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Side Slave
シュンは男の名を知らなかった。
彼は自身をご主人様と呼ばせたし、家の中に名を示すようなものはなかったからだ。
だからホテルでジェネラル・マネージャーのネームプレートを着けた初老の男性が、男のことを「ミスターアシオ」と呼んだとき、最初は自分たちが呼ばれたとは判らなかったほどだ。
けれど彼は男の前へと足を勧め、誇らしげに手を差し伸べてきた。
それに男が返し、互いに早口の英語で挨拶らしき言葉を交わしている。
男の流ちょうな言葉はネイティブとの会話でも遜色なく、耳慣れぬ言葉はまったく聞き取れない。
ただ判ったのは、男の姓がアシオだということだけだ。
どこかで聞いた名だと思った時には、それがあのパスポートに書かれていた自分の姓だと気づいた。
所在なげに立ち竦むシュンに、マネージャーが手を差し伸べてきた。
なんとか聞き取れた挨拶に戸惑いながらも手を伸ばす。
スリムだが背が高く圧迫感が大きい。握られた手も、ひどく力強かった。
「彼はここの総支配人だ。このホテルに1週間滞在する」
男に説明されて、かろうじて覚えていた言葉で挨拶した。
その拙さを補うように男が言葉を重ねている内容は、シュンの事を説明しているようだったけれど、自分こそが説明して欲しいと希う。
ただ、こうやっていろいろな経験を積み重ねていくうちに、男の財力が半端でないのだと再認識させられたのも事実だ。
マネージャーとともに、屈強そうな黒人男性が荷物を軽々と運んでいくのに付いて、上階へのエレベーターに乗った。
その中でシュンは一番小さいせいか皆に上から見下ろされているようで、狭い部屋ではいたたまれなかったけれど、着いた階のその瀟洒な雰囲気に足が止まった。。
奴隷をあんな手段で手に入れるだけでも大金持ちなのだろうとは思っていたけれど、案内されたのは豪勢なスィートルームだったのだ。
前住んでいたマンションの部屋よりもはるかに広い客室はダイニングとリビング二つに寝室があった。外にはプライベートテラスがあって、パスルームもそこだけで一部屋分は優にあるサイズだ。
一体一泊いくらなのか、きっと自分の給料の何ヶ月分もしそうな客室に目眩がしそうになる。
考えてみればプライベート・ジェットがあるというだけで半端ないのだけど。
「……ご主人様……」
マネージャ自らが各部屋を案内して去った後、シュンはおずおずとソファに身を預けた男に声をかけた。
「何だ?」
明るい部屋の中、揶揄に満ちた笑みが浮かぶ。
「その……」
けれど、迂闊な言葉を連ねて男の怒りを買うのではと、喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。
だが、男が視線で続きを催促してきていて、シュンは壁際に立ち尽くたまま一生懸命に考えるけれど、何を続けて良いか判らない。
「え……と……」
躊躇い、けれど出てこない言葉に頭が沸騰しそうだ。
この男の勘気を刺激しない言葉が判らなくて、惑うままに握った左の拳を胸の前で右手で覆う。
固い違和感に視線が向いて、食い込む指輪を無意識のうちに辿り、回していた。けれど言葉は変わらず出てこなく、戸惑いのままに立ち尽くす。
そのまま5分は経っただろうか。考えすぎた頭は、時間が経つにつれて収拾が付かなくなり、考えた端から崩れていく。
「そうだな」
そんな時、男が不意に一枚の紙をテーブルに放り投げた。
いつの間にかビジネスバッグから取り出したらしいそれは、シュンの方に滑ってきて止まった。
「俺のスケジュールだ。ニューヨークでの五日は面倒な会議がメインで、不在が多い。あさっての水曜一日だけフリーだが。金曜の夕方には日本に発つ」
「え……」
促されるがままに取り上げて覗き込めば、英語で書かれたスケジュールが表になっていた。
このくらいの英語は判って、ほぼ一日朝早くか夜遅くまでぎっしりと予定が詰まっていることが判る。空いているのはあさってと帰国する金曜日だけだ。
「その間は自由にして良いさ。あとこれがお前のカードだ、自由に使え」
そう言って次に滑ってきたのは、アメックスのブラックカード。その価値を知らないわけで無く、そしてそれだけでない意味に伸ばしかけた手が止まった。
「お前は足尾鷲。この俺、足尾隆昌の従兄弟の子ということになってる」
初めて知ったフルネームになぜかひどく戸惑った。どこかで聞いた名のような気がしたこともあるし、従兄弟の子という言葉に、関係性が今ひとつよく判らなかったこともある。 それは血の繋がりが薄い親戚ということなのか。
「ただし、俺が帰ってくる前に部屋に戻ってろ。ニューヨークにいる間のルールはそれだけ」
取れ、と促されて、次に滑ってきたこの部屋のカードキーとともに、震える手で取り上げた。
裏にまだサインが書かれていない真新しいカードで表の刻印はShu Ashioになっている。
「……その……」
言いかけてつっかえた言葉の先を促されて、シュンはやけになったように言葉を紡いだ。
「その足尾鷲って人は、実在するんですか?」
「そこにいるじゃねえか」
問いかけに嗤って指さされて、シュンは首を振った。
「本当の……生まれた時にこの名前を持っていた人……ですっ」
他人になりすますことなど考えられなかった。そんなに器用な質でも無く、何より高橋俊介という名はどうしても捨てられない物だ。
「女の腹から生まれた直後にその名だった者というものはいねぇよ。その名はいずれ俺が手に入れる奴隷のために準備されてた名前だな。うちの一族は、みんなそんなものが準備されているんだ。偽の出生届、偽の入院記録、義務教育を受けない理由のための偽の診断書。一人の男が生きた証明を作り上げるのも手慣れたもんなのさ、俺の一族は」
その酷薄な笑みに、ぞわりと背筋に冷たい物が走った。
一人の男を死なせることなど容易いものだ、と、どこかで聞いた言葉が耳の奥で甦る。
「足尾一族は存在しない人間の戸籍を保有してるし、それが変だと思う奴はいないし、思わせるようなヘマもしない」
奴隷のために、奴隷を飼うことが前提だというように、男が放つ言葉の意味が判っているはずなのに、脳がそれを拒絶する。
「足尾鷲の名は俺の奴隷のために準備されたもんだ。だから今はお前が足尾鷲で、そのカードはお前のために作った代物だ」
前の奴隷もこの名だったのか?
堪らず聞きたいと思った言葉は、けれどうまく出てこない。己が何を問いたいのかがまとまらず、考えもしない言葉が不意に出てきてしまう。
「今までどこにも出してもらえなかったのに……なんで、ここで……」
日本のあの家で、服すらも許されずに過ごした絶望の日々。
窓の外に広がる空を、何度羨望の中で見つめたことか。
逃げる気力など奪われていた日々とはいえ、薄暗い家に一人いるのはひどく寂しくて、むやみに外に出ることを渇望した。
もっともその言葉を口にした時は、鞭に打たれて何度も詫びた記憶が残っている。
「どうしてだろうな」
けれど男は、足尾隆昌は嗤って、その理由を口にはしなかった。
それはまるではぐらかされたようで、実際そうなのだろうと、シュンの口を噤ませる。
「ただ、お前の役目は日本だろうとここだろうと変わらない」
こい、と手招きされたその瞬間、その意味が理解できるほどに、この身は躾けられていた。
手にしたカード類をテーブルに戻し、その身体を支配者たる隆昌へと近づける。
己の役目はどこにいようと変わらない。
するりと肩から滑り落ちた良質のスーツは、いつまでこの身にまとえるのだろうか。
シャツは、スラックスは、靴は。
脱ぎ捨てられた衣服をよそに傍らに立ち尽くす身体が引き寄せられて、今は萎えたペニスへと指を伸ばされる。一時的に塞がりかけたピアスの穴に、馴染んだ楔が通されて。
次は指輪かと先んじて示した左手は。
「それはそこに着けてろ」
なぜか押しのけられる。
決して外すなと言ったのは隆昌の方だったのに、戸惑いも露わに自分の指に嵌まったリングを見つめた。
シンプルな飾りっ気の無いそれは、同じものが隆昌の指にも嵌まっている。今まで苦痛の証だとまじまじと見たことは無かったけれど、シンプルながら細かな飾り彫りがしてあった。それが互いの薬指に嵌まっていて、まるで結婚指輪のようにすら見える。
けれど、不意に胸に鋭い痛みが走り、小さく呻き意識を向ける。
隆昌の口が括り出された乳首を噛んでいた。
白い歯が覗き、鋭い前歯が肉に食い込んでいて、ぎくりと強張った顔を上目遣いに隆昌が見つめて、その歯がさらに食い込んでいく。
「ひ、や……」
噛み切られる恐怖に、咄嗟に上げかけた静止はかろうじて飲み込んで、震えるままに首を左右に振って制止する。
あからさまな制止の言葉が隆昌の怒りを買うことは判っていて、できるだけ言葉を飲み込む癖がついていた。
「ふふ」
歯が弛み、痛みが和らいだ。
それにほっと安堵する間も無く、今度はアナルにずぷりと指が入り、その感触に背が仰け反る。
「あ、ぁ……ぁ」
数時間前までさんざん犯されたそこは、未だ熱を孕んで容易く指を迎え入れた。
すぐに添えられたもう一本をも銜え込んで、敏感な入り口を丹念に解される。
立ったままの身体を支える足がガクガクと震え、縋り付くように隆昌の背に手を回した。
「ひっ、あ……そこっ……あっ……」
むくりと立ち上がっていく己のペニスが、隆昌のスラックスの布地を擦ってしまう。
汚せば仕置きが待っているからと必死になって腰を離すけれど、それより強い力で引き寄せられて、布地に腰が密着した。
ぺろりと肉厚の熱い舌が腫れた乳首を舐め上げて、乳輪ごときつく吸い付かれる。
腰がガクガクと震え、膝の間に割り込んだ隆昌の膝に崩れ落ちて、豪奢な部屋で浅ましく喘いだ。
どこにいても、どこであっても、シュンのやるべきことは隆昌の性欲解消だ。
身体を反転させられ、ソファに押しつけられて。
高く掲げた足の間に、スラックスだけ落とした隆昌の身体が割り込んでくる。
太く長い凶器とも癒える逸物は、慣れたふうに身体の中へと潜り込み、一気に奥深くを蹂躙する。
「ひあぁ──っ、あっ、あっ」
すぐに小刻みな抽挿が大きく長くなり、美しい絨毯にどちらとも付かぬ体液がポツポツと染みを作っていく。
衝撃に伸ばし縋った腕のシャツに爪が食い込み、深いシワを刻んだ。
「あ、あっ、ご、ご主人、さまぁっ、あっ」
名前を知ってもその名を呼ぶ許しは無く、ただ許された名で呼び続け、激しい衝動から逃れたいと目だけで懇願する。
人の身体の慣れとは恐ろしいもので、激しい蹂躙で次の朝には這うことすらできなかった昔とは違う。それでも、こう立て続けに犯されては、身体がもたない。
制限無く射精し続けたせいで、もう陰嚢は空で、なのにこみ上げる射精衝動にペニスがきりりと鋭く痛んだ。
快感だけでないそれに、どうしても意識が集中できない。
まなじりに浮かぶ涙は苦痛だけでは無いけれど、それでもどうにかして欲しいと、決して叶えてくれぬと判っている相手に縋り付いた。
「ご、主人…さま……ゆる、して……も、あっ、ひっぃぃ」
制限されるのもきついけれど、されないのもきつい。
ガクンと揺れた身体がびくりと硬直し、ぶちゅっと小さな泡立つ粘液がペニスの先を濡らす。
ドライで達き続けるのも辛いけれど、こちらもひどく辛い。
受け入れ続けたアナルもどこか熱を持って腫れていて、快感だけでない違和感がシュンを苛んだ。
「んあっ、あっ……ああっ……あぁ」
時差ぼけなど感じられぬほどに精力的な隆昌の下で、喉から漏れる嬌声はひどく弱い。
その目が虚ろに彷徨って、身体の疲れに意識が引きずられていった頃、シュンの耳にぽつりと言葉が届いてきた。
「自由はやる。だが、決してお前を逃がさない、まあ明日はどうしようもないだろうがな」
不意にそんな言葉をかけられて、その時に意味など判らなかったけれど。
誰もいないリビングのソファで、シュンは呆然と天井を見上げていた。
動かない身体を引き立てて、寝室からかろうじて出てきたときには、もう昼の時間は過ぎていて、冷めたルームサービスが一人分だけ乗っていた。
服は昨夜のままに転がっていて、お前のだと言われたスーツケースは閉じたままだ。
たぶん、夕方には不自由なく動けるようになるだろうけれど。
そうすればもう隆昌の戻ってくる時間なのは明白で。
「自由なんて、ないじゃんか……」
独りごちて、隆昌のスケジュールを取り上げて見入る。
今日は比較的早く夕方には戻る。
そしてきっといつものように使われて、そして目が醒めるのは昼過ぎで。
でも、明日は幾人かの知らぬ日本人ぽい名前と共にパーティと書かれているから、きっと帰ってくるのは遅い。次の日はフリーだから、遅く遊ばれるのかもしれないけど。
少なくとも明日は時間が取れて外に……けど?
自由?
不意に突きつけられた羨望やまない状況に、頭の中が何故か混乱していた。
ずっと欲しいと願っていたそれがいきなり目の前に現れて、どうして良いのか判らないのだ。
だけど、この自由には、きっと逃げて良いという意味は無い。
なぜならば己の脳裏には、隆昌が呟いた言葉がしっかりと刻まれていたからだ。
『逃がさない』
隆昌はそう確かに言っていた。
隆昌が与えたのは、自由にして良いが逃げることは許さない、ということなのか。
こんなカードまで与えて、と手にしたカードはアメックスのブラックカードで、これならば一番早い日本への渡航費用も難なく手にできるだろう。
けれど。
きっと、逃げられない。
偽の戸籍をもう何十年も前から用意するような一族。
死すら偽装し、そのための身代わりすら手にして、何もかもごまかすことができた一族。
逃げるにしても、どう逃げ延びる?
テレビから流れるまったく内容の判らぬニュースを聞いて、言葉もまともに通じぬ状態でどうすれば良いのだと頭を抱えた。
現地の警察なんて説明なんかできないし、きっと大使館とかも駄目だろう。パスポートを紛失したからと言って、この足尾鷲以外の身分など証明できるものはない。高橋俊介だと、生きていたのだと説明しても、誰もが死んでいたと思っているのに、どう説明すれば良いのだろう?
ずっと奴隷扱いされていると言ったとして……それが通じるものなのか?
頭の中を、どうやって逃げるのかという算段と、絶対に逃げられないという逃げ道を潰す算段の全く違う2種類が浮かんでは消えていく。
もうずっと考えていなかったことをいきなり考えろと言われて、脳がうまく働かない。
身体もどこか腫れぼったく、激しい運動に消費されたエネルギーを昨夜戯れながら食べさせられた食事以外何も腹に入れていないことに気が付いた。
おずおずと手を伸ばしたパンは、少し固くなっていて、冷たい。それでも口の中でほどよく崩れ、じわりと塩みのあるバターの味を感じた。傍らのグラスに入ったオレンジジュースも、氷が溶けて少し薄くはなっていたけれど、ひどく美味しい。
冷めた料理は、温かければもっと美味しいのだろう。
財力のある隆昌の準備する料理は、遊戯の最中で無ければ上等なものばかりだった。
隆昌は、なんだかんだ言って、シュンにたいそう金をかけている。
食事は自分が食べるからだろうけれど、室内は常に快適に空調が効いているし、卑猥なものとは言えアクセサリー類はプラチナに金銀、石は本物だと言っていた。
遊ぶ道具までもが本革だったりして豪勢な一品物なのは止めて欲しいと思うけれど。
そんな事を思い出しながら、ぼそりぼそりと料理を口にして、なんとか皿を空にしたらそのままずるりとソファへと崩れ落ちた。
何かをするにしても、今は肉体的にも精神的にも疲れすぎていた。
好機を逃すのかと誰かが叫んでいるけれど、少なくとも今は好機じゃ無いと別の誰かが叫んでいるようで。
「俺は……何がしたいんだろう……」
何も決めることのできない己に浮かんだのは苦笑だけで、そのまま深い闇の中に沈んでいった。
まるで行為の後のように深く深く。沈み行く意識は、何かから逃れるように何も無い所を目指していた。