【Familiar Sound】(4)

【Familiar Sound】(4)

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31

 ドアが開く音は聞こえなかったから、眠っている間に実はそこにいたのかもしれない。
 目を閉じた途端に、見開くハメになった紀通は、そんなことを思いながら、呆然と目の前の大きな体を見上げた。
 その体がするりと紀通の横に滑り込む。
「あ、あれ? 何で園田さん?」
 中井の素っ頓狂な声音に、園田が眇めた横目で睨む。
「そこで寝ていた」
 指し示されたのは、応接セットの中でも一番大きかったソファだ。いつの間にか隣室から運び込まれていたらしい。
「二時間ほど前にきたら千里がそれにでも寝ろと言ったからな。それまでは千里がそこにいたが」
「お、あいつがっ」
 慌ててきょろきょろと辺りを見渡す中井に、園田が「もういねえよ」とため息混じりに教えた。
「俺と入れ違いに帰った。ずいぶんとお前のことを気にしていたが?」
「あ、いや、帰っててよかったあ……」
 心底ほっとしたような声音が響く。
 だが、紀通は何故ここに園田がいるのか、今ひとつ理解できなくて。
「園田……園田?」
 ぼんやりと名を繰り返す。
「どうした。目ぇ覚めてねえのか?」
「ほんとに、園田?」
「ああ、そうだ」
 伸びてきた腕が、紀通の体を抱き寄せる。
 さっきの中井よりはたくましい腕。
 タバコの匂いのする体。
 どこか荒々しく、けれど優しい力加減。
「園田……」
 ほおっと全身に広がる安堵感は、中井の時とはまた違っていて。
 くたりと胸にもたれかかる体を、園田が引き寄せてくれた。
「あ、……それで、いつから起きていたんすか?」
 どこか怖々とした中井の声も、どこか夢うつつに聞こえる。
「お前が水を取り上げた時は、もう目が覚めていたが? というより最初から見ていた」
 それがどうした?
 と、続けた園田の言葉に、中井が言葉を失う。
 それがどうした?
 と、同じく思った紀通が、中井の絶句の原因に気が付いたのはその直後で。
「あ、あれ……もしかして?」
 怖々と窺うと、にやりと園田が酷薄な笑みを浮かべ返した。
「薬代わりだと思って今日は勘弁してやったが。浮気するなら、もう少し周りに気をつけてからしろ」
 その視線は明らかに紀通を向けられていた。
「う、浮気なんて、そんな……」
 そんなつもりはなかったが、確かにあれはキスに違いなくて。
「えへへ?、園田さん、怒ってくれていいんですよ?」
 なんて、期待に満ちた事をほざく中井は無視して、紀通は慌てていた。
「それにいるならいるって言ってくれれば、園田に貰ったのに……」
 中井のキスも気持ち良いけれど、園田のキスはもっと気持ち良い。
 それに、中井と園田と比べると、やっぱり安心感は園田の方が大きい。
 その言葉に、至近距離で浮かんだのは、何とも言えない当惑の混じった表情だった。
 視線が彷徨ったあげく、中井を睨んでいる。
「お前があんまり弱っていると聞いていたから、様子を見ていた。中井に強請る様子は腹が立ったが、それまでの様子を見ていたからな。無理に引き剥がしても、お前に負担はかけるかもしれないし。まあ、中井のお仕置きはいろいろと考えてはある」
「そ、それって、俺を怒ってくれるんですか?」
「バカやろう、それではお前の仕置きにはならねえだろうが。まあ、退院したら褒美も仕置きもいろいろとまとめてやってやるから、覚悟しとけ」
「はい?」
 上擦った嬉しそうな声ではあるが、どこか不安も感じているような複雑な声音を聞きながら、紀通はうれしさを隠しきれないままに、園田に縋り付いた。
 いろいろと大変だったろうに、こんなにも紀通を心配してくれる園田がとても嬉しい。
「園田、ありがと」
 触れればはっきりと判る匂いと温もり。
 園田が生きてこの場にいてくれる実感がひしひしと伝わってくる。
 それが嬉しくて、紀通は両手で園田の体を抱き締めた。
「おい」
「来てくれた……。来てくれたから……」
 本人を目の前にして、こんなにも気にしてくれたのだと教えてくれて、何を不安に思うことがあるだろう。
「忙しいんだろう? だって、死人が出たって言ってたし」
「あ、それっ」
 横になっていた中井が、紀通の言葉にがばっと跳ね起きた。
「惣山のくそ野郎が死んだって! サツは事故って言ってたけど、大丈夫なんすか?」
「ああ、あれは事故だ。あいつの持っていた銃が暴発した。持ってたヤツがずいぶんと使っていなかったらしい。整備不良も良いとこだ」
 くつくつとおかしそうに笑う。
「整備不良?」
 前に見た映画で、そんなふうに暴発した銃で敵が倒れて、ヒーローが勝つシーンを見たことがあった。
 あれは、異物が銃身にねじ込まれていたのだが……。
「こっちは丸腰。組長の決定に腹を立てた惣山が持ち込み禁止の銃を出してぶっ放そうとしたんだ。それはしっかりと撮影してあるし、サツのお偉方も目撃している」
「え、撮影? それにサツがなんで?」
「昼間の件で事情を聞きに来ていたが、組長の事情の方が先だってんで待って貰った。その間俺たちが何も企まないように、ビデオカメラでその部屋の様子を見せてやるという条件でな」
 おかしそうに笑うその姿は、詳しく聞かなくても計画通りだと紀通にも教えてくれて。
「でも、大丈夫なんすか? 惣山の側近で寝返らなかった奴もいたはずじゃあ?」
「そいつらは今頃ブタ箱入りだ。お前を刺した男が惣山組に入り浸っていた情報をサツが抑えていたからな。これ幸いと奴らの組事務所はサツの手が入って、薬やら拳銃やら、幾らでも出てきたって話だ」
「へえ、そりゃ良かった。俺も怪我したかいがあったってことですよね」
 嬉しそうな中井に、まさか、と紀通の頭の中をイヤな考えが過ぎる。
「な、中井、まさかその怪我、わざと?」
 何もかも計画通りだと言うのだろうか?
 怪我をして、惣山という男とその組を潰すために。
「え、やだなあ。俺、そんなことで痛い目に遭うつもりはないし?」
 速効で返ってきた言葉は、とても信じられるものではなかったけれど。
「中井のは事故だ。便乗はさせてもらったが」
 園田がそういうからそうなのだろう、と信じることにする。
「判った。でも、だからと言って、警察が全てを信じてくれるとは思えないけどな」
 あの田添のように、正義感いっぱいの刑事が他にもいれば、きっと何か言い出すかも。
 そんな心配が顔に出ていたのか、園田が柔らかな視線を向けてきた。
「心配するな。何か手間取っても千里が何とかしてくれる。こんな時のために、千里を身内にしたんだ。なあ、中井?」
 ちらりと動いた園田の視線を追うと、その先で中井が引きつった笑みを浮かべていた。
「えっと、俺は別に……」
 誤魔化そうとしたのだと判る笑みは、けれど引きつっていて、中井の言葉が嘘だとバラす。
「何? 中井、なんかしたのか?」
 紀通の言葉にますます視線が泳いでいる。
「あ、俺……なんか熱が酷くなってきたから、もう寝る。紀通も早く休んだ方が良いよ?」
 ふざけた物言いは、ますます疑念を強くした。
「あ、中井? 園田、何があったんだ?」
 けれど、中井は布団に潜り込み、園田はニヤリと嗤ったまま答えてくれなくて。
「園田?」
 今更仲間はずれなんて嫌なのに。
 ふっと紀通が浮かべた不安そうな表情に、園田はため息を零して、仕方なく耳元で囁いてきた。
「お前より先のことだったが——、お前にしたのと同じ事をした」
「俺とって? え?」
「効果抜群だった」
「効果抜群? は?」
 よく判らない。
 紀通が中井にされたことってなんだろう?
 巧く回らない頭の中で必死になって考えて。
「園田さんっ、ばらさないでくださいっ」
 喚く中井の声音に、ふっと何かが琴線に触れた。
 こんなふうに喚くと、声が良い、と、紀通に迫ってきた時のことが脳裏に浮かび上がる。
「あ……れ? もしかして、中井ってば」
 紀通にしたのと同じ事——といえば。
「もしかして、千里さんを押し倒したのか?」
 想像してしまって顔を顰める。
 それをどう取ったのか、園田は笑いながら続きを教えてくれた。
「それだったら予定通りだったんだろうなあ。だが、押し倒そうとして押し倒されて、なおかつ囚われた。千里に呼び出されて行ったら、こいつは鎖に繋がれて犬扱いされてたんだ。あれは見物だったな。あまにも似合っていて、吹き出しそうになった。しかもくれと言われてな。まあ、そっちはどうでも良かったんだが……」
「……園田さ?ん……」
「くれたら、千里が身内になるって言うもんだから、思わず頷いちまった」
「俺、売られちゃって……」
 ぐすんとすすり上げる中井を、園田がじろりと睨め付ける。
「何を言ってる、自分から虎穴に飛び込んで失敗したくせに。それで逃げられなかったからって俺のせいじゃねえ。しかも、同じ事を性懲りもなく繰り返しやがって」
 それが紀通を指すのは、抱き締めてきた腕の力で判った。
「お陰で鴻崎を巻き込むハメに……」
「違う。中井のせいじゃない」
 その声音に帯びた悔いに、紀通は慌てて園田に縋った。
「俺が望んだ。それに、最初の事故は偶然だった。あの事故で俺たちは出会ってしまったから、いつかはこうなるんだったんだ。中井はそのきっかけを早めただけだ」
「鴻崎……」
「だって、あの事故の時、俺は気になったよ。園田のことが凄く。怖さもあったけれど……」
 あの時、自ら会いに行けなかった心中を思い出して、言い淀んだ紀通を園田が見つめている。
 さあっと頬を染めた朱は、自分の恥を感じたからだ。
 けれど、その頬に柔らかな吐息が触れる。
「怖くなければ嘘だ。鴻崎は正しい。だから、こちらも近づくつもりはなかった」
 その悔いを取り除きたい。
 ただそれだけを思い、紀通は手を伸ばして、近い距離にあった園田の顔を引き寄せた。
「俺は良かった。来てくれて。きっかけを作ってくれて。中井がきてくれて良かった。だからこうやって園田に会えた」
 触れた唇を、それだけでは満足できないと頭ごと引き寄せる。
 すぐに応えて侵入してきた熱い舌に自らを絡めて吸い上げる。
 その拍子に込み上げる体内の熱は、生きているという実感を与えてくれた。
 園田がいれば良い。
 それだけで良い。
 常識なんてくそくらえだ。
 そう思わせてくれるに足る熱だった。
32

 深く強く絡まる舌、それだけのものに紀通は酔いしれていた。
 大きな手が紀通の背を辿り、力強く腰を抱き寄せる。
「あ……園田……」
 甘い吐息が零れて、唇の端から唾液が垂れた。
 それを園田が舌で掬い上げる。
「良い顔だ。堪らねえ」
 耳朶を喰うようにねっとりとした熱が押しつけられる。下肢に触れるはっきりとした塊に、背筋が期待にぞくりとざわめいた。
 ひどく熱く、とても硬い。
 ぐりぐりと余裕無く動くそれに、紀通も欲情する。
 これが欲しい。
 そんなことを思う己がどんなに恥ずかしい事か、とも思うのだけど。
 欲情した体は、そんな理性などあっという間にねじ伏せた。
「あ、……はぁ」
 自ら腰の位置を変えて、擦り寄せる。
 互いに互いをマッサージするように、自らの感じるところを押しつけるだけなのだが、それだけでも目の前が白く弾けていく。
「ん、あんっ……」
「紀通……」
 低い声音が鼓膜に直接響く。
 どうして、似ている、なんて、みんな言うんだろう。
 こんなに気持ちよい声音が、自分の物と似ているなんてとても思えない。
 中井が園田の声に欲情するのが良く判る。
 自分もこんなに欲情して、堪らなくなっている。
 さらりと触れるシーツにすら感じてしまうほどに体が熱い。
「そ、園田ぁ……」
「どうした?」
 意地悪くほくそ笑む園田が恨めしくて、潤んだ瞳で睨み付ける。
 なのに、園田はさらに笑みを深くして、その手を腰の近くで遊ばせた。
 たったそれだけのことに体が跳ねて、どうしようもなくなる。もっと欲しいとさらなる快感を自ら求めて、両足を園田の腰に回した。
「いいのか?」
 脳髄にまで響く声音で問いかけられて、紀通は、何? と首を傾げて。
「やりたいのか?」
 さらに問われて、こくこくと頷いた。
 キスだけで虜になった体は、途中止めなど受け入れてはくれない。
「……そうか」
 くすりと笑った園田が、ちらりと横目で何かを窺う。けれど、くっと喉を鳴らして、すぐに笑みを深めながら紀通に視線を戻した。
「ここを掻き回されたいのか? だが、ここでは無理かもしれないぞ」
 尻の狭間を指で押されて、それだけで甘い声音が漏れる。身を固くしながら園田にしがみついて、からかう声音に落とす彼に、無理に口の端を上げる。
「そっちこそ我慢できる?」
 挑発したのは、そんな意地悪を言う園田に仕返しをしたかったからだ。
 けれど、園田は喉の奥で笑い返してきた。
「鴻崎が後で後悔しないなら、何度でも掻き回して、貫いてやるが」
「後悔なんて」
 園田に抱かれることは、どんな薬よりも精神の安定に良く効くことをもう知っている。
 いろいろとあった今日の全てを洗い流すためにも、園田に抱かれたい。
 園田と共に生きているということを実感したい。
「もうしないから」
 ぎゅうっと園田の背に回した手に力を込めて、首を伸ばしてキスを願った。
 
 
 体の奥深くで熱い塊が暴れている。
 普段は冷たく静かに硬い殻で覆われたまま潜り込んでいるそれが、今やあちこちひび割れて、炎を吹き出していた。
 それが呼び水のようになってさらに熱を上げて体を焼く。
 荒く繰り返される息が喉を焼くほどに熱い。
 触れる手が、肌が、心まで焼き尽くすようだ。
「あ、あっ、園田ぁ」
 まだ指が入っているだけだった。
 けれど、園田の指は太く長い。
 その太い三本の指をクチバシのように尖らせて紀通を何度も貫く。その指が次第に隙間を開け、太く大きくなっていくのだ。
 何度も何度も紀通の後孔を広げ、少しずつ深く激しく抽挿を繰り返していく。
 潤滑剤の代わりに、と使われた何かの液体のせいで、ぐちゃぐちゃと濡れた音が内と外で鳴っていた。
 揶揄の応酬など呆気なく途絶え、紀通の喉からでる喘ぎ声と園田の荒い息が室内に響く。
 一度だけ外から聞こえたサイレンに、ここが病室であることを思い出したけれど。
 奥深くに届いた指先が、快感の源を抉った途端に、そんなことは霧散した。
 ただ、声を出すな、と言われてたから、それだけをひたすら守る。
 枕の端を銜え、顔全体を押しつけて、漏れる嬌声を必死になって押し殺した。
 けれど。
「あ、ああっ」
 どんなに慣らされても指などとは比べものにならない圧倒的な質量を持つ楔に、我慢など出来るはずもない。
 みしみしと肉を押し分けて入っていく熱い楔に、紀通の欲情という名の熱塊は激しく炎を吹き出した。
 くぐもっていても響く嬌声は、防音の効いた特別室の壁で跳ね返されたが、もう紀通には何も判っていなかった。
 襲ってくる快感は啼きたいほどに激しくて、怖くて堪らなくて逃れる術だけを考える。
 けれど、伸ばした手に力は入らず、足腰はすでに言うことなど聞かない。
「あ、やぁ、ひ、ぃゃあ」
「嫌か? だが、ここはそうは言ってない」
 陰茎の先端からだらだらと流れる先走りを爪弾かれ、濡れた指先で頬を撫で上げられる。
「まだ、触ってないんだぜ? ったく、こんなに淫乱だとは思いもしなかったが……だが、嬉しいぜ、たっぷり可愛がれる」
 嬉々とした言葉が、声音が。
 鼓膜から脳を冒す。
 自分は淫乱なのだ。
 そう思えば、羞恥に襲われる。
 けれど、それを園田が望むなら、それもまた嬉しくて。
「んぅ、あぁっ……園田、園田ぁっ」
 突き上げられるたびに性感の源であるその塊から炎は勢いよく吹き出す。多少の水などでは吹き消せないそれは、血流にのって一気に全身に広がった。
 肌がじんじんと疼く。
 のしかかる園田のたくましい筋肉を覆う肌が触れるだけで、ぞくぞくと粟立つ。
「ん、んあぁ、やだぁ……あぁぁ……」
 訳も判らずに涙が出て、頬を伝う。
 汗と混じって顎まで達して、今まさにシーツに落ちようとした時に、滑った何かがそれを掬い取った。
「あ、ん……」
 ぞくぞくと全身が震える。
 突き上げられた拍子に顎を晒した紀通の唇が、塞がれた。
 もう自分の意志では動いていない舌が絡め取られ、きつく吸われて相手の口内に導かれる。
「ん、ぐぅ」
 流れる涙のせいで、呼吸すらままならない状態で口を塞がれて、空気が足りなくなる。
 もっと酸素を欲っして大きく口を開ければ、さらに深く唇を合わせられ、舌が弄ばれる。
 後ろからは深く激しく突き上げられ、前からは呼吸すらままならないほどに口内を蹂躙されて。
「あ、ああっ」
 何もかもが一気に高みへと駆け上がった。
 ぐちゃり、と湿った音が響く。
 すうっと空気が今まで熱かった肌を嬲る。さっきまであった温もりが無くなったことに、朦朧とした意識がひくりと反応した。
「あ、園田……?」
 たらりと太股を流れる感覚にぶるりと身を震わせて、慌てて尻に力を入れた。
 しわくちゃになった白いシーツが目に入り、汚したくないと思ったのだ。
「あ……俺……」
 そのシーツが病院のものだと気が付いたのは、その後のこと。
 やばっ、とさらに体に力を込めて、流れるそれを慌てて手で拭った。
 とろりとしたその液体は、見なくてもなんだか判ってしまい、ほおっと体が熱くなる。
「シャワーでも浴びるか?」
 僅かに遅れてタオルが渡され、その問いかけにはこくこくと頷いた。
 途端に、体がふわりと浮かぶ。
「そ、園田」
 近い場所に園田の顔がある。
 抱え上げた腕は、見なくても筋骨たくましいのが判った。
「じっとしてろ」
 言葉少ないけれど、そこに含む優しさにほっとして、こくんと頷いた。
 さすがにユニットバスは二人で入るには狭い。
 園田は、紀通の体をざっと洗って、座らせてから自分の体の汗を流した。
 紀通にしてみれば、さっきまで自分を抱いていた園田の体をまじまじと見ることになって。
 そのたくましい体に、ほおっと息を吐く。
 幸いにしてその吐息はシャワーの音に掻き消されたけれど、解放した筈の熱が、また体の中に溢れ出してくる。
 硬かったはずの殻は、園田を前にするとどうしてこんなにも薄く脆くなってしまうのだろう。
 じりと両足をにじり寄せ、鎌首をもたげようとする股間を隠す。
 はあっと代わりのように熱を吐き出して、紀通はなんとか園田から視線を剥ぎ取った。
 そんな姿を園田が見ていたと気が付いたのは、それから数秒後だ。
 元気なのは紀通のそればかりではなくて。
 狭さなど、今の二人には全く関係がなかった。
33

 朝一で訪れてきた佐伯が、心配そうに紀通の顔を覗き込む。 
「良く寝られませんでしたか?」
 僅かに寄せられた眉根を視界から外すように、紀通は慌てて首を振った。
 頬が熱い。
「そうですか?」
「大丈夫です」
 さらに言葉を付け加えたけれど、その声がまた掠れている。
「風邪? 喉が?」
「あ、……いや、その、喉が渇いているだけで……ほら、寝起きだから」
 苦しい言い訳に冷や汗を流しながら、原因となった相手を捜すけれど。
 当の本人は、医者が入ってきたと同時にさっさと部屋から出て行っていた。
 残るのは紀通と隣のベッドの中井だけ。
 朝の体温測定が始まる前にシーツは整え直したが、部屋にイヤらしい匂いが蔓延しているような気がしてならない。
 それに加えて、中井の横では彼の担当医が慌てている。
「なんで傷口が……」
 包帯を取り除いた途端にガーゼを染めていた血液は、もう黒ずんでいたし、出血自体はそれほどひどくはない。それでも想定したよりは多かったのだろう。
 肌を汚した血の塊を拭き取り、包帯を締め直しながらも、彼の眉間のしわは深いままだ。
「激しい運動はダメですから」
 と、きつくお灸を据えられていた中井は、痛みに顔を顰めながらも、「すんません」と殊勝な態度で治療を受けていた。
 その言葉を聞きながら、紀通は上掛けに深く隠れた。
 園田に抱かれている間、理性なんて飛びまくっている紀通だが、記憶だけはしっかり残っている。絡み合う二人を目の当たりにした中井が何をしたのか、気が付けばしっかりとその記憶の中に残っていて。
 その他人に言えない中井の行為を自分の中にごくりと飲み込んで、代わりのように深いため息を零したのだった。
 佐伯達が去ってしばらくしてから、園田が戻ってきたのだが、その口元が皮肉げに歪んでいる。
「鴻崎は今日退院だ。だが中井、お前は出血が完全に止まるまでは入院だとよ。最低一週間だな」
「ええええっ」
 気怠げだった中井が勢いよく跳ね起きた、が——。
「い、つぅぅぅっ!」
 咄嗟についたのが怪我をした腕だったようで、上半身を折り曲げ声もなく唸る。
 じわりと白い包帯に赤色が薄く滲んだような気がして、思わずベッドの端に駆け寄った。
「だ、大丈夫か?」
「ううっ、頭のてっぺんまで響いた」
「これでさらに延びたな」
 揶揄の含んだ声音に、中井が痛みに潤んだ瞳を向ける。
「そんな?、俺、もう元気ですよぉ。熱も下がったし。こんなとこで一人は嫌だ?」
「中井……無茶せずに入院しといた方が良いよ。ほら、やっぱり滲んでいる」
 手術が必要だったほどの傷なのだ。
 今無茶したら、またどんなことになるか、と考えるだけで寒気がした。
「けど、一週間もこんなとこ。家でおとなしく寝てたら良いんだろ?」
 それなのに、中井は必死になって言い募る。
 どんなに病院が嫌なのか、まるで子供のようにいろんな理由を言い立てていた。
 そんな中井に、園田のにやりと笑いながら言った。
「そうか。なら、退院できるようにしてやろうか?」
「はいっ!」
「だが、そうなると千里が喜ぶだろうな。怪我をしている間は、自宅でお前の世話をする、と言っていたから」
 その瞬間、中井の顔の血の気が一気に退いた。それこそ、音がしたのではないか、というように勢いだ。
「……あ、いつ……が?」
 わなわなと震える声音の中井に、笑みを深くした園田が頷いて返す。
「い、いや、俺は一人で……」
「一人で無茶ばかりするような子は、いろいろと躾けないとダメですね……と」
 くすくすと笑いながら言葉遣いを真似るから、中井がますます全身を強く震わせた。
「嘘」
「嘘なんか言うか。さて、退院手続きをしてくるか」
「う、うわわわっ、待って下さいっ。俺、ここで大人しく寝てます。一ヶ月でも二ヶ月でも、完治するまでここでっ!」
 出て行こうとした園田の態度はひどくわざとらしいものだった。だが、中井はそれすらも恐怖の対象だというように、必死になって追いすがろうとして。
「い、痛っ!」
 再び、強く動かして痛みに蹲る。
「中井?、と、とにかく落ち着こう、な」
「で、でも、あいつが……」
「だから、最低一週間はここにいられるんだから。とりあえず治そう、その傷、な」
「あ、ああ、そうか、この傷から出血が続けば……」
「う、わあぁっ、バカな事するなっ」
 自ら傷を抉ろうとでもするように掴みかかった腕を引き剥がす。
「だ、だって、あいつが……」
 びくびくと怯える中井の腕を必死で抑えて、いらぬ事を伝えた園田を睨み付ける。
「園田、何とかしろよ」
「中井、いい加減にしろ。それ以上紀通とひっついていると、この場に千里を呼びつけるぞ」
「ひっ」
 その脅迫は効果覿面で、瞬く間に中井の腕から力の抜ける。それにほっと一安心しながら、紀通もぐたりと傍らの丸椅子に腰を下ろした。
「園田、その……千里さんに世話させない方が良いんじゃないのかな?」
 このままでは、中井の傷が永遠に治りそうにない。
 それに。
 こんな中井はあまり見たくない。
 堪らずに乞うように見上げると園田と視線が合った。
 その瞬間の園田の表情は、中井のことなどどうでも良さそうなもので、紀通の心中に一抹の不安が過ぎる。そのせいか、園田が中井に言い放った言葉の理解が遅れたのだ。
「一週間で退院しろ。復帰次第、鴻崎の送迎をやって貰う予定だ」
「へ……?」
 きょとんと中井が園田を見上げる。
 紀通もまた、唖然と園田を見上げて。
「そうげい?」
 理解できない単語をぼんやりと呟くのに重なって中井の声が響いた。
「え、っと、あの送迎って……どこへ?」
「鴻崎の会社だ。最大の問題は片付けたが、まだ安心はできねぇからな。さすがに会社の中までなんか仕掛けてくるとは限らねえが、その行き帰りはやつらも狙いやすいだろう」
 会社って……。
 それって。
「そ、園田。もしかして、俺、会社行って良いのか?」
 園田といるために、もう諦めていた。
 会社もその仲間達と会うことも。
 どうやって辞職願を出したら良いのか、アパートの引っ越しは——なんてことまで考えていたのだ。
 それほどまでに、今は園田と共にいる方が自分にとって一番大切なことだったから。
 けれど、園田は行って良い、と言う。
「いつまでもお前を閉じこめているつもりはなかったからな。本当なら、もっと身近な所にいた方が良いんだが……」
 何でもないことのように言う園田が、けれど、心配そうに目を細めて紀通を見つめてくる。
「今の仕事を辞めたいなら、さっさと辞めれば良いぞ」
「あ、いや……」
 思わず、首を横に振っていた。
「あそこは残業ばっかで、いきなり夜勤もしなきゃいけなくなって……、結構きついけど……」
 それでも、自分の手で工程設計して作り上げた製品が市場に出る喜びは、何物にも代え難い。
 あそこには、それがある。
 何より、今の会社ほど、安心して働ける場所はないだろう。
 最悪の精神状態の時に、助けてくれたのは、あの会社の仲間達なのだ。
「できれば、あの会社で働きたい」
 諦めていた。
 けれど、また行けるのかと思うと、やはり行きたいと思う——けれど。
「中井の復帰が遅れるなら、代わりに井口にやらせるつもりだ」
「え、井口さんに? あの、俺一人で行けるかと……」
「送迎を断るってんなら、行かせないが?」
「あ、それはその……」
 強い声音に園田の固い意志を感じてしまい、紀通は口籠もった。
 井口にまで迷惑をかけてしまうのかと思うと申し訳ない気持ちも多少あるからこその言葉だったが、それでも辞めるなんて言えない。
「さっさと治せ」
 強い視線と強い口調。
 命令し慣れた者の威圧的な言葉に、中井がうっとりと頷き返す。
「もうどんなことがあっても、治す。紀通のためなら、何でもするよ」
 そんなふうに中井が言ってくれるから、なんだか頼りたいと思ってしまう。
 井口には申し訳ないけれど、中井なら……。
「動かない方が早く治るってんなら、このまんまベッドに縛りつけてもらおうかなあ」
「いや、そこまでしなくても……」
 すでに千里のことなど頭に無い中井に、紀通が苦笑を返した時だった。
 中井の瞳が今にも涙を溢れさせそうに潤んでいることに気が付いたのは。
「中井?」
 声をかけた途端に、中井が深く俯く。その拍子に、ぽたりと透明な滴が布団の上に落ちて、染みを作った。
「良かった……良かった……」
 必死に堪えているのだろうけれど、呟く言葉が震えていた。
「紀通、会社行けるんだよな。普通の人達と一緒に仕事出来るんだよな……」
 鼻を啜り上げ、必死で堪えている中井の顔は、笑っている。
「良かった……」
 けれど、結局我慢できなかったらしく、そのまま手のひらで顔を覆い隠す。
 良かった、と何度も呟いて。
 肩を震わせて。
「中井……」
 呆然と呟いた紀通には、中井が何を良かったと言っているのか判らない。助けを乞うように園田を見上げると、ふん、と園田が呆れたように中井に向けて言い放った。
「今頃反省するなら、最初っからやるんじゃねえよ」
「す……んませ……っ……」
「まったく、だからさっさと治せよ」
 さっきよりは幾分柔らかくなった言葉に、中井が無言で頷く。
 何度も何度も、繰り返し頷いて。
 その時になって、ようやく紀通にも中井が泣いている理由に思い当たった。
「中井……俺は、お前に会えて良かったって思っている。園田とも会わせてくれたし、何よりもお前と仲良くなれた事が嬉しいんだ。だから、気にすることなんかないよ」
 昔からすれば非日常の世界。
 でも今は、これが自分にとっての日常なのだ。
「それに、俺に何かあったら、お前が助けてくれるくんだろ?」
 自分が頼ることで中井の心が晴れるなら、それでいいやって思ってしまう。
 きっと送迎なんてとんでもなく面倒だろう。けれど、それが中井のためになるのだから。
「も、もちろんっ」
「だったら、もう良いじゃん」
 涙に濡れた頬に唇を寄せる。
 ぺろりと舐めればひどく塩辛い。
「だから、早く良くなってくれよ」
 嗅ぎ慣れた中井の匂いにほっとしながら、その体を布団ごと抱き締めた。 
34
 カレンダーの妙技で今年の紀通の会社の正月休みは長かった。お陰で、なんとか中井の退院も会社が始まる二日前に行う事が出来た。
 今日は、園田のマンションからの初めての出勤だ。
 紀通はどこか正月呆けをした頭を軽く叩いて、眠い目を擦りながら玄関先へと移動した。
 その後を園田がついてくる。
 退院したのが大晦日。
 それから8日間休みが有ったのだが、今回ばかりはいろいろとやることが多くてゆっくり休んだ気がしない。
 退院した次の日。正月だという気分などまるで無いままに、車も人も少ない街中を往復して、家財道具を運んだ。
 大きな家具で必要なものは、三日前にようやく持ち出せたばかりだ。だからまだ、先に運び出した細々とした物が与えられた部屋の中で山積みになっている。アパート自体は契約の関係でもう一ヶ月分家賃を払う必要があるから、その間に片付ければ良かったが、何しろ仕事が始まれば確実に休みが取れるとは限らないのが紀通の仕事だ。
 だからこそ、確実な今、一気に運んでしまいたかった。
 そして、一昨日は一昨日で、中井が退院するのに迎えに行って。
 昨日は、会社が始まってから用にとインスタント食品や冷凍食品を買い込んで、前より大きな冷蔵庫に放り込んだ。
 紀通が暮らすようになって一気に生活感が増した部屋は、前よりずいぶんと居心地が良くなった。
 一番の面倒ごとが片づいたはずの園田は、組の代替わりとその結果のごたごたに追われて、さらに忙しくなったらしい。
 いつも朝早くから出かけて、帰ってくるのは遅い。
 だが、それでも、紀通がいるから、と必ず夜は帰ってくるのだ。
 その結果、それまで無かった園田の気配も、今はあちらこちらに残っている。それが、紀通にとっては極上の精神安定剤と化す。
「じゃ、行ってくる。今日は……何もなければ早いと思うよ」
 年始めの一日目は、紀通のような技術側の人間にとってはそんなに忙しくない。
 もっとも、長期の休み後に立ち上げた装置類の不調がなければ、だ。そんな嫌な予感は吹っ切って、園田に笑いかければ、返事の代わりに口づけられた。
 この一週間で完全に慣らされたキス。
 言葉数はいつも少ない。
 態度も乱暴なところがある。
 けれど、施されるキスはいつも優しくて甘くて。
 園田の優しさがいつも伝わってくるから、紀通は園田からのキスが大好きなのだ。
 ほおっと零れる吐息はすでに熱を孕んでいる。
 腰に回された力強い手に、もっと力を込めて欲しいと願ってしまう。
 けれど。
『まだですか?』
 朝から元気な声がインターホンから響く。
 そういえば、呼び出されて出て行くところだったのだ、と慌てて靴を履いた。
「ちょっと待ってろって」
 インターホン越しに声をかければ、呆れたような声が返ってくる。
『早めに行くって言ったの紀通だろ。送り迎えなんてみんなに見られるの嫌だって……』
「はいはい」
 ——退院したからと言っても完治ではないのだからしばらくは静養しろ。
 そう伝えた言葉は完全に無視されて、この大役を誰にも渡さないと息巻いていたのは、昨夜の電話でのこと。
 やる気満々の中井は誰にも止められない。
 退院してから今日の朝まで、実は会っていなかった
 そのまま千里の部屋に連れ込まれた中井が一体どうなったのか判らなくて、多少なりとも心配はしていたけれど。
 この様子なら、元気にはしているらしい。
「じゃあ行ってくる」
 キスを邪魔されて不機嫌そうな園田に、苦笑を返しながら手を振って、玄関のドアを開ける。
 その先で中井が元気な笑顔を見せていた。
 園田の不機嫌な表情が視界に入っている筈なのに、まったく気にしていない。
 それどころか、抱きついて唇を合わせてくる。
「ちょ、ちょっと!」
 慌てて引き剥がそうにも相変わらず中井の力は強くて、拒絶の言葉が中井の口内に消えていく。
 園田のキスとは違う。
 甘いけれど、どこかくすぐったく愉しくなるようなキスが、中井のキスだ。
「中井……」
 背後から伝わる低い声。
 そんな反応が嬉しくてくすりと笑えば、中井も笑みを浮かべながら顔を離した。けれど、背に回された腕はそのままだ。
「あ、おはようございます、園田さん。それじゃ、紀通、送ってきますね」
「……」
 無言の圧力は、中井には通用しない事は、園田にも判っているだろう。だが、園田からのそれ以上の言葉は無くて。
 園田の無言の優しさが、紀通には嬉しくて仕方がない。
「じゃ、行ってきます」
 紀通の笑顔の言葉に、仏頂面のままに軽く片手を上げて答えてくれた。

 

 エレベーターまでの短い通路を歩く間、中井の髪が退院前よりはさらに黒っぽくなり、綺麗に整えられていることに気が付いた。洒落た感じではあるけれど、決してちゃらちゃらした雰囲気はない。
「どうしたんだよその髪」
 いつの間に? と不思議そうに問い返すと、途端に中井の顔が歪んだ。
「これ、千里のヤツが紀通んとこの会社の人に見られてもおかしくないようにしようってさあ、染められた」
「え、千里さんがそれやったのか?」
「あいつ、弁護士のくせに美容師のまねごともできるんだと……なんか、友人に教え貰ったとかって」
「へえ、凄いなあ」
「はっ、いらん事ばっか知ってやがる……」
 つんつんと前髪を引っ張っている表情は、実に嫌そうなものだ。
「ちっ、あんなくそ野郎のことなんて放っといて、さっさと行こうぜ」
 挙げ句の果てにそう言い捨てて、紀通の腕を引っ張る。
 が。
「相変わらず口が悪いねえ。あれだけ言葉遣いには気をつけるように言ったはずなのに」
 笑みを含んだ声音が中井の背後から聞こえた途端、その体が硬直するのが見ただけでも判る。
 反射的に振り返った先で、隣室のドアが開き、千里が顔を覗かせたところだった。
 このマンションの8階、つまり最上階には4室しかなくて、一つのエレベーターから辿り着けるのは、そのうちの2室だけだ。一つは園田の、そしてよりエレベーターに近い側は千里のだと、退院してすぐに紀通は知った。
 その部屋から千里が出てくることは、別に不思議ではないのだけど。
「おはようございます、鴻崎さん。体調はいかがですか?」
「あ……おはようございます。ありがとうございます。特に問題はないんです」
「それは良かった」
 にこりと笑むそれは優しくて、中井の事がなければつい気を許してしまいそうだ。だが、一度根付いた警戒心のせいか、どうも彼の背後に尖った黒い尾が見えて仕方がない。
「何で、出てくんだよっ」
 そんな千里に中井が噛みつく。 
「私もそろそろ出ようかと。いろいろと忙しいからね」
 中井に向ける笑みは、紀通に向けるそれよりはるかに愉しそうだ。
 親しげに半ば硬直している中井の肩に手を回し、首にかかっているシルバーのチェーンを指にかける。シャツの下に隠されていた太めのそれが鈍く光って、ずるりと引っ張り出されてきた。
「昨夜までに教えた事はちゃんと守るんだよ。でないと鴻崎さんの迷惑になるからね」
「わ、判って——るって——っ」
「ほら、言葉遣い」
 鎖がちゃらっと音を立てる。
 するすると首にまとわりついたそれが引っ張られて肌に食い込んでいく。
「ひっ、わ、判りましたっ、判りましたっ」
 泣きそうな声で繰り返す中井の頬に、満足げに千里が音を立てて口づけて。
 ゆっくりと出てきた鎖をシャツの中に押し込んでいく。
 その指先が淫猥に動くのに気が付いて、紀通は頬を赤く染めながら視線を逸らした。
「じゃあ、がんばって。今日は私も遅いかも知れないが……良い子にしておくんだよ」
 幼子をあやすような言葉は限りなく優しく聞こえる。
 けれど、ひやりと背筋に冷たい物が走るのだ。
 こくこくと頷く中井から、千里の手が離れる。
「それじゃ、気をつけて」
 にこにこと手を振って、室内に入っていく。
 その姿が完全に消えるまで、中井は動こうとしなかった。
 二人の関係がどんなものかは良く判らないけれど。
「中井?、行こうか」
「あ、もうこんな時間になっちまった?」
 我に返った中井はいつもの表情で、紀通を引っ張る。
 その頬が少し赤みを帯びているのを見て取って、紀通は小さく微笑んだ。
 中井が元気ならそれで良い。
 みんなが元気で、一緒にいられるなら、それで良い。
 これが紀通にとっての幸せで、今はもうそれで十分なのだから。

【了】