中井純にとって、園田という男は全てだった。
誰よりも尊敬し、誰よりも慕い、この身の全てを投げ出しても良いとすら思うほどに。
だが、その理由は何だ? と問われても中井自身答えること出来なかった。
ただ。
あの時、あの山で園田と会った時の事を、中井ははっきりと覚えている。
園田と初めて話をしたあの時。
忘れることなど考えられない。
あの日、親友であるセキの死に打ちのめされて絶望感すら味わって、なかば呆然としたまま約束の地に赴いていた中井の前に、園田は悠然と現れた。
知っている顔だった。
知らないわけがなかった。
組に入った先輩から言いつけられる事を、まだ遊び半分でやっていたような時だったが、それでも粗相のないようにと幹部の人達の事を一通り教わっていたからだ。
「死にてぇなら、べつのとこで死ね。ここは穢すな」
そんな事を言い放って、中井を見下ろす目は何の感情も籠もっていないようだった。
中井もまた、『ああ、園田さんだあ』と感慨もなく見つめ返した。
だが、園田はくっと口角を上げると、中井の前に膝を付いて、しげしげと顔を覗き込んできた。
「なんだ、鬱陶しいほど泣きやがってると思ったが、もう良いのか?」
「……あ、あの……」
「お前……確か、中井とか言ったな。ノブんとこに顔出していただろう?」
「は、はい」
覚えていてくれた。
組の幹部といえば、中井からすれば雲上人のような存在だ。そんな人が覚えていてくれた。
たったそれだけのことに、意識が鮮明になってくる。
改めて、今園田と話をしているのだと実感すれば、それはさらに鮮明さを増した。
しかも、近くで話されると、その声がびんびんと腰に響く。
すっげぇ、良い声……。
セキの声も良い声であったが、快感中枢を刺激するようなものではなく、ゆっくり静かに話されると心地よい眠りに引き込まれるようなものだった。
いつでも落ち着いて、静かで。
けれど、中井のためにといろんな話をしてくれた。
組に関わり始めた中井を、心底心配もしてくれた。
そんなふうに関わってくれる人など、中井にはもういなかったから、それがひどく嬉しくて、彼の傍にいるのがいつも愉しくて。
あの日、ここで何か話したいことがあると言っていたのも楽しみにしていたのだ。
なのに。
「なんだ、泣き足りねえのか?」
頬を拭われて初めて、自分が園田を見つめたまま泣いていたことに気付く。
「あ、あ……すんませんっ、俺、その……」
とんでもなく失礼なことをしている、と先輩から上下関係の厳しさをさんざん言われていた中井は慌てたけれど。 ふっと過ぎるセキの姿が涙を止めさせない。
今、どこかで骨だけになってしまったセキ。
生前の笑み。
言葉。
声……。
『ジュン』
と優しく呼ぶ声。
もう聞けないのだ、と思うと、胸の奥が痛いほどに張りつめて、痛くて堪らない。
「す、すんませ……っ」
枯れ葉のつもった地面に崩れ落ち、両手をついて俯いて。
一度止まったそれは、堰を切ったように溢れ出してどうにもできない。
「何があった?」
「セキが、……ダチが死んで……」
「ふ、ん……そこまで泣くほど親しい奴だったのか?」
優しさなど感じられない声音だった。
なのに、園田の言葉が胸に染みる。
こくこくと頷く中井を見下ろす園田は、傍らに座り込むとタバコを取り出したようだ。
火を点け、ゆっくとりそれを味わう。
その足下で蹲って泣き続ける中井など無視したように、空を見上げている。
一本吸い終わると、次の一本。
そのころには、中井も少し落ち着いてきた。
泣きたいだけ泣いて、気分もすっきりしてくる。
相変わらずタバコを銜え、空を見上げている園田に気付き、その視線を追った。
そこには、空を二分するように枝を大きく張り出した木が立っていて、さわさわと梢を風に揺らしていた。
「あ、あの……すんません……でした。でも、あのスーツが……」
着たこともないスーツの価値など判らないが、園田の体にフィットしたそれは、とても手触りも良さそうだった。もとより組の幹部が、吊しのスーツを買っている姿など想像もつかない。
相当高そうだと直感的な思ったのだが、そのスーツの尻の辺りに土や枯れ葉がこびりついていた。
「ふん」
指摘に気にするでもなく面倒そうに払う。
そして、中井に目をやって、上から下までじっくりと観察した。
感情の籠もっていない瞳だった。
だから観察されていると思ったのだ。
だが、それだけなのに体が熱くなってくる。
よくよく見れば顔の造作も体格も、男ならこうなりたいと思う中井の憧れに近い。
そんな人が、ずっと傍にいてくれたのだ。
素っ気ない態度でも、それが園田の優しさなのだと、いくら中井でも判った。
そんな優しさに中井は弱い。
セキに懐いたのも、そんな優しさを自然にくれるからだった。
だから嬉しくて、ふわりと気分が浮上する。
「ありがとうございます」
手をついたまんま、そのまま頭を下げる。
その姿に、園田がじろりと横目で睨んできた。
「中井……てめぇは組に入るつもりなんか?」
いきなりの問いに面食らったのも一瞬だ。
「はいっ」
本当は、園田に会うまでは迷っていたのだ。
まだ引き返せる、と親友にもずっと言われていたし、何より彼が嫌っていたから。
けれど、もう引き返す必要もない。
「やめとけ」
「やめないですっ」
「こんなところでびいびい泣いているような奴には務まらねえ」
「もう泣きませんっ。俺にとって泣きたくなるような奴はあいつ一人だったから……あいつがいない今、もう泣きませんっ」
それは紛うことなく本音だった。
大概の悪さはしてきた。
親や教師、警察、知らない他人にもさんざん怒鳴られてきた。
親友のセキ以外、誰かと共にいたい、とも思わなかったし、親しくしたいとも思わなかった。だから、誰かが死んでも、泣くことなんかないだろう。
だから、組に入ることに躊躇いなど無い。それよりも、こんな時に優しさをくれた園田のそばにずっといたい……。
そう続けようとして園田を見つめたが、その言葉は喉の奥から出てくることはなかった。
園田がまた空を見ていた。
枝が二分する空。
懐かしげに、けれど辛そうに。
さっきまで感情が無いと思っていた顔に浮かぶ生々しい園田の想い。
それを見て取った中井の胸の奥に、何故か堪らないほどの哀しみが浮かんできた。
この人も哀しいのだ。
そう思ったら、止まったはずの涙が再び溢れ出してきたのだ。
「……なんだ、またか」
見下ろす仕草と共にかけられた声音は先ほどの感情などみじんも感じられないものだったけれど、それがまた悲哀を誘う。
「違う。これ、俺んじゃない」
これは自分の悲しみではない。
訝しげに中井を見下ろす園田に視線を向ければ、さすがに園田も戸惑うように声を出す。
「どういう意味だ?」
泣き濡れた瞳は赤く、鼻水や涙でぐしゃぐしゃの顔の中井が、ひくりとしゃっくりをして言葉を継いだ。
言わずにいられなかった。
「だって、園田さん……園田さん、すっげえ悲しそうだから……」
我慢できなかった。
それに、信じられない言葉を聞いたとばかりに、園田が驚愕の表情を見せる。
「冗談も休み休み言えっ」
「あっ」
激高した園田の荒々しい言葉が、中井に突き刺さる。
だが、その瞬間、ぞくりと全身が粟立った。
鼓膜から脊髄、そして股間まで専用の伝達経路があるように一気に声が響いた。
甘く、全身が震えるほど甘く。
恐怖と紙一重の——それは快感だ。
「とんでもねえ奴だ。欲情してんのか、てめぇは」
苛々と吐き捨てるように言われて、中井は自分の股間を見下ろした。
張りつめた布地が、そこの昂ぶりを外から見てもはっきりと判るほどに示している。
熱い。
それに苦しい。
ぐるぐると駆けめぐる体内の熱が解放されたいと願っている。
「てめぇ、ダチが死んで泣いてたんじゃねえのかっ」
「そうだ、——そうです。けど」
園田の優しさに触れて、その心地よい声に触れて。
誰かのために泣きたいとすれば、今度はこの人だけだ、と思ったら、何故か体が熱くなった。
セキは親友だ。
彼が亡くなった報を聞いた時には、体が切り裂かれるような痛みを感じた。
あんな痛みは、もう二度と無いだろう。
けれど、園田さんならそれに近い相手になるかも知れない。
親友とは違うけれど、自分が仕えるべき相手として。
だったら、今はそれに縋りたい。
「ったく訳が判らん奴だな……」
呆れた声音に、中井はふっと微笑んだ。
「よく言われました」
その言葉に、園田が口角を上げた。
「だろうな」
中井が何かする度に、怒って、呆れて——けれど、セキはいつもそうやって笑って受け入れてくれた。
園田も同じ事を言う。
ああ、そうか。
この人はセキと立場は全く違うけれど、同じような反応を中井に返してくれる。
さっきだって組に入ろうとする中井を引き留めようとしていた。
この人ならば……。
込み上げる緊張を逃すようにごくりと唾を飲み込む。
はあっと吐息と共に体の熱を吐き出して、ぐいっそと袖で顔を拭いた。
「……御願いします。俺を園田さんの傍に置いて下さい」
「はあっ?」
「あいつは、俺にとって大事な奴だった。亡くして初めて知ったくらい大事な奴だった。実際、今の俺は何をする気も無くなっていた。死ぬつもりはなかったけれど、園田さんがいなかったらその辺りの崖から飛び降りていたかもしれない。だから俺の命は園田さんに拾われたようなもんです。だから——だから、園田さんの傍に置いて下さいっ」
風が梢を揺さぶる音だけが響く空間で、中井の意図ははっきりと園田に伝わったはずだ。
だが、園田は何も言わない。
じっと中井を見下ろして。
どれくらい時間がかかったか判らないが、それでもついた手首が中井の体重に悲鳴を上げ始めてはいた。
ふっと園田の口が動いた。
小さく「ばかが」と動いた。
返された言葉はそれだけだ。
けれど、その言葉が聞こえた途端、涙腺が爆発したのかと思うほど、一気に涙が溢れ出した。
「あ、あれ……」
止まったと思ったのに。
止まらない。
乾いた頬がまた濡れて、ひくりと全身が震える。
「ったく、お前は……勃たしたり、泣いたり、忙しい奴だな」
初めて見る苦笑だった。
それに見惚れる間もなく、園田の腕が伸びて、中井の肩を抱き寄せた。
「え……」
「俺が哀しがってる、なんて言った奴は初めてだ」
苦笑しているのに声はひとつも笑っていなくて、それどころかひどく切なく胸に響く。
「そうだな……。お前自身が悲しい分、判っちまうもんかな」
それっきり口を噤む園田に、何故、と聞く事はできなかった。
ただ、中井もまた悲しくて、縋るように園田に腕を回した。
哀れと想う心が、二人を引きつける。
枯れ草の上に投げ出されたスーツの上着に、新しい枯れ葉が舞い落ちる。
「あ、あっくっ」
「中井……、腰を上げろ」
「ん、うんっ」
園田の声が体の芯を熱くする。
言われるがままに腰を上げた拍子に、シャツがはらりと落ちた。はだけたシャツの中に風が入ってくる。
ぶるりと震えて、さらに強く園田の体を抱き締めた。
寒さを和らげたくて。
温もりが欲しくて。
どちらが誘ったかという訳でなくて、ただ人恋しく思う心を慰めるように、互いを求めて、求められるがままに与えた。
初めて男を受け入れた後孔は、ひどく痛みを覚えて、中井は噛みしめる歯の奥からひっきりなしに嗚咽を漏らした。
それでも、のしかかった園田の体を抱き締めて、少しでも感じようと己の陰茎を園田の体に擦り寄せる。
園田なら良いと思ったのだ。
中井自身の全てを与えてしまいたいから、拒む理由はなかった。
心奥底に、これで園田が中井を手放せなくなったら良いな、という打算もあった。
この人は優しい。
そして染み入るような声が、中井に生きる力を与えてくれる。
絶望すら味わっていた心に、快感という生の証を伝えてくれたのだ。
昂ぶった体を押さえる術など知らない。
優しくて強くて哀しい男。
そんな園田の——温もりが欲しかった。
園田が触れるだけで、体が熱くなる。冷たい心が温もってくる。
それは園田も一緒なのか、中井が縋り付いても拒絶はしなかった。それに傷だけは付けまいと念入りな愛撫ほ施してくる。
ただ、如何せん、ここには何もない。
愛撫だけで達った中井の吐き出した精液と、互いの唾液。少ない潤滑剤代わりのものでは、中井の痛みは薄れない。
それでも、中井は突き上げられるたびに微笑み、いきり立った陰茎を震わせた。
体は辛くても、心が温かい。
「初めてなのに、こんなにも感じるのか? ずいぶんと敏感な体だな」
触れるだけでびくびくと震える体だと揶揄されて、乾いた髪が鳴るほどに首を振った。
確かに園田に触れられると心地良い。触れた場所から園田の優しさが伝わってくる。
だが、体が震えるほどに反応するのは、そうやって園田が何か言った時だ。
「あ、あっあん——」
胸の突起を舌で転がされて、ひくりと全身が震えた。覚えずぎゅっと体内に力が入る。
「うっ」
深く突き刺さった熱い塊が体内でさらに大きく膨らんだ。
「っ——きっ……」
強ばった直後に震えた園田の口から何かが零れる。
それは、人の名前のようにも聞こえたし、他の何かの言葉にも聞こえた。
「な……に?」
けれど園田は答えずに中井から目を逸らし、空を見上げた。
枝が張りだしたあの木がひどく愛おしいものだとでも言うように。
さわさわとそよぐ風の中、園田が何事もなかったかのように先に駐車場へと向かっていく。
その後を痛みを堪えながらも追いかけていた中井は、まるで呼ばれたように足を止めて、振り向いた。
目を凝らしても、そこに誰もいる筈がない。
けれど、確かに呼ばれたのだ。
「セキ……」
呼んでも声など聞こえない。
だが、きっと彼が言いたいだろうことが何となく判って、中井は微笑んだ。
「ん、俺、園田さんについていく。ごめん、セキ……」
あの人の哀しみが癒されるまで、ついていたい。
それが、自分に与えられた優しさのお返しだと思うから。
これから生きる糧となるものだから。
それはきっとセキには気に入らないことだろうけれど。
「セキ、いつかそっちに行く時まで、俺は園田さんに付いていくよ」
中井の行いを、呆れつつも笑って許してくれるのもセキだったから、今頃は苦笑しつつ見送ってくれているような気がした。
【出会いの章 了】