悶々と過ごした啓輔の元に家城が帰ってきたのは、日付が変わった頃だった。
煌々とついた灯りの下でソファに寝っ転がったままの啓輔は、家城が帰ってきた気配に躰を起こす。 「お帰り」 待ちくたびれしまっていたのに、それでも寝ることもできなかった。 だがかけた声はあっさりと無視された。 啓輔の存在そのものを無視するように、一直線にキッチンに向かった家城は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターの容器を取り出す。 無視されるとちりちりとした痛みが胸の奥で疼く。 意識的に啓輔を見ていないのが判る。 「あんたが何で怒ってんのか、俺、わかんねーんだけど」 ずっと考えていた。 何度も何度もトレースするように、自分の行動を辿っていく。 それでも、家城が怒るような行為をした覚えがなかった。 啓輔の視線はずっと家城を追っていた。 取り出されたガラスコップにとぽとぽと注がれる水。 それを手にし、飲もうとする。 こちらを見ようともしない家城に、啓輔の胸の奥にドス黒い感情が湧き起こった。 焦り、怒り、疑惑……。 飲んでいたメンバーがメンバーだけに、激しい嫉妬心すら湧き起こる。 聞きたかった。 何故、何も言わずに行ってしまったのか? 「家城さんっ!」 叫ぶように呼んでも、振り向かない。 こ、のっ! その瞬間、積もりに積もっていた負の感情が理性を上回った。 ガラスコップが割れる音がした。 飛び散り踝まで跳ねた水が家城の靴下を染め上げる。 「無視するな!俺を!」 ぐいっと胸元を掴んだ腕を引き寄せる。 「危ないですよ」 だが、家城がようやく発した言葉はそれだった。 家城と啓輔の足下には、蛍光灯の光を反射したガラスの破片が散らかっていた。スリッパを履いている家城と違って啓輔は裸足だった。その際まで、破片がある。 「そんなもの、かまやしねえよ」 啓輔には、それで怪我をするということは頭の中になかった。 ただ、家城を問いつめたい。怒りの原因を知りたい。 無視されたくない! 離そうとしない啓輔の視線と手、そして足下を、家城は交互に見比べる。 それでも何も発しない。 どうして! 何も言わねえんだよ! かあっと頭に上った血がどくどくと不快な音を立てていた。 「家城さんっ!」 再度呼びかけるとようやく家城が反応した。 ぐいっと無造作に前進する。ぎりぎりまで躰を寄せていた啓輔はそれに押されるように一歩後退した。 ジャリっと床の上で嫌な音がした。 気にせずに家城が進むことで、バランスを崩しかけた啓輔はさらに一歩下がる。 そこでようやく家城は立ち止まると、胸元を掴んでいる啓輔の拳に手を添えた。 「無茶ですね、相変わらず」 家城は小さく息を吐くと、再度足下に視線を落とした。それにつられるように啓輔も足下を見遣る。 そこにはもう破片がない。 きらきらと光る破片は家城の後にあった。家城はその場所まで破片が刺さっているであろうスリッパを蹴り飛ばした。 危なくない位置まで啓輔を動かしたのだと、なんとなく判った。そのせいか、ふっと手の力が抜ける。 それを逃さず家城が啓輔の手首を掴んで無理矢理に引き剥がした。 「っ!」 爪が布地に引っかかって僅かな痛みが走る。それに顔をしかめる間もなく、ぐいっと引っ張られた。 たたらを踏む間もなく、突き飛ばされた。 「わっ!」 バランスを失った躰を堪える間もなく背後からぐっと全体重をかけられ、俯せに床に倒れ伏す。 のしかかられ押さえつけられた背に、胸に残っていた息が吐き出されてしまう。 「く、はっ!」 「怒ってるって?そういう君こそ怒っているではありませんか?」 ぎりぎりと押さえつけられる躰。 胸が膨らむ余裕を無くして、息ができない。 口を大きく開けて喘いでいる啓輔に、家城はようやく少しだけ力を緩めた。 「乱暴をすると、それ相応の対応もこちらとしてはする必要がありますよね」 「……んでっ!」 こんな家城は初めてだった。 怒っているときでも、ここまで怒りを露わにすることはなかった。 「ど…して……」 息苦しさに潤んでしまった視線をかろうじて、家城に向ける。だが、その先の家城が酷く辛そうな表情をしているのに気が付いた。それは怒りの表情ではなかった。 「あ……い、えき…さ……」 「判らないんですか?私が今日どんな気持ちでいたのか?」 「何?」 言っていることが判らない。 啓輔は呆然と家城を見つめていた。 あまりの事に、自身の怒りはどこかに飛んでしまっていた。 「今日、行ったんですよ。休憩に誘いにね」 え? 「いつ?」 「午前中の休憩ですよ。会議が長引いて連絡ができなかったんです。随分と遅れたんですけどね」 午前中の……って、来なかった…はず……。 「だけど、来なかった…よな?」 「行きましたよ。ドアも開けかけたんですけどね」 ドアを開けた? 「何で、それで……」 嫌な予感がした。 まさか……。 「仲良かったですよね。服部さんと。抱き締めて……」 吐き出すように言われたその言葉を聞いた途端、頭が真っ白になった。 見られた! 思わず抱き締めてしまった服部との姿を……見られた! 「あ……れは……」 何かを言おうとして、口をぱくぱくさせるのだが、言葉が出てこない。 あれは……つい、なんだ。 決して他意はなかった……筈。 「これがまた、お似合いだったんですよ。そうですよね、啓輔にはああいう可愛いタイプの方が似合うかも知れませんよね」 妙に淡々とした口調が、ひどく啓輔の胸に棘となって突き刺さってくる。 俺のせい? こいつをこんなにも怒らせ、動揺させたのは、俺? 「あ、あれは……」 何を言おうとも、啓輔が服部に抱きついたのは間違えようもない事実。 だけど、これだけは言わないといけない。 「服部さんのこと可愛いとは思って……それで抱きついたけど、でも好きとか、どうかしたいとか、そんなことちっとも思わなかったんだ」 「可愛い方がいいでしょう?あなたは抱かれるより抱きたいほうですし。きっと服部さんとならお似合いですよね」 冷たく言い返す家城の言葉が胸に刺さる。激しい焦燥感に襲われ、目の前が暗くなる。 肩越しに見える家城の冷たい視線が怖い。 ち…がうっ! 「俺にとっては、家城さんの方がよっぽど可愛く見えるんだよ。だいたい、服部さんは梅木さん一筋なんだ。それで落ち込んで慰めていただけ!あれは、元気付けるための冗談だったんだ!俺は家城さんの方がいい!絶対家城さんの方が可愛い!絶対に可愛いんだっ!家城さんなら…抱きたいけど、抱かれたっていい!家城さんだから、家城さんだからっ!!」 最後には絶叫に近かった。 目を固く閉じ、喉が悲鳴を上げるほどの絶叫。 一気に放出した感情の波が、ふっと静けさを取り戻す。 家城の返事がない。 ただ外の世界から入ってくる音だけがやけに響く。 息が苦しい。 押さえつけられているせいだけでない。心臓が訴える痛みのせいだ。 啓輔は、祈る思いで言葉を継いだ。 家城に誤解されたままは、堪らなく嫌だった。 「好きなんだ……抱きたいって思えるのも……抱かれてもいいって思えるのも……家城さんだから…なんだ。ごめん。俺……家城さんを不安にさせた。」 と、その途端ふっと躰の上の重さがやわらいだ。 はっと目を開けて躰を起こし家城を見遣ると、先ほどまで痛いくらいに啓輔を押さえつけていた手が家城の口元を覆っていた。 「あっ……」 その姿を見た途端、ずきんと下半身に電気が走る。 家城の変化は、決して飲み過ぎた酒のせいではない。さっきまで、本当に飲んできたのかと思えるほど、普通の顔色だったのだから。 啓輔を欲情させた家城は、見える範囲全てが朱に染まっていた。 |