【最初の外出】(最初のSold Out続編)

【最初の外出】(最初のSold Out続編)


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Side Slave

 俊介という名を呼ぶ者はもういない。
 ただ一人、接することのある男が呼ぶのは「シュン」という、よく似て、けれどどこか非なる呼び名だった。
 身体に感じる微かな振動と、空調が満足に効いているはずなのにどこかひんやりとした空気の中で、座り心地抜群の豪勢なソファに身を沈めたシュンはぼんやりと手の中にあるパスポートを見つめていた。
 手持ち無沙汰にぱらりとめくった中には、彼の写真が貼られて正式な刻印がされている。
 名前は、足尾鷲。
 名前どころか住所も生年月日も記憶に無い、自分で無い誰かのものには違いない。
 けれど写真だけは己のもので、その数ページ後には、出国の印が正式に押されていた。
 男が数日留守にした今朝、いきなり戻ってきた男の手によりボディチェーンとピアスを外されて、何ヶ月かぶりに着せられたシルクのスーツは、驚くことにぴたりとフィットした。
 肌触りの良いシャツが喉元まで締められて、ネクタイの締め付けに慣れぬ身体がこほっと咳き込む間に、滑らかな靴下を履かされ、一目でブランド物と判る靴が足先を覆う。
 甲斐甲斐しくも服を着せた男も同様にスーツを着ていて、戸惑うシュンをそのまま外へと連れ出した。
 それが半年ぶりの外だと認識する間もなく車に乗せられて、運転席にいる見知らぬ男との距離が遠いほどに大きな車の中で、男はパソコンばかりを操って、シュンは沈黙を強いられたまま着いた目的地は、巨大な飛行機の群れとたくさんのいろんな色を持つ人々がたむろする空港だったのだ。
 それが三時間ほど前だろうか。
 時計を持たぬ家から出た時間など覚えていないせいもあるけれど、あまりに何もかもがあっという間の出来事で、記憶がひどく曖昧だ。
 着いたのが空港だと認識した時には、渡された書類とともに出国検査を通り過ぎていて。
 大勢の見知らぬ人達がひどく怖く感じて、血の気が引いた感覚を感じたままに男の腕に押されながら小さな飛行機に乗り込んでいた。
 逃げるチャンスだったのでは、と考えたのは、その飛行機が離陸してからだ。
 二人以外客のいない、いわゆるプライベートジェットなのだと理解できた頃には、空港は眼下に遠く、すぐに雲に遮られて消えていった。
 ずっと考えない生活をしていたせいか、思考がうまく働かない。
「どこに……」
 男がグラスに注いだ琥珀の液体をその喉に通した頃、ようやく出てきた言葉はそんな物で。
「ニューヨークで仕事だ」
 返事など期待していなかったせいで、届いたその内容に目を瞬かせた。
「仕事……、ニューヨーク……?」
 今まで国外など出たこともないせいだけでなく、よく知っているはずのその単語に、今一つピンとこない。
 戸惑うシュンに、男が可笑しそうに噴き出して、笑った。
「アメリカだ。New Yorkに五日間だ……」
 正確な発音なのだろう聞き慣れぬ単語に、それでも言いたいことの意味をなんとかくみ取ったが、今度はそれにぽかんと口を開けたまま閉じられない。
「14時間くらいか……」
 んっと男が大きく伸びをして、飲み干したグラスをそのままに立ち上がった。
「こっちがベッドルームだが、そのソファでも寝られる。好きにしろ」
「……」
 何かを命令されることなくそんな事を言われて、よけいに混乱して動けなかった。
 そんな彼を無視して、男は体格に見合った歩幅で奥の部屋へと入っていく。
 あの性欲魔神が……。
 あの家以外の男を知らないけれど、家にいるときは犯し陵辱することしか頭にないのでは、と思う男が一体何を考えているのか判らない。判らないけれど、この場からいなくなった男のことを考えた途端に、身体の奥がずくりと熱く疼いた。
 堪らず己を抱きしめて、荒い息を吐いて熱をも吐き出していく。
 しばらく男に触れられていなかった身体が、意図せず男を欲しているのだと、自身の浅ましい身体に歯噛みをする。
 今あの部屋に入れば、この身体はまたあの男の餌食になると判っているけれど、視線がドアから外れない。
 そんな自身から逃れたいと頭を振って、なんとかソファへと身体を沈めたが、その目はぱちりと見開いたままだ。
 ここでも寝られるということは、ここで一人でいて良いということだと、無理矢理自分の身体をその場に留めさせたのだけど。
 14時間は長い。
 飲み物はバーカウンターにあるけれど、暇つぶしになるようなものは無く、動ける範囲は限られている。
 いつもと違う状況のせいか、寝ようと思っても睡魔は襲ってこずに、ただもぞもぞと下腹部の奥からもたらされる違和感を自覚するばかりだった。
 結局ため息をついて座り直し、渡されていたパスポートを手に取った。
 そこにある見知らぬ名。
 住所はあの家の場所なのだろうか? 
 ただ貼られているのは確かに自分の写真で、撮られた覚えなどない。何かの写真を流用したのだろうか、証明写真でしかない固い表情はそれほど遠い過去では無さそうだった。
 申請時ならともかく、本人以外がパスポートを受け取れないぐらいの知識はあった。なのに今ここにあるパスポートはどうしたのだろう。けれどあの男ならどうとでもなるだろうと、最初の頃の出来事を思い出す。
 あれは、愛を誓ったとリングをペニスに着けられた数日後のことだ。
 あらぬ場所の傷とショックに発熱した身体がようやく癒え始めた頃、男に見せられたそれは、自身の戸籍だったのだ。それだけだったら驚くことではなかったけれど、そこに記載されていたのは、高橋俊介という人間が死んで戸籍から抹消されたという事柄だったのだ。
『高橋俊介は、会社にたいそうな損害を与える失敗をし、ひどく悔いて自殺した。発見されたときには、腐敗して人相など判らなかったが、体格や歯の治療痕、DNA等の鑑定をして正式に本人だと確認され、昨日家族だけで葬式をした』
 パラパラと目の前に落とされた数々の書類と、そして写真。
 そこに写っていたのは、自分の写真が黒い縁の額に飾られた葬式風景で。泣き崩れる両親に悲痛な親族の姿に息を飲んだ。
『49日の法要後、先祖の墓に入るとよ』
 小さな箱が祭壇の上にあって、位牌と写真が置かれているのは、見慣れた実家の一部屋だ。
『うそ……だ……、こんなの……』
 あの時の衝撃がこみ上げてきて、堪らずに拳をテーブルに押しつけて、嗚咽を零す。
「なんだよ、これ……、俺はどうなるんだよ……」
 テーブル越しに伝わる振動よりも大きく、身体が震える。
 自分が自分で無くなっていく。
 存在を抹消され、何の庇護も受けられぬままにただの道具のように生きることを強要される。
 自分勝手なことをすれば、お仕置きと称して徹底的に罰を与えられるけれど、死すら見えるその罰も、結局は全てがコントロールされていていつも屈することしかできないのだ。
 逃げることも叶わず、死ぬことも許されない。
「今度はアメリカ? 一体何をするつもりなんだか……」
 嗚咽交じりの戯言が力無く響き、慣れぬスーツのネクタイを引き抜いた。
 パスポートの出国の日付を見て、あれから半年経ったことを知ったけれど。半年前までは慣れていたはずの衣服の感触が気持ち悪い。
 肌を擦られて、嬲られているような、蠢く度にじわりとした疼きが肌の奥で生まれきた。
 着ていろとは命令されていないから、と、知らず男の許しを請うようにドアへと視線をやりながら、上着を脱ぎ捨て、シャツの襟首を緩めた。
 かかとを床に打ち付け、片方ずつ放り出して、靴下さえも脱ぎ捨てて。
 時間を潰す物も無く、時計すら無い室内はわざとなのか。
 意識したくなくても何もしなければ感づいてしまうほどに、身体が疼き出していた。
 わずかに震える指先でシャツのボタンを外し、ベルトを外してスラックスを床に落とした。
 袷から覗いた乳首にもペニスにも、今は穴があるだけだ。
「そっか、だから……外したのか」
 服を着せられる前、ピアスは全て外された。
 外れたリングは今は左の薬指に嵌められていて、乳首のは今は男が持っている。
 出国のための予防策だったと今なら判るけれど、外された瞬間の喪失感はなぜだかひどく苦く恐ろしかった。
 それはきっと、捨てられる恐怖だったのだと思っている。
 男自身から『逆らうばかりで逃げようとしたから、飽きて捨てた』と聞いている前の奴隷がどうなったのかは知らないけれど、『闇に墜ちた奴隷が明るい陽光の元に出ることは二度と無いさ』とかけられた曖昧な言葉が、悪い想像ばかりを駆り立てた。
 実際、戸籍すら奪われた者がどうやって生きていくというのだろう。何より、何もかも知っている輩を、何も無く放逐するなんてことはないだろう。ならば……。
 恐怖に、いつもそこで思考は停止する。
 あの恐怖を感じたせいか、だからこそ、逃げることなど考えもせずにここまで従ってしまったのだ。
 そしてそれは、今もだ。
「俺は……死にたくない……」
 こんな状況になっても、それでも生にしがみつく自身の愚かさは自分でも判っているけれど。
「捨てられたく……ない……」
 なぜだが死よりももっと男に捨てられる恐怖が勝って、シュンは立ち上がった。
 元より下着など最初から無く、勃ち上がったペニスの先端は、もうすでに濡れそぼっている。
 このままでは、触れずとも達ってしまいそうなほどに、揺らぐ空気に感じていて、零した吐息は喉を焼くほどに熱かった。
 たった三日ほど、犯されなかった身体は飢えていた。何より、その前から射精は許されていなかったのだ。その射精すら許可されないと駄目で、勝手に達けばどんな仕置きを受けるか判らない。
「……時間が……つぶせない……し……。それに許可を、もらわないと……」
 己の行動を正当化するように呟いた言葉など、嘘だと自身が嗤っている。
 泣きたいほどに辛いのに、左の手を右手で包み込むように握り、その足は躊躇うこと無くドアへと近づいた。
 慣れぬ指に嵌まるリングの感触に、堪らず拳はきつくなる。
 見ればドアは完全に閉まってはおらず、包んだままの両手で横にスライドすれば空気を震わせて簡単に開いた。
 その先で、キングサイズのベッドの上にいたローブ姿の男が、シュンに視線を投げて嗤っていた。
 壁のスクリーン、数々の雑誌。
 時間つぶしの材料は、ここにしかない。そしてここは……。
「どうした?」
 嗤う男の意地悪な質問に、応えずにシュンはシャツを肩から落とした。透明感のある白い布が、赤い絨毯の上でとぐろを巻くのを踏みつけて。
「達きたい……です、ご、主人様……」
 卑猥に突き出たペニスがふるりと震え、粘液がたらりと糸を引く。
「は、ん。だったら、先に俺を満足させろよ、この淫乱」
 口角を上げて建てた膝を開いた男の股間は、完全に勃起していた。
 赤黒く、何か別の生き物のようにシュンを捕らえて、誘うそれ。
 知らずごくりと息を飲み、ふらりと近づいた。
「が……まん……できない、かも……」
 もう達きそうなほどに、下腹部の奥が澱んでいる。
 触れなくても陰茎が震え、何も含んでいないアナルが、物欲しげにひくついているのも気が付いた。
 あれが欲しい。
 そういえば、あれを目にするのは三日ぶりだ。
「だったら、自分で銜えろ。自分で尻振って、この広いベッドを汚し尽くすほどに達けよ。だったら、許してやるわ」
 それはあまりに甘美な誘いだった。
 意識が遠のき、反論することもなく、近づいて。
 それがたとえ、連続絶頂で際限なき射精地獄になるのだと判っていても、それでも。
「あ、ぁぁっ、ふとぉ……ああっ、達くぅぅっ、ああっ!!」
 男にまたがり、下ろした尻に先端が触れただけで、全身が痙攣し、溜まりに溜まった精液が、男の腹を汚していった。
 早い射精に、がくりと身体が崩れ。
「んぐっ、ぅぅぅっ!」
 体重をかけて銜え込んだ勢いに、全身が硬直する。
 達ったばかりの身体はそれでなくても敏感で、それだけで第二弾を放っていた。
「なんてぇ奴だ。ご主人様より早く達くとはな」
 意味ありげに囁かれ、くぐもった笑い声が遠く聞こえた。
 押し倒され、のしかかる重みに上げた悲鳴は、掠れて小さい。
「十時間あれば、まあ満足できるか」
 放置されたシュンが飢えていたように、男も飢えていたようだ。
「やっぱりお前の穴が一番イイ」
 仕事の合間に湧いた性欲解消の肉穴もいると聞いたことがあったけれど、いつも男はそう言ってシュンを使う。
 少なくとも、そう言われている間は、捨てられないだろう。
 そんな事を考えたのは一瞬で、次にはもう激しい抽挿に何も考えられなくなっていた。