ち着いていたから良かったけど。
 これ以上いたずらされないうちにと急いで立ち上がると同時に、控え室のドアが音を立てて開いた。
「そろそろ撮影開始だと」
 入ってきたのは、今回の撮影で特別出演として出てくれる冬吾さんだった。
 彼は俺たちとは違うところの人らしいけど、龍二さんの昔馴染みらしくって仲が良いみたいだ。
 今も目線だけで互いに挨拶して、それで判りあえているみたいでちょっと羨ましい。
「あ、もうそんな時間、すみません。じゃあ、俺先に行っています」
 冬吾さんは下にはもう衣装を着込んでいるんだろう、上から黒いガウンを羽織っていて、漆黒の髪をオールバック気味に撫でつけて準備万端だった。最初に紹介されたときは、ちょっと短めとは言え実業家らしい髪型だったのに、そんなふうに整えられると強い視線がますます強くなって、威力がある。けれどにっこりと微笑むその表情はそんな強い視線をなごませており、どこか安心できるところがあった。
 そんな冬吾さんに告げられて、俺は慌てて撮影場所の部屋へと移動することにした。
 今回は俺一人で待つシーンを先に撮るから、先に行かないと始まらないのだ。
 慌てて冬吾さんに頭を下げてドアを抜けようとしたら、不意に龍二さんが俺の頭をぽんと軽く叩いた。
「まあ、今日のはちょっと特殊なやつだが、落ち着いて、いつものようにやれば良いからな」
 なんて励ましてくれたのは、やっぱり俺が緊張しているのが判っていたからだろう。
 きっとさっきのいたずらも、俺をリラックスさせるためだったんだろうし。
「はいっ、えっと、今回のシチュはマジ始めてですけど頑張りますんで、ご指導お願いしますっ」
 膝につくほどに頭を下げて答えれば。
「まあ、難しく考える必要はねえよ。俺たちが全部うまくやってやるからな」
「そうだね、ちゃんと初心者でも楽しめるようにしてあげるから」
 俺からしたら雲上人みたいな龍二さんと冬吾さんに優しく言われて、俺はもう感激で涙ぐみそうになりながらも、「はいっ」と元気よく頷いた。