【泊?とまり?】 

【泊?とまり?】 

【心 笹木秀也(25)×滝本優司(27)】 営業×開発
甘甘/遠距離恋愛/年下攻/秀也の純情ぶり(?)と優司のボケっぷり/当サイトのはじまり/初期のお話は総じてHシーンが少ないかありません。
☆当初と比較して、現在は熟年カップルの様相に。特に破綻もない、安心して読めるカップル(過去が関わると少々切なくなります)
♪「実力があって顔もいい営業マンのお相手は、天然ポヤン男」♪

【泊?とまり?】  二人の始まり。同期の二人は仲が良かったはずだけど。

? ことの起こりは、入社前研修の時だった。
 今から思うと、なんて馬鹿な約束をしたのだと思う。
 流しで洗い物をしながら、滝本優司は深いため息をついた。
 もう三年以上も前になるその二泊三日の研修は、工場のある岡山のホテルで行われた。
 そろそろ記憶も不確かになってきているが、少なくともその時同室になったのが同じ電気化学系を出て入社した笹木秀也だったことは間違いない。優司は院卒、秀也は学卒だったため優司の方が2歳ほど年上ではあったが、同じ専攻だったのと退屈きわまりない研修の息抜きに飲んでいたビールの影響もあって、結構二人で盛り上がっていた。
 秀也は優司から見ても羨ましい位、すらりとした長い足を持ち、細身でスタイルがよかった。目元はやや冷たい感じがするが、整った顔立ちはいわゆる今風の顔なのだ。
 それを指摘すると、「就職先見つからなかったらホストでもなろうかと思ってたんだ」と軽く言ってのけるような奴だった。
「誘われたこともあったんだよ」
 とも言う。
 確かに顔はいいし、口も達者だ。
 何より、秀也は人の表情から隠された感情を読みとることも得意としていた。
 それに気づいた人事によって営業として採用されたんだという。性格も外向的で、人当たりもよく、営業としては、最高の人材といっても良いだろう。そんなことを研修中に人事の人が言っていたことも思い出す。
 その反面、優司はというと、体格は秀也よりやや横に大きいが背は少し低い、いわゆる日本人体型。母親譲りのウェーブがかかったさらさらの黒髪が無造作に後ろに流されている。あまりおしゃれにも関心がないせいか、いつも同じだ。 趣味といえば、コンピューター関連で、人に誘われれば出かけるという程度の出不精だった。それでも女の子は寄ってきた。ついでに男も寄ってきた。どうも優司の顔は可愛い部類には入るらしい。といっても子供の頃ならともかくいまさら可愛いと言われてもどうしようもない。特に男に可愛いと言われると、腹が立つ。
 なのに、秀也はそれを面と向かって言ってきた。
 その時は優司も酔っていたせいか、いつものような反感は湧かなかった。
 ただ、そうかあ、と納得はいかないまでも、言い合うこともなく穏やかに飲み続けていたのだ。
 そんな時に、あの話が出た。
 何回も思い出していたので、酔っていたときの記憶としては、結構鮮明に覚えている。
 優司は洗っている皿を見つめたまま、その時の事をまた思い出していた。
『なあ、俺って東京勤務だけどさあ、結構こっちの工場にも来ることあるんだと』
『へえ、忙しそうだなあ……』
『それでさあ、岡山泊まるときに、滝本さんの部屋泊まっていい?』
『なんで……。ホテル代位会社がだしてくれるだろうが』
『東京ってさあ物価は高いし、結構金いりそうなんだよね。だからさあ、ホテルに泊まることにして滝本さんち泊まれば、その分安くつくだろう』
『そりゃあ、私もこっちで一人暮らしだから、別に構わないけど……』
 そういうと、秀也はひどく喜んでいた。
『ありがと──。浮いたお金で土産買っていくからな』
 その後、開けたビールにまた盛り上がって。
 次の日優司達はものの見事に寝坊した。遅れたせいで取り損ねた朝食のせいで、腹は減るわ、二日酔いで頭が痛いわ、と、さんざんな研修最終日だった。

 思い出した事柄に優司は今日何度吐いたか判らないため息を、また吐いた。止まってた手を思い出したように動かして、洗い物をこなしていく。
 少し虚ろなその瞳に映る白い泡は呆気なく流水に流れていった。
 澱みも何もかも、こんなふうに流れていけば良い。
 出会ったあの頃なら、こんなため息を吐くこともなかっただろう。
 優司は、過去の感傷に浸りつつ、どうしようもないとため息を繰り返していた。
 いつもの倍の時間をかけてどうにか最後の皿を洗い終える。
 手を洗い振り返れば、ため息の元凶がそこにいた。
 優司の会社は、社員寮がない代わりにコーポの一室を会社で契約し、それを社員に格安で貸し出していた。独身だと2DKの部屋である。優司の部屋は、和室6畳と4畳半が一つずつに3畳位のダイニングキッチンがあった。その6畳の方にTVをおいているのだが、そこで元凶は笑いしながらバラエティ番組を見ている。
「笹木。泊まらせてやってんだから、洗い物くらい手伝え」
「えー。こんな狭いキッチンで二人で洗い物なんか出来ないだろー」
 にっこり笑いながら秀也は振り向く。
 その笑みは女の子を魅了してやまないと、本人が言う。
 それは間違いないだろう。秀也が工場にやってくるのを楽しみにしている女性がたくさんいるのは知っているからだ。
 長い足を無造作に投げだし、背中を壁にもたらせている姿を見て、優司は再びため息をついた。
「なあ。さっきからため息ばっか吐いてないか?俺、気になってしよーがないんだけど」
 脳天気なっ!
 あまりの言葉にむかっときて、秀也の頭を拳でこづく。
 だが、それだけだ。
 そのまま力なく優司は秀也の隣に座り込んだ。
「いてーなー。優司はすぐ暴力を振るう」
 おおげさに頭を抱える秀也を横目に、優司はまたため息をついた。
 もうため息を吐きすぎて、喉が痛くなってきていた。けれど止まらない。
「お前な、優司はないだろう? いっつも呼び捨ては止めろって言ってるだろう」
「いいじゃないか。優司も俺のこと秀也って呼び捨てにすればいいだけだから」
「……」
 秀也……か。
 確かにそう呼べばいいとはずいぶん前から言われているが、優司は人を呼び捨てにするのが苦手だった。
 慣れ親しめば良い。
 だが、秀也とはずっとこうやってきていても、どうしてもその名を呼ぶことはできない。
「ところでさっきの質問なんだけど?」
 秀也が覗き込んでくる。
 端正な顔が間近に迫り、優司はその近さに思わず仰け反った。こつんと後頭部が壁に当たる。
 だが、秀也は引かなかった。
「なんで、ため息ばっか吐いているんだ?」
「……」
 間近な唇が、答えられない質問を繰り返す。
 そう、答えられないのだ。
 言えるわけがない。
 秀也は友人だ。たとえ、不快なことは多々あっても、それでも友人なのだ。
 彼を不快にするであろう事など言えるわけがなかった。
 優司が黙っていると、秀也はさらに顔を近づけてきた。
 もうその間は10cmもない。
 ぎりっと軋む音が、やけにはっきりと聞こえる。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 いつになく詰問口調の秀也に、優司は逃れる様に視線を逸らした。
 言えない。
 お前といると苛つくんだ……。
 その一言が言えない。
 なぜなら、その理由があまりに情けないものだからだ。
「笹木、少しはホテルに泊まるかしてくれないか?」
「えっ! 何でだ? 泊まっていいって言ったのは優司だろう?」
 耳元で喚かれて、優司はきつく目を瞑った。
 煩くて堪らない。
 些細なことで、腹立ちが激しくなる。
「ああもう、うるさいっ! 月一くらいならいいって思ったけど、ここんとこ週三日は泊まり込んでるだろう? それに、ひどいときは一週間丸ごとって時があったじゃないか」
「それは……まあ」
 さすがに、その頻度の激しさは、秀也自身も気にはしていたらしい。
 詰め寄っていた体が、ほんの少し離れた。
 秀也は、一年ほど前から営業と開発部門の週一ミーティングに参加するようになって、週一回月曜日に必ず岡山にくるようになった。普通だったら、前泊または当日朝一便で来て、当日最終便で帰るのだが、秀也はなぜか出張をやりくりして、前泊だけでなく次の日も泊まったり、関西・中国地方の出張の時などに泊まりにきたりと、何度も泊まっていくのだ。
「そういう時には、ちゃんと土産買ってきてるだろう? 約束守ってるよ」
「土産ったって、買ってきているのはその辺のスーパーの野菜や肉じゃないか。 あんなの土産って言わないっ! 惣菜や弁当ならともかく、材料買ってこられても、誰が料理するって言うんだ? 私だって忙しいんだっ!」
「優司の料理はおいしいから食べたいの! それに、この前は、明太子買ってきただろうが!」
「そりゃあなあ……」
 それはたまたまだろう?
 言い返す気力が休息に萎えていく。
 もう何回もこの手の話は繰り返されてきた。いい加減不毛な言い争いだとは判っている。
 だが、それでも優司は言ってしまって、そして秀也は一向にホテルには泊まろうとしない。
 優司とて、疲れて帰ってきたときには、一人でぼおっとしていたいのだ。
 だが、その言葉まではなかなか言い出せない。
 確かにホテル代を浮かせられるとなると、こんなに大きなことはない、と思う。優司自身もたまの東京出張の時には、秀也の家に泊まったりもする。
 その差額は安月給にしてみれば大きい。
 だが、それでも数ヶ月に一度だ。
「あ、ん。もしかして、また須藤さんになんか言われて落ちこんでんだ?」
「えっ?」
 びくりと体が震えて、目を見張る。
 図星を指されたと、明らかな態度を示してしまって、秀也がくつくつと喉の奥で笑っていた。
「何で判るんだよ」
 須藤は開発部のリーダーで、確かに今日嫌みにも似た小言を言われた。だが、その場に秀也はいなかったはずなのだ。 なのに。
 そんな優司を見ながら、秀也はさらに笑う。
 その態度がひどくむかつく。
「笹木っ!」
「優司はすぐ顔に出る」
「呼び捨ては止めろって、私は年上だぞ」
「何言ってんだ?。同期は同期だろ。それに年上だろうが関係ないね。それに優司は、年上に見えないし」
 バカにしているとしか思えない態度に、さすがに優司も何かを言い返したい。
 けれど、言いたい言葉が頭の中でまとまらないのだ。
 混乱した思考は、焦りを生んで、言葉を形成しなくなっていた。
 そんな優司ができることとしたら、笑っている秀也を睨み付けるぐらいだ。
 だが、もとより可愛いと言われる童顔で、その迫力はかなり弱い。
 そんな優司は秀也には完全になめられているとしか思えなかった。
 特に秀也は営業の人間としてはこれでもか、と言う程に優れてる。それこそ、優司の評価より秀也の評価の方がはるかに高い。何しろ、相手が何を今思っているのかをその表情や雰囲気から読みとるのが凄くうまいのだ。
 そんな秀也にしてみれば、簡単に表情に出る優司は扱いやすい相手だろう。
 その自覚はある。
 だからと言って、笑われて我慢できるモノではなかった。
 だが、それなのに言い返せない。
 悶々とした蟠りは、結局優司の腹の中でくすぶり続ける。
 他人に指摘されるほど単純な思考は、時に複雑怪奇に絡み合い、慣れないからこそ、簡単には解けない。
 私は……単純だから……。
 その自覚はあるというのに。
 人が考えていることなんか憶測できない。
 だからリーダーともうまくいかない……。
 優司が落ち込んだ最たる理由が、疲れた思考を責め苛む。
 だからこそ、自宅でゆっくりと休みたかったのに。
「優司は、落ち込むと俺が泊まるの嫌がるもんなあ……」
 苛つく理由を正確に言い当てられ、優司は奥歯を噛みしめながら俯いた。
「判っているなら、ホテルに泊まれ」
「今からホテルなんて泊まれないよ」
「じゃ、明日はホテルな」
 少しだけ、期待を込めて乞うてみたけれど。
「俺はホテルより、ここの方がいい。リラックスできるしな」
 期待は無惨にも打ち砕かれる。しかも、苛つきが倍増するような返事付きでだ。
「須藤さんに何言われたんだ?」
「……」
 言えるわけもない質問だ。
 仕事のトラブルを他人に話すなど。
 胸の奥にある澱みが、さらに大きくなる。何か得体の知れないどす黒い塊が肺を圧迫しているようだ。息苦しさに、優司は喘いでいた。
 笹木は営業の人間だ。
 それなのに何故、開発部の私のトラブルが話せる?
 まして、須藤さんとのトラブルを笹木に話してどうする?
 私にだって自分のこと位自分でこなせる。
 笹木は……営業で……年下だ……から。
 優司自身、会社に入ってきてから頑張ってきたプライドがあった。
 それが、秀也に甘えることを拒絶する。
 いや、何より秀也が相手だからこそ、優司は何一つ頼りたくはなかったのだ。
 だが、秀也はそんな優司の心を知ってか知らずか秀也は、苦笑を浮かべていた。
「ほんとーに、優司は内へため込むタイプだなあ」
「私は笹木と違うからな」
「じゃあ、俺は何だって言うんだよ?」
「笹木は、何だって強引だ。我が道を行くって言う言葉がぴったりな程にな」
「何だよ、それは?」
 そんなことないとほざく秀也だが、絶対にそうだと優司は確信していた。
 でなきゃ、家主が嫌がってるのに泊まりにはこないだろう。
 秀也は何度目かの泊まりの時にこの部屋の合い鍵まで作ったのだ。
 『だって、俺が来たとき鍵かかっていたら困るじゃないか』
 確かにその時は優司もそう思ったけれど、今ははっきり言って後悔している。
「もういい。私は先に風呂入って寝るから。疲れたから……」
「あ、ああ」
 立ち上がる優司を秀也が目線で追っているのは判った。けれど、何かまだ言いたいのかと、身構えた優司に、もう秀也は何も言っては来なかった。
 優司は本当に疲れていた。
 湯船に顎までつかりながら、ぼうっとしていたのに、頭の中は思い出したくもない今日のミーティングの様子を浮かべてしまう。
『君は、責任感がない。もう少し、きっちりしたらどうだ』
 頭の中でその言葉が幾度も繰り返される。
 耳に染みついた言葉が優司を何度も切り刻む。
 確かに須藤が言う言葉にも一理あるのだ。
 ここのところの忙しさで、今日のミーティングの資料をまとめる時間がとれなかったのだ。足りなかった資料のせいで、今日はろくなミーティングにはならなかった。
 けれど、最低限の資料は揃っていたはずだった。
 だが、足りなかった資料は、須藤がいきなり方針を変えたせいで揃えられなかった。
 開発部リーダーの須藤は、いつの間にか言ってることがころころ変わる。
 それが、優司達 開発部の悩みの種だった。
 慣れたものなら、適当にやり過ごすことができるのだが、優司はまだそこまでは無理だ。
 こんなことで振り回されるのは勘弁願いたい。
 開発部共通の悩みの種は、営業でも知っていることだ。
 ほんとーに、勘弁して欲しい……。
 疲れた四肢を投げ出して、目を瞑っていると、そのままずるずると湯船に沈みそうになっていた。
 そんな状況で最悪の精神状態だというのに、帰っても秀也がいるのだ。
 いつもなら、一人で好きなように過ごして、ほんの少しでも意識を切り替える。
 悩んでいても、それでもなんとかなるはずだったる
 なのに。
 秀也がいるとそれができない。
 差し入れられた「土産」という名の材料で料理を作る。料理は嫌いではないが、疲れているときは惰性で動いて作っているような物だ。秀也も手伝うが、疲れている時には、狭い台所ではそれも鬱陶しい。
 しかも秀也の料理は、結構旨いというのに、なのに優司に作らせるのだ。
 それに狭い6畳間に二人でいるときは、寝っ転がることなど無理だ。大の男が、一人でも寝っ転がった日には、もう一人は隅へと追いやられてしまう。
 秀也は気を遣わなくてもいいと言うが、そういう訳にもいかない。まして、秀也に弱っているところなど見せられない。
 結局、今の優司にとって、原因の全てが秀也にあるような気になってきていた。
 その頃、秀也は優司が入っていった浴室のドアを見つめながら、優司の疲れの原因を思い描いていた。
 『今日、滝本君、須藤さんにきついこと言われてたのよ』
 そう教えてくれたのは、三宅美佳という、優司のサポートもしている女性だった。
 だが、期待していたのだ。
 そこまできついことを言われたのなら、優司の方から愚痴を言ってくれるのではないか? と。
 だが、優司は何も言わない上に、秀也に対してさらに苛つきを募らせていた。
 そのことを思い描き、秀也は、壁にもたれたまま天井を見上げた。
 お前、気がついているのか?
「最近、お前、笑っていないんだよ?」
 いつから気が付いたか、定かではない。
 ただ、今はもうはっきりと笑っていない。そして、その原因が自分にあることもだ。
 初めて会った頃の優司は、何てことはないところでぼけをかましてくれた。普段まじめなだけに、そのギャップがひどく面白い。笑い上戸で、笑うと子供のように可愛い──等というと本人は怒るからとても言えないのだが。
 本人が知らないだけで、実は女性にも人気があるのだ。
 自覚がないから、気づきもしない。
 だが、それも優司が笑っている時だ。
 そんな姿を最近見ていない。
 TVを見ていても、話をしていても、いつも怒っている。
 泊まっていても、あんなに文句を言われることはなかった。
 優司が苛ついていても、それを解消する手段があったからだ。
 しかし……今は……。
「優司のイライラを解消しようとすると、あいつの感情、まともに受けなきゃいけないんだよなあ……。あいつの、俺への……」
 プライドが生み出す嫉妬……か。
 苦笑を浮かべ、ちらっと風呂場の方に視線を向ける。
 何度も優司にホテルに泊まれ、と言われ続けてきた。
 だが、秀也はそれでも、ここに泊まりたかった。
 その理由も、何もかも自覚はしている。だが、その理由を優司に言うことはできなかった。何より、まだ優司が気付いていないのだ。だがこれ以上、優司が嫌がるようだったら、それもできなくなる。
 優司の制御出来ていない、判っているのかも判らない感情が、あまりに酷くなると秀也への嫌悪に変わるかも知れない。
 それは避けたかった。
 優司に嫌われるのは嫌なのだ。
 けれど一体どうしたら良いのだろう?

 そのうちに優司は出てきたが、言葉を交わすことなくベッドへと潜り込んでいった。
 大人げない態度ではあるが、秀也も今日はそれを責める気にはなれなかった。
 いつもより激しい優司の苛つきは、きっと彼自身どうしようもないことだと判っているからだ。
 だから。
「おやすみ」
 静かな声で、一言だけ伝えた。

 

 朝になって、優司は秀也を車に乗せ、会社に向かった。車だと30 分のところに会社はある。
「本当に、何で私の部屋なんだ。他の連中にでも泊めてもらったらどうなんだ」
 運転しながら、昨日と同じことを繰り返す。
 愚痴ることがどんなにみっともないことか判ってはいる。けれど、止まらない。
「まだ、言ってんのかよ。俺は、優司の部屋がいいの。他の奴となんかリラックスできないからね」
「私の方がリラックスできないんだよ」
 なんと言えばいいのだろう?
 どう言っても聞いてくれない秀也に、優司はきつく顔を顰めた。そんな優司の表情に気が付いているというのに、秀也はさらに言い募る。
「だからさ、気を遣わなくて良いって言ってるだろう?」
「気なんか遣ってないっ!」
「リラックスできないってことは、気を遣ってるんだよっ! 出ていけって言うくせに、俺が出ていかないって言ったら、それ以上は言えないんだろ。そうやって内へ籠もるばかりしているといい加減病気になるっ!」
 最後には怒鳴るように言った秀也の言葉に、優司は沈黙した。
 確かにそうかもしれない。だけど、他人がいるとどうしてもリラックスができないのだ。そんな状態でリラックスしろ、という、秀也の精神を疑ってしまう。
 越えきれずにため息を零し、何かを言う気力すら無くして、運転だけに専念した。
 本当にいつからこんなことになったんだろう。
 少し前までは、秀也といるのは嫌ではなかった。多少苛つくことはあったが、それでも楽しく過ごせていた。それが最近は一向に楽しくない。
 ストレスがたまると、一緒にいるのが嫌になってくるのは自分でも理解している。疲れているときほどリラックスしたいのに、リラックスできないから嫌になるのだ。
 それに、最近の秀也の泊まっていく回数は半端ではない。息抜きがしたい、と思う時に、必ず秀也が傍らにいる。そうなると息抜きなど無理に近い。
 昔はこんなことはなかったのに。
 やっぱり秀也が悪いんだ。
 秀也が家に来るから、息抜きができなくて──こんなにいつまでも悩まなくてはならなくなる。
 暗く沈んだ表情にさすがに秀也も、口を閉じた。
 ほどなく工場に着いたけれど、車から降りても気は晴れなかった。
 今日も憂鬱な日が始まるのか。
 工場を見上げながら、大きなため息が零れる。
 そのため息を聞いた秀也が何か言いたげに口を開いたようだが、結局何も言わずに工場入り口に歩いていった。
 残業を終え、家に帰り着いた時にはもう9時を回っていた。
 重たい足取りで車から降りる優司の今日の神経は、かなり疲れ切っていた。小言のように繰り返された須藤の言葉は、気にしないようにしようと思っても、重くのしかかっている。しかも、やらなければならなかった実験は、そのせいで準備に手間取って思い通りにいかなかった。
 踏んだり蹴ったりというのは、今日の日のことを言うのだろう。
 そんな優司の体も心も酷く疲れて切っていた。
 なのに。
「笹木、やっぱり来てるのか……」
 窓の明かりを見てとって、呟いた。
『会議、予定通りに終わるから』
 と、誰かの車に乗っけて貰うような事を言っていた。
 いっそのこと、そのままホテルに送りつけて貰え──と小声で言ったのは聞こえていなかったのか……。いや、きっと無視したのだろう。
 どうして聞いてくれないのか、本当に不思議だ。部屋の主が嫌がっているというのに、強引に泊まり込のは一体どういう心境なのだろうか?
 足を止め、ぼんやりと明かりを見つめる。
 理解できない。
 なぜ、あそこまで厚顔無恥になれるのか。
 と。
「うわっ!」
 いきなりドアが開いた。
 ドアノブまで手を伸ばせば届く位置にいたせいで、危うくぶつかりそうになって、優司は大きく仰け反っていた。足が、ぐらついた体を支えようと後退する。
「何やってんの、優司」
 あまりの驚きように驚いたのか、僅かに見開いた目は、けれど、すぐににこりと笑みを浮かべた。
 変わりない笑顔。
 あんなふうに喧嘩したのに、秀也はいつも変わりない。
 こんなふうに笑顔を見せて。
「どうした?」
 くすりと笑みを零し、微かに首を傾げる、と──。
 不意に、胸がどくんと高鳴った。
 笑顔が優司の心に染みこんでくる。苛ついた心がふわりととろけていくような……。
「どうした?」
 いつまでも黙っている優司に、秀也が笑顔を引っ込めて、訝しげに問う。その表情に、はたっと我に返った。
「えっ、あ、いや……」 
 口籠もって言葉を探す口元から頬へと熱が昇っていく。
 何をやってるんだ……私は。
「いきなり、ドアが開いたから……驚いただけだ……」
「……そうか。ま、入れよ」
 納得している訳では無いのだろうが、それでもドアを大きく開いた。だが、その態度は優司の苛立ちを復活させる。 ここは、優司の部屋なのだ。なのに主の様な顔をして、出迎える。
 これに腹が立たない人間などいるだろうか?
 けれど、秀也はいきなりくすくす笑い出したのだ。
 毒気を抜かれたのは、その笑いが優しいものだったからだろう。さっき迎えてくれた時の優しい笑みだから、優司は怒りをぶつけることなどできなかった
 それは、この前まで感じていた楽しい気分と大差なかった。
 どうして?
 簡単に怒りが萎えたことに、戸惑いが浮かぶ。
 何もかも、こんなふうにうまくいかないのは秀也のせいだと、朝にはさんざん文句を言ってしまったのに。
 だけど、秀也は笑っている?
「まったく、車の音がしたんで帰ってきたかなと思ったんだけど。なかなか入ってこないし……。で、外見たら、お前、ぼうっと立って動かないんだから……」
 放っとくのも変かな、と思って。
 言われて見られていた事への羞恥心が湧き起こる。
「お前ってば、よくぼおっとしてるけど、外でもしてると簡単にスリや置き引きなんかにやられそうだな」
 さすがにそこまでは、鈍くない……と思う。一抹の不安は湧いたけれど、それでも、あまりな言い方に、優司は言葉を荒げた。
「ほっとけ!それにお前お前言うな。私は年上だ、ちゃんと名前を呼べ!」
 気が付けばまだ持っていた荷物を放り出し、上着をハンガーにかける。だが、その背後で秀也はまだくすくす笑っているのだ。
 せっかく、萎えていたのに。
 いつまでも笑い続けている秀也に、簡単に怒りに火が点いた。
 笑っているから和んだ心は、笑われていると怒りを露わにした。
「いつまで笑ってるんだよ!」
 けれど、言葉はまた交わされる。
「まあまあ、それより夕飯作って待ってたんだ。俺腹減ったから食べよーぜ」
 そういった秀也が指さした先には、料理が並べてあり、おいしそうな匂いがしている。
 現金なもので、美味しそうな匂いに怒りが後回しになった。疲れていたから、なおさらだ。
「へえー。笹木がつくるなんて久しぶりだな」
「まあ、今日は優司は遅そくなりそうだったから。それに疲れただろ?」
「あ、ああ。そうか。ありがとう」
 そういえば、いなかったらどうしていたんだろう?
 いつも弁当を買うコンビニにも寄らずに帰ってきた事実に、今更ながらに気付く。
「さあ、食べよ」
 秀也が冷蔵庫からビールを取り出して、優司に手渡した。
「ビールも補充したからな。よく冷えてるだろ」
「あ、ああ。でも明日も仕事なんだから、あんまり飲めないからな」
 優司はあまり強くない方だった。その点、秀也は強い。
「判ってるよ」
 そう言いつつも秀也はあっという間に半分以上を飲んでいた。傾いた缶から滴がぽたりとテーブルに落ちる。
 何が判ってんだか……。
 呆れてその様子を見つめていると、秀也は喉で笑っていた。
「ちびちび飲んでも、おいしいってもんじゃないだろ」
「ああ、そうだな」
 そう返しても、頭の中では明日の段取りが幾つも浮かぶ。
 ごくんと一口だけ含んで飲み込んだ冷えたビールが、胃を刺激した。
 美味しいとは思うけれど、次は続かない。
「じゃ、いっただきます」
 ずっと待っていてくれたのだろうか?
 そう思うほどに、食べ始めた秀也の勢いは良い。ビールの泡がついた口元を手の甲で擦りながら、その様子をぼんやりと見ていた優司の胃も、何か入れろと訴え始めた。
「美味しそうだな」
「ああ、会心の出来映えなんだ。今日のメニューは」
 勧められるがままに、優司も手近にあったサラダを口に入れた。柑橘系の酸っぱさがさっぱりとしたドレッシングが美味しい。
「美味しいけど、何てドレッシングなんだ」
「ああ、秀也スペシャル・ドレッシング……」
 名前を言って、照れたように笑んでいた。
「秀也……って? ということは、笹木の自家製なのか?」
「まあね。俺も結構便利だろう」
 照れてはいるけれど、自己主張も忘れない。
「自慢げに言うな。滅多につくらんだろーが」
「だって、面倒だからな」
「……」
 私だって面倒なのに。
 それでも作っている優司自身の立場は一体どうなるというのか?
「そうため息ばっか吐くなよ。飯がまずくなる」
 言われて、自分がため息を吐いたことにきがついけれど。
「誰のせいだよ」
 本気でそう思っていたから、思わず口について出た言葉に、秀也がむっと眉間に深いシワを寄せた。
 まずった──。
とは、思った。
 だが秀也は、そんな優司から視線を逸らすとすぐに食事を再開した。
 ぱくぱく食べては、ぐいっとビールを飲み干す。
 話しかけられるのを避けているように、その動きに隙がない。
 そんな秀也に、優司も食事を再開したが、いきなり味がしなくなった。砂を噛むような味気なさが、口いっぱいに広がって食欲も無くなってしまう。
 怒らしたかなあ……でも、ため息の原因はほんとのことだし……。
 なんとか一杯のご飯を平らげた時には、秀也はすでにビールを3缶も空けていた。
「飲み過ぎじゃないのか?」
 話しかけにくさはあったけれど、それでも秀也のペースがあまりにも速いような気がして、問いかける。だが。
「いいだろ。この位では酔わないよ」
「そうみたい……だけど……」
「それより、優司のため息の原因、本当に俺のせいか?」
 酔ってはいない、らしい秀也の鋭い視線が優司を見据える。
 びくりと背筋に緊張が走って、思わず視線を逸らした。
 ──思ってる、けど。
 だが、その言葉を言うのを優司は躊躇っていた。
 何となく怖かったのだ。
 そんな優司を一瞥し、秀也がきっぱりと言い切る。
「優司のため息の原因は、俺がここに泊まり込むせいじゃない。それは仕事にあって、俺のせいじゃない」
 びくっと全身が震える。
 確かに仕事の事はあるだろう──けど。
「何でそう言えるんだよ。私は、笹木がいると仕事の疲れが取れないんだ」
「優司のため息はストレスが溜まっているからだ。っていうより、何でストレスが解消されないのか俺は判らないね。俺は優司と話をするだけでストレスが解消される。優司が笑ってくれれば、和むんだ」
 その言葉に、なんと返して良いか判らない。
 自分が秀也にとってそんな存在だとは思いもしなかったのだ。
 だが。
「笹木のストレス解消にはいいかも知れないが、私のストレスは一向に解消されない」
 そんなのは理不尽だと、怒りが増す。
「だいたい優司は、言いたいことがあるなら言えばいいんだよ。だから須藤さんになんやかんや言われて腹立ってる癖に何も言えなくて、そのイライラを俺のせいにしてるだろう。それを吐き出してしまえばいいんだ。昔はそうしていたじゃないか。何故、俺に話さない。須藤さんとの軋轢は俺は知っている。今更隠すことじゃないだろう。俺が泊まらなかったら、そのイライラはどうするんだ。結局うじうじとため込んでいくんだろう?」
「ぐっ……」
 言葉を失って、それが図星だと気付く。
 言われてみれば、昔は何でも秀也に話していたような気がする。
 だが──そうだ。ある日、そんな自分が急に惨めになったのだ。
 優司自身は幾らでも愚痴を言っていたのに、秀也の愚痴はあまり聞いたことがないことも気付いたからだ。だから、秀也に話すのが嫌になった。聞かれるのも苦痛だった。
 自分が弱いことを知られたくなかった……秀也には……知られたくなかった……から。

 
 秀也は優司をじっと見つめていた。
 優司の顔が苦痛に耐えているようにゆがんでいる。
 だが、それでも優司はこっちにむかって何も言わない。
 そしてやっと口を開くときに言う台詞は決まっている。
 ——ホテルに泊まれ。
 ——お前がいるとリラックスできない。
 それだけ。
 いつからこんなことになったのか。
 悲しいよなあ。そして悔しい。
 優司の機嫌が治らない日々が多くなってきたのに気がついたのはつい最近だった。
 俺が東京に戻った後、たまに三宅さんに話を聞いても、優司が「疲れた」なんて言ってるってよく聞く。
 確かにこの仕事について3年も過ぎ、責任が増してくる。
 優司はどっちかというと研究者タイプの人間で、人を使う人間ではないのだ。それを無視して須藤さんは優司に仕事をやらせる。それはそれでしょうがないとは思うが、適材適所っていう言葉もあるだろう。うまく使えば、優司は結構そつなく仕事をこなすやつなのに……。  ああ、俺までため息がつきたくなる。たが……。
 優司の表情が、苦しそうなのは精神的な物だとは分かる。
 何となく仕事のせいじゃないような気がするのだが、はっきりとは分からない。何か分かりたくないという気持ちの方が強かった。
 秀也がその気になれば、優司の悩みの奥底まで知ることができた。
 だが、今、それをしたくない。
 秀也は怖かった。
 
 秀也は幼い頃から人の表情を見ると、この人が今どんな感情を持っているのか、何をして欲しいのかが分かってしまう能力を持っていた。何故かはわからない。小さい頃はそれが普通だと思っていたのたが、その内自分が気味悪がられているのにも気づいてしまった。そういう特別な力なんだと気がついたとき、必要以上に人に深入りするのを止めた。うわべだけのつきあいしかしてこなかった。営業という仕事にはとても役立つ力なのだが、それ以外では邪魔なだけ。
 人が自分のことをどう思っているか何てあんまり知りたくない。
 人は人とつきあってその相手のことを少しずつ知っていく。だが、秀也はその過程を経なくても一瞥しただけで、その相手がどんな性格なのかが分かってしまう。それが二度三度と会っていると、さらに詳しいところまで分かってくる。そうすると何か楽しくないのだ。その人の嫌なところまで、隠しているはずのところまでが見えてしまうと、何か悪いような気がしてくる。一生懸命隠していることに、自分が気がついているってことをばらすわけにはいかない。そうすれば、また自分がつらい目に遭う。そんなんで気を遣っていると、そんな相手をだんだん疎ましく思ってることに気がついてしまう。だからさっさと身をひくのだ。
 冷たいやつだと言われてた。
 友達と思っていたのに、とも言われた。
 だが、本人達さえも気づいていない頃にそういうのに気がついてしまったままで、どうやって平気な顔でつきあえよう。だから、何を言われても黙っている。
 そのうち、秀也とつきあう人間はいなくなった。
 大学に入って、周りに知っている人間がいなくなって、なんとかうまく立ち回っている、と思う。
 その頃になって、ようやく読まなくてもすむ方法が分かった。ちょっとしたこつだった。それが分かってしまうと普通に暮らせだした。
 興味本位で誘われたホストもやってみると、結構これが適職だと思えるほど、客がついた。
 本当に本職にしようかと思ったが、ふっと受けた就職試験に受かってしまった。まあ、一回くらいきちんと働いてみるのもいいかなあ、と思って研修を受けに行ったら優司に会った。優司を知ってしまうと、会社を辞めようなんてものが吹っ飛んでいくのを感じた。
 最初の印象は、ぼーとした奴。しっかりしていそうだが、実は間抜けな奴。でも優しそうだなあ。何かつきあってみたい。友達になりたい、ふとそう思った。
 びっくりした。
 もう友達などいらないと思っていた。
 そんな自分が、友達になりたいと思うなんて、自分が自分で信じられなかった。
 話をしていると、なんかほっとさせてくれた。
 その内、優司の性格がはっきり把握できたので、こっちの能力をばらしてみた。
 それでも優司の態度は変わらなかった。
 他の社員と話をしていてもそんな気にはならない。
 優司だけだった。だから、あの時あんなことをいったのだ。
 ——泊めてくれるか。
 ——そりゃあまあ、私もこっちで一人暮らしだから、別に構わないけど……
 くくく。
 最近では、後悔してる時もあるらしいけど、でも、いつも優司の心は楽しいんだって言ってた。
 どんなに俺に文句を言ってるときでも、「楽しい」って言ってた。
 つい最近までは……。
 突然笑い出した秀也に、優司はかっとなった。
「何笑ってんだ!いつもそうやって私のこと小馬鹿にしたように笑ってる。私は笹木がいるとリラックスできないってのがそんなにおかしいのかっ!」
 それがあんまり大きな声だったので、秀也の方が心配そうに言った。
「あんまり大声出すと、隣まで聞こえるぜ。隣は、千間さんだろう」
「うっ」
 さすがにしまったと思い、一気にテンションが下がる。
 千間祐子は三宅美佳共々、もう10 年以上勤務している。美佳は既婚、祐子は独身だが、古株だけあって、あの二人は結構社内事情に詳しい。優司達とも仲がいい。何かある時は相談に乗ってくれたり、仕事上のサポートもしてくれるありがたい相手なのだ。そんな彼女に喧嘩してるのがばれるとそれは美佳にまで伝わってしまう。それは嫌だ、って思う。それは、秀也も同じだろう。
 そんなことを考えていたら、いきなり秀也がすっと笑みを消し、少し考えてから言った。
「あのさあ、しばらくここ来れない。だから安心しな」
「え?」
「だからさあ、こっち方面の出張はないし、ここんとこ忙しくなっちゃって、定例ミーティングも来週からしばらく直行直帰なんだ。朝来て、夜帰るってやつだよ。だから泊まらなくていいんだ」
「そうなのか」
 なんだろう。
 優司は自分の心が沈んでいくのを感じた。
 これで、秀也に対して苛つくことはない。そう思った。
 だがこの感じは何なんだろう。
「あれー、がっかりしてる?」
 ぎくっ
 何故か顔が熱くなる。
「違うっ!!うれしいよ。お前が来ないとなると……」
 慌ててうれしそうな顔を作った。冷や汗が頬を伝いそうになる。
 こんなんで秀也がごまかせるかっていうの。
 だけど秀也は、ふいっと視線をずらすと、何も言わなかった。
 優司もあえて何も言わなかった。
 お互い何も言わないまま、その日が過ぎていった。
「それじゃあ、また来週!」
 秀也がにこやかに同じテーマの開発担当者に声をかけていった。
「笹木君、ちゃんと携帯の電源入れといてよ。お客さんからたまにこっちにかかってくることあるから、繋がらないと困るのよ」
 三宅美佳が、不機嫌そうに秀也に忠告する。
「はいはい。分かってまーす」
 そういいながら、慌てて電源をいれる秀也。そして、事務所から脱兎のごとく出ていった。
「飛行機間に合うのかな。やけにぎりぎりまでいたけど」
 突然美佳が優司に話しかけてきた。
「えっ?ああ、間に合うだろ、今からなら」
 三宅美佳は割合コンピューターに広く浅く詳しいので、共通の趣味を持つ友人といった感じでよく優司と話をしていた。今回もそんなのりで二人しばらく話をしていたのだが、秀也の姿が消えた途端、美佳は意味ありげな表情を浮かべた。
 これにはいくら鈍感な優司でも何かあるのか、と視線を返すと、
「笹木君さあ、滝本君のこと凄く心配しているよ」
と言った。
「心配って、何を」
「だって、最近よく疲れたって言ってるじゃない。このままじゃ、あいつストレスでぶっ倒れるからちょっと様子みとく、って言ってたわよ」
 げっ。
 いつの間にそんな話をしているんだ。この二人は。
 普段話をする機会なんてほとんどないはずなのに……。
 よっぽど、びっくりした顔をしたらしくて、美佳はくすくす笑い出した。 「本当によく表情に出るなあ。おもしろーい」
「あの笹木が、私のこと心配してくれるってのも不思議でしようがないが、なんでそんなこと三宅さんと話をするわけ?というか、いつそんな話をするんだ?」
 なんか、嫌な気分がしてきた。
 何か、嫌だ。
 もしかして三宅さんと笹木ってつきあってんのか?って、まてまて三宅さんは結婚しているんだった。
 優司が自分の感情をもてあましていると、美佳が自分の端末を指さした。
「これこれ」
 指さすところを見ると、社内メールが開いていた。
「笹木君、たまにメールよこすのよねえ。それに返事してるだけよ、私は」
 社内メール……。
 あいつ、何考えて三宅さんに……つうか、そんなプライベートなことでメールを使うな。
「怒らないの。本当に心配してるんだから。かといって、他の人には聞けないし、といって当の本人に聞いたってまともには答えてくれないでしょう。それで私を選んだみたい。ほんとは黙ってなきゃいけないんだけど、ねえ」
「どうして私に話す気になった?」
 優司の声には棘があった。それに気づいているのか美佳は、言う。
「昨日、喧嘩してたらしいから、滝本君達」
「!」
 やっぱり聞こえてたのか。
「千間さん、に聞いたんだ……」
「そう」
 にっこり笑う美佳。
 優司はそんな美佳から視線を逸らした。 
 どんな話をこの二人はしたのか?その内容が恐ろしい。
「まあ、喧嘩の内容までは知らないけど、今朝の二人の様子も変だったし、あれだけ気を遣っている笹木君がちょっとかわいそうかなあって、思ってばらしちゃった」
 ばらしちゃった、じゃない。
 いや、秀也が優司のことを気にかけているのは実は知っていたのだが、改めて他人に言われると、うーんとうなるしかない。
「でもさあ、私から見ても最近お疲れモードなのはありありと分かるからね。ぶっ倒れる前に、ちゃんとストレス解消してよね。せっかく笹木君が泊まってんだから、二人で馬鹿騒ぎしてくれたらよかったのにって思ったのに。どうも今回はよけいストレスを抱えてる見たいね」
「いっつも馬鹿騒ぎできるものじゃないし、それほど馬鹿騒ぎなどしていない。あいつがいつもひたすらしゃべっているだけだ」
……というか、職場で話す内容か、それ。
 優司は話自体を終わらせたかった。
「そう?でも、滝本君がお疲れモードになったら必ず笹木君が泊まって、そしたら滝本君元気になってるじゃない」
「そ、そうか?」
「うーん。まあほとんど元気になっている、って思うよ。だから、今回みたいにお疲れモードが解消されてないわ、喧嘩別れみたいなのって初めて。」
「な、なんか。三宅さんて、私達のこと観察してるのか?」
「うん、そう」
 うー、にっこり笑って返答されてしまった。
「まあ、滝本君て何でも内にため込みそうなタイプだから、ああいう友達もいいんじゃない。気を遣うタイプじゃないよ、笹木君は。だから私も話してて面白いから、楽しいの」
「楽しいって……。三宅さんも結構笹木と仲良かったんだ」
 何か胸が苦しいのはなんでだろう。
「おもしろい人は好きよ。気を遣わなくていいから……」
「え?」
「私はね、人見知りが激しいから何も言わない沈思黙考タイプの人とはなかなか友達になれないのよ。滝本君もそんな感じだけど、まあコンピューターの話がなかったら、ここまで親しくはなれなかったでしょうね。その点笹木君は黙ってても話しかけてくるし、話も面白いから気楽に話しかけられるのよね」
 苦笑混じりで言う美佳の言葉に、心当たりがある優司は何も言えなかった。
「だから笹木君が困っているとね助けてあげたくなるし、ついでにからかいたくもなるんだけど、ね」
 え?
 優司はあっけに取られて美佳を見返した。
「笹木君、困ってると思う。何せ、大切なお友達の滝本君に嫌われちゃってるから」
「そんな、そんな嫌ったりはしていない……」
 たった数ヶ月前には確かにここまであいつがうちに泊まるのにこんなに苛つくことはなかった。
「ただ、あんまりしょっちゅう泊まるし、なんかこう苛つくんだ。仕事のせいもあるかもしれないけど……」
「そうかなあ、それが原因?」
 何か意味ありげな視線を向けられて、滝本は口ごもる。
 こいつ何が言いたい。
 その時。
「三宅さん、休憩いける?」
 千間祐子が美佳を呼びに来た。
「あ、うん。いける」
 そう言って、美佳はさっさと休憩に行ってしまった。何か言いたげな、優司を残して。

 今日も残業……いい加減、体がもたない……。
 優司はコンビニで買い込んだ弁当をぶら下げて部屋に入った。
 誰もいない部屋。
 優司はため息をついた。
「ばっかみたいだな。結局笹木がいなくてもため息ついてる」
 分かっていた。ため息の原因が秀也のせいじゃないことは。
 それでも、秀也のせいだと思いたかった。
 でないと、本当に自分自身が弱いんだと思い知らされそうで……。
「ちょっと須藤さんに何か言われたくらいで落ち込むなんて、私はやっぱり弱いんだ……」
 悔しかった。
 秀也がばりばり客先で仕事をこなしている様子を見聞きするにつれ、自分とのギャップが悔しくなる。
 だいたい入って二年で週一ミーティングに参加することになるなど、珍しい位なのだ。そのくらい秀也は、営業のリーダーに目をかけられている。
 それに気がついたとき、秀也といることに苛つきを感じるようになった。
 本当言うと、何もかも分かっていた。
 秀也のせいではない。自分自身の弱さのせい。
「私は……恥ずかしい……。こういうのを嫉妬してるっていうんだ……。ったく」
 一人呟いてるとよけい惨めになってきた。
 優司は、弁当を食べることにした。

 もう 三週間、秀也は泊まりに来なかった。
 こんなに間があいたのは、本当に久しぶりだった。
 優司は、部屋に帰るとき、今日は秀也が来ているのではないかと、期待している自分に気がつき、苦笑いを浮かべ、、結局今日も来ていないことが分かるとがっくりする自分にまた苦笑いを浮かべる日が続いていた。
 週一ミーティングにちゃんと来ているのだが、泊まることなく帰ってしまう。優司の仕事の都合があって、来ていても話すことなく帰ってしまうこともあった。
「おーい、滝本君。私の端末、最近ねえ一昔前の滝本パソコン状態に陥ってる。もう駄目かなあ」
「おー、とうとうなったか。さっさと業者に連絡して、再インストールしてもらった方がいいのじゃないか。私のみたいになる前に」
 優司の端末は、2ヶ月ほど前に本体が新品になった。あまりにも絶不調状態が続いたためだ。
「うーん。私の端末はこれでも新しいんだぞ。まあ、バグってるソフトは直接業務に関わるもんじゃないらしいし、まだ当分使えるから、もうちょっとがんばるか」
 コンピュータに関しては、意外に詳しい美佳がいうのだから、まあ大丈夫なのだろう。
 ちらっと美佳の端末に目にやると、社内メールの画面が開いていた。
「最近も、笹木とメール交換しているのか?」
 ふっと口をついて出た。
「え」
 美佳がびっくりしたように振り返る。
「笹木、何か言って来たか?」
 優司の目が真剣なのを見て取った美佳は、頭を振った。
「来てないわよ。そっちにも来てないの?って、来てなかったわよねえ」
 美佳は優司のサポートも兼ねている。優司を含め社外メールを持っている複数の不在がちな社員のメールを受けていた。急ぎの用事があれば、外出先でも連絡する役目を負っている。
「笹木君の携帯番号知らないの?メールアドレスは?」
「……いや、会社のしか知らないし、あいつ、結構電源切ってるから」
「ほーんと、困ったもんよね。向こうのサポートの、えーと、竹沢さんだっけ。文句言ってるらしいけど、なかなか聞かないのよねえ」
「ああ。全く」
 そうか、連絡来ないのか。
 実を言うと、何度か携帯に連絡を入れてみたが、電源が入っていなかったり、移動中で電波状態が悪かったりであまり話ができない状態だったりして、結局のところ話ができていなかった。
「仲直りする気になったんだ」
「仲直りって、私は、喧嘩なんかしていない」
 むっとして言い返すと、美佳は意外そうに呟いた。
「今の状態、喧嘩してるとしか思えないんだけど」
「そ、そうか?」
「うん」
 凄い楽しそうに言われた台詞に、優司は目を見開いた。
「どこが喧嘩だか……」
「てことは、滝本君は笹木君が実はホテルに泊まってるって知らないの?」
「え?」
 それは初耳だった。
 あれだけ言っても止めてくれなかった秀也が何で今更ホテルに……。いや、やっと言うことを聞いてくれたと思った方がいいのか。だが……。
「当麻君が言ってた。この前アメリカとTV会議するんで、あのチーム早出になったのよ。そしたら笹木君が前泊してホテルに泊まるから迎えに来てくれって言ったって。すっごく面倒くさがってたわよ」
「早出……。それでホテルに?」
 早出だから、もしかして気をつかって、ホテルに……。
 優司は自分が何とかこじつけようとしていることに気がついていた。いや、こじつけたかったのかも知れない。だから、美佳の次の台詞で、頭の中が白くなった。
「うーん。その時に聞いたんだけど、ここんとこ、ずっとホテルに泊まってきてるみたいよ。気づかなかった。朝一便だと間に合わないような時間に笹木君来てたじゃない、って気がついていなかったの?」
 ぼーとしている優司を不思議そうに美佳がのぞき込む。
「あ、ああ。そうか、そうだよな」
 必死で言葉を絞り出す。
「そんなの見てたら、喧嘩して滝本君ち泊まれないのかなあって思うわよ。いくらなんでも」
 美佳の言葉がぐさりと胸に刺さる。
 何で、こんなにショックなんだろう。
 呆然としている優司を見て、こっそりとため息をついた美佳は、くるっと自分の席に向き直った。
 これ位したって罰あたんないわよねえ。
 かわいそうなくらい鈍感な滝本君は笹木君がどれだけ滝本君のこと心配しているのか絶対気がつかないもの。
 男どうしの友情なのか、恋愛感情までいってるのかは分からないけど、まあ、この二人ならお似合いかなあ。
 優司が聞いたら頭から血を吹きそうなことを考えながら美佳は隠れてくすくすと笑った。
 せっかくだから楽しませてもらおうじゃないの。
  御年34歳。結婚・二児を出産しても変わらずその手の小説が好きな美佳にとって、二人は格好の遊びの種であった。

 次の週の月曜。定例の週一ミーティングがある朝、優司は朝早くからミーティングルームに居座っていた。定例ミーティングは9時からと聞いていた。確かに飛行機の一便では間に合わない。
 8時が過ぎた頃、ミーティングルームの扉が開いた。
 入ってきたのは、秀也だった。
「優司……」
 秀也は驚いたように目を見開いていた。その口調は、どうしてここに、といっている様にも優司には聞こえた。
「ホテルに泊まってるんだって」
 優司は、冷静になろうとしていた。したつもりだった。
「どうしてうちに泊まらないんだ。いつも泊まってたじゃないか」
「だって、優司がホテルに泊まれって言ったから、じゃないか」
 秀也は、優司と視線を合わせようとしない。
「そ、そりゃあ言ったけど……」
「それで、俺に文句を言うわけ?どうしろって言うんだよ」
「す、すまない」
 優司が謝ったので、今度は秀也が思わず視線を向けた。
「優司……」
「私は、笹木が泊まりに来なくて、やっと分かった。家に帰って笹木がいないとな、何かがっくりするんだ。仕事でつらいことがあった日、家に帰るとき、ずっと車の中で、笹木が家にきてないかなって思うことがあった。自分のストレスを笹木のせいにしていた。でも違うんだよな。笹木がいることで少しでもストレスは解消されてた。三宅さんに聞いた。結構私のこと心配してくれてるって……」
「げっ。三宅さんしゃべっちゃったの……」
 心なしか秀也の顔が赤くなったように見えた。
「で、この前、笹木がホテルに泊まってるって聞いた時、私はなんか凄いショックだった。どうして家に泊まってくれないんだって、そればっか思ってた。でも考えてみたら、私が泊まるなって言ってたんだよな。それなのに笹木が泊まらないって言って怒るのは筋違いってもんだから。やっぱ私が悪いんだ」
「……」
「私の苛つきは笹木に会うと、今でも感じる。だが、それでも会えない方がもっと苛つくんだ。どうして苛つくのか私自身分かっていない。いや、もしかすると分かっているかも……。ただ、これは自分でも我が儘なこと言っていると思う。ただ、それでも、笹木に来て欲しいって思ってる。だから、こんな訳の分からない私の家でも来てくれる、というのなら……もしかすると、また、文句を言うかも知れないけど……それでも、良ければ……泊まりに来て欲しい」
「……」
 秀也は黙っていた。何かを考えているのか、優司の顔をじっと見ていた。
 その視線が堪らなく苦しかったけど、優司は目をそらすことができなかった。
「私は、笹木に来て欲しい」
 もう一度、言った。苦しかった。
「……俺……」
 秀也がやっと口を開いた。そこで止まる。
 優司は、その口元から視線を外すことができなかった。
「俺は……」
 秀也の口調が苦しそうに聞こえた。
 やっぱり、もう駄目なのか……。
 我ながら、虫のいい話だとは思った。それでも優司は言わずにはいられなかった。
 泊まりに来て欲しい。
 優司の胸の苦しい固まりが大きくなっていくのを感じた。
 これがあるから、苛つく……これは、私は……一体……
 リーリーリーリー
 電話の音が響いたのは、その時だった。
「優司、電話だ」
 その声がほっとしたように聞こえたのは、気のせいだろうか?
 そう思ったが、優司はとりあえずポケットに突っ込んであった構内用PHS を取り出した。
 ディスプレイに表示される番号は、
 三宅さん?
「もしもし……」
「滝本君、そろそろ笹木君とこ会議の時間だよ。みんなそこに行くよ」
「えっ?」
 慌てて時計を見た。もうそんなに時間がたっていたのか……って何で三宅さんが、ここにいるのを知ってるんだ。
「いい加減話を終わらせないと、ほんとにみんな行っちゃうよ」
 それだけ言うと切れてしまう。美佳の声は押し殺したような声だった。
「どうした?」
 唖然としている優司に気がついたのか、秀也が声をかけてきた。
「あ、いや、そろそろミーティングの時間みたいだから、私出とくよ。じゃあな」
「えっ?」
 秀也も慌てて時計を見る。
 優司は急いでミーティングルームを出ていった。ドアを閉めたところで、工場エリアと事務エリアの間の扉が開いて、ミーティングのメンバーがこちらにむかって出てきたところだった。
 まあ、見つかったからって何だって言うんだけど、逢い引きしてたわけじゃないし……。
 そう思った途端、優司は自分の顔がかあっと熱くなったのを自覚した。
 な、なんだ、これはー!!
 頭がパニックを起こしかけたが、この顔を他人に見られたくない思いで、トイレに駆け込んだ。
 個室に入り便器のふたの上に座り込む。
 胸がどきどきしているのは、何でだ?
 何で、私の顔がこんなに熱くならなきゃいけないんだ……。
 どう考えてもわからない。
 先刻の秀也の顔を思い出した。困っていたな……。
 その途端、心臓の音がさらに大きくなった。
 胸につかえている固まりがさらに大きくなったようだ。息まで苦しくなってくる……。
 私は、一体、どうしたと言うんだ……。
 優司は、はあっーと大きなため息をついて、頭を抱え込んだ。
 その日一日、訳の分からない胸の中の固まりに悩まされ続けた。
 美佳から話しかけられたときも、何て返事したのか分からない。
 何か誰からも話しかけてもらいたくない状態が自分でも分かっていたので、ずっと作業場で実験を繰り返していた。
 ああああ。何だこれはーーーー。
 頭の中で何回叫んだか分からない。
 とにかく、一体私はどうしたっていうんだ。
 優司の頭は混乱していた。混乱している内に、一日が過ぎてしまった。気がつくと実験ノートは空白だった。
 呆然とそのノートを見ていた優司は、頭を左右に強く振ると、ぱたんとノートを閉じて立ち上がった。
 こんな日は何をやっても無駄だ。さっさと帰ろう。
 

優司は車を運転してコーポの駐車場に入れた。
「あ、れ……」
 自分の部屋の灯りがついていた。
「まさか」
 優司は、慌てて自分の部屋のドアノブを回した。開いてる!
「おかえりー」
 秀也が笑いながら立っていた。
「今日は外でぼーとしてなかったんだな」
 いつもの秀也の笑い顔。
 ああ、そうだ。この笑顔で迎えられるのが私は、大好きだったんだ。
 大好きな秀也の笑顔。
 どんなに疲れてても、この笑顔を見るとほっとしてたのに、どうして私は、「ホテルに泊まれ」なんて言ったんだろう……。
 ほんとに、良かった。
 大好きな秀也……。
 優司は、玄関に立ったままじっと秀也を見ていた。
 自分がどんなに安堵しているのか、を感じる。心が浮遊しているような感じだった。
「どした?」
 あんまり優司が動かないので、秀也はいぶかしげに優司の肩に手を置いた。
「え?ええ?……あっーー!!」
 我に返った優司は、やっと自分にわだかまっていた心の内を理解した。
 それは優司にパニックをもたらす物だった。
 今、今、好きだって思わなかったかっ!!
 ちょっと待て、笹木は男で、男だから、えーい男だ。
「お、おい。優司、一体何を唸っているんだ?というか、顔が真っ赤だぞ」
 どうやら優司は自分でも気づかない内に唸っていたらしい。
 というか、秀也に指摘されて初めて自分の体温が上昇しているのを感じ取った。
 まずい。まずい、まずいっ!!
 私は……私が、秀也を好きだ、なんて、悟られたら……。
 そう思っただけで、さらに血圧があがる。心臓がばくばくいっている。
「あ、と、えっと、私は、ああ、トイレ我慢してたっ。ちょいトイレっ!!」
 脱兎の如く、トイレに駆け込む。
 トイレに座り込み、ううと唸る。
 何か、今日こればっかだああああ。
 胸がどきどきいっている。
 私って、私って、まじかよーーー。
 あいつは男で、私も男で。
 うっわーーーー、ホモじゃんかあーーーー。
 頭の中が無茶苦茶だあ。
「おーい。腹具合でも悪いんかぁー?」
 外でのんきな声が響いている。
 優司はなんとか息を沈め、心を落ち着かせようとした。
 えーと、いや、これはマジで私は笹木秀也という男が好きなのか?
 やっと気づいた。
 だからこそ、笹木がいると苛つく時があった。自分の思いが掴みきれなくて、その思いに苛ついて……。
 ああ、そうだ。私は笹木に情けないところ見られたくない時は、苛ついた。こんな自分を笹木に嫌われたくなくて……。
といっても、あいつはノーマルだ。こんな告白なんかできるもんでもなかろーが。
「おーい」
 どんどんとドアを叩く音がする。
「だいじょーぶかあ」
 秀也の声が個室に響く。
 うううう。
 人の気も知らないで……。
 とりあえず平静、平静、平静。はんにゃーはーらーみったーじー……。
 頭の中でおもわず般若心経を唱える優司であった。
 しばらくして、優司はトイレのドアを開けた。
 秀也が心配そうに優司の顔をのぞき込んだ。
「どっか調子悪いのか、ずいぶん長かったけど……」
「ああ、いや、大丈夫だ」
 平静・平静と頭の中で呟きながら、答える優司。
「えっと、やっぱ俺迷惑かなあ。朝泊まればいいって言ってくれたんでホテルキャンセルして速攻で来ちゃったけど……」
「いや、そんなことない!」
 慌てて頭を振った。
「今日の今日で来てくれるとは思わなかったからびっくりしたけど、ほんとうれしい」
「えっと、まあ、やっぱ俺もさあ、ここの方が絶対ホテルよりいいって思ってたから、そう言ってくれてうれしかったんだ。ありがとう」
 うう。笑うな。その顔は心臓に悪いよー。
 しかし、優司は努めて冷静に言った。
「私も、笹木がいてくれると実はうれしいことに気がついた。いつでも来てくれ」
「ふーん。この前とはえらい態度が違うが、何で?」
 ぎく。
 優司の顔が強ばった。
 考えてみれば当然の問いだった。今朝はそこまで話をする暇がなかったが、今は別の事情でそのことは言いたくない。
 そのまま優司が黙っていると、呆れたように秀也が言った。
「あのさあ、いい加減トイレから離れないか?いつまでそこにつったっとくつもりだ?」
「え、ああ、そうか」
 そういえば、ここはトイレの前だった。
 優司は何となく気恥ずかしい感じがして頬を赤く染めた。
「くす。お前って可愛いなあ」
「!」
 可愛いってなんだ。男に可愛いってのは!
 優司が睨むのを無視して、秀也はさっさと和室のほうに歩いていった。
 確かに私の顔は可愛いと言われてるが、だが何かお前に言われたくないっ!!
「それよりさあ、お前もうちょっと部屋片づけとけよなあ。人に泊まりにこいって言うくらいだったら」
 秀也が振り返って、優司に文句を言ってきた。
「は、あーーーー。そうだ、部屋掃除してなかった……ってあれ」
 ふっと優司が和室を見ると、なんだか部屋がきれいになってた。
「見るに見かねて掃除しといた。遅くなってからの掃除は近所迷惑だろ」
「あ、ああ。ありがと」
 こんなにきれいな部屋を見るのは久しぶりだなあ、優司がぼおっとしてると、頭をこつんとこずかれた。
「何するんだ」
「優司って、いっつもぼおっとしてるからな、そういうとこ絶対年上に見えねぇーって」
「……」
 どうも今日の秀也は、優司につっかかる。優司が気にしていることをずばずば言ってくる。しかも笑いながら。
 これって、絶対苛められてるぞ。やっぱり、秀也は怒っているんだ……。
 となると、とりあえず今日は何言われても我慢かな、と優司は思った所に秀也はさらに言葉を継いだ。
「で、優司はさっきから赤くなってるけどどうした?」
 そ、それを聞くかあ!!
 優司の思考回路はさっきから爆発寸前だ。
 何せ自分の気持ちに気づいたはいいが、それをどうこうしようとするまもなく、相手に知ってか知らずか苛められている状態。
「ふーん、言えないのか。まっ、いいか。」
 何かうまい言い訳を考えてる間に、あっさりと秀也は引き下がった。
 助かったあ……。
 ほんとにこの時、優司はそう思ったのだ。

 食事が終わり片づけが済み、さらに風呂に入ってしまうと、特にやることもなくなって二人でぼんやりと深夜番組を見ていた。と言っても優司は秀也が自分の気持ちに気づかないかと、不安で仕方なかった。
 できるだけ冷静に対処しようと、それだけで頭は一杯だった。
「優司、明日の仕事は?」
「うーん、実験かなあ、今日あんま進んでないし。そういう笹木は?」
「ああ、俺、会議が午前中。その後東京へ帰る」
「そっかあ、じゃああんまり遅くまで起きてて、会議で居眠りするのもまずいだろ」
「まあ、この程度で堪える笹木秀也様ではありません、と。俺、まだまだ若いですし。せ、ん、ぱ、い」
 優司をちらっと見て、秀也は口元に笑みを浮かべた。
 その笑みを見た途端、優司の胸がどきんと鳴った。
 が努めて冷静に、優司は言葉を返した。
「どうせ、私はおじさんです。いっつもいっつもぼーとしてるしね」
 くくくくく
 秀也の肩が揺れた拍子に優司の肩に触れた。
 優司の胸がどくんと鳴る。
 や、やばい……。わ、話題を……。
「笑うな。何がおかしんだよ」
「い、いや。確かにいっつもぼーとしているなあって思って」
「……」
 ごつん
 優司は秀也の頭をげんこつで軽く殴った。
「てて、何でよ、自分で言ったくせに」
「笑われると腹が立つ」
「ったく、素直じゃねぇーなあ」
「なーにが素直じゃないだ」
「えー。だって素直じゃないぜ……」
 むっとしていると、何か秀也が物言いたげな風に口ごもっているのを感じた。
「何だよ、まだ何か言いたいのかよ」
「ん、まあ、いいんだ」
「……何が言いたいのかはっきり言えよな、気になるじゃないか」
 優司がそう言うと、何故か秀也は困ったような顔をして、それでも次の瞬間にはそれを振り切るかのように呟いた。
「なあ、どうして俺を見て赤くなるんだ?」
 ざざざざっ
 優司は一瞬の内に、1 mばかり部屋の隅に座ったまま移動した。
「お前、何やってんだ?」
それを見た秀也がおかしそうにくっくっと嗤っている。
「何って、いや、何か勝手に体が動いちまって……」
 優司自信、自分がどうやってここまで移動したのか覚えていない。
「で、どうして俺を見て赤くなるんだ?」
 嗤いを顔に浮かべたまま聞く秀也は、まるで悪魔みたいに思えた。
 それを聞くのか……。
「えっと、さあ、なんでだろー。気のせいじゃないの……」
 我ながらべたな言い訳だと思いつつ、へらへらと笑っていたら、秀也が少し移動して近寄ってきた。
 その目が意外に真剣なことに気がついた優司の顔が凍り付いた。
「あのさあ、前に話したことあったよな、俺の能力」
「え、えっと、あれ、えーと」
 確か、人の表情から感情が読みとれるってのを確か聞いたような……、あれ、ってーことは???
 優司は頭の中が真っ白になった。
 秀也は、気づいてる?
「1年ほど前だっけ、確か教えたよな。それでも俺とつきあえてる希有な奴だとは思っていたけど、すっかり忘れてるのか?」
 お、思いだした……。
「まあ、最初からそんな奴だとは思ってたからばらしてたんだけど、それをすっかり忘れてつきあえるお前もたいしたもんだよなあ。しかも、そのくせ、自分の感情を必死で隠そうとしている」
 ま、まずい。本気で忘れてた……。
「今朝、優司と話をした時、ある感覚が伝わってきて、それが何なのか今日一日考えてた」
「考えてたって、会議中だろーが」
 優司が言うと、秀也がくすくす嗤い出した。
「それは、今関係ないだろう」
「うーー」
 ばれた。
「なんとなくかな、ずいぶん前からその兆候っていうか、そんな感情が見え隠れしているのは漠然とは分かってたんだ。ただ、自分でも把握できていない感情を俺が言ってしまうのも何かなあって、ずっと黙ってた。でも、まあ気にはなった。だからしょっちゅう泊まりに来てた」
「気づいてたって……。私ってそんなに前から笹木のこと、好きだったっていうのか?自分でも、今さっき気がついたっていうのに……」
「……やっぱり、それで顔が赤くなったのか」
 しまったっ!こいつってば絶対に誘導尋問もうまいぞっ!
 慌てて口を押さえる優司を後目に、秀也は嗤いながら続けた。
「まあ、最初の内は友情のちょっと強い感情かなあって思ってたけどさ。それが数ヶ月前くらいから、少しずつ強くなって、感じられるようになって、なんかプライドみたいなものも重なってて、はっきりとは分からなかった。いや、俺が優司のプライドを刺激してるって、こう悪い影響与えてるって知った時点で知りたくなくなったって思った方が正解かな」
「っ!」
 胸に棘が刺さったような気がした。
「俺は、友人でいたかったから、必要以上にお前の感情なんか読みたくなかったから。プライドを刺激してるのが分かった時点で、お前の感情をできるだけ読まないようにしてきたんだ。そうしたら、なんかお前が疲れてる時に、うまく慰められなくなって、結局、お前を困らせちまった」
「そうか」
 秀也は、私のために泊まりに来ていてくれた。それは会社で美佳に聞いて知った。それがうまくいかなくなった原因は私がプライドなんか気にしたせいか?私が、年上だからって、気にしたせいか?秀也の方が仕事ができるって、嫉妬したせいか?
「優司。そんなに気にするな。俺、お前と会えて楽しかった。これからも楽しくつきあいたい。そう思ってる」
 ふっと秀也は天井に目を向けた。
「だからかな。今朝の優司の泊まってくれって言葉を聞いたとき、本心なんだろうかって、お前の感情を読んだんだ。そしたら」

『私はこんなんだけど、やっぱり笹木に来て欲しいって思ってる。だから、もしそのこんな私のところでも来てくれるって言うのならさ、泊まりに来て欲しい』
『私は、笹木に来て欲しい』
「あの朝の言葉の裏に、俺に対する思いが、まだお前も気づいていない感情が伝わってきた」
 秀也はふっと息をついた。
「結局ホテルをキャンセルしてここに来たのは、もう一度会えばはっきり分かるんじゃないかって思ったからだ。知りたいような知りたくないような、俺、こんなに感情を読みたいって思ったのは久しぶりだった」
「それで、家に来たのか……」
「帰って待ってたらさ、車の音がしたんで玄関で待ってたら、すっごい勢いで入ってきたろ。しかも入った途端、俺見て真っ赤になってさ、くくく」
 思い出したように嗤う秀也。
「嗤うなっ!」
 頭の先まで血が逆流しそうな感じがして、優司はうつむいた。
「も、その姿見ただけで、優司の感情が俺に飛び込んできて、そっちは慌ててたから気づかなかったろーけど、俺も平然とするのに苦労したんだぜ。頬が赤くなったのに気がついたから、気づかれる前にお前の方をからかった」
「き、気づかなかった……」
「だってさー、俺のことが好きだーって感情、まともにぶつけられちゃったからなあ、あれは……まいった」
「ううう」
 恥ずかしい……
「その後、優司ってばトイレにこもっちゃうし……、まあ、そのおかげて俺の方は冷静になれて対処できたけどさ。だけど、じゃあどうしようって、今度はそっちの方に困ってた。でもお前見てるとさ、これは真剣に答えるべきだと思ったし、このままはぐらかして、いつか俺の能力をふっと思い出したときの、お前のショックも大きいだろーから、ここで話すことにしたんだ」
「そーか……」
 それで。
 優司は先刻からある台詞を言いたくて、たまらなかった。
 それで、笹木、お前はどう思ってるんだ……。
 私は、笹木が私のこと気味悪がって離れてしまっても仕方がないと思う。
 やっぱ男が男を好きになるのは変だからって思う。
 どうして、秀也なのか。よく分からない。でも考えてみるとずっと秀也は私の側にいた。
 何か嫌なことがあるといつも秀也が来て、私を励ましてくれた。これは、もしかするとずっと惹かれてたのかも知れない。
 秀也の立ち居振る舞い、考え方、仕事の仕方……すべてに。
 だから、秀也を好きになったのかも知れない。
 そして、そんな秀也に負けたくない思いと嫌われたくない思いが、私自身を苛つかせた。
 ああ、もう。
 何で今頃気がつくんだろう。
「なあ、優司?」
 突然秀也が話しかけてきたので、優司は慌てて顔を上げた。もろに視線が絡まり合う。
 慌てて、またうつむいた優司に、秀也は優しく問いかけた。
「優司は、先刻から俺に言いたいことがあるんじゃないのか?聞きたいことがあるんじゃないのか?」
「!」
 声は優しいが、その質問は……きつい……。
「優司、黙ってると分からない。言ってくれよ」
 うそつけ、お前分かってる。
「くくくく。優司はさあ、まだ一言もさっきまでの俺の推理、本当かどうか言ってくれてないよね。ねえ、当たってる?」
「うう」
 優司は思わず唸ってしまった。
 そこで聞いてくるかあ。
「ま、言いにくいのは分かるけどさあ。言って欲しいな。俺としては」
 く、そーーーーーっ!!!
 もう、いいっ!
「私は笹木が好きだ。好きなんだ!!」
 心臓が爆発しそうだ。下を向き立て膝をした両膝のあいだに顔を埋めるようにして両手で頭を抱え込む。
「やっと言ってくれた。じゃあ俺の推理は当たりだね」
 当たりとかそんなんじゃなくてなあ……。
 優司はもうどうとでもなれといった気分におちいっていた。
「それで、こんな愛の告白を男にするような私を、笹木はどう思っているんだ?……」
 優司の声はかろうじて秀也の耳に入った。
「そうだなあ……。少なくとも嫌いじゃあないよ」
 え、えっとお、それは、どういう意味……。
 優司はふっと顔をあげて、秀也を見つめる。秀也はくすりと笑い、優司の頬に手を触れた。
 触れた部分から体全体が痺れるような感覚を味わって思わず目をぎゅっと閉じた。
「優司、もう一度言えよ。今度はさ俺の名前の方で、先刻の言葉」
「先刻の言葉って……」
 言葉が震える。
「ああ、優司の告白だよ。名前でもう一度言ってくれたら、俺もちゃんと返事する」
 ああ、こいつ私を苛めてる……。だけど逆らえない。私は返事が聞きたい。怖いけど、それでも……
 優司は 、ぎゅっと拳を握りしめ、目をつぶったまま、言った。
「私は、秀也が好きだ……」
 ふっと秀也の指が、優司の頬から顎に移動した。そしてくいっと優司の顔を上に向ける。
「えっ?」
 優司がびっくりして目を開くのと、お互いの唇が重なるのが同時だった。
「う、あ……」
 秀也の左手が優司の背中に回され、優司は身動きできない。何より、何が起きているのか頭が真っ白だった。
 秀也の舌が、優司の口内に入ってきて舌を絡め取る。
「ん、く」
 何とも言えないしびれが優司の全身を襲っていた。
 長い、長いキスだった。
 しばらくして、やっと優司は解放された。だが、ショックの連続で頭の芯が痺れたままだ。
 優司は、秀也の胸に頭を預けて抱きしめられていた。
 そんな優司に秀也が囁く。
「あのさ、実は俺もずっと優司のことが好きだったんだよ」
 耳元で囁かれたその言葉は、甘いしびれと衝撃のダブルパンチで優司の力を抜けさせた。
 もう、秀也に支えてもらわないと、座っていることも出来ないくらい力が抜けていた。
 それでも、かろうじて言葉を紡ぐ。
「ずっとって……」
「あはは。あのさ、実は一目惚れ……」
「は、あ……」
「研修であった時の優司にさ、一目惚れしてんだよ俺は」
 研修の時に……。
 そんな気配はなかったよなあ……。
「なんていうかな。初めて見た時、こいつには好かれたいって思った。嫌われたくないって。そんな感情は初めてだった。こいつ逃したら、俺これから先好きな奴はできないんじゃないかって思えたくらい」
「どうして、私、なんだ……」
 優司は不思議だった。そんな一目惚れされるような心当たりがない。
「なんていうか、感情がストレートで……伝わってくる感情がぜんぜん嫌じゃなかった。普通どんな奴でも、最初に会ったときの感情には、俺への不信感みたいな物、どろどろした物が割と含まれるんだ。俺って、自分で言うのも何だけどスタイルいい方だろ。今時のもてる顔だし」
「あ、ああ」
「くく。どうしても会った人間、男って奴は俺に嫉妬するみたいなんだよ。女なんかもう好奇心ばりばりの感情だし……。それが、優司にはなかった……。驚いた」
 そうだったかなあ……。
 優司は初めて会った時のことを思い出してみる。
 確かにもてそうな男だな、って思った記憶はある。
 でも、笑った顔が優しそうで、ほっとした記憶もある。
「その感情に触れた途端、俺もほっとした」
 にっこり微笑む秀也。
 ああ、あの時の笑顔。
「だから、相乗効果って言うのかな。お互いがほっとしたもんだから、余計柔らかい感情に包まれて、あんな安らかな雰囲気に包まれたのは初めてだった」
 秀也が手を伸ばし、優司の髪をくしゃと掴んだ。
「柔らかい髪だな……」
 途端、優司の体に刺激が走る。
「あっく」
 声が漏れた。
 その声を聞いた自分自身が、恥ずかしくなるようなあえぎ声だった。
 どうしよう。
 わ、私……欲情してる……。
 体の中心がどくどくと波打っているのが分かる。
「優司……。お前……」
 秀也の視線が突き刺さるように感じられる。
 それがさらに優司の神経を昂ぶらせていく。
「優司、こっち見ろよ」
 秀也が囁く。
「……」
 そんなん無理だ。
 顔見せたら、私が欲情してるのがばれてしまう……。
 うう、離れて欲しい……。
 男に惚れて、さらに欲情するなんて、自分が自分で信じられない……。
「何、泣いてんだよ」
「え?」
 言われるまで気がつかなかった。
 優司の頬には涙が伝っていた。
「あの、私……」
 はあ
 秀也のため息が優司の耳に聞こえた。
「ったく、しょうがねえなあ……」
 何がしょうがないんだろー……。
 優司がふっと顔を上げると、その顎を掴まれた。
 そして、秀也の唇でふさがれた。
 口内を舌でくすぐられるのが堪らない刺激となって全身を駆けめぐる。
「さ、ささ、き……」
 やっと解放されて、優司はやっと言葉を漏らした。体の中心にある欲望の渦は、さらなる高まりを見せていた。
「笹木じゃない。秀也と呼ぶんだ……。そうしたら、助けてやるよ」
 耳元で囁く秀也の声すら刺激になるのを感じながら、優司は呟いた。
「な、に……?」
「いいから。秀也と呼ぶんだ!」
 先ほどより苛ついた秀也の口調を感じた優司は、何を助けるつもりなのかという疑問を抱きながらも、呼んだ。
「し、しゅう、や……」
「いい声だ……」
 優しい声が耳元で聞こえた。そのまま、首筋に柔らかい感触を感じた優司は、びくんと体をのけぞらせた。秀也の舌が、優司の首筋からはだけたパジャマをすり抜けるように降りてくる。
「あ……やめ……・くっ……」
 左手で体を支え、右手で秀也の頭を避けようとするが、力が入らない。それ以上に、甘い痺れの感覚が触れられるたびに全身を貫く。
「や、めてくれ……笹木……。わ、私、どうにか、く……なり・・そう……」
 優司があえぎ声とともにもたらした言葉を聞いて、秀也はちらっと優司を見上げた。
「秀也だろ」
 そういいながら、優司の胸の突起をつまむ。
「くっ……」
 敏感なところに与えられた痛みは、体の快感をさらに呼び出した。
「秀也と呼ばないと助けてやらないって言ったろう」
「あ……しゅう・・や……」
「いいこだ……」
 秀也の手が優司の太股の内側を上へとたどっていく。
 触れてもらいたい……。
 優司は、近づく秀也の手を心待ちにしている自分に気がついた。
 秀也の『助けてやる』といった意味が分かった。
 そして、助けて欲しい自分に気がついた。途端、言葉が出た。
「しゅうやぁ……。たすけて……」
 涙がこぼれた。
 その言葉を聞いた秀也の手が、優司の物を優しく掴む。
「……んっ!」
 激しい痺れが全身を駆けめぐる。
 欲しかった。助けて欲しかった。
 秀也の手が優しく上下する。
 その度に、快感が優司を襲う。
「あ……ん……、あああ……」
「優司、愛してる……」
 耳元で囁かれる言葉が快感となって優司を襲う。
 体を支えられなくて畳の上に倒れてしまった優司の上に、秀也は覆い被さった。
 その重みも、すべてが快感となって襲ってきていた。
 何度目かの刺激を与えられた時、優司は体の中心がスパークするのを感じた。
 優司は、秀也の手に包まれて果ててしまった……。

 手の中でイッてしまった優司を抱えながら、秀也はそっと涙の後に舌を滑らした。
「あ、……」
 新たな刺激に、優司の目がうっすらと開けられた。
「一人でイくなんてずるいなあ」
 苦笑を含む声が優司の耳に届いたとき、優司は体全体が沸騰するかと思った。その時やっと自分が果ててしまったことに気がついた。
「優司は敏感なんだな」
 からかうような口調を感じて、優司は何とも言えない表情を浮かべた。
「ま、可愛いよなあ。しかもすっごい敏感だし。きっと童貞なんだよなあ。俺としてはうれしいけどさあ」
 こ、こいつは———!
 一度イッてしまったため余裕が出てきたのと、あまりの秀也の言葉に優司は怒りを覚え、思わず頭を殴っていた。
「いってー!何すんだよ!」
「お前が人を馬鹿にするから」
「なんだよー。せっかく助けてやったのに、そんな言い方はないだろう」
「可愛いなんて言うか、男に向かって」
 結構コンプレックスなんだぞ、その言葉は……。
 最後の台詞をかろうじて飲み込んだ優司は、秀也を睨み付けた。
 ところが秀也は、くっくっくっと笑っている。
「何だよ」
「そう言うところが可愛いんだよ」
 うーーー
「優司は可愛いよ。俺好みだよ」
 優しい囁きに優司の体が反応する。
 そんな優司の反応を楽しむかのように、秀也は続ける。
「可愛いだけじゃないな。優司の心は純粋なんだ。だから俺、すごくほっとする。俺は、優司といると安心できる……」
「し、秀也……」
「愛してる……優司……」
 その言葉が優司の体をさらに昂ぶらせる。
「あ、あ……」
 耳元で囁かれる甘い囁き、そして秀也の手の動き。
 優司は、解放された筈の自身が堅くなっているのを自覚した。 「し、秀也……。たのむ、退いて……」
 このままだと……。
優司は秀也に向かって願った。
「えーーー」
 秀也は意外そうに言った。
「何を……たのむ、このままだと、私は……」
「……だって俺、まだイッてない」
 びくん
 心臓がまたばくばくいい始めるのを優司は感じた。
「だからね。こっちこそ、たのむよ」
 そう言ってにっこり笑う秀也の顔が、優司には悪魔に見えた。
「あ、あの、それは分かる。分かるけど……」
 じりっと下がろうとしたが、秀也に押さえつけられて身動きできない。
「大丈夫さ。俺が全部するからさ」
 にこにこと言ってのける秀也の台詞に余計不安を感じた。
「……何をするって……」
「い、い、こ、と」
 その台詞とともに秀也は優司に抱え上げられた。
「う、わ。おいっ」
「暴れないでよ。結構重いんだから」
 そう言いながら秀也は優司を隣の部屋のベッドに下ろした。
 すぐさま、優司を押さえつける。
「もっと快感を味あわせてあげる、よ」
 秀也は優司の首筋に舌を這わせながら囁いた。その言葉に先ほどの刺激が甦える。
「う……く……。やめ……」
「くすくすくす。止めてって言ってる割には、ここは元気なようだけど」
 秀也の手が優司の中心に添えられる。
 途端甘い痺れが伝わる。
「あう」
 もだえる優司を後目に、秀也は優司の後ろの蕾をつんとつついた。
「ひゃぁ!」
 体中に痺れが走る。
「妙な声出すなよ」嗤いをこらえているような秀也に構う余裕は既になかった。
 秀也の指が、優司の蕾にゆっくりと押し入ったとき、優司は秀也の腕にしがみついた。
「濡れてるからすんなり入る……」
 優司は、その言葉にいやいやするように首を振った。が、びくんと体をのけぞらせる。
 体の中の違和感が快感に変わった瞬間だった。秀也の指が一点を刺激する。
「あ、ああ……」
 悩ましげな喘ぎ声を優司は喉からもらした。
 秀也はそんな優司を見て、もう一本指を入れた。
 一瞬締め付けるような感じはあったが、意外にすんなりと受け入れられた。
 ———もしかして、経験有り?
 一瞬疑ったが、そんなことはなさそうだった。
 ゆっくり指を中でかき回すと、優司は苦しげな息を吐いた。
 どうやら、さっきイッた液が潤滑油になってんだろーなー。
と、うっすら笑みを浮かべた秀也は、優司を俯せにした。
 その背中に軽く吸い付く。
 指は、どんどん蕾を揉みほぐしていった。
 優司は、体の中で蠢く異物に翻弄されていた。
 それが秀也の指だとは分かっていたけれども、それがこれほどの快感を起こさせるとは思わなかった。
 信じられなかった。
 体が自分の物ではないように言うことをきかない。
 すべてが秀也の舌や指が触れることで翻弄されていた。
 もう、どうなってもいい……。
 そんなことを思い始めた頃、
 秀也が、優司の膝をつかせた。
「ん……」
 軽く唸った優司に秀也は囁いた。
「いくよ」
 その意味が分からず、顔を上げた優司は、襲ってきた異物感に大きく体をのけぞらせた。
「ぐっ!!」
 蕾が大きく押し広げられ、体の中に大きな物が挿入されたのを感じた。
「い、やっ!」
「ばか、声が大きい!」
 秀也によって口を塞がれた優司は、そのことにすら気づいていないように、目を堅く閉じ、苦痛に耐えている。
「やっぱ、まだきつい。優司息をはいて、力を抜け」
 秀也が片手で優司の口を押さえたまま、呼びかけるが、優司はそれどころではない。
「ち、しようがない」
 秀也は軽く舌打ちすると、空いている方の手で、優司の物を刺激し始めた。
「う……」
 前から襲ってきた快感が後ろの痛みを忘れさせた。
 優司の体から力が抜けたのを感じた秀也は、一気に優司を貫いた。
「あああっ!!!」
 塞いでいたとはいえ、結構大きな声が部屋に響く。
 まじーなー。隣に聞こえんだろーなー。
 と心配しつつ、まあいいかという気分になっていた。
「優司。気持ちいいよ、お前の中」
「し、しゅうや……」
 優司が涙目で振り向く。その色っぽさがさらに秀也の快感を高めていく。
 ゆっくりと前後する秀也のリズムに合わせるように、優司が喘ぐ。その声で、優司が快感に翻弄されていることを知った秀也は、さらに動きを速めた。
「ゆ、うじぃ。おまえの・・ここ……きもちっいい!」
 その言葉は優司をさらに高ぶらせるのに十分であった。
 自分の体の中に秀也がいる。
 秀也の刺激は、先ほど手でイッた感覚とは全く違う物で、それ以上の物だった。
「し、しゅう……やっ」
「ゆっうじっ」
 快感が最高潮まで高まったとき、二人は同時に果てた。
「なんか、信じられない……男とやるなんて」
 優司が天井を見つめながら呆然と呟く。
「そうかー」
 秀也はなんでもないかのように言った。
「しかも相手が笹木だなんて……」
 その言葉に秀也はぴくんと片眉を上げて、優司を睨んだ。
「俺じゃあ、不服か?」
 その口調に剣呑な雰囲気を感じ取った優司は慌てて秀也の方を向いた。
「いや、その、不服というわけでは……ただ、こんなことになるとは思ってもみなかった……」
「俺は優司で良かったよ。つうか、ほんというとたまにやりたいって思ってたことあったし……」
「げっ!」
 とっさに跳ね起きた優司だったが、次の瞬間腰を押さえて再び倒れ込む。
「いってー」
「ばーか、いきなり起きるからだ。尻と腰に負担かけてんだから無茶すんな」
 さらっと言ってのける秀也に優司は恨めしげな視線を向ける。と、ふと優司は先刻から気になっていたことを思い出した。
「……なんか、お前慣れてるよな……」
「……」
 黙った秀也に優司はさらに疑いの目を向ける。
「笹木は男とやったことがあったんだ……」
「……」
 視線を泳がす秀也を見て、それが図星であったことを見て取った。
「いつ?」
「大学の時、ちょっとね」
 秀也はため息とともに白状した。
「言ったろ。俺ホストになってもいいかなって思ってたって。実は、ちょっとバイトでやってたことあって……その時の先輩に教え込まれちまった……」
「もしかして、生粋のホモって訳じゃないよな」
「まさか!」
 ぶるぶると大きく頭を振る秀也。「俺、女の子も好きだ」
「そう」
「まあ、ホストの経験がこんなところで活かせる生かせるとは思ってみなかったな。両方初心者だったら、痛くてやってられなくてそれっきり、だったかも知れないから、良かったんじゃないの……」
「初心者どおしだったら、ここまでいかなかったかな……」
 それっきり優司は黙り込む。
 もしかして、優司は後悔しているのか? それだったら悲しい……。
 じっと優司の方を見つめていると、優司がいきなり大きくのびをした。
と、
「いてててて」
「ばか、言ったろ」
 秀也が呆れたように声をかけると、優司はにっこり笑った。
「やっぱ、私の相手、笹木でよかったのかな。」
「は?」
「あの。私は笹木が好きだ。どう考えても、笹木が好きだ。たがらこれで良かったのかも知れない」
「はあ……」
「本心から言ってる、分かるね」
 優司の表情は真剣だった。まして秀也の能力なら、本心を欺けるはずかない。
「分かる」
 秀也は大きくうなずいた。
「これからどういう風になるのか、まったく分からないけど、とりあえず始めの一歩から始めてみようかな」
 そういう優司に秀也は苦笑混じりに返した。
「激しい始めの一歩だったかも知れないけど……」
「そうだよな。でもそれでも始めは始めだよ」
 二人はお互いを確かめるように軽く口づけた。
 朝、二人は疲れた体にむち打って、会社に出かけた。
 秀也は会議で居眠りをするわ、飛行機に乗り遅れそうになるわの失態を繰り返し、営業部のリーダーから大目玉を食らった。
「やっぱ、明け方までっつのーは、まじーなー……」

 優司は大型機の試作立ち会いで、立ちっぱなしという地獄にも似た作業を一日こなす頃には、完全に腰が笑っており、かろうじて車の運転をして家に帰り着くという状態だった。
「会社のある日は絶対しない……」

【了】