【Familiar Sound】(1)

【Familiar Sound】(1)

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 疲労というものは蓄積されるんだなあ、とぼんやりとした頭で思う。
 慣れた手つきでハンドルを動かし、ブレーキを踏んで。月も覗かない闇夜だというのに、街灯やら車のライトやらでひどく眩しかった。細めた狭い視界の中、赤信号と赤いブレーキランプが目を射る。
 目の奥に鈍い痛みを感じて、鴻崎紀通(こうざきのりみち)は強く指で眉間を抑えた。
 加わる鈍い痛みが、気持ちよかったのは束の間。じわりと新たな不快な痛みが広がっていく。
 夜勤の終了時刻は0時。けれど、装置のトラブルや、準備のミスで結局今夜は深夜3時過ぎまでかかってしまった。
 夜勤をこなすのは慣れている。
 だが、それも程度の問題だ。
 生産技術部に所属する紀通は、通常は昼のみの勤務なのだ。ところが、何日も何日も、予定外のズレが発生している今、装置の空いた時間を狙っての時間の遣り繰りに、体の方が先に音を上げ始めたのだ。何より、生産が優先されるから、どうしても紀通が使いたい時間には使えない。
 そのせいで、昨日は朝10時に出て、0時すぎに終わって、今日は13時に出て、帰りが3時。一体何時間働いたのだろうと、計算能力が落ちきった頭ではそんな単純な計算すら不可能で紀通は遠い目をした。ついでに意識までもが遠くに飛びそうになる。
 積もり積もった睡眠不足によってすでに五、六匹は脳に巣くっているのではないかと思うほど頭が重くて、体がだるくて、まぶたには強力な磁石がひっついているようだった。
 それでも、必死になってまぶたを開けていたというのに。
「え……」
 肩に食い込むような痛みと、がくっと激しく上下した頭。
 一瞬何が起きたか判らずに、きょときょとと辺りを見渡す。手はしっかりとハンドルを握っていたけれど。足は、無意識に踏んだのかいつの間にかブレーキを踏んでいた。
 だが、すぐ前に真っ黒く厳つい車があった。そして自分の車のボンネットが妙な具合に歪んで盛り上がっている。
「あ……れ……?」
 やけにぼんやりとしている頭を押さえるように手をやった。さらさらの前髪がまとまりなく額にかかっていて、それを鬱陶しく掻き上げる。それでも、目の前の現実は消えていかない。
 こんな車が前にいたっけ。
 気が付けば、記憶がひどく曖昧だ。寸前の自分の記憶の無さとどうみても自分の車が食い込んでいる様がようやくはっきり理解できて、紀通の背に冷たい汗が流れた。
「あ、やば……俺って……」
 どこをどう見ても……。
 慌ててシートベルトを外して、車の外に転がるように飛び出す。前の車の両側の扉が開いたのも同時だった。
 ラフなシャツにジーパン。
 今時の若者といえば言えるだろう自分と同年齢くらいの若い男が、眉を怒らせて睨みつけてきた。
「や、やばいかも……」
 口の中で呟いて、呆然と立ち尽くす。
 明るいライトが明らかな事故の惨状を照らし出す。通り過ぎる車の中にいる運転手はちらちらと様子を窺っている気配があったが、前の車に気が付いた途端、スピードを上げて通り過ぎていってしまった。
 車道横が十分に広いから縦に並んだ車が多少の邪魔をしても、通れないわけではないのもある。時間が遅いのもあるだろう。だが、紀通の軽四がおもちゃに見えるようなガタイの大きな車に、皆が恐れをなしているのは明白だった。まして、降りてきた運転手の態度は、一目でその筋がらみだと判るほどだ。
 その男が、紀通の1メートル前で歩を進める。窺うように顔を覗き込んで、呆れたようなため息を吐いて。その耳で、ゴールドのピアスがライトに照らされる。
「どこ見てたんや、あんた」
 ひくひくとこめかみを引きつらせつつも、それでも声音を抑えた様子は、紀通を安心させるどころかよけいに恐怖に陥れた。
「す、すみません……俺……その……」
 悪いのは自分だと判っている。
 けど、よりによって……。
 紀通の顔が恐怖に引きつる
 がくがくと震え、後ずさろうとして自分の車に突き当たった。
 その様子に、困ったように眉尻を下げた男が、背後を振り返る。
「中井、警察呼べ」
 発したのは、後部座席から出てきた男だった。逆光で影になった顔はよく判らない。ただ、やたらに背が高くて体格が良いのと、ダークスーツに身を纏っているのが判った。その手が、手持ち無沙汰のように火の点いていないタバコを弄んでいる。
「はあ……」
「時間の無駄だ」
「はいっ」
 不服そうな返事は、さらに低くなった声音を返されて、1オクターブ高くなった。逆らう事など論外だとばかりに、胸元から取り出した携帯を顔を顰めて操作している。
 どう見てもやくざ物だと思ったのに警察に電話しているということは違うのだろうか?
 ほんの少し浮かんだ淡い期待感に、肩の力が僅かに抜け、視線が落ちる。だが、かつんと革靴が眼下で音を立てて、びくりと全身が強ばった。地面に向けていた視界に男の足が入っていて、紀通は恐る恐る顔を上げた。
「怪我は?」
 静かな声音に、咄嗟に首を振る。
 近づいたせいか、明かりが男の顔を照らして、はっきりとその顔が見えた。
 まだ若い。
 こんな深夜なのに疲れた色はみじんも無く、鋭い視線が紀通を圧倒する。その薄い唇が動くと、小さいのにはっきりと通る声音が耳に届いた。
 バリトンよりは高い。かと言ってテノールのように高い訳でもない。それは、紀通の声音と変わらない音域で、しかもひどく耳に馴染んだ。
「居眠りか?」
「は、……はい……す、すみません」
 静かな声音に潜む有無を言わせぬ力が、紀通に謝罪しかさせない。もとより、こうして対面するとはっきりと判ってしまった相手の正体に頭の中が真っ白になっていたという方が正しい。
「警察、連絡つきました」
 中井が、さっきよりは落ち着いた表情で男の傍らに寄った。
 ちらりと窺うように男に視線を走らせる。それだけで意思の疎通がなったのか、男がくっと喉の奥で嗤った。
「何も悪いことはしていない」
「はい」
 中井から、さっきの怒りの表情はすでに消えていた。
 完全に男の意のままに動くことに徹しているようで、それが酷い違和感を紀通に与える。一人で歩いていたら、どう見てもチンピラでしか見えないだろう。態度も格好も、安っぽさの漂う男だ。なのに、このスーツの男の傍らにいると、中井は明らかに自分を変えていた。彼に似合う男であろうと呆けた頭でも気が付いてしまった。
 確かに、この男から与えられる威圧感は、並のものでは無い。
 まだ……若いよな。
 警察が来るという、ただそれだけのことだけで、紀通の思考は徐々に平常心を取り戻していた。
 真っ白で空転し続けた思考も、なんとか筋道だてて考える力を取り戻してきている。
 そうなると、自分からぶつかったこと。いまだに、ちゃんと詫びていないこと。そんなことを思い出して、紀通ははたと我に返った。
「あ、あの……」
 意を決してかけた声。
 だが、じろりと視線だけで返されて、もぐもぐと言葉を飲み込んだ。
 俯いて、零れそうになるため息を必死で飲み込む。その後頭部につきささる鋭い視線を痛いほどに感じた。
 たったそれだけで、言葉をかける気力も何もかも消え失せる。
 どうしよう……。
 じわりと冷たい汗と怯えでしかない細かな震えが全身を襲う。
「お前……」
 タバコの臭いが漂ってくる中、男が不意に手を伸ばして紀通の顎を掴んだ。
「ひっ」
 声なき悲鳴が喉を駆け上がる。
 ひきつった顔に男らしい端正な顔が近寄る。
「ああ、やはりそうだ」
 不意に男の声音が変わった。
「お前、鴻崎だな」
「え」
 顎を掴まれた不自然な体勢のまま、紀通はまだ語らぬ姓を呼んだ男を見上げた。
「中学の時一緒だったな」
「ちゅ、中学?」
「ああ、三年の時」
「三年……?」
「……判らんか?」
 くっとどこか口惜しそうな口ぶりで、呟く。
 慌てて記憶の奥底にしまい込まれた中学時代を探る。もう10年も前の話だ。高校から学区外に出て、離れた大学に入った紀通は、昔のつきあいは今はもうほとんど無い。
 それでも、幾人かとは付き合っていたけれど、その中には彼はいなかった。
 となれば……。
 まるで中学時代のアルバムを紐解くように、記憶を探っていって。
 不意に、目の前の男とまだ幼さの残る顔が一致する。
 少し丸みを帯びた顔でいつも小さな笑みを浮かべていた小柄の彼。けれど、その記憶の顔を細く大人の顔つきにしてしまうと、眉や目の形、唇の形がぴたりと重なる。
 違うのは、その瞳の強さ。唇の色。髪型。
「園田(そのだ)くん……?」
 呆然と無意識のうちにその名を呼ぶ。
 園田文昭(そのだふみあき)だけが、紀通の記憶と被さるけれど、あのころの彼は、紀通より小さくて、どこの部にも所属せず、いつも一人でいることが多かった。本当に目立たなくて、話したことも数度しかない。
 ただ、女の子達が言っていた事が印象的で、だから自分の記憶の中に残っていたのだ。
 朗読している時の声が良く似ている、と。
 その彼だというのか?
「嘘……」
 堪らずに呟いて、また喉の奥で嗤われる。
「お前は変わらないな」
 暗に自分は変わったのだと伝えて、園田は中井と呼ばれた男へと向けた。
「ヤバイ物は載っていないだろうな」
「あ、はいっ、たぶん……」
「確かめとけ」
「はいっ」
 なんだよ、そのヤバイものって?
 ひくりとひきつるこめかみから冷や汗が流れる。それでなくても涼しい夜気が、やたらに冷たく感じた。
 命じられて中井が車内に上半身を突っ込んで見渡している。
 その命令し慣れている園田と、それを当然のように受け入れている中井。
 この状況の中で、彼を園田だと思うにはあまりに違和感がありすぎた。

2

 それほど時間が経たないうちに警察がやってきた。
 何て事はない追突事故で済むと、紀通は思っていたから、問われるがままに答えた。
 紀通自身が自分が悪いことを認めていたし、眠っていたことも認めていた。
 その証言は、園田や中井の証言とも変わるものではなくて、警察もそれを認めたはずだったけれど。
 淡々と聴取に応じているにも関わらず、園田や中井の雰囲気に警察は何かを悟ったのだろう。
 気が付けば、事故処理車だけだったパトカーが、さらに数台増えていた。
 それでも平然としている園田の様子に、狼狽えているのは紀通の方だ。別に彼らは悪くないのだけど。
 事故った時に自分の非をさっさと認めるものではないという話も聞いたことがあるが、居眠りで、交差点でちゃんと停止していた車に追突した非は、どう足掻いても誤魔化せるものではない。
 彼らは悪くないし、あまり面倒かけさせたら、よけいな事にもなりかねないと不安が込み上げた。堪らず、隣についていた警官に問いかける。その彼は制服ではなくスーツ姿で、結構若い。
 最初は保険屋か何かと思ったけれど、警察手帳を見せてくれて、他にあった事故のせいで人手が少ないので応援で来たのだと淡々と教えてくれた。それにしては、田添と名乗った彼は紀通の傍らから離れない。
「あ、あの……」
「一応、いろいろと調べますから、もう少しかかりますよ」
 彼が落ち着かせるように紀通へと視線を向けてきてくれた。けれど、すぐに厳しい視線が園田達へと向かう。
 まるで彼らが何かをしでかすのではないか、と見張っているようなのだ。
「あの……でも、俺が悪くて……あ、あれ、何で」
 ついには、警官達が園田達の車に群がっている。それは事故の状態を見ると言うより、何かを探しているように見えた。
「彼らは、弥栄(やさか)組の構成員です」
 その宙に消えたはずのつぶやきを、田添がぽつりと返してきた途端、紀通の表情はぴきりと凍り付いた。
 弥栄……組?
 それは、紀通でも知っているこの県下有数の暴力団の名だったのだ。
「正確には、弥栄組の若頭補佐です、園田は。中井はその舎弟ってところですね。もっとも一番下っ端の……ですが」
 まるで書類でも読み上げているような田添の言葉は、だからこそ真実みを持って紀通の脳に染みこんでいった。
「若、頭、補佐? あの園田君が?」
 やっぱり別人だと、頭が結びつけるのを拒否するほどに、今の彼と昔の彼とでは違いすぎた。
「園田とお知り合いですか?」
 僅かに見開いた瞳が、紀通を捕らえる。それに自信なさげにこくりと頷いて、紀通は言葉を続けた。
「中学時代の同級生だったんです。でも、あのころの彼は、いっつも机で本を読んでて、物静かで、いっつも微笑んでて……。クラスの中で喧嘩があっても、別に騒ぐこともなくて……。俺もあんまり話したことはなくて……」
 そうだ、いつも彼は一人だった。
 だからと言って”孤独”とは少し違う。彼は、それが普通だったから、クラスの誰もそのことに違和感を感じなかった。こうして思い出して、彼の成長した今の姿を見た時の違和感を感じた紀通だからこそ、なぜかその記憶に違和感を感じた。
「何でだろう? 何で園田君はあんなに一人でいて……それなのに、誰からも不思議がられなくて。遠足とか、グループ活動とか……修学旅行とか……。一緒に参加したこともあるはずなのに……そこにいたなっとしか思えない奴で……。けれど、なんでか記憶にはあって……」
 だから、思い出せた。
「……凄いですね」
 田添がぽつりと呟いた言葉に驚いた。
 凄いって……。
「何が、です?」
「中学生の頃の子供が、それだけ自分を律するのは凄いことです」
「律するって?」
「人には交わらない。喧嘩はしない。けれど、違和感なくクラスに馴染み、問題なく卒業する……彼の行動はそのためのものだったと私は考えます。だから、律していたと言えます」
「……律していた? 何で?」
「それは」
 ちらりと紀通を見た田添は、言い辛そうに口元を歪めた。それはきっと言ってはならない事なのだろうけれど。
「俺、もしかするとまた彼と話をしなければならないかも知れないし、少しでも情報を教えてもらえますか?」
 保険とか、事後処理とか。
 そう言って促して、彼は口の中で「仕方ありませんね」と呟いて、紀通に視線を向けてきた。
「……彼の父親は草間組の組長でした。今は、園田が組長となり、同時に弥栄組の傘下に入っています」
「え……」
「普通の子供時代を送るために、彼は律していたのだと思います。今の彼は、そのころにはできあがっていたということでしょうか……」
 もっとも、個人的な推測ですけどね。
 田添は、笑いもせずに言葉を継いで、それっきり園田のことは口にはしなかった。
 

 田添の考えをもっと聞きたいと思った紀通だが、事故車の周辺が急に騒がしくなってそれどころではなくなった。田添も緊張した面持ちで、車の方を見つめている。
「何?」
「何か見つかったようです」
 早口で呟く田添が今にも走り出したそうな様子が伝わり、紀通の足も一歩踏み出した。だが、その体を田添の腕が制止する。
「動かないでください」
 強い口調で言われて、紀通は急いた気持ちを抑えつつ、視線だけをその場所に巡らした。
 さらに脇に寄せられた二台の車の片方、園田達が乗っていた車のトランクが開けられていて、警官が一人何かをそこから取り出したのが騒ぎの一端だったようだ。だが、遠すぎて、それが何かは判らない。
「あの、あれは?」
「……判りません、ここからでは」
 淡々と言っているのに、緊張しているのが判る。その言葉に、先ほど園田が言った『ヤバいもの』という言葉が甦った。
 けれど、あの時、中井は『無い』と言っていたけれど。
 目を凝らして明かりに照らされたそれが何かを見ようとする。
 何か細長いもの。
 二の腕の長さ程度のそれは回収され、園田達は幾人もの警官に取り囲まれていた。
「あ、あの……何で?」
 彼らが誘導されて、パトカーに乗り込んでいく。
 驚いて問うが、田添は紀通から決して離れずに、事の成り行きを黙って見守っている。
 そんな彼らの元に、別の制服警官がやって来た。
「相手の二人は銃刀法違反で事情徴収しますので、鴻崎さんは引き取って頂いても大丈夫です。車は動くようですが、気をつけてお帰りください」
「へ……」
 銃刀法違反?
 帰って良いと言われたことより、その言葉の重い雰囲気に気を取られて動けない。
 あの、園田が?
「何か見つかったのですか?」
 呆然としてる紀通に変わって、田添が警官に質問する。
「はい」
 けれど、彼は肯定しただけで詳しくは答えず、田添もそれ以上は問わなかった。それだけで、彼らは判るのだろうが、こんな場に出会ったことが無い紀通には、何のことやらさっぱり判らない。
 ただ、判るのは、彼らが捕まってしまったということで。
「あ、でも、園田君の車は?」
「車は代わりの者が運転して警察署に回します。頑丈な車ですから、修理費用もたいしたことはないでしょう。それでも、問題が起きるようでしたら、迷わず相談にきてください」
 田添から差し出された名刺を、促されるがままに受け取った。
「本来私は担当外なのですが、小さな署なので融通は利きます。それに厄介なことになれば……それこそ担当ですから」
 その言葉の深い意味に頭が辿り着く前に、激しい悪寒が背筋を走った。
 思わず田添を注視する間に、園田達を乗せたパトカーは走り去っていく。そして、田添もそれ以上は言葉を継がず、背を押して促すように紀通を車の中に押し込んだ。
「それでは、お気をつけて」
 丁寧な態度と物言い。
 何も知らない方が良いのだと、関わらない方が良いのだと、田添の態度が教えてくれる。
 その無言の圧力に、紀通は逆らうことはできなくて、車を発進させた。
 バックミラーに、まだ残っていた赤色灯が映る。
 けれど、それもすぐに小さくなって、紀通の脳裏にパトカーに乗せられる園田の姿が浮かんだ。同時に、紀通の事に気が付いた時の、園田の声音も。
 それは、懐かしさの滲んだ、とても優しい声音だった。

3

 あまりにも印象的な再会に、紀通は忙しい仕事の時にも園田のことが気にかかって仕方がなかった。翌日の朝刊は、隅から隅まで読んでみたが、事故の事は何一つ載っていなかった。
 その事に多少は安堵したが、判らないということはよけいな不安を煽る。
 自分のせいで、彼は捕まってしまったのだ。若頭補佐という立場が、どんなものかは紀通には判らない。けれど、あの中井という男が盲目的に園田に付き従っていたのだから、それ相応の地位にあるのだろう。
 そんな彼が、いつまでも警察にいるとは思えなかったけれど、そのことで紀通に対して何か言ってくるかも知れない。
 数日後に保険屋から電話がかかってきて、相手との交渉はとても平穏に終わったからと、安心させるような声音で言われた。相手も代理人任せにするということで、ごく普通に処理が終わるようだった。
「ほんとうに良かったですね」
 しみじみ電話口で言われて、紀通は引きつった笑みを見せた。
 園田は、それほど厄介な相手なのだと、再認識してしまう。
「ええ……」
「ああいう相手だとなんだかんだ言われることも多いのですが、今回は相手が良かったんですね。全て任せるとおっしゃって頂いたようで。まあ、今回はこちらの負担が100%ということで、特に問題なく終わりました。これが、逆だといろいろと難癖つけられるのですが……」
「はあ、すみません、お手数をおかけして」
 それが保険会社の仕事だろうと思ったけれど、自分でも拙いことをしたいう思いがあったから、素直に謝った。
「いえいえ、そのための保険ですからね」
 軽く笑われてほっとしたけれど、紀通が普段入っていた保険が、万一のための保障内容が非常に良いものだったからの対応だろう。最悪、弁護人費用すら出る保険だ。
「あ、あの……相手には……園田さんには会われたのですか?」
「いいえ。代理人の方には会いましたが、園田さんは一回も出てこられませんでした」
「そうですか……」
 ならば、やはり彼の動向は判らない。
「互いに怪我などされていませんし、特に会われる必要も無いですから。その方が、こちらとしても助かります」
「はい……」
 きっぱりと言われて、こくりと頷く。
 本当は一言くらい詫びが必要かとも思ったが、そう言われてはできるわけがない。それに実は怖かったのだ。
 もとよりそんなに親しい訳ではなく、あの時田添に言われた『彼は自分を律していた』と言葉も気になった。記憶の中にある園田が実は仮の姿だとしたら、本当の園田など知りたくはない。
 それに、暴力団が起こす事件は記事で読んだことがある。そんな渦中にわざわざ飛び込むような勇気が、紀通にあるわけもなく、彼は事故の詳しい状況は誰にも黙して、そして相手にも結局何もしないことにしたのだった。


 なのに。
「あ、あなたは……」
 けだるく過ごしていた休みの日の午後、チャイムの音に何気なく玄関を開けた紀通の前に、きらりと光る黄金色のピアスがあった。
 明るい茶色のつんつん頭と、眉間のシワ。不服そうに唇を尖らした若い男は、じゃらじゃらとしたシルバーの鎖を腰に垂らしていた。
「俺、中井っつうんだけど?」
 知ってるだろ? と嘲笑されて、頷くこともできずに硬直する。
 実は明るい日差しの下では、最初は彼だと判らなかったのだ。
 やけに明るい色合いの人間に面食らっている間に名乗られて、記憶の中のこの男を思い出す。
「そ、園田君の車に……」
「そ。俺、園田さんの舎弟。この前はどうも」
 にやりと嗤われて返す言葉があろう筈も無い。彼がどんな用事でここに来たのか、最悪のパターンが頭の中に駆けめぐる。
「お陰で、一晩ブタ箱に入るはめになっちゃってさあ」
「ブタ箱……?」
「そっ、まあ、朝には千里……さんのお陰で出れたけど、ったく……」
 嫌そうに顔を顰めて、暗に紀通のせいだと責められているのは判った。
 確かにあの事故は紀通が悪い。けれど、ヤバいものを車に積んでいたのはそっちの方だ。
「けど……」
 つい反論しかけて、中井の片眉が上がったのに気が付いた途端、口を噤んだ。
 彼を怒らせる方が拙いのだ、今の状況は。危機脱出のための本能が、紀通の口を重くした。
「まあ、ちょっと入れてくんない? 立ってんのも足が怠いし」
「え、でも」
 入れたくないっ。
 咄嗟に浮かんだ考えは、顔にも出たようで、中井がニヤリと口の端を上げた。
「ま、そういうだろうと思ったけどよ。けど、あんたは、俺には、逆らえない」
 その確信は一体どこから来るのか?
「何故?」
 堪らずに呟いた言葉に、中井は声を上げて嗤った。
「だってさ、園田さんが言ってたからな。あんたは、義理堅いところがあるから、俺たちが捕まったことずっと気にするだろうって」
「え……」
「あんた、園田さんの中学時代の同級生だって?
「そ、そうだけど」
 こうしてみると、今28の紀通よりかなり若い。
 まだ20前後の、街中で見る若者だと思えば見えなくもない中井が、玄関を塞ぐように立っていた紀通の体を押し退けるように通っていった。
 その力は意外なほどに強く、じゃりと腰で鳴る金属音に遮る気力を削がれた。
「うわっ、狭えなあ。俺んとこと変わんねえ」
 その中井が入った途端に部屋を見渡して、酷評してくれる。思わず「どうせ」と呟いて、からからっと笑われた。
 その笑い方が明るくて、ほんの少し強ばった体が解れる。
「入社してからずっと住んでいるんだ。どうせ一人だし」
「へえ、あんた園田さんと同い年だろ。その年で、彼女の一人もいないのかよ?」
「……いない」
 初対面に近い、この図々しい男に答える謂われは無いと思ったが、結局ため息混じりに答えてしまった。それをまたからからと声を立てて笑われた。
 そのたびに、中井から険が取れていく。
「そういう君はどうなんだよ」
「俺は、園田さん一筋。もう園田さんがいれば、下手な女なんかいらないね」
「……?」
 それは、普通に自らの尊敬すべきボスに対するものだと思えば変ではない。なのに、なぜかその声音に、ひやりとした悪寒が背中を走った。
 思わず見返した中井は、うっとりとした視線をいない筈の園田へと向けているようだ。
「俺さあ、園田さんのことなら何でも知りたいんだ。あんた中学の頃の園田さん知ってるって聞いてさあ、聞きに来たんだ。なあ、教えろよ」
「教えろって……」
 もしかして……。
「何でも良いんだ、知りたいだけだからさ。もう今の園田さんって格好良くて。特に、失敗した奴を叱る時なんて、鋭い視線に厳しい声で……そんな園田さん見たら、身震いするほど興奮するんだよ……。もう、俺はそれが見たくて、そんな場でも外れたくないんだよなあ」
 それって……。
 気のせいだろうか?
 彼の穿いているチノパンの前が膨らんでいると思うのは。
 たらりと流れる嫌な汗とひきつる頬を必死で押さえ込んで、それでも好奇心に負けて紀通は目の前の男に問いかけていた。
「そのさ、あんた……って」
「そん時の光景って、ズリネタに最高なんだよなあ……。ああ、園田さん……」
「あ、そう……」
 もう、何も言えなかった。
 つまりこの男は、園田の叱責で、勃つのだ。
 ホモで、マゾで……。
「その……、中井君って自分が叱られても勃つの?」
 堪らずに聞いてから、何て事を聞いたのだと後悔する。そんな紀通を中井はちらりと見やって、バカにしたように口の端を歪めた。
「バカかよ、そんなことになったら、俺、園田さんの傍にいられないだろ。だから、俺失敗したら、ひたすら冷謝りするっきゃないからな。そんな時に勃つ訳ないだろうが」
「はあ……」
「まあ、許して貰った時の安堵感も合わせて、最高のズリネタにはなるけどさあ……」
 マゾ……かよ。
 頭を抱えたくなったが、聞いてしまったのは紀通の方だ。
 まあ、確かに格好良かったけどな。中井を顎で使っていた園田は、確かに格好良かった。
 少なくとも、中学時代の記憶しか無い園田と素直に結びつくはずはなかったほどに。
「なあ、だから教えろよ、さっさと」
 ついでにストーカーかよ。
 と思ったけれど、そんな彼を怒らせるのも拙いような気がした。そんな紀通の様子に気が付いたのか、中井がニヤリと嗤う。
「何しろ、あんたは俺に教える義務があるんだ」
「何で?」
 素っ頓狂な声で問い返すと鼻で嗤われた。
「俺、あんたのせいで、ブタ箱に突っ込まれたんだぜ? あん時、カマ掘られたせいでトランクが開かなくって。奥にナイフや鉄杭が残ってたなんて、気付かなくなってよお……」
「そ、それは……」
 指摘されるまでもなく、あの時のことは気になっていた。何しろ相手は園田だったのだ。今の立場を知ってなお、記憶にある園田を困らせたのかと思うと、弱い。
「で、でも……鉄杭なんて、なんで車に?」
「あ、あれは、この前若いもんでキャンプに行ったんだよ。テントやらバーべーキューセットやら積んで。それが奥に残っててさあ。それが証明できたからすぐに出されたんだけど……。けど、見つかった原因は、あんたのせいだろ?」
 じとっと睨まれて、紀通は結局頷くことしかできなかった。

4

「ああ、園田さん……」
 うっとりと視線を彷徨わせる中井の脳裏には、先ほど見せた中学の時の写真の園田の姿でもあるのだろうか?
 その手が、股間をもぞもぞと擦っているのを見ないようにしながら、紀通はため息を必死になって飲み込んでいた。
 なんで、こんなことに……。
 話をしていると中井は、園田至上主義の変態で弥栄組の構成員ではあるが、意外に馴染みやすいものがあった。目をキラキラさせて、紀通の話に聞き入っている姿などは意外に整った顔立ちとも相まって、可愛くすら見えたのだ。そんな自分の感情を誤魔化すように、紀通はついつい中学時代のあれこれを話してしまったのだが、その結果がこれだ。
「勃たせるなよ……」
 それでも呟いた声は、中井の耳には入っていない。
「すっげえ、優秀だったんだろうなあ……。その頃からでーんと落ち着いててさ。俺なんて、中坊の時なんててんでガキだったのに……。ああ、俺、改めて惚れ直したぜっ」
 だから、どうしてそういう展開になるのか?
 あまり記憶に残っていない園田の話は、先日田添という警官にした話と大差ない。だが、中井もまた彼が凄いという。
 まあ、この男の頭は、園田のことならなんだって良い方にしか向かないのだろうけれど。
「だから、そこで達くなって……うわっ、出すなっ!!」
 パンツの前から取り出そうとしているのが判って、慌てて制止する。
「なんでえ、あぁ……俺、もう堪らんっ」
 はあはあと息を荒くして、立派な陰茎を取り出されてしまった。つい目に入ってしまったてらてらとした先は、その一瞬でも十分判るほどに濡れそぼっていたのだ。
「や、止めっ、バカ、トイレ行けよっ!!」
 さすがに目の前で出されるのは敵わないと、中井を引きずりトイレに放り込もうとして。
「あ、ぁん……」
「うわっ、バカっ、あぁっ!」
 裸足の足にかかる生暖かい滴。床にも散ったそれに、呆然と立ち尽くした。
「あんたが引っ張るから、つい出ちまったんだよ」
 床に座り込んだ中井が、すっきりした顔を上げて笑う。一方紀通は、気色悪い感触に呆然と立ち尽くしたままだ。
 男の……あれが、足に……。
 すぐに拭きたいのに、動けない。今動くと、ぷるりとした濃厚な精液が、足の甲から流れ落ちそうなのだ。
「ん、どした?」
 さすがに紀通の様子がおかしいのに気が付いたのか、中井がじりっと近寄ってくる。
「あ、足……足のそれっ!!」
 指さすそれに視線を向けて、これが、と首を傾げる。
「これが、じゃねぇっ!、さっさと拭きやがれっ!!」
 あまりの出来事に理性など吹き飛んで、紀通は真下にあった中井の頭をぐいっと足先に押しつけた。
「お、お前っ、どこに出してんだよっ!! もうちっと我慢しろぉっ!!」
「い、いたっ、痛、何か……つうか、その声?」
 罪悪感の一つも感じられない中井に、紀通の理性はすでに焼き切れている。ぐいぐいと茶色い頭を押しつけて、ただ、その気色悪いものを早く取って欲しい、とそれだけを考えていた。
 窺うように紀通を見た後、中井がふっと視線を落とした。
 だから、足の甲の生暖かい湿った感触は、ただ拭いているのだと思ったのだが。
 ぴちゃ……。
 その音が舐める音だと気が付いたのと同時だった。
 指の股を舐め上げられた途端に、ぞわりと肌の上を何かが這い上がる。がくりといきなり膝の力が抜けて、紀通は愕然としたまま壁に背を預けた。
 信じられない面持ちで眼下を見やれば、茶色の頭がゆらゆらと動いている。
「な……」
 叫びそうになった口を両手で押さえつけて、そのままずりずりと床に座り込んだ紀通の目の前で、中井が赤い舌先を出して、中井の甲から足指をぺろっと舐めていた。
「あ、あんた……何を、うっ」
「何って、綺麗にしてんだよぉ。あんたがぁ、綺麗にしろって……」
 荒い吐息を零しながら、どこか放心したように言うと、またすぐに舌を出して再会する。
 明るい茶髪は細いストレートで、さらさらと落ちては中井の素肌をくすぐる。だが、それ以上に中井の舌が何とも言えない力加減で紀通の肌の上をなぞるのだ。適度に焼けた肌はまだ若いせいか、きめ細かい。その肌がうっすらと上気して、時々切れ長の瞳が紀通の様子を窺うように向けられる。
 その瞳が淫猥に濡れていた。
「だ、だからって、やっ、やめっ」
 ヤバイっ。
 ヤバイったら、ヤバイっ!
 腹の奥深く、ぞわぞわと這い回る妙なる疼きに、紀通は必死になって中井の頭を避けようとした。独特の力加減が、その行為を愛撫にしている。けれど、そんな紀通の抵抗をあざ笑うかのように、中井はさらに激しく舐める場所を広げていった。四つん這いになって紀通の足を掴んで、掲げられた腰は何故かかくかくと揺れている。
「あ、くっ……」
 何故、足の甲ごときにこんなに感じるのか判らないほどに、感じる。いや、視界に入るこの情景すら、紀通の情欲を高めるのだ。
 目の前で、男が発情している。
「その声。似てる……はあっ……園田さんの声だぁ……怒る声も良いけど……あんた、それだけじゃないや。今もすっげえ色っぽいし……」
 とんでも無い事を言う声と吐息に、心はさあっと冷たくなるのだが、体は意外に巧みな指遣いに確実に反応を始めていた。
「なっ、もっと喋って……なぁ、遊ぼうぜえ」
「何っ、んんっ」
 のしかかってきた男の唇が、逃げる間もなく紀通のそれを塞ぐ。
 悲鳴をあげかけたせいで緩んでいた口は呆気なく舌すらも受け入れてしまっていた。
「あ、んっ」
 強引な男の舌は、意外なほどに繊細に動く。それから必死になって逃れようとするが、中井は細いわりには力が強く両手は難なく押さえつけられ、のしかかられた体は相手を跳ね除けるともできなかった。
 その腰が、紀通の硬くなった腰に当たる。
 互いにはっきり判るほどにいきり立った状態に、紀通は情けなさに涙を滲ませ、中井は喜色満面で悦んでいた。
「あっくっ……いい加減にっ……あ、んっ……」
「ああ、良いよ……その声。腰にくるぅ。喘がれたら……すげえ……もうビンビン……」
 子供の頃は似ていると言われたこともあるが、だからってこれは無い。だが、直接的な刺激を与えられ、紀通のそれもこんな状況だというのに爆発寸前だ。
 そんな元気な二本をまとめて掴まれて、上下に激しく扱かれる。
「や、やめって! 俺は園田くんじゃねえっ!」
「園田くん……良いなあ、俺もそう呼びたい……。園田君……そのだ、くん……」
 うっとりと耳朶に吹き込まれる名。
 大人しい子供だった彼は、今はやくざな組織の若頭補佐で。
 ついでにこんな変態を舎弟に飼っていて。
「園田……くそっ、園田のやろうっ!!」
 今度会ったら、絶対文句の一つも言ってやるっ!!
 その怒りは、けれど、中井の甘ったるい声音に掻き消された。
「ああん、俺も呼び捨てしたい?。園田、そのだあ」
「俺は、園田じゃねえっ!!」
「ああ、んっ、良い声???っ!!」
 放心した声と同時に、中井の体がぶるりと震える。
 その刺激に、紀通のそれも呆気なく解放を迎えてしまった。
「う……くっ……」
 息を詰めて何度も吐き出す。その妙なる快感に体は悦んでいるのに、紀通は「ううっ」と唸ってごろりと床に転がった。そのまなじりから流れる涙は悔しさからだ。
 なんなんだよ、この状況は……。
 ホモの変態に押し倒されて、いまだに滑るそれを擦りつけている奴に、逆らうこともできなくて。
「お前は……何なんだよ……ったく……」
 流れる涙を拭うこともせず、なんとか相手の体を押し退ける。
「だって、あんたの声、園田さんに似てる。園田さんに叱られて、園田さんが喘いでいるって思ったらさあ、止められる分けねえじゃん」
「どこがっ!!」
 あいつの声と俺は違うっ!
 そう反論しようとした紀通の言葉は、中井のうっとりとした視線に遮られた。
「そうやって、怒鳴った時。さっきも綺麗にしろって言われた時、園田さんに言われているかと思った」
「俺が……? 違う……だろ?」
「似てるって。普通に喋っている時は、話し方が違うからそうは思わないんだけどなあ……。怒鳴っている時のイントネーションとか、声音とか……似てるって思うぜ。園田さんの声が大好きな俺が言うんだから、間違いないぜ」
 きっぱりと言われて、園田の声を良く知っている訳ではない紀通は、それ以上言葉を継げない。
 ただ、さすがに萎えてきた陰茎があまりにみっともなくて、慌ててそれを服の中に隠しながら、中井にも促した。
「あんたもしまえよ……それ」
「あ?、先に綺麗にさせて」
 途端に、ぺろりと舌で自分の唇を舐める中井を見て取った途端、背筋を走り抜けた甘い疼きは、さっきより強い。
 そんな自分と、この後の事を想像して、紀通の顔から音を立てて血の気が失せた。
「や、やだ……」
「あれえ、俺、綺麗にするの好きなんだけどなあ」
「だから、それ、止めっ!」
 寄ってくる男を、必死になって押し退ける。
 この男の舌は、足の甲だというのにそこが性感帯のように感じさせた。
 その舌が、自身の陰茎を舐めるのだと思うと、激しい期待と拒絶が頭の中を駆け巡る。
 怖い、怖いのだ。
 あの舌に舐められたら、後戻りできそうにないほどに怖い。
「ティ、ティッシュがあるだろううがっ!!」
 びしっと指さしたら、「ああ」と感極まった声を出された。
 やばいっ。
 こいつに怒鳴るのは厳禁なのだと、危機回避の本能が知らせくれて。
「お、俺は、いらない。自分で拭く……いいか、自分で拭け……」
 必死になって感情を押し殺して言い放つと、「ちぇっ」と残念そうに舌打ちされた。
「けど、またやって良い?」
 なのに、中井は離れながらもにこりと笑いながら言い放ち。
「やるかよっ!!」
 寸前の決意を忘れて怒鳴った途端に、また淫猥な目つきを向けられた。

5

 紀通は沈痛な面持ちで、携帯に着信したメールを眺めていた。不規則な仕事が多い紀通の帰宅時間はやはり不規則で、自分でもその日の何時に帰れるかは判らない。なのに、帰ろうかと思う頃になると一通のメールがやってくるのだ。
 そのメールの返信は、電話で行う方が効率が良くて、紀通は帰りの車に乗り込んですぐに電話をかけるのが日課のようになっていた。
「くるなよな 今日は疲れてんだよ」
 相手が出たのを確認して、一言伝える。
 それで相手が納得してくれる時はまだ良いけれど。
 返事を聞かず、紀通は携帯を切ってがくりとハンドルに突っ伏した。それでなくても、仕事で疲れているというのに、上乗せされる疲労は、紀通を半端でなく疲れさせた。
 相手は、あの中井だ。
 あの事故の日から二ヶ月。以来、すっかり紀通の声に惚れ込んでしまった中井は、暇さえあれば紀通のところにくるようになってしまった。
 暴力団の仕事がどんなものかは知らないが、中井はその中で園田の付き人のような仕事をしているらしい。彼と同行しない時は、意外に暇なのだと笑っていた。その分実入りも少ないが、彼にとっては園田と一緒にいられるだけで幸福なのだから気にしていないようだ。
 それに今は紀通がいると甘ったるく囁いてくる。紀通に叱られてる快感は、園田のそれと良く似ているというのだ。
「ったく……」
 流されてずるずると付き合ってしまう自分もバカだと思う。家に入れなきゃ良いのに、と判っているのに言い争いになりそうなのが嫌で、結局は入れてしまって。
 すっかり気に入られてしまった原因は、この紀通の声だ。
 あの日、事故の日に園田と交わした時には、そんなに似ているとは思わなかった。ただ、ずいぶんと馴染んだ声をしているとは思ったたけれど。
 自分の声を聞くのは、自分と他人とでは変わって聞こえるということは知っていた。自分の声は、頭蓋骨を介しても伝わるからだ。だから、録音すれば似ているのだということになるけれど。
 わざわざそんな機会を作る必要もないから、自分の声が他人にどう聞こえるのかは判らない。
 もっとも、中井があれほど似ているとこだわるから、それは似ているのだろうとは思う。中学時代、女の子達も言っていたことを、最近はっきりと思い出すようになっていた。
 だが、それはまだ良い。
 あれっきり園田とは話す機会も無いし、また会うこともそうそう無いだろう。
 何しろ相手は、弥栄組の若頭補佐という、中井によればとても偉い人だという。そんな彼に、また接することはないだろうけれど。
 問題は中井だ。
 会社から車を走らせ帰路につく紀通の顔は、晴れない。電話で断ったからと言って、中井が来ないかどうかは、帰ってみないと判らないのだ。
 懐かれて悪い気はしないが、それでも彼が入り浸りるということはある問題を抱えていた。
 弥栄組の下っ端である中井は、気の良いところもあるが、ひどく頑固な一面もあった。もっともそれは良いのだが、問題はこっちの都合などお構いなしに訪ねてくることだ。そうなれば、こちらが幾ら嫌だと言っても、強引この上なく迫ってきて、それに乗ってついつい声を荒げる紀通の声を聞いて悦んでいる。
 中井の情欲の引き金が何かは判りすぎるほど判っているのに、なのに中井の口車に乗って、声を荒げて。
 中井によれば、その時の声が堪らなく園田に似ていてクルらしい。
 そのせいで、彼は呆気なく欲情して、紀通を押し倒す。
 半端でなく中井は巧い。
 その手腕を一体どこで習ったのかと、いつか聞いてみたいと思いつつ、まだ聞けていない。彼の手が紀通の体を探るたびに、紀通は嬌声を止めることができなくなる。その声は、きっと隣近所にも漏れているだろう。たまたまゴミ捨てなどに顔を合わせる人達の視線が痛いと思うのは気のせいではない。
 自由業と言って差し支えない中井は、人の多い昼間でも夜でもやってきて、しかもやたらに目立つ。どこかの主婦達がひそひそと立ち話をしている姿も見かけていた。
 そのうち大家が何か言ってくるんじゃないか?
 こんなことで、あの頭の固い大家を怒らせたくはなかった。
 けれど。
「……来てるよ、あいつ……」
 明かりのついた自室に駐車場にある見覚えのあるおんぼろ軽四。
 いつの間にか盗られていた合い鍵は、何度言っても返してもらえない。
 もっとも、もう良いか、と思い始めている自分もいることを、紀通は自覚していた。


「お、かえり?」
「おまっ、勝手に俺のビールをっ!!」
 怒るまい、叱るまい、声を荒げるまい。
 駐車場から玄関まで、必死になって自分に言い聞かせていたことが、一瞬にして消えた。
 靴を脱ぐ時間も惜しんで駆け寄って、今にも口を付けようとしたビール缶を奪い取る。けれど、その缶は異様に軽くて、もうほとんど空だと紀通に知らしめた。
「て、てめえっ!」
「飯くらい炊いとけよなあ、俺、腹減ったあ」
「ねえよっ!」
 疲れて帰った体に一杯のビール。
 その至福の時を過ごすための小道具は、これで最後だったのに。
 何度注意しても、この男は勝手に冷蔵庫を開けてビールを飲むし、買い置きの食料品に手をつける。
 時々思い出したように代わりの品を買ってきてくれ、ついでのように掃除はしてくれるが、それだけだ。
 帰って、食べようと思った物が無い時のむなしさ、脱力感は、結構堪える。どうやら、それを狙っての行為だと最近は気が付いているのだが、やはりこればっかりは許せない。
「自分で買ってこんかっ!」
 ついつい爆発させた怒りは、返された視線に気が付いて、急速に萎んだ。
「……そうだねぇ。今度はそうするからさあ、許して? それより、その声……びんびんにキたよ」
 またうっかりして中井の情欲に火をつけたのだと気が付いても後の祭りだ。
 こうなると、この男はどこまでも強引で、互いに達くまで止めやしない。
「や、止めろっ。、なんでそんなに簡単におっ勃てるんだよあんたはっ。自分だけでやれっ!」
「二人でやる愉しみに目覚めさせたのは、あんただよ」
 ズリネタオンリーで愉しんでいた中井にとって、あの時の擦り合いっこはやみつきになるほどに良かったらしい。
「俺は愉しくねえっ!!」
 こんなことは、綺麗なおねえさんとやってこそ愉しいもので、いくら顔が良くても男とやるものではない。
 だが、なんだかんだ言って中井は若頭補佐の傍らにいる人間で。いつかはもっと園田の役に立とうと率先して武道で体を鍛えている彼に、紀通はどう抗っても勝てるものではなかった。
 それに外見はちゃらんぽらんな風を装っているというのに、頭も良い。
 どんなに無視しようしても、気が付けば中井の手管に翻弄されて、流されて。
「ひっ、あぅっ」
 脱がされ、擦り寄せられる互いの陰茎は、慣れた愛撫にあっという間に滴を零して先を望む。
 最近では紀通自身も触れあっただけで先を期待するようになっているのだ。
 そんな自分が変だと思っても、触れられると全身が甘美なそれを期待して、力が抜けていく。
 実際、中井はこの二ヶ月でさらに巧くなっていた。
「あ、んっ、止めって! ダメっ……」
 荒い言葉こそ、中井を悦ばせる。そんなことは判りきっていても、理性が追いつかない今は、言葉遣いなど構っていられる物ではなかった。
「てめっ、そんなことっ、ああっ」
「あぁ、いいなあ……もっと声出して、ね」
 中井は声フェチだ。特に園田と同じ声を望む。
 だから、紀通にも声を出させるのだ。噤もうとした口の中に指を入れられ、口内をまさぐられながら陰茎を擦り上げられれば、声は抑えられるものではなかった。
「あ、んっくぅ……中井っ、止めて、もう……」
「うわぁ、最近、ますます色っぽい?。ああ、ぞくぞくするぅ」
「や、やあっ……中井っ、中井っ、もうっ……」
 ぬちゃぬちゃとしとどに濡れた陰茎が、びくびくと震えて放出したのはどちらが先か判らない。
「はあ……」
 びちゃびちゃに濡れた互いの下腹は、けれど、こんなことでは物足りないと摺り合わされ、また元気になっていった。
 快感は数をこなすごとに強くなっていって、麻薬のように次が欲しくなる。ますます貪欲になっていく体を、紀通自身持てあましているほどだ。そんな己を、中井は隠そうともせずに、紀通を求めてくる。
 快感の余韻に浸ってぐったりとしている紀通に、中井が笑いかける。
「なあ、もっと……しよ」
 のしかかってくる男に、紀通は深いため息を吐いてはみたものの、結局はどうしようもないのだった。


 外に出れば、太陽の光がやたらに眩しく感じられた。
 どうやらもう昼が過ぎているようだ。ならば、さっき無理矢理食べさせられたサンドウィッチは昼食だったということで。
 それにしては眠くて怠い体に、できれば一日寝倒したかったのだが、それは中井が許してはくれなかった。
「ほら、行こうぜ」
 晴れ晴れとした声が恨めしい。
 これが年齢差のせいなのか、ただ中井が絶倫なのかは判らない。ただ、いつまで経っても中井は紀通を休ませず、いろいろな方法で快感を貪った。
 それに付き合わされた紀通は、途中からは半分寝ていた状態だ。それでも安眠はできていないから、疲れは蓄積するばかりだ。
 週末にやってくるとたいていそうで、そしてその次の日は必ずと言って良いほど、中井は紀通を連れ出して、あちこちドライブをした。本人も好きなのだろうが、車の運転も巧い。どうやら金さえあれば良い車を買いたいらしいのだが、今の身分ではそんなに金はもらえないらしい。
 紀通はふらふらと中井の車に乗り込むと、そのまま助手席のシートを倒して目を閉じる。
「シートベルトくらいしろよ」
 やくざのくせに律儀な事を言う中井に呆れたように視線をやって、再度目を瞑る。
 怒って欲しいのだろうが、幸いなことにそんな気力は無い。それでも甲斐甲斐しく世話をされ、気が付けば車が動き始めていた。
「今日は、俺の思い出の地に行こうかなあ」
 脳天気に鼻歌まで聞こえてきて、紀通は呆れるやら可笑しいやらで口元を歪ませた。
 疲れてはいてもそれでも付き合ってしまうのは、この男の強引さのせいにはしているけれど。もっとも、ドライブの最中ずっと紀通が寝ていても文句は言わない。
 どうやらただついてきてくれれば良いみたいなところがあって、だからこそ、ついていくことができるのだ。
「俺、そこで園田さんに会ったんだ」
 ああ、まただ。
 中井といると特に話題が無い時は、すぐに園田の話になる。
 中井がどんなに園田を慕っているか、どうして園田の下にいるのか。彼の組での立場や、将来性。
 ずいぶんと身贔屓が入っているとは思うけれど、それでも今の地位から考えると確かに凄いのだろうことは、その世界に疎い紀通でも判った。
 本人との再会はあの僅かな間だけだったというのに、もうずっと顔見知りだったような気がしてくるほどに、いろんな話を聞いた。
 彼だから命をかけられるとまで中井は言う。
 そんなふうに園田のことを紀通に話すのが中井も愉しいらしくて、その顔は誇らしげな中に無邪気さすらあった。 そんな中井が最近可愛いと思うのは、あまりに懐かれてしまって情が移ってしまっただけだろうけど。
 その中井にこれほどまでに惚れられている園田に、もう一度会ってみたいなと紀通は思い始めていた。

6

 年老いた教師が示すままに、彼は立ち上がり淡々とした声音で教科書を読んでいった。
 その姿を斜め後ろでちらちらと眺めながら、流れる声と共に紙面の字も追う。
『……その日、明るい日差しがさして……』
 誰かが似ていると言った声。
 自分で聞いている限りではそんなことは無いと思う。けれど。
『園田くんかと……』『あ、鴻崎くんだったんだ』
 背後から何気なく声をかけた時。
 廊下の影で他の誰かと話をしている時。
 二人の姿が見えない時に聞こえた声音に、皆たいてい間違えた。
『しぶきが顔に降りかかる……』
 静かに響く声が、水面に広がる輪のように、心地よく心を揺さぶる。
 遠く小さく、近く優しく響く声は、決して嫌いではなかった。
 こんな良い声に似ている筈が無いだろう?
 決して口には出さなかったけれど、あのころ自分の声にちょっとしたコンプレックスになっていたのはそのせいだ。
 自分の声は、もう少し籠もっていて、あんなにはっきりとは通らない。
 だから、聞きたくなくて、あまり彼とは親しく話はしなかった。
 必要不可欠な時だけ話しかけて、『やっぱり違う』と再認識して安心する。
 もともと性格も違っていて、紀通の方がはるかに活発だった。そのせいで、ふざけている時はまず間違われない。それを知ってから、できるだけ明るく話すようになっていって。
 気が付けば、三年生は終わっていた。


 懐かしい……。
 中井から園田のことを聞く度に、記憶が少しずつ甦る。
 夢うつつで、これは夢だと思いながら中学時代の園田の顔を想像して、紀通はくすりと笑みを零した。
『あのころは可愛かったのに、いまじゃあんなに強面になっちゃって……』
 園田が怒った姿なんて見たことはなかったけれど、笑った顔もあまり見たことが無かったような気がする。
 本当に、自分に似ているのだろうか?
 変態ホモの中井が、あそこまで欲情するんだから似ているんだろう。
 心地よい振動に揺さぶられて、浮上しかけた意識は再び水面下に潜っていく。
 だが、最初はふわふわと体が揺れるだけだったのが、だんだんと激しくなっていく。ことんと傾げた首に負担がかかり、肩と首にも痛みが走り出した。
「う……ん……」
 鼻にかかった声が漏れたのに自分でも気が付くが、何しろ眠い。軋む体勢が鬱陶しいのだが、眠くて堪らない事が先に立っていた。だが——。
「っ!」
 こつんと大きく揺れた拍子に硬い何かに頭突きをして、さすがにその痛みで目を開けた。
「痛い?」
「あ、すまねえ。ちょいカーブきついから。我慢しなよ」
「カーブ?」
 痛みの走った額を擦りながら、まだはっきりとしない視線を窓の外に向ける。
「山……ん中?」
 車のすぐ横で木々が生い茂っている。中央線すら無い道は、軽四ならなんなくすれ違える程度の幅はあった。けれど、確かに中井の言うとおりカーブが多い。ぼんやりと見ている間にも、右に左に体が揺れる。それに、ずいぶんと高いところまで登ってきているのか、時折見える遠い町の様子に、目を瞬かせた。
「どこ、ここ? ひどく高いだろ?」
「ん?、この辺では高いけどさあ、それほどでもねえよ」
「つうか、対抗も後も前も、車無いんですけど?」
「そうよ。ここ穴場だからね」
「穴場って、何の?」
 この先に何かがあるっていうのだろうか?
 凝って痛む肩を揉みながらちらりと中井を見やると、彼の口元に嘲笑が浮かんでいてびくりと肩が震える。前方を凝視する視線は冷たく、口元の笑みと相まってひどくすさんだ雰囲気を醸し出していた。
「な、中井くん?」
「ん?、ここ、ヤバイからなあ」
 口調はふざけているようなのに、声音は低い。
「ヤバイって……」
 慌てて辺りを見渡すが、静かな山間の風景以外、何も見あたらない。
 それなのに、背筋にぞくりと悪寒が走り、冷や汗が流れる。
「ヤバイさ……ここは夜に来るとね、取り憑かれるから。だから昼間に来たんだ」
「え、取り憑く……取り憑くって……?」
 ちらりと中井が視線を送る。だが、その瞬間紀通の視界に茶色い壁がが大きく迫ってきて。
「ひ、うわっ!」
「おっと」
 鼻先寸前で壁が消える。
「すまね。ちょい油断した」
「油断した、じゃないっ!」
 気が付けば、カーブの多い道だというのに中井はあまりスピードを落としていない。それでよそ見をされれば、あっという間に岩壁か、それとも崖か。
 はっきり言って命はないだろう。
「な、なんなんだよ、ここ」
 先ほどの中井の『取り憑く』という言葉がやけに身に染みてくる。
 中井ははっきりとは言わないが、取り憑くと言えば幽霊だ。そして幽霊は死者の霊魂で、そして、これだけのきついカーブは事故を連想させて。
「な、中井君?」
「はあ」
「もしかしてここって事故が多い?」
 気のせいだろうか?
 滅多に車が通らないというのに、路面に何カ所もある急ブレーキ痕。それに、カーブがきつい場所には必ず古びた『スピード落とせ、事故多発地帯』の立て看板が。
「多かったさ。なんせ昔、ここには、バカがいっぱい走りに来たからな」
「え……」
「走り屋ってのは、危険なほど萌えるって言うかさあ。ここなんて最適だったんだよなあ」
 まるで懐かしむような、けれど、その瞳に浮かぶ深い後悔の色に気付いて、紀通はかける言葉を失った。
 その間も、車は慣れた道を走るように、きついカーブをすり抜けていく。
 まるで先が判るようなハンドルさばきだが、曲がるたびに迫る崖や山肌に恐怖すら覚える。
「もう少し走ったら休憩するから」
 青くなった紀通に気付いたのか、中井がくすりと吐息に混じった笑みを零した。
「怖い?」
「あんま飛ばすな」
「飛ばしてないさ」
 間髪を容れずに返されたが、紀通ならとっくの昔に事故っているスピードだ。だからこそ、怖い。
「中井……」
「も少しだって……ほら見えた」
 くいっと顎をしゃくる様子に前方を見やった。
「あ……」
 いきなり脇道があって、そっちに入った先がいきなり開けていたのだ。
 砂利が敷かれただけの、ただっ広い場所だ。
「何、ここ?」
「公園」
 タイヤが砂利が喰む音が大きく響く。そんな中、中井が短く答えて、片隅へと車を止める。
 フロントガラス越しに、数段の木でできた階段と案内の看板が視界に入ってくる。
「公園……?」
 山の公園だと、それに書いてあるのを見て取って、紀通は首を傾げた。
 少しくたびれた案内図を見上げ、辺りを見渡す。
 何かが記憶の琴線に触れ、奇妙な感情が胸の奥にせり上がってきた。足が知らず中に続く砂利道へと踏み出す。
「あ、おいっ」
 慌てて後ろを中井が追ってくる。それを背にしながら、紀通は少し下がった場所にある広場を見つめた。
「キャンプ場……ここって」
 見覚えが有るも何も、ここには一度きたことがあった。
「ここ、中学の時のキャンプ実習の場所だ……。ああ、やっぱりそうだ……」
 次々と記憶が甦り、ひどく懐かしい気分になる。
 中学三年の夏だったか、体験学習とかでキャンプにきて一晩過ごした場所。
 受験前の最後の愉しい行事だった。
「そうか、ここか……」
 感慨深げに辺りを見渡していた紀通の背後で、中井がふむふむと頷いている。
「何?」
「俺さあ、ここで園田さんと初めて話をしたんだ。けど、あの人って、こんなとこすっげえ似合わねえだろ?」
 心酔している割には笑いながら揶揄に同意を求めてくる。
 その言葉に浮かんだ姿は、あのスーツ姿のいかめしい表情をした大きくなった園田の姿だ。
 記憶の中の暗かった背景が、今この場の鮮やかな緑へと切り替わって……。
「まあ……そうかもな」
 浮く、というのはこういう状況をさすのか、というくらいに似合わない。
「んで思わず聞いたら、思い出の地だ、って、簡単に言われた」
「思い出の地?」
「ん?、何の、とまでは聞けなかった。園田さんも思わず言ってしまったって感じで、口噤んでしまったし。けど、この前紀通んとこで写真を見た時に気が付いたんだ。中学のキャンプの写真。あれって、ここだろ?」
 すうっと指さされたキャンプ場。
 あの時より、うっそうと茂った木、古ぼけてしまった窯用の石組み。休憩用の東屋だけは、妙に新しくなっていて、なんだか違和感があった。
 けれど、ここは確かに中学の時にキャンプした場所だ。
「たしかに、そうだけど……。でも、なんで思い出の地なんだろう?」
 普通にキャンプして、遊んで。
 班ごとに別れて作って食べたカレーの味は、何を失敗したのか妙に水っぽかった。
「俺なんか、ここに来るまで忘れてたけどなあ……。それって、別の時にも来てるってことかなあ?」
「さあねえ。でも、園田さん、何回もここに来てる。俺が側に仕えるようになってからもさ。最初のうちはついてくるなって言ってたけど、その内諦めてさあ、邪魔するな、としか言わなくなったな……」
 そう言いながら、中井はキャンプ場の中に入っていった。テントを張るための広場、火を炊くエリア。そこを抜けて、少し木が増えた場所で立ち止まる。
「ここ。必ずここに来るんだ。ここで木を見上げて辺りを見渡して」
 そう言って一本の木を指さす。
「少しだけ微笑むんだ。それがまた珍しくて……」
 強い風が吹く。
 ざわざわと梢が鳴って、見上げた紀通の瞳に木漏れ日が眩しかった。
 きらきらと光るそれ。
「ここ……」
 三メートルほどの高さの場所から大きく張った枝が生えていて、それがさらに二股に別れる。
 その形。
 それが、呼び水となって記憶を呼び覚ます。
「まさか、ここ……」
 見開かれた瞳に、幻影のようにその木がもう一本重なった。
 今と変わらない同じ姿で。

7

 呆然と見上げ続ける紀通に、中井も不審そうにその枝を見上げる。
「何かあんの?」
 たぶん、誰が見ても普通の枝。
 けれど、園田とその枝の組み合わせが紀通の記憶を呼び覚ます。
「俺、あそこから落ちた」
「え……えっ、落ちたって?」
 ぼんやりと呟いた言葉に中井が紀通と枝とを見比べる。
 今となってはそんなに高くは無い場所だ。
 それに。
「正確に言うと、落ちたのはその枝に手をかけた時。だから体はもっと下にあって……」
 確か、小さな子供用のボールがひっかかっているのを見つけて、それを取ろうとしたのだと思う。
「それって、中学ん時のやつ?」
 中井の言葉にこくりと頷いて、紀通はキャンプ場へと視線を向けた。
「キャンプでさ、炭に火をつけるのに小枝があった方が良いだろうって……確か、そういうことで俺と園田が探しに来て」
 ああ、そうだ。あの時は確かに同じ班だった。
「で、枝に引っかかったボールを見つけて……」
 届くと思ったのだ。
「……それで落ちた?」
 容易に想像できたのか、返された中井の言葉に頷いて苦笑した。
「ほっときゃ良かったんだけどなあ……。そん時の記憶って曖昧だから、何で取ろうって思ったか覚えてないんだけど……」
 気が付いたら体が宙に浮いていた。
「もしかして、園田さんが助けてくれた、とか?」
 言葉足らずの説明でも、中井は適確に紀通の言葉の先を悟った。
 その言葉に、中井は絶対に賢い、と確信しながら、紀通は頷いた。
「けど、半分正解。その頃の園田くんって、俺より小さかったから。気が付いたらあいつってば、俺を抱き留めたまま転がっちまって、俺の体の下で唸ってた」
「今なら、簡単に抱き留めてくれそうだげね。けどさあ、それって園田さんの言っていた思い出? こんな大人になってまでわざわざ思い出しに来るほどの?」
「さあ、違うんじゃないの? でも俺は、あの時は感謝したよ、園田くんに。だって、あいついなかったら、俺どんな怪我をしていたことか……。大丈夫だって言ってたけど、その後しばらく姿見えなかったから、俺心配したんだぜ?」
「いなかった?」
「ああ、戻らないとみんな心配するとか何とか言われたんだよな……。んで先に戻っててくれって言われて。何か思うように動けないみたいで……やっぱ怪我してんだって思ったから、小枝届けたらすぐに戻るって言ったのに戻ったらいなかったから……」
「それで?」
「結局、それからしばらくしたら戻ってきたと思う。なんかうまく覚えていないけど、騒ぎになった覚えは無いから」
 今まで一度たりとも思い出さなかった記憶だから、あちこちの欠損が激しい。
 思い出せないそれに苛つきながら、それでも、あのキャンプとこの木が結びつくのは、紀通にとってはそれくらいしかなかった。
 けれど、中井が言うとおり、そんな出来事が何度も思い出してしまうほどの思い出になるとはとても思えない。確かに衝撃的な出来事ではあったけれど、今となっては忘れ去っていたはずの思い出の一つでしかなかった。
 他に何かあったのだろうか?
 地面に視線を落とし、記憶を探る。何かきっかけがないかと辺りを歩むと、枯れ葉が積み重なった地面はその度ににカサカサと音を立てた。
 それは、人の声がしない場所では、どこかもの悲しさを持って響く。
 知らず二人して口を噤み、特に目的もなく人気のない木々の間を歩んだ。
 広場は山の頂上にあるのだが、周りにもさらに高い山があってお世辞にも見晴らしが良いとは言えない。むしろ、こんな時間帯では山の中にぽつんと取り残された気分にすらなる場所だ。
「そういや、ここで園田君に出会ったって聞いたけど……?」
 太陽が傾き、しんみりとした冷気が肌を刺し始める。沈黙が苦になってきた紀通は、思い出せない記憶を探すことを止めた。その代わりに、と聞いたばかりの言葉を思い出して、話を振る。
「中井だって、この場所似合わないって思うけどなあ」
「ん……俺の場合は、そんな健全な出会いじゃなくってさあ……」
 くすりと笑った顔が、次の瞬間自嘲気味に歪んだ。
「俺、ダチを失ったんだよ、あの道で」
「え?」
 それは、あのやたらに警告の看板の多かった道のことだろうか?
 あの時、ふざけた口調のくせにひどく真剣な瞳だった中井を思い出し、紀通は次の言葉を忘れ口を噤んだ。
「約束、してた。あいつの誕生日だから、一緒に走ろうって……。けど、そん時俺来る前にネズミ取りに引っかかっちまって……待ち合わせ場所に遅れて……」
 先に行っててくれ、と送ったメールに、了解と返ってきた短いメールが最後だった。
「警察の調べじゃ、質の悪い走り屋連中が煽って運転し損ねたって……。俺がようやく辿り着いた時には、車はひしゃげて、ダチは救急車で運ばれた後で……。もう二度と会うことはなかった」
 紀通の脳裏に、交通安全のチラシによくあるひしゃげた車の写真が浮かんだ。
 フロントガラスが無くなって、運転席のスペースなどいくらもなくなった車。
 死亡事故の悲惨な写真は、年に一度くらいは目にしている。幸いにして、紀通も知り合いもそんな経験などなかったのだけど。
 いつもの陽気さなどかけらも窺えない沈んだ口調の中井は、自嘲めいた笑みをその口元に浮かべていた。
 だからこそ、紀通の胸が締め付けられるように痛んだ。
「いい奴だったんだよ。こんな俺でも友達だって言ってくれて。あのころから俺、もう組に足、踏み込みかけていたような奴だったから、その関係でしか付き合っている奴いなかったんだけど、あいつはごく普通の……、普通の世界の奴で……でも友達だって言ってくれる奴だった。だからあいつ、俺のストッパーでもあったんだ。あいつがいるから、俺はもう足を洗おうかなって。それがどんなに難しいことか判ってたけど、でもそれでもあいつのためなら……ってできるって、思ってた。なのに……」
 深く眉間に刻まれたシワ。細められた瞳が潤んで、今にも溢れていきそうだ。
「中井……」
「そんなに大事な奴だったけど、俺さあメルアドと番号くらいしか知らなくて。あいつ、親と住んでるからって、行ったこともなくて。死んだって聞いても、葬式どこでやるのか知らなくて……。だから……たぶん葬式してるだろうって日に……、俺ここに来たんだ。ここ、あいつとの目的地がこの場所だったから。なんか話があるからって言われて……ここ、星が綺麗だから、ここで話がしようってことになって……」
 ふっと途切れた言葉の先を、紀通は何となく想像できて、それ以上は聞きたくなくて、紀通は堪らずに中井の肩を掴んで引き寄せた。
 自分より少し高い位置にある頭を、肩に押し当てる。
「ごめんな、思い出させて」
「別に、かまやしねえけどよ」
 そう言いながらも、中井は紀通の手を避けようとはしなかった。肩に押しつけられた姿勢で、少しだけ震えている。
 泣いている……。
 肩口から伝わる小刻みな振動が、紀通自身の涙腺を緩めた。
 きっとその人は、とても大事な人だったのだろう。
 そんな辛い思い出なのに、園田との思い出を懐かしむあまりに、中井に思い出させてしまったのだ。
「ごめん」
 親しい人を亡くす悲しみに、慰めなど何にも役に立たない。何より、こんな時にかける言葉を、紀通は持っていなかった。だから、広い背を優しく叩いて、胸の奥に凝り固まっているだろう涙を全て出し尽くせとばかりに、囁く。
「誰もいないから、思う存分泣けよ、な」
「……もう泣いたさ。……泣いて泣いて、もう十分泣いた。あいつは……もう、戻らねえし……」
 亡くなった人には二度と会えない。
「そん時……気が付いたら園田さんがいた……」
「え……」
「怖い人だと思ってたのに——……、でも、その声が……」
「え……っくっ」
 背に回った中井の手が、きつくなる。
 ぐっと背を押されて、仰け反るようになったと思う間もなく、唇を塞がれた。
 何が起こったか判らなかった。
 驚愕に見開いた先で、中井の笑っている瞳がある。そこに浮かんでいるのは、見慣れた欲情に満ちた色だ。
 まさか、泣いていたんじゃなくて……。
 愁傷な態度に絆された己がバカみたいで、頭の中が沸騰しかけている。
「ん?、ばかっ、なんでっ!」
 慰めを徒に返す所行に、渾身の力で中井を引っぺがした。
「あんただったんだなあ……やっぱり……。いいじゃん、大人しくしてなよ。外でってのもおつなもんだぜ」
 なのに、中井と意味不明なことを囁き、手慣れた仕草で紀通の肌をまさぐっていく。
「だあっ!」
 さわさわと動く中井の手が、紀通の性感帯を確実に刺激していた。必死に抗う紀通の抵抗など苦もなくねじ伏せて、顔に何度もキスを振らせる。知らず息が上がって、艶っぽい吐息が零れる。
 日差しが陰り始めたとはいえ、まだまだ明るい。鳥のさえずりすら聞こえる健全な空気の中、互いが零す吐息の淫らさに、紀通は激しい羞恥を感じた。
「や、やだっ、やめろよっ」
「やっぱ、あんた良いよ……。その声も、態度も……すっげえ、そそられる」
「んっ、あぅ」
 ぎりっと強く手首を握られ、木の幹に押しつけられる。
 たったそれだけのことで上半身は固定され、膝によって割り開かれた下肢は閉じることができない。
「ひっ、や、やだっ、やめろよっ!」
 ズボンの布地の上から、独特のリズムでなで上げられ、悲鳴を上げた。
 こんなやり方をされているのに、そこがしっかりと膨らんでいるが、情けなくて堪らない。
「ひっ、あっ、離れろっ、頼む……」
 ぎゅっと握られて、がくりと膝が砕ける。ここまで慣らされてしまった体が、そんな紀通に
「やっぱ、たまんねえ、その声……、あんたの声……何から何まで似てる……」
「怒った声だけだろっ!!」
「いや……もう、何もかも。なんつうかさあ、園田さんを征服しているみたいな気分になるなあ。あんな超然とした人が、こんなふうに悲鳴みたいな声を上げるのかと思うと……」
 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
 今まで、ついつい快感に負けて、中井の手管に流されてしまっていたのだが、どうやらずいぶんと中井を助長させていたようだ。
 にやりと口元に歪める中井から、普段感じていた甘えが無くなっていた。
「や、やめろよっ。こんな……さっきの話も嘘だったのかよ」
 紀通の心をより絆すための。
 そう思った途端に悔しさにまなじりに涙がにじんだ。きっと睨み付けると中井に苦笑じみた笑みが浮かぶ。
「嘘じゃないさ、ほんとの話。あの日、園田さんに会ったのもほんと。ここで、泣きじゃくるしかできなかった俺に、優しかった……。もうどうなっても良いって自棄になってたけど、なんか俺、この人なら……って思ってさ」
「だからっ、くっ——噛むなっ」
 耳に直接言葉を吹き込まれ、甘噛みされ神経に伝わる疼きに身悶える。鼓膜は確かに声を脳に伝えるのに、理解する余裕などなかった。
「園田さん……俺が組の仕事に関わっている奴だって知らなかった。俺も、園田さんだって最初は判らなかった。けど、最中に一度園田さんの携帯に電話がかかって、剣呑な声にすぐに気が付いた」
「や、あ……っ」
 びくびくと体が震える力の入らない体を中井の手で嬲られた。
「な……か……い……」
 入り込んだ手が、滑らかに動く。それがよけいに紀通を煽り、中井を煽る。
 嬉しそうな笑みを見ていられなくて、紀通は顔を逸らした。
「やめて……くれ……もう……」
 昨夜、あんなにやったのに。
 快楽に慣れた体が、呆気なく中井に屈服する。
「良いよ、達って。ここが濡れても、どうせ車だし……平気だろ」
 くすりと吐息で笑われて、慌てて首を左右に振った。
 そんな恥ずかしい真似などしたくないけれど、必死に握った手もしょせん縋っているとしか思われなかったようだ。ますます中井の笑みが深くなっていた。

8

「あの時も、こんな感じだったかな。寒くなりかけてた頃だから、夕方近くなると人がいなくなってて。俺、安心してここであいつのこと思ってたのに。なのに……園田さんだけが、ここにいた」
 力の入らなくなった紀通の体を支えながら、首筋に口づけてくる。ちりりとした痛みに、痕をつけれているのだと気が付いて、微かに首を振った。だが、中井は笑うとますます強く吸い付いてきた。
「や、やめ……」
「あの時と、逆だよな……。俺、ここでこんなふうに園田さんの腕に抱き締められたよ」
「え……」
 抱き……締められた?
 見開いた視界に中井の頭が蠢く。首筋から鎖骨にかけてねっとりと舌を這う。中井の器用な手が奥深くに潜り込み、やんわりともどかしげに紀通の雄を揉みしだいた。
 慣れた刺激に、体の芯がうずき出す。痺れは神経細胞を駆けめぐり、脳を冒して意識が奪う。
 僅かな理性が、拒絶を示す。けれど、体はすでに快感に流され、中井の手が軽く動くように腰を浮かして迎え入れていた。そんな紀通をからかうように笑みを浮かべた中井が、言葉を継ぐ。
「知ってた? あの人もゲイなんだぜ、俺と一緒でさ」
 笑う中井の吐息が肌を擽る。けれど、それよりも届いた言葉に鼓動が跳ね上がった。
 あいつが……ゲイ?
 想像の中に現れた園田は、あの事故の時の記憶だ。上背も風格も、中学の時とは比べものにならなかった男。
 中井が敬い、かしずく相手。
 中井が溺れる相手。
「女相手もいける人だけど。男の方が多いな」
「あ……」
 園田が男を抱く?
 あの男が?
 跳ねた心臓は、さっきと変わらぬ早さで鳴り続ける。
「でも……」
「ん?」
「あんた、だって、ズリネタだって……」
 相手にされないから……。だから、俺のところに来たんじゃないのか?
 戦慄く唇が言いたい言葉を出させない。
 だが、中井は正確にそれを読み取った。
「あ、ああ。腰にくるんだよ、あの人の声は。そうなったら、前に抱かれた時の事思い出して、もう止まんなくなるの。ビンビンに勃っちまって……けど、なかなか次をくれないんだよ、あの人は。すっげえ、意地悪でさ。欲しい時には、なかなか甘い汁はくれねえっていうか……。だから、オナるしかねえだろ?」
「声……?」
 怒りの声が似ていると……。
「そうだ、その声。腰にもろにくる……。その声が俺を狂わせる。欲しくて欲しくて……やりたい盛りのガキのように、男が欲しくて堪らなくなる。なのに、あの人はくれない。だから、あんたのところに来た。あんたの声は園田さんに似ている。……ほら、俺の名を呼びな。俺を煽れ」
「な、なんで……。だって、最初は俺の怒声がって、俺をわざと怒らせて……」
「ふふ、いいね。怯える声も。犯したくて堪らなくなるよ……。ああ、怒声もね最高っ。ただ、ちょっと勢いが落ちるけど。でも、きっかけには十分じゃん。それに、もっと良い声、あんた持ってるよ」
 手が、舌が。
 喋りながらも、紀通を責め立てる。
 吐く息がどんどん熱くなり、総毛立つ全身がびくりと震える。
 声が、言葉が、紀通を煽るのだ。
 煽れ、と命令するその口調が、紀通を屈服させる。
「ほら、いい声であんたが啼くから。だから、いっつも止められなくなる。セックスん時のあんたの声ときたら……。ネコの筈の俺が、挿れたくて堪らなくなる」
「ん、ぁっ」
「あんた、無茶苦茶敏感で、しかも快楽に弱いから……。もう俺とやんなきゃ、一人では達けねえんじゃないの?」
「あ、はぁっ、や、やめっ」
「そうだろ? 昨夜も、焦らしたら最後にはお強請りしてたもんな」
「ちがっ……そんなこと……」
 強請った覚えなど無い。なのに、中井は断言し、からかう。
「違わないさ、お強請り上手だよ、紀通は。だから俺は止まらなくなる。幾らでもして上げたろ?」
 確かに、疲れ切って気を失うように眠りにつくまで、もう出ないと最後に訴えたけれど。
 強請った覚えなどないのに。
「ほら、また狂えよ。んで、夢中になりな。そしたら、今日は……」
 少し冷え始めた大気が晒された腰にまとわりつき知らず鳥肌が立つ。だが、次の瞬間、全身がはっきりと総毛だった。
「や、何を……」
「そろそろ、くれよ、ここ……」
「ひっ」
 熱いはずの指が、触れた途端とてつもなく冷たく感じる。流されかけていた理性が一気に戻り、全身が震える。がくがくと首を振り、ぎゅっ中井の腕を掴んではね除けようとした。けれど、力強い筋肉に覆われた腕はびくりともしない。
「言ったろ? いつかは貰うって」
 首筋に触れる吐息がさっきより熱くなってた。
 ぐりっと腰に押しつけられた硬く張りつめたもの。いつもは擦りあう程度のそれが、そのときよりさらに大きくなっているような気がする。
 それが、今までずっと拒絶してきた場所を目指してきていた。
 今までの中井はずっと苦笑しつつも言うことを聞いてくれていたのに。一日に何回も繰り返した行為は、全身の愛撫と陰茎の刺激だけだった。
 だが、獣のように息を荒げた中井は、拒絶の言葉を無視して迫ってくる。
「い、嫌だっ、そこはっ!」
「今まで味わったことのない快楽が見れるぜ?」
「やだっ!」
 どんなに乞われても、それだけは嫌だった。恐怖。何より、そんな快楽に触れたら、きっと自分は後戻りできなくなる。今でも男に触れられることだけなら、それ以上の嫌悪はないのだから。
「けどさあ、俺もそろそろ限界。だって最近園田さん、俺抱いてくれねえんだもん」
 苦笑混じりの声音は、いつもの中井だけど。
 逃れようとした紀通の体がずるりと木の幹から崩れても、その体はどけてはくれなかった。
「可愛いよ、紀通」
 熱い口づけが、呼気すら奪う。
 たぶん、もう、敵わない……。
 今までずっと中井と遊んだから、彼の力は良く知っていた。
 それに、中井は今までいつも快楽のみを与えてくれていて……。
「あ、はっ、な、中井っ」
 喘ぎながら名を呼んだ声音が、ずいぶんと媚びたものだと自身でも気が付いて、火を噴いたように全身が熱くなる。
「良い子だ」
 ぐっと後孔が強く押される。知らず下肢の筋肉に力が入る。だが、中井の手が陰茎を上下に扱いた途端に、呆気なく力が抜けた。
「あっ」
 つぷりと指先が入ってきた。
 太いとはいえ、指先だから痛くはない。だが、そこから生まれた異物感は想像以上だ。
「やあっ」
 さすがに怖い。縋り付いた紀通を宥めるように、けれど決して逃さないとばかりに押さえつけて。
「大丈夫だって、力を抜きな」
 甘い囁きと有無を言わせぬ力。拒絶するように、左右に振った後頭部は、幹で擦られてただ痛いだけだ。逃れようと腕を突っ張るが、中井の体はびくりともしない。
 その間にも指がますます奥深くへと侵入していく。
「や、やぁっ! 中井っ、やだぁっ!」
 恥も外聞もなく、叫ぶことしかできなかった。


「がっ!」
 音と風。そして重みが消える。
 引き連れるような痛みを後孔に残して、視界が開ける。呆然と見開いた視界の中に、ダークグレイのスーツ姿の男が立っていた。まだ明るい空と、濃い緑の木々。鳥の声が遠くで鳴いて、近くから低い呻き声が響く。
 どこかで見た……。
 けれど、混乱しているのか、頭がちゃんと働かない。
 目の前の男は、紀通を無視して足を動かす。向かう先に視線を動かして、震えて蹲る塊を見つけた。
 肌に滲むのは赤い色。
「な、中井?」
 唖然と呼びかける声には反応が無く、ただ苦しそうに蹲るだけだ。
 その傍らで男が止まる。
 と、その背中に音が立つほどの勢いで足が置かれた。
「ぐえっ」
 ひしゃげた蛙のように四肢を投げ出して地に突っ伏す。口の端から散った滴が、辺りの枯れ葉を朱に染めた。
「ひっ」
 乱暴な仕草に思わず尻で後ずさる。
 恐怖に駆られたままに、男を見つめて。
 記憶の片端にあった顔が、いきなり一致した。
「そ、園田くん?」
 下から見上げていたせいで、すぐには判らなかった。
 だが、呼びかけに反応するように男が振り返る。それは確かに、園田だ。
 間違えようのない事実と、それ故に混乱する頭が、事態を認識しない。
 何より、こうしていても園田の怒りが尋常でないのが判る。
 ヤクザ、だと。
 今なら、それが真だと判る。
「中井、ずいぶんと暇しているみたいだな」
 地を這うような声音に、蹲っていた中井の体が跳ねる。
 反動でずれた足の下から這うように中井が逃げ出した。だがすぐに枯れ葉を巻き上げてひっくり返り、それでも逃げようと尻でずりずりと後ずさる。
「あ、あの……その……」
「鴻崎には二度と近づくな——と言っておいた筈だが……。この有様はなんだ? てめえ、脅していたのか?」
 自分に向けられた言葉ではない。
 なのに、全身の悪寒が止められない。
 肉食獣に魅入られた草食獣のように、紀通の体はすくみ上がり、逃げたくて堪らないの身動ぐことすらままならなかった。幸いといえば、園田の関心が今は中井に向けられていることだろう。
 ざくっと園田の革靴が枯れ葉を喰む音が響く。
 鳥の声も虫の声も、何もかもが消えた静かな場所で、その音だけが響いた。
「あ、いや、脅した……訳じゃ……」
 中井が園田から逃れようと、ズリズリと後ずさるが、すぐ追いつかれた。胸ぐらを掴み上げられ、力が入らないのか足腰がゆらゆらと揺れる。
「ひっ」
 さらけ出された無惨に青黒く腫れ上がった頬を晒し、口の端から血を垂らした中井がガクガクと全身を震わせていた。
 だが。
「ちっ」
 園田が何かに気付いた。途端に嫌悪の表情も露わに舌打ちして、中井の体を地面に叩き付けた。
「お前は……そんなに俺を怒らせたいってえのか?」
「ぎ、ぎゃあっ」
 股間を音がするほどに強く踏みつけた。絶叫に、鳥が騒ぎ立てて逃げていく。
 だが園田は、耳を塞ぎたくなるような悲鳴に意も介さず、中井のそれをぐりぐりと踏み続けた。
「ひっ……」
 あれは痛い。
 男として最低の、そして最大の痛みは、見ただけでもこっちまで伝わってきそうで、紀通は強く顔を顰めた。
 ようやく園田が足を離した時にはほっとした程だ。だが、園田の様子は気が済んだという感じではない。
 嫌そうに中井を見下ろし、舌打ちした。
「こんなにしても、まだ勃ってやがる……」
 ようやく解放された股間を抑えて、中井はひいひいとのたうち回っていた。だが、ちらりとかいま見えたそれは、限界に近いほどに勃起していた。それに、苦しんでいるにしてはその表情はどこか恍惚としていて、苦痛に耐えていたはずの声音が、甘い喘ぎ声すら漏らしていた。
「お、おいっ……」
 なおかつその手が痛んだ陰茎を擦っているのを見て、紀通も背筋を駆け上がる悪寒とともに悲鳴を上げた。
「この変態が……」
 園田も呆れたようにぽつんと漏らす。
 中井が変態だと、彼自身の告白で知ってはいたけれど、それを目の当たりにするとなると、衝撃はそのときの比ではない。
「す、すみ、ませっ、園田さっ——けど、止まんなくて、あっ、ひっ、痛いのにっ、あっ」
 怒られても離れることなどしたくないのか、必死で縋り付く中井に、園田が迷惑そうに顔を顰める。
「ちっ、てめえは、てめえで好きなようにマスかいてろっ」
 再度背に蹴りを入れ、苦悶の表情でのたうつ中井にくるりと背を向ける。
 ぎろりと鋭い視線が今度は紀通に向けられ、途端にびくりと全身が強ばった。だが。
「鴻崎、とっとと服を整えろ」
 舌打ちともつかぬ音と怒りを抑えたような低い声音に、紀通は反射的に自身の体を見下ろして。
「あ、あわっ」
 下肢を晒し、シャツを捲り上げれた半端な姿に気が付いて、全身が沸騰する。慌ててズボンを持ち上げようとして、ひっくり返り、今度は尻を晒す始末だ。
 そんな紀通を唇を引き結んだ園田が見つめていた。強い視線には圧力があるのだと知ったほどに、紀通の一挙手一投足をじっと見つめているのが判る。
 激しい羞恥心にそれでなくてももたつく手が、さらに動かなくなっていく。それでもなんとかズボンのボタンを留めることはでき、次にシャツのボタンをはめようとした時だった。
「もういい。行くぞ」
 待ちかねたようにイラついた声音と共に、ぐいっと腕を引っ張られた。
「つっ」
 思わず抗議の声を上げかけたほどに痛い。だが、掴んだ当の本人は、視線を中井に向けていて紀通など見向きもしていなかった。
「中井っ、てめえはさっさと事務所に帰って仕事しろっ」
 未だのたうち回っている中井に冷たく言葉を投げつける。
「ひゃ、ひゃいっ」
 嬉しそうな声音は、見捨てられなかったことのせいなのか、それとも……。
 両手に覆われた股間と自分たちを見送る泣き笑いの表情が見ていられなくて、紀通は中井から視線を引きはがした。胸の奥深く、今まで何も無かった場所に渦巻くもやもやとしたものが、息苦しさを助長する。その原因が何かよく判らないままに、紀通は引っ張られるがままに園田に付いていった。
 そういえば、彼にはとんでもないところを見られてしまったのだ。
 男に襲われていた自分。
 園田は一体どこから見ていたのだろう?
 少なくとも、あの寸前——拒絶の言葉の前までは、自分でも判るほど欲情に濡れていた声を出していた。
 中井がくれる快楽は、本当に抗いがたくて、きっとあのままなすすべもなくやられていただろうことは、想像に難くない。
 そんな自分が嫌で、そして園田に見られた羞恥とで、紀通は強く唇を噛みしめた。
 それは、自然に満ちたこの場に似合わない車の助手席に放り込まれ、息つく間もなく車がものすごいスピードで発進しても続いていて。
「傷になる」
 一度園田が呟いた言葉に我に返った時には、確かに深い傷が唇に刻まれていたけれど。
 それ以上に、胸の奥が痛くて堪らなかった。

9

 辛いよ……。
 園田に見られたことが堪らなく辛い。
 鼻の奥がつうんと熱くなり、必死でこらえていた押さえつけていた塊がまなじりから溢れ出る。頬を伝い始めた涙をなんとか隠そうとするけれど、今度は喉がひくりと震え嗚咽が漏れだした。結局、涙を拭うことも嗚咽をこらえることもできなくて、俯く。
 すでにさんざんみっともないところを見せてるのに、こんな情けない姿をさらす自分が許せなかった。
 なのに、意志とは裏腹に涙は止まらず、みっともない嗚咽はさらにもっと止まらない。
「ちっ」
 舌打ちが胸に響く。
 ひくりと震えた肩を押さえつけるようにシートに深く体を預け、視線を膝に落として、全てから逃れるように縮こまった。
 けれど、園田の声はそんな薄っぺらな防御壁など簡単に破って侵入してくる。
「何故中井と一緒にいた?」
 とても簡単な問い。けれど、今の紀通には答えられない。
 口を開けば、さらに嗚咽が激しくなりそうで、ただ、膝の上で拳を握った。
 そんな紀通の様子に、園田の口元が歪む。
 運転の合間に鋭い視線をよこし、紀通が何かを言いやしないかと黙って耳を澄ませている。
 もっとも、紀通はそんな中井の沈黙が堪えられない。
 頭の中は、さっきの質問の答えを探して、同じ言葉がぐるぐると巡っている。
 中井と一緒にいた理由なんて明白だ。
 ただ、遊びに行っただけ。
 けれど……。
 押さえつけられた体。深い口づけ。剥き出しになった勃起していた股間。
 抗う行為は、どこか甘えた仕草にも見えただろう。
 それが自覚できるほどに、感じていたことは今更隠しようが無い事実だ。
 もともと押しかけてきたのは中井だったけれど、拒絶しなかったのは紀通自身だ。
 懐かれていい気になって——欲しいと、甘い声で囁かれて、巧みに快感を引きずり出されて——気が付けば、それに溺れていて。
 そのあげくがさっきの体たらくだ。
 園田が来なかったら、きっと中井に最後までやられていた。
 事実、あの時、もう良いか、と思っていたのだ。
 そんな己を園田に見られたことが辛い。
 黙ったまま、涙する紀通に園田が小さく毒づく。
 それすらも紀通を責めているようで、ますます居たたまれなく、辛さが増した。
 とにかく早く着いて欲しい。早くここから出たい。
 この苦しさから逃げ出したいと願い、今はどこだろう? と窓の外を窺って。
「……どこへ?」
 思わず問うたのは、どう見ても繁華街の中を車が走っていたからだ。
 バイパスから街中に降りて、狭い道をあちらこちらに曲がる。
 どこだろう、ここは……。
 きょろきょろと辺りを見渡しても、すぐに判る地名が無い。
 たぶん市内。県下有数の繁華街のどこか、ということは乱立するホテル群で気が付いた。だが、普段こんなところに来ないから、詳しい居場所までは判らない。
「あ、あの……どこへ」
 不安感が増して、思わず声をかける。同時に、車が音もなくどこかの駐車場へと滑り込んだ。
「え……」
 周りから遮蔽された空間に、車が止まる。
「な、なんで……」
 声が震える。
「さっさと降りろ」
 冷たく言い捨てられた言葉に、反射的に首を横に振った。
 そんな紀通を一瞥した園田は、小さく息を吐くと、助手席のドアを開け広げた。
「い、痛いっ、わあっ」
 中井の力も紀通には抗い難いほどに強かったが、園田の力はもっと強い。手首の骨が軋むほどに握りしめられ、肩が抜けそうな強さで引きずり出される。
 一台きりしか入らない駐車スペースは、人がかろうじて通れるスペースしか無い。
 コンクリートの壁に腕が擦れる。
「い、嫌だ、ここはっ、い、ひっ!」
 抗って車に縋り付こうとしたその瞬間、ふわりと体が浮いた。
 いつもより高い位置からの風景に、びくりと体が硬直する。
 腹に園田の肩が食い込み、痛みが走る。だが、逃げようとすれば安定を失ってぐらつく。ふわふわと安定感の無い姿勢に、思うように暴れられない。
「離せっ!」
「落ちたければ、な」
「ひいっ」
 いきなりの浮遊感。
 はね除けようとした肩に慌てて縋り付く。
「落ちたら、打撲手程度では済まない」
 くつくつと小刻みに震える肩に、紀通は青い顔をして捕まるしかなかった。
 普通に考えたら、この程度の高さだからそんな怪我はしないはずだ。だが、今さっきの浮遊感は、どう考えても投げ飛ばされるような感覚があった。
 もし、思いっきり投げ飛ばされたなら、受け身の取り方など知らない紀通は、確かに打撲以上の怪我を負うだろう。
 快楽に弱い紀通は、昔から痛みにも弱かった。
 縋るように首に回した腕に力を込める。
「落とすなよっ」
「わめくな。うるさい。ああ、そうだ。暴れるなら、そこの洗濯物の袋にでも突っ込んで運ぶのも有りだな」
 くいっと顎で示したそこには、シーツがたっぷり入って膨らんだ布袋があった。クリーニング用のそれは、確かに人一人が十分入る。
「紐で縛って、何も見えないようにして、口も塞いで……どうだ? そのまま道路にでも転がしたら、誰も中に人がいるとは思わないだろうな」
 その地を這うような声音に、全身が総毛立つ。
 しかも言葉につられて想像してしまった光景は、血にまみれたもので、ますます紀通の心から反抗心を失わせた。
 総毛立つ体がぶるぶると震える。
 怖い。
 園田の声の力は、それだけで人が殺せそうだ。
 しかも、園田は躊躇うことなくその袋へと足を運ぶ。
 紀通の眼下にそれが来て、ぐいっと抱え上げられて。
「わ、わ、判ったっ! 大人しくするっ」
 入れられて堪るかとばかりに、園田の首筋にぎゅうっとしがみついた。
 ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 けれど、恐怖に駆られた紀通にはそれすらも恐ろしくて、逃れるように顔を園田の肩口に深く埋めた。
「そうやってしがみついていろ」
 苛立たしげな呟きと、袋を蹴飛ばす音が同時に響く。
 さっきより乱暴に位置を直され、肩が腹に食い込んだ。苦しさを息を飲んで堪える。
 なんだかんだ言っても園田はやくざだ。
 さっきのドスの利いた声音とこの力。
 それに何度中井に聞いたことだろう。
 園田は非情な時にはとことん非情だということを。
 だからこそ、組を任せられるほどの地位にいるのだと。
 彼の逆鱗に触れた者は、二度と顔を見せることがない。場合によっては生きている方が辛いと思わせるほどの報復を受けることがあるのだと。
 どこか嬉々として中井が教えてくれた園田の顔は、それだけではなかったはずだけれど。
 今は、そんな負の顔ばかりが紀通を支配し、身動き一つできないほどに雁字搦めにしていた。
 
 
 壁も家具も薄い青に統一された部屋。
 キングサイズくらいありそうなほどに大きなベッドで、紀通は数度バウンドするほどに勢いよく落とされた。バタバタとぎこちなく手足を動かして、体を起こそうとする。
 そんな姿を、総鏡張りの天井が全て写していた。
 ただ一つだけ濃い群青のシーツの中に、紀通の白い肌が映える。
 その様子を、銜えたタバコを噛みして、園田がじっと見つめていた。
 その視線を痛いほどに感じながら、紀通は必死でベッドから下りようとしていた。だが。
「んっ、くっ……」
 ここに来るまで硬直していた体が解放されても言うことが聞かない。
 入ってきたと同時に園田が開け放ったカーテンの外は、もう薄暗い。
 窓の外は鮮やかなネオンサインの海。高い階にあるこの部屋は、それらも夜景として見渡せる。だが、今の紀通はそんなことは一つも目に入らない。
 あたふたとようやくベッドの端まで辿り着いたものの、腰に力が入らないのだ。腰が抜けているのだと気が付いて、顔が情けなく歪む。
 ついさっき、中井に襲われかけた紀通だから、園田がここに連れてきた理由など一つしか思いつかない。
 よりによって園田にまで……。
 つきんと胸の奥が小さく痛む。
 わなわなと震える唇は、言葉を紡ごうとしたけれど、結局何も言い出せなかった。
 ベッドの端で四つん這いになったままじっと俯いてる紀通に、園田が近づく。
 視界の端に、靴を脱いだ園田の足が入ってきた。
「俺が怖いか?」
 頭の上から言葉が落とされる。
「違う……けど……」
 思わず首を横に振って、ならば、何故自分は震えているのだろうと、呆然とシーツに食い込む手を見つめる。白くなるほどにきつくシーツを握りしめた指。
 微かな震えは、けれど恐怖ではなくて。
「何で……」
「期待しているのか?」
「期待……?」
 何を?
 と思わず顔を上げれば、驚くほど近い距離に端正な園田の顔があった。
 ごくりと喉が動く。
 喉から耳へとやけにはっきりと聞こえたそれに、慌ててぎゅっと目を瞑って逃れるように顔を背けた。
 けれど、まぶたの裏に焼き付いたように、園田の顔が脳裏から離れない。
 きりりとした男らしい眉。切れ長の瞳。すっきりとした鼻梁はちょうど良い高さで、肉厚の唇がタバコを銜えて歪んでいた。だが、その姿もまた彼を男らしく見せるものでしかない。
「なら、何故震えている?」
 判らない。
 自分でもどうしてこんなに緊張しているのか?
 怖いだけなら、この部屋に連れ込まれた時のように暴れれば良いのだ。なのに、四肢は硬直し、四つん這いのままに動かない。
 考えてみれば、明るい灯りの下で園田を見たのは初めてだった。
 事故の時は夜中で、明るいライトが園田の顔に影を落としていた。さっきはさっきでゆっくりと見る暇もなかったし、それどころではなかったのだ。
 ほおっと緊張を解すように息を吐く。
 同時にゆっくりと目を開けて、ちらりと園田を窺った。
 すぐ傍らに立っている園田の姿は腰から下しか視界に入らない。
 視線をじわりと上へ上げる、と。
「え……」
 いきなり顎を掴まれた。
 ぐいっと引っ張られ、園田の顔が迫る。無精ひげなどどこにも無い。きっちりと手入れされていた髪の一本一本までもがはっきりと判る距離。それほどまでに近い距離にあるのだと、吐息がかかって初めて気が付いた。
「ずいぶんと中井に可愛がられたようだな」
 投げつけられた言葉に、知らず全身が震える。その拍子に、ますます園田の顔が苦く歪んだ。
 否定したい。
 なのに体は熱くなるだけで、いっこうに動かない。ただ、顎を取られているだけだというのに。その顎が軋むほどに強い力で指が食い込んでいく。
 言葉の代わりに浮かんだのは涙だ。
 ぽろりと頬を流れたそれに、それに気付いた園田の眉間のしわがますます深くなった。
「娼婦もかくや、というほどの媚び方だな。すっかり誘い方が板に付いている。それも中井に教わったのか?」
「……え……」
 投げつられた言葉に、ぽかんと返して。
 理解した途端真っ赤になって首を振ろうとした。けれど掴まれた顎は動きようもなくて、必死になって言葉を絞り出す。
「……違うっ、違う、そんな……」
「そうか? だが、早く襲ってくれと言わんばかりの媚態だ」
 その拒絶すら誘いだと、園田が言う。
 そんなつもりはむろん無く、屈辱と羞恥に目の前が赤く染まった。
 ぎりっとさらに強い力が入った。その痛みに負けて、口が開く。
 声を出すこともできずに硬直した紀通をじっとりと見つめた園田が、ふっと口の端を歪めた。
「せっかく来たんだ。付き合って貰うぞ」
 目の前の唇が蠢いた。と思う間もなく、厚みのある唇が紀通のそれを塞いだ。

10

 何だよ、これ……。
 朦朧とした意識の中で、残り少ない理性が叫ぶ。
 こんなキスは初めてだ。
 口内を貪られる度に、何もかも奪われているような気になる。口内を突かれるたびに四肢の力は萎え、舌を強く座れるたびに意識が薄れていく。
 吸い付かれ、貪られ、呼吸すら奪われた。
「ん、あ……」
 じゅるっと唾液が顎を伝い、喉に流れる。そこからも甘い疼きをもたらして、紀通は艶やかな声を漏らした。
 キスだけで体中が疼く。意識が薄れ、理性が潰える。あれほど恐れた園田に縋り付き、自分から欲するように舌を絡めて。と——。
「うわっ」
 どんっ、と体がマットレスの上で跳ねる。
 衝撃に激しく動いた頭が、ぐわんと音を立てた。
 わんわんと耳の奥が鳴る。軽い脳しんとうだと気が付いて、だからと言ってどうしようもなく、震える手で頭を抑えた。
「あ、あ……何で……」
 耳の奥の音はすぐに落ち着いた。けれど、体を起こそうしても力が入らない。
 それは脳しんとうのせいだけではない。
 体が快楽に負けているのだ。
「な、何で……」
 甘い酔いにさらわれ、意識すら消えそうになった。
 けれど、堪らなく甘美なそれは、いきなり消えたのだ。
「そ、園田……」
 訳が判らずに答えを乞う。
 だが、見下ろす園田の眉間に深いシワが刻まれていた。
 その瞳の色が冷たい。
 ぞくりと背筋に悪寒が走り、知らず体が後ずさった。けれど、思うように動かない事に、意識がそちらに向く。
 園田から離れようとしている自分にも気付いて、どうして良いか判らなくなる。
 何より、園田が一体何を仕様としているのかが判らないのだ。
 口内を貪り尽くされるほどの激しいキスは、紀通から呼吸を奪い、反抗心を奪い、力を失わせた。
 残っているのは、じわじわと全身を襲う疼くような痺れだけだ。
 指先がまるで自分のものではないようにぎこちなく動く。力が抜けた四肢を持てあまし、目の前にいる男を再度見上げた。
 それに誘われたかのように、園田が瞳に剣呑な光を宿したまま、のしかかってきた。
 怖い……。
 だが、先ほどの甘美な蜜を体は欲していた。
 たくましい、違う事なきほどに立派な男の体。圧倒的威圧感を持つそれが、紀通の体を乱暴に包み込む。
 のしかかられる圧力に、喉を焼くほどの熱い吐息が零れる。
 苦しいのに、体が歓喜に震えた。
 先が見えない恐れは常にあるのに、それからも快感を煽っているようだ。
 けれど、押さえ込まれていた理性が、ほんのわずか浮上した。それは、恐怖に後押しされたのか、それとも好奇心か、紀通には判らない。
 浮かび上がった理性は、現状を認識しようとして口を開かせた。
「どうして、俺に……」
「ここは遊ぶところだ」
 ——何を今更。
 鼻を鳴らすその様に、続けようとした言葉を失った。
 園田の声無き言葉に、全てを悟ったような気がした。
 途端に顔が歪み、眉根が寄って鼻の奥が熱くなる。
 体の良い遊び道具——園田の言葉と態度は、だからだ。
 快感に弱い紀通をからかって、性欲処理の道具にして遊ぼうとしているのだろう。
 なんだか理不尽で、けれど、こんな出会いをしてしまったのだから当然という気もして。
 何か甘い期待をしていた自身を自身の心がせせら笑う。
 理性が悲鳴を上げて泣いていた。叶うことならこの場から今すぐに逃げ出したい。
 なのに、快楽が大好きなもう一人の自分が、縋るように園田の背に抱きつく。
 その腕を掴まれ引きずり起こされ、腕の中に抱かれる。
 その途端、心の底からほっと安堵した。熱があるのかと思うほど、園田の体が熱く感じる。立ちのぼる芳香に、くらりと目眩がした。
 一呼吸で虜になる芳香。まるで麻薬のように紀通をおびき寄せ、狂わせる。
 痛いほどの悲鳴から逃れようとして、理性が消えていく。
「ずいぶんと積極的だ。誰でも良いのか?」
 冷たい言葉が刃となって紀通に突き刺さった。なのに、理性を失った紀通には、それすらも快感だった。園田の感情を浴びることができるのなら、それがどんな感情でも良かった。
 これは、まるで……。
 ふわりと浮かんびかけた言葉は、きっと紀通の心を正しく表している。それを追い求め、捕らえようとしたその瞬間、園田が嘲笑と共に言い放った。
「それとも、もともと淫乱だったのか?」
「あ……」
 ずきりと心が切り裂かれる。痛みに震え、怯えて逃れようとする心。なのに、手足は園田に縋り付き、離すまいと力を込める。
 そんな己に気付き、紀通は震える唇に歯を食い込ませた。
 頬をぽつりと涙が流れる。
 だが、堪えようとした嗚咽は甘い声音となって迸った。
「ん、あっ……」
 乱れたシャツの襟元に舌が這う。疼く体を苛むねっとりとした舌。他人の舌がこんなにも気持ちよいなんて。
 触れられるたびに歓喜に震える
 淫乱……なのかも知れない。
 蔑まされているのに、体の熱は冷めるどころかますます熱くなっていく。あの中井の行為に逆らうことすらしなかったように。今もまた、園田の手が自分の中心に来てくれるのを望んでいる。
 快感に貪欲な自分の体。
 あの時の震えは、やはり期待だったのだろうか?
 ちらりと浮かんだ考えは、襲ってくる波に浚われて消えていく。
「んっ……ふあっ」
 再び忍び込んできた熱い舌に翻弄され、さわさわと肌を探る手のひらの熱さにも翻弄され、全身が紅潮するほどに熱くなっていく。
 中井とは比べものにならないほどの舌技。指先は器用に紀通の服を脱がし、小さな粒を転がして遊ぶ。
「や、やだっ、そこはっ!」
「小豆のよう赤く色づいてやがる、ずいぶんと中井に可愛がられたようだな」
 獣が威嚇しているような声が、耳に届く。ざわりと背筋を這い上がる悪寒に身悶え、逃れようと手を伸ばした。だが、結局助けを求めた手は、空を切って目の前の彼に戻る。
 触れた肌から伝わるのは、園田の怒りに怯え、けれど彼の唇が肌に触れた途端、それは歓喜に変わった。
「ここも痕だらけじゃねえか」
 膝を掴んで押し上げられ、内股の白い肌を晒す。そこは、昨夜の名残の痕があちこちに残っていた。
「や、やめっ」
 何もかもさらけ出す格好に、羞恥が増す。身悶えて逃れようとしたけれど。
「中井のやろう……」
 地を這う声音の威力がさらに増し、肌に爪が食い込んで動けなくなる。
 今や地の底にすら潜ったのではないかと思うほどに園田の機嫌は下降していて、紀通は凍り付くような恐怖に襲われた。けれど、それを覆い隠すほどの快感もまた与えられ、どうして良いか判らない。
「や、やめっ、園田っ、園田っ」
「こんなに……ここにもっ」
「ひっ!」
 ぎりっと噛みつかれ、声無き悲鳴を上げる。食い込む牙の鋭さに、全身がびくびくと震えた。 
 何度も何度も、噛みつかれていく場所がゆっくりと体の中心へと下りてくる。
「あ、あっ、」
 痛くて、痺れて。
 押さえつけられた体は動かすこともできなくて、ただ手足の先だけバタバタと蠢く。
 もう頭は何も考えられない。
 止めさせたい、けれど、もっと早く先に進んで欲しい。
「ここもあいつに……」
 ぎりっと肌に伝わる響き。
 軋んだそれが、もっとも柔らかな部分に食い込む。
「ああっ」
 こらえきれない悲鳴とともに、振り乱した髪を追うように滴が散った。
「あ、い、痛ぅ……痛……っ」
 痙攣しそうな鋭い痛みにさすがに必死になって園田の頭を引きはがす。
 べりっと音がした。涙のにじんだ視界に、糸を引いて離れる白い牙が映る。その糸の先は真っ赤に染まっていて。
 わずかに見えた内股のもっとも柔らかな部分が鮮やかな朱に滲んでいた。
 その様を視界に入れた途端、ひくりと全身が硬直する。
「……こ、こんなのっ……」
 ぼろぼろと涙が頬を流れる。もう食い込む牙はそこにはないのに、けれどまだ切っ先がそこに有るかのようにじんじんと痛んだ。その場所を庇うように体を丸めていると、園田が舌打ちした。
「ちっ、やりすぎたか……」
「こ、こんなのっ、ひどいっ」
 触れただけで熱を持っているのが判る。ほんの少し触っただけで痛みが酷くなった。
 さっきまで全身を襲っていた熱が、全部そこに集まったようだ。
「ったく……」
 そんな紀通に傍らで、園田がベッドに片膝をついた状態で、苛々と頭髪をかきむしった。
「てめぇが悪いんだ。そんな厭らしい痕をつけまくりやがって」
「痕って……だからって、こんな……」
 ふうふうと息を吐きかけたいほどの痛みだ。一体どのくらい噛まれたというのか。
 けれど、噛まれたのは奥の奥。陰茎の影に隠れるほどのその場所は、紀通自身には良く判らない。ただ触れた様子では、腫れているのと、未だくっきりと残っているであろう噛み痕の様子だけが判った。
 くうっと喉の奥を鳴らし、消えない痛みに悶える。
「俺が好きでつけた訳じゃないっ」
 中井がつけた痕でこんな理不尽な痛みを味わうというのであれば、その恨みは中井へと向かう。
「ちっくしょうっ、中井のやろうっ、つけるなっていうのに、こんなに……」
 よく見れば、あっちこっちが赤い。その全部についている噛み痕は、園田のものだ。
「なんだよ、なんでこんなに噛むんだよっ……」
「中井の痕などつけられているからだ」
「何でっ」
 思わず園田に食ってかかっていた。
「俺が誰に痕つけられようが、関係ないだろっ」
 せっかく気持ちよかったのに。
 園田の腕にいることが、たまらなく気持ちよかったのに。
 一気に引き戻された現実と痛みに、悲しみと怒りがごちゃまぜになって、紀通は感情の赴くままに突っかかっていた。
「だいたい、あん時中井が勝手に来てっ、あんたの声に俺が似ているからって、襲ってきたんだからなっ。元はといえばあんたが原因っ。あんたのせいなんだよっ」
「声?」
「ああ、俺が怒ると声が似ているとか言って、俺をわざわざ苛ただせて、んで声を荒げたらあいつ襲うんだよっ。悔しいけど、俺なんか太刀打ちできねえほど、あいつ力強いしっ。しかも……しかも……」
 気持ちいいし——と続けそうになって、はたっと我に返った。
 気が付けば、園田のシャツの襟元に掴みかかり、彼の端正な顔がすぐ目の前に迫っている。
「しかも……何だ?」
 呆気にとられていた園田が、苛立たしげに先を促した。
「あ、その……」
「ああ、もういい……。さっさと尻を出せ」
 一瞬、何を言われたか判らなかった。
 唖然と見上げた紀通の体が、園田の大きな手によって呆気なくひっくり返される。
「ちょ、ちょっと待てっ!」
 園田が何を望んでいるのか、気が付いた。だからこそ、慌てた。
 バタバタと四肢を動かし、ベッドの端に逃げる。
「往生際が悪い。俺とはできないのか? 中井とはさんざんするのに……」
 ひどく暗い園田の声音に、紀通は首を振った。
 違う、と何度も首を振った。

続く



Author:Kurana