【Familiar Sound】(2)

【Familiar Sound】(2)

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11

「や、止めろっ、そこはっ!!」
「昨夜もさんざんやったんだろう?」
「や、やってないっ、やめろっ」
 どんなに否定しても、園田は聞く耳を持っていない。あっという間にひっくり返され、よりによって親指が押しつけられる。「あ、ああっ」
 強い圧迫感を逆らう余裕など無かった。
 ずぷり、と周りの壁を引き込みながら根元まで入り込む。
「い、いたぁっ」
 中井に入れられた指よりはるかに太い。
 あの時は異物感だけだった。
 けれど。
 引き連れる痛みが紀通を襲う。
「や、やぁっ!」
 快楽は良い。けれど、痛みは……。
「きついな……」
 訝しげな園田の言葉など耳に入らない。ただ、彼がそのまま動かないことだけを祈るばかりだ。
「ひっ」
 なのに期待とは裏腹に太い指が探るように動く。ぐりっと奥深く入り、皮膚が引き連れるように痛んだ。
 拳が白くなるほどにきつくシーツを握りしめ、それに堪えた、だが。
「狭い……し、広がらないな……」
 指の動きが止まり、つめていた息を吐き出した紀通の耳に不審さが増した声音が届いた。それに違和感を感じ、固く閉じていたまぶたを緩める。
 どこかぼやけた視界の中で園田が紀通を見下ろしていた。
「昨夜、やったと……」
「やって……ない」
 園田の疑問に即座に否定する。園田の眉間がきつく寄せられ、視線が肌を伝う。
「……きつい……」
「うっ……」
 ぽつりと呟いた言葉が落ちて、指が抜かれた。
 視界に入ったそれは、自分のそれより太かった。中井に入れられた指よりずっと太い。
「あ……」
 胸の奥から甘酸っぱい疼きが込み上げてきた。溢れる唾液をごくりと飲み込む。
 あれが、入っていた——自分の中に。
 そう認識した途端、紀通の体の奥深く甘酸っぱい疼きはさらに強くなった。
 痛みがあったはずなのに。
 それが快楽をくれるのだと、期待していた自分に戸惑い、呆然と園田を見上げていた。

 敏感になっていた肌がほんの少しの風に煽られてさらに粟立った。
 近くなった園田の眇められた瞳が、探るように紀通の顔を見つめている。
「していないのか?」
「い、一度も……」
 近い距離に、心臓が跳ねた。
 視線が泳ぐ。
 園田を見ていられない。
「中井に抱かれていたんじゃないのか?」
 訝しげな声音で訪ねられ、力なく首を振る間も、園田からは視線を逸らしていた。
 なんだろう?
 心臓がさっきから駆け足で落ち着かない。
 見つめられているだけなのに、触れられていた時よりももっと恥ずかしかった。
「こんなに痕をつけられているのに?」
 信じられないとばかりに、園田が否定するのが視界の片隅に入った。だから、首を振って。
「していない。中井とは……その……摺り合わせたり……そんなことばかりで……」
 挿れないだけで、自慰の延長みたいにやりまくったけれど。
「嫌だったから。それだけは、嫌だったから」
「だが、今日……」
 暗に山の中の公園での事を言われて、再び頭をぱたぱたと左右に動かす。
「なんか、中井がせっぱ詰まったみたいで——今日はさせろって。でも、指先がちょっと入っただけ」
 その瞬間を思い出しぞくりと悪寒が走って、けれど、その時の園田をも思い出した。
 伸びた背筋に鋭い視線。
 そう、ここにある顔だ。
「嘘……ではないな」
 その顔が、信じられないとばかりに歪む。それは、子供の頃にも見たことのない表情だ。
「嘘じゃねえよ……」
「は……ただ、擦りあってただけ?」
「だから、そうだって……」
 本当は、全身余すとこなく舐められて、触れられて。乳首もさんざん嬲られて。
 そんなことでも何回も達ったこともあるけれど。
 さすがにそこまでは伝えたくなくて口籠もる紀通を、園田は何を思っているのか同じように口籠もり、未だ信じられないとばかりに凝視していた。
「ということは……ここは、バージンか?」
「バージンって……俺は女じゃねえよ」
 かあっと全身が火を噴く。
 冷えだしていた筈の体が熱くなって、汗が噴き出した。
「だが、誰も使ってないんだろ?」
「誰もっ。つうか、俺は中井以外こんなとことしてねえよっ。他人の手で達かされるなんて」
 羞恥を誤魔化すように咄嗟に返した言葉だった。だが、途端に園田の眉間に深いシワが寄った。明らかに、周囲の温度が下がる。
「中井……のやろう……」
 何が逆鱗に触れたのか、戸惑う紀通に突きつけられた言葉は、そんなもので。慌てて口を噤んだ途端に、ふっと園田が微笑んだ。
「だが……バージンか、そうか」
 なぜか急に機嫌が良くなって、恥ずかしい言葉を繰り返す。
 憑きものが落ちたようにさっぱりとした瞳の色の中、燃える色があった。それが紀通を見下ろしている。
「だからっ、言うなっ!」
「それに……童貞ってことだな」
「うっ……」
 突きつけられた真実は、頭の中すら真っ白になる。
「誰ともしたことがないんだろう? 女とも」
「う……そ、それは……」
 何故にそこが恥ずかしいのか判らないままに、このままどこかに隠れたくなってきた。
「童貞で処女か。それなのに、こんなに感度が良いとはな」
「ひっ、ちょ、ちょっと!」
 いきなり脇腹を撫で上げられて、全身が総毛立つ。
 びくんと萎えていたはずの陰茎が震えたのが、しっかり二対の瞳に晒された。
「元気だ」
 嬉しそうに落とされた呟きに、首を振るけれど。
「お前の声をまた聞けるとは思わなかった」
 感極まった言葉と共に熱い吐息が肌を擽って、押し倒される力に逆らえなかった。
 どう見ても、園田は紀通を欲している。
 それが判るのだ。
 気が付いてしまえば、中井に対する嫉妬までもはっきりと気が付いてしまった。だからこそ、肌を彩る無数の痕を疎み、さらなるきつい痕をつけようとしている。
「な、なんで……俺なんか……」
 遊び、だと、ここは遊ぶところだと、言い切った園田だったのに。
 童貞で処女だということを悦ぶ園田の態度は、まるで……。
「や、やだ……」
 再び後孔に太いものが触れる。
 浮かんだ言葉は闇に紛れ、触れる感覚だけが全てになってくる。いやいやと首を振る紀通の顎が捕まえられ、深いキスが落とされた。
 そのキスは、今までのものと違ってひどく優しい。
 舌を吸い出され、甘噛みされた。ぴりっとした鋭い痛みと柔らかな疼きが、背筋を駆け抜ける。
「あいかわらず、痛いのは嫌か?」
「んっ」
 つぷりと先端が入れられる。さっきよりは格段に楽だったけれど。
 それでも、きつく全身を縮ませた。
 痛くはないけど、痛みを感じる。
「あの時も……痛いと泣いてやがったな」
 頬に唇が触れて、吸い取られた滴の存在に自分が泣いたことを知った。
「打ち付けた場所が痛いと、呻いて、泣いて……」
「な、何?」
 さっきより滑らる指が奥深くに入ってくる。
 意識がそっちに向かって、話しかけられている言葉を理解するまでに至らない。
「お前の涙とその時の声が俺を狂わせたんだ……」
「な、何……あ、っぅっ——やだっ」
「ちゃんと広げてやる」
 宥めるように、けれど有無を言わせぬ迫力の言葉が意識を逸らせるように囁かれる。
「ゆっくりと広げてやる。大丈夫だ、そのうち痛みより快楽が勝る。お前なら、大丈夫だ」
「な、何でっ、なんでそんなことっ」
「気持ちいいんだろ? 痛いだけじゃないんだろう?」
「そ、んなこと……うっ……」
 太い指が入ってくる。同時に言葉も入ってくる。
「こうされると悦ぶくせに。ほら、もうこんなに元気だ」
「んっ」
 陰茎の先を弾かれた。
 滑るそこから走る電流に身悶える。
 体にきつく力が入って、狭間に潜り込んだ指の形がはっきりと伝わった。
 園田の指。
 痛くない……。
「んあ……」
 ぶるりと全身が震えた。舌が肌を這い、吸い付かれて小さな痛みが走る。けれど、それは甘い疼きももたらして、自分がどっちを味わっているのか判らない。
「そ、そのだ……」
「痛くないだろう?」
 さっきまでの強引さがなりを潜めた優しい園田の愛撫に、信じられないほど簡単に体が熱でいっぱいになっていった。

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12

 引き裂かれる痛みにシーツを握りしめ、シーツに触れた額を何度も擦りつける。
「くっ……うっ……」
 痛みはきつく、必死になって噛みしめた歯の間から堪えきれない悲鳴が漏れた。
 園田の指よりはるかに太いそれ。
 時間をかけて広げられ、奥にある前立腺をさんざん嬲られて。
 未だかつて味わったことのない快感に狂いそうになった。
 熱が解放されないままに体の芯で澱みとなっている。肌や乳首をさんざん嬲られ、前立腺による強烈な快感はいっぱいもらえたけれど。
 陰茎への刺激だけは、園田は決してくれなかった。
 達きたい、とどんなに願っても、堪えきれなくて自分でやろうとしても園田は許してくれなくて。
 理性すらなくなって、子供のように泣きじゃくった。
 それなのに、園田はくれない。
 あろうことか陰茎の根元をきつく握りしめすらしたのだ。
 張りつめたそれへの力は、激痛に近い。
 泣きわめく紀通に、園田はあやすようにキスを繰り返し、増やした指で広げていった。
 そして今。
「あ、あっ……」
 解放の代わりに与えられたのは、自分よりははるかに太い園田のもの。
 それが肉壁を限界まで伸ばし、ずりずりと奥深くに入ってきた。
「あ、あぁ——っ」
 逃げようとした体は腰を掴まれ、簡単に引き戻される。
 その拍子に、パンと尻の皮膚が音を立てた。
「ひゃ、あ、奥まで……」
 信じられないほど奥深くまで押し広げられていた。
 ぴりぴりとした痛みは無くならない。だが、さっきまで指で弄ばれていた場所が、甘く疼く。
 太いそれに押された泉から水が溢れ出るように、ねっとりとした快感の波が広がっていくのだ。
「大丈夫だ、切れちゃいない」
「ひっ」
 張りつめた皮膚を指でなぞられて、ぶるりと全身が小刻みに震えた。
「こんなことでも感じるのか? 卑猥な動きだ」
「あ、ああ……」
 くつくつと園田が笑う感触だけで妙なる快感が襲う。
 張りつめた場所は痛いのに、全身は甘酸っぱい快感でいっぱいだ。萎えかけた陰茎は、些細なことで力を取り戻して、涎を垂らすように滴を落とした。
「そ、園田……あぁ」
「欲しいのか? もっと」
「あ、ちがぁ……んぅ」
 拒絶の言葉がひどく甘く響く。意図しない誘いに気をよくした園田が、腰を使い出した。
「ひっ、やぁっ!」
 揺さぶられ、抉られて、頭の中に火花が散る。
 小さかったそれが、あっという間に白く爆発するようになるまで時間はかからなかった。
「はあっ、はあっ」
 深く穿たれるリズムが呼吸のリズムになる。
 爆発は短い感覚で起こって、時々目の前が真っ白になった。
 だんだん慣れてきたと思ったリズムは、時々不意に狂わされる。園田は巧妙にそれを変えて、紀通を翻弄した。ぎりぎりまで引き出し、ぐいっと押し込む。けれど入ったと思ったらすぐに引き出して。ぐりぐりと軽く遊んで、もどかしく思っていると、いきなり奥深くを抉り上げる。
 それが読めない。
 身構える間もなく前立腺を抉られ続け、達きたくて堪らなくなっていた。
「そ、そのだ……園田……もう……」
 はあはあと獣のように喉を晒して顎を突き出して喘ぐ。額から流れ出した汗が頬を伝い、涎と一緒になってしたたり落ちた。背中も尻も、溢れた汗が腹に回り込む。ポタポタと落ちる汗でシーツが染みだらけだ。けれど、それ以上に濡れそぼっている陰茎に、園田の手が回り込んだ。
 途端に全身が歓喜の波に打ち震えた。
 汗だが粘液だか判らない滴が、たらりと流れ落ちる。
「もうギブアップか?」
 ほくそ笑む吐息が、耳朶に吹き込まれて、また身震いした。
 ぞわぞわと全身の肌が総毛立つ。
「なら、強請れ」
 ぎゅうっと陰茎の根元を握られて、慌てて首を横に振った。
「や、止めて……そんなもう……痛いのは嫌だ」
「だから、どうして欲しい? 別に痛くしようとは思わんが?」
 嘘だ。
 そこを握られるととても痛い。
 吐き出したいとひくつくそこが堰き止められ、充血して敏感なそれに指が食い込んで。
 そんな痛みがあると、とてもじゃないけど達けない。
 だから。
 紀通は、泣き濡れた瞳で肩越しに園田を振り返った。
「もう、達きたい……達かせて……」
 掠れた声で懇願する。
 達きたい、今はもうそれだけ。
「どうやって?」
 なのに園田は意地悪で、続きを促す。
 ほんの少し緩めて、指先で先端を嬲りながら、後孔を強く抉る。
「あ、あぁっ!」
 達ったと思った。
 けど、腹の奥深くで澱んだ熱はさらに膨張しただけだった。
「鴻崎?」
「どっちでもっ! どっちでも良いからっ!! もう達きたいっ!」
 喉を枯らすほどに叫んでいた。
 どんな手を使われても良いから、達きたかった。
 園田の手に陰茎を擦り寄せ、尻に力を入れる。はっきりと感じる園田の太く熱い楔にぶるりと全身が震えた。
「欲張りな……なら、両方くれてやる」
 にやり、と見ていないのに笑ったのが判った。
 園田が動く。
 手が根元から離れる。
「あっ……」
「さっきから泣いてばかりだな。まあ、良いさ、良すぎて泣くなら、幾らでも良くしてやる」
 寂しさに上げた声音がずいぶんと誘うものだと気が付いたと同時にかけられた言葉に、紀通は震えた。
 歓喜と期待。
 ほろりと溢れた涙が落ちる前に全身が揺さぶられた。
 腰が押しつけられ、狙うように抉られ、陰茎もまた激しく扱かれる。
 ぱあっ——ん
 耳の奥と体の奥底で音がしたような気がした。
 はあっと息を吐き出したままの姿勢で、全身が硬直した。
 そんな中、どくどくと腰だけが震える。
 そこだけが別の生き物のように、陰茎が白い液を吹き出していた。
「達ったか」
 白い闇に包まれた紀通の心に、含み笑いが届く。
 ずいぶんと嬉しそうだな、と思ったけれど。全身が怠くて体に力が入らない。
「なんだもうくたばってんのか……」
 労るような声にほっとした。だが、すぐにびくりと跳ね起きる。
「あっ、もうっ」
「俺はまだ達ってねえ」
 ぐりぐりと抽挿する太い楔は確かにまだいっこうに萎えていなかった。
「で、でも……」
 達ったばかりの体は、軽く動かれただけでも敏感に反応する。
 寝不足気味の体にはそれは辛くて、けれど、達けない辛さはさっきさんざん感じた後だったから、拒絶もできなかった。仕方なくできるだけ楽な姿勢で受け入れようとしたけれど、力の入らない体はなかなか思うように動かない。園田はそれを良いことに、自分のやりやすいように紀通の体を抱え起こした。
「達かせろ」
 短い命令とその体勢に息を飲む。
 背を園田の胸に押しつけるようにして抱き締められた体は、園田のそれを自重で深く銜え込んでしまった。
「い、痛……」
 さっきより太くなっているような気がする。
 ぎちぎちに広げられたそれが引きちぎれそうだ。そのまま体を前に倒されて、四つん這いになる。それでも、深く入り込んだ陰茎は抜けなくて、肉壁を押し広げていた。
「力を入れるな」
「だ、だって……いっぱいに……」
「俺は気持ち良い」
「あ、ああっ……ん」
 ずるりと動かされる。
 途端に、むくりと紀通の陰茎も起きあがった。園田が動くたびに、元気を取り戻す。
「もう一回くらい達けそうだ」
 くくっと笑う園田の手が乳首も嬲る。
「そ、園田……ぁ……」
「達きたいだけ達けばいいいさ、今度は俺も愉しませて貰う」
 言葉に熱い吐息で返す。
 こんなにも良いなんて……男に嬲られることが。
『今まで味わったことのない快楽が見れるぜ?』
 そう言ったのは中井だった。
 今ならその言葉の意味が判る。今まで中井としてきたことが、ほんのお遊びだったこともよく判った。
 こんな快感を味わったら、もう二度と後戻りできない。
 すでに枯れた喉で嬌声を上げながら、紀通は濁った頭の中で考えた。
 もう……戻れない。
 もう、離れられない。
「こんなことなら……我慢するんじゃなかった……」
 遠く聞こえた告白に、紀通もまた朦朧としたままこくりと頷いていた。
13

 意識はゆっくりと覚醒した。
 紀通は覚えず腕を伸ばして背伸びをして、強ばった体を解していた。
 眠くて堪らないけれど、そろそろ起きないとヤバイと言うことも感じている。
 はふっとあくびを零して、目を擦る。さらりとしたノリのきいた感触の上掛けが腕からずり落ちた。
「ん……」
「起きたか」
「ん……」
 かけられた声音が心地よくて、つられるように頷いて——パチッと目を開けた。
「え……」
 目の前にあるたくましい胸が、動く。
 ぐいっと肩を引き寄せられ、その胸に強く押しつけられた。髪が吐息に揺れる感触がして、何かが触れる。
 キスされていると気が付いて、頬が赤らんだ。
「あ……」
「起きるか?」
 頭の上から降ってくる声は、園田のものだ。
 強い腕、温もり、そして匂いも、全て彼のもの。
 たった一日で、何もかもが園田に縛られたような気がした。
 彼がひどく気になって、ほんの僅かな身じろぎに敏感に反応してしまう。
「鴻崎?」
 返事をしない紀通に、園田の声音に訝しさが混じる。
「あ、いや……何でもない」
 慌てて首を振って、そっと腕から逃れるように体を起こした。
「朝だが……動けないか?」
「あ、いや……」
 うっすらと無精ひげを生やした園田が傍らで横になっていた。
 カーテンを開けっ放しにしていた窓から太陽の光が入って、その横顔を照らしている。
 途端に、心臓が跳ねた。
 男らしい、端正な横顔が動いて、紀通へと向けられる。その視線から逃れるようにベッドから下りる。
 けれど。
「ん……」
 がくりと腰が砕けて体がふらつく。
 慌てて手をついて、ベッドの端に腰を下ろした。
「大丈夫か?」
「うん……って……げっ!」
 なんでこんなに力が入らないんだろう……と思って自身を見下ろした途端、紀通は素っ頓狂な声を上げて、あたふたと布団の中へ逆戻りした。
 なんと、下着一枚身につけていなかったのだ。
 しかも、一瞬見ただけでも、全身に散らばる朱色の花びら。
 それら全て園田につけられた痕だと、しっかりと覚えていて。
「なんだ?」
 不思議そうに首を捻りながらも、園田は反対にベッドから抜け出した。
 その彼もまた一枚もつけていなくて、筋肉質な体が日の光に晒される。
 ちらりとそれを見やった紀通の喉がごくりと上下する。
 昨夜、あの体にさんざん抱かれたのだ。
 ずっと中井は巧いと思っていたけれど、園田のそれはその比ではなかった。
 中井が次を欲するのが判る。
 欲しくて堪らなくて、我慢できなくて、それでも貰えないから紀通のところにやってきた、と言っていた。
 けれど。どうして、他の者で代用できると思ったんだろう?
 紀通には無理だ。
「どうした? 真っ赤になって」
 くつくつと嘲笑され、耳の後ろまで真っ赤になりながら、それでも体が熱くなる。
「まだ欲しいのか?」
 手が髪に触れる。
 この手は中井では絶対に代用できない。
 もう中井を代用にしたいと思わない。
 もう二度と……。
 けれど、不意にひどく寂しい気分になった。
 昨夜の記憶は、何も薄れていなかったから、園田の言葉もまた全て覚えている。 園田は、『遊びだ』と言った。
 『遊び』なら二度目は園田の気分次第だ。中井が最近抱いて貰えないように、紀通も次はいつになるか判らない。
 頭皮を愛撫するように撫でられて、紀通はやりきれない思いを吐息で誤魔化した。
「やけに色っぽいため息を吐きやがる」
 苦笑と共に降ってきたキスを、苦い思いで受け入れた。
 次はいつ?
 聞きたい言葉はあまりにも女々しくて、胸の中に押し隠す。
「俺はもう出なきゃならん。朝食は……無理か」
 時計を見上げて唸るその姿にも見惚れながら、「いいよ」と返した。
「俺も帰らなきゃ……会社有るし」
 遅刻は確実だけど、溜まりに溜まった仕事は待ってはくれない。
「そうか。今日は月曜か、うっかりしていた」
 自嘲を浮かべた園田は、手早く衣服を着始めた。
「駅までなら送ってやる。急げ」
「あ、うん……」
「曜日に関係ない仕事なんでな、うっかりしていた。もっと早く起こす必要があったな」
「え? ……あ、いや……」
 曜日に関係無い仕事。
 サラリーマンの紀通とは、本来相容れない存在が、園田の仕事だ。
 昨日の中井に対する仕打ちは、見ていてぞっとした。あの時の勢いだと、中井はそのまま陰茎を潰されるかと思ったほどだ。
 そんな園田に入れ込むことは、紀通にも覚悟がいる。
 きゅっと唇を引き絞り、俯いてシャツのボタンに手をかけた。
 昨日久しぶりに会って、そのまま拉致されるように連れてこられて抱かれた。
 最初は乱暴で、途中からやけに優しくなったけれど。それでも強引だった筈だ。そんな最悪の相手なのに、今はひどく離れがたい気分になっていた。
 これもそれも、きっと中井の影響だろう。
 紀通にとって園田の情報のほとんどは、中井から得たものだった。
 中井がずっと園田を凄いと言っていたから。彼がどんなに立派で強くて偉い存在だと繰り返し紀通に伝えていた。
 危険な男だと言うことも、みんなから恐れられているということも知っていた。
 そんな彼が、自分を覚えていてくれた事を怖くも思い、そして実は誇らしげにも思うようにもなっていた。
 いつかから惹かれていたのかは判らない。
 ただ、会ってみたいと思っていたことは覚えている。
 こんなにも中井が溺れている園田は一体どんなふうになっているのだろう……と。
「まだか?」
 ダークスーツを身に纏った大柄な男が振り返る。
 強い視線がに晒されて、紀通の体は小刻みに震えた。
「ご、ごめん……」
 かあっと顔が熱くなる。心臓がいきなり早く走り始めて息苦しくなった。
 もたもたとボタンをはめる紀通の動きを、園田がじっと見つめている。
 見、見るなよ……。
 見られていると思うほどに、うまく動かなくなった。
「その……腰……怠くて……」
 繕うように言葉を探したが、思いつくままに呟いた言葉が指し示す意味に、返って体が熱くなった。
「ふ、ん……」
 ニヤリと笑われた。
 彼が近づいてくる。
「相変わらず誘うのが巧い」
 顎を取られて口づけられた。すぐに舌が入り込んできて、背に回した腕に強く抱き締められる。
 目眩がする。
 どうして……こんなに。
 熱い息を吐き出す。
 園田のキスは甘い毒だ。あっという間に体が熱くなる。
「鴻崎……」
「ん……」
 欲しい。
 昨日さんざんしたのに、園田が欲しくて堪らない。覚えたばかりの悦楽を、飢えた子供のように体が欲している。
 けれど、園田の体が離れた。
 紀通も一歩後ずさった。
「お前の体は惜しいが……これで最後だ。安心しろ」
 冷たく落とされた言葉に、びくりと顔を上げる。
 園田の顔がどこか強ばっていた。冷たく抑揚のない声だが、それが無理しているように見えた。
「俺なんかに付き合っていたら、今の生活も——いや、命すら失う恐れがある」
 けれど、彼は低い声音で続けた。恐ろしい内容にぞくりと悪寒が走る。けれど、戦慄く唇はそのせいではない。
「もう最後……?」
 命に関わるという内容より何より、そっちの方が紀通を縛っていた。
 もう最後——つまりもうこんなことは無い、と。
「中井にも近づくんじゃねえ。来たら追い出せ。あんな奴が入り浸ったら、アパートも追い出されるぞ」
「え、……あ」
 確かにその心配はしていたけれど。
 だからって……最後……。
「さっさとしろ。そろそろタイムリミットだ」
 呟いて苦笑され、紀通もこくりと頷いた。頷くしかなかった。
 もう……これで終わり。
 昂ぶった体に酷な命令を下す。
 諦めろ——と。
 園田と紀通とでは住む世界が違いすぎた。
 頷く園田を一度だけ、と見つめる。
 けれど、踵を返す園田は、紀通と会わないことなど何も気にならないようだった。
 

 園田は紀通を近くの駅で降ろした。
 まるでさっさと離れたいみたいだ……。
 呆然と立ち尽くす紀通を一人残して、車が去っていく。
 これでもう終わり?
 休日の間に起きた事が、走馬燈のように紀通の頭の中を駆けめぐる。
 休日出勤した土曜日、いつものように中井のメールがあって、断ったのに部屋にやってきて。じゃれつく中井と朝まで戯れていた。そして、昼からでかけて……。
 そこまでは、いつものこと。
 ずっと嫌だなあ……と思っていたけれど。
 決して嫌いではなかった。
 なんだかんだ言って中井は愉しくて……気持ちよくて。
 知らず零れたため息に気が付いて、紀通は顔を赤らめた。信号が変わって人の波が向かってくるのが見えた。
 すぐに冷めない熱を冷たい手に当てて冷やし、羞恥が呼び起こした焦りに追い立てられるように、駅の構内に入った。
 賑やかなBGMが駅に隣接したショッピング街から漏れ聞こえる。
 日曜の午後、行き交う人々は家族連れが多くてずいぶんと愉しそうな空気が辺りに漂っていた。
 その中にいて、紀通は一人さえない顔で、ホームへと向かった。
『中井には灸を据えておく。来ても部屋には入れるな』
 念には念を、とばかりに車の中で園田が繰り返していた。
 だからきっと中井はもう来ない。
 それに気が付いてしまうと、顔の赤らみも急速に消え、代わりに激しく寂寥感が込み上げた。
 ひやりと背筋が凍り付く。
 もう……会えない。
 ちょうど階段にさしかかっていて、足がもつれた。
 咄嗟にぐらつく体を手すりで支える。
「なんか……きついな……」
 体も怠い。それ以上に心も怠い。
 何をする気にもなれなくて、それでも階段だけ登り切った。
 外は見事なまでの青が広がっている。天気が良くて、眩しいくらいだったけれど、それがきつい。
 はあっと大きなため息を吐いて、ベンチに腰をかけた。
 体が園田に抱かれた痕跡を残している。時が経つにつれ、それがはっきりしてきた。
「もう……なんかどうでもいいや……」
 ポケットから取り出した携帯を手の中で転がして、表示されている時間に気付く。
 もう始業は過ぎていた。
 いい加減連絡しないと……けど……。
 手の中の携帯を操作してアドレスから会社の電話番号を引っ張り出す。
 出てきた同僚に体調不良で休む旨を伝えて、いくつかの伝言を頼んだ。
 アナウンスもある賑やかな辺りの雰囲気が判ったのか、同僚が含み笑いで「判った」と答える。
 そんなことも何もかもどうでも良くて、紀通は「頼む」と短く伝えて電話を切った。
14

 月曜は休んだ紀通だったが、いつまでも会社を休んではいられない。
 火曜日には会社に出て、溜まってしまった仕事をこなしていく。
 同僚からの意味ありげな問いかけには適当に誤魔化して、笑って返した。
 冗談混じりの返答に、同僚も肩を叩いて通り過ぎていく。
 その後ろ姿を見送っていた紀通の顔から、すうっと表情が消えた。
 頭の中は冷え切っている。
 なのに、他人を相手にすると普通に笑えてしまう。
 そんな自分が可笑しくて、紀通は口の端を上げた。
 本当は会社なんて来たくなかった。
 先週まであった、意欲も熱意も何もかも体内から消え失せていた。仕事には、義務感だけで来たようなものだ。
 運転中に眠くなるほどの疲労を蓄積してまで、二勤や三勤の時間帯での仕事もこなしてきた紀通だったが、今はそんな気力は欠片もなかった。
 ただ、山積みになった仕事をこなすだけ。
 頼まれたことをしていくだけ。
 体も頭も、言われたことには反応するし、起きたことには対処することができた。
 だが、それだけなのだ。
 自分は何をしているのだろう?
 激しい喪失感が日増しに強くなっていく。
 毎日毎日、仕事をこなす紀通が、そんな思いを抱えているとは誰も気付かない。
 何かの折りに、紀通がここから飛び出したいほどの焦燥に駆られているなどとは、夢にも思わないだろう。
 にこやかな笑みの影で、紀通の心はどこかバランスを失っていて、そんな自分に紀通自身も気が付いていた。
 けれど、どうにもならないのだ。
 園田に会いたい。
 この喪失感を埋められるのが園田だけだと判っていた。
 たった一度の逢瀬。
 乱暴で激しくて、そして甘く、気が狂うほどの快感が——たった一度で全て与えられた。
 中井もそうだ。
 人の体をこんなにも敏感にして、園田への想いを植え付けておいて。
 中井がこなければ、何も始まらなかったはずなのに。
 なのに、あれだけ煩雑だった連絡は、あれっきりぴたりと止まってしまっていた。

 紀通の仕事は、開発された製品の品質を向上しつつ、安定生産するための技術を確立することだ。
 開発とも品質とも製造とも機械エンジニアとも、たくさんの打ち合わせをこなして、試作をして、検査して、解析して。
 やることはたくさん有りすぎて、その時間はよけいな事を考える暇は無かった。
 けれど。
 家に帰る時間になると、携帯が気になった。
 着信履歴を全て確認して、中井からのメールが無いことにひどく落胆する。
 車の中でもマナーモードになどすることもできない。
 アパートに帰りつくと一番に、中井の車が無いか探す。
 見つからないことにさらに落ち込み、のろのろとドアを開けて、真っ暗な部屋に入って。中井がいないかと探してしまう。
 けれど、真っ暗な部屋には人の気配など無い。
 冷蔵庫の中身が勝手に減ることもなく、ゴミが散らばっていることも無い。
 毎週一回以上来ていたのに。
 園田と会ったあの日から一ヶ月が経った今日まで、部屋の様子は変わりなく、中井が来ている様子はまったくなかった。

 
 古いアパートの狭い部屋。
 薄い壁を気にしながら、中井に快感を与えられて、喘いだ日々。
 ぼろい軽四。
 大の男二人で乗るには狭苦しかったそれ。
 だけど出かけるのはずいぶんと愉しかった。
 気が付いた時には、中井はちょっと変わった友人として、その座にしっかりと居着いていた。
 もう来るな、と思っていたのは、どうせまた来ると思っていたからだ。
 こんなふうに、来なくなるなんて思っていなかったからこその思いだった。
 もう期待してはダメだと、何度思ったことだろう。
 今はもう、中井が来ていた名残は、ほんの僅かしか残っていない。
 なんだかんだ言って、中井は紀通の家に何も残していなかった。そんなことにも今更気が付いて、愕然とする。
「あいつ、何をしに来てたんだろうな……」
 部屋に来ては、紀通を抱いて。
 遊んで、ふざけて、また抱いて。
 欲求不満を解消するために紀通のところに来たと言っていたけれど、考えてみれば、達かすより達かされることの方が多かったような気がする。
 最初は戸惑いが多くて、擽ったい方が多かったが、今はもう、どこを触られても熱が高まる。
 それほどまでに敏感にされた体は、何かの拍子にすぐに反応した。
「はあ……」
 ちょっと衣服が触れただけなのに、背筋に甘い痺れが走る。
 もう一ヶ月もしてない。
 あの、園田に与えられた快感を最後に、誰か、どころか自分でもしていなかった。
 したくなかった。
 しなかったら、いつか中井が来てくれそうな気がして。
 ——やりてえんだろ?
 と耳元で囁きながら押し倒してくれそうな気がして。
 いつしか願掛けのようになっていたのだ。
 けれど、ぺたんと座り込んで、顔を伏せる紀通の手が泳いでいた。
 ため息のように吐き出す息がひどく熱い。
「もう……がまんできねえよ……」
 目の前に転がる携帯のディスプレイはいつまでも沈黙を保ったままだ。それに向かった言葉に、返答は無い。
「中井でもいいよ。っつうか、中井しか来てくれなかったよな。ここには……」
 園田は、絶対にここには来ない。
 命がどうとか言っていた。
 身の危険がある男が、そうそう出歩かないだろうし、あの時の言葉は、紀通の身の危険を案じてのことだったからだ。そんな男が、紀通のところに来ないだろうから。
 だから——せめて中井が来て欲しい。
 中井なら、ずっと来ていたし、何かの拍子に本当にドアから現れそうだったのだ。
 それに中井が来てくれれば、園田に連絡が取れるような気がして。
 ——中井が遊びに来てんだよ、連れに来てくれよ……。
 中井をダシにして園田を呼び出す想像を、何度繰り返したことだろう。
 それがどんなに甘い期待だと判っていたけれど、考えずにはいられなかった。
「園田……、中井……」
 園田に会いたい。
 園田の温もりが欲しい。
 だから中井に来て欲しい。
 園田が好きだから。
 抱いて欲しいから。
「責任取れよ、おい……中井……」
 ポタ、ポタと堪えるように膝に付いた手の甲に、滴が落ちていく。
「お前が園田の話になんかするから……。愉しそうに、園田のいろんな顔を教えるから……。園田がどうとかこうとか言いながら、俺を抱くから……。あんなとこに連れて行くから……。だからっ」
 堪える喉の奥が震える。
 食い縛っても何をしても、涙は止まらない。
 だから、心が、再会した園田に一目惚れしてしまったのだ。
 園田が与えてくれた快感に体まで陥落させられたのだ。
 何もかも、中井が仕掛けたことだ。
 遅効性の惚れ薬を紀通の体に浸透させて、最高のタイミングで引き合わせたようなものだ。
 はあはあと荒い息を吐いて体に籠もった熱と、重苦しい想いをも吐き出す。
 会いたい。
 けど……。
 勇気も無い。
 弥栄組の事務所に行けば、中井か園田には会えることは判っていたし、その場所のいくつかも知っていた。
 けれど、そこに行く勇気が紀通には無かった。
 会ったら拒絶されるかも……。
 最初はそう思っていた。
 けれど、最近巷では弥栄組に内部抗争が、などと穏やかではない噂も流れていた。新聞も時々その手のニュースを載せている。
 そんなニュースを隅から隅まで読んで、そこに園田の名も中井の名も無いことにほっとしてはいたけれど。
 けれど、園田の脅すような物言いもまた、耳から離れない。
『命を狙われている』
 それが自身にも降りかかってくる可能性を、彼を示唆していた。
 その言葉が、紀通を縛っている。
 そんなふうに身の危険を天秤にかけているような自分に、園田を恋い焦がれる資格など無い。
 最後にはそう考えて、会いたい想いにけりをつけた。
 それでも諦めきれない想いは、いつまでも残る。
 だから……夢にまで園田を見る。
 中井も出てくる。
 園田も出てくる。
 愉しい日々。
 優しくて甘い快楽の日々。
 けれど、それが一転する。
 中井が頬を腫らして、紀通を責め立てる。紀通のせいで園田に殴られたと責める。
 園田も現れて、紀通を責める。淫乱な男など、見たくもないと罵倒する。
 悲鳴を上げて跳ね起きたことも一度や二度ではない。
 良い夢と悪夢が交互に現れる。
 だから……眠れない。
 諦め続けることも、泣くことも、自ら諦めて睡眠に入ることも、もう毎夜の行事のようになっているけれど、慣れるどころかますます深みにはまっていくようだ。
 その上、浅い眠りを繰り返すせいか、最近は体までもが不調を訴えていた。
 いつか時が解決してくれるだろうけれど。

 ……こんな臆病な俺なんか園田に相応しくないのに。
 なのに、体ばっかりが男を欲しがる。
 中井でも良いって思ってしまうほどに。

 心が、だんだん崩れていく。
 何のために、中井を待つのか。どうして園田が良いのか、判らない。
 仕事もミスも前より増えて、責められる。
 申し訳ないと思うけれど、どうして良いのか判らない。考えることは、いつも一度に一つきり。一度それに囚われると、それ以外の結論に思考が向かない。前はこんなことなど無かったのに。それが判るだけに、紀通は焦った。
 けれど、どうしようもなくて。
 会社では気をつけていても、家に帰るともっと一つのことに囚われる。
 欲しくても欲しがっちゃダメだから。
 園田に俺は相応しくなくて。
 中井は園田のモノで。
 だから、誰も来てくれない。
 俺は……一人。
 ぽろぽろと流れる涙は少しずつ減ってはいた。
 けれど、その分心は渇いていた。
 中井が来ない。
 園田は絶対に来ない。
 それは、俺が悪いから。
 俺が……相応しくないから……。

 崩れた心を立て直そうして、防衛本能がいびつな心を作り上げていく。
 いびつな、狂った思考回路。
 それは変だと判っていても、どうしようもない。
 もう……堪えられない……。
 なんとかしないと……こんなこと。
 紀通自身、自分がおかしな事に気が付いていた。 
 そして。
 紀通の変調にさすがに同僚達も気づき始めたのは、さらに一ヶ月経った頃だった。
 師走を迎え、街にクリスマスカラーが飾られる頃。
 ひどく顔色の悪い紀通が、病院の受付で心療内科を選んだのも同じ時期だった。
?

?
15

 カウンセリングを受けた医師はまだ若かった。
 この医院の院長の親戚なのだと穏やかな笑顔を浮かべ、佐伯と名乗った彼は、とても聞き上手な人だった。
 体調不良とやる気が起きないこと。
 仕事のミスと眠れないこと。
 今を説明して、話は次第に過去へと移っていく。
 けれど、これが診察だと判っていても、紀通は全てを話すことだけはできなかった。
 ただ、中学の時の同級生と再会したけれど、事情があって会うことができなくなって。彼女とどうしても会いたいのに、会えなくなって、そうしたら何もする気が起きなくなった。
 事実と嘘を混ぜるだけの余裕があることを、紀通は内心で嗤いながらも、拙い言葉は止まらなかった。止めようがなかった。
 その話を、佐伯は時折相づちをしながら、誘導する。それに乗って喋り続ける紀通は、たとえ嘘混じりでも誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。
 自分が悪いと思いこんだ時から、ずっと心が悲鳴を上げていた。
 自分が悪いのに、落ち込んで病気になるなんて、愚かだと、思っていた。けれど、それも自分が悪いから、と思っていた。
 だから、懺悔のように彼に話して。
 話し終わる頃には、まだまだ吐き出したいと訴える感情を必死に押さえ込んで、潤む目元をきつく閉じていた。
 もうずっと泣き続けてきた。暗い部屋で涙だけを流し続けてきた。
 けれどここは病院で、一人でないのだから……だから。
 ごくりと大きく息を飲むように、感情を飲み込もうとした時。
 佐伯が穏やかに微笑んだ。
「泣きたいのでしょう? 大丈夫、ここは防音が効いていますから、どんなに叫んでも外には聞こえませんよ」
「あ……」
「苦しいですよね。だから、少し出してしまいましょう、ね」
 耳に染み通る心地よい声音だった。
 頑なに押さえつけていた壁を、その弱い波動が揺るがせる。
「ずっとずっと。一人で良く我慢しましたね。でも、泣きたい時には泣く方が良いんですよ」
「でも……俺……ずっと泣いてた、けど……」
 ずっと話していた間も、泣き続けたことまでは話していなかったのに。
 こんなふうに泣くのは女々しいだけのことだから、話せなかった一つ。けれど、彼は、紀通が未だ隠していることも何もかも判っているかのように、優しい言葉で促した。
「声も出しましょう。涙と共に、声も。大丈夫、ほら」
 ただ優しい言葉だけ。
 けれど、『ほら』と促されて、紀通の壁は呆気なく崩壊した。
 迸った激情は、もう止める手だてなど無くて。
「う、うああっ!」
 ずっと涙だけだった泣き方が自分のそれだと思っていた紀通が、声を上げて子供のように泣いた。
「お、俺……会いたくてっ、ひっくっ、会いたくてっ!」
 叫んで、また涙して。声を上げて泣きわめく紀通を、佐伯はずっと傍らにいて見守っていた。声をかけるでもなく、ただずっと傍らにいてくれた。
 診察が終わり際、薬の説明を受けながら、紀通は久しぶりに心が軽くなったような気がしていた。
 睡眠不足のせいで体は怠く、気力もあるとは言えないけれど、心が来た時よりずいぶんと楽になっている。
「話を聞いて貰えて……良かった」
 思わず呟いたそれに、佐伯は変わらぬ優しさを込めて穏やかに笑う。
「鴻崎さんは何が原因か自覚しています。だから、薬も今の症状を和らげるだけの軽いモノにしています。今は頭の中が混乱して絡まっていますが、それを言葉にして話をしている間に少しずつ絡まりが解けてきます。そうすれば、もっと楽になりますよ。ですから、集中して話をしましょう。来週は、大丈夫ですか?」
「あ、はい」
 鴻崎の体調が優れないのは会社では周知の事実となっていた。この病院も、会社が契約しているメンタルサービスで紹介されたのだ。
 昨今のビジネス状況は精神的負担が大きすぎてメンタル的なケアが必要という奨励に従ったサービスで、会社としても病院にも行かず悪化されて最悪の事態を引き起こされるより、病院に行って治療しろ、という思惑もあるらしい。
 こんなサービスなんて……と思っていたが、自分がその立場になると、今回ばかりは助かった。
 必要であれば休業も就業等の配慮も会社がしてくれる。
 そういうふうにしなければならない、と、経営者や上司に対する啓蒙もサービスが行っていて、紀通の会社では体調が悪いのなら休んでも仕方がない、という風潮が今ではできあがっている。
 もっとも、甘えてばかりはいられないけど。
 そういう考えが、よけいに体に悪いのだ、と上司に言われたのはつい先日のこと。
「それでは、来週の……この時間に」
「はい……でも……こういうところって予約が大変なんだって聞きましたけど……」
 他の同じような症状の社員は一ヶ月に一回だと言っていたけれど。 
「私は、この病院に来てまだ間がないので、それで余裕が少しあるんです。それに見た目が若いせいか、年取った方とはなかなか信頼関係というものが築けなくて、人気が無いんです」
「そんなこと……」
 確かに若くて、最初見た時は大丈夫かな、と思ったけれど、この人当たりの良さはひどく紀通には馴染みが良くて、何より、泣くよう勧められたことが何よりも嬉しかった。
「俺、先生で良かったです。これからよろしくお願いします」
 ぺこりとお辞儀した紀通に、佐伯も「こちらこそ」と返した。
「じゃあ、薬はきっちり飲んでくださいね。楽になったからって止めると、反動で悪化させる原因になるんです。止める時にも、少しずつ量を減らす方法を採りますので、こちらの指示に従ってください」
「はい」
 言葉遣いも、その声音も、ほっとする。
 再度礼を言って診察室を出る紀通の顔には、ずいぶんと久しぶりだと言える笑みが浮かんでいた。
 薬のお陰で、睡眠がまともに取れるようになった。その代わり、寝過ぎることも多かった。
 最初の内は、薬の効き方が不安で、よけいに体調を崩したりもしたけれど。一週間も経つと、薬の効き方も把握して、朝も起きられるようになってきた。
 顔色が良くなったと会社でも良く声をかけられて、心配をかけていたのだと恐縮してしまう。
 そんな日々の中、二度目の診察の日はすぐにやってきて、紀通は仕事を定時で切り上げて病院へと向かった。
「どうですか?」
 前と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた佐伯が、世間話のように聞いてくる。
 その話し方も、今の紀通にはとても安心できるものだった。
「ここ数日とてもよく寝られたので、会社でも少し集中力が出てきたようです」
「良かったですね。顔色も良くなってきたようです」
 にこにこと返されて、紀通も嬉しくなる。
 薬のせいか夢を見ないから、悪夢に悩まされることがない。
 それだけでもずいぶんと楽になった。
 そのことを伝えると、こくりと頷かれ、カルテに何事か書き込まれる。
「薬の効き方はどうですか? 辛くなるとか……。ずっと眠気が取れないとか……」
「最初の時には、朝なかなか目覚めなかったんですけど、今は早めに寝るようにして起きられるようになっています。仕事も……今は楽ですので」
 今は夜勤になることが無いので、ずいぶんと楽なのだと伝える。
「夜勤になると……時間が不規則になりますね。そういうことは、あるんですか?」
「仕事上、装置が空いた時間が夜中になるとそれに合わせて……。今は、同僚が変わってくれますけど、いつまでもそうするわけには」
 その同僚も他に仕事があって、今は彼にしわ寄せが言っているから、と伝えると、少し難しい顔をされた。
「そう……ですね。やはり規則正しい生活が一番ですけど。かと言ってそういうこともストレスになりますしね」
「できるだけ、かわりに彼の昼の仕事をするようにはしているんです。でも、彼にとっても夜勤は辛いだろうから。元気な時でも不規則な生活って、寝不足に陥りやすくて。そのせいで前に居眠り運転してしまって」
「事故に?」
「はい。それで……」
 彼に会ったのだ。
 言いかけて、口籠もる。いつの間にか、園田との再会の話になっていたことに気付く。
「鴻崎さん?」
 佐伯には、本当のところを言っていないからここで会ったのが【彼女】だと言わなければならない。
 けれど、唇が戦慄き、言葉にならない。
 フラッシュバックのように脳裏に浮かんでいる、車のライトに照らされた園田の姿。
 運転席から出てきた中井は凄んで見せていて、それを園田が止めたのだ。
 低いけれど、耳に馴染む声だった。
 最初は誰かとは判らなかったけれど、向こうから懐かしげに声をかけてくれたのだ。あれは……思わず、と言った感じだった。
 考えてみれば、あれが全ての始まりだった。
 中井と出会い、気が付けば友達とも言えない関係になって。
 最後は無理矢理だったけれど、決して嫌いではなかった。だからこそ、中井とのことも忘れられないのだ。
「良い思い出?」
「はい……」
 話しかけられて、こくりと頷く。と同時に、かあっと顔が熱くなった。
「あ、いえ……」
 中井との関係は、ひたすら肉体関係に終始している。そのことすら思い出していた紀通にとって、目の前に他人がいるこの状況は恥ずかしいなんてものではなかった。
「ああ、ごめんなさい。けれど、今とても良い顔をしていました。楽しい思い出というのはとても大切ですから、大事にしましょうね」
「あ……でも……」
 その思い出の後に続くのは、歓喜と、そして……別れの思い出だ。
 落差の激しい出来事がわずかな間に続いたものだから、記憶もそれがワンセットとなっている。
 園田との出会い、ホテルでの出来事、そして翌朝の別れ。
 見る見るうちに顔が歪んだ紀通に、佐伯もそのことに気が付いたようだ。
「思い出すと辛いのですね」
「は……い……」
 涙が流れ始める。
 彼の前では涙腺のストッパーなどどこにも存在しなくなるのか、止めることができない。
「ああ、我慢しないで。出ないと胸が苦しくなっていきますから」
「はい……は、い……」
 いっそのこと涙とともに記憶も全て流れしまえば良いのに。
 愉しい思い出も悲しい思い出も一緒くたに。
 けれど、それは許されなくて、紀通は涙を滂沱と溢れさせた。喉が鳴り、声も零れ始める。
「あ……そ……のだ……、会いた……そのだ……。あ……」
 ぐるぐると頭の中で渦を巻くいくつもの思い出。
 園田がいて、中井がいて。
 血の記憶と、痛みの記憶。それ以上の与えられた快感の記憶。
「なんで……中井、の奴……来てくれないんだよ……」
 口の中で呟くように、嗚咽の中に言葉が混じる。
 それを紀通は意識していなかった。
 俯いて顔を片手の平で覆っている紀通が見ていない場所で、佐伯の表情から笑みが消えていた。
 冷静な観察者の目と耳で紀通の動きを全て見て取って、カルテに言葉の全てを記していく。
「悲しい思い出も出してしまった方が良いんですよ」
 言葉だけは優しく、タイミング良く紀通の思考の動きを操った。
  

 どこかぼんやりとした頭で部屋に戻った紀通は、いつものように薬を飲んだ。
 布団に入ってぼんやりと薬が効いてくるのを待っていると、病院での出来事が脳裏に浮かんでくる。けれど、それはどこか曖昧で、良く覚えていない。
 園田達との出会いを思い出して、止まらない激情のままに前と同じように泣いて、慰められるままに泣いた。
「なんか……話しちゃったような気がする……」
 園田という名と中井という名は、言ってしまったような気がした。
 ただ、それが男だとは言っていない——はず。
 その辺りがどうも曖昧で、紀通は必死になって記憶を辿った。だが、感情の赴くままの行動というのは、記憶がひどく曖昧で、どうやっても思い出せない。そのうち、だんだんと睡魔が押し寄せてきて。
「……先生の態度、変わらなかったから……きっと……大丈夫、だよな……」
 男を好きになっているということだけは、絶対にばれないようにしよう。
 それだけを決意して、紀通は薬による深い眠りに入っていった。
16

 毎週の医者通いの中で、あっという間に年の瀬が押し迫ってきた。
 紀通の会社も、さすがに年末年始の期間は仕事は休みだ。これを機会にいくつかの装置や工場設備がメンテナンスをするので、必然的にその休みに仕事が入ることは無い。
 それに病院も年末年始は休みだ。
 だからこそ会社が年末の休みに入った次の日、今年最後の病院に行くために部屋を出た。
「うわ……多いな」
 病院に駐車場が不便なので、いつもは電車を利用するのだが、その乗客数が普段より多い。しかも、いつもは会社や学校帰りのどことなく暗い色の服装で疲れた人が多いから静かなのだが、今日は昼間ということもありやたらに賑やかなのだ。
 帰省の荷物を抱えた親とその子供達は、駅に降り立った途端に別のホームへと足早に去っていった。
 明るい華やかな服装の女の子達は、さらに人数を増やして改札を出て行く。
 映画でも行くのか、賑やかな青年達も改札を出る時に一緒になった。そんな彼らの一人が脱色して金髪に近くなった髪を掻き上げた時、シルバーのピアスがきらりと光った。
「あ……」
 不意に中井の顔が浮かんだ。
 つんと鼻の奥が熱くなる。
 ずっとずっと記憶と共に泣き続けていたから、まるで条件反射のように涙腺が反応してしまうのだ。
 慌てて視線を逸らし、俯いたまま改札を抜け出して、地下街へと足を運ぶ。
 年末商戦一色になった鮮やかな色合いと賑やかな音楽が頭の中を素通りしていた。記憶が、何度も頭の中で繰り返される。
 中井との愉しい思い出。
 愉しくて、悲しくて。
 懐かしくて、辛くて。
 その思い出はそのうちに園田へと結びつく。
 溢れ出した涙が止まらない。
「くそっ、落ち着いたと思ったのに……」
 少なくとも会社では落ち着いていて、眠りも速やかに入れるようになって安心していたのだ。今はもう、病院以外で泣くことは滅多に無くて、そろそろ薬も減らして貰おうかと、進言しようとすらしていたのに。
 ハンカチと手の平で顔を覆うように、人通りの少ない場所へと移動する。
 少し落ち着かないと、とてもじゃないが病院まで辿り着けないから、と。そんな紀通が、地下街から地上に出て、路地裏に入った時だった。
 不意に肩を掴まれた。
「えっ」
 ぎくりと振り向いた先に、銀色がきらめく。それが耳朶のシルバーのアクセサリーだと気が付いた途端に。
「何で泣いてんのさ」
 不遜な声で、覗き込んでくる瞳。
「それに……なんか痩せてねえ?」
 きつく寄せられた眉根に、心臓がさらに早く鳴る。
「な……かい?」
「あんた、何かあった? ——って、お、おいっ」
「中井っ、中井っ」
 嗅ぎ慣れた匂いと味わい慣れた温もりに縋り付く。
 どうしたものか、と悩んだこともあったけれど、いつの間にか有って当たり前のように受け入れていたそれら。
 だからこそ、いきなりこの手から無くなった時の喪失感は半端なものではなかった。
 そのことに、時が経って、カウンセリングの時の会話の中で整理をつけている中で、紀通は気が付いていた。
 だからだろうか。
 紀通の手は、ようやく捕まえた中井を決して逃すまいとばかりに服をきつく掴んでいる。
「おい……何なんだよ……」
 戸惑う中井が、きょろきょろと辺りを見渡してから、ため息をついて紀通を見下ろした。
「なんか、変だよな。あんたってこんなキャラだったっけ」
 あやすように背中を撫で、とんとんと叩かれる。
「お前も……こんな優しくなんか無かったじゃないか……」
 憎まれ口に毒づく声まで震えていた。
 嬉しい、と思う反面心にある怒り。
 けれど。
「でもさあ、つい声かけちまったけど……。やべえんだよ、こんなとこ見つかったら」
 困惑の声が少し揺れていて、伝わる振動から中井が周囲を気にして見回しているのが判った。
「……園田…くんのせいか?」
 殴られた頬はもう痕跡はどこにもなかった。
 だが、帰りの車の中でも『二度と近づくな』と言っていた園田が、中井に念押ししなかったとはとても思えない。
「それもあるけど……まあ、そんなとこで」
 歯切れの悪い言葉で、中井が言葉を濁す。それに、もう一つの園田の言葉が耳に甦った。
 命を……無くす……と。
「あいつは……無事なのか?」
 さあっと音を立てて顔色を変えた紀通に、中井が目を瞬かせその顔を覗き見る。
「無事って……。園田さんは無事だよ。あの人はそう簡単にやられるような人じゃないし。それよりさあ、あんた」
 無事だと聞いて、ほっと一安心している紀通の耳に中井が囁いた。
「園田さんに惚れちまった訳?」
「え? あっ」
 隠す間も無かった。
 言葉を脳が理解した途端、顔が火を噴いたのだ。それは、どんな言葉よりも雄弁に紀通の心を表していていた。
「……そっか……。まあ、そうだろうな」
 くすりと中井が笑みを零す。
「園田さん、すっげえ、巧いだろ?」
「べ、別に……それだけじゃ……」
 耳朶をくすぐる声音に、身を捩りながら俯いた。
 あの後のことは中井は何も知らないはずなのに、けれど何もかもバレているような気がした。
 込み上げる羞恥心のせいか全身どこもかしこも熱い。それに加えて、中井の手が触れている場所が、熱い上に疼いている。
「くす……あんたすっげえ敏感だもんな。こんな体で園田さんに抱かれたら、いちころになるしかないもんな」
「ばっ、止めろよ」
「んだよ……そんな色っぽい声すんなよ」
 言われなくても、自分がどんなに甘い声を出しているか判っていた。残念そうに顔を顰めて離れる中井の服にしがみついた指は、離れることはない。
「なあ、俺、今度あんたにちょっかい出したら、今度こそ園田さんに殺されっちまう。いい加減手ぇ離して」
「嫌だ」
 今度離れてしまったら、もう二度と中井に会えなくなるかも知れない。
 それは嫌だ。
 もう二度と、あんな辛い思いはたくさんだ。
「俺は……会いたかったんだよっ。あんたにも園田くんにも会いたかったんだよっ。けど……会うなって言われて……俺、待っていたのに」
 死への恐怖、再会への恐怖、たくさんの恐怖心を超えることはできなかった。
 だから、待っていた。
 けど……待つことはもっと辛かった。
「だから、離さない。やっと来てくれたのに……離すもんか」
 さらに力が入った指が白くなる。
 痺れたようになって感覚が鈍くなったそれを助けるようにぐいっと引き寄せた。
「あんたさあ……なんか、めちゃくちゃ……。ほんと、どした? 一体何があった?」
 顔を覗き込まれ、近い距離の中井の瞳に紀通の顔が写った。泣きじゃくりみっともなく崩れた顔。
「う、うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ。離さないったら、離さない」
「じゃあ、どうすんのさ? 俺について来るっての?」
「わ、判らない……」
 問われて呆然と答えた。
 自分はどうしたいのだろう?
 ただ、離すことができない。
 判るのは、今ここで手を離したら二度と中井は近づいてこないということ、そして。
「でも、離せない。今ここであんたを離したら、俺、壊れる。壊れてしまう」
 それだけ。
 ようやく会えたのに、会えなくなったら……諦めかけていた事が諦めきれない状況に戻ってしまった今、二度目は堪えられそうにない。
「こ、壊れるって……おおげさな……」
 ひくりと口の端を強ばらせた中井が、真剣な瞳で紀通を見下ろしていた。
「だって……俺、壊れかけた……。あんた達に会えないって思っただけで、壊れかけた。二度目はどうなるか判らない」
「マジ?」
 狼狽えて戦慄く手が紀通の手を捕らえる。
 覗き込む瞳の力が強くなり、何物も隠すことのできないほどになる。
 中井は聡い。
 今までの経験でそれが判っていた。
 そんな中井が紀通の変調に気付かないはずはなかった。
 眉間のしわが深くなり、ふざけた感じが無くなった。
「マジ……みたいだな。あんた、今日はどこかに向かっていたみたいだけど?」
「どこでもいいだろう……俺のことなんか」
「なんかさあ、紀通じゃないみたいだな。痩せてるっていう風体だけじゃなくて、なんかひどく弱々しい」
「俺は……」
 中井の指摘は正しい。
 自分は弱い。
 弱いから自分では何もできなくて、こんな風に変調して、しかも縋り付くことしかできない。
「はあ……」
 頭上に中井のため息が落とされる。
「ああもう……さすがに拙いんだけどなあ……けど」
 見上げれば、中井が弱々しく苦笑していた。
「このままあんたを放っておくのもきっと……拙いんだろうなあ……」
 諦めたように呟く彼が、紀通の手首を掴む。
「いいよ、おいで。けどさあ、園田さんも言ってたろ? 今俺たち大変なんだってのはほんと。マジ、引き返せないぜ」
 そう言いながら掴んで引っ張る中井の手の力は緩い。
 低く淡々とした口調で紀通を諭すような言葉は、紀通の背筋を凍らせるには十分な迫力があった。
「殺されたって文句は言えないぜ。それこそ、もっと酷い目に遭うかも知れない。あの園田さんのお気に入りだなんてバレたら……。今、それだけ園田さんの地位は微妙なんだ」
「……微妙?」
「まあな。それでも付いてくるのか?」
 振り返った瞳が紀通を捕らえる。
 強い視線が、紀通の心の動揺を逃さないとばかりに、探ってくる。
「俺は……」
「今の生活を守りたいなら、ここで引き返せ」
 中井の足が止まった。
 その背後には、見慣れたオンボロの軽四。
 あの時、あの懐かしい場所に連れて行ったそれに乗れば、きっと園田の元に辿り着ける。
 あの日、あの時のように。
 けれど、それは今の生活との決別。
 眠い目を擦って装置を扱って、製品を仕上げて。
 いろんな仲間達との真剣な会議に、そし休憩中の戯言の応酬。
 愉しくなかった言えば嘘になる。今、決断を迫られれば、確かに迷いがある。
 いつか、きっと後悔するだろう。
 平穏な日々を捨てたことを。
 でも、今は。
「お、俺は……園田に、会いたい……」
 中井の手を離すことはできなかった。
17

中井の車が止まったのは最近マンションが建ち並び始めた新興住宅地の一角だった。数あるマンションの中でもそれほど高くはない。だが、地下の駐車場からロビーに入った途端、紀通は息を飲んだ。
 分厚いガラスドアの向こうは高級ホテルのロビーとも見紛うばかりの空間が広がっていたのだ。
 違うのは、受付カウンターがなく無人であるということだけ。
 しかも地下なのに、窓があり外に緑が見える。
「普通の人間は入れないんだ、ここは」
 呆然と辺りを見回している紀通に、中井が得意げに説明する。
「このマンションは弥栄組が所有している。いや、ここだけでなくこの辺一体全部がそう」
「え? でも、さっき外にSEIEIってロゴが。あれって清永建設のだろう?」
 紀通でも知っている大手建設会社でマンション経営でも大手だ。
 この不況下にあって、そこそこの利益も出しているから、株価だってそこそこだと、何かの時に聞いたことがある。同僚がマンションの一室を買うことになって、清永であれば問題ないと調べた結果を自慢げに報告していた時に聞いたのだ。最近問題のマンションにまつわる悪い話も、清永なら問題ないと。
 その清永のマンションが何故?
 思わず口を吐いて出た言葉に、中井が苦笑を返した。
「清永建設の筆頭顧問って誰が知ってる?」
「え、いや」
「園田さんだよ」
「え……」
 園田が?
 呆然と中井の顔を見つめる。
 園田が筆頭顧問? ということは……。
 その瞬間、SEIEIのコマーシャル映像が脳裏に浮かんだ。青い空を背景に、家族の満面の笑顔が一杯の爽やかなそれ。けれど、今はそれに仏頂面した園田の鋭い視線が重なっていて、清々しい映像が、一気にドンヨリと重くなる。
「嘘、だろ?」
「マジ。けど、カタギの会社だから、滅多に顔を出す事なんてないし、たいていの人間は園田は園田でも弥栄組の園田さんだなんて思わない」
 当たり前だ。
 もしそんなことを知ったら、一般人は誰もSEIEIのマンションなんて買わないだろう。
「ここは、そのツテで園田さんの住居があるんだ。さすがに弥栄組もSEIEIのマンション内では事を起こさない。一番の資金源を潰す真似なんかしたら、資金繰りに苦しくなるし。今はいろいろと法に外れたことやるのが難しくってさ。こんな中で事を荒立たせると、他の組に目をつけられるのがオチだし。だから、今はここが一番安全で、園田さんもこの前からここに入ったんだ」
 まだ新しいマンションの中を、中井は迷うことなく進んでいく。
 その後ろを歩く紀通の方は落ち着かない気分でいっぱいで、きょろきょろと辺りを見回して歩いていた。
「でも、そういうんなら他の組が何かしてくるなんてことは?」
「この辺り一帯で弥栄組を潰そうなんてする組は今はいない。それに、表だって事を起こせば、サツだって黙っちゃいないだろう? 今はどっかっていうと情報工作で相手を潰す方が主流なんだ。その辺りもうちの組は抜け目が無い連中が揃っててさ、結構強いんだぜ」
 得意げに嗤う中井が、紀通を誘い入れたのは、最上階の一室だった。
 そこに至るまでの数々のセキュリティシステムに圧倒されている間に着いた部屋は、これまた開いた口がふさがらないほどに広くそしてインテリア雑誌のカタログもかくやというほどの部屋だった。
 何しろ、8階建てマンションの5階以上の各階にはせいぜい4室しかないのだ。
 複製不可の特別製カードキーを使用しないと動かないエレベーターは、さらに最初に設定された階にしか止まらなくて、しかもそのフロアの二部屋にしかいけない。
 しかも、外から入るロビーからのガラスドアと部屋の手前の門扉は指紋認証付きだ。
 上に行くほど高くなるこのマンションの部屋は、数十億単位で取引されたという話を聞いて目眩すら覚える。しかも、全て完売なのだ。
「すげぇ……」
 見回せば、紀通が喉から手が出るほどに欲しがったプラズマディスプレイが鎮座している。一体何インチあるのか、家電屋でもここまで大きなものはお目にかかったことがない。
「顧問料だけで幾ら入ると思う? 組への上納金を納めて残った金額でもたいしたもんなんだぜ」
「はあ……」
 きっと、その金額も並のサラリーマンである紀通には想像も付かない金額だろう。
 30インチ前後の液晶ディスプレイでボーナスが飛ぶ紀通にとっては、もう頭では理解できない。
 それでなくても体力が落ちている体に加わった精神的疲労は、ますます酷くなり、紀通はぐたりとソファに崩れ落ちた。
 そんな紀通の前になみなみと濃い色の液体が注がれたグラスが置かれる。
 思わず口をつければ、心地よい酩酊感すらもたらす芳香が鼻孔と喉をくすぐった。こくりと飲めば、それほど飲んだことがない紀通でもそれがどんなに良い酒か判る。
「園田さんは今日は早く帰るはずなんだよなあ。たぶん……」
「たぶん?」
「ここの他にもたくさん泊まるところがあってさ。だからはっきりとはしない。けど、今日はたぶんここ。だからまあ、それまでゆっくりしとけば良いよ」
 ひらひらと手を振る中井が、部屋から出て行く。
「どこへ」
 妙な落ち着かない気分に中井を追うようにソファから腰を上げた紀通を、中井の手が制した。
「俺の部屋、管理人室の隣にあるんだわ。なんかあったら直行できるから安心しな」
「お前もこのマンションに住んでいるのか?」
 こんな高級マンションに?
 似合わないと言ったら、これほど似合わない住人もいないだろう。
 けれど、中井は肩を竦めて、ここに入るまでに持ってきたカードとは別のカードを差し出した。
「俺は、ここの警備員もやっててね、一階に部屋貰ってんだよ。つうても、ここよりはるかに狭いワンルームだけどね。一階はロビーと従業員用住居。何しろこんなマンションに住む奴ってのは、何もかも他人任せだからな。やることはいっぱい有るわけよ。だから常駐している方が楽なんだよ。その代わり夜間でも何かあったら呼び出されるけどな」
 それこそ、ピザなどの出前を受け取って各部屋まで配達するのも管理人室の役割で、常にだれかがそこにいるのだという。
「すげえ……それって、ほんと知らない人間は中に入れないってこと?」
「ああ、住んでいる人間の客以外は入れない。だから、紀通も大人しく待ってな、この部屋に入れるのは、俺以外は家主の園田さんだけだから」
「あ、でも、お前、俺を連れ込んだのが園田さんにバレたら……」
 気になっていた事をようやく口にすると、中井は苦笑を深くして、ひらひらと手を振った。
「まあ、何とかなるよ。つうか、今のあんた放っとく方がヤバイって。その辺りは、きっと園田さんも気付くな。じゃあ、うまくやんなよ。俺のためにもな」
 再度ひらひらと手を振って出て行く中井をもう追うこともできなくて、紀通どさっとソファに腰を下ろした。
 空きっ腹に飲んだ酒のせいで、少しアルコールが回り始めた頭で、ぼんやりと辺りを見回す。
 さっきも感じたようにまるでインテリア雑誌の写真のような部屋だ。
 紀通の部屋のように洗濯物もかかっていない。ゴミ箱にはゴミ一つ入っていないし、テレビの上には埃一つつもっていない。定位置に置かれた各種のリモコンなど、きっちりと平行保っているくらいだ。
 そこに、人の住んでいる気配は窺えない。
 中井が連れてきてくれたのだから、ここが園田の部屋に間違いがないのだろうけれど。
 本当に園田の部屋なのだろうか……。
 不安が込み上げて、思わず立ち上がる。
 うろうろと部屋の中を歩き回り、園田の痕跡が無いか探してしまう。
 けれど、それはどこにも無くて。
 ため息がこぼれ落ちる。
 時計を見るとまだ午後6時を過ぎたばかりだ。
「ああ、そうだ、病院……」
 予約をサボった事を思い出して、慌てて携帯を取り出した。
 アドレス帳から番号を選び、電話をかける。
 急用で行けなくなった旨を伝えて、予約変更の依頼をしかけて紀通は口籠もった。
 今度いつ行けるか判らなかった。
 いつに……と考えている間に、看護師が慌てたように返してきた。
『鴻崎さん、先生が替わって欲しいと』
「あ、はい」
『鴻崎さん、大丈夫ですか?』
 僅かな間の後に、佐伯の声が耳元で響く。
 電話を介しているせいか、その声が少しだけ耳障りに聞こえた。
「はい、すみません、急に行けなくなって」
『用事があったならしょうがないですが、薬は足りますか?』
「はい、もう少しあります」
『急に減らすと反動が出ることがありますから、きちんと飲んでくださいね。足りなくなりそうでしたら、薬だけでも処方しますから、いつでも来てください』
「はい……あの先生」
『はい?』
「俺、会えなくなった人に会えそうなんです」
『それは、あの中井さんや園田さんのことでしょうか?』
「はい……」
 やはり泣いている間に喋ってしまっていたらしい。
 紀通は苦笑いを浮かべなが返事をした。
 もう何も隠す気はなかった。
 もっとも、何もかも捨てる覚悟ができたわけではない。
 たぶん後からひどく後悔するだろう。
 けれど、今は園田に会うことを最優先する。それ以外の事は考えたくないのだ。
「中井に先に会いました。園田はこれからです、今待っているところなんです」
『そうですか……。今は愉しい気分ですか?』
「……緊張しています。とても……。この部屋が本当に園田の部屋なのか、そうだと言われたのですが、不安です。でも、ここで待ちます」
『……もうすぐ薬を飲む時間ですよね。会う前に飲んでください。心を落ち着きますから、少しは安心するでしょう』「はい」
『できるだけで良いんです。鴻崎さんの言いたいことを伝えてください。頑張ろうなんて思わなくても、今の鴻崎さんなら伝えることができますから』
「はい……」
『後で結果を教えてくださいね。私はいつも鴻崎さんとお話ししたいと思っているのですから』
「あ、はい」
 そんなふうに心を解きほぐすような穏やかな会話を繰り返し、薬の注意事項を再度教えて貰う。
 佐伯は、いつだって穏やかに、紀通の緊張を解す会話をしてくれる。
 あれだけ不安だった気分が、ふわりと解れて紀通はソファに深く体を預けた。
「先生」
『はい』
「ありがとうございます。俺、先生のお陰だと思ってます。こうやって中井達に出会えたのは」
『それは鴻崎さんが会いたいと思っていたからですよ。こうしたいと強く願えば、人は前を向いて歩くことができます。自分を肯定して、歩いていくことが大事なのですよ。鴻崎さんは、とても前向きでした。ですから、今回会うことができたのは、鴻崎さんの力です』
「先生……」
『鴻崎さん、あなたはもう大丈夫ですから、落ち着いて対応してください』
「……はい。ありがとうございます」
 名残惜しげな沈黙がしばらく漂って、それから電話が切れた。
 その携帯を紀通はじっと見つめる。
 中井と会ったのは偶然だけど、自分は決して中井を離さなかった。
 だからこれから園田に会うことかできる。
 それが怖くないと言えば嘘になる。
 この先、何が待っているか判らない。
 けれど。
「頑張ろう……たとえ園田に拒絶されても、もう後悔なんかしたくない。自分が、どんなにダメな人間でも、想いをぶつけることくらいはできるから、だから……」
 だから、園田と会う。
 中井がここは園田の住居だと言った。ここの一階に中井は住んでいるのだと言った。
 ならば、これは手がかりなのだ。
 ここで園田に会えなくても、きっと、後に続けることができるから。
「園田……俺は、もう逃げないよ」
 ようやく、紀通は決心することができた。

?18  待つのは長い。
 窓の外が真っ暗になり、近隣のマンションの窓に明かりが灯っていく。
 その様子を暗い部屋の中から眺めている紀通は、あれからほぼずっとソファに座ったままだ。何かしようと思っても、人の部屋のモノを勝手に使うことも憚られた。だが、薬だけは、とキッチンでコップと水を使った。
 後数錠残った薬のシートを袋に戻し、無意識のうちにくしゃりと手の中で潰す。
 静かな部屋の中、音のしない時計がひどくゆっくりと針を進める。
 刻の進み方が歩むより遅く感じた。
 ソファに座り直して時計を確認しても、まだ一分も進んでいない。
 園田がいつ帰ってくるか、それは判らない。
 ただ待つことしかできない辛さは、さんざん味わってきたけれど、今のそれは別の緊張感が体の内にあって、酷く疲れる。
 心臓の上辺りを拳で押さえて、大きく何度もため息を吐いて。
 不安が紀通を襲ってきて、この場にいることが落ち着かなくなってきた。
「やばいかも……」
 不安感に押しつぶされる気分は、何度も味わってきた。
 もう大丈夫と何度も思って、けれど何かのきっかけで元の木阿弥に戻る。その先駆けである不安感を感じていることに、紀通は顔を顰めた。
 先生はもう大丈夫と言ってくれたけれど。がんばろうって思っていたのだけど。
 本当に大丈夫なのだろうか……。
 暗い部屋の中、影を差した紀通の横顔が床に向く。
 カサ、カサ、と手の中の薬の袋が音を立てる。
 薬はまだあるけれど、さっき飲んだばかりだ。もう少し経ったら効いてくるだろうけれど。
 でもこの激しい不安感は……これ以上酷くなったらどうしよう?
 もしどうしようもなくなったら……。
「はあ……」
 気が付けば、さっき水を飲んだばかりだというのにひどく喉が渇いていて、紀通は仕方なくソファから腰を上げた。
 嫌な汗が背筋を流れ落ちる。
「早く……帰ってきてくれれば……。でも……」
 不意に、脳裏に園田と対面した瞬間が浮かび上がった。途端に、背筋がぞくりと粟立ち、足が動かなくなる。
 リビングからキッチンに向かう通路で、全身が強ばる。
 ドキドキと心臓が高鳴り、動かない足から力が抜けていった。
「あ……」
 ぺたりと床に座り込む。
「な、なんだよ……これ……。怖くて、堪らない」
 自身を掻き抱くように腕を回し、紀通は俯いたまま唸った。
 激しい緊張が、身を竦ませているのだとは判る。けれど、その緊張がいったいどこから来るのかが判らない。
 がくがくと歯の根も会わないほどに震える体を止めようと腕に力を込めるけれど、いっこうに止まらない。
「なんで……、あれだけ園田に会いたかったのに。なのに、なんでこんなに……」
 ごくりと飲み込む唾液の音がやけに大きく耳に響いた。
 同時に、園田の声音が脳裏に甦る。
『もう二度と会わない』
 リフレインする言葉と、それなのに会いに来た自分を拒絶する園田の姿。
 それでも構わないと思ってここに来たはずなのに、いざその時が近づくのが怖い。
 怖くて堪らない。
 園田に対する記憶は恐怖と痛みと快感と歓喜がない交ぜになっている。
 会える喜びが、痛みを思い起こさせ、触れあいたいと思う心が、恐怖を呼んでくる。
 佐伯に大丈夫だと言われた紀通だったが、彼にも隠してきた本当の心はまだまだ落ち着いてなどいなかった。
「そ、園田だから、だからきっと……あ、中井なら……、俺……」
 中井なら平気かも。
 中井が側にいてくれたら……。
 震える手で携帯を取り出す。
 中井の番号は、最初に登録されたっきりで、あの日園田と別れて以来、もうずっと繋がる事がなかったけれど。
「な、中井……」
 今度はワンコールで繋がった。
『どうした? まだ園田さん帰ってきてないだろう?』
「中井、来てくれよ。なんだか……俺……」
 震える声を押さえつけて、落ち着いて話そうとしたけれど、手も震えている今の状況ではどうしようもなかった。
『……行くよ。あんたちょい変だったもんな。ちょっと待ってて、すぐだからな』
「ああ……頼む」
 詳しく話すこともなく察してくれた中井にほっと安堵して、携帯を切る。たったそれだけの行為になんだか疲れて、傍らの壁に体を預けた。
 冷たい壁に身震いして、けれどそこから離れられなかった。
 ドアが開く音がしたと思ったら、目の前に中井がいた。
 俯いていた顔を上げると、心配そうな顔が寄せられる。
「あんた、冷たい……。エアコンくらい入れ方判るだろう?」
 むうっと深いシワを眉間に寄せて、紀通の体を抱き込んだ。
「また泣いたのかよ。顔ぐちゃぐちゃ」
「泣いてなんか……」
「はいはい、ったく世話焼けるなあ……」
 腕を引っ張られ、中腰の姿勢で再度抱き締められる。
「とりあえずソファに行こうか……それから……」
 くすりと柔らかな吐息がうなじに触れて、汗の混じった匂いが鼻孔を擽る。愉しい記憶を揺さぶるそれが紀通の心を少しだけ落ち着かせて、ほっと安堵の吐息を吐いた、その時。
「あ……」
 ぎくりと中井の体が強ばった。
 紀通の腕を掴んでいた手に力が入り、痛みが走る。抱き締められたままに力を込められて、紀通は逃れることもできずに肩越しに背後を窺った。
「あ……」
 同じ言葉が紀通の喉からも零れる。
 間接照明のぼんやりとした明かりの中、通路を塞ぐように大きな体が立っていたのだ。
 ダークスーツを着込んだそれが、誰かなど頭が理解するより早く体が反応した。
「あ、あの、これは……」
「調子が悪いそうで……」
 二人揃って、意味不明な言葉を発しながら、もつれ合うように後ずさる。
 そんな二人に園田が追いつくのは一瞬で済んだ。
「何をしている?」
 低い声音の問いかけに、ぞくぞくとさっきの比ではない程の悪寒が走る。
「あ、あの……紀通——じゃなくて、鴻崎さん体調悪くってさ。今もぶったれかけて、その……」
「あ、うう、そうっ。それで、俺なんか力はいらなくて……」
 こんなことを言うんじゃなくて——と思うのだが、ぞっとするような冷気に晒されて、思うような言葉が出ない。それどころか、何故か中井に倣ってこの場を誤魔化す算段ばかりがでてきてしまう。
「今もそれで倒れそうになって……」
「んで、あの……」
 けれど、園田の視線はさらに鋭さを増す。
「何故、こいつがここにいる」
 ぎろり、と音がしそうな程に鋭い視線が、中井に向けられる。
 目に見えて青ざめた中井が、ひくひくと唇の端を引きつらせながら、じりっと後ずさった。
「今度あんなことをしたら、殴られるだけでは済まない……と言っておいた筈だが」
「あ、あの、そんなつもりは……」
「二度とバカな事を考えないように、そのきたねえモン踏みつぶしてやろうか?」
「ひっ……」
 ドスの利いた声音に、中井の体が崩れ落ちる。その手が、庇うように股間を押さえていた。その姿はあの時と同じだ。だが、今そこは、どう見ても勃起はしていない。あの時とは違う怯えに、欲情する以上の恐怖が中井を襲っているのが、紀通にも判った。
 何しろ、紀通も動けないのだ。
 壁に背を貼り付けて、その鋭い視線がこちらに向かわないことを祈る。
 けれど。
「ほら、手ぇどけや」
 ぎりっ床が鳴る。
 気が付けば、園田は皮靴を履いたままだ。
 その足が、一歩一歩中井に近づいていく。
「ひっ、そ、それだけは勘弁……」
 もはや弁解することすら諦めたように、中井が後ずさった。
 だが、後が無い。
 壁に貼り付いた背を絶望的な目で見つめた中井が、はっと気が付いたように、紀通へ視線を向けた。その瞳に宿る必死な想い。
 それが判らない程、知らない仲ではない。
 その瞬間、確かに恐怖より勝った感情が何かは判らない。
 ただ気が付いた時には、園田の足にしがみついていた。
「だ、ダメだっ!」
 ただもう何も考えずに。
「中井は俺を助けてくれたんだっ。だから、殺さないでくれっ!!」
 必死になってしがみついていた。

?
19

 太い足が振り上げられたその瞬間、紀通は必死になってその太股にしがみついた。
「園田、止めろっ」
 叫ぶ紀通のすぐ傍らで、中井の荒い呼吸音が響く。
 あの中井が怯えることしかできないほどの園田の怒りは紀通の心すら萎縮させた。けれど、今この状況を作ったのは、紀通自身なのだ。嫌がる中井に無理を言ったのは自分だ。だから少なくとも、この件に関しては中井は悪くない。
「中井は悪くないんだ。俺が……中井に頼んだから……だからっ!」
 腕の中で筋肉が動く。張りつめた筋肉が伸びて縮む。
 反動で体が持ち上がった。
「園田っ!!」
 紀通の重みすら苦にしない力強さが腕を通して伝わる。それでも離さずに、全身を硬直させて衝撃に備えた。
 だが——いつまで経っても衝撃は来なかった。
「……ったく」
 頭上からため息にも似たぼやきが落ちてきた。
 腕の中の固い筋肉が次第に柔らかくなっていく。
「園田……」
「二度と会うつもりはないと言った」
 再び零れたため息を掻き消すような呟きと共に、園田のもう一方の手が額に落ちた髪を掻き上げた。
「中井にもそれは言っておいた筈だ」
 けれど向けられた眼光は鋭く、緩みかけた緊張感がまた強くなる。
 ごくりと息を飲み、ちらりと中井を見た。どうしようかと互いの視線が語り合うが、次の言葉は二人とも出てこない。
 その明らかな怯えに気が付いた園田が再びため息を落とした。
「倒れかけたと言ったな……」
 口の中で呟いた園田の手が、紀通の体を抱え上げる。
 ふわりと軽いモノでも持つような仕草と、高くなった体に紀通は目を剥いた。ちらりと動かして探した中井の姿がやたらに低い場所にある。
「あ、あの……」
「軽い、な」
 むうっと眉間のしわを深くした園田の足さばきに不安は無い。
 瞬く間にリビングに運ばれて、ソファに下ろされた。
「あ、ありがとう」
 少しだけ前より柔らいだ雰囲気を感じ取って、ようように言葉を返した。が、園田は紀通ではなくテーブルの方を凝視している。
 何、と思う間もなく、園田の手が掴んだのは薬の袋だ。
「体が悪いのか?」
「あ、ちょっと……」
 曖昧な笑みを浮かべれば、探るように鋭い視線で見つめられた。
 ひくりと口の端が引きつる。だが、薬の袋に病院名は書いてあるが、総合病院の名だ。それに見ただけでは病名までは判らないはずだ。
 知られたくないその病名を頭の中で思い出しながら、当然聞かれる問いかけを警戒して小さく息を飲んだ。
「何の病気だ?」
「あ……ちょっと胃を悪くして、風邪だと思うけど」
 社内で病名を知らない人間にしていた名を、園田にも伝える。
 まさか、体調を崩した原因の前で真実を伝えることはできない。
「もう、だいぶ良かったんだけど」
「え、でも、さっき来た時、なんか様子が変だっだぜ? 真っ青でさ。園田さんが帰ってくるちょっと前。それに、俺と再会した時も、街ん中でぼろぼろ一人で泣いてたんですよ」
 変だと中井が園田にきっぱりと言い切った。
「あまり様子が変なんで、つい声かけたら、今度はもっと泣き出して捕まえて離さないし。あのまま放っとくのも拙い雰囲気で……それで連れてきたんです。鴻崎さんもどうしても園田さんに会いたいって言い張るし……」
 その言葉に、園田の探る視線がきつくなった。
 よけいなことを言った中井をつい睨み付けるが、彼もまた心配そうに紀通を見つめている。
「目が赤いな」
 顎に触れた指が顔を持ち上げる。
 隠すこともできないで、視線を逸らすことしかできない。
「中井」
「はい」
「何の薬か調べろ」
 言葉と共に園田の手から袋が飛んだ。それを中井がキャッチして、踵を返す。
「あっ、ただの胃腸薬だってば。ほら、今流行ってるだろっ。それをこじらせちゃって……」
 慌てて中井を追いかけようとしたが、浮き上がりかけた腰は、難なく園田に押しつけられた。
「お前はここだ。それより、何故ここに来た? 何故来たがった? 俺に会うことは危険だと言ったはずだ」
 園田の鋭い視線で睨まれながら立て続けに問われて、誰がぽんぽんと返せるだろう。
 紀通はぱくぱくと口を動かしてはみたものの、結局何ら言葉を発することはできなかった。
 会いに来たかった。
 だから来た。
 それだけだ。
 それだけなのに、言葉にしようとすると言葉にならない。
 冷や汗すら流れて身震いした紀通に、園田の片眉が上がった。
「鴻崎、お前は一体何をしたいんだ?」
 重いため息がその口から零れる。
 その様子に、胸の奥が重く軋んだ。
 後悔しないようにちゃんと園田に言おうと思っていたのに、紀通の決意など道ばたのゴミのように呆気なく転がり無くなってしまうものだった。
 そんなこ決意をしたことすら、また後悔の種になってしまう。
 けれど、なけなしの勇気を振り絞って、紀通はようようにして言葉を継いだ。
「俺は……ただ、園田にもう一度会いたくて」
「危険だと言ったはずだ」
 苛々とした口調に鼻白んで、言葉が口内に消えていく。
 漂う沈黙と重く冷たい雰囲気に、自身の心が押しつぶされそうだった。
 と、そんな室内に、騒々しい音が響く。
 乱暴に開け放たれたドアは隣室を繋ぐもので、さっき中井が消えたところだ。
 びくりと体が反応して、二人の視線がそのドアへ向く。そこには、顔を顰めた中井が立っていて、園田に薬のシートをつきだしていた。
「そ、園田さん、これって抗うつ剤と抗不安剤と睡眠導入剤……ついでに胃薬……」
「抗うつ剤?」
 園田が不審げに繰り返した言葉に中井が頷く。
「そ、うつ病とかに使われる奴」
「うつ病? お前、そうなのか?」
 じろりと音がしそうなほどに激しく睨まれて、紀通は頷くこともできずに視線を足下に落とした。だが、それは園田達にとっては肯定の何物でもなかったようだ。
「……でも、俺が遊びに行ってた頃って、こんな薬飲んでなかったろ? 睡眠導入剤なんて……無くてもさっさと寝てたし。だいたい、居眠り運転するほどだったじゃないか」
「……居眠り運転は、疲れてたからで……っ」
 ぼそぼそと言い訳をする紀通の顎がいきなり強い力で取られた。
 食い込む指先の力に顔を顰める紀通を、園田が睨み付ける。
「ということは、あの後からか? 原因は?」
「……あっ、それは……」
「なあなあ、あんた泣いたよな。街ん中でぼろぼろと。園田さんに会わなかったら壊れるって——これって、このことだったんだろ?」
 近づいてきた中井の指摘は、悔しいほどに正しく、今はその聡さが恨めしかった。
 だが。
「俺たちのせいか?」
 眉間に深いシワを刻んだ園田の苦渋に満ちた声音を聞いた途端、紀通は不自由ながらも頭を横に振っていた。
「違うよ。俺自身のせいだから。あんた達は危ないって俺のために離れたのに、けど、俺が会いたくて我慢できなくなったから」
 口の中で転がして、言葉を選んで吐き出す。目を細めて園田の端正な顔を見つめた。
 会いたかった。
 ほんとうに会いたかった。
「園田……くんに会えないなら、中井でも良いと思った。中井と会えれば、園田くんにも会えると思ったから」
「そんな状態の時に、俺がのこのことあんたの前に現れたってわけね。なんか、俺って、釣り針のエサに引っかかったってぇか……」
 ぼやいている中井をちらりと見つめる。
 だが、言葉の割りになんだか愉しそうだ。
 ちらちらと園田の顔を窺って、その反応を確かめている。
「でも、こんな病気になっちまった紀通——いや、鴻崎さんまたここから放り出したら、悪化しちまうんじゃないかなあ? 俺、うつ病ってあんま知らねえけど、でも、放り出すのはヤバいような気がする。ほら、うつになって突発的に死にたい
なんて思ったら……あ、そうか、危ないってのにここに来たのは、そのせいじゃねえの?」
 ちらりと紀通を見つめて。
「園田さんの傍は命の保証がないから。だったら、病気になるほど会いたい人の傍らにいるっては、一石二鳥になるから……。——ひっ」
 ぎろりと睨まれて、蕩々と喋っていた中井が勢いよく後ずさった。その姿にため息を零し、園田が紀通へと視線を戻す。その瞳に探るような色は確かにある。けれど、柔らかな色合いもまたあると思うのは勘ぐりだろうか?
 ふっと湧いた疑問は、問いかける間もなく園田の言葉として肯定された。
「今の中井の言葉は合っているか? 死にたい——と思ったのか?」
「え……あ、そんなことは……」
 実際そんなことまでも考えていなかったら、首を横に振って否定する。
「ただ、会いたかった。会いたくて堪らなかった。けど、園田くんの脅し文句もやっぱり怖くて会いに行けなくて。そんな自分が嫌で自分ばかり責めていたらおかしくなって、病院にもかかったよ、確かに」
「じゃ、やっぱりうつ病に?」
「ああ、薬とカウンセリングで結構すぐに良くなったんだよ。薬も軽いものだし。けど、やっぱり会いたいって思うことまでは止められなかったみたいで、中井に会えた途端、もう我慢ができなかった。会いたくて、会いたくて……中井を離すことなんてできなかった」
「死にたい、わけでは無いんだな」
 じっと見つめる強い視線の前では、もう誤魔化しようがなった。
「だって、会えるんだったら、死にたいなんて思わない。生きて会えることにこそ意味があるんだ。俺にとっては、あんた達から離れる方が死にたいほどに辛い」
 怖いと思った瞳を見つめ返せば、意外に怖くないのだと気付く。
 顎を掴んだ指は、今はもう添えられているだけだ。
 間近で見ることができた端正な顔。
 その男らしい唇が動く。
「俺の傍は……ほんとうに危ないんだ」
 さっきまでの強さが消えた声音に、紀通はうんと頷いた。
「知ってる。けど、俺は会いたかった。会いたかったよ、園田くんに。壊れそうになるまで、会いたかった。園田の傍にいることができなくて壊れるくらいなら、園田の傍にいる方がマシだ」
 顎を捕まえた手に自身の手を伸ばして、もう一方の手で園田の肩に触れる。
 たくましい腕、肩、そして。
「会いたかったんだよ、離れたくなかったんだよ」
 肩にのせた腕に力を込めると、園田の体は簡単に引き寄せることができて。
「何でもするから、だから傍に置いてくれ」
 引き寄せた耳元で囁いた途端、全身が心地よい熱に包まれる。
「知らねえぞ、ったく……」
 熱の籠もった言葉が耳朶のすぐ横で囁かれた。
20

 全身を覆い尽くす熱は、瞬く間に温度を上げた。
 座っていたソファーの背もたれに背が強く沈み込む。その間にあるたくましい腕が、紀通をきつく引き寄せた。
 抱き締められたのだと気が付いたのは、それからすぐのこと。
 見開かれた視界に映るのは、園田が来ていたダークスーツの色だけだ。 
「本当に危ないんだ今は。だから、少なくとも年明け、三日まではここから出られないぞ。いや、その後も、下手したらずっと出られない。それでも良いんだな」
 囁かれる言葉に、しばし呆然として、それからすぐに頷いた。
 何度も何度も頷いて、それだけでは足りないとばかりに、「良いよ、それで良いっ」と掠れた声で訴えた。
「園田くんがいてくれれば良いよ。中井でも良いから、どっちかがいてくれたら……。俺は我慢する。そのうちきっと一人でも大丈夫になるから、だから、俺をここにいさせて……」
 もう離れたくないから、思いっきりしがみつく。
「ここにいさせてくれ……」
 懇願に答える代わりに、園田がちらりと中井を見やった。その口元がどこか口惜しげだ。
「……微妙だな、中井と残すのは」
「あぁっ。俺、絶対に手を出しませんっ!! 園田さんのものに手を出すほど、度胸はありませんっ! 誓いますっ!!」
 子供の用に手を挙げて宣言する中井の満面の笑みをうさんくさそうに見上げる園田の頬に触れる。
「ごめん……けど、ちょっとの間だけだよ。きっと……良くなるから……な……」
 この精神状態が落ち着くまで。
 園田を待っていた時の、あの精神的なストレスと同じような事が起きた時のために。
 不安感が消えないのは、園田にまとわりつく危険のせいだ。
「けど、今は……園田くん……がいてくれる、だから……」
 忘れていなかった。
 この匂い、この温もり、そしてこの声。
「そうか……。ああ、それと園田で良い。お前、感極まったら呼び捨てになっているからな。いっそ統一してくれ」
「あ、……そうなんだ?」
 きょとんと首を傾げると、気付いていなかったのか? と苦笑された。
 そういえば、園田と呼び捨てにしていたような気がする。
「呼び捨ての方が良い。くん、なんて柄じゃねえしな」
「あはは……そうだね」
 中学の時のように可愛かった園田ではない。今は、れっきとした男だ。確かにくんは似合わない。
「そのだ……?」
 それでも改まって呼ぼうとすると、ひどく照れた。
 抱き締められた時より熱くなった体で、視線を逸らす。
 と、いきなり顎を取られ、唇を合わせられた。
 開いていた唇の隙間から舌が深く入ってくる。
「そ、あぁっ、んん……」
「こ……ざき……」
 キスの合間に名を呼ばれ、髪が痛いほどに頭部を掻き抱かれる。声が鼓膜だけでなく頭骨にまで響く音となった。
 音が脊髄を通って下腹部まで響き、さらに奥で電流に変換される。
 小刻みに震える肌が、熱を持つ。
 上昇する熱が肌を敏感にして、全ての触感が神経を通ってまた下腹部に集まる。
 その連鎖が紀通の体を敏感に作り上げていく。
「落ち着いたら愛想尽かしてしまうって思ったのに」
 苛立ちが紛れた声は怯えるべき声なのだろうけれど、今の紀通にはそれすらも官能は湧き立たせるものでしかない。
「だから言ったじゃないですか。園田さんに一回抱かれて離れられる訳ないって。俺なんかいい例でしょ」
 中井が、ずりずりと近づきながら園田に含み笑いを向けた。
「お前とこいつを一緒にするなっ。お前は酷く抱けば抱くほど悦ぶくせにっ」
 押し殺した口調に、中井が嗤う。そんな中井の声も紀通の官能の記憶を揺さぶってくれて、くすぶる官能の炎の燃料となるのだ。
 出て行って欲しい、けれど……。
「ん?、でも紀通——違った……鴻崎さん——ああっ、俺は紀通の方が言いやすいんで、友達って事で紀通で良いですよね」
 何が良いのか、園田が頷く前に自分勝手に了承して、ぎろりと睨まれていた。けれど、その途端中井の顔に浮かんだ喜色に、園田も言葉を失ったようだ。呆れたように首を振って、ため息を吐いていた。
 ほんとにこの二人は……いいコンビ。
 熱に浮かされながらも、うっすらと笑みを零す。
 こんな状態を見られて恥ずかしいとは思うけれど、もうなんかどうでも良くなってきた……中井がいても。
 だって、中井には恥ずかしいところさんざん見られている。それにたくさん世話になっているし、これからもいっぱい世話になるから……。
「紀通ってかなり敏感で快感に弱いんですよ。今だってほら」
 揶揄しているその声音はいつものように怒りを呼び起こし、けれど何故だか背筋をぞくりと這い上がるものがあった。
「抱き締められているだけで首まで真っ赤にして。抱いてって強請っている」
「な、なかい……んなこと……」
 生理的な涙に覆われた視界はぼんやりと揺らいでいて、中井が良く見えない。
 けれどこちらを向いているのも判る。それに、園田の視線も降りてきたのが判った。
 誤魔化しようがないほどに熱を持った全身を隠したい。だが、中井の言葉は確かに園田の情欲にも火をつけて、舐めるように視線が這い回る。
「そんな体持ってたら、一回でも園田さん中毒になるのは間違いないって思ったし」
 そうかも……。
 たった一回抱かれただけなのに。
 体は園田の全てを覚えていて、この先を望んで疼いている。
 はあ、と熱い息を吐き出す紀通と得意げな中井を交互に見やり、園田が諦めたように大きく息を吐き出した。
「こいつにちょっかいを出したは……そのためか……」
 小さな舌打ちすら響いて、回された腕が強くなる。
 その力に押し出されるように肺から熱が出て行った。代わりに入ってきた室内の少し冷え気味の空気が、熱に浮かされた心を少しだけ冷やす。
 冷静になれば、背後に感じる中井の視線を感じて、さらに羞恥が込み上げる。
「だって、俺、園田さんには幸せになって貰いたいんですよ」
「やくざに幸せもくそもあるか」
「そりゃ、惣山のくそ野郎ごときだったら、確かにやくざ野郎ですけどね」
 ふっと中井の口調が変わった。
 それは今までのふざけた感じではなくて、暗くドスの利いた声音だった。
「あの野郎は地獄に堕ちるのは、道理だって思います。けど、園田さんは違う。俺たちや一般人を踏みつけにして、力だけを追い求める人でない。俺は園田さんのところに来て、ようやく人として生きる道を見つけたんだ。そんな園田さんが息をつける場所を作りたいって思ったのは、別に俺だけじゃない。みんな——みんな思っているですよ」
 最後には嘆願のように、中井の声が掠れた。
「……そういえば、お前にはバレていたな。俺の息抜きの場所を……」
 しばらく黙っていた園田が、低く呟く。
 それっきり互いが口を閉ざして、沈黙が続いた。
 紀通は抱き込まれたまま、ただ二人の会話と沈黙の意味をずっと考えていた。
「そうだな。もう鴻崎はここに来てしまったんだ。覚悟は決める必要はあるな」
「そうですよ。どっちにしろ、もう後戻りはできません」
 諦めたような物言いの園田に、中井が嬉々として答える。
「お前の企てに乗っちまったと思うと癪だが——まあ、しようがないか。だが」
 不意に園田の腕が動いて、紀通を腕の中に隠すようにする。もっとも狭いソファーの上で思うように動くこともできず、ほんの少し向きが変わっただけだ。だが、そのせいで紀通は園田の腕の隙間から、中井の様子を窺うことができた。
「てめえ、いつまでそこにいるつもりだ?」
 園田の低い声音は、紀通に身震いさせるほどの威力を持っていた。
 だが、中井の喜色は消えるどころかますます酷くなっていく。それどころか、うっとりとその相好を崩したのを見て取って、紀通もまた呆れたように息を吐き出した。
 悦んでるよ、あいつ。
 まともな会話をしていると思ったのに。
 紀通にとって園田の少し低めの声はとても心地よく響くものだが、それは中井にとってもそうなのだ。
 しかも、中井は、園田のさらに低いドスの利いた声を好むようだ。
 はっきりと現れた快感に満ちた表情に、園田も困惑をしている。それなのに、中井はさらに言ってのけた。
「それより、さっさと始めたらどうですか? 紀通も焦れったくて堪らないみたいだし」
「って、てめえ、見てるつもりか?」
「な、中井っ」
 今までは良かったけれど。
 この後も居座るつもり満々の中井に、二人揃って睨み付ける。だが、顔を出した紀通に中井がうっとりと笑いかけてきた。
「あの声、聞きたい。ね、良いだろ? 俺がここに連れてきて上げたんだぜ。そのご褒美ってことで。俺、紀通の達く時の声、好きなんだよ」
「い、達く時の声ぇっ!」
 勝手に素っ頓狂な声が喉から迸った。快感におぼれかけていた頭も一気に冷めてしまい、手がぎゅっと園田の服を掴む。
「喘ぐ声も一級品。俺って園田さんの怒声ならてきめんだったけど、それと同じくらい紀通の声には威力があるんだよね。だからここ最近紀通の声が聞けなかったから、ちょっと欲求不満気味なんだよ。だから良いだろう? 園田さんも、ご褒美くださいよ、ね」
「な……」
「何がご褒美だ……」
 変態中井……絶好調……。
 園田と紀通の脳裏にそんな言葉が浮かんで。
「ぜ、ぜったい嫌だぁっ」
「仕方ねえっ、勝手にしろ」
 意味も勢いも違う、けれど良く似た二つの声が、同時に室内に響いた。

?続く