呼び出し音が鳴ったのは、それから10分ほどしてからだった。 出迎えた家城に導かれて入ってきた梅木の眉間には深い皺が刻まれ、その口元は一文字に引き締められていた。入ってきてからじっと服部の様子を窺っているのだが、服部はその視線をまっすぐに受け止めていた。 互いに酷く緊張しているのか、その表情が崩れることはない。 にしても……。 啓輔はそんな二人を交互に見比べながら、再びつきそうになったため息を慌てて飲み込んだ。 ここまではっきりと嫉妬を露わにしているのに、それなのに服部さんの思いがうけられないなんてほざいている梅木さんの気が知れない。 ちょっとだけ素直になって、受け入れてしまえばいいんだ。 そうすれば万事うまくいく。 どうしてそんなに拘ることがあるんだろーか? 梅木と服部の関係は、梅木自身で始めてしまったことだ。嫌ってしまったのならともかく、まだ想いが残っているのだから。だから嫉妬しているのに。 自分でしてしまった事を、今更無しになんか出来るもんじゃない。 そう思ったとき、ちりりと胸の奥で何かが焦げるような痛みとそれに伴って目の奥が僅かに熱くなった。 そうだ……してしまったことは消えない。たとえ、一生後悔することになっても。 啓輔はその痛みの元を知っていた。 未だに、彼に逢えば後悔に胸の奥が痛む。 彼が平気な顔で自分に接する度に、本当はそれだけ後悔に苛まれる。 会社で逢ったから……普段の彼の様子を知るにつけ、あんな目に遭わせたことを後悔する自分がいる。 自分のしてしまっことは悪でしかあり得なかった。 だが、梅木達のそれは、確かに道徳的には変かも知れない。普通だったら考えられないことだろう。だが、服部はそれを受け入れる事にした。こうやって付き合っている人達が他にもいることを知ってしまったから。それに関して言えば啓輔とて責任はあるかも知れない。 でもお互いその想いがあるのであれば、それを拒絶することはないと思う。 付き合って、付き合うだけ付き合って……それから。 啓輔が物思いに耽っていたら、苛々とした舌打ちが聞こえた。 はっとその方に目を向けると、梅木が憎々しげに家城を睨んでいるところだった。 「で、あんたらは何を企んでいるんだ?」 勧められたソファには座ることなく、梅木はまっすぐに家城を見据える。 それに対する家城も、3mばかり離れたところで腕組みをして立っている。 家城は、はて?とばかり首を傾け、不思議そうに梅木を見返した。 「何のことでしょうか?私たちは別に何も企んでいませんよ」 それが演技しているようには全く見えない。 凄い……。 ふと気がつくと服部の方が緊張の余り酷く顔を強張らせていた。普段でもそう日に焼けていない服部の肌は白い方だ。だが今その顔は蒼白に近い。それは貧血にも似ていて、今にも倒れそうに見えた。 幾ら、固く決意してみたとしても、やはりこういう修羅場には不向きな人だ。 膝の上に置かれた拳がふるふると震えていて、服部の心理状態を如実に現していた。 「企んでいないわけがないだろう」 梅木の押し殺した声が部屋の温度を一・二度下げ、その口元に冷たい嗤いが浮かぶ。啓輔は知らず、身震いした。 自分が当事者でない。梅木の相手は家城なのだ。なのに、自分が責められているような気がした。 「あれからな、いろいろ考えてみたが、どうも俺も嵌めようとしているとしか思えないんだよ。今まで、そんなことなかったよな。あんたら、見ているこっちが恥ずかしくなる位、暇さえあればひっついていて楽しい噂を立てまくってくれていたというのに。しかも、少なくとも、他の誰よりも俺はそのことを知っている。あの部屋に入り浸っていたのは伊達じゃない。なのに、急に誠にちょっかいをだしたってのは、何か企んでいる証拠だろうが」 ばれちゃってる……やっぱ、俺がメインで動かなくてよかった……。 啓輔には、家城のように堂々と変わりなく対応なんてできそうにない。 もし今の家城の立場だったら、馬鹿なことを言って墓穴を掘っていたかも知れない。 啓輔は自分が第三者であることに心底ほっとしていた。 それにしても。 つい浮かんでしまった自嘲めいた笑みを、啓輔は俯くことで隠していた。 昔の俺だったら、平気で突っかかっていたんだろうな。 怖いもの知らず。 それを地でいっていたような気がする。 家城に逢って……この会社でいろんな人に関わって、自分は少しは「怖い」と思えることを知った。してはならない分別を少しはわきまえれるようになったのではないかと思う。 だからこそ、ここで突っかかるなんて馬鹿なことはできない。 いや、したくなかった。 家城の策を壊すようなことはしたくなかった。 「では、たとえそうだったとして、梅木さんはなぜここに来たんです?」 相変わらず動揺の欠片すら見られない家城が反対に梅木に問いかける。 それどころか梅木を見据えるその視線は、どこまでも冷たい。 怒ってるんだろーか? だが、その表情からは家城の感情など何も窺えない。 「お前らが何を企んでるのか知りたかったってとこかな。それに」 梅木がちらりと服部に視線を移した。途端に険しかった表情がふっと解れた。 強張って蒼白な服部の様子に気づいたのだろう。 「誠がここにいるのは堪えられない」 一転して梅木の纏う雰囲気が変わったような気がした。 掠れたような弱々しい声音。家城に対していた怒りが、一瞬のうちに霧散したような感じだ。 その声音のまま、服部に話し掛ける。 「誠、帰ろう」 そうして欲しいと声は懇願していた。 それにびくりと服部が顔を上げた。じっと梅木に見入り、梅木の真意を探ろうとする。その柔らかな下唇が噛み締められて歪んでいた。 「服部さんは自分の意志でここにおられるんです。せっかく楽しく話をしていたのに、なぜ帰る必要があるんです?それにあなたがそんなことをいう権利がありますか?」 だが、家城がわざとその視界に入り、お互いの視線を邪魔する。 ふっと口の端だけを上げ、嘲るように細めた目で梅木を見返した。 「権利?そんなもの……」 僅かに梅木がたじろいだ。 それでなくても冷たい表情の家城が、それを意図的にしているのだから、相手に与える圧力は相当な物だろう。 「服部さんだって大の大人ですよ。他人にとやかく言われる筋合いはないと思いますけど」 その有無を言わせぬ口調に、梅木も口ごもる。 完全に無視されている啓輔は、そのお陰で何とか冷静にその様子を窺うことは出来た。いや、この場合無視されている方が幸いなのだろう。 できれば、キッチンにでも引っ込んでいたい。 つきたくてもつけないため息を何度飲み込んだことか。 「それは……」 何か言いたげに口を開き、結局梅木はその口を閉じた。 その固く結ばれた唇は、言ってはならないと自分を戒めているように歯が食い込んでいた。 そんな様子に気づいた家城が、小さく息を吐いた。 「まあ、これは本人同士の問題なので私が口出しすることではないとは思っています。だが、彼は、思い詰めるタイプのようですので……それはよくご存じでしょう?」 「ああ」 吐き出すように言われたその簡潔な単語は、前の時を思い出しているのかひどく辛そうに啓輔には聞こえた。 服部もその言葉に俯いてしまう。 彼にとって、それは癒されているとはいえ、トラウマなのだ。 服部が強くなろうと努力していることを啓輔は知っていた。毎日同じ事務所で顔をつきあわせているのだ。できるだけ、外に出ようと、他の人達と交わろうと、無理な笑顔を浮かべてもがんばろうとしているのを知っていた。 それでもそう言うことを繰り返した日は、夕方には酷く疲れている服部がいた。 癒されてはいても、いつかまたなるかも知れない。 そのせいで梅木に心配かけたくない。 それを何かの時に聞いたことがある。 疲れ切った服部がつい漏らした愚痴だった。 そんな服部を啓輔以上に梅木は知っているはずだ。 なのに、その梅木自身が服部を追いつめている。 そして、それら気づいたらしい梅木を家城が畳みかけるように追いつめていく。 「結果はどうであれ、あなたが取った行動は確かに服部さんを助けましたよね。でも、じゃあそれでって突き放すのも無責任ではありませんか?彼の気持ちをそこまで無視して押し進めるつもりなのですか?無理強いすることで翻弄して、今度は突き放すことで翻弄して……結局、あなたが一番服部さんを追いつめているんですよ」 その言葉に梅木は何も言えない。 くっと噛み締められた唇は今にも食いちぎられそうな程に変色していた。 「あなたが取った行動です。それが服部さんのためだと思っているのなら、最後まで責任をとるべきなのはあなただ」 怖い……。 啓輔はぞくりと走る寒気に、自分の肩を抱いた。 家城の言葉は正論だろう。 だが家城の整った顔立ちが無表情なままで、しかも声音がひどく冷たいから、端で見ていても怖くなってくる。 いつも唯我独尊を地でいっているような梅木が、完全に圧倒されていた。 も、もしかして……これを金曜日にやったのか? あの安佐さんに向かって……。 そりゃあ……怖いわ……。 滝本や安佐や竹井が、啓輔に文句を言うのも判るような気がした。 まして、あの日はアルコールも入っていたのだから……。 だが、こんな家城を安佐は利用するのだと言う。 こんな家城を相手にするデメリットよりもメリットがそれだけ大きいと言うことだ。つまりそれは、竹井がそれほど扱いにくいという事を啓輔に教えた。 気の毒に、とは思ったが、家城に焚きつけられることを選ぶより、竹井の方を何とかするべきではないのか? 他人を巻き込んでする事ではないだろうが。 ……。 俺は何を考えているんだ。 ふっと気づくと、今この場で起きていることとは、どうも違うことばかり考えているような気がする。 これが現実逃避と言ーんだろーか? |