【Familiar Sound】(3)

【Familiar Sound】(3)

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21

 最初の内は気になった。
 了承した園田が呆然としている紀通を連れて寝室に移動した時も、やっばり拒絶するのだと思った。
 なのに。
 後から続いてきた中井を無視して、ベッドに横たえた紀通の上にのしかかってくる。
「そ、園田っ! 中井がっ」
「あんなもの、道ばたの石っころだとでも思っとけ」
 喋るなと言わんばかりに唇を奪われる。すぐに入り込んだ舌が、敏感な上顎を舐め上げ、歯列をなぞっていく。
「あっ、くっ」
 抱き締められた時の種は小さな熾火となって、ずっと紀通の体内奥深くに宿っていた。それが、引きずり出されていく。
 けれど、視界の片隅には、嬉々としてじっと見つめる中井が入っていて。
 見ないで……と視線で訴えるが、それすらも中井を悦ばせるのか、うっとりとその顔が緩んだ。
 しかも、園田は完全に中井を無視することに決めたようで、気を逸らせる紀通に苛々と言い放つ。
「こっちに集中しろ」
「け、けど……」
「言ったろうが、あれは置物だ。無視しろ」
 だが石にしろ、置物にしろ、存在感が有りすぎる。
「ちっ」
「え、あっ!」
 どうしても集中できない紀通に、園田はてっとり早く事を進めることにしたようで、いきなりシャツを捲り上げられた。
 前より痩せた胸が露わになって、園田が不意に顔を顰めた。だが、すぐに胸に顔を埋めた。
「あ、やぁ、そこっ」
 甘くむず痒いような快感が、全身に広がる。
 じわりと溢れ出した唾液が、飲み込めないほどに増えて、口の端を流れ出した。
「ひっ、あっ……」
 舌が、小さく色づいた突起を啄む。
 対になるもう一つも、太い指が器用にも摘み上げ、揉み上げていた。
 胸の中にある小さな面積の突起は、普段は気にもしていないものだ。なのに、痛いほどに摘み上げられると、全身がどうかしてしまいそうな程の快感が迸る。
「ひっ、いいっ……うぁ」
 びくびくと震える体は、園田の体によって押さえ込まれている。
 痙攣しているような筋肉の動きは、そのせいで押さえ込まれ、それがまたじれったさ倍増した。
「そ、園田……やだ、そこ……」
「何故?」
 ニヤリと嗤われる。
「気持ちいいんだろ?」
「あっ、やぁ……」
 濡れた場所にかかる吐息は、それだけで愛撫と変わらない。
 胸を弄られただけで堪えきれないほどの快感を味う体は、確かに敏感すぎる。
 これだけでは無いのに……。
 前回の行為を思い出して全身がぶるりと震える。
 怖い。
 たったこれだけの事でこんなにも快感を味わっていたら。
 これから先、まだまだ続くだろう行為。
「あ、やだ……何で、こんなに……」
 触れる手が脇腹を辿る。
 吸い付かれた肌が赤い印を残す。
 その度に体が跳ねて、止められない。
「やっぱ、すっげえ敏感。磨き上げた甲斐もあるけど、もともとが上質の珠だったんだよなあ。性感帯の開発ったって、たいした苦労なんかしなかったもんなあ」
 恍惚の表情を浮かべた中井の手は、さっきから剥き出しになった股間を扱いている。
 その言葉に、園田が不快そうに中井を睨め付けたが、またそれを悦ぶのだと気が付いて、視線を背けた。
 だが、紀通にはその中井の言葉は耳に入っていなかった。ただいきなり機嫌が悪くなった園田を心配そうに見上げる。
「あ、……何?」
「なんでもねえよ。ほら」
「んっ、くぅ」
 なんで……こんなにも。
 触れられるたびに体がとろけていく。
 全身がスライムにでもなったようだ。とろりとどこからともなくとろけて流れてしまいそうでひどく心許ない。だから園田に縋りたいと思ったのに。力が入らなくて、指先がひっかかりもせずに滑り落ちる。
「そ、園田……園田ぁ……」
 涙混じりに訴えれば、園田が意を察して腕を引き上げてくれた。もうとろとろにとろけた体は、自分の意志ではどうしようもない。しかも、どこもかしこも園田を簡単に受け入れた。
「うっ、ああっ」
 会陰を通って奥深くを辿る指を、腰が浮かして迎え入れたのは無意識のうち。
「あ、ああぁぁ……」
 ぬぷりと入り込んだ指に、甘い嬌声が漏れた。
 強請っているように腰が動いているのに、自身は気付いていない。
 ただ、欲しかった。
 夢にまで見た園田の体。
「そ、園田、園田」
「くそっ、何て奴だ……」
 悔しそうな物言いに不安を覚えたのも一瞬だ。
 次の瞬間。
「あぁぁっ!!」 
 体の奥深くに穿たれた熱塊に、意識が飛びかける。
 痛みもある。だが、それ以上の快感に襲われた。
「な、何? 何だよ、これっ」
 少しでも動かれると、頭の中が弾ける。
 前にも感じた快感は、さらに威力を増して紀通に襲いかかった。
 太い楔が、ずんずんと打ち込まれる。
 気に入らないとばかりに激しく抜かれ、また深く。
 弾けたのは意識だけではない。
 いきり立った陰茎は最初の突き上げて、すでに噴出していた。なのに、萎えるどころかさらに出したいとひくついていた。
 同時に、紀通の開け放たれた口からは嬌声しか出ない。
 溢れた唾液が顎から喉へと伝う。全身をぬらぬらと光らせる汗が、突き上げられるたびに辺りに飛び散った。
「すげぇ……あんなにだらだらに……」
 言葉が耳を擽って通り過ぎていく。馴染みのある誰かの声。耳朶にかかる吐息が荒い。
「達ってんだよな、それ……すげえ」
「てめぇ、邪魔だ、避けろ」
「や、だって、紀通すげぇ……そんなに園田さんが良いんだ……」
「ああ……良いっ、イイよぉ……もっと、もっと、ちょうだい……」
 体の奥深く広がる熱。
 けれどもっと。
 もっと欲しい。こんなのじゃ、満足できない
「くっ、百戦錬磨の高級娼婦でも抱いている気分だ。何もされていないのに取り込まれそうだっ」
「ああっ……いい……俺、すっげぇ……良い……」
「うわっ、堪んねえ、その声っ。前よりもっと色っぽくなって——くぅっ」
「あ、ぁぁんっ」
「う、ぅぅっ」
 ただ受け入れているだけの紀通に対して、園田が必死になって歯を食い縛る。
 体の奥深く、穿たれた熱は火傷しそうなほどに熱く感じる。それがずりずりと体内を行き来して、触感など無いはずの場所でまざまざと感じていた。
 その代わりのように、他の感覚が消えていく。
 視界はうすらぼんやりとして、耳は自分の声と体内を駆けめぐる血流の音ばかりが濁流のように響く。口の端から唾液が溢れ、舌は吸われ続けて自分のものではないように麻痺していた。
「はっ、あぁぁぁぁ」
 艶やかな矯正に、生唾を飲み込む音が何度も響く。
「す、げぇ……」
 中井が恍惚の表情で股間をしとどに濡らしながら紀通を見つめている。
「紀通……紀通ぃ、俺、もう達きそっ」
「あ……な、かい……」
 ずいぶんと聞き慣れた言葉がふわりと脳を刺激した。
 体を揺すられながら、ゆったりと視線を巡らせば、至近距離にぼんやりと中井の顔が見えた。
「紀通っ、お、俺——っ」
「ん、あっ、お、俺も……」
 どちらともなく熱い肉が絡まる。
 慣れたキス。
 もっと、欲しい——。
 だが。
「てめえらぁ」
 怒声が響いた。
 目の前から中井が消えた、と認識する間もなく、全身が硬直するほどの激しい衝撃が来た。
「いい加減にしろっ」
「あぁぁぁっ」
「ひあっ」
 ぐんと押し上げられてシーツに押しつけられる。その顔のすぐ横で、どくどくと震える塊があった。
 生暖かい液体が顔にかかる。
 たらりと流れるそれよりも、さらに多量の白濁が紀通の陰茎から迸った。
「あ、あ、あっ」
 どくどくと吹き出す度に震える体。否——吹き出しているから震えるのか。
 どちらとも判らぬままに紀通は全身を痙攣させ、溜まりに溜まっていた精を何度も何度も吐き出した。

 揺すられ続ける体が、悲鳴を上げる。
 けれど、紀通はそれを諾として受け入れ、決して拒むことはなかった。
 汚された顔に、さらに精液がかけられても、にこりと笑いキスを受けれいる。
 夢にまで見た。
 堪えられないと思うほどに欲した。
 それが十分与えられてなお、まだ欲しいと思う。
「もう離せないぞ……くそっ、離せるわけがないっ」
「うん……俺も……もう……」
 俺も……もう絶対に離れない。
 絶対に。

?
22

 カチャという小さな音が耳の奥で響いて薄闇を漂っていた意識がふわりと上昇した。
「ん……」
 手足が怠い。のそりと動かして顔を擦り、重いまぶたをゆっくりと開けてみた。が、焦点が合わなくて、ぼんやりとしか見えない。
 カーテンが外の光を遮って、部屋の中が良く見えないのだと気が付くのに、しばしの時を要した。
「ここ、は……んっ」
 関節が軋む。筋肉が自分のものでないように、うまく動かない。
 結局早々に諦めて、ぱたんと心地よいベッドに身を預け、天井を仰いだ。
「ああ、園田の部屋なんだよなあ」
 昨夜、ようやく巡り会えた園田に思いっきり抱かれた。
 もう何も考えられなくて、動けなくなっても、まだ貫かれて。
 そのせいで、体は今でも悲鳴を上げている。もう、当分いらないとすら思う。
 けれど。
 全く、辛くない。
 体は辛いけれど、心が軽いから。それにひどく目覚めが良かった。
 昨夜は睡眠導入剤を使う間など無かったし、短い時間しか眠れていないはずだけど、それほど夢も見ないほどに熟睡できた。
 遮光カーテンの隙間から僅かに漏れる光から、すでに朝は過ぎているのは判る。
 体は起きあがらなくても、お腹は活発に動き出したようで、何かを食べたくなってきた。
 そういえば、昨夜何も食べていないような気がする……。
 それであの運動量なら、お腹が空いても当然だけど。
 でも、怠い……腰から下が自分のものじゃないみたいだ。
 幸せな疲れとはこういうのを言うのだろうか。
 大仰なほどのため息を吐いた紀通の顔は、綻んでしまりがなかった。
 ぺちぺちと頬を叩いても、いっこうに直らない。
 端から見たら変だと思われるだろう自覚はあったけれど、紀通はまったりとその幸せを噛みしめていた。
 

「あ、起きてた?」
 幸せな微睡みの中にいた紀通の頭がはっきりと覚醒した頃、ドアが勢いよく開いた。
 さすがにその頃には顔の締まりも戻っていたけれど、恥ずかしさを誤魔化すように慌てて体を起こそうとして。
「うっ、つう……」
 途端に走った鈍痛に、前屈みに突っ伏して、両手で腰を押さえる。
「あはは、腰痛? それとも筋肉痛?」
 明るい笑い声に、薄く涙の滲む瞳を眇める。軽快な歩みで窓に寄った中井が、さっと勢いよくカーテンを開けた。
「うわっ、眩しいっ」
 明るい日差しが、窓を介しているというのに目を鋭く射って、たまらずに叫んだ。
 慌てて手をかざして陽光から両目を庇う。
「中井?、いきなり過ぎるっ」
 むすっと文句を言えば、やっぱり笑い声で返されて、ますます機嫌が下降した。そんな紀通をしばらく中井は笑っていたけれど、ふっと笑い声が消えた。
「何?」
 いきなり真顔になった中井にじっと見つめられ、なんだか判らないままに焦って辺りを見渡す。だが、やはりここには紀通しかいなくて、しかも、特に変わったところはないように見えたのだけど。
「紀通、今日はすっげぇ、すっきりした顔してる」
 しみじみと呟いた中井が、さらに覗き込んできた。
「え、すっきり?」
「ああ、昨日はもう思い詰めたような暗い顔だったけどさあ、今日は肌の艶も良いし、瞳も元気っていうか……」
「な、何が肌の艶だって?」
 うっとりと中井の指が頬を伝うのに、ぞぞっと背筋に悪寒が走る。それが快感なのは自分の体だからはっきり判る。
 なんだか嫌な予感がするのは、少なくない経験のせいかも知れないと、脳が警戒警報を発令した。
「な、中井……まさか?」
「昨日はこの肌の上を、俺のモノがたら?りと流れて……ああ……紀通の汗と、俺の精液がねっとり絡み合って……」
「ひっ」
 つつっと首筋を這い降りていく指先を、紀通は反射的に払っていた。
「いい加減にしろよっ、朝っぱらから発情すんじゃねぇっ」
 敏感な肌への感触と言葉から連想で、紀通の体が呆気ないほどに熱くなったのだ。
「あっちこっち痛いし、怠いし、腹は減ってるし。これ以上は無理っ! もう当分いらねえよっ」
 きっぱり、はっきり、言い切ると、中井がくすくすと苦笑気味の笑みを浮かべた。
「良かったじゃん、それだったら、しばらくは園田さんがいないからって禁断症状は出ないんじゃないの?」
 淫猥な動きをしていた指が上がって、垂れた前髪を梳き上げられる。その声音の優しさに、目を瞬かせて見上げれば、中井の優しい笑顔に出会った。
「園田さん、二三日事務所に詰める事になってるんだ。だから会えないけど。それが終わったら、大晦日だけは帰ってくるって言ってたから……。だからそれまでは、我慢できるよな」
 まるで幼子を諭すようなその物言いだと、ムッとして唇を尖らす。
「何が禁断症状だよ。園田の奴、また帰ってくるんだろう? それに、また会えるんだから……大丈夫だよ」
 勢いよく言い返したはずなのに、いないのだと認識し直すとその声音が弱くなる。
 最後はぽつりと呟けば、中井がその唇を掠めるように奪っていった。
「俺がいるよ。園田さんの代わりに、なんでもするから。寂しくなんてないぜ」
「寂しくなんか……」
 ない、と言い切ろうとした言葉が、途切れる。
 笑おうとして失敗した紀通に、中井が代わりに笑ってくれた。
「紀通は甘えん坊だからな。せいぜい俺がたっぷり甘やかして——園田さんより俺の方が良いって言わせてやるよ」
「……まかり間違ってもそんな事……、——言う訳ないだろう?」
 何故か勝手に声音が弱くなった自分に動揺していると、中井が判っているというように髪をくしゃくしゃにかき回した。
「俺って、優しいからなあ。紀通が俺にまいっても当然って」
「……園田に殺されるぞ」
 自信満々の表情は、その言葉に不意に崩れる。
「それって、サイコーっ」
 中井はどうあっても中井だ、と、紀通は思い切りよく吹き出した。
「あ……薬」
 中井が用意した朝食兼昼食を口にしていた時、はたっと思い出したのは、残り少ない薬のことだった。
 昨日行けなかったから、正月休みの薬が少し足りないかも知れない。
 慌ててテーブルの片隅に放置してあった袋の中をひっくり返して数えても、やっぱり少なかった。
「何? もう良くなったんだからいらないんじゃないのか?」
 目の前で食べていた中井の指摘に、佐伯の言葉を思い出しながら首を振った。
「急に減らすと反動が起きるから、減らす時は少しずつって言われているんだ。睡眠導入剤は昨日飲んでいないし、たぶん足りそうなんだけど、こっちの薬は……やっぱりまだ飲まないと不安だし。けどこのまま飲むと、やっぱり足りないから、休みに入る前にもらいに行かないと」
 飲まなくて良いのなら……とは思うけれど、まだ減らすとこには抵抗がある。
 昨日だって、園田を待つ間に起きたあれは、パニック症状だ。あんなことがまた有れば、不安が不安を読んで、悪化するのだと前に調べたときに知っていた。
 このままずっと園田が傍にいてくれるという保証はない。それにあんな症状が起きるのを園田には見られたくなかった。
 こればっかりは、男としてのプライドが勝ってしまう。
 それに、実際問題園田はいない。
「食べ終わったら取りに行こうかな。今日は28日だから……確か処方して貰える筈で……」
「ダメ」
 ぱくりと卵焼きを口に放りながら、病院までの道のりを脳裏に浮かべた途端、否定の言葉が返ってきた。「紀通は部屋から出すなって、園田さんに言われてる。だから、出せない」
「でも……」
「ダメ」
 必要だ……と続けようとしたけれど、中井の視線がそれすらも封じる。
「家にも帰せないんだよ。昨日園田さんが言ったろ? まあ、快楽に溺れて、覚えていないかもしれないけど?」
 にたりと笑いながら言われて、かあっと顔が熱くなる。
「お、覚えてるよ」
 確かにそんなことは言われて承諾したことは覚えているから、言い切ったものの、中井の瞳は疑ったままだ。
「まあ良いけど。だから、着替えとか必要なものは、俺が紀通ん家から取ってくる。あ、ああ、そん時に薬も貰ってくるよ。診察券とか借りて……。紀通が担当の先生に電話しておけば大丈夫だろ?」
「え……」
「家から取って来なきゃならないもののリストを書きなよ。食べ終わったらすぐに行ってくるから」
 言い切った途ら急に中井の食べる速度が上がって、食べ物が一気に減っていく。
「忙しいんだろ。だっだら、俺が行った方が早くないか?」
「ダメ」
 とりつくシマもなく否定され、しかもじろりと睨まれて、二の句が継げない。
「俺が行くから。急がしいったって時間制限がある訳じゃないし。だから、書きなって」
「……う……ん」
 頷く以外許されない雰囲気がひしひしと伝わってきて、紀通は逡巡した後、結局頷いた。
 
 
「誰か来ても絶対に出るなよ。そんな必要なんかないし、そもそもこの家が園田さんの自宅だなんて、ほとんどの人間が知らないしな。知ってる奴の方がやばいんだよ。だから、誰か訪ねてきても出なく良い」
 何度も何度も念押しして、中井は出て行った。
 ばたばたしても、夕方までには戻ってくる、と笑っていった中井の言葉を疑うわけではないけれど。
 いきなりシンと静かになった部屋に、紀通は寒くもないのにぶるりと身震いした。
 両腕で自分の体を抱えるように力を込める。
 ここは園田の家なのに。
 それでも沸き起こってきた不安感に、慌てて朝の薬を飲む。
 朝が遅かったせいで、ほんの少し時間が空いただけなのに。
 やっぱりすぐには治らないのかも。
 馴染まない部屋を見渡して、紀通は大きなため息を吐いた。

23

 昨日に続いてまたしても訪れた待ち時間に、紀通はさっきから重いため息を吐きっぱなしだ。
 せめて気にしないようにと、家の中の仕事でもしようかと思ったけれど、きちんと整理された部屋はどこもたいしてする事が無くて、すぐに用がなくなってしまった。
 仕方なくテレビを見るけれど、どうしても集中できなくて、セリフも演技も頭の中を素通りしていく。
 はあ……。
 何度ため息を吐いたか判らない。
 ため息の数だけ幸せが逃げていく、という話をどこかで読んだことがあるが、それが本当なら今の自分からいったいどのくらいの幸せが逃げていっただろう。
 そんな自覚はあるのに。
 はあ……。
 紀通の意思とは無関係に、ため息は零れ、気力は削がれていく。
 まして、こんな時こそ無情にも時は遅く流れ、さっき時計を見た時からまだ数分しか進んでいない。
 仕方なく、今度はうろうろと部屋の中を動いてみたり、軽くストレッチをしてみたり、休み明けの仕事の計画を立ててみたりしてみたけれど。
「……休みが明けても、もう会社に行けないかもしれないんだよな」
 離れたくないから一緒にいる、と言った言葉に嘘は無い。
 けれど、こんなふうに日々を過ごすことになるのだとしたら、たぶん耐えられなくなる。
 求めてやまない存在に、常に傍らにいて欲しい。それができないなら、せめて代わりになることが欲しい。
 中井だって、今のように用事があって出かけることもあるだろう。このマンションの警備をしていると言っていたから、呼び出されたら行かなくてはならないし、園田の用事だってあるだろう。
 その間、ここで一人。
「あ……」
 どきりと心臓が高鳴り、胸が不安にきゅうっと引き絞られる。
 慌ててマイナスの事は考えないように、と思うけれど、それがまたマイナスの思考となって、心の中に居座った。
 ぎゅっと拳を握り、窓の外を見据える。
 大丈夫、大丈夫。
 ここは園田の部屋だから、園田にも中井にも会える。
 自分に言い聞かせるように、何度も何度も考える。
 だって、昨日園田は言ってくれた。
 もう離さない、と熱い体で抱きしめながら、何度も何度も言ってくれた、だから。
 まだ体に残る違和感がその証だと、紀通はなんとか心を安定させていた。
 ——駐車場に着いたから。
 携帯にかかってきた電話に、一気に体から力が抜けた。
 中井の言葉はどんな精神安定剤より紀通には効いて、張りつめていた心も一気に軽くなる。
 切れた携帯を握りしめたまま、紀通は玄関へと近づいた。
 きっと山のように荷物を持っているはずだから、来たらすぐに開けたいから。
 落ち着いて、不安な顔なんか見せないようにして。
 笑顔で迎えられるように、紀通は何度も何度も深呼吸した。
 駐車場から中に入って、エレベーターを待って。
 タイミングが合えば、すぐに上がってくるだろうから。
 時間を見計らって、紀通は玄関のドアを開けた。
 チィン——
 タイミングぴったりにエレベーターの到着音が響いた。
 やったっ、と無邪気な満足感を感じながら、ドアを大きく開け、「中井?」と、ひょいっと顔を出した途端に。
「バカっ! 出るなっ!!」
 激しい怒声が静かな空間に響いた。
「え、あ……?」
 中井の声だと認識する間もなく、絡み合い暴れる複数の人間が視界に入った。
 咄嗟のことに状況を理解できない。
 ただ、男たちの剣幕を肌で感じて無意識のうちに足が一歩下がる。
「紀みっ、がっ!」
 再度の怒声が、いきなり途切れた。
 男に殴られて沈む体は、見慣れた中井のもの。そして、伸びてきた手は知らないもの。
「う、うわっ!!」
「に、逃げっ!!」
 床にうずくまった体にさらに蹴りが入る。鈍い音と悲鳴が重なって、それでも中井が必死になって男を止めようとしていた。
 厳つい男の手が空を切る。
 手が届かないのは、中井が掴んでいるから。
 だから、中井は蹴りを入れられて——。
「は、やくっ」
「あ、あ……」
 せっぱ詰まった声と、見上げた中井の眼力に押されるように、紀通の体が後ずさった。
 体という支えが無くなったドアが、ばたりと閉まる。カチリと鳴ったロックの音。
 一度閉まれば、簡単には開かない構造になっているのだと、聞いた覚えがあるそれが、中井をも閉め出したのだと気が付いたのはすぐだ。
「あ、中井っ。中井っ!!」
 がちゃりとドアノブを回そうとして、けれど、かろうじて響く怒声に体が竦む。
——畜生っ! 逃げられたっ!
——引きずり出せっ!!
——やめろっ!
「や……、中井……園田……」
 危ないんだ——と何度聞いただろう。
 園田たちが紀通を遠ざけた理由。
 その現実が今目の前で起きている。
 ひどく蹴られて殴られていた中井の姿が脳裏に浮かんで、唇を噛んだ。
 助けたい、けれど、怖い。
 どうしたら……。
 唇にひどい痛みを感じても、紀通はゆるめることなどできなかった。
 中井がそこにいるのに。大変なことになっているのに。
 助けられない、俺では。
 ぐうっと喉の奥が鳴る。
 と、未だ握りしめていた携帯に気が付いた。
「あ、園田に——、電話……って番号が……」
 そこには園田の番号は入っていない。
 昨夜の再会は、話が付くと一気にベッドにまで雪崩れ込んでしまったので、そんな些末なことにまで気が回らなかったのだ。
 ガンッ
「ひっ」
 手のひらをつけていたドアが震えた。たいした衝撃ではなかったが、それでも紀通は後ずさって、壁に背をつけた。
 がくがくと体が震える。
 ドアが何度も鈍い音を立てるのをじっと見つめる。と——。
 リリリリリリリリリリリッ
 いきなりの音に思わず飛び上がる。
「な、何っ?」
 慌てて辺りを見回せば、ドアの傍らで赤い警告灯が点滅しているのを見つけた。
 小さなディスプレイ付きで、そこには警告という赤い文字と、「ドアへの衝撃」という文章。
 映っているのは、すぐ外の景色なのだろう。
 さっきの男たちが慌てたように踵を返すところが映っていた。
「もしかして、これって非常ベル?」
 セキュリティは万全と言っていたから、これで警備員が来るのかもしれない。
 一抹の期待を胸にそっと外を窺えば、確かにドアの音も消えて、ディスプレイには誰も映っていない。代わりに、警報内容が変化していて、「警備員急行中」となっていた。
 その言葉に、一気に体から力が抜けた。
 がくりと膝が崩れそうになるのを必死で我慢して、ドアノブへとしがみついた。後は、ロックを解除して……。
「中井……中井……」
 中井を助けなきゃ。
 蹴られて、殴られて。
 きっとたくさん怪我をしている。早く手当をしないといけないのに。けれど。
 怖かった。
 怖くて手も足も動かない。
 もう男たちは逃げたのに。
 カメラは、操作すれば死角なしに廊下を見渡すことができるのだが、紀通はまだその操作方法を知らなかった。だから、じっと待つことしかできなくて。
「あ……」
 小さなディスプレイの中に影が入ってきた。途端に心臓がきゅうっと引き絞られる。さあっと音が立つほどに血の気が退いた、が。
「な、かい?」
 ひどく変色した顔色、腫れたのか、顔形が変だ。けれど、それは紛れもなく中井だった。
『紀、通……もう、だ…丈夫……』
 いつもと違う声は、スピーカーを通しているだけではないだろう。
「な、かい……中井っ」
 手が動いた。
 動かなかった足が動いた。
 慣れないロックをなんとか開けて、ドアから飛び出す。
 慌てふためく紀通を、対面の壁にもたれていた中井が、にやりと笑う。
「何、慌ててんのさ、んな、血相変えて」
「だ、だって、中井……」
「俺だと、確認せずに……開けっから……怖い目に、合う……んだよ」
 威勢よく喋り出した中井にほっとしたのに、けれどその声音がだんだん弱くなっていく。さすがに変だと気づくほどに、終わり頃には上げていた顔すら下がってしまっていた。
「な、かい?」
 呆然と呼びかけると、視界の中、流れ落ちる何かに気が付いた。
 ぽた、ぽた。
 一定の間隔で、腕から滴が滴り落ちる。
 赤黒い液体。
 なんで、あんな色? あれは、何?
 わなわなと震える唇が、答えを紡がない。
「なんか…有ったら、警報を……押せっての……わすれて……」
 ぐらりと中井の体が傾いだ。
「中井っ!」
 慌てて伸ばした手が、ぬるりと滑る。
「俺のせい……。やつ、ら、俺を追っかけて入り込んで……。こんなところで……」
 途切れ途切れの声は、もう掠れてはっきりと聞こえない。
 ぬるりと手のひらを染めたそれを呆然と見つめて、中井を抱きしめる手を強めた。
 こんな……。こんなの……。
「ごめ……」
 なだめるように優しく握られていた指が、ずり落ちる。
「中井……中井っ!」
 呼びかける声に反応が無い。抱えていた腕に人一人分の重みが加わって、紀通は支えきれなくて崩れ落ちた。
「中井っ、中井っ!!」
 抱き起こしたかった。
 返事して欲しかった。
 なのに、中井は動いてくれない。
「中井……起きて。中井、中井……」

?
24

 エレベーターが開くと同時に、数人の男たちが出てきた。
 辺りを窺うように見回し、警戒心も露わにこちらを見据える。
 と、その瞳が大きく見開かれた。
「中井っ」
 血溜まりが広がり始めた中で、紀通に抱えられた中井を見いだしたのだ。
 中井を知っていたけれど、だが、あいつらとは違う。
 直感が判断する。
 この人たちは味方だ。
 この人たちが、あの表示に出ていた警備員なのだ。
 脳が理解して、ようやく体が動いた。視線が縋り付くものになり、震える唇がようやく動く。
「血が、血が止まらないんだ、中井を助けて……、中井をっ」
「あ、ああっ、おいっ」
 先頭を切って駆け寄ってきた年配の男が、中井を抱き上げた。その拍子にまたボタボタと血が滴り落ちる。
 鈍い色の赤が、コンクリの床を汚していく。
「こりゃ、ひどいな」
 リーダーなのか、彼の指示で他の人が動く。止血帯がすばやく巻かれ、流れる血は止まったけれど、その代わり巻かれた白い布がどんどん赤く染まっていった。
「な、か、い……なかい……」
「担架はっ」
「救急車がっ」
 バタバタと高く靴音が響いて、男たちの声が重なった。
 その声が紀通には雑音にしか聞こえない。
 目の前にいる中井が、ぴくりともしない。
 痛いはずだ。なのに、動かない。
 引き離されてようやく気が付いた腕の傷。大きく切り裂かれた布地の周りを厚く覆う赤い布——否、あれはさっきまで白かった。
「あんたは? 怪我は?」
 間近でかけられた声がわんわんと響いて、はっきりとしない。
「大丈夫か? しっかりしろっ」
「え……」
「ほら、しっかり。中井は大丈夫だ。それより、あんたの方だよ」
 ペチッと軽く頬を叩かれて、その刺激に意識が目の前の男に向かう。
「おんた、園田さんが言ってた人だろう? 大丈夫か?」
「あ、……はい」
 園田、という言葉が、紀通の崩れかけていた神経をピンと張りつめさせた。
 目の前の現実が紀通に戻ってくる。
 担架が運ばれてきて、中井の体が浮かび上っていた。
「中井っ、中井は?」
 慌てて立ち上がり、運ばれる担架に縋り付く。
「待てって、慌てるな、病院に行くだけだ。あんたも、一緒に行っていいから……おいっ」
「はい」
「後は頼む。俺は、この人を連れて行く」
「はいっ」
 たくましい腕が、ふらつく体を支えくれる。
 救急車のサイレンの音が遠くに聞こえてきた。同時に、他のサイレンも聞こえてくる。
「ちっ、警察も来たか……、まあ、しょうがねえかっ」
 毒突く低い声音に見上げれば、男が口惜しそうに眼下を見つめていた。
 救急車に一緒に押し込められ、中井とともにそのまま病院へと搬送された。
 中井は、病院についてもぴくりとも動かず、そのまま救急治療室に連れて行かれてしまった。
 紀通は何もできずにただ待合いの席に座り込むしかない。
 傍らには、あの警備員が付いていてくれたが、互いに言葉はなかった。
 さっきまで園田の部屋で、一人寂しく待っていたのに。
 今は、一人ではないけれど、あの時よりずっと辛くて、苦しい。
 中井がいなくなるかもしれない。
 そう思うだけで、胸が引き絞られるように痛い。
 十分な照明なのに薄暗く感じる待合いで、紀通は両手を組み合わせて荒い息を吐いた。
 息苦しくて、ふらふらする。
 俺のせいで、中井はあんな怪我をした。
 あの時、中井を見捨てて扉を閉めたから、中井は……。
 時間があればあるほど、あの時の光景が脳裏に浮かぶ。しかも、何度も何度もリピートされるたびにより鮮明になっていく。
 紀通がドアを閉めてしまったから、中井は責められた。殴られて、蹴られて、挙げ句の果てに切り裂かれた腕。
 見えていなかったはずの光景まで、見たことのように浮かんでしまう。
 ぐさりと刺された中井が苦悶の表情を浮かべている。その瞳が紀通を見つめるのだ。
 なぜ——閉めた?
 と、恨みを込めて、見つめてきて。
「あ……俺が……」
 がちゃりと閉まったドアに中井が縋り付いて、開けろと呻く。
 けれど、そのドアを開けなかったのは紀通で。
「俺が、閉めたから……中井は逃げられなくて……」
 激しい悪寒が全身を襲う。
「中井が刺されて、俺だけ逃げて……」
 ぎゅうっと腕をかき抱く、その指も震える。
「中井が、中井が死んだら、俺のせいだ……俺の」
 危険だから会わないと言われていたのに。それなのに、中井に縋り付いて無理矢理あのマンションに連れてこさせて。
 だから……。
「おい、あんた、真っ青だぞ」
 隣の男が、異変に気づいて声をかけてきた。だが、その声は紀通には届かない。
「俺が奴らを連れてきたんだ。危険なのに、中井は俺のせいで外に出て」
「違う、中井はそれが仕事なんだ。園田さんに頼まれた事をするのが、あいつの仕事だ。あんたを守るために、あいつはいたんだ」
「俺が薬がいる、なんて言わなかったら、外に出なかった。だいたい俺が来なかったら、中井はあんなに血を流すなんて……、血が……いっぱい……」
 震える手のひらを目の前にかざす。
 この手が真っ赤に染まるほどの出血があった。
「おいっ、しっかりしろっ!」
 体が揺すられる。
 ゆらゆらと揺れるのは、自分なのか、世界なのか判らない。
 こみ上げるひどく熱い固まりが胸の奥でつかえて、出てこなくて。
 ぎゅうっと心臓を圧迫する。
 肺が、さっきからきちんと働いていないのか、息がひどく苦しい。
 ぜいぜいと喉を鳴らす紀通に、男も蒼白になって立ち上がった。
「誰か。誰か、来てくれっ」
 ひどくうるさい音が鼓膜を揺すって気持ち悪い。
「園田さんに守るように言われてんだっ。なんとかしてくれっ」
 ぐるぐると視界が回る。
 気持ち悪くて、立っていられなくて、体がぐらりと傾いだ。
「危ねぇ!」
 伸びた手が寸でのところで、紀通を支えてくれた。そうでなかったら、床と顔が激突していただろう。
 けれど、その意識すら紀通はなくて。
 ただ、中井が、中井が……と呟く。
 中井がいなくなる。
 それは、会えないと思っていた時よりも苦しい。
「あ……あっ、中井が……中井が……いなく」
「なりませんよ。彼は大丈夫です」
 強い声音が、紀通の言葉を奪い、その思考を否定した。
「彼は、出血は多かったですが、命に別状はありません。まだ若いから生命力も強い。大丈夫ですよ」
 はっきりとした自信に満ちた声音が、何ものも拒絶していた聴覚神経を揺さぶった。
「だ……いじょーぶ?」
 幼子のように弱々しい声が零れ落ちるのを、さっきと同じ声が肯定する。
「はい、大丈夫ですよ、鴻崎さん。それより、今はあなたの方がよっぽど問題です」
 どこかで聞いたことがある声音だった。
 ふっと我に返れば、誰かに抱きしめられている。
 椅子から落ちかけた体制のまま、目の前の誰かに支えられているのだ。
「少し、休みましょう。中井君より、あなたの方が危険です」
「先生?」
 聞き慣れた声音のはずだ。
 掴んでいた白衣の襟を確認するまでもなく、紀通は彼の正体に気が付いた。
「佐伯、先生?」
「あんた、医者なのか?」
 顔を上げてぼんやりと呟く紀通と、佐伯の顔を見比べるながら警備員が低い声音で確認する。それに、佐伯は穏やかに微笑んで頷いた。
「彼の主治医ですよ。ね、鴻崎さん」
 言われて、つられるように頷いた。
 少なくともその言葉に間違いはないから。
「佐伯先生は、俺の主治医で」
「中井君は、今日私のところに見えて薬を持って帰りましたよ。そのときに外科の看護師が彼に会っていてね、それで私のところに知らせてきてくれたんです」
「あ、そうか……薬……」
 薬が足りないから、だから中井は外に出て……。
「ああ、鴻崎さん。中井君のことはあなたのせいではありませんよ。私は彼と少し話をしたのですが、中井君はね、鴻崎さん、あなたを守るんだと息巻いていましたよ。そして、こんな薬なんか頼らなくても大丈夫になるように、絶対にもう離れないって、啖呵まで切って」
 優しい声音は、初めての診察の時のように耳に馴染む。
 凝り固まった胸の奥底の澱みがゆっくりとほぐれて、苦しかった呼吸すら楽になっていく。
「彼は、あなたのことをとても大事に思っていました。彼の大事な人があなたのことが大好きだから、だからどんなことをしても守るのだ、と。それが、あなたを引っ張り込んだ自分の責任なのだから、と」
「責任……って。俺、別にそんなに中井に守られるなんて」
 優しく諭される言葉の意味が面映ゆく、思わず首を振った。
 だが、それは別の場所から否定される。
「先生の言ったことはそのまんまだよ」
 一緒に付いてきてくれた警備員の言葉だった。
 彼が、その厳つい表情を和ませて、紀通の顔をのぞき込む。
「中井は、あんたのことを折に触れ俺たちに話してくれていた。いつか、落ち着いたら迎えに行くんだと言っていた。それが園田さんのためになるから、と」
 大きな手のひらが頭に乗せられる。
「大変な目に遭わせて済まない。でも、中井も俺たちも、あんたのことを守りたいのは本当なんだ。だから、中井はあんたのせいだなんて思いやしない。いや、だいたいあんたのせいなんかじゃないんだ。それだけは判ってくれ。あんたが自分を責める必要なんてこれっぽっちも無いんだ」
「でも……」
 それでも思わず否定しようとしたけれど、頭に乗せられた手が重くて首は動かなかった。
「でも、じゃないっ」
 返ってきた強い口調にびくりと硬直する。けれど、佐伯がそんな紀通をなだめるように柔らかく抱きしめて。言葉を発した彼自身も、自嘲気味に顔をゆがめて笑い返した。
「俺たちは園田さんに大恩があるんだ。だから、園田さんが喜ぶことは何でもしたい。だから、あんたを俺たちに守らせてくれ」
「でも……」
 なんだよく判らなくて、頷く事をためらい、視線を泳がす。
 けれど、体を覆う暖かな温もりと、覗き込んでくる似合わない優しい瞳に、心がゆっくりと解れていく。 中井も、この人も、みんな園田が大好きなのだ。何よりも、彼の幸せを願うほどに。
 そんな相手から頼まれたら——紀通も必ず頷くだろう。
 その人のことを絶対に守る、と。
「鴻崎さんは、ずっと園田さんと言う人に会いたかったんでしょう? その、ようやく会えた園田さんが、あなたを守りたいと想ってくれているのだから、あなたはそれを受け入れて良いんです」
 佐伯の言葉が、乾いた砂地に染みこむ水のように胸の奥に入っていった。
25

 落ち着いてきて椅子に深く腰を下ろした紀通の顔を、佐伯が覗き込む。
「どこか、部屋を用意しましょう。貧血気味のようですし」
「でも、俺……中井についていたい」
 ちらりと見やるドアの向こうで、中井はまだがんばっているのだから。
 いくら大丈夫と言われても、やはり顔を見るまでは安心できなくて。
 不安げに眉を顰めた紀通に、佐伯は苦笑を浮かべた。
「しょうがないですね。でしたら、ゆったりとして……」
 優しく体を傾けさせられて、横になれと促される。長椅子のソファは寝心地が悪いけれど、横になってみるとなんだかひどくホッとした。
 そんな紀通に、佐伯の笑みも深くなりその口が、「何か掛けるもの……」と優しい声音を漏らした、その時。
「鴻崎っ」
 優しい言葉が端から響いた怒声に遮られた。
 はっと紀通が跳ね起きたのと、警備員の男が直立不動の体勢を取ったのが同時だ。それから少し遅れて、
佐伯が眉を顰めて、声の主を見やった。
「静かにしてください。病人がいるんですから」
 けれど、ツカツカと勢いよくやってきた園田は佐伯を押しのけるように傍らに跪き、きつい視線が紀通の全てを探る。
「怪我は?」
 地を這う声音が、ピンと張った空気をさらに張りつめさせたけれど、それを難なく佐伯が破った。
「鴻崎さんは大丈夫ですよ。ただ、衝撃的なことばかりで精神的に不安定になっただけです。後、少し貧血気味ですから、栄養をとって休ませてください」
 すくっと立ち上がって、にこりと微笑んで。
 鴻崎すら怖いと思う相手を、佐伯は堂々と見返した。
「あんたは……医者か?」
「はい、ここの医師で佐伯と申します。鴻崎さんの主治医です」
「主治医……例の薬のか?」
 視線が紀通に向けられて、昨夜見られたあの薬のことだと、こくりと頷く。
「そう、か……」
 わずかに考え込む素振りを見せ、けれどすぐにその視線を戻した。
「こいつを今日は入院させたい。部屋を用意しろ」
 その言葉に、驚いたのは紀通だった。
「え、俺、別にどこも……」
「何言っている。今、この医者が休ませろと言ったじゃないか。それに点滴も必要だろう? 貧血と……それに、今日はいろんな事があったから、医者に良く診てもらった方が良い」
 きっぱりと言い切られ、口を挟む暇もなかった。
 しかも、園田の言葉は完全に命令口調で、他の選択肢は何も無いとばかりの勢いだ。
「あ、あの?」
 さすがに佐伯に失礼だと視線を動かせば、なぜか佐伯はにこりと笑って頷き返してきた。
「そうですね。やはり部屋を用意しましょう。幸いに、確か特別室が空いていますし。中井君も明日には、そちらに移動できるかもしれませんしね。そうしたら、安心でしょう?」
 なぜか入院させる気まんまんになってしまった佐伯に、そう言われて、紀通は反論することもできない。
 何より、その言葉を聞いた園田がさっさと警備員に命令しているのだ。
「井口、入院に必要なものをそろえてやれ。それと、おまえは付き添いだ」
「はっ」
「サツが事情徴収すると言っていたからな。鴻崎一人では無理だろう?」
 疑問型なのに、それはどう聞いても命令で。
「その時は私も付き添います。鴻崎さんの精神状態から鑑みても、一人では無理ですしね」
「ああ、先生が付いていたら、やつらも無理は言わねえだろうよ。井口、おまえも傍にいろ」
「はいっ」
 何なんだ……これは?
 目の前で事がテキパキと進む。
 呆然と見つめていると、園田がふっと視線を寄越してきた。
 それと同時に手が頬に触れる。それがひどく優しい感触だと気が付いて張りつめていた体から、知らず力が抜けてきた。
「中井はこんな事ではやられやしねえよ。あいつは身をもって俺たちに運をもたらしてくれたんだ」
「園田?」
「後一日か二日、あと少しだ。我慢してくれ」
 その言葉に目を瞠る。
 確か、昨夜までは正月明け、と言っていたはずなのに。
「何で……?」
 返した言葉に、園田がぴくりと片眉を上げて、それからくくくっと喉を鳴らした。
「ヘマを見逃す気は無い」
「ヘマ……?」
 それは、中井の怪我をした事だろうか?
 覚えず治療室のドアへと視線を向ける。その動きに、園田も視線を動かした。
 治療室は、一時の喧噪が消えているようで、しんと静まりかえっている。
 と、そのドアがタイミング良くスライドして開いた。
 どきりとひときわ高く鳴った心臓を押さえるように、胸に手を当てた。
 解れたはずの緊張感が、全身を覆い尽くす。
 じっと見つめる先で、ストレッチャーが出てきたのはすぐだった。
「中井っ」
 慌てて立ち上がれば、寝かされた中井が見えた。顔は殴られて変色しているせいで、顔色ははっきりとは判らない。瞼も腫れていたけれど、それが紀通の言葉に反応してぴくぴくと動いた。
「……のり、み……」
 重そうに唇が動いて、言葉が零れる。それはとても小さかったけれど、確かにこの場にいた全員に届いた。
「中井……中井……」
 生きている。
 止まっていたはずの涙が溢れ、流れ落ちていく。
「ごめ……どじって……」
 譫言ではないのだと、教えてくれる言葉が続いて、不安感も何もかもが霧散する。
 がくりと崩れそうな体を、園田に支えられながら、紀通はさらに中井を覗き込んだ。
「違う……中井はがんばったから……」
「でも、さ……」
 苦しそうな声音に、慌てて喋るなと首を振ったけれど。
 見えていないのだと気づくより先に、園田が鴻崎の体を支えながら、中井の顔近くまで口を寄せた。
 それは、看護師が制止するより早くて。
「退院したら、たっぷりと痛めつけてやる。覚悟しとけ」
 ドスの利いた声音は小さくても十分その場にいた全員に届いていて、知らない人たちはみんな硬直したけれど。
「りょうかい?」
 ふわりと赤色を纏った中井がうっとりと反応するのに、さらに言葉を失うはめになっていた。
 医師も看護師も怖々と中井を運んでいく。
 その後ろ姿を見ながら、井口が必死になって笑いを堪えていた。
「……ああ、彼は……その……」
 佐伯が困ったように呟くのに、紀通も頬を引きつらせながら頷く。
「あいつ……そういうのが好きらしくって」
「つまり、園田さんの言葉は褒美な訳ですね」
 それなら良いけど。
 と続けられた言葉に、苦笑を返す。
 そんな紀通達を見やった園田が、指先で井口を招いた。
「中井と鴻崎の入院手続きは、千里(せんり)に任せている。後はあいつの指示に従え」
「はい」
 頷く彼に、紀通も疑問符を頭に浮かべて見つめ返した。
 千里という名は、どこかで聞いたような気がしたのだ。その疑問に気づいたのか、園田が面倒くさそうに言葉を継いだ。
「千里は、うち専属の弁護士だ。後は任せているから」
「弁護士……って……」
 暴力団にも専属弁護士っているんだ、って浮かんだ疑問は、すぐになんとなく納得してしまった。確かにこんなことがしょっちゅうあったら、やることはいっぱいあるだろう。
 そういえば、事故の時に後処理を対応してくれたのも向こう側は弁護士だった。
 それに。
「俺は……ここにいる。園田が迎えにきてくれるまでいるから……、ちゃんと来てくれよ」
 これから、園田は何かをしようとしている。
 危険だと言っていた日が短くなったから、それはこの一両日中のことで。
 園田以外の誰かが来たら、自分はここからは出ない。
 朝方のように、どこかに行くなんて事は言い出さない。
 ただ、じっと籠の鳥になって、出してくれるのを待つのだ。
 それが、きっと一番園田のためになる。
「ああ、必ず来る。何、そんな遠い未来じゃない」
 触れてきた手を取って、高い位置にある瞳を見つめれば、それがだんだんと近づいてきた。
「必ず来てくれよ」
「ああ」
 触れるだけのキスだったけれど、それはどんな精神安定剤より素早く、そして確実に紀通の心を落ち着かせた。
26

 園田の姿が廊下の端に消える。その姿をぼんやりと見つめている紀通の心の中に一抹の寂しさはある。けれど、彼の強い言葉は、紀通にとってはどんな薬よりも確実に効く。
 ほおっと零したため息は甘く、その口元がうっすらと笑んでいるのに、自分では気が付いていなかった。
 だが。
「はああ、まあ、何というか……」
 同じため息ではあるけれど、どこか呆れた風情のそれに、びくりと背筋が伸びる。
 そういえば……。
 ちらりと後を振り向けば、どうしてその存在忘れていたのか、と思うほどに存在感のある二人がいた。
 佐伯も井口も、その唇が弧を描き、どことなく視線が合わない。
「あ、の……」
 今自分達は何をしていた?
 忘れるはずもない行為。
 けれど、逃避に入った頭は、なかなかその事実を認めない。それでも結局は、見られたのだという結論に達し、途端に、音が立つほどに一気に血流が顔へと集まった。
 顔が熱い。
 体も熱い。
 ぱくぱくと口を開閉させ、じりっと後ずさった。
「中井の言葉を疑ってた訳じゃねえけど。なんか今更ながらに納得しちまった……」
 こごて否定されても困るけれど、だからと言って頷かれてもどうしたら良いのか判らない。そんな井口の隣で、佐伯が困惑気味に顔を顰める。
「良かった……と言って良いんですよね。あなたの様子からして」
「あ、あの……」
 羞恥に混乱した頭は佐伯の言葉の真意がすぐには理解できなかった。訝しげに問い返し、その答えを聞く前に、はたと気づく。
「あ、それは……もちろん」
 相手が悪すぎる——。
 きっと思ったであろう佐伯が感じた印象は、間違いない。
「園田はあんなんだけど……、でも俺には優しいから……」
 やくざとか、彼が何をしようとしているのか、そんなのは知らない。
 彼が拳を振るえば、中井なんか軽く吹っ飛ぶくらい凄い威力を持っているのは知っているけれど。園田が本気になれば、紀通など呆気なく組み伏せられる力の強さも知っているけれど。
 けれど、園田は優しい。
 それは確かに知っている。
 中井に洗脳され、園田に会いたいと思っている時に、たった一度抱かれただけで、完全に心を捕らえられた。
 気が付けば、彼で無ければダメになっていた。
 中井が怪我をした時、心の奥底まで冷え切るほどの恐怖を感じた。もし園田に同じ事があれば、それは紀通にそれ以上の恐怖を与えてくれるだろう。
「もう離れられなくなったから……」
 長い時間をかければ、離れることはできるかもしれない。けれど——と、紀通はもう園田の姿を窺うことができない廊下の影を見つめた。
 迎えにきてくれると言った。
 その言葉がどんなに嬉しかったか。
 そんな紀通の肩に、佐伯の手がかかる。
「いろいろな人生がありますからね。あなたに悔いがなければ、それで良いんです」
「え……」
「後悔——するつもりなんかないんでしょう?」
 後悔なんか……。
 いつか、今を悔いるかもしれないけれど。今は自分の本心で決めた事なのだから、諦めもつく。心を誤魔化すなんてことをして、どん底にまで落ち込んだ自分を繰り返すつもりはない。
「後悔なんか、さんざんしてきたから——もうしたくないんです」
 もう自分の心を偽らない。
 薬なんかいらなくなるまで助けると言ってくれた中井のためにも。
「だから、園田を待ちます」
 頬を朱に染めたままきっぱりと言い切った紀通に、佐伯も井口も満足そうに微笑んで頷き返してくれた。
 病院の特別室という場所に入ったことなど無かった。
 一生縁など無いところだと思っていた。
「広い……二部屋もある。って、うわっ、シャワーできるんだ」
 トイレかと思って開けた場所は、ユニットバスになっていて結構広い。
「……ここっていくら?」
「さあねえ、俺にも縁が無いところだ」
 同じくきょろきょろと辺りを見回している井口が素っ気なく答えてくれた。
 佐伯は、後で来ると言って戻っていったから、今は二人だけだ。
「中井もこの部屋?」
「園田さんはそう言っていたけどな。まあ、確かに二人一緒だと、こっちは楽で良いが」
「まあ、そうかも……。って、井口さんって、警備員なんですよね」
「ん、ああ、今はな」
 その質問に井口は、病室とは思えないほどの応接セットに腰を下ろして、紀通を見上げた。くいくいっと指で座るよう促されて紀通も腰を下ろす。
「俺たちが警備員になったのは三年ほど前だ。中井はさらにその後だけどな。あん時、堅気の警備会社を作るんだって言われて、園田さんを慕っている連中のうち、比較的まともに会社勤めできそうな奴らが、組から離れたんだ」
「え……じゃ、じゃあ、あの時の警備員達はみんな?」
「まあな。だが、ちゃんとした株式会社として登録している健全経営の会社だぜ。税金も……まあ納めているし、営業努力の結果、今やあの近辺ではうちの人気は高い。なんせ鼻っ柱の強い奴はいくらでもいるからな。頼りがいはあるぜ」
 にやりと口の端を上げて笑い返すその表情に、人なつっこさすら感じる。けれど、その瞳の力は強い。
「もともとは無駄飯喰ってる奴らに働かせる場所にもなる——ってのが、設立理由だ。だが、実際には組には一銭も入れてねえ」
「一銭も……? なんで? どうやって?」
 そんなことが可能なのだろうか?
 目を瞬かせて井口を見つめれば、肩を竦めて返された。
「園田さんは、更正させてぇんだよ。特に訳もわからずに入ってきたような若いバカな連中を」
「更正……」
 呆然と呟くと、井口は苦笑を深めて、分厚いカーテンで閉ざされた窓を見やったまま言葉を継いだ。
「この世界は一度入っちまうともう抜け出せない。だがなあ、格好付けだけでぐれて、肩を怒らせているような奴らん中には、格好良いってだけで入ってくるバカもいる。そんな奴らはたいていさっさと死んでるけどよ。まあ、たいていは気が付いたら馴染んでるが……。俺なんか、親の代からやくざで、自然におんなじ道を選んでしまった。けど、その親が一度言ったことがある。『お前をやくざにするつもりはなかった……』ってな」
「え……」
「俺の子が……親父にとって孫か。産まれたときだ。俺の息子を抱いて、ぽつりと言いやがった。今更だろ、それって……」
 笑うその笑みから目が離せない。
 優しい瞳をしている。
 それは、親を想う子の、そして。
「だからよ、警備会社作るって話聞いた時、一も二もなくその話に乗ったんだ。なんつうか、俺くらいの年になると、入ってくるのが自分の子供くらいの年齢だろ。まあ、自分の子供にはできなかった代わりっつうか、なんというか……」
 曖昧に嗤う井口が遠い目をする。
「それって……井口さんの息子って……」
「せっかく母親の籍に入れて、良い大学に行ったって言うのに……」
 ぼそぼそと愚痴るそれは、どこかの父親と大差ない。
「えっと……組にいるってこと?」
「あ、いや……そうじゃないんだが……」
 嗤って誤魔化そうとするのがバレバレの表情なのだ。
 組にはいなくて、けれど、やくざになることを辞めさせることができなかったってことは……。
 きょとんと首を傾げる紀通に、井口が諦めたようにため息を吐いて、口を開く。
 が。
 コンコン、と勢いのあるノックの後に、返事を待たずにドアが開いて、井口の話はそこで立ち消えた。
 それが惜しいと思う間もなかったのは、入ってきたのが白衣を着た看護師の群れだったからだ。
「ごめんなさい、ベッドの用意をしますから」
 笑みとともに飛び交う元気な指示に、紀通も井口も思わず部屋の片隅に後ずさる。
 目の前であれよあれよと言う間に作業が進み、あっという間にベッドがもう一つ設置された。
「準備できました?」
 明るい呼びかけに、ドアが大きく開く。直後、佐伯が入ってき、ついでストレッチャーが運ばれてきた。
「よう」
 腫れた顔がにたりと笑う。
「中井——」
 集中治療室に入っているはずの中井を呆然と見つめ、思わず傍らの佐伯に視線を向ける。その視線に佐伯は肩を竦めて返し、ため息にも似た吐息を零した。
「急にみんなと一緒の部屋に行く、と言われまして——ダメだと言っても、頑として聞き入れてくださらなくて……」
「へ……?」
「どうしても一人は嫌だ——と、鴻崎さんのところに行く……とそればかり……」
「はあ……」
「なんだかひどく機嫌が悪いようなんです」
 思わず中井をまじまじと見つめると、確かに不機嫌そうに顔を背ける。
「中井、お前怪我したばっかりなんだから」
 いくら何でも寂しいとかそんな甘えた事をいう奴には思えない。けれど、諭すように伝えても、中井は頑なに視線を逸らしている。
「中井?」
 呼びかけても返事すらしない。
 まるで拗ねた子供のようだ。
「しようがないので、担当医と相談して連れてきたんです。まあ、重篤な状態ではありませんから……」
「はあ、すみません」
 つい頭を下げてしまう紀通に苦笑を返した佐伯は、ふっとその唇を緩ませ、中井を覗き込んで。
「先ほど弁護士さんが見えられた途端、なんですよね」
 呟いた言葉に、中井の体が目に見えて硬直した。
 

27

先ほど見えられた弁護士さんがお嫌いなんですか?」
 それはとても静かな問いかけだったけれど。
 中井の反応は飛び跳ねんばかりだった。
「ち、ちがっ——っ痛ぅぅっ!」
 のたうち回る中井を紀通と佐伯が呆然と見下ろす。
 中井であっても耐えきれない痛みに、響くのは呻き声だけだ。
「す、すみません」
 まさかここまで、と呆然と呟く佐伯を、中井が横目で睨め付ける。けれど、その瞳は潤んでいて迫力などどこにも無かった。
「弁護士って……園田が言ってた千里って人?」
 その名に、中井が反応する。
「園田さんが……呼んだのかよ……」
 そういえば中井は、園田の指示を聞いていなかったのだ。
「あ、うん。園田が千里さんって人が来るって……」
「……そりゃ、そうか……」
 口惜しげに、けれど諦めも多分に混じった口調で呟く。そのままシーツに顔を強く押しつけ、体を丸めてしまった。
「中井?」
 もう呼びかけても反応すらしない。
 佐伯と困ったように顔を見合わせ、深いため息を零す。
「その……千里さんに会われて、それからすぐに移動したいと言われたので……そうなのかな、と」
「千里さんが言ったのかな? 俺たちのところに行くようにって」
「そんな感じではなさそうですね。この様子だと、ずいぶんと会いたくなさそうですから」
 言われてみれば確かにそうで、まるで縮こまって隠れようとすらしているようだ。
「中井、どうしたんだよ」
「……知らねえ」
 なんとか返ってきた声音は、不機嫌そのものだ。
 滅多に聞かない口調に、紀通も眉根を寄せる。
 と、井口もまた不機嫌そうに顔を顰めているのに気が付いた。
「井口さん?」
 声を掛ければ、ますます眉間のしわを深くする。
「井口さん……千里さんってどういう人なんですか?」
 園田の口調からして、凄腕の人なんだろうな、とは思っていた。
 けれど、どうして中井がこんなにも拒絶するのか? それが判らない。
 紀通の問いかけに、井口はしばらくじっと口を噤んでいたが、再度の呼びかけにがくりと肩を落とす。
「あいつは……やたらにに勉強ができる奴で……。成績優秀で司法試験に合格し、若いながらも将来を有望視されていた弁護士先生だ。なのに、ある日突然組に専任弁護士にしろっと売り込んで、そのまま居座った奴だよ」
 どこか投げやりな、暗い声色で誰ともなく言う。
「優秀、なんですよね」
「……組の幹部連中どころか警察すらその口先三寸で煙に巻いちまう奴だ。あいつが来てから、組関係のごたごたの大半は丸く収まるようになっちまったし、警察との関係も比較的良好になってきた。特にこういう時にはあいつは役に立つ——けどな」
 はあぁぁっ、と、長く重苦しいため息が地に落ちた。
「どうもなあ、頭の良い奴ってえのは、何考えてんのか理解できん……。なんでまた……しかもよりによって中井なんだ……おい」
 力なく伸びた指が、つんつんと中井をこづく。
「……俺の方が聞きたい……」
 嫌そうに振り払おうとした腕が痛んだのか、ますます丸くなった中井を見下ろして、井口が再びため息を零した。
「中井が大のお気に入りなんだよな。しかも、どう見てもペット扱いだ」
「は……?」
 ペット?
 言葉がすぐに理解できなくて、井口と中井を交互に見遣ってから、佐伯へも視線を走らせて。
 佐伯が、眉間に深いしわを刻んでいるのを確認して、自分の理解が間違っていないことに納得する。
 けれど、それでも——と頭が別の事を考える。
「千里さんって……女?」
 猫かわいがり——という意味か?
 それなら——と思ったけれど。
「いいえ。優しい顔立ちではありましたが、れっきとした男性でした」
 言下に否定されてしまう。
「中井、男にペット……って」
 なんだか嫌な想像をしてしまって、ぞくりと背筋が粟立つ。
 もっとも紀通自身も男を性的対象としているのだから、おかしいとかそういうことではないのだけど。ただ、何か嫌な予感がして堪らなかった。
「だってあいつが——……あいつが、言うこと聞けって言うから、聞いたら……。そしたらあいつ、首輪が似合うからって——似合うかっ、んなもんがっ!! くそおっ——」
 中井に首輪……。
 まさにペット扱いされているのか、と唖然とする紀通の頭の中で、その姿が妙にはっきりと浮かんでしまう。
 なんだか似合うかも……。
 とは思ったが、さすがに起きあがって喚いた拍子に傷に負担をかけてしまったらしい中井には、とても言えなかった。
 それにしても……。
 中井の頬が、どことなく朱に染まっているのは、痛みや怒りのせいなのだろうか?
「園田さんみたいな人にそんな扱いそれるのはまだ良いんだ。焦らせるなんてことはなくて、ビシバシ刺激してくれるのが良いわけ。なのに……あいつは蛇みてぇにねちっこくて。何が嫌だって、俺は蛇みてぇな爬虫類が大っ嫌いだ。あいつはその爬虫類にそっくりなんだよっ!! 絶対、血は氷みたいに冷てぇに決まってるっ! 腹黒さにかけちゃ、組一番だっ!!」
 その言葉に、佐伯が首を傾げる。
 その様子から、佐伯はそうは思わなかったのだろうけれど。
 それにしても、やくざの中で一番腹黒いって……どういう人なんだろう?
 ひとしきり叫んで、また、くうっとシーツに沈み込んだ中井に、いろいろ聞いてみたい。
 けれど、もう喋る気力もなさそうで。
「ったく、誰に似たのか趣味が悪ぃ……」
「……マジ性格最悪……」
 傍らで、中井の言葉を否定もしなかった井口がため息を落とす。それにつられるように、中井がかろうじて言葉を零していた。
 そんな千里と程なく会えた。
「千里勝文(せんりまさふみ)です」
 にこりと邪気のない笑顔で手を差し出してきた千里に、紀通はつられるように手を伸ばした。
 それほど背は高くないけれど、スーツに包んだ身はがっしりとしている。笑うと可愛い感じがする彼は、それでも36なのだと自嘲気味に笑って教えてくれた。
 少なくとも第一印象は、良い方だ。
 爬虫類っぽいところなどどこにもない。
「園田からも十分には対応するよう言いつかっています」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 中井と井口の様子から、とんでも無い人かと警戒していたけれど。
 相対してみてごくふつうの人だ。もっとも、だからこそ、こんな人がやくざの弁護士をやっているという事は不思議に思えた。
「今回、鴻崎さんは見られたことをそのままおっしゃってくだされば良いことになっています」
 気負うことはないのだと忠告され、知っていることだけ話せば良いと優しく言われて、ほっと安心する。 嘘をつけ、と言われたらどうしようかと思っていたのだ。
 安心したように笑顔を見せた紀通に、千里は満足げに頷いた後、ふっと視線を逸らした。
 その視線が、背を向けたまま挨拶一つしなかった中井へと向けられる。
 その姿に、千里の口の端が上がった。
「ああ、中井。先生を困らせたようだね」
 それは何気ない言葉だったけれど。不意に病室内の空気がピンと張りつめた。
「いずれここに移動する予定だったから、そんなに急がなくても良かったのに」
 柔らかい物言いだ。なのに、どうしてか紀通の肌が総毛立つ。
 佐伯も不審そうに首を傾げるほど、その場の緊張がピークになっている。
 その発生源は、明らかに中井と井口だった。
 千里はあくまで微笑んでいて、特に体に力が入っているようには見えない。なのに、特に中井が激しく警戒していた。
 その傍らで井口は気の毒そうに中井を窺っているだけだ。
 千里がベッドの傍らに移動する。その足音がしただけで、中井がてきめんに反応した。
「ひっ」
 息を飲む音が、やたらに大きく響く。
「中井?」
 中井が怯えているのが判る。
 千里は相変わらず微笑んでいるだけだ。
 怖い……。
 何が、と思う間もなく、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
 千里の視線が再び紀通へと向けられた。
「中井がいろいろと迷惑をかけたようで、本当に申し訳なかったね。もっと早く気が付いていれば、巻き込むことはなかったのに」
「あ、いえ……」
 全てを知っているのか、そんなことを言う。
「素人さんに手を出すことは厳禁、とあれだけ口を酸っぱくして言っておいたのにね」
 どうしてだろう。
 笑顔が怖い。
 けれど、命の危険があるとかそういう類ではなくて、ただ、近づきたくない怖さだ。
「もっとも済んだことをいろいろ言ってもね。これからは何かあったらすぐに言ってきてください。特に、中井に困ったら、すぐにでも教えて頂くと助かります」
 その言葉に、井口が頭を抱えていた。
「井口さん?」
 何がどうなっているのか、唯一説明してくれそうな人なのに、まるで彼自身、フェイドアウトしたいように身を縮めている。けれど、紀通の縋るような問いかけに、井口は再びため息を吐いてから、諦めたように顔を上げた。
「こいつは、俺の息子なんだわ……」
 へ?
 一瞬理解できなくて、けれどすぐに判ってきょろきょろと二人を見やる。
 似ていない……けど?
「あ、あの息子って……でも名前……」
「離婚して、母親の籍に入れたからな。ちょっとやばいことがあった時にな」
「はあ」
 言われなければ気が付かないほど、似てない親子だ。
 いまや、不肖の息子を抱えた父親の姿でしかない井口がぽつぽつと物語るそれは、彼自身未だ受け入れられないことなのだろう。
「勉強も優秀でなあ、弁護士にまで一気になって。こりゃあ、とんびが鷹を生んだ、凄えって思っていたのに。勤めていた事務所も有名ななんとかっていう先生がいるところでな、将来有望視されていたのに……。何を思ったのかいきなり帰ってきて、組の専任になるとぬかしやがって」
 もう何度も繰り返されたため息は、さらに重苦しく落ちていく。
「戻れって口を酸っぱくして言い聞かせたのに、親の言うことなんか聞きやしねえ。そのうち、中井の性根を直すとか言ってこいつを引き取って……。何があったか中井も詳しく言わねぇが……まあ、ペット扱いされている様子は、たまに見た……」
 さっきから身を縮めている中井を指さして、諦めたように肩を竦めた。
「どうやら、こいつの好みにどんぴしゃりだったらしいわ。適度にMっ気のある細身の男ってぇのか。苛めがいがあって愉しいらしい……」
「はあ……」
 なんと言って良いか判らないままに、曖昧な返事を返す。
「で、でも、虐められるんなら、良いんじゃないの?」
 そういうのが中井は好きなのだから。と、園田に痛めつけられて悦んでいた中井を思い出す。
 けれど。
「違う?、園田さんだから良いんだ?。こいつのはネチネチとしてて、なんか違うんだよ?」
 沸き起こる井戸の底からのような恨めしい響きに、紀通はひくりと口の端を引きつらせ、無意識のうちに「ごめん」と呟いていた。
 Mっ気はたっぷりありそうな中井だけれど、その中井がここまで恐れるってのはやばいんじゃないんだろうか?
 おそるおそる横目で窺うと、千里が心外そうにため息を吐いていた。
「ひどいなあ。私の手管にいつだって気持ちよく喘いでいるくせに。もっと、もっととお強請りするのは誰でしたっけ?」
「違う……」
 もう地獄にでも堕ちたような恨めしさの言葉は、綺麗に無視される。
 代わりに、井口が今や息子よりは中井だとばかりに口を挟んだ。
「おい……今は怪我人なんだ。それにがんばったあげくの名誉の負傷なんだからな」
 その言葉に、千里が苦笑を浮かべた。
「判ってます。ですから後でご褒美もたくさんあげるつもりですよ」
「い、いらねえっ」
 びくりと跳ね起きた中井が叫ぶ。
「あんたからはいらねえっ、園田さんがくれるって言ったからそれで十分だっ」
「ふ?ん、園田さんのご褒美ねえ。でも、私からの褒美の方がもっとあなたを気持ちよくさせますよ」
 伸ばされた指が、中井の耳朶に触れる。
 ピアスで飾られていた耳朶は、今は何もついていない。
 その耳朶を指が這う。
「あなたは私を楽しませてくれるんですよね。私がしたいように……。そうすれば、あなたの願いはいくらでも叶えてあげますから」
 その言葉に、中井が開きかけた口を閉じた。
 唇が戦慄き、まるで縋るように千里を見つめる。
「ここのピアスも、また新しいのをつけてあげますよ。この首を飾るチョーカーもとてもすてきなデザインのものを見つけたんです。プラチナの鎖にゴールドの飾りが付いているんですよ。ね、欲しいでしょう?」
 耳朶から髪へと移動した指が、喉に触れる。
 その喉を指先で強く押されて、中井は起こしていた体をゆっくりと倒した。
 まるで指先一つで動く人形のように。
 視線だけが、千里へと向けられている。
「大丈夫。あなたの嫌いな事はしませんよ」
 にこやかな笑み、けれど、その瞳をかいま見た途端、紀通の背に激しい悪寒が走った。
 それは、獲物を捕らえた爬虫類のそれを連想させるものだった。
28

 疲れ果てて中井が寝っ転がったままのベッドを、千里が応接セットが置かれた部屋に通じるドア近くに持って行く。
 警察と話をするのはその応接セットがある部屋でだが、中井も関係者ということで一応姿を見せることにしたのだ。
 もっとも、完全にベッドに突っ伏した状態のまま、口も利けないほど容態が悪いのだと説明するとのことだった。
 その準備完了を狙ったかのように、病室のドアがノックされた。
「もっと早くにきてくれよ……」
 微かに聞こえた呟きは、ぴんと張りつめた空気の中、反応ができたのは千里だけだ。
 もっともくすりと微笑んだだけで、ドアへと向かう。
「どうぞ」
 千里により開けられたドアから入ってきたのは、スーツ姿の男二人組だった。
 二人のうち、背の低い男の方が視線だけを動かして紀通を捉え——「鴻崎紀通さん?」と、呼びかけてくる。
 それが紀通自身の名だと気づくのに数秒を要した。
 一見無関心そうな態度で、けれど彼が返事を待っていると気が付いたのは、それからさらに数秒後だ。
「あ、は、はいっ」
 慌てたせいで、返す言葉はものの見事に上擦った。
「またお会いすると思いませんでしたけど」
 だが、紀通の反応など意に介した様子もなくそんなことを言う。その言葉に、脳裏にもうはるか昔のこととして忘れかけていた顔が浮かんできた。その顔が、彼の顔と合致する。
「あ、あなたは……事故の時の……」
「はい、田添です。今回の事件の担当になりました」
 自己紹介も短く、彼がこの再会をどう考えているのかまでは伝わってこない。
 ただ、紀通の耳の奥でははっきりとあの時の彼の忠告が甦った。
 関わるな——とあの時、彼の態度はそう伝えていた。
 関われば、たいへんなことになる——と、彼はあの時点で気が付いていたのだろうか? 
 あの時点で、紀通がすでに園田に気を取られていたことに、気が付いていたのだろうか?
 そんなはずはない、と思うけれど。
 結果的に、忠告を無視した紀通を、一体どう思っているのだろうか?
「お話を聞かせて頂きたいのです」
 けれど、彼の真意は全く判らない。ただ、淡々と自分の職務に忠実に動く。
「え、あ……はい」
 促され、紀通の傍らに佐伯、反対に千里が座る。
 井口は中井のベッドの端に腰掛けていた。
 田添はそんなメンバーを静かに見回して、その態度と同じく落ち着いた口調で質問を始めた。

「それでは、鴻崎さんが出てきた時には男達は立ち去った後だったということですね」
「はい……」
 知っていることは少ない。
 怪我をしている中井は、口が痛くて喋られないということで押し通したから、もっぱら紀通と井口が質問に答えたのだ。
 だが、それでは満足はしていないのだろう。
 田添が時々、中井のベッドに視線を飛ばす。
 そのたびに千里がにこにこと笑みを浮かべたまま。
「申し訳ありませんね。ずいぶんとひどく殴られたらしくて、ね、先生」
 と口を挟む。
 けれど、佐伯が何か言う前にはいつも千里は田添の言葉を促した。
「後は……ああ、警備員が捕まえた男達、え?とどうでしょう? 彼らから何か聞き出しましたか?」
「いいえ。まだと聞いています。と言っても、私たちが出てくる前のことですから、そろそろ何か判っているかもしれませんね」
 視線を戻した田添が、答える。
 けれど、それもどこか曖昧さを持っていて。
 こういうのって狐と狸の化かし合いとか言うんだっけ?
 よけいな事を喋りそうになって、慌てて口を噤む。
 とにかく喋らない。
 ごくりと息を飲み込んだ様子がばれたのか、田添がちらりと紀通を見やった。
 それに愛想笑い以外の何ものでもない笑みを返す。
 それは、ひどく疲れる行為だった。

 型どおりの質問と事件の概要。
 一通りの質問が終わると、会話が途切れだした。
 いや、千里が何も言わせないのだ。
 田添の質問をやんわりと返し、反論を許さない。
 言葉を選ぶ田添の言葉の間隔がだんだんと空いてくる。
 何かを言いたそうな視線が、田添の唯一の表情だと言って良い。
 けれど、千里がそんな彼の一挙手一投足を逃さないとばかりに見つめている。
 決して負けようとはしていないのだろうけれど。
 千里の方が上なのだろう。
 視線だけで彼を制してしまう。
 口惜しそうに歪んだ唇が、きつく引き結ばれる。
 そんな田添を宥めるように今まで黙して語らなかった男が、その肩を軽く叩いた。
「ま、彼は見てないっていうんだから、しょうがねえだろ。まあ、一般人なんだしな」
 肩を竦めて、にやりと嗤う。
「久我さん……」
 そんな彼に何かを言いかけた田添が、結局諦めたように嘆息した。
「判りました。また、何かありましたらお伺いすることもあるかと思いますが……」
「ええ、もちろん。当然協力いたしますから」
「千里さんとはまたじっくりと話をすることもあろうしな、いろいろと」
「ええ、私の方も久我さんにはいろいろとお話ししたいことがありますしね。ああ、田添さんもそのときには是非」
 にこりと浮かんでいるのは、邪気の無い笑顔。
 なのに。
「……お手柔らかにな。田添はあんたみたいなのには妙に対抗心を燃やすからなあ」
 怖い怖いと久我が呟く。
 田添は、さっきより固く口を噤んでいた。だが、その瞳が意外な力強さで千里を見つめている。
 その強い視線を、千里は難なく受け流す。
 けれど絡み合う視線は、火花すら散っていて熱い。
 けど、寒い。
 ぞくりと粟立つ背筋を意思の力で押さえつけ、歯の根が鳴りそうになるのを必死で堪える。
 三すくみと言うけれど。
 千里が蛇なら、田添は何なのだろう?
 カエルともナメクジとも想像することはできないけれど、今確かに三すくみの状態なのだ。
 千里の威嚇を受けた田添を久我が押さえ、久我は田添のために千里には自分からは何も言わない。
 千里と久我の間には、何か密約でもあるのだろうけれど。
 田添はそれを知っていても、なお追求したくて堪らなくて。
 その結果生じた三すくみは、けれど、周りの人間にはいい迷惑だ。
 佐伯すら、言葉一つ挟めずに、沈黙を保っている。
「ま、あんたらが何をたくらんでいるのか知らないが、血は見ないで欲しいねえ」
 まるで余所事のように呟いた言葉に、千里が「もちろん」と笑い返した。
 

 なんとも嫌な雰囲気の中、まるでその時を待っていたかのように、ノックが鳴った。
 病室だという意識が無いように気ぜわしくノックされ、全員の視線がいっせいにドアヘと向かう。
 田添の視線が厳しくなり、薄ら笑いすら浮かべていた久我の口元からも笑みが消えた。
 二人の視線が絡む。
 それを先に外したのは田添だった。だが、彼の腰が浮きかけたのを久我が制する。
「久我さん?」
「大丈夫だ。そこの弁護士さんが悠長にしてるしな。それに、外で騒ぎが起きてねえ。たぶんうち関係だぜ」
 その言葉に、田添がわずかに息を吐く。だが、眉間のしわの深さは消えてはいない。
「それはそれで大変でしょう。何かあったって言うことですからね」
「まあな」
 ニヤリと口の端を歪めて応えた久我が、ドアヘと向かう。その動きを知らず皆の視線が追っていたが、まるで示し合わせたように、いっせいに千里へと向けられた。
 きっと何か知っている。
 そんな表情が皆の顔に浮かんでいて、久我すらドアに手を掛けながら千里の様子を窺っている。
 切羽詰まった様子はないけれど、どこかしら緊張感が漂う中。
「私は何も知りませんよ?」
 千里の言葉がやけに白々しく響く。
 だが、誰もその言葉を信じる者はいなかった。
 そう紀通が思うほどに、皆の表情には疑惑が浮かんでいる。
 田添など、ますます厳しく千里を見つめているのだ。
 紀通も、千里は絶対に何が起きたか——あるいは何が起きようとしているか知っている——と、どこか確信めいたものがあった。
 そこに久我が苦笑を浮かべながら声をかける。
「そいつはくそがつくほどマジメなんだ。からかわんでくれ」
「ええ、判ってます」
 その返事に、田添の顔にはっきりと怒気が浮かんだ。前回も今日も、あまり感情が浮かぶ表情ではない。だが、今日ははっきりと判るほどに彼の顔が紅潮したのだ。しかも、それは千里だけでなく久我にも向けられていた。
 けれど久我はただ笑みを深くしただけで、田添の視線を受け流しながら、ようやくドアを開けた。
29

 ドアは開いたけれど、紀通の位置からは大きな久我の体に邪魔されて、誰が来たのかは判らない。
 聞こえる声も久我の穏やかな声音だけだ。相手が何か言っているのかは判るのだが、声を潜めているようではっきりと判らない。
「誰?」
 人並みはある好奇心が紀通を突き動かす。
 けれど、田添も千里も口を噤んだまま。その視線は、久我の背へと向けられている。
 そこにはさっきまで千里のひょうひょうとした態度も、田添の怒気も感じられなくて、ただ真剣な瞳が、それ以上の他者からの質問を遮っていた。
 仕方なく、紀通も耳をダンボにして二人の会話を聞き取ってみた。
「ああ、それで……」
 久我の声音は、とても切羽詰まった感じは無かった——けれどやはり相手の声は聞き取れなくて。
「ああ、判った。まだ情報が会ったら教えてくれ」
 結局姿すら窺えなかった相手の去る音に、がくりと肩を落とした。
 だが、落胆をはっきりと自覚する前に、久我がさらりと言う。
「あんたんとこの組で発砲があったってよ。死人が一人。怪我人多数ってさ」
 一瞬、誰もが口を開かなかった。
 紀通も、あまりに簡単に言われたせいか、その言葉の深刻さを理解するのに時間がかかったほどだ。
 だが。
「誰がっ?」
「どいつをっ?」
 意図したわけでないだろう言葉が、文章を作る。
 ぎしりとベッドがきしむ音がした。
 あれだけ動くのがきつそうだった中井が、いつの間にか起き上がっていた。べッドの端までにじり寄ってきて千里を見つめている。
 その隣で、井口もまたすがめた視線で久我と千里を交互に見やる。
「死人が出たって……何が……」
 井口が何か言いかけて、千里の視線が向けられた途端に、拙いとばかりに口を噤んだ。
 田添がそんな井口をちらりと見遣って、それから中井へも視線を走らせて。
「動けなくて話せない人間にしては元気ですね」
 嫌みたっぷりの言葉を、そう言った千里へと向ける。それを笑って流した千里が指さしたのは久我だ。
「動けないはずなんですけどね、久我さんの言葉に傷の痛みも癒えたようで……。文句はあちらに言ってくださいね」
「まあ、死人とは穏やかな話ではないですけど……」
 ちらりと久我を窺う。
 本当に、穏やかではない話だ。
 一体、誰が……。
 もっとも紀通が知っている関係者でここにいないのはただ一人。だからその顔しか思い浮かばない。
 すうっと音を立てて血の気が失せる。
 体中の熱が一気に冷めたように、全身が総毛立った。
「鴻崎さん、気分が悪いなら横に」
 すぐ隣にいた佐伯が真っ先に異変に気づき、ぐたりと力が抜けた体をすんでの所で支えてくれる。
「あ……大丈夫」
 ぱくぱくと喘ぐように口を動かすが、その言葉も音にはならなかった。
 そっと促されるがままに、ソファの背もたれに体を預ける。
「大丈夫ですか?」
 田添の問いかけに、笑いたかったけれど。
 頬の筋肉はさっきからぴくりとも動かなかった。
 代わりに佐伯が、少し固い口調で、しかも田添ではなく久我へと問いかけた。
「失礼ですが、聞かせて頂けるのならその方の名をはっきりと教えて頂きたいです。鴻崎さんは体調が悪いので、そういう思わせぶりな話し方は彼には多大な負担となります」
「あ、ああ、すまん」
 触れる手は優しいけれど。
 詰問調のその声音に、久我も素直に頭を下げた。
「悪かった。あんたも知ってる人間がいるのか——って、そういや、あんたが尋ねていたのは園田の家か」
 聞かれて、ぎこちなく頭を下げる。
 何も知らない——と言うことなどもう無理だ。
 いまは園田の安否が気になって、自分を誤魔化すことなどできないのだから。
 そうか——と小さく息を吐きだした久我が「安心しろ」と笑いかける。
「死んだのは、惣山だ」
「あ……惣山……」
 知らない名だった。
 どこかで聞いたような感じはあるけれど、だけど、園田ではない。
「怪我人も多数って?」
「そっちは詳しい名前までは判らんが、重篤な奴はいないって聞いたが。判り次第報告させよう」
 怪我人の名も、程度も判らないことに一抹の不安は残っているけれど。
 それでも、なんとかほっと息がつけて。
 ガンガンと頭の中に響く痛みに気が付いた。
 それに心臓が苦しい。
「鴻崎さん、ゆっくりと息を吸って、吐いて」
 佐伯の言葉にゆっくりと呼吸を整えていく。
「大丈夫。今日一日でいろいろ有りすぎたので、神経が疲れているんです。ふつうの体調の人でもなることですから、安心して」
 いつもの優しい声音に強ばっていた体も、少しずつ力が抜けていく。
 深い呼吸をゆっくりと繰り返すことで、頭痛も動悸も収まってきて、最悪の状態からは抜け出せた。
 ベッドでも、名を聞いた途端に中井の体ががくりと崩れ落ちていた。
「あ、は……良かった……っいてて」
 安堵の言葉と、思い出したようなうめき声も聞こえてきて。
 それに失笑すら零したのは千里だ。
 その時には、緊張感は少しは和らいでいた。
「惣山か……だが、どうして」
「事故という報告は入っているとのことだ。まあ、実情は判らん。何しろ仲間内の目撃証言しか、今のところないからな」
 どこか投げやりに、けれど口の端が笑っている。
「それで、こっちも一応警戒しろって、そういう連絡だ」
「——詳細を聞きたいのですが?」
 それまで黙って聞いていた田添が顔を上げた。
 引き締まった表情が、冗談ごとではないと訴えている。
 それにすら、久我は笑う。
「いいぜ」
「ここで?」
「たいした情報はまだ入っちゃいねえし。それに、そこの弁護士さんのご意見も拝聴したいからなあ」
 久我と千里の視線が絡む。
 途端に、和らいでいたはずの緊張感が一気に膨れあがる。
 そんな中で、ふふっと微笑む千里は、やはり得体の知れない恐怖を紀通に与えた。
 訳がわからないままに怖いと感じる存在は、確かに中井でなくても苦手とするだろう。まして、今の紀通には負担が大きい。
「先生……俺、ちょっと……」
 いろいろと聞きたいのは山々だったが、神経がひどく過敏になっていた。
 この空気の中にいるのが辛い。
 さっき下がった血圧も、未だ回復としているとは言い難かった。そのせいか、思考がまとまらない上にふらふらする。
「ああ、顔色も戻りませんね。少し横になった方が良いでしょう。もうよろしいでしょう?」
「はい、鴻崎さんからのお話は十分お聞きしましたし。そちらの中井さんも、どうやらお話できる程度には回復されているようですから、代わって頂きましょう」
 淡々と事実のみを告げる田添に、誰も文句は言いようが無くて。
 ただ、中井がつぶれたカエルのような悲鳴を出す。
「鴻崎さん、ベッドに行きましょう」
 佐伯の手が促すままに、紀通は体を動かした。
「あ、はい、すみません……」
 挨拶もそこそこに、ふらつく体で隣室に向かう。
 そこで、もともとあったベッドに体を横たえるよう言われて。
「お、俺も寝る?」
 と訴える中井が、隣室のソファへと移されるのを申し訳なく見つめながら横になった。
 一通りの処置をして点滴の流れをチェックした佐伯が、ドアから出て行った。
 ドアを閉められると、不思議なほどに隣の会話は聞こえない。
 まるでこの周辺に一人しかいないようだ。
 途端に、むくりと湧き起こる暗い感情。
 心臓がきゅっと引き絞られ、目の前が薄暗くなっていく。とてつもない不安に苛まれる前兆に、紀通は体を胎児のように小さく丸めた。
 だが。
 さっき佐伯に処方された薬が効きだしたのか、ふわりと体が温もってくる。
 紀通の状態を上手に聞き出した佐伯は、このままでは一人では眠れないだろうと睡眠導入剤を処方してくれたのだ。
 今は素直に感謝できる薬の効果に紀通は逆らわなかった。
 だって、今は待っていることしかできないのだから。
 不安に襲われるよりは眠っていたい。
 そうすれば時間は速く経っていく。
 そうすれば——。
 園田が早く迎えにきてくれるのだから。
 
?
30

 疲労が蓄積しての深い眠りは、目覚めもなかなか訪れない。
 経験上それを知ってしまった紀通は、ひどく長くうつらうつらと微睡みの中にいたけれど、無理に目を開けようとはしなかった。
 まだ外は暗い。
 寝たのがまだ早い時間だということは覚えていて、そして別に無理に起きる必要もないのだということも判っていた。
 ただ、田添達との話の最中に、死人の話が出て。
 なんだか千里が怖くて。
 あの雰囲気が辛くて。
 記憶に残る出来事をまるで夢のかけらのように途切れ途切れに思い出しながら、紀通は覚醒の時を待っていた。
 無理に起きないこと。
 ゆっくりゆっくり。
 段の低い階段を一つずつ上っていくようなもどかしさはある。
 だけど、今の紀通は走ることはできない。
『ゆっくり、ゆっくり。急ぐ必要はないんだぜ』
 穏やかな声で、紀通の手を引く見えない誰か。
 それに従う。
 結果的に、それが一番早く目覚める方法だと知った時から、紀通は決して逆らわない。
 焦って起きた時に限って、頭が重く、ひどい体調で仕事に向かう羽目になったからだ。それを自覚した途端、心と体が勝手に焦らなくなった。
『大丈夫だって、急がなくたってなんの問題もねえよ』
 薬を飲む時、呪文のように佐伯の安心させてくれる言葉を思い出すから、これも佐伯の言葉なのだろうけれど。
 聞こえてくる誰かの声は、確かに佐伯に似ているようだけど。
 けれど、佐伯より少し低くて、どこか乱暴で。
『寝てろよ、まだ。ここは大丈夫だって』
 なんだか暖かい。
 少し暑いと思うくらいに。
 それに、耳の近くで何かがトクトクと鳴っている。少し早いけれど、それがとても気持ちよく、ひどく耳に馴染んでいた。
 どこかで聞いた音。
 それもそんなに遠くない過去。
「ん……」
『ああ、まだ夜中だからな。寝てろよ』
 あれ……。
 言葉がやけに鮮明で、そしてリアルだ。
 ごそりと体を動かすと、確かに誰かが自分を包み込んでいる。
「だ……れ……あ……」
 掠れた声に、喉が渇いていることを自覚した。
『どうした?』
 未だ開けられない瞳のすぐ傍らに誰かの吐息がかかる。
 動いたせいか立ち上る匂いを、深く吸い込んで。
「な……かい……」
 薬の匂いに紛れて確かに記憶にある匂いがあった。
「ああ、起きちゃった?」
「なか……い……」
「でも、目ぇ瞑ってんな。まだ眠いんだろ。寝てて良いから」
「……中井……」
 優しい声音が嬉しい。
 ここに中井はいて、確かに生きている。
 トクトクと力強く聞こえる心音が、こんなにも嬉しい。
「中井……中井」
 縋り付けば、背に回された腕に力が込められた。
「何甘えてんだよ——って、紀通はもともと甘えん坊だもんな。ほら、こうやっとくともっと楽だろ」
 そっと頭を動かされて、体の位置を変えられる。
 そのころになるとようやく瞼を開けることができた。
 うすらぼんやりとした薄闇の中に、さらにぼんやりとした人影が映る。
「中井……?」
「ああ、見えた? センセから薬飲んでるから無理に起きないようにしてやって、っていろいろと言われてたんだけどなあ……」
 ああ、それで。
 優しい声音だった。
 今も温もりに包まれていてホッとする。
「大丈夫……」
「そう、少しうなされていた、っぽいけど」
「……うつらうつらしてる時に夢みたいなものは見ていたから、そのせいかな」
 とんとんと軽く背を叩かれていて、そのリズムにまた睡魔が押し寄せてくる。
 ことんと中井の胸に頭を預けて、目を閉じるととても気持ち良い。
 ずいぶんと寝たはずなのに、けれど、やはり体はまだ睡眠を欲しているようだ。
「今、何時?」
「まだ12時回ったばっか。寝れるなら寝た方が良い」
「ん……でも……」
 軽い咳をしてみたが喉のいがらっぽさは治らない。
「何?」
「喉、乾いた……」
 薬のせいか、それとも乾燥しているのか。
 気になり出すとひどく気になって、知らず訴えていた。
「ああ、水なら……」
 けれど、差し出されたペットボトルを受け取ろうにも、体がだるくて起きあがるのもおっくうだ。
「やっぱいい……」
 それに、睡魔はさらに強く紀通に襲いかかる。
 それくらい中井はとても気持ちよかった。
「あ、こら、紀通」
 縋り付く紀通に、中井が慌てる。
 何かの拍子に手が包帯に触れた。それに、中井の体温が少し高いような気がする。
 優しい声音に隠されているけれど、よく見えない中井を窺えば、どことなく怠そうだ。
 ひどい怪我をした時には、熱が出ることもあると聞いたことを思い出して、そんな中井に縋っていることがひどく申し訳なくなる。
 だから、自分で動けないのなら、もう水はいいやって思って。
「眠いから……もう良いよ」
 早く寝てしまったら、きっと中井も自分のベッドに帰れるから。
 そう思って、もう寝てしまうことにした。
 なのに。
 唇に柔らかく触れた何かが冷たい滴で唇を濡らす。
 それが欲しくて堪らなくなって、思わず唇を薄く開いた途端に、強く押しつけられた隙間から、水が流れ込んできた。
「んっ」
 すぐに飲まないとむせそうで、ごくりと飲み込む。
 それが呼び水になったかのように、喉の渇きがもっと水を欲するようになって。
「もっと……」
「待ってろ」
 すぐに叶えられた願いに、紀通は満足げに喉を鳴らした。
 けれど一口しか飲ませてくれないそれに次第に焦れてきて、紀通は手を伸ばして離れるそれを捕まえた。
「紀通?」
「もっと」
 引き寄せて触れる。
 流れ込んできた場所を舌先で突いて、もっと出せと強請る。
「もう、しょうがないな」
 唇を擽る吐息に、紀通もつられるように笑って。
「だって、欲しい」
「判って言ってんの?」
 その問いかけの意味が判るほどには覚醒しかけていたけれど。
「喉、乾いた」
「水、もう無いんだけどなあ……」
 苦笑とともに施された口づけに、体の力が抜けていく。
 中井に触れられると、何故かとても安心できる。
 絡まる舌とともに、互いの唾液が混じり合い、零れ落ちる。
「中井がいると薬いらないかも……」
 つうっと唾液の糸を引きながら離れる唇を、名残惜しげに見つめて呟いたのは本音だ。
「それはどうも。俺は紀通が欲しいなら、なんだってしてあげるけどね」
「でも、もう良い」
 ことりと頭を枕に落とし、にこりと微笑んだ。
 元気にならないと、中井に無理をさせてしまう。
 中井のことは大好きだから、無茶はして欲しくないから。
「休んで良いよ。中井のおかげでずいぶんと楽になったから」
「そっか? じゃ、俺もうベッドに戻って良い?」
 いつもなら、そんなふうに引き下がることなんてしない中井なのに、やはり疲れているのだろう。笑顔にもどこか気怠げな表情が見えて、紀通には頷くことしかできなかった。
「ん」
 ほんとは名残惜しい。
 でも、そうそう我が儘も言っていられない。
 近い距離にあった隣のベッドに中井が戻るのが見えた。
 これならば、中井の吐息も聞こえるから、大丈夫。
 紀通は中井と同室の手配をしてくれた佐伯達に感謝しながら、再度の眠りに入るために目を閉じた。

?続く