【最初の外出】(最初のSold Out続編)

【最初の外出】(最初のSold Out続編)


– 6 –

Side Slave

 昨夜は何も無く、朝も何もなかった
 朝早く目覚めた時、男がちょうど部屋から出て行くところで、呆然と見つめていた視線に気が付いたのか、くすりと嫌味に嗤って出て行った。
 言葉など無く、けれど、何もされなかったのも初めてなのだと、遅ればせながら気づく。いつもなら、どんなに遅くても叩き起こされて一戦ぐらいはあったし、朝は朝で朝勃ちしたペニスを銜えて奉仕することを義務づけられていた。
 昨日はともかく今朝など、叩き起こされてもおかしくなかったはずなのに。
 一日昼間寝続けたせいか、夜食だと起こされてからは満腹になっても次の睡魔はなかなか訪れず、日が変わってようやく寝られたのも事実だけど。
 何より、仕事だとリビングにいた男が結局いつまでもやってこなくて、そのままだったのだ。
 おかげで目覚めてすぐの身体は比較的快調で、どうしたものかと考え込む。
 広いベッドは大人二人が寝ても十分すぎるほどに広いキングスサイズ。それだけ言えばあの家にあるベッドもそうなのだが、ここは景色が違っていた。
 ベッドから遠くを見通すこともできない部屋と違い、ここは遠くにニューヨークの摩天楼を臨むことができた。
 テレビの中でしか知らない景色。
 東京とは違うその風景は、こんな時でなかったらたいそう愉しく写真を撮りまくっただろうけれど。
 零れたため息は、男から与えられた自由が重くのしかかっているからだ。
 これが三ヶ月ぐらい前だったら、どんなことがあっても逃げ出していただろうけれど。それが己自身でも判るほどに今の意識が違うことが判る。
 それは、日本にいた時には気づいてなかったものだ。
 決して受け入れたはずでは無いけれど、逃げることが恐怖としてこの身に染みついてしまったからなのか。
 自由という言葉を思い浮かべる度に、身体の芯に走る冷たいものに、身体が震えた。
「逃げられないけど自由……」
 あの言葉の意味は、文字通りなのだろうけれど。
 それであんなカードを渡して自由を与えるのだろうか。それとも、逃げさせようとしているのか……捕まえてさらなる地獄に堕とすために。
 不意にぞくりと、歯の根が合わぬほどの恐怖に襲われた。
『逃げた奴隷は売り払われて、もっと格下の奴隷として扱われるのさ。それでも逃げるか?』
 そんな言葉をかけられたのはいつだったか。
 思い出せぬほどの遠い、あれは最初の頃だったか。
 総毛だった腕を撫で、恐怖の記憶を振り払うように頭を振って、身を起こした。ずるりと這うようにして大きなベッドから降りて、着崩れたローブを肩から落とす。
 乳首を飾るピアスが陽光に映え、淫らな鞭痕と朱色の斑点は、すでにかなり薄くなっていた。
 昨夜は一緒にいたのに、使われなかったのは初めてだ。
 あの際限ない異常なほどの性欲は、我慢が効く物では無いと思っていたけれど、そうでなかったのか、それとも前日の行為で満足していたのか。
 それとも、他に相手をする者がいたのか……。
 判らぬままにどこか重い身体にシャワーだけを浴びた。
 服は、スーツケースに入っていたカジュアルな襟付きシャツにジーンズでサイズはぴったりだった。ただ、下着が入っていないのは、きっと男の趣味なのだろう。それだけはため息を吐いて、その手に二枚のカードを持った。
 逃げる、ことはできないだろう。
 それは判っている。判っていても、部屋の中でじっとしているのは気詰まりだった。
「食べ物……欲しいな、水とか……生水駄目だろうし」
 備え付けの冷蔵庫に入っていると判っていても、それでも。
「ここのどうせ高いし」と呟いたのは己の外出理由を納得させるためだった。
 他の部屋のドアが少ないフロアで、妙に緊張したままエレベーターへ向かう。
 どこで買い物できるだろうか、とか、現金の手持ちないんだけどカードだけで良いのか、とか。
 フロントで聞くしか無いかと、受験で覚えた英語を記憶の奥底から引っ張り出して、ブツブツと呟き、なんとかエレベーターに辿り着いたところで。
「足尾様、お出掛けでございますか」
 不意に話しかけられて、跳ね上がらんばかりに驚いた。
「あ、あ、俺……あっ、その」
 振り返り、そこにいるのがホテルのスタッフだと判ってなお、身体に冷や水をかけられたように小刻みに震えてしまう。
「申し訳ありません、いきなりお声がけをしてしまって」
 申し訳なさそうに頭を下げられ、慌てて首を振る。しかも、話しかけられた言葉が流ちょうな日本語なのだと遅れて気づいても、緊張が解けるどころか強くなった。
「あ、いや、ちょっと考え事してただけで、あの」
 挙動不審も甚だしいとは自身でも思うけれど、日本語を話すのですら言葉がもつれて、どうして良いか判らない。
 何より、怖かった。
 目の前の優しい笑顔を向ける相手が怖かった。
「私はこのフロア担当のものでございます。ご用がございましたら何なりとお申し付けくださいませ」
 アジア系ではあるが、その流ちょうさは日本人か日系人なのか。
「あ、あの、俺、ちょっと現金の手持ち無くて。カードしかなくて……、コンビニとかも行きたくて、カードって使えるのかな?」
 支離滅裂な思考のままにさっきまで考えていた言葉が勝手に口を吐いて出た。
 何より、あの男と話す以外で他人と話したのは、あのマネージャー以外初めてだと気づく。あのマネージャーは片言の英語での挨拶だけだったから、ほんとうに会話となるとこれが半年ぶりなのだ。
 そのせいでうまく喋れないのだと、慌てて口を塞ぐように手を当てた。
『落ち着け、俺』
 と、少なくとも営業で培ったはずの営業トークを思い出せと必死になって意識する。
 けれど、そんな質問も彼はにこやかに応えてくれる。
「フロントの横にあるブースでカードからの引き出しが可能ですので、よろしければご利用ください。ただ、通常のメインストリート沿いのショップであればコンビニでもカードの利用は可能です」
 すらすらとした回答に、溜まらずこくりと頷いた。
「こ、コンビニ……どこに?」
「ここから二つほど離れたストリートにあります。こちらの地図をご利用ください」
 そう言って、横にあったデスクから取り出した地図にすらすらとマークを入れていく。
「お食事にお薦めのレストランや、主立った観光地も掲載しております。タクシーなどでこの地図をお見せになれば、説明もしやすいかと」
 言われるがままに受け取って、確かに英語で描かれたそれらは、拙い発音で説明するよりはずっと判りやすいだろう。
「あ、ありがとうございます」
 こくりと頭をさげれば、にこやかに「いってらっしやいませ」と声をかけられる。
 優しい言葉に、遅ればせながらじわりと鼻の奥が熱くなって、慌てて開いたエレベーターに飛び乗って、ずっと頭を下げたままでいてくれたのが幸いだと、1階のボタンを押しながら深い息を零したのだった。


 あれから現金化をなんとかこなし、コンビニまで行って買い物をして、一時間ほどの久しぶりの一人でのお出掛けは終了した。
 帰ってきてから窓の外を眺め、まだ陽が高いと認識して。
 どうしてもっと遠くに行ってみなかったのだろうと首を傾げた。
 予想外でまったく望みもしない海外ではあるけれど、物珍しさは多少はあった。けれど、ホテルを出て見れば、周りは全部外人ばかりで違和感と疎外感が強かったというのもある。しかも、なぜかやたらに怖くて堪らなかったのだ。いくら何の準備も無しに外国に放り出された不安があったとしても、ここまで自分が意気地無しだとは思っていなかったけれど。
 あまりにも多くの人の中にいることに堪えられなくて、愉しむことなど考えられないほどだったのだ。
 ホテルから離れることに二の足を踏むような躊躇いがあったのも事実だけど。
 ただ見知ったチェーン店のはずのコンビニの日本とは違う品揃えを目にした途端、少し愉しかったのも事実だ。そのせいで、ついつい買い込んできてしまった物が、今目の前に並んでいた。
 どぎついカラフルな色合いのスナック菓子が高級な応接セットのテーブルに、並んでいるのがひどくシュールに感じる。
 このグミの原色カラーは、いったいどんな味なのだろうか。
 こっちの1枚だけで腹一杯になりそうなばかでかいクッキーは、お菓子扱いなのか。
 なんだか愉しい買い物は、けれど戻って取り出してみれば違和感ばかりが募る部屋に一人でいることに戸惑った。
 それに、ポケットから取り出した黒いカードの存在が酷く気分を重くしていた。 
 これは自由を楽しむために必要なもので、確かに今も自由に出掛けて買い物をしてきた
楽しさはあった。
 けれど。
 そこには『逃げない』という前提条件が付いてくる。
 本当は逃げて逃げて、あの男から解放されることこそが自由という言葉に相応しいはずだ。
 けれど。
 逃げるな、と言われて、逃げては駄目だと思っているのも事実だった。
 そこにある恐怖だけでなく、逃げようとする意識を何かが引き留めている。まるで、罪悪感のような……本能に囁きかけるそれは、あの男が、隆昌という名の男が植え付けたものでないかとも思うけれど、よく判らない。
 判らないままに、迷う。結局、自分がどうしたいのか判らないのだ。
 あれだけ逃げたかったはずなのに、その機会が目の前に現れたら、こんなにも迷う。
 ただこれが日本だったら、違っていたかも知れない。
 さっき出掛けたときに飛び交う甲高い英語の渦の中で、一人異邦人の気分が強く、たまらなく不安になっていた。
 ここから逃げてどこにいく?
 あの男から逃れてどうやって生きていく?
 何度考えても大切な時間だけが無意味に過ぎていくだけで、焦りが自身を苛つかせる。
 無造作にソファに腰を下ろして、手近にあったポテトチップスの封を開けた。食事代わりのパンやサンドウィッチも並んでいるが、なぜかそれには触手が動かなく、ただむやみにスナックばかりに手が伸びる。
 塩辛い、脂っこいだけのお菓子。
 グミは甘みが強く、けれど意外な固さに噛みきるのに力をこめる。
 隆昌が用意した食事には含まれない材質に、味。
 日本を出る少し前にあったきちんとした食事の後にデザートだと用意されたのは、甘みを抑えたわらび餅とくず餅のトレーで、添えられた緑茶と共にひどく美味しかったことをぼんやりと思い出した。
 最初の頃はそれこそ精液がかかった果物をデザートだと言われて食べさせられたことはあって、それは今でもたまにあるけれど。
 犬のように這って、舌だけでヨーグルトなのか精液なのか判らぬ物を舐めさせられたこともあったけれど。
 普通の食事の時は栄養バランスも考えた高級食材の料理ばかりだったと、あまりその手のことに詳しくなくても気づいていた。
 パリッと唇で砕けたチップスの屑が、ぼろぼろと床に落ちていく。
 ああ汚した、と思うけれど、なんだかどうでも良いかとも思ってしまう。
 床を汚したと、這いつくばって舐めさせられたのはいつだったろうか。
 屈辱に嗚咽を零して舐めるその背に振ったロウの熱さを忘れている訳では無いというのに。
 なんだか喉の奥がつっかえるなと、飲み物を取ろうと上げた腕がシャツをひっかけた。
「ん……」
 布地が中の金属を弾いて、乳首が淡く疼いたのだ。
 思わず抑えた小さな粒は、今では倍以上に膨らんでいて、女みたいで恥ずかしい代物だ。
 これも、捕らえられた直後にあの男に手ずから穿たれたせいだ。
 嫌だと泣き喚いても外すことは許されず、勝手に外せば自ら着けると宣言するまで鞭打たれ、着けたら着けたで簡単に外れないようにかしめられた。
 嫌がれば繋いだチェーンを引っ張られ、裂ける恐怖と痛みに泣き喚いて許しを乞うたのも一度や二度ではない。今はもうすっかり定着した二つの乳首のピアス穴は、ちょっとした刺激にも疼くほどの性感帯になっていて、あの男はここを囓ることが好きらしく何度も噛まれている。その刺激に感じてしまうほどに躾けられているのは間違いないけれど。
 ペニスにもあるピアスも、同様で。
 この身体はもうどこもかしこもあの男のためにあるようなものだ。
 それは決して自身の望みでは無くて、全てが強制で、無理矢理で。
「さんざん逃げ場を封じておいて、こんなところで自由だって言われても……」
 自由と言われても何も思いつかないほどに、縛り尽くしているくせに、と、愚痴のように零していた間に少し眠くなってきて、ポロポロと袋からお菓子が零れていくのも止められない。
 時差ぼけ?と、独りごちてから納得して、起きていなければと思うほどに、睡魔が襲ってくるのに堪えられない。
 床に零れた惨状に、帰ってきた隆昌が仕置きだと言い出すのは目に見えていて、片付けるだけはしようと思ったのも束の間。
「まあ……いいか」
 何もかもどうでも良くなって、思わずそんな言葉を呟いたのを最後に、シュンは瞬く間に睡魔が起こす渦に溺れていった。